カードからの気づき

開運法・願望実現法は段階的に行うとよい。

前回では開運を求めることにもマイナス面があり、全部がいいわけではないというお話をしました。


では今度はプラスの面について、特に段階的に説明したいと思います。


とはいえ、最初にお断りしておきますが、前回の記事もそうですが、あくまで私の考えですから、正しいとか正しくないで判断しないでください。こういう見方もあるという、自分のバランスを取るためのひとつの情報として扱うとよいです。


さて開運をしたい、そのような方法を試したいという人の根底には、前にもふれましたように、結局は幸せになりたいという気持ちがあります。


そうした中で、今もまあまあ幸せであるけれど、もっと幸せになりたいという人もいれば、今は不幸なのでとにかく今よりよくなりたいという人もいると思います。


不足であれ、ある程度の満足の状態であれ、いずれも「もっと幸せになりたい」「人生を充足させたい(満たしたい)」という思いでは一致しています。


ということは、幸せ感の壺というものが人にあるとすれば、その壺は満杯になっていない(不足している)か、一杯になっていても自分の壺が小さいと感じているかということになります。


後者の場合は、むやみに開運を求めるより、自分の今の幸せを味わうほうがいいことがあります。


というのは、壺が小さいと思い込むと、仮に壺が拡大したとしても、今度は余計に壺の水(幸せ感)がその分少なく感じ、飢餓感が増すことになるからです。


飢餓感が増せば心も穏やかでなくなり、冷静な判断力や余裕を欠き、壺の水を満たすどころか逆に漏らしたり、減らしたりする行動にもなって、結果現実も幸せでなくなる事態が生まれます。


ですから壺自体が小さいと感じている人は、まずはその壺でも一杯になっていることを実感し、感謝する必要があるのです。


それはともかく、問題は前者、すなわち壺の水が少ししか入っていないと感じている人です。


こういう人は不幸病(不幸になっているのがあたかも当然)のようになっているので、まず壺の水を集める、または注がれるようにすることが大切です。


いわば少々自分のためになり過ぎても、自分の幸せを第一に求めることなのです。その意味では、やや利己的と表現されざるを得ないケースもあります。


簡単にいえば、自己の欲求が満たされる感覚を体験することです。ですからこの段階では開運法、願望実現法などいろいろ試してみるのもいいです。


それはあくまで自己充足感、幸せ感、壺の水を満たすためのひとつの方法としてです。


開運法などで実際にうまく行ったり生活がよくなったりして、自分の満足感がある程度得られたら、次にようやく落ち着いて開運法の検証に入ることができます。


逆にいえば「運がよくなりたい!」と強烈に思っている段階では、結局二元論的世界観(いいか悪いか、吉か凶かの世界)にいる状態なので、ノーマルに物事を見ることは難しくもあります。


そして少しずつでも自分の状態がよくなってきたと思えば、次第に開運や願望実現の範囲を自分自身のことだけではなく、家族・友人・地域の人々・・・と拡大させて行きます


具体的にいえば、たとえば願い事も「私の○○がよくなりますように」「○○が叶いますように」と言うのではなく、同時に「△△さんの願いも叶いますように」と人のことも付け加えていくということです。


ただいきなり「世界中の人が幸せになりますように」とか、「宇宙全体が平和でありますように」などと言うと、本当に自分がそう思っているのかと問われれば、そうではないという部分も少なからずあると想像されますので、少しずつというのがポイントになります。(なるべく潜在意識の中でも真実であることが望ましいからです)


実は多くの人がこの段階でストップしてしまうか、いきなり一足飛びに全体への関心へとジャンプしてしまいます。


肝心なのは壺の水を満たす実感を本当の意味で自分が味わっていくということであり、壺の拡大の意味も、「身近な周囲の人のことを本当に自分のことのように思って願えるか」ということにあるのです。


つまり真の自分意識の拡大であり、他者との融合のステップです。これは瞑想的などでは一気に感覚を得ることもありますが、だいたいにおいて一時的なものになることが多いのです。


従ってまさに常時そのような感覚にさせていくには、少しずつの拡大による実感・成功感覚が必要なのです。


そうすると自分の範囲というものが実際的に広がっていきます実際的に拡大されれば、自分の精神も物質も広がり、その分の量を享受できる(プラス・マイナス両方ありますが)ことになります。


ここまでは中間段階だと言えましょう。


それからは開運法であれ、願望実現法であれ、自他の欲求を超えたところから考察し、それらの方法から自分の縛りやとらわれより脱却する術を抽出する作業に入っていきます。


たとえば占星術でいえば、星のエネルギーや性質を理解し、自分の特質と重ね合わせて有効に星の力を使うことになりますが、それは単なる過程で、究極的には星を超える自分になることです。


星は神の表現や顕れの一形態であり、一なる神に自分が帰するには、その表現も超える必要があるからです。


開運法や願望実現法が存在するのも、この世界での自分を最大限表現するための手段であり、それらに満足することなく、さらに高次を目指すための一段階だと思えばよいでしょう。


その意味ではどんどん試してみて、検証していくのもありです。


開運法、願望実現を試みる人

占いやスピリチュアルという分野を見ていますと、開運ということにテーマを置いているものが多い気がします。


もちろん自分の運がよくなることには昔からたくさんの人が関心を寄せていることであり、開運してよい生活を送って行きたいと願うことは、人として当たり前の感覚と言ってもよいでしょう。


一言でいえば、皆、幸せになりたいのです。


ところが、開運による幸せばかりを追求していくと、落とし穴にはまることがあります。


それはひとつには、開運マニアみたいになってしまって、目的と手段が入れ違ってしまうような場合です。


たとえば方位にこだわりすぎて好きな場所にも行けない、風水グッズを置いていないと夜も眠れない、旅先では連れの都合も無視して、とにかくパワースポットに行かないと気が済まない、開運グッズを購入し過ぎて気がつくとお金をかなり失っていた・・・など、これは幸せになるための開運方法が逆に自分を縛ってしまうことになっています。


まあ、こうしたことは実はそう大きな問題ではありません。(それなりに問題ではありますが、やがて自分で気がつくためです)


本当は開運(の方法)を行うことによって、ますます真理の探究からはずれ、自分を無知と奴隷的な存在にしてしまうことです。その中間段階(弊害)として、エゴの増大と二元的思考の拡大があります。


つまり、簡単にいえば「運をよくする」ということは、「自分がよくなりたい」という発想につながり、自分や家族、自分に関係している人さえ幸せになればよいという狭い世界になりかねないのです。


それから、たとえあることで開運ができたとしても、その理由の検証や追求をすることなく、単なるラッキーだとして、「運の良さ」を享受するのみという生活も危険です。


「何かわからないけれど、人が言うからやってみたら運がよくなった」「理由は不明だけど、試してみたら願いが叶った」というようなことは、個人にとって結構なことですが、結果は別として、それに何の意味があるのかということです。


運がよくなって、いい生活ができて、幸せになれば、なんだっていいじゃないの、とあなたは思うかもしれません。


確かに今生のあなたの人生、特に目に見える範囲内での生活にとってはよいかもしれません。


「人生、あれをやって理由はわからないけどラッキーしたよ」「なんだかわからないけど、とにかく運がよかったよ私、いい人生だったわ・・・」と満足して一生終えるのも、ある意味幸せです。


それでいいという人、とにかくラッキーだったらOKという人は価値観が違いますので、これ以上、この記事をお読みにならないことをお勧めします。


しかしここまで読んできて、理由のわからないラッキー人生・開運人生に何か違和感を覚えた方もいらっしゃるでしょう。


そう、ただ運の良し悪しを何も検証せずに利用だけして、一喜一憂している人は、マトリックスの世界に欺されているようなものなのです。


マルセイユタロットでは、運を象徴するカードに「運命の輪」がありますが、その「運命の輪」の中で、上へ行ったり下へ行ったりして右往左往しているのが輪の中の動物たちです。


開運法を試し、「運がよくなってラッキーだった」とそのまま喜んだり、「うまくいかなかったよ」と落ち込んでいるのは、この「運命の輪」の中の動物たちに該当します。


すなわち、輪の中にいる限り、本当の運の活用とは言い難いのです。輪から脱却してこそ、本当の自由、真の幸せと呼ばれる段階に近づくのだとマルセイユタロットは答えます。


「私は占いの理論を学んでいますし、迷信的に開運法を試しているのではありませんよ」とおっしゃる方もいるでしょう。


事実その通りだとすればすばらしいことですが、多くの方は実は中間段階での占いの活用に留まっているケースが見受けられます。


それは、たとえば今年は拡大や発展の流れの運気になっているので、事業を大きくしたり、結婚に向けて進展していくことはよいというような判断的な使い方です。(これは単純化したたとえですので、本当はもっと複雑になりますが、ここでいう中間段階はそれも指します)


ただこの中間段階にも意味があり、そこに到達するだけでも実は大変なことです。


一見、これもよい開運法・活用法であるとは考えられますが、本来の目的にはまだ遠く、だからこそ中間段階だと言っているのです。


例えば、占星術ならば星の動きとエネルギーを知り、それらを自己(や組織・社会)に活用することが確かにひとつの目的の場合もありますが、本来は自己の解放と救済(それが全体にもつながる)のためにあると考えられるものです。(これは一応、私の考えということで断っておきます)


開運的なものはあくまで、その段階でのひとつの利用の仕方や結果でしかありません。これに満足しきっていたら、その先はないと言ってもよいでしょう。


そして占星術であれ、カバラーであれ、タロットであれ、極端なエゴでの開運や願望実現の使用は、必ず宇宙バランスとしての反転作用を伴い、しかるべき段階に達していないと、あとでとんだことにもなりかねません。


実はまだ「運命の輪」の中で、迷信的な利用で一喜一憂しているほうが安全かもしれません。そういう意味では、開運法をレジャー的に楽しむのもありでしょう。


ただ人間や宇宙、深く自己の探求と発展を望む場合は、開運法で満足することなく、その理由や検証を試み、うのみにすべて信じ込んでしまうことの危険性と愚かさに気がつくようにしないといけません。


人によってはその過程では、一般的に不幸やトラブルと思えることを経験することになるでしょう。霊的な成長とは、開運ばかりで運の良さを目指す方向とはまるで違うからです。


しかしながら、それも冷徹な目と大きな次元から見れば、すべて恩恵であることに気がついてきます。その繰り返しによることが、自己の神性の発露になり、霊的な向上の道だとも言えます。


神性とは、まさに内と外の神なる性質に気がつくことであり、それは運の良し悪しという次元やレベルではとらえられない大きく深いものなのです。


言ってみれば、「悪魔」さえも「神の表現のひとつ」だと思うことに例えられるでしょう。


ただ、開運や運の良さ、そこからの幸せを求めることが決して悪いわけではなく、段階的には必要なこともあるということについて、次回でお話したいと思います。(別の機会になるかもしれません)


学びのアンバランス

学びのアンバランスということが、今日はタロットを通じて浮かんできました。


これはいろいろな意味があるのですが、今回は学ぶ側と教える側という立場の違いで考えてみます。


もし、あなたが何かを学習していて、誰か先生に教えてもらっているとします。


あなたは好奇心に満ち、あれも知りたい、これも知りたいと思っていることでしょう。特に今自分が学んでいることについてはなおさらです。


そんな中で、あなたの質問に対して、先生は全部答えてくれることもあるでしょうが、そうではないこともあるはずです。


いわく「自分で考えなさい」などという言葉とともに。


こんな時は、学びの段階・理解度を先生は考慮していて、さらには自らで気がついてもらうということを重視しているのです。


そのほうが、どんな内容であれ、本当に自分で理解することにつながるからです。


ですから、何でもかでも、生徒が知りたいと思うこと、質問することについて、先生はすべてを答えてしまうわけではありません。


またたとえ答えを言ったとしても、それが本当の意味での「答え」として生徒が理解できるのかは、生徒当人の学びの進度(深度)にもよるのです。


高度な数学をいきなり教えても、算数がわかっていなければ、わけがわからないのと同じです。


一対一や、生徒のことをよく見ることのできる先生との関係にあればまだいいのですが、不特定多数のセミナー形式になりますと、人の価値観・レベルはまちまちなので、先生の語る内容を受け取るのでも、人によってまさに千差万別のものとなります。


この場合は、理解度の違いということもありますが、セミナー参加者が皆大人ということであるならば、価値観・正義(正しいと思っていること)感、関心の違いによるばらつきが大きくなると言えましょう。


理解度の格差が縦のアンバランスだとすれば、興味や関心・価値の違いは横のアンバランスだと考えられます。


学習においては、この両方のアンバランスがあることを、受ける側も考慮しておかねばなりません。


先生や講師の言っていることがさっぱりわからない、関心が起きないということは、もちろん先生自身の表現の問題もありますが、受けているあなたと先生側の、縦か横のアンバランスが生じている場合が多いのです。


先述したように縦のアンバランスは、先生とのラポール(親密な関係)がついている時、あるいは先生がとても優れていて観察力が鋭い場合は、そのアンバランスさをうまく学びの階梯(段階・はしご)として調整してくれます。


しかし横のアンバランスはそもそもの価値観が違いますので、自分と価値観の合う別の先生・内容のものを選び直す必要もあります。


講師や先生が、生徒や受講者の価値に合わせて変化させることはまずありません。


なぜならば、その先生はその先生の信じる価値観での講義がウリであり、それを行うのが仕事だからです。


ところでマルセイユタロットでは学びの伝達を意味するカードは数種ありますが(タロット自体がそれでもあります)、特に「法皇」はその意味において象徴的です。


「法皇」を観る場合、語っている法皇自体につい目が行きますが、その話を聴きに来ている人たちがいる(描かれている)ことも忘れてはなりません。


それが自分の場合もあるのです。そして、マルセイユタロットの場合、大アルカナの数の順序が、あらゆるものの段階を示していると取る説があります。


それによれば、「法皇」は5番目の数を持つので、少なくとも前に4つの段階が必要なことがわかります。


普通はこれを「法皇」、つまり人に何かを伝える法皇自身に達する段階でのことだと想定されるのですが、聴講している人たちもそうであると見なすことも可能なのです。


つまり、法皇の話を聴くのには、その資格のような段階(に達した者が聴けるという前提)があるのだということです。


マルセイユタロットでいえば、「手品師」が「法皇」の話を聴いても、手品師は手品師レベルの(学び・価値観)でしか受け取れないということになります。


とはいえ逆にいえば、「手品師」から「皇帝」(数では1から4番目)の段階を踏めば誰でも「法皇」になれますし、法皇の話の本質を聴くこともできる(法皇の語ることが本当の意味でわかる)ようになることが示唆されています。


学びのアンバランスは、冷静に見つめ直すと、結局自分のバランス回復に役立つのです。


規則やルールを決めて、力を得る

マルセイユタロットの「正義」や「神の家」を見ていますと、ある力・パワーのことが浮かんできます。


あ、そういえば「」という名前のカードもあって、それと関連させることもできますね。(その場合は数では隣の「吊るし」とセットで見るとわかりやすいです)


その力(パワー)とは、何か自分に決まり・ルールを設定し、それを遵守することで生まれる「力」です。


人は自由であれば大きな力が発揮できると思われがちですが、本当の意味で自由になることは難しいものです。


逆に何かの制限や決まりがあれば、そのことで集中力、あるいは圧縮するエネルギーが生まれ、爆発的なパワーを目的によっては注ぐことができます。


特に自分が快楽や楽しみだと思っているものにブレーキをかけると、その反動がエネルギーとなって現れます。


ゆえに昔から縛りや労苦をかけて、目的を達したり、自分を成長させたりするようなことが行われてきたのです。


ここで大事なのは、必ず決めたルールは守るという自分との約束(コミット)です。


これを破ると、溜めていたパワーのコントロールを失い、時に危険さえ伴いますし、守れなかった自分を責めることにもなりかねません


ですからいわば、この方法は諸刃の剣なのですが、自分にとって「これを制限させられるとつらいな」と思えるものであればあるほど、そしてその期間が長くなればなるほど、ルールが守られている限りは、とてつもない力を持つことになります。


この方法は悪い習慣などを止めたい時にも有効です。ただその分、必ず誘惑もあるので、注意が必要です。


私の経験から、この「ルールを決めて力を発揮することを行う」と決意した場合、誘惑や規則を破るような「間(魔)」が差すことは、大きなもので3回あると思います。


この3回をクリアーできたら、あとはかなりの面で自然に約束を守り続けることができるでしょう。


このうち3回目は、それまでの2回とは質の違うもので現れますので、相当な注意と覚悟が必要です。


それまでが比較的目につきやすく、わかりやすい形で誘惑が来るのに対し、3回目は一見それとはわからないもので来ますので、欺されるのです。(これはカードでいえば、まさに「悪魔」です)


いずれにしても、解放や自由ばかりが叫ばれる昨今ですが、自分に負荷をかけたり制限をかけたりすることで、力を得たり、成長したりする方法もあると覚えておかれるとよいでしょう。


自分の向いているもの、興味の探求

ひとつのことをずっとやっていますと、最初は人から教えられた知識や表面的に感じられたことが中心となりますが、やがてその行っていることそのものの持つ意味や背景の流れが見えてくることがあります。

さらにはそれを学んだり、行ってきたりした人の連綿たる思念や想い、蓄積のようなものも感じてきます。

特に伝統や歴史を持つものは、それが顕著ではないでしょうか。

ですからある人に何かを学んでいたとしても、初めはその方の教えられた言葉や知識をそのまま受け入れるのですが、時にその人を通じて、その人が学ぼうと志していたもの、さらにはその奥に流れる「何か」が伝わってくるようになります。

そうなると、その(教える)人の人格や状態などはどこかに飛んでいき、教えを受けている、または教えを受けたそのこと自体が非常な喜びであるという感覚、教えられたことを真摯に受け止める決意のような感情が生じます。

いわば学びそのものの「霊」を感じるような形です。

ここまで来ると、これは自分の中にもともと存在していたのではないかという思いに変わってきます。

誰もがあらゆる可能性や完全性を元来有していると考えると、様々な現実条件によってそれは規制されているとはいえ、何かのきっかけでその種は発芽し、萌芽として自覚できるのではないかと考えられます。

それはまたによるところが大きいのでしょうが、その縁に導かれやすい何かが自分の中にあるのも、可能性としては想像できます。

いずれにしても、「何が自分に向いているのだろう」とか、「自分の合っている道は何なのだろう」という探求心は大切ですが、それは外からの縁も多大に影響するとはいえ、実は自分の中にある種子としてすでに存在し、それを発見し、育てる内向きな探求にも糸口があるのだということです。

だいたいにおいて、その種子は具体的ではなく抽象的です。なぜならば、あなた自身の表現は宇宙という抽象的で大きなものの一部の表現であるからです。

そしてあなたが「向いているもの」「自分の道」だと思う仕事や生き方は、あなたというフィルターを通した具体的な宇宙の表現でもあります。

具体的な表現ということは現実世界、つまり私たちの住む次元での表現なので、これは時代(時間の経緯)や環境によって変化します。

しかし大きな宇宙という全体表現では抽象的であるために、時代や環境など現実的なレベルによって変わることがほとんどありません

あなたがまず求め、探すものは、いきなりの具体性ではなく、この宇宙の全体性・抽象的なところと現実世界との中間的ものなのです。

それゆえ、たとえば「セラピストが向いている」というより、「人を癒すことが向いている」というような、少し上の抽象概念をあなたの個性の種子として発見することが大切となります。

そして最初に戻りますが、どんなことを発見し、行うにしても、その奥や背後に流れている大きな宇宙の表現を感じていくように探求することです。

カウンセラーでもコーチでもコンサルタントでも、その技術や学び自体の「霊」を見ると、次元の階層を行き来するようなものとなり、単なる技術や知識、仕事を意味するものではなくなるでしょう。

結局のところ、それらはある中間概念とつながることになり、さらに上の大きな存在や表現とリンクしていくことになるのです。

私はマルセイユタロットでそれを探求している道中です。


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