カードからの気づき

タロットカード 「愚者」の二面性を理解すること。

タロットには「愚者」というカードがあります。


このカードはタロットの中でも大アルカナと呼ばれている22枚の重要なカードのうちでも、さらに特別な位置を占めるカードだと言えます。


まずほかの大アルカナのカードには「数」があるのに、この「愚者」は数を持ちません


「数」は私たちが一般的に考える「順序」や「量」を表すこともありますが、タロットでは「質」も表現することがあります。(このことは私のタロット講座でより詳しく説明しています)


ということで、数を持たない「愚者」がいかに特殊かということが何となくおわかりいただけるかと思います。


数を持たないということは、何もない「無」だと思われがちですが、「愚者」は必ずしもそうではありません。むしろ大いなる「有」だと言えます。しかしやはり「無」であるところもあります。


この一見矛盾した構造を持つのが「愚者」なのですが、このことが理解できないと「愚者」の本質の理解は難しいかもしれません。


ヒントを言えば、「愚者」は数を持たないということ自体は「無」なのですが、実はどんな数にでもなることができるという意味ではものすごく「有」でもあるのです。(実際は「数」以外にも、絵柄で表現されたヒントがたくさんあります)


いわば限定されないこと、限定が「無」いので「無」なのですが、同時にすべてを持っている(すべてになることができる)ということでは「有」なのです。


限定がないということはある意味「非常識」ですから、私たちの常識・概念からすればまさに「とんでもない」こともあり得ます。


ですから「愚者」は私たちからすれば面白いと見えることもあれば、危ないヤツしか見えないケースもあるのです。


言ってみれば、冒険はワクワクや期待もありますが、同時に危険もはらんでいるということです。ただそれは私たちの常識人から見た場合の「期待」や「危険」なのです。彼の行動や姿を意味づけしているのは私たちの考え・常識・とらわれなのです。


マルセイユ版の「愚者」はその私たち側から普通感じる二面性(魅力と危険)もありますが、それよりも「愚者」本人、「愚者」そのものから立ち現れるものを表しているように思います。


それは特に、「何にも限定されない部分」と「すべてを有してる可能性」との二面という意味がわかるように描いているということです。


このことは「愚者」一枚の単体で示されるだけではなく、大アルカナ全体との関連でさらに強調されているのです。


先述した「数」ひとつとってもそうですし、「愚者」に描かれている様々な象徴が他のタロットと論理的につながるよう構成されています。


このことがマルセイユタロットの大きな特徴であり、マルセイユ版の「愚者」の特色だと思います。


たとえば、マルセイユ版の「愚者」の人物と「13」の人物は同じような体の方向性と傾きがあり、杖や鎌なども共通しているところがあります。


「愚者」は数を持ちませんが、「13」は逆に名前を持ちません。


それぞれにおいて「無いこと」の「」が共通していますが、またどちらにも「有」の種や「有」への変化が象徴されているのです。


ということはこの二枚は「無」と「有」の意味で共通しつつも、その「無」と「有」の性質や表現方法が異なっているということです。


二枚(もっといえば22枚)で宇宙やエネルギーの根源を象徴しつつも、具体や個別での表現方法が異なるという現れ方です。


「愚者」は「13」にもなれますので、「愚者」は「13」より上位だといえますが、反対に「愚者」が「13」になった場合は「愚者」ではなくなりますので、「愚者」は「13」の下位にもなります。


このように、私たちの常識では矛盾や理解不能なモノがタロットには当たり前のように内包されており、それを知り、矛盾を超えて本質を認識することがまさに私たち自身を「愚者」化することにつながるのです。


「愚者」は「愚か者」と書きますが、「愚か者」になるとはどいうことかということと、本当の「愚か者」は誰なのかを考えてみるとよいでしょう。


「恋人」カードの選択

マルセイユタロットには「恋人」というカードがありますが、これが高次に反映されれば「審判」になることもありますし、「悪魔」と「神の家」の両方になることもあります。


実はマルセイユタロットのカードは単体だけで意味を成すだけではなく、他のカードと関連して、新しい意味が出たり、一枚のカードでも次元や絵柄を変えて、ほかのカード(複数のこともあり)によって象徴されたりすることもあるのです。


この構造はカードの世界のことだけではなく、実際の私たちの住む世界の構造でもあるのですが、目に見えない領域部分も含むため、なかなかそのことに普段気がつくことがありません。私もタロットをしていて次第にわかってきたことです。


さて、最初にお話した「恋人」カードですが、このカードは真ん中の人物が両端の二人の人物にはさまれて、どらちを選んだらよいのか迷っているようにも見えます。さらに上空には天使のような存在が矢をつがえています。


このことから意味のひとつには、人間における「選択状況」を表していると考えられます。ただ一口に「選択」と言っても、私たちにはまさに様々な選択(状況)があります。


二者択一に悩むこともあれば、多くの中から一番よいものを選ぶことで迷うこともありますし、そもそも何を選んだらよいのかわからないといった時もあります。


そしてよくあることに、「悪魔の選択」と「神(天使)の選択」と呼ばれるものがあります。アニメやドラマなどで登場する「天使と悪魔の囁き」というやつです。


誰もが天使の選択をよしと思っているのですが、悪魔の誘惑によって、悪魔のほうも捨てがたい衝動に駆られます。


また時に天使の選択は自分にとってよいとわかっていても厳しいものであったり、悪魔は悪いと思っていても、その方が現実的に都合よく、とても選びやすいものであったりします。


それからこれが非常に怖ろしいことですが、天使と悪魔が入れ替わっていることがあります。


つまり巧妙な悪魔がまったく逆に見えるように幻想を見せているのです。自分が天使の選択と思っているものが悪魔の望むものであり、悪魔のものと考えていることが天使だっったりすることがあるのです。


たとえば自分では愛の選択だと思っているものが、実は執着の愛で、結局はエゴや悪魔の選択になっていることもあります。


しかしながら、やはりそれも真に自分の内なる声や神性に耳を傾けた時、入れ替えは見破られ、天使の選択は自ずと見えてきます。


天使と悪魔の選択が高次に現れると、それは「悪魔」と「神の家」の選択になってきます。


ただここで注意しなければならないのは、「悪魔」の選択は必ずしも悪いことではなく、必要な場合があるということです。いわば神の選択に到達するための試練や誘導ルートと言ってもいいでしょう。


このことは「恋人」カードにおいての選択でも同様で、正しいもの(天使や神)を選ぶことが求められているのではなく(究極的にはそうですが)、それ(天上や高次の道)に気がつくことそのものが大切なのです。


こうした時、選択は相当の苦しみをもたらすことがあります。「神の家」の選択ともなると強制的かつ衝撃をともなうことすらあります。


けれども真の天使や神の選択ができた時、あなたが思っても見なかった恩恵が悪魔の選択時での楽しさ・満足感以上にもたらされることになるのです。


それは結局神なるもの・天使なるもの(これはあくまで象徴表現であり、自身の高次存在、叡智や宇宙ととってもよいです)を信頼できるかに関わってくるわけです。本当に手放したくないものを手放せるかに等しい選択だと言ってもよいでしょう。


ただそれはあまりにも厳しいので、まずは「恋人」カードレベルからのもので選択の訓練をしていくこともありです。


3.11と「隠者」

今日は3月11日。


マスコミもあの昨年の日のことを報道しますし、日本人のほとんどの方は震災とその関連での出来事を想起していることでしょう。


東日本大震災の前にも、新潟や神戸などで震災の被害があり、ほかの天災も各地で様々にありました。


しかし、たとえば私も被災したあの阪神大震災においても、すでに17年が経過しますと、ほとんど風化しているようなところがあります。(本当の意味では誰も忘れてなどいないのですが)


もちろん風化するということは年数がある程度経って、逆に悪い記憶も再生や復興によってそれだけいい意味で「風化」している部分もあります。


奇しくも「風化」という文字には、四大元素の「」という字が使われているように、四大元素の「風」の意味である「思考」や「冷静さ」「分析」要素でもって体験を見ることができるようになっているとも言えます。


とはいえ、何事もなかったかのように忘れていくというのも悲しいものがありますし、起こった内容とそれぞれの意味、その教訓継承してかねばなりません。


前にも書きましたが、やはり「」として祈念しておく「日にち」や「時間」を作るというのは悪い意味での風化を進ませないためにも有効かと思います。


この日、私の中に浮かんできたマルセイユタロットカードは「隠者」です。


「隠者」はその名の通り、隠れた存在であり、自らは日々修行を送りながらも蓄えた知識や経験は誰からも認められることがなく、孤独に生きています。


「隠者」自身は本来、別に認められる必要もなく、ただ自らの鍛錬・霊的向上を目指し、隔絶した世界に住むことをよしとしているわけですが、これを一般的なフィールドに当てはめていきますと、また解釈も変わってくることがあります。


そこではやはり、自分一人がよければいい(自分だけが悟ればよい)というものではなく、自分が得た知識・経験というものは誰かに伝えてこそ活かされるというものだと感じます。


そんな知識も経験もないよ、という人もいらっしゃるでしょう。ただ今回のような地震での体験は、伝えていくのに十分なものであり、むしろ伝える使命があるかもしれません。


また「隠者」が示すように、一人一人が自身を向上させ、経験と智慧を蓄積鍛錬することによって、人や世間に伝えられるレベルになるのだということです。


しかし地震のような驚異的な体験は、「神の家」体験として、すでにそれは自身のレベルや鍛錬に関係なく、そのもの自体が伝えていける(レベルの)ものだということなのです。このことはマルセイユタロットの大アルカナの絵図からも示唆されることです。


ずっと隠れていては次第にまさに「風化」していきます。あなたが朽ちる前に(これは象徴であり、心や精神のことも言っています)、その想い、その経験、その知識は伝達していくことです。


そうすると「朽ちる」こともなくなるのです。その上で、伝達された人がそれぞれの「正義」でもって自分の真実に目覚めることにもなります。


神戸の大震災で被害に遭い、肉親を失った方たちが東北の同じような境遇の方々と交流し、心のサポートをしていると聞きました。


神戸の人は17年前には悲しみにうちひしがれ、人生や世界を呪うこともあったと存じます。しかしその経験と自らが今回、東北の人を救う天使になっているのです。もちろん時間というクッションもあったでしょう。


それでもこれはある意味、人同士のつむぐ奇蹟だと感じます。改めて昨年の被害に遭われた方々、地域の皆さんの復興を心よりお祈り申し上げます。


時間の中に潜む「悪魔」

皆さんの中には、「もっと時間があれば何でもできるのに・・・」と思っている方がいらっしゃるかもしれません。


時間というものは規則的に万人に等しく流れるものと、個人の感覚で流れていくものがありますので、意外にもその両者のズレや葛藤によって、悪魔的なところが時間に存在するようになるのです。


そのほかにも、この世の制約や条件として時間があると考えれば、やはり悪魔と時間はつながってきます。


マルセイユタロットを見ていますと、時間を象徴的に表す「運命の輪」のカードと、その名の通りの「悪魔」のカードが共通している部分があることに気がつきます。(絵柄や意味などにおいて)


この二枚は本当に面白い関連があり、ともに相当なパワーを有します。


それはさておき、時間と悪魔の関係ですが、記事の冒頭に書いたことは、実はこの関係について考えてもらうためのものなのです。


個人的な経験でいうと、私はかなりの多忙期とものすごく暇な日々を過ごした時と、どちらも結構経験しています。


おそらく皆さんの人生においても多忙な時と暇な時の両方は、程度の差こそあれ、経験済みでしょう。


そこで振り返っていただきたいのですが、暇な時というのはあまり記憶も少なく、ただ惰性的に時間が流れてしまったのではないでしょうか。


もちろん、暇ではあっても自由がない場合は、逆に多忙よりも苦痛で、時間は惰性的というよりまったく動かないかのような静止した時のように感じられます。


ここでいう暇な時とは、「比較的何をしてもよい状態で時間がかなりある」という状況のことを指しています。


私の場合、やはり暇な時は無為に時間が流れてしまった印象が強いです。これは時間があるからこそ、甘えや油断になり、かえって何もできなくなるという状況に陥るからです。


人は必要に迫られたり、追いつめらられたりしないと、案外行動しないものです。


人間には「今の状態を変えたくない」という欲求にも似た心が存在します。キリスト教用語の「7つの大罪」ひとつ、「怠惰」に関連するとも言えます。


しかし罪というより、人の安定機能、ホメオスタシス(外部状況が変化しても生体の状態は一定に保つ機能)のようなものが反応しているようにも感じます。これを思うと、暇な時に無為に過ごすこと自体を悔やむ罪悪感のほうが問題に見えます。


時間の幻想(多くあると思うこと)によって、私たちは一種の固定化や縛られた状態を経験し、それは一見自由で楽しいように見えて、何もできない空白の時空に閉じこめられているようなものになっています。


時間を無駄にしてしまったという罪悪感と、たくさんあることへの油断から来る時間幻想の縛りから逃れるためには、やはりマルセイユタロットの「運命の輪」と「悪魔」を観察することです。


簡単にいえば自分自身をスフィンクスにし、悪魔という仮定した存在を認識することです。


実際の行動でいえば、時間があり暇な時であることそのものを自覚しながら、本当にその時を楽んでしまうこと(悪魔にだまされるふりをすること)になります。何をすべきか、何をしたのかなどは考えないことです。


また無為に過ごしたり、無駄に過ごしたりすることに罪の意識を覚えず、こういう周期・波の中にいると認識し、いずれはまた多忙の時がやってくることを想定することです。


ヒントはさらに「運命の輪」「悪魔」の隣の数(両隣)を持つカード群にもあります。皆様ご自身で考えてみてください。


嫌なことでも動かなければならない時には。

近頃思うのは、感覚の大切さです。そして思考が過剰になるのは問題があるとも思います。


別に思考することや、頭で考えたり理屈を見い出したりすることは悪いことではありません。


しかしここで必要なのは、感覚との統合ということです。


表現を変えれば、「気が進まない、感じとしてあまりよくないものを、無理矢理理屈をこねて自身を説得しない」ことになります。


これは嫌なことを避けるという意味ではありません。それでは単なる逃避であり、成長の機会を失うことになります。


ここで言っているのは、感覚との統合を目指すこと、それが無理なららきちんと折り合いをつけるということです。


人間誰でも感情や感覚があり、それは人それぞれです。あることやある人のことを嫌だと思う時もあれば、好きだと感じることもあります。


それを止めることは普通は無理です。起こる感情を止めようとするほうが大変です。ですから感情や感覚は起こるままに任せます。


次に自分がしなければならない行動があるとします。社会で仕事をしていれば、不本意ながらもやらなくてはならないことは多々あります。普通に生活していてもそれは存在するでしょう。


ただこれを「仕方ない」とか「我慢するしかない」とかで、強制的に感情・感覚を抑え込んで動くと、基本的に心とのねじれが生じていますので、どこかに無理が出たりします。


「割り切って」と言われるように、少なくとも「お金のため」とか、「今はこういう関係を選択している」とかで無理矢理ではなく、素直になれる「割り切り」論理を構築しておくことです。


ここで「論理」という言葉が出たように、論理(思考)は実は人が穏やかに生きるためには、やはり重要なものです。


自分の今の感情や感覚が「嫌」とか「好きではない」というものであるという事実は、その事に対して、あるいはその人と行動してはならないという意味にはなりません。


ここが非常に重要です。好きなら行動しやすく、嫌なら行動しにくい、過ごしにくいのは当然ですが、感情が行動そのものを規定しているわけではないのです。


選択要因・因子として働いているに過ぎないのです。(ただし、あまりにも強い感情はほとんど行動を規定しているかのように錯覚せざるを得ないものとなります)


また、そもそも「その行動自体が嫌だ」という場合もあります。このケースでは確かに感情と行動の統合はやりにくいかもしれません。


こうした時は感情との統合前にもやむを得ず動かなくてはならないこともありますが、対策としては、なるべくなら統合できていない場合はまだ行動しないこと、そして統合できる自分になるために、新しい視点や考えを学び、持っておくことだと言えます。


いずれにしても、感情や感覚と自分の行動を統合させるには、第三の視点が必要になります。


この場合の第三の視点を獲得するには、自分が抱いた感情・感覚と同じものを、行動しなくてはならない対象から拾い出し、それを「論理的に」結びつけることでできます。


簡単にいうならば、嫌と思うものの中にもいいと思えるものを見つけて、そのために行動するのだと考えることでしょう。


嫌なことを気持ちいいことと解釈し直すことではありません。事実は事実として受け入れ、認めるということを示唆しています。


そのうえで、こういう感情なのだからこういう気持ちになるのは当然と思い、やるべきことに対して、その感情に近くなることを探すことになります。たとえば、そのことを行うことで実績ができて、自信と売り出しのできる喜びの自分を見いだすというものです。


難しいのですが、それが第三の視点や自分のレベルを上げることにつながります。上から目線とは異なることにも注意してください。


いきなりレベルを上げることはできません。図形でいえば、平行線としてリンクをつなげることから始まるのです。(ここでは感情のリンクの発見のこと)


そうすると、突如としてピカッと光るがごとく、二本の直線の上の三角形の頂点が見えてきます。マルセイユタロットの「女帝」と「恋人」はこのことを表しています。


それでも統合しにくいものは、もともと統合する必要もないものかもしれません。つまりはそれは本当の意味で止めたほうがよいのです。


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