カードからの気づき
自分の判断のタイプ その2
昨日の続きです。
昨日は、人の判断のタイプには4つあり、どれかが特徴的に当てはまるというお話をしました。
今日はその意味について仮説を立てながら考えてみようという記事です。
まず仮説というのは、この4つの判断気質を(のどれかを個性的に)持つ意味をポジティブに解釈することと、反対にネガティブにとらえる二つの場合で考えます。
ネガティブから先に書けば、自分の判断気質は偏りだと見ることができます。
たとえばいつも感情で見てしまいがちなあなたは、思考など、ほかの判断気質を補うことで、バランスのよい判断ができるというものです。
これは比較的誰でも思いつきそうなものですね。
そしてもうひとつのポジティブに見ていくほうは、もとともの気質は天から与えられた「よい気質」であり、これをもって人や社会に貢献できるよう、あえてその気質を得て生まれてきているのだという考えです。
自分が「あるタイプ」だということは、そういう特性を選んできており、その特質を出していくことが、むしろ自分にとっても社会にとってもよいことなのだという見方をしてみることができるのです。
そうすれば、無闇に自分を否定したり、嫌ったりすることも少なくなるどころか、欠点と自分では思っていたことも、長所に変化することさえあるでしょう。
これは何も判断気質だけのことを指摘しているのではありません。もともと生まれ持った気質すべてに言えることだと思います。
ただ何事も過剰に出し過ぎることはバランスを崩しますので、ポジティブに考えたとしても、身勝手にそれが正しいと押しつけるかのごとき行動は問題となるでしょう。
結局世界はバラエティ(多様)である(マルセイユタロット「世界」のカード参照)と言えますので、自分のタイプや特質は他人や外部に向けて貢献できる特徴であると同時に、自分には少ないタイプの人から刺激を受けたり、恩恵を受けたりして成長できるよう、個性は異なって人に与えられているものだと考えられます。
ですから自分のタイプを愛し、しかもそれにおごらず、の姿勢が大切かと思います。
自分のタイプによって自分の自信を得、さらにほかのタイプを尊重することで、自分にも取り入れることができないかと思う謙虚さです。
マルセイユタロットでいえば「神の家」と「星」とも関係するかもしれません。
それぞれの自分のタイプというものも、結局は自己成長のために与えられた貴重な材料だと思えるのです。
自分の判断のタイプ その1
タロットや西洋占星術のひとつの概念に「四大元素」(風・水・火・地)というものがありますが、これはいろいろなことに応用できる枠組です。
その理由は私たちも含め、この世界が四大元素で構成されているからなのですが、そのことについては今回はふれません。
今日は四大元素の適用の一方法として、人の判断のタイプということを考えてみたいと思います。
人の判断には大きくわけて4つのタイプ(またはアプローチ)があると、四大元素的にも推測されます。
4つとは、次の通りです。
1.思考による判断
2.感情による判断
3.直感による判断
4.感覚による判断
物事を理解したり、決めたりするのに、おおよそ人はこのどれかのタイプが主として出るように感じます。
どんなものかと言えば、1のタイプは物事を論理的に考え、利益不利益とか、いろいろな要素を合理的に見て判断するタイプです。簡単にいえば頭で考え判断するタイプですね。
2は好き嫌いとか、情念・情けなど感情や気持ちで判断するタイプです。情が基本になってきますので、正しいというものよりも、相手に気遣ったり配慮したりする情緒的な判断になることが多くなります。
3は勘など、ぱっと思いついた感覚で動いていくというタイプです。あまり考えなしに行動するように思われがちですが、実は一見、「1」の思考タイプのように見えて、結局は最後はカンで動くという人もいますので、優柔不断な「隠れ3」タイプの人もおり、注意が必要です。(ほかにも、一見「2」の感情タイプや「4」の感覚タイプのようでいて、その実「3」である人もいます)
4は触覚・聴覚・味覚など五感ではっきり感じることで判断が進むタイプで、空想的なようでいて現実的です。それは五感で感じるということが質感を伴い、物質的だからです。自分の心地よさの方向で物事を決めます。そのため、しばしば2の感情タイプと似たようような部分も持ちますが、その基準が「感情」と言うより「実質的」なものが根拠になっていることが異なります。
これで自分はどのタイプか、だいたいわかると思います。
しかし、四大元素というのはきちんと4区分できるという「元素」ではなく、ひとつの元素にすべての要素があるというフラクタルな構造を持ちますので、実は全部のタイプを一個人は持っていると言えます。
ですから、究極的にはどのタイプにもなりうるわけですが、それでも占星術の出生気質(生まれもった気質が星の配置によって象徴されていると考える方法)で見ると、やはり個人個人に特徴的な四大元素があり、それで言うと、どれかのタイプが色濃く出るとも想像できるのです。
その中でも主(メイン)と副(サブ)のふたつのタイプを自分で考えてみるとよいでしょう。
今まで自分が何かを決めたり見極めようとしたりした時、どういう具合に自分を導こうとしたか、思い出してみてください。
もちろん現代社会では、ある程度誰でも情報を入れて、「思考」によって判断を下しますので、「1タイプ」はある意味、現代人にとっては普遍的なものとなってはいますが、それでも、最終的な段階やあせった時など、自分はどう判断をしたのか、回顧してみると自分の本当のメインのタイプがわかってくるでしょう。
たとえばあることへの参加を提示されて条件を冷静に勘案していても、「お金」とか「食べ物」の話になると思わずすぐ決定してしまうのは「4タイプ」の場合が濃厚です。
さて、自分の主タイプがわかったところで話は終わりではありません。ここから続きがあります。それはふたつの仮説を考えることにあるのですが・・・少し長くなりましたので、続きは明日に。
執着やこだわりを少なくする方法。
悪い意味でのこたわりや執着をなくすためには、二つの方向で考えると効果的です。
ふたつとは平行(横)と垂直(縦)のことです。
これは以前にも、十字をシンボルとして見立て考察したことがありますが、要は自分を拡大させれば(拡大した意識が持てれば)極端な執着からは脱せられるということです。
なぜならば、こだわり・執着とは視野が狭く、ひとつのことや少数のことしか思い浮かばない状態と考えられるからです。
たとえば自分の生きる道はこれしかないとか、あの人としか恋愛できないなどの思いでも、別の方法や人の可能性があると知れば、執着はなくなります。
この自分を拡大する方向が横と縦にあるのです。
横は平行であり、すなわち同じ次元でいろいろな体験や経験、選択肢を増やすことです。複数の選択肢を持つことで視野の広さを得ます。
収入だったら副業を持つことで、たとえ今の職を失ったとしても完全に収入の道が絶たれるわけではないので、副業や収入口が多ければ多いほど、ひとつの職に執着することも少なくなると予想されます。これが横の拡大方法です。
一方、縦とは次元やレベルそのものを上昇させるということです。具体的には思考法(考え方)や感じ方などを変えることです。
例えば特定の人物によって自分は苦しめられていると思っていても、新しい考え方や物事のとらえ方を学ぶことによって、その人が別の点では自分にとても役に立っている(その人のおかげでほかのいいこともあると気づくなど)ことがわかれば、問題も解決し、その特定の人物に対するこだわりも解消します。
心理や精神の世界では、こちらの縦に自分を拡大することで執着を少なくすることが多いです。反対に現実的なことでは、横に拡大することで問題を解決する傾向があるように思います。
この横と縦による拡大は、それぞれいいところと悪いところがあります。
横は比較的具体的で現実的な方法になる傾向があり、それだけにわかりやすいです。簡単にできることもあります。しかし反面、単なる便法に堕してしまうことがあります。
例を挙げると、「複数の異性とつきあっていれば一人にふられてもOK」みたいな状態です。これは自己成長での執着の解消ではなく、まさにお手軽な技術にすぎません。
一方、縦のほうはレベルが上がればたくさんのことを身につけたり、やたらと行動したりせずに済み、いわば効率はよくなって無駄なものは削ぎ落とされ、あらゆるものがシンプル化してきます。
しかし「学び」や「気づき」によって導かれる次元上昇であるので、そう簡単にはいかないことがあります。単なる頭の知識だけではなく、心や感性、時には魂での実感が必要となることもあります。そのためには修行ではないですが、ある程度の負荷(試練)が求められます。
いずれにしても、私たちのこの世界、普通に生きていてもどちらも体験できるようになっています。そう思うと、とても有り難いことです。神という存在を仮定すれば、結局神は私たちの成長・拡大を望まれているのだということがわかります。
なお、本日の内容は、すべてマルセイユタロットでは語られている内容ですので、皆さんもマルセイユタロットを見て確認してみてください。
中途半端のよさ。
中途半端と聞くと、一般的にはあまりよくないことだと思われています。
やり切ること、終わらすことには達成感にもつながり、得るものも多いからでしょうね。
また、中途半端のままになっていると、心理的にもそこに関心のエネルギーが向けられ、今現在や未来、ほかのことに向かって全力で進むこともできにくくなります。恋愛などには多いパターンですね。
とはいえ、何事も一面だけではありません。中途半端にもよいことがあります。
まず中途半端とはいえ、その事柄に関わったということは、多少なりともそれに対しての知識と経験がつくわけです。
そのため、話のネタや相手との共感を高めるものとしては、全く知らない状態よりも大いに活用できるのです。
「それ、私も昔やったことあります」とか「ちょっとだけ経験したのですが、もっと教えてください」などと人との円滑なコミュニケーションにつなげることができます。
さらに読書などではよくあることですが、途中で読みかけのままにしていると、どこかで気になっていて、改めて日にちを変えて読むと、最初の時より新鮮な気持ちで読めたり、新たな発見があったりすることもあります。
途中の場合は止めていた部分の少し前から二度読みするようなことが多いので、そういうことも起こるのだと推測されます。実は本というものは二回は最低でも読んだほうがよいのです。
中途半端だからこそ、自分に気付きを与えてくれる本との出会いが逆に濃厚になることもあるのですね。
そして、これが一番よいことだと思えるのが、中途半端はまさに途中のままで終了することがありませんので、時間やエネルギーを取られることが少なくなるという点です。
人の一生は案外と短いものです。本当にエネルギーや時間を注がなくてはならないもののためには、あれこれすべてやり切ろう、極めようとすることはかなり大変なことになります。
いわゆる完璧主義に陥ってしまって、何でも完全でないと気が済まない、落ち着かないという感覚も助長しかねません。
「中途半端でいいんだ」「ほどほどのままのものがあってもいい」と思うことで、肩の力が抜け、人生を楽しむことができるようになります。もちろんくきちんとやるべきものは限定して集中的に取り組めばよいのです。
これはマルセイユタロットでいえば、「世界」よりも「悪魔」の感覚を養うというものに近くなります。(この二枚は「完全」と「中途」ということを象徴でよく表現しています)
中途半端のままでいけないのは、あなたの深奥なる魂の部分の成長についてです。
その観点から見れば、ベルソナ(仮面)やエゴを満足させるための完璧さを追い求めるのと、本当の意味での完全さ目的とするのとでは意味や行動も違い、中途半端も時にはOKであることがわかってきます。
問題やトラブルのひとつの考え方
マルセイユタロットを見ていますと、「ああ、なるほど」と人生の仕組みに気がつかされることが多々あります。
これもそうした中のひとつのお話です。
あなたにも経験があるかもしれませんが、今まで順調に行っていたものが急にトラブルに見舞われたり、うまく行かなくなったりするようなことがあります。
特に仕事関係では多いかもしれません。
そういう場合、もろちんいろいろと原因は考えられるのですが、ひとつには、次の段階に移行するための復習や修了試験のために発生する場合があるのです。
どういうことかといえば、あなたがやこれまでやってきたレベルでの学びや作業が、もう十分な段階に来た時、あえて本当にそれを修めたかどうかを確認するため、天(あるいは自分自身)が与えている試練・テストであるということです。
ですからその問題というのも、今までのことで対応できるはずで、意外にも基本的なことを見直しされることが多いです。
時折、反対に今のレベルで対応ではできないけれども、あなたがもう少しレベルアップすれば可能で、その意志が問われる内容のものもあります。
いずれにせよ、絶対に無理なものではないのです。
この、「問題が発生すること」により、改めて自分の本当のレベルを知ることができます。
慣れていたことでも、切り口が変われば慌ててしまう自分を発見できたり、まだ完成していなかったことを体験できたり、まさに復習とテストの意味合いがあるわけです。
これは逆に考えますと、自分に問題が起こったときは、次の移行段階が来ていると取ることもできます。
運が悪いとかついていないとか、どうしてこんなことが・・・と自分の身に起こるトラブルについて人は悩んだり怒ったり、悲しんだりしますが、こうした観点を持つと、実は問題は天恵であり、自分が進歩している証拠でもあったりすることに気がつくことになります。
そう考えますと、結局、問題から逃げることは損なことだと言えます。
普通、「逃げる」ことはドラマでも小説でも「逃げ切れる」ということは難しいですよね。(苦笑)
たとえうまく逃げても、よほど無神経な人でない限り、逃げたこと、逃げている状況に日々思い悩むことになりますので、気が休まらず、自身を正当化するなどする心苦しさなどで、やはり気持ちの良い人生を歩むことが難しくなります。
「問題」はあなたを次のステップに進むためのものなのですから、積極的に活用して行きましょう。