カードからの気づき

人はもともと完全だと思うと、どうなるか。

マルセイユタロットでは、「人間は本来は完全である」と説いています。(これはあくまで私のとらえ方なので、絶対的な説ではありません)


そうなると、通常とは逆転の発想が出ます。


端的にいえば、「不足を補うのではなく、完全を思い出す、取り戻す」という観点に、自分や人を見る目が変化していくのです。


この考えを持てば、いろいろなことが反転していくのですが、今日は「技術や知識を学ぶ、身につける」ということについて焦点を当ててみたいと思います。


最近は情報社会のため、有り難いことにインターネットでもリアルでも、様々な技術・思考法などが紹介されています。


とはいえ、結局はそれは人が考えたものなので、たとえネットであっても人を介して伝わっているものです。


ということは人のやり取りで知識や技術も伝達されていくわけですが、このことを「人は完全を取り戻す」存在であるという考え方に当てはめると、面白いことに気がつきます。


つまり、私たちは一人一人、仮にもともと完全であるとすると、その状態を回復させるため人と交流しているのだと思うことができるのです。


人に個性があってそれぞれに特技や身につけたことものがあり、情報を持っているのは、それを思い出していない人のために提供していくことにあるのだいうことです。


こうすると、私たちは誰一人として不足や劣っている状態にいるのではなく、ただ自分の完全さをまだ取り戻していない、思い出していないだけに過ぎないと見ることができます。


もちろん生まれたばかりの赤ちゃんでは皆平等に完全さを「完全に」忘れていますが、そこから環境や自己の意志・行動の違いによって思い出す幅も異なってくることになります。


人によってはすばらしい能力を発揮したり、成功を収めたりする人も出てきますが、それは人間本来の完全さを、努力やその他の要素によって、より多く思い出せた、回復できた人だと言えるでしょう。


完全度合いに近づけば近づくほど、現実世界での生き方も楽になったり、うまく行くようになったりするのも当然です。「完全」とは「神」と同等の言葉と考えればわかりやすいでしょう。


それでも私たち個人だけの力では、なかなかこの世界において完全さを回復することは難しいものです。


そのため、完全さを回復することが先に進んでいる人や、ある部分での知識・技術を「思い出している」人から刺激を受けて、自分も完全さを取り戻すことに邁進していくことが必要となります。


それは一言で言えば、向上心や好奇心、自己実現といったことにつながってくるでしょう。


「もうこれでよい」ということは、悟りを得て完全であることを実感し、体現した人以外はないのです。

そしてこの世界では、完全さを思い出すことの一番の材料は、先述したように「人との交流」「人から学ぶ」ことにあるのです。


誰もがもともと完全であると知ると、人をうらやんだり、自分を卑下したり、誰かを過剰に持ち上げたり、カリスマ化することもなくなってきます。


すなわち、人を優劣で見ることが少なくなるということです。これが「人は元来完全である」という認識に立つ、最高の効果かもしれません。


運をよくするために「愚者」化する。

私たちは「運をよくしたい!」と思うことがあります。


それは「いい生活をしたい」「不幸を避けたい」「幸せになりたい」というようなことであり、逆にに言えば自分の欲求をかなえたい、満足させたいということにつながると思います。


一見それらは低次のものに思えますが、実のところ、ここからが高次に向かうための出発点にもなるのです。この奥底には、自分を高めたい成長の心、向上の精神が隠されているからです。


欲求や欲望を無視したり、避けたり、それらはないもののように扱ったりしていては、実は先に進むことができません。


それらときちんと向き合わずして一足飛びにレベルを上げることはできないのです。なぜならば、欲求不満はどこかに欠落があることになりますので、基礎の部分で土台がでぎず、一部壊れている状態になるからです。


土台がしっかりしていなければ上に堅固で大きなモノを建てることはできません。


ということでは、運をよくしたいという発想を持つことも悪いことではないのです。そして、最初には吉凶を判断したり、不幸を避けて幸運を目指すという技術を学んだり、実践してみるのも当初の段階としてありとなります。


こうした方法で「運の良さ」を追求していくと、自分の欲望を満たすことが運の利用ではないことがわかっきてますし、そもそも運というものに「良い・悪い」と判断しているのは、自分自身であるということにも気がついてきます。さらにはその判断基準も絶対ではなく、流動的なものということもポイントです。


そうした中で本当の意味での向上や、高次の欲求に自分の方向性がシフトしていきます。結局のところ、いかに自分を全体と調和させるかということが「運」とも関わってくることが理解できてきます。


ともあれ、運勢をよくする方法としては、低次からとはなりますが、巷に言われている運をよくする方法をどんどんと試してみるということが挙げられます。


実は意外なことですが、物事を単純に考える、シンプルにとらえることが自分の運を上げることにつながるように思います。タロットでいえば、まずは「愚者」になることなのです。楽観的になる、行動的になるということですね。


ですからつべこべ言わず、「これがいいよ」と聞けばとにかくやってみるという姿勢を持つことです。あと、自分のやりたくないことをやらない、やりたいことをやることです。


そうは言っても、現実に仕事や社会の制約などで難しいと思うかもしれませんが、それでもできるだけ、自分の可能な範囲でそう行動するようにします。少しくらいわがままになってもいいのですね。これは実は時間の有効化と生活をシンプル化することにつながるのです。


それに、欲求と制約の狭間で葛藤し、運の波をうまくつかむことができず、もがいたり溺れている状態から脱却するきっかけになります。


こうしてあなたの「運命の輪」に油を差すが如く、回転をスムースにしていくことができます。回転のきしみや滞りは、あなたの複雑に思い過ぎる心と、欲求が満たされない思いがそうさせているところが多々あるからです。


こうしてある程度の「愚者」精神と行動を実践し、欲求を満たしていくことが叶ってくると、いろいろと今度は不調和も現れてきます。


この不調和こそ、実は次の段階に進む合図で、不幸を避け、吉を選ぶような運の考え方からも離れていくようになります。


ここで欲望への過剰な反応というものがチェックできます。これにより欲求を満足させていたつもりが、欲求をさらに焚きつけてきたことがわかったり、本当の欲求がまた別にあることも理解できたりします。


いずれにしても、それもまずは最初の素直な自己の欲求へ応対によって出現してくるものです。


この段階になってきますと、自分が運をよくする方法と思って試していたことが、逆に運を縛ることになっていたことも発見できるかもしれません。


しかし、これもいろいろと最初に試してみたことから気づけることでもあるのです。「愚者」になってこそ、「斎王」や「女帝」、「皇帝」や「隠者」にもなれるということですね。


ですから、まあ気楽に、まずは自分の運勢をよくしてみようといろいろとチャレンジしてみてください。


自分時間とタイミングを分析する。

業務連絡ぽくなりますが、私、去年末から喉の調子を崩していましたが、かなり元に戻ってきた感じです。とはいえ、まだ万全とは言えない状態ですので、無理はできず、しばらくはセーブが必要かと思います。


現在進行中で講座を受けていただいている方にはご迷惑をおかけしておりますが、今しばらく通常ペースまでは、お待ちいただければと存じます。



さて、これまでもこのブログで語っているところですが、皆さんにはそれぞれ固有の時間の回転や進み方、流れまたは変化のタイミングというものがあります。

実際そうした時間があるかどうかは別として、そう仮定したほうが説明しやすいですし、タロットでも「運命の輪」というカードがあり、このカードの象徴からもそのことは考えられるものです。(スピリチュアルなことは現実かどうかと議論するよりも、ひとつの仮説モデルとして適用すれば人生に応用できるものです)


ところで何でもそうてすが、分析するためには資料やデータがいります。


自分固有の時間やタイミングがあるというのなら、それを分析するためには過去のデータを調べてみる必要があります。


スピリチュアルなことや精神的なことは一瞬でわかったり、感性でつかめたりすると誤解されがちですが(そういう面ももちろんあります)、やはり現実的なデータや資料を集めて分析するという姿勢も物事の把握には有効なのです。


ただその資料や分析自体が一般的な考えに基づくものではないので、誤解を生むわけですね。


占いにおいても命占では生年月日というデータが必要です。しかしそのデータの見方、解釈が私たちが通常思う科学的・論理的ではないものなので、究極的には「データさえいらないのでは・・」という考えにもなってしまうのです。けれどもやはりデータはあれば便利であり、最初の段階では必要なものです。


さてそうして過去に遡り、まず自分を一年単位で見てみます。


すると特有な現象に気がつきます。たとえば「自分は6月(とその周辺)に変化が訪れている」とか「11月に転機のきっかけにいつも遭遇している」など発見できます。(毎年というわけではなく、何か自分にとってのインパクトの時期が固まっているというような印象です)


またもっと単純に、自分の好きな季節と時期を見ます。(反対に嫌いであったり、今ひとつ好まなかったりするシーズンでもよいです)


もちろん春夏秋冬という四季を見てもいいのですが、もっと細かく、ひとつのひとつの季節を三つくらいの時期に区切ってみてください。つまりはひとつの季節に三つのパートを見ていくので、4×3=12区分となります。


その3区分は具体的には季節の初め、ピーク、次の季節への移行期という具合にしていくとよいです。


私の場合は、どの季節でも次への移行期のような時が比較的好きです。ピーク(真っ盛り)の時はあまり好みではないですね。占星術的にいえば、自分の生まれた時期ともおそらく関係していると思います。


そしてこれは時期だけではなく、ほかの好みや志向の傾向にも当てはまってきます。


私のケースでは、たとえば「お祭り」でもその絶頂より、準備や企画段階、そして終了したあとの一抹の寂しさのような雰囲気が好きです。季節の好みと一致するわけですね。


最初に述べた転機や変化のきっかけになる時期も、結構自分の生まれた時期と関係している場合があります。(同じような時期であったり、対極や特別な関係にある時期だったりします)


もうすでにお気づきの人もいらっしゃるかもしれませんが、このように時期をデータや傾向として見ていく場合、「輪」「円」としてイメージしていくほうがわかりやすいのです。


一年や数年単位を円で表現すれば、自分特有の時間の回転特徴がわかります。


うまくデータが分析できれば、自分にとって飛躍や上昇のポイントが予測できますし、起こっている問題がどんな意味を持っているのかのよい資料ともなります。


これらはすでに生まれた時から自分のどこかに刻印されているものだとも考えられますが、決して一生を運命的に左右するものではなく、ある地点より自分の「輪」の特質が変化することもあります。


今までこの時期に何かが発生していたのに起こらなかったり、時期がずれてきたりするような場合です。


これが運命の変転であり、変化(見ようによっては成長や下降)でもあるのです。タロットカードの「運命の輪」は、そういう意味でも本当に今回書いてきたことをうまく象徴しているカードだと思います。


そして私たちがどのように「運命の輪」をとらえればよいのかも、カードの絵柄が示唆しているところです。


「神の家」に見る基礎作り。

砂上の楼閣」という言葉があります。


基礎がしっかりしていないために壊れやすいもののたとえで使いますが、これはなかなか物事の真理をついているように思います。


マルセイユタロットでいえば「神の家」のイメージでしょうか。


何事も土台や基礎が固まっていないままに上を求めても、それは一時的なものでやがて崩れてしまいます。


何もこれは物理的なことだけではなく、精神的にも霊的にも言えることだと感じます。


私たちはこの情報のあふれる社会で、つい一足飛びで楽に結果の出るものを追い求めがちです。


情報が多いだけに、探せばきっとそういう秘薬や錬金術のような技術・知識があるはずだ、と思いこんでしまうわけです。


もしかするとそうしたものもあるのかもしれませんが、王道と言いますか、安全で着実な道というものは、やはり基礎から応用に向かうというステップになるでしょう。


再びタロットの「神の家」に登場してもらいましょう。


「神の家」はレンガ積みの構造の建物になっています。建物はよく見ると、一番下にはレンガが横に広がっています。(カモワン版では三段の白い石段もあります)


そのひとつひとつが努力のあと蓄積されたものを象徴し、またレンガによって成される階層は次元やレベルを表すと考えられます。


自分のレベルが上がるということは、すべてにおいてその下位レベルの統合が取れていることを意味し、ひとつの部分だけ突出したから階段が上がるというわけではないのです。


たとえば知識があるからえらいわけでもなく、感が鋭くなったからといって霊的に向上しているとは限らないのです。


お金の扱いひとつとっても、自分の今の収入で収支のバランスを図り、お金をコントロールしていなければ、現在より大きな収入を扱うことはできません。


自分を大きく成長させたいと思えば思うほど、基礎はしっかりとさせるだけではなく、広くしていかなくてはなりません


底辺の面積が広ければ広いほど、上に伸ばすことができ、高い建物を建設することができるというものです。


これが逆に狭い面積で軟弱な基礎をもって、上に巨大なものを載せようとしているのが現代の私たちの姿かもしれません。いわば頭でっかちでもあるのです。


こうした状態が砂上の楼閣のごとく、極めて不安定であるのは言うまでもありません。


マルセイユタロットの「神の家」は、頭上に大きな冠がかぶさってくる(戴冠する)という表現をしています。(崩れているのではないという解釈です) カードを見てもわかるように、巨大な冠です。


これを載せようというのですから、相当堅固で基礎がしっかりとしていないと無理な話です。


「神の家」は同時に、神のエネルギー(光)も受け入れますから、いわば非常に強い、電気的なショックにも形容されるような衝撃にも対応できるものを作り上げて行かなくてはならないのです。


特に精神世界に興味があり、自らの心や霊性を向上させようと思う人は、瞬間的にすべてが上昇するとは思わないことです。(ある技術によっては、一足飛びの上昇が可能であるようですが、やはり危険性があると言われています)


確かに瞑想などによって短時間の上昇はありますが、その維持が難しいのです。結局のところ、先述したように低次におけるすべての要素の統合と基礎の完成が相まって、次に進化していくと考えられるのです。


いびつな発展をした時は、欠陥工事の建物のように、必ずその課題部分が吹き出してきます。


自分に起こっていることを観察すれば、どこにまだ基礎工事を施さなくてなくてはならないのかが明確になるはずです。


自分はうまく(霊的に)成長していると思っていても、すぐ奢りが来てしまいますので、常に総合的な自分のチェック、特に基礎的なことは念入りに行っておくことだと思います。


そのため、「神の家」の隣(隣の数)には「悪魔」と「星」が控えているのです。


「節制」カードの救済を考える

マルセイユタロットには「節制」というカードがあります。


詳しくは述べませんが、この「節制」の大きな意味としては「救済」というものがあります。


いわば「節制」に描かれている人物は救済の天使だと言えます。


「天使」に実感やリアリティを持つ方は本当の「天使」としてとらえてもいいでしょうし、それが考えにくい方は現実の人間や事柄が天使的な役割、つまり「救済」事項に関係する実際のことと見立ててもよいでしょう。


後者のほうがスピリチュアリティを現実に反映させる思考としては適用しやすいかもしれせん。


この場合、「節制」の天使を人として考えることもできるのですが、細かく分析すれば、「節制」の天使の壺の水とその混交がまた「救済」する人たちを示していると解説できます。


つまり壺が私たちの一人一人の個性や特技であり、その混じり合い、交流によって人は人によって救われることが示されていると考えられるわけです。


誰もが一人で生きているのではありません。何十億もの人々がこの地球上に生きています。


そしておのおのが個性を持ち、何らかの「天使」としての存在価値があるとみなすこともできるのです。またそう考えることができるかということも問われていると言えましょう。


つまり「節制」のカードで表現すれば、「節制」の天使を人類全員ととらえることもできますし、「節制」の天使の持つ壺自体が、個人個人それぞれであると表現することも可能だということです。


逆にいえば、私たちは壺として混じり合い、助け合うことで世界全体を天使に変えていくことができ、それによって私たち個人も救われると同時に、地球全体も救済に導かれるというイメージを持つことさえできるのです。


一人一人としてはほんのわずかな力かもしれませんし、「私には何も能力はない」と思ってしまうかもしれませんが、自分が「節制」の天使の一部であると認識した時、隠れていた、あるいは気がついていなかった「個性」や「役割」が現出し始めるでしょう。


普通にただ働いていることだけでも、全体的視点を持つと、小さくとも社会や大きなものに貢献していると見ることができます。


何もない、大したことはできないと最初から考えるより、何かあるはず、小さくても私にできることはあると、「節制」をイメージしながら思考の順序を変えてみるとよいでしょう。


結局、私たちは人によって生かされ、生きているのです。


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