カードからの気づき
「運命の輪」のループと繰り返し
マルセイユタロットの「運命の輪」
大アルカナの中には不思議な絵柄であるカードは少なくないのですが、この「運命の輪」も、なかなか不思議です。
たいていは、人の姿(それは必ずしも「人間」を表すわけではないとしても)が描かれていることが多いものですが、「運命の輪」には、動物(らしきもの)と輪という機械がメインとなっています。
そこからしても、異質だと言えます。
このカードの象徴性や意味はいろいろと考えられるのですか、今日は「輪」に注目したものにしたいと思います。
「輪」と言えば円とか回転がイメージされます。
円の場合、中心と円周、さらにその外側という構造があり、簡単に言えば、内と外があるわけです。
そこで、内(あるいは円周)にずっといる状態と、円の外に出ている状態とが想定できます。実際「運命の輪」でも、円周に乗っている動物と、円(輪)からはずれ、円の外に出ている動物とに分かれた描かれ方をしています。
ここから、円や輪に閉じ込められている者と、そこから脱出している者という構図が思い浮かびます。
ところで、日本のアニメには、ループもの(同じことが繰り返される状況が続くもの)がシチュエーション・物語として結構あります。
今は夏休みですが、夏休みのループものと言えば、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベル原作のアニメが思い浮かびます。
ネタバレになりますが、そのアニメの「エンドレスエイト」という話では、夏休みの8/17から31までの間を延々と繰り返す(8/31が終わる時にリセットされて、またスタートの8/17に戻される)というループ話がありました。
ちなみに、アニメ放映時には、このループを表現するために、同じ話を8回繰り返したという、今や伝説みたいなネタにもなっています。(すべて見るのはかなり苦痛ですが、全部見ないと、のちに作られた劇場版の本当の意味が体感できないことになっています)
以前も書いたことがありますが、私たちは、この話ではありませんが、何かのループに、はまり込んでいるのではないかという思いに駆られることがあります。
それは個人それぞれのループもあれば、全体としてのループもあり、言ってみれば、私たちは二重のループ(あるいはもっと何重にもなるループ)を経験している最中ではないかという疑いがあります。
「運命の輪」に描かれている「輪」も、よく見るとおかしな輪であり、ループがあるとすれば、単純なものではないことが伺えます。
「輪」は回転していると言いましたが、この回転性があるからこそ、繰り返しが起こっていると言え、また同時に、輪の中にいることや繰り返されていること(動きがあること)が、当たり前のようですが、輪の中にいることでわかりづらくなっていると推測されます。(電車に乗っていても、振動等を無視すれば、外の景色が見えないと電車が動ているのか止まっているのかに気づかないのに似ていますし、そもそも電車の中にいることが自覚できない状態とも言えます)
こうして書くと、ループで回っている状態というのは、悪いことのように思えます。
果たしてそうなのでしょうか?
ループをさせているのは、それこそ「運命」という何か大いなる力とか、私たちには計り知れない神のようなものなのかもしれませんが、本当は、私たち自身ではないかということも考えられます。
マルセイユタロットを見てきて思うのは、結局、私たちは、自分が望んでいるものをすべて体験しようとしているということです。
それが普通の意識ではわからないのですが(むしろ望みとは逆のこととか、経験したくない嫌なことだとかとして思ってしまう)、奥底の部分では、同意しているか、それを望んでやっているかもしれないのです。
比喩的な言い方をすれば、神(宇宙)と自分との創造作業であり、それは神の意思でもあり、自分の意思でもあるということです。
ではなぜ、わざわざ何度もループをしているのか、そういう演出を自らさせているのかと言えば、さきほども述べたように、自分がしたいからにほかなりません。
アニメ「涼宮ハルヒ」の話では、ループをさせていたのは自覚なきハルヒでしたが、私が思うに、実はキョンとか、ほかのメンバーも、ループを望んでいた部分があるのではないかと思っています。(アニメを知らない人には、わからない話ですみません(苦笑))
ただし、いくら自分が望んでいるとしても、次第にループと繰り返しが続くと、そのおかしさ・違和感に気づいてくるようになります。
それが、自分にとっての現象(望まない現実の)問題という形で現れ続けて来るようにも思います。
いわば、「もう、ループや繰り返しをする段階ではなくなってきている」という(自らの)知らせでもあるでしょう。
ただ、悪い現象だけではなく、惰性的な、ぬるま湯みたいに繰り返される、一見平穏な日常も問題の場合があります。
ゆでガエルの例えではありませんが、このままだと、やがて破滅を迎えてしまうのに繰り返しをしてしまうという選択です。
つまり、悪い問題(現象)が、本質的には同じこととして繰り返されていると気づいてくる状況と、一見安定していて、よい状態がこれからも続いていく(本当は続いてほしいという願望)と思われる現象において、実のところは、「いや、このままだとやばいんじゃね?」と気づき始めてくる状況との、ふたつのループへの気づきがある(起こって来る)ということです。
どちらにしても、自分の中では「このままではいけない」という思いが、以前より、だんだんと強くなってきており、それがループの終わり、ループからの脱出の時期が来たことを告げていると言えるのかもしれません。
「運命の輪」は数でいうと「10」であり、数秘的には終わりと始まりも意味します。
大アルカナは22枚ありますが、「愚者」と「世界」を別格のものとしてふたつのグループに分けると、ひとつのターン(1から10)が終わるのが「運命の輪」であり、新たに11「力」から20「審判」までのターンが始まる重要なポイントになります。
ここからしても、ループがある程度繰り返されてきて、自分にとって十分な経験が積まれると、次の芽が現れはじめ、これまでのループにおける次元やターンは卒業していき、次なるところへと移行すると見られます。
しかし、ループの卒業を自覚し始めていても、自分ではめた罠を出る方法を忘却している自分もおり(どっぷりと現実に囚われた意識)、さらには思い出すことを妨害する自分(と、ある種の世界勢力)がいて、出ようにも出られない葛藤や苦しみが増すこともあると考えられます。
それでも、出る意識を持てば、しゃれではないですが、円によって縁が運ばれ、出口に導かれることもあるでしょう。
私たちは今、個人だけではなく、全体的で巨大なループからも出なくてはならない時期に来ていると言えます。
それは個人の気づきの集合的な力で、さらに脱出への機会(チャンス)が増えると想像されます。
「運命の輪」の輪と一緒に回っている動物二匹の意識でいる限り、私たちはループから逃れられません。それは、自分にとって、よい・悪いと思うことを、そのまま起こる現象として受動的に経験する姿勢とも言えます。
ああ楽しい、ああ苦しい・・・という、人生への思いの繰り返し、連続です。
人は快楽を求め、苦痛からは逃れたいと思う生き物で、それは当然の心理でしょう。
しかし、動物的に、ただそのふたつを求めるだけでは、なかなか輪の中から出れられないということが、カードには示されているのです。
ループや繰り返しは、起きるべくして起き、自らが実演しているものと言えますが、同時に、出たり、止めたりする選択もでき、もはや必要ないのに、同じ演目が演じられ続けるのは、違和感でしかないのです。
「手品師」のサイコロから
私は乗り鉄ほどではまったくないですが、比較的、電車の旅が好きです。
前に、父親の話で、父が車(の運転)が好きなのに、認知症て乗れなくなっているというお話をしましたが、私は父と反対で、車(の運転含めて)はあまり好きではありません。
とはいえ、若い時は、かなり車でいろいろなところには出かけましたので、車の便利さと楽しさも知ってはいますが、どちらかと言えば、鉄道のほうがいいですね。
よく考えると、バスや飛行機(残念ながら、航空中耳炎にかかるようになってから、なかなか飛行機には乗れなくなりましたが)でもよいので、結局、自分が運転操縦するのではなく、乗せてもらうのがよいのだとわかります。ということは、乗り物に関しては受動的だと言えます。
なぜ受動的なのかと言えば、性格にもよるでしょうが、旅の過程や風景などを楽しみたいというのがあるからだと思います。自分で運転していては、さすがに十分景色を楽しむことはできませんので。
逆に運転が好きな人は、景色を見ながら物思いにふけるというようなことよりも、自分で操縦している感覚、自分の意思が行使できる自由性と支配感、目的地に自分で向かっているプロセスが心地よいのだと思われます。この点では自分が主体であり、能動的性質を持ちますね。
さて、前置きが長くなりましたが、そんな電車旅を好む者として、最近、JR西日本が、「サイコロきっぷ」なる企画を打ち出したことを知り、興味深く見ました。
これは、サイコロの出目によって、大阪を出発として目的地までのチケットが変わるというもので、一人五千円で、最遠は博多があります(確率は低いようですが)し、どの目的地でも往復分以下のお得価格になるようです。
それでサイコロと言えば、マルセイユタロットでは大アルカナナンバー1の「手品師」というカードが思い浮かぶのです。
一方、市場で普及率の高いウェイト版の大アルカナ1は「魔術師」であり、その絵柄には手品道具ではなく、魔術道具化したものが描かれています。そこにサイコロらしきものもありません。
マルセイユタロットの「手品師」はその名の通り、手品をしていると見られるため、手品道具が色々とあり、そのうちのひとつにサイコロも存在します。(ただ、サイコロかどうかが、古いマルセイユタロットではわかりづらくなっていて、サイコロとは言い切れないこともあります)
現代にリニューアルされたマルセイユタロットでは、サイコロとしてはっきり描かれているパターンがあり、特にホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットでは、出目とサイコロの数までこだわっています。
サイコロの目は、ご存じのように6つあり、通常、その対となる側を合計すると「7」になるよう設計されていて、それが三通り(「1,6」「2,5」「3,4」)あります。
出目の組み合わせも、二つのサイコロの時は21あり、もし三つあれば56通りになるということで、明らかにサイコロを、タロットの数や構成に関係させていることがわかります。(詳細は講座で語っていますし、口伝的内容なので、深くはここでは言及できません)
また、サイコロそのものは立方体であり、三次元(現実世界)とそれ以上の次元(精神や霊の次元・世界)についての考察が意図されていると予想されます。
こうしたところが、マルセイユタロットの象徴性の解読として、とても面白いところです。
ですが、今日は、そうしたものとは別の見方としてのサイコロについて、少しふれたく思います。
さきほどの、JR西日本の企画もそうですし、その元ネタみたいだと言われている、北海道から全国にも放送されたバラエティ番組で、大泉洋氏を有名にさせた「水曜どうでしょう」にも、サイコロの出目による運命任せの旅企画がありました。
そう、サイコロというものは、一種の運ゲー(運任せのゲーム)の象徴としてもあるわけです。
ということは、マルセイユタロットでは「運命の輪」とも関係するかもしれません。(事実、関係性を示す部分も見つかります)
言ってみれば、私たちの人生は、サイコロの旅をしているようなものとも言えます。
神か運命のいたずらか、何か私たちにはわからない要素で、賽が投げられ、あるイベントが発生したり、事件に遭遇したりします。
最近は、ガチャというたとえで、親さえも、まるでデタラメに割り振られる(どの親に生まれるかは、まさに運命ゲーム)うちのひとつのようにとらえられ、運がよければ恵まれた家庭環境に生まれ、よい人生の基礎が築かれるというわけです。(その反対に、運が悪ければひどい親と家庭環境に生まれ、なかなかまともに人生が歩めない)
そうした気まぐれな人生の演出の装置・象徴性として、賭博ゲームで使うサイコロがあてがわれているのも、なかなか面白いところですし、一種の皮肉のような、人生の悲哀さえ感じます。
果たして、私たちはサイコロ神(笑)にいいように操られ、悲喜こもごものサイコロ人生ゲームを味わされている存在なのでしょうか?
そういえば、今もボードゲームとして有名な「人生ゲーム」とか「モノポリー」などで、サイコロの出目次第で、本当に一喜一憂する感情を、私もかつて味わった記憶があります。
よく言われるように、スピリチュアルな話では、私たちは、その浮き沈みする感覚、感情を経験しに来ていると考える人もいます。
何が出るかわからないからこそ、人生のサイコロゲームも楽しめるということでしょうし、また出た目の数によって、体験することが違い、同じような目ばかり出す人もいれば、毎回異なる目を出す傾向の人もいて、それがまた個性となっているようにも感じます。
ここで再び、サイコロとタロットの数秘的な話に戻りますと、先述したように、サイコロの対の出目の合計数は「7」であり、それが三通りありました。
「7」というのは、ある意味、霊的な完成数、セット、ひとまとまりの段階とも言えます。その証拠に、7つの曜日(占星術的な惑星の象徴でもあります)や、音階とかチャクラの数とか、いろいろな面で、7の基本数的な要素がうかがえます。
サイコロひとつを振る時、必ず、1から6のどれかの数が(表となって)出るわけですが、その裏には、合計すると「7」になる数が隠されており、側面のふたつも、やはり合計すると「7」になる数が刻まれています。
つまり、明らかになっている表の出目の数のほかに、裏とか側面にも完成する(のための)数がいつも存在しているわけで、それは目に見えない部分とか、もっと言えば潜在意識(無自覚な意識)とか、精神や霊の領域と言えるかもしれないのです。
とすると、デタラメの運任せに現れたように見える、私たちの毎度毎度の人生ゲームも、完全なものがその裏と別の観点では隠されており、私たちは、実はいつも完全性の中でサイコロゲームを楽しんでいる(気づかず、遊んでいる、あるいは迷っている、彷徨っている)と表現できるのです。
その完全さに気づくために、マルセイユタロットはわざわざ、最初の段階である「手品師」からサイコロを用意してくれており、続くカードたちが、完全性を取り戻す(意識させる)ための示唆として、次々と現れて来るように配置されていると考えられます。
あるいは、複数以上のサイコロの場合、出目の組み合わせの数の象徴性にいきなり飛んで、その人に応じた完全性の回復のための事件・イベントを用意してくれるのかもしれません。
いずれにしても、マルセイユタロット的には、「運命の輪」を超えないと、なかなかサイコロを振っている者の存在とか、仕組みとかを理解するには難しく、つまりは完全性より、不完全性・不足性を強く意識してしまう次元に留まりやすいということになります。
サイコロの象徴性は、まだまだ色々とあるとは思いますが、ランダム的、運的な要素と、計算的、システム的な面との両方を思っていくことで、「手品師」全体に描かれている意図も見えて来るのだと思います。
そして、私たちの人生ゲームの過ごし方も、それこそ、「手品師」が「振ってくれている(振らされている)」のかもしれず、なかなか興味深いところです。
ひとつ言わせてもらえば、私たちはいまだに「イカサマ賭博」をさせられている(そのカモになっている)というヒントは出しておきましょう。(笑)
順序を踏むこと、王道を進むこと。
すでによく知られていることですが、マルセイユタロットの大アルカナの数の順番は、ある種の成長や発展を表現しています。
単純に言って、数が上がるほどに向上するという考え、捉え方です。
しかし、単純にはそういうことであっても、本当はもっと複雑であり、逆方向の数が下がる道も、衰えるとか、悪いという意味ではありません。
そこには私たちが陥りがちな、直線思考の問題があり、数直線上にゼロ地点を中心にして、左右にプラス・マイナスを見て、その違いは単に、(数の)量だけにあるとする(現代的な数の)見方になると、タロットの数の進行の本質がわからなくなります。
やはり、直線ではなく、循環とか型の繰り返し、凝縮というものを見ないとならず、要するに、図形的には円とか球、螺旋などを想定して数の進行を捉えるということになります。
そのような見方は古代(秘儀的)では普通のことであり、数の進行(巡りと表現してもよい)の見方そのもので、世界(宇宙)観も変わってくるわけです。
さしずめ、今は、先述したように、数直線的な動き方(捉え方)がメインで、だからこそ、過去・現在・未来の一方向的な時間の流れを常識として、ある地点からある地点までは、量としての距離を見るだけになって、質より量、または画一性を重視することになっていると考えられます。
さて、それでも、一応、マルセイユタロットの大アルカナの数の進行順が成長を示すという前提をもとにすると、様々なことがわかってきます。
まず、当たり前の話ですが、成長に一足飛びや近道はないということです。
前の数のタロットで示される課題・問いをマスターしないと、次(の数のタロット)には移れないわけです。これを二つ飛ばしとか、三つ飛ばしとかのジャンプをすると、それは中抜きとなって、すごろくではありませんが、必ず、元に戻されることになります。
でも、人は近道や、楽をしたい生き物です。(笑)
できれば、一気に行ける道、飛ばして行ける裏ルートがあるなら、そちらを選びたいものです。
しかし、タロットで見る限り、21枚の数の段階があり、ひとつひとつこなして行かねば、最後までたどり着けない仕組みになっています。(ちなみに数のない「愚者」は、この成長の旅をする当事者であり、私たち自身とも言えます)
ただし、何事も、抜け道とか、特別な道がまったくないというわけではありません。たいてい、何かあるものです。(苦笑)
個人的には、その特別な道は、タロットにおいてもあると見ていますが、これまたよくある話(お約束)で、そういた特殊な道というのは、それなりに危険や障壁があり、安全ではないからこそ、特別なルートになっていると推測されます。
よって、タロット的に安全でノーマルな成長の道を進みたいということであれば、やはり、数の順通りに進む(課題をこなしていく)のが望ましいと思います。
こうした王道(マルセイユタロットには、まさに「王の道」という象徴性が隠されています)は、心理系やスピリチュアル系の世界にもあてはまることだと言えます。
特に“ライトスピリチュアル”世界においては、お手軽にいいことをゲットしたい、楽に成長したいみたいに思う人が少なくありません。
それは、先述したように、人は近道や楽を求める性質があるからで、「ライト」となれば、ますますそういう風になるのも、いた仕方ないと言えます。
ですが、たぶんすでに経験している方も少なくないと思いますが、いろいろと運のよくなることとか、願いを引き寄せる方法とか、楽になる技術を学んだり、実践したりしても、なかなかよくならないというケースがあります。
そのひとつの原因は、一足飛びに効果を求めすぎている、言い換えれば、順番を無視したり、順序を逆にしたりして取り組んでいるという点があります。
先ほど述べたように、タロットの成長順の通り、ひとつひとつこなして初めて、次の段階に行けるようなものなのです。
例えば、心の中に、自分を不幸にしたり、不運にしたりするある種の考えとかデータが、自分では気づかず入っているとします。
それを消したり、変えたりしなければ、自分の中ではオートマチックにルールや行動規範として、実際に働き続けるおそれがあります。
大元や本質を無視して、小手先の技術、表面的なお手軽な方法ばかりを試していても、よくはならないのは当たり前です。
病気治療で言えば、対処療法ばかりしているようなものです。やるべき順を無視して、効果・結果だけ得ようとしても、本当にはよくなりません。(なっても一時的なもの)
「いや、でも、簡単によくなった人もいるよ」「急速に効果が出たことはあるよ」と思うこともあるかもしれませんが、この世界は個別の世界(個人それぞれで違いがある世界)なので、もちろん、そういう人もいるでしょう。
ですが、おそらくそういう人でも、実際は何らかのきちんとした手順を踏んできているのだと思います。(スピリチュアル的には、現世とか、自覚している意識・記憶だけではないところも含む)
宇宙的には、すべてルールがあり、それは次元やレベルによって異なるところがあるとは言え、どの世界においても、ルールを無視してのまったくのファンタジックな魔法はないと考えます。(魔法の世界であっても、魔法の発現と行使するルールが決まっており、その法則からはずれたものは、その世界の魔法として発動しないということ)
一気にできたと思う人も、それはそれで、検証すれば、この世界のルールからは逸脱していないはずです。(この世界のルールをたとえ超えたとしても、超えるための手順をきちんと踏んでいるということ)
まれに、偶然、あるいは突然、効果が発動したということもあり得ますが、それは手順を踏んでいたという本人の自覚がなかっただけに過ぎません。(だから、こういう偶然できてしまったことは、コントロールができないので危険でもあります)
ということで、なかなか思うように行かない人は、改善の順序に則っているか、手順をきちんと踏んでいるか、いきなりの理想を追い求めすぎて、急な効果を期待していないかなど見直すとよいでしょう。
マルセイユタロットを持っている人は、今一度、数の順に即して、自分のやっていること、目標達成等について、考えるとよいです。
高齢者の運転問題
最近、法改正されたように、高齢者の自動車運転免許の問題が再び、社会的にクローズアップされています。
実は、私の父もこの問題に直面している一人です。
父はすでに認知症と診断されたので、免許は取り消しか自主返納するしかないのですが、それまでは、車の運転には当人は自信を持ち、一生運転すると言って、家族からの返納の申し出も、まったく聞かない状態でした。
しかし、事故を起こしたことで、警察が入り、状況が変わりました。
今はようやく、なんとか車も売却し、物理的にも免許的にも運転できないことになって、少しずつ、父も理解しはじめているところです。
とは言え、認知症なので、なぜ自分が運転できなくなったのか、そのこと自体を毎日のように忘れるので、再び説明して、納得してもらわねばならないという苦労がつきまといます。
いろいろと調べますと、もっと大変な状態の親御さんもたくさんいらっしゃるようで、運転をやめさせるための、ご家族の労苦が偲ばれます。
実際、高齢者の運転問題については、当人にやめさせればいいとか、強制的に法で支配すればいいという、単純な話だけでは解決できないと考えられます。
言ってみれば、マルセイユタロットでは「戦車」の象徴性に関係する話です。
マルセイユタロットの「戦車」は、馬の乗り物(馬車)なので、現代的に解釈すると「車」とも言え、まさしく車の問題とリンクします。
次に、タロットの「戦車」は、ふたつのものという象徴がいくつか見受けられます。
特徴的なのは、二頭の馬、台についている両輪、「戦車」の人物の肩にあるふたつの顔と言ったところでしょうか。
そして、高齢者の運転問題に戻りますと、これは高齢者自身の自覚とか行動だけでは、とうてい解決できない問題と言えます。
確かに、年を取りますと誰しも、運動能力、判断力、記憶力、空間認知能力、反応速度等、車の運転に必要な能力が衰えてきます。ましてや、認知症を発症する(した)ような方ならなおさらで、運転うんぬんの以前の問題です。
そう考えますと、高齢者当人の能力的な問題(衰え、病)によって、運転しないように持って行くのは、ある意味、社会的には必然と言えます。
しかし、車がないと生活できない地域にお住まいとか、仕事で必需という人もおられます。さらに、高齢者であるからこそ、若い時のように簡単に歩いたり、他の交通機関で移動したりはできにくいのです。
体が言うことを聞かなくなってきますから、簡単に楽に移動したいのが高齢者なのです。そういう移動手段の問題が、高齢者にはあります。
ということは、当人自身の判断の問題だけではなく、社会的・物理的な移動の問題性も一緒になって解決していかないと、なかなか自主的に免許を返納したり、運転をやめようという気になったりはしにくいということです。
まさにこれが「戦車」の両輪とか、ふたつの顔みたいなものです。
加えて、別のふたつの観点を持てば。車の運転に関しても、高齢者(高齢者に限らずですが)の物質性と精神性のふたつの問題があげられます。
物質的なほうは、移動手段としての問題、精神性のほうは、楽しみとか生きがいとしての問題です。
特に後者の、精神性については、あまり言及されません。
すなわち、人はただ移動のためだけに車に乗っているのではないということです。
高齢者の中でも、田舎などに住んでいるので、移動手段として車は必須で、乗り続けるしかないという人がいる一方、都会においては、代理手段があるはずなのに、それでも運転をやめない人がいます。
後者の人は、当人とって、まさに車(に乗ること)が生きがいであり、車を運転している自分が健康で社会的であることの証明と、衰えてない自分への自負となっているのです。
こういう高齢者から車を取り上げると、認知症でなかった人でも認知症になってしまうなどの危険性があるようです。
それは、上記のように、やはり、車が当人の精神性の健康増進、生きる意欲に結びついているからだと考えられます。私の父など、まさにこのタイプと言えました。
ということで、高齢者の車の運転問題については、「戦車」ではありませんが、両輪、ふたつの顔の観点から少なくとも考えないと、なかなか解決の方向に行かないと思います。
そして、本当は、車自体が生きがいという人は少数で、車を運転して向かう先のもの(移動しての先にあるもの)が、本当の当人の生きがい(趣味の場所とか、人間関係など)であるケース、あるいは運転していることへの自己評価、自信(誤解ではあるのですが)などがあると推察されます。
さにに言えば、昔は宗教(お寺など)と地域で補完しあっていた高齢(衰えや死)への準備と言いますか、精神的な助けとか備えがあったところに、現代はそういった機能がほぼなくなり、一人一人孤独であったり、せいぜい身内による関わりくらいであったりという状況が多くなってきたことも、遠因としてあると思います。
年を取ると、できなくなることが多くなるのが当然ですが、それが忘れられ、現代の便利なモノの生活に慣れて、高齢者が心身の状態の変化を(病気以外で)認識することが、少なくなっているという事態です。
まあ、昔は、心身が衰える前に、亡くなる人が大半でしたので、問題が起きる前に済んでいたという実情もあるでしょう。
けれども今では、医学や便利な道具の発達とともに、逆に問題があとになって起きることになって、社会問題化していると想像できます。
高齢者の運転問題の解決に向けては、なかなか難しいですが、これまで述べたことを整理しますと、
●運動性、認知性、判断性などの検査問題(一斉的なチェックの設定、年齢制限等)
●移動性の問題(気軽かつ、簡単、経済的にも負担にならない交通手段の確保)
●精神性、生きがいの問題(車以外の楽しさ、車で移動しなくても生きがいの持てる生活)
●準備性の問題(体力や機能の衰え、欠落してくことへの備え、車が運転できない生活へのイメージと備え)
を検討していくことが必要かと、「戦車」的に思います。
少子高齢化と言われる現代、車の運転問題だけではなく、これから様々なことが表面化してくるでしょう。
何事も、自分自身が当事者にならないと、現実感が出ないかもしれませんが、問題の直面性というのはそういうものであり、当事者以外は他人事です。
また別の機会に書きますが、それでもいいのです。
経験する当事者の問題性が、ひとつのデータとか社会への提議になり、仮に自分がその問題と向き合うようになった場合には、当事者の方の経験とデータが役に立つからです。
やはり、時代は助け合い、マルセイユタロットでは「節制」に象徴される世界に移行することが大事だと思います。
自分の支配とコントロール、「力」のカードから。
私たち自身の存在について考えてみますと、面白いことがわかります。
まず、一人一人、自分がいる(一人の自分として存在している)と誰しも思っているでしょう。(仮想現実とか、スピリチュアル的な話とか用いだしますと、存在も幻という話もありますが)
次に、言わば、「役割」や「関係性」として見ますと、必ずしも一人の自分という存在とは限らないということにも気がつきます。
つまり、自分にもいろいろな顔があるということです。換言すれば、たくさんのパーソナリティを持ち、自分は複数いる(存在している)とも言えるわけです。
一人なのに複数、複数なのに一人という奇妙な存在性です。(笑)
まあですが、本質と仮のようなことで考えれば、常識的にも理解はできます。
今日は、その本質と仮の違いとは何かとか、本質の自分とは?みたいな話ではありません。(苦笑) それはそれで興味深いテーマなのですが、それは別の機会にするとします。
本日は「仮」のほうがテーマと言え、それは関係性、タロットカードで言えば「力」にまつわる話です。
マルセイユタロットの「力」のカードの図像を見てみますと、ライオンを女性が制御している姿があります。
女性が大人の雄ライオン(たてがみがありますので)を生身で抑えているとは、すごいですね。
もちろん、ライオンや女性には、特別な象徴性の意味があり、単に女の人とか動物のライオンそのままを示しているのではありません。
例えば、タロットを知らない人でも、ライオンというものが、なにがしかの象徴性や意味合いを持っていることは、古代の文化とか伝統性などで知っている方もいるでしょう。
ですが、そういうことは自分で調べるとか、講座を受講するなどで学んでいただければよいです。
今回は、見たままから推察される、この女性とライオンの関係性を敷衍して、自分と他者(あるいは物事)との関係を考えたいというわけです。
ライオンが女性の支配下に治まっているのは、女性の力のほうが明らかに上であるか、何かのコツをつかんでいるかで、いずれにしも、ライオンは女性にはかなわない、または抵抗できないという、上下、力関係みたいなものを自覚していることになります。
飼い主とペットという関係性にも似ているかもしれません。絵柄的にサーカスの猛獣使いのようにも見えますね。(余談ですが、ホドロフスキー監督ではありませんが、サーカスの芸とか表現は、結構マルセイユタロットのものと似ているところがあるように思います、逆を言えば、サーカスは西洋的な人間模様の元型があるとも言えます)
もし、ライオンが、女性には力がない、抵抗可能と思えば、たちまちのうちに女性はやられてしまうかもしれません。
ということは、女性は意識的か、無意志的にも、ある「力」をライオンに示す必要性があるのです。
その「力」とは、いろいろな解釈ができ、本来はフランス語では「フォルス」、英語では「フォース」と呼ばれる、映画「スターウォーズ」でもおなじみの、宇宙的で、かつ、人に内在する力とも言えます。
ですが、ここでは、単純に意思とか、実際的な力になるものと見ます。“実際的な”というのは、体力とか、能力とか知力とか経済力とか、およそ“人の力”になるものです。
ただ、大事なのは、そういう物理的な目に見えるものより、最初にあげた「意思」の力ではないでしょうか。
ともあれ、女性のように、ライオンのような強いもの、侵入をしてくるもの、つまりは自分の権利やテリトリーを侵してくるものに対して、抵抗する姿勢とか、物理的な力とか、何よりも強い意思が必要だということなのです。
他者軸で生きてしまう人は、言ってみれば、ライオンに支配されてしまうようなタイプです。
実はそのほうが楽なこともあるのです。
しかしそれは、「力」のカードで言えば、「自分は、か弱き“女性”なので、“ライオン”君に任せておけばよいし、そもそもライオン君に抵抗する力もない弱い人間です」と表現しているようなものです。
(八方美人的に)優しくしていればすべて丸く収まる、あるいは、問題に対処せず、じっと耐えていることで過ぎ去る、みたいな態度を続けていると、一時的にはよくても、結局、どんどん弱みにつけ込まれ、ライオンは狂暴さを増し、自分のテリトリーに侵入してきます。ひどい時には、自分だけではなく、自分以外の大切な人・モノまで、食われることになります。
自分(と大切なもの)を愛し、守るためには、力の女性のように強くあらねばなりません。
いや、強くなくても、自分の領域が侵されないよう、自分自身がコントロールすることが重要なのです。このことが、今日のもっとも言いたいことです。
だから、繰り返しますが、自分が強くあろうと頑張る必要はありません。大切なのは、自分自身がコントロールする意思と実行性を持つということです。
相手や外側(ライオン)に支配の実行性を持たせるのではなく、できる範囲で、なるべく自分の意思と判断で決定や取り消しなどができる状態を作るわけです。
簡単に言えば、物事の主体は自分にする、自分の力を取り戻すということです。
私たちは、意外に外部に決定権を委ねてしまっている場合が結構あります。
もちろん、仕事などで、どうしても自分だけでは決められないこともありますし、最初の話に戻りますと、世の中にいる自分(パーソナリティ・仮の自分)というものは、他者との関係性でできいますので、相手あってのものであることもわかります。
それでも、相手あってのものだからこそ、力と決定権を相手(外)に全面的に渡すのではなく、自分自身で行えるように取り戻す(コントロールする)ことが大事です。
相手ではなく、自分がコントロールするのだと決めると、力関係が次第に実質的にも変わってきます。
恋愛でも、「自分のコントロール」ということを意識すると、相手に振り回されにくくなります。(まあ、惚れたものが負けと言われているように、好きの比重によって、関係性が決まってしまうこともありますが、その中でも、相手任せにしないことを少しでも心がけ、実行することがポイントです)
なお、マルセイユタロットでは、「力」のカードは11で、次の12は「吊るし」「名前のない13」と続きます。ここからすれば、関係性において、どうしようもなくなった時は、ペンド(吊るし・保留状態)と、最後は「13」として、覚悟して割り切り、切り離す(断ち切る)こともありだと言えます。要は捨てる、逃げるということです。
ライオンを、いつまでもかわいいとか、私を守ってくれるものとか、逆に、私に危害を加える、逃げられない怖いものと見てしまっては、関係性が悪い意味で癒着し、悪い状態で固定してしまうことにもなりかねません。
だから、自分のコントロールができないとなれば、最後はとにかく逃げて、関係性自体を捨てることも考えたほうがいいです。
タロットでは、名前のない「13」のあとは、救済を意味する14の「節制」が待っているのですから。
私たちの苦しむ原因のひとつは、自分の力を必要以上に外に明け渡していることにあり、そのまた反対に、全部自分で何とかできる、何とかしなければならないと過剰に思いこんでいることにあります。
本質は変わらないにしても、人との関係性で形成されるパーソナリティ(役割)は仮のものですし、自分で変えることができます。
そこに「愚者」的な自由性がある(どんな数になることもでき、どの数でもない)と見ることで、もっと楽になれるはずなのです。
