カードからの気づき

素晴らしき哉、人生!

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さて、クリスマスイブですね。クリスマスになりますと、アメリカのこの映画が話題になります。


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ずいぶん古い映画で、1947年製作です。だから白黒です。

それでも内容はすばらしく、一人の男の人生が一時どん底状態になり自殺を図ろうとするも、二級天使に助けられ、天使とともに、いかに自分の人生がすばらしいものであったかということを確認する物語となっています。

一言で言えば、「人生、捨てたものではないよ」というお話です。

私自身の話で恐縮ですが、私も何度もピンチがありました。まあ、最大のものを除くと、皆さんに比べれば大したこともないのでお話するものではありませんが、しかしながらその最大のものだけは、本当に客観的に振り返ってもキツかったです。

それは以前ここでも書きましたが、うつ病や不安神経症になって、毎日が地獄のようなイライラ感に襲われ続けたことです。

寝ている時(眠るのも睡眠薬を飲まないと無理でしたが)以外、ものすごい焦燥感とイライラが常に起こり、気が狂いそうな時間が永遠に続くかと思う、大変な苦しさでした。あまりのキツさに、自殺を図ろうとしたことは一度だけではありません。

ただこれもブログで書いたように、死ぬ勇気がなかったこと、変なスピリチュアルな知識と信仰で「自殺したら、そのままの状態が固定される」という恐怖があり、万が一にも死んでから同じ状態が続けば、それこそ本物の地獄になりますで、死にきれなかったということがあります。

そんな私でも様々な人や出来事によって救われたわけで、今曲がりなりにもこうしてタロットの講師をしています。

この映画に出てくる天使はまだ見習いです。それから「天使」なんてファンタジー、子供だまし・・・と考える人がいるかもしれません。

実は自分が苦境に陥っている時は、必死なので周囲が見えません。そのため、天使がいても気がつかないのです。

また私が思うに、天使は実際の天使としてこの世界に現れるのではなく、現実の人間か出来事として出現することが多いと感じます。

俗に「捨てる神あれば拾う神あり」と言われるものは、私たち自身や私たちと関わる実際の人や出来事であり、つきつめれば人々の「心」に存在している「神(あるい悪魔)」だと考えられます。

だからファンタジー的に天使などを想像することがなじまない人は、自分や人の良心や悪心と思えばいいかもしれません。

話が戻りますが、天使は上記の映画でもあったように、あなたを即救ってくれるような十分な能力があったり、簡単に手助けをしたりしてくれません。また奇跡的な姿や能力を見せるのでもなく、現実の人として、普通の力として現れます。

しかしながら、必ず現実にいます。ですから困難な状況にいるあなたは天使に救いを求めていいのです。天使に気付いてもらいましょう。絶望する前に、少しだけ周囲を見渡して、救ってほしい意思表示をするのです。

また、純粋な心に天使のアンテナは反応しやすいと思います。

大変になったことで人を憎んだり、自分自身を責めすぎたり、どうせ・・・私なんかというような投げやりになったり、何の努力もせず、さも当然救ってくれるかのような態度であったりすると、おそらく天使ではなく悪魔のアンテナに引っかかるのではないかと思われます。

それから本当の苦しさといえば、なりふり構っていられないものです。

かっこやプライドを気にしたり、何かにこだわったりしていては、天使は「まだ本当に苦しくはないのだな」と思い、アンテナにもキャッチされず、救えるものもの救えなくなります。

純粋にもがき苦しみ、本当に大変で救いを求める時、タロットカードでは「13」の正立になります。

逆向きではただの中途半端な逃避か、救いを求めるのではなく何かや誰かのせいにして、何か(誰か)を傷つけたり、攻撃したりすることになっています。

これではエネルギーとしては受容する方向ではなく、放出の方向になって、救いを受け取ることができなくなります。

その状態では、「13」の次の数「14」を持ち、マルセイユ版では「13」と向かい合わせになる救済の天使「節制」とは出会えないですし、「節制」の天使も気がつきません。

あなたが苦しくとも「13」の正立になった時、天使と出会い救われます。それは今からでも遅くはないのです。必ず救いがあります。

苦境にいる人はもうわかっているはずです。どうすればいいのかを。それを勇気をもって実行に移すのです。そうすれば「節制」の天使と遭遇できるでしょう。

そしてまさに映画のように、自分がこの世界で必要であること、少なくとも生きていてよいことを知ることになり、「素晴らしき哉、人生!」となっていくのです。


あなたの人生に訪れる役者たち。

あなたの過去をちょっと振り返ってみてください。


人生のシーンにおいて、当然ながらいろいろな人と関わってきたはずです。


その中にはあなたに大きな影響やインパクトを与えた人物がいるでしょう。


それは何もいい影響だけではなく、悪い意味でのインパクトも含みます。


ところが、私も最近気がついたのですが、そういう人たちは実はあるパターンをもって登場してきています。


それは、「役割が同じだけで、演じる人物が入れ替わる」という法則です。


あなたを悪く言う人、あなたを支える人、あなたを愛する人、あなたに良くも悪くも心痛をもたらせる人、あなたに変革をもたらせる人、あにたに知識を与える人など・・・それぞれ時代やシーン、人も違うのですが、本当は役割としては決まっているように感じるのです。


このことはマルセイユタロットの大アルカナを見ている時にひらめきが訪れました。


いわばタロットでいえば大アルカナ22枚の役柄に関する人物が、時を越え、場所を変え、実際の人間を変えてあなたの人生に再三登場してくるのです。


しかもおそるべきことに、ある規則や法則に基づき、自分の認識・学びに応じてレベルを変えてくるのです。


たとえばタロットでいえば、「恋人」カード(実際にあなたの恋人のこともあります)かと思えば、次は「13」(恋人だけれども苦しみや試練を与える人、片想いの人など)であったり、別の機会では「審判」(結婚して家族になる恋人)であったりするということです。


その役割が一本の柱として何かしら共通しながら、自分の意識レベルや学びに応じて「恋人」になったり、「審判」になったりするのです。


結局、みんな自分の意識を高めるための役柄を人はお互いで演じ、相互に影響を及ぼしあい、おのおのと全体の進化(進化)に寄与して、愛を拡大していくのでしょう。


ですから、今後ある強い影響を持つ人と出会っても、それはある種の学びのパターン役(演劇の役)だと認識し、その人物がどの役のパターンなのか識別して、以前の同様な役よりレベルが上がっているかどうか確認するとよいのです。


同じ役柄なのに以前よりも何かひどい人物や強烈な人物になっているとしたら、あなたのレベルが何らかの形で下がっているか、あるいはもっと変革することを要求されているのかもしれません。


こう思えば、人や人生、そして世界は何と面白いことかと感じるのです。


自分は固いと思っている人へ。

何かと固く考えがちの傾向にある人はまじめで優しいとよく言われます。


実際にそのようなお方と接してみて、やはりそうだと感じることも多かったです。


しかしながら、その一方でとても利己的なところも眠っています。


それは人一倍、自分に対して関心があるからなのです。


とはいえ、誰でも自分に関心のない人なんていないと言ってもいいくらいです。


ただそのエネルギーの向け方があまりにも自己中心になっているのですね。


そのため、「人から自分はどのように見られているのか」ということになり、逆に自信がなくおどおどしてしまったり、「人からよく見られなければならない」と思いこんだりして、緊張とプレッシャーのあまり、ぎくしゃくした行動になるのです。


その根底には過剰なる自分への関心(言い換えれば自己尊重・賞賛の飢餓感)とそれによる縛りがあります。この点で利己的(自分に関心が寄せられすぎている)と言っているのです。


ですから勘違いしないでほしいのは、利己的と言ってもいわゆるわがままとは違うということで、それどころか反対にこのようなタイプの人は人に気遣い、争いを好まず、柔和な雰囲気さえある人が多いのです。


そして、こういう人に対しては「気楽になれ」とか、「自分に自信を持て」とかアドバイスされたりしても、実はそれができないから困っているわけで、逆にそれが強いプレッシャーになることがあります。


まあ、確かにマルセイユタロットのカードでいえば「愚者」に自分がなれば固さから脱せられるわけですが、それが難しいことは当の本人がよくわかっているわけです。


そこでまったく反対に、より自分に関心をさらに抱くようにするという方法があります。


ただしその関心は「気にする」というそれまでの自分に向ける関心の方法ではなく、「自己観察」や「自己洞察」と呼ばれる類のものにします。


カードでいえば「正義」や「吊るし」でしょう。


言ってみれば自分を客観視するわけですが、このことが容易ではないのは、自分で自分を観なければならないからです。


実は神様でもおそらく自分で自分の姿を直接見ることは無理でしょう。自分を見るには自分を映し出す「鏡」が必要なのです。


鏡として便利なのは、象徴として優れた機能を有するマルセイユタロットがお勧めです。もちろん他人を自分の象徴とすることもできますし、その他いろいろな象徴ツールや方法があります。


また考え方として、自分のふるまいや行動が、本当に目的のために純粋な気持ちで行っているかどうかを確認する姿勢を持つといいでしょう。


たとえば誰かのためと思って行動していても、それは「その誰かのために役に立つ自分を、人から評価してもらいたいためにやっている」と思っている部分はないかと探査してみるのです。


ただ上記でいえば、よほどの聖人君子、悟りを開いた人、利他の心で満たされている人以外は自分が評価されたいという思いでやっている心は必ずあると思います。


ですからそれは否定されるものではなく、当たり前に人としてある感情だと思えばいいでしょう。


しかしながら、そのバランスが大切です。


人のためなのか自分のためなのかの選択をするのではなく、過剰にどちらかに傾いていないか、特に自分の(評価を得る)ためとして極端になっていないかを確認することが大事だと言っているのです。


そうやってチェックしていくと自然に客観的な自己観察となり、自分の姿を冷静に見られるようになってきます。


となれば、「まあ、そういう自分もありだな」「人として当たり前だな、私」てな感じで、過度によく見てもらおうと思う気持ちが少なくなって楽になってきます。


気がつけばゆっくりとですが、固さもとれていくことでしょう。固いことも悪くはなくて、いいことでもあると認めるのも大事です。


今回お話した内容は、カードでいえば、「正義」から「節制」に至りつつ「愚者」にもなっていくというイメージです。


この前の皆既月食にて。

もう終わって数日経過していますが、この前は皆既月食でしたね。


最近はスピリチュアルな関心が増えてきたのか、月の満ち欠けや波動に敏感な方が多くなり、こうした天体イベントは今まで以上に話題になりますね。


ちょうどその翌日に、性のスピリチュリティ・神聖さを教説されていらっしゃる夏目祭子先生が私の住んでいる地元で講義をするということで参加してきたところですが、そこでの講座に参加された皆様のお話も、この皆既月食から女性性・母性に関わるお話が多く出ておりました。


皆さんのお話をお聴きしていますと、やはりタロットカードの「」のことを私としてはイメージしてしまいます。


というより、自然に出てきたという感じです。


月のカードはマルセイユタロットでもわかりにくいカードの上位にランクされるものではありますが、一番シンプルな「感じ方」としてのリーディングが意外に忘れ去られているように思いました。


つまり言ってみれば命を育み産む母なるもの、子宮を象徴しているのですが、もっと単純にそれに抱かれるとこよなく安心できるものというイメージです。


隣には17の数を持つ「」のカードがありますが、これも同じような母性・女性性の象徴とも言えるカードです。


この違いはいろいろと説明できるのですが、ここもシンプルに観たままのイメージをとらえると、「星」は受精して授かった命を育てている母親の気持ちとすれば、「月」はまさにその子宮に中にいる胎児そのものの感覚と言ってよいでしょう。


女性性・母性を外からとらえるか、内からとらえるかです。


ということは、女性にとってはまさに自分の女性性を観ましょう(に従う、思い出す)ということになりますし、男性にとっては普段のエネルギーや方向性・論理とは反対の、ゆだねるような、任せるような感覚を重視しましょうということになります。


それを出すのか内に貯めるのか、表現するのか感じる・味わうかの違いで「星」と「月」に分かれるとも考えられます。


ところで皆既月食ならではの面白い現象があります。それは月が隠れてしまって、逆に星が輝きを増すように見えるということです。


これをどう解釈するかは皆さん自身考えてみてください。マルセイユタロットでは、数の順番に並べると「星」の次に「月」が来て、「月」にある顔の視線は「星」を見ていることになります。


皆既月食ではさらに月が隠れたあとに再び月が普段以上の輝きを取り戻します。月の輝きも本来は太陽の光を受けているものです。


ここから死と再生、星、月、太陽のつながりを感じることができるでしょう。いわばそのままマルセイユタロットカードの数の並びになっているのです。



ところで、私はもうひとつ言いたいことがあります。


今回の皆既月食、スピリチュアルイベントとして楽しんだり、霊的な意味を見いだそうとされたりしたのもよいのですが、その前に、この時期が3.11からちょうど9ヶ月経過していたことを思い出しておくことも重要だったと感じます。


月での願望実現やスピリチュアル関心も悪いとはいいませんが、あれからもう、そしてまだ9ヶ月であり、その中で私たちはすでに忘れてしまっていることはないかを確認する意味で月(歳月です)を見たほうがいい場合もまだあると思うのです。


シンプルで複雑なストーリーを楽しむようになりましょう。

私はもともと物語を読んだり、自分で物語を創作したりするのが好きだったので、以前シナリオの勉強をしていたこともあります。


実はあるシナリオの通信教育も受けたことがあるのですが、その添削があまりにひどかったので、結局途中で辞めてしまいました。(笑)


あ、添削といっても自分で書いたものがひどく言われたからではないのですよ。逆です。結構ほめられたのですが、添削者自身が私の意図する仕掛けや掛詞、伏線に気がついていなかったので、がっくりしたわけです。


たぶん先生ではなく卒業生や上の生徒さんが添削していたのでしょうね。私も今となってはもっと謙虚に辛抱して学ぶべきだったなあ・・・とは反省はしています。若くて傲慢になっていたのですね。きっとたとえ生徒さんの添削だったとしても、ド素人の私よりわかっているところはあるはずで、私自身の学びには必ず役立っていたと思えるからです。


それはともかく、そんなわけで私は「ストーリー」というものに自然注目する体質となっています。


それで思うのですが、いわゆる単純なストーリーというのは、たいてい二元のわかりやすい争いになっています。例を挙げれば正義の味方が悪者を懲らしめるという勧善懲悪のストーリーです。


これはいわば低レベルの話です。誰が見てもいい人、誰が見ても悪い人の戦い・争いなんというものは何の面白みもありません。結果も予想できますし、そこに葛藤がひとつ(正しいか正しくないか)しかないからです。


ただ、よいところもあります。誰が見てもわかりやすい、理解しやすいという点で、時にはスカッとした気持ちにもなります。おそらく世界共通でわかってもらえる話となるでしょう。


ものすごくヒットする映画やストーリーの骨子は、実はこういう単純な二元の争いであることが多いのです。理由は先述した通り、誰が見てもわかりやすいからです。全体的だということですね。


二元といえば精神世界では陰陽とか、女性性・男性性とかふたつの相反するエネルギーを想起させます。


ひとつの完全・究極があるとすれば、そこからふたつに分かれた「見方」をすれば二元になります。ただし、これは二つに分かれたのではなく、あくまでひとつをふたつの性質でとらえるとそうなるということです。


実は陰の中にも陽があり、陽の中にも陰があって、二元は4つにも8つにも無限に分かれていきます。タロットにもある西洋の二元から四大元素の考え方もそれです。


この構造こそが世界の実体であると見るので、当然ながら単純な光と影、善と悪というようなくっきり二つに分かれるという発想にはなりえません。


それらが入り交じり、循環し、合一することに真の意味を見るのです。


従って、実体に近づくストーリー・物語というのは、全体としてシンプルにも見えながら個別では複雑でなければなりません。


善人のようでいて悪人、悪人のようでいて善人、悪をしているようで善にも見える、善のようでいてそれは悪のようにも見えるということを、難解なものではなく見せていくと魅力ある物語になります。


たとえていえば、物語全体としてはシンプルに「愛」をテーマにしており、しかながらその愛の表現は置かれている立場、環境、思い、信念、大きさなどによって人(登場人物)によってはまったく違うものに考えている、表されているというストーリーです。


ですから観客によっては悪にも善にもそれぞれの人物で見えてくるということになります。


こういう風にしてタロットも人生もとらえてくると、設定やシナリオが練られている物語が面白いように、あなたの見ている世界や人生もとても面白いものになってくるのです。


単純な二元で見ている限り、スカッとしたものを求める(つまりは快楽を求める)ことになるか、吉凶(いいか悪いか)で見る人生を生きることになります。


そういう人は「大衆」として操つりやすいように、自分で生きるのではなく、人からの刺激でコントロールされやすい人になって、まさに他人の人生を歩まされることになるのです。


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