カードからの気づき
いつも時間がギリギリになってしまう人に。
マルセイユタロットの「女帝」と「運命の輪」を見ていますと、知っている、ある人物の特徴が浮かんできました。
その人はいつも「時間がギリギリになってしまう」とぼやいている人です。
この方によると、一応約束の時間や行動の予定時間はわかっていて意識はしているようなのですが、気がつくと時間の余裕がなくなってしまい、バタバタして遅刻寸前になるのが常だということでした。
要は時間の使い方が悪いのですが、この人の場合は、予定時間から逆算して予測しながら行動を進めていくということが苦手なのだと感じました。
これがいわば「女帝」の問題と関わってくるのです。
「女帝」は詳しくは述べませんが、簡単にいえば予測が立てられる人です。
なぜならば創造することが彼女の特徴でもあるからです。創造するということは、未来やまだ現れていないものを、(しゃれではありませんが(^^;))、想像することができるということになります。
つまり、イメージの世界ではもう創造がかなっているのです。
この「女帝」の特質をうまく使いこなしている人は、たとえばまだ来ていない約束の時間があっても、そこから逆算して、環境・条件などを考慮しつつ、自分の行動をその時間までに予測する(創造する)ことができるのです。
ですからきちんと時間通りに余裕をもって到着することができます。
もちろんイメージ(創造・想像した自分の行動)と現実は違うこともありますから、列車の遅れなど突発的なアクシデントが発生すると、実際とはずれることもあります。
しかし、おおむね「女帝」がよく機能している人は時間コントロールもうまく行くはずです。
けれども創造・クリエイトすることが得意だったり好きだったりするのに、時間の問題はうまく行かない人もいます。
それはほかのカード、「運命の輪」も併せて考えてみるとよいでしょう。「運命の輪」はその回転から時間も象徴します。一口に「時間」と言っても、実はいろいろな時間が存在しています。
「女帝」(予測・創造)がたとえうまく言っても時間コントロールに支障を来すのは、そのイメージした自分の感覚の時間と実際の時間がずれているからなのです。
自分の思っている動きの時間と、実際に流れている時間の感覚が異なっているため、たとえば「この支度をするのには私は30分でできる」と思っていても、実際には一時間かかってしまったということになるのです。
これは情景としてのイメージと予測はできてはいても、その時間(の流れ・感覚)を合わせることはできていなかったと言えます。
クロノス時間(時計の実時間)とカイロス時間(個人の感覚時間)の不一致と言ってもよいでしょう。
私はこのふたつの時間の違いは実は空間も関わっていると思っているのですが、それはまた別の話とします。
とにかく、ただ予測するだけではなく、自分の感覚としての時間も注意して実際に合わせていくということもやってはじめて物事における実際の時間をコントロールすることに近づいてくると思われます。
遅刻常習犯の人、間に合うと思っているのにいつもギリギリになってしまう人、時間に操られているように感じている人などは、目的時間からの逆算によるイメージ予測と、感覚と実の時間を合わせるということを念頭に置かれるとよいでしょう。
頭をからっぽにすること。
私は思考タイプのところがありますので、昔からいつも難しく考えてしまう傾向があります。
言ってみれば考えすぎで、頭がいっぱいの状態になっているのですね。
先日、通っている整体の先生から面白いことをされました。
「自分の頭の大きさを両手で表現してください」と言われて、手で幅を作ってみたのです。
そして先生は「自分の頭と実際に比べてみてください」と、私の手の幅を頭に誘導してくれました。
すると、かなり手の幅のほう大きかったのですね。つまり感覚として、実際に「頭が大きくなっている」と体はとらえていたのです。
考えすぎで、頭にものを詰め込んでいるかのように重く感じている証拠ですね。
「どうすればいいんですか?」と私は先生に尋ねますと、先生は「何も考えない、頭を空っぽにする時間を持つことです」とアドバイスされました。
これを聞いて私はタロットの「愚者」が思い浮かびました。
「愚者」はその名が示す通り、まさに何も考えずの楽天的な人物です。(本当は「愚者」なりの考えはありますが)
思えば「愚者」の視線は斜め上であり、頭も軽そうです。(笑)
しかし何も考えないということは実は難しいものです。瞑想でも最初はすぐにいろいろな雑念や思いが浮かんでくるのが普通です。
それでもそうした「空(から)」「真っ白」という状態を一瞬でも保つことができたのなら、それこそ頭は軽くなって判断も速くなり、行動も迷いがなくなることでしょう。
それはいわゆる「直感に従う」「感覚のよいほうを選択して正解」ということに近くなるのだと思います。
私たちは生まれてから得てきた知識、そして遺伝子に刻み込まれたものもあって、膨大な情報を蓄えている存在だと言えます。
しかしながらそれらが整理されず、頭をただたくさん使うことにより、ソフトを起動し過ぎて動きの遅くなったコンピューターのようになっているのでしょう。そうなるとまさにフリーズしかねません。
そんな状態ではうまく情報にたどりつくのも難しくなり、検索機能も悪くなって、よい情報や正しい選択を拾い上げることもできなくなります。
機能を上げたり、回復させたりするのにはやはりデリート(消去)やフォルダ整理(分類・整理)、クリーンアップなどのことが頭にも必要なのでしょう。
そうしたことでは「13」のカードもイメージできます。
「愚者」と「13」が形の上でも、意味の上でも共通する部分があるのは偶然ではありません。
ともに「無」と関係しているからです。
この二枚が活用できれば、人生はまさに無のように軽やかになり、同時に無から有を生じさせ、空(から)のようでいて空(くう・ここでは「すべてがあること」の意)といったことにつながってくると想像できます。
いわば「空白」(空っぽ・真っ白になる)ことで、あなたの次元は移行していくことになるのです。
あなたの気持ちが町でシンクロする時
たとえばつらい恋をしている時、偶然店で流れてきた曲が今の自分の気持ちを表していたりとか、大変な仕事の状況にいる時、街角の広告がまるで自分を励ますかのようなメッセージで目に飛び込んできたりというような経験は皆さんにもあると思います。
それは心理的・論理的に解釈すれば、自分の関心・注目がそのことに集中しているために、偶然の出来事でも必然のように意味づけてしまう、あるいは注目してしまうからだと考えられます。
人間の情報の入れ方は、結局のところ自分の関心による取捨選択であり、すべてのことを同時に等しい価値で入れるわけではないのです。
ということは自分にとって今関心が高いものに注目する、その関連する情報や事柄に目がいくということも当たり前であり、さらには意味づけさえも自分にとってその事柄が関係する(ように見える)からだという理由が考えられます。
これが実はシンクロ(シンクロニシティ)と呼ばれる現象のかなりの部分を占めているのではないかと思えますが、それだけでは片付けられない時間の偶然性・同時性(一緒に起こる、連続して起こること)があるため、やはりシンクロには神秘的なところは残されていると感じます。
ともあれ、シンクロについて、今回は上記の観点とは別のものを提供したいと思います。
それは「感情を味わう・深めるために起こっているシンクロがある」ということです。
私たちは社会で人と関わっている限り、様々な感情を生じさせられます。また一般的にはそれに支配されないことが推奨されます。
ただ私たちは感情が出てくるような世界にいるわけであり、それを無理に抑えたりコントロールしようとしたりするよりも逆に考えて、感情を覚えることに意味があると発想を切り替えるてみると面白いです。
私がタロットを通して(特に「月」のカードが象徴)思ったのは、感情そのものがある種のエネルギーであり、それがまた人間向上の糧として重要な要素を担っているのではないかということです。
そのためには様々な感情を味わう・体験することが必要なのです。
その意味では社会での経験がもっとも適切なのです。なぜならば一人引きこもっていても、なかなか感情の起伏は起きないからです。
特に仕事や恋愛は、いろいろな感情を経験するには非常によい場面であると言えましょう。
そしてある感情を味わっている最中に、最初に述べたような、「偶然自分の気持ちに合致している」あるいは「それを強調させるような」シンクロ的な出来事に、これもまた実際の社会の中で私たちは遭遇するのです。
このシンクロの場合は、感情の強化・固定・増幅・深化に寄与していると考えられます。
簡単にいえば感情を味わい尽くすためのさらなる舞台演出です。ドラマや映画における効果(BGMや視覚エフェクトなど)と同じです。
これによって今の自分の気持ちや体験がまさにドラマチックになるのです。
そうして感情を深く体験し、それをエネルギーにして私たちはさらに高次なる世界へ飛翔していくことができます。
問題はこれ(感情)をエネルギーとせず、ただ振り回されて毒や麻薬のようにしてしまうことです。その意味では感情のことをよく知り、コントロールする術を知らねばなりません。
その第一歩がやはり自分を見つめるということになるでしょう。
ここで述べてきたことはタロットから伝えられるメッセージであり、中でも「月」のカードが語りかけてくれたものと言ってもいいでしょう。
ですから皆さん、感情が起こることを恐れず、喜怒哀楽の波をサーフィンのように味わっていけばよいのです。
また「運命の輪」のカードを理解することも、「感情サーフィン」を楽しむことに貢献してくれるでしょう。
誕生日を祝えますか。
誕生日は皆さんどうされますか?
子ども時分や若い頃はともかく、次第に年を重ねてくると自分の誕生日を祝ってもらったり、祝うことに抵抗を感じる人もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし生まれた時の太陽のポジションに再び太陽が戻ってくる(占星術では「ソーラーリターン」と言います)のですから、自己(太陽の象徴)を意識することも強くなり、いろいろな意味で誕生日・時間とは重要な日なのです。
厳密にはその年の太陽の戻りの位置を計算すると、自分の誕生日とはずれていることもありますが、いずれにしても太陽の進行は信仰と結びつき、いわば誕生日を迎えることによって自分の新たな再生が行われると古代の人は考えていたことでしょう。
よって占いやこの一年を象徴的に見ていくという意味でも、自分の誕生日に占星術的配置の考察を行うことはもちろん、たとえばタロットなどでリーディングしても普段以上に自分にとっての示唆が濃くなることが予想されます。
またそもそも自分が生まれたことに対して、自らが喜べないということは悲しいものです。
ですから年齢に関係なく、少々恥ずかしい気持ちはあっても、誕生日は祝うことを心がけるとよいでしょう。
かくいう私自身も人を祝ったり、演出して楽しませることは好きなのですが、反対に人から祝ってもらったり、自分で祝福を与えたりするなどのことは苦手でした。今でもその気持ちは多少なりともあります。(^_^;)
昨年は四国のタロットの生徒さんたちから盛大にサプライズ的に誕生日を祝ってもらって、とても驚くと同時に結構気恥ずかしい気分でしたが、やはりうれしいものではありました。
皆さんもたとえ祝ってくれる人がいないとしても、自分で自分を祝ってみましょう。
別に人に祝い事を見せる必要はありませんから、心の中で、あるいは自分としてご褒美であったり、祝いのニュアンスが感じられたりすればよいのです。
それに形やこうでなければならないという正解はありません。
もちろん自分の愛する人や親しい仲間・友人とともに祝えるのならばそれに越したことはありません。自分の心を開いて、小さい頃にように祝ってもらうことを受け入れる気持ちも大切でしょう。
あなたの親御さんも年齢・同居・存命に関わらず、きっとあなたの誕生日を心に思っています。
場合によってはひどい親だった人もいるかもしれませんが、その親の崇高な部分の魂・神性なる部分はあなたを憎んではおらず、祝福の気持ちでいっぱいのはずなのです。(悲しくも、ほかの要因によってその神性なる部分が覆い隠されていたと考えます)
でも人だけではなく、おそらく精霊や天使、先祖の方々、亡くなったあなたとの関係者、自然・宇宙・神とよばれる存在もあなたの誕生と成長、そして今とこれからを祝福し続けています。
そうと感じられない場合は、何らかのことでアンバランスや不幸(と思う物の見方・考え方)があるのだということです。
そしてまた自分を祝えない人は人からも祝ってもらえませんし、宇宙の恩恵をエネルギーとして受けることもできにくくなると感じます。
祝いは「祝うこと・祝えること」の喜びから感謝へとつながります。
タロットカードの「太陽」や「審判」は太陽が巡ってくることも含めて、誕生日の祝福や感謝に関係しているように見えます。
どうぞあなたも誕生日はまずは自分から祝ってみてください。誕生日を素直に祝い、祝ってもらえること、それは幸せを呼ぶことにつながります。
私たちは愚か者である。
この前、郵便局にいた時、ある光景を見ました。
それはこのシーズンならではというか、年賀状を買いに来た人の話で、どうやらその人は去年の書き損じの年賀状を持参し、新しい年賀状に交換してくれと頼んでいるようでした。
この時点ですでにほとんどの人は気がついていると思いますが、それは無理な話です。
一応説明しておくと、今年(来年元日に届く)の年賀状ならば書き損じ手数料を払えば新品に交換できますが、去年のものは年賀状についている「くじ」がもう当選発表されていますので、新しく交換できることを認めてしまうと、くじの部分で不公平となるわけです。書き損じはまずはずれているくじですからね。(ですから「くじ」のない通常のはがきならばOKです)
局員は丁寧にそのことを説明していたのですが、お客さんは「民営化されたのにサービスが悪い!」と見当はずれのことで怒鳴り散らしていました。
私のように端から見ている者からすれば、このお客さんは何を怒っているのだ?といぶかしく思うでしょう。
しかし、人は結構冷静になればわかることでも、感情が入りすぎたり、先に「なになにありき」という自分の正しさを主張する姿勢で構えていたりしますと、まったく周囲から見て「愚者」となってしまうことがあります。
タロットでも「愚者」という名前を持つカードがあります。
一方、すべてにおいて完成した状態、いわば神なる人間となったのが「世界」と言われるカードです。ということはある意味、「世界」のカードは完全なる智慧を持ち、賢者中の賢者となります。(神ですから)
マルセイユタロットの教えでは、人はもともとこの「神」あるいは「神なる性質」を有した完全なる存在だと伝えられています。
それを思い出すのが「愚者」の旅でもあるのです。
私たちは自分の思いや考えによってある部分固まり、こだわり、本当の自分を観ようとしていません。
先に述べた郵便局に来たお客さんも、きっと自分の仕事や平静にいる状態の時は、理知的な判断を下していることでしょう。ところが、この場合は周囲からすれば「変わった人」「理解してない人」というように見られることになるのです。
人は元来賢者のはずです。また人生において生まれたときから様々な学びをしています。
どんな人も今は日本では義務教育が行われ、インターネットなど情報化社会の発達で、学ぶことは大量に自由にできる時代になっています。
それだけ賢くなっているはずなのです。
しかしながら、時に人は「愚者」となってしまうのは、自分の知的な部分とは別の体や精神に支配されてしまうからです。
実のところ、その部分で人は生きようとさせられているところがあります。これが目に見えない部分だけに少しやっかいです。
その状態で生き「させられている」人は奴隷と言ってもいいです。
ですがほとんどの人は自覚がないため、ある衝動やその衝動を生み出す別の体によって奴隷の人生・牢獄的な人生を歩んでいることになります。
このことに気がつき、一度リセットして進み出すと、それはまた奴隷人生にいる人(自覚や意志のない通常の惰性の人)からすれば逆に「愚か者」として見られるようになります。
タロットにおける「愚者」は、この、ほかの奴隷人生の人から見ての「愚者」の意味を原義的には含んでいると考えられます。
つまり、ソクラテスが説いたような「無知であることを自覚している者のほうが、それを知っていない者よりも智慧者である」ということに類することだと考えられます。
ということは「愚者」は愚者であって愚か者ではないということになります。
タロットカードは私たちをこの意味での「愚者」とし、神に至ることをほかのカードを通して気付いていく作業でもあるのです。
私たちを奴隷としてオートマチックに生活させてしまう人生のからくりや仕組みに気付き、そこから脱する意識的な歩みをしていくことをサポートしていくことも、タロットの目的のひとつなのです。