カードからの気づき

進むか止まるかのシンクロニシティ。

あなたにはこんな経験がありませんか?


何かをやろうとしていたのに、何か邪魔が入ったようにトラブルが起こる。


あるいは自分自身の体調が悪くなったり問題が起こったりする。


そのことは私にとって必要なはず!・・・と思いつつも、なぜか実行に移そうとする障害が生じるというような経験。


私は自分の経験もふまえて、これにはやはり意味があると考えています。


しかも何度も繰り返し起こるというのがポイントです。


単なる偶然、一度くらいならば意識にすら上ってこないでしょうが、やはり何度も起こるとなると、「何かあるのでは?」と皆さんも思うはずです。


いわゆるシンクロニシティ(偶然のような必然)としてとらえられるからです。これは目に見えない分野を見えるような形でわからせてくれるためのメッセージ形式だとも言われます。


ですから、何度も起こることは意味があると見て間違いない思います。


問題はその「意味」です。


先に述べたような「何かしようとするとブロックが入る」ということは、通常考えれば「それはしないほうがよい」というメッセージだと考えられがちです。


おそらく、ほとんどはそのメッセージだと私も思います。


しかし、もうひとつのことも考えられます。


それは「ブロック・障害」をまさに「自分のブロック」として考える見方です。


たとえば、前世的なことを信じる信じないは別として、仮にそういうものがあるとして、ここにいつも海に行ったり、誘われたりするに時に調子が悪くなったり、何か問題が起きてしまう人がいるとします。


その人がもし過去生にて海で溺れ死んだ人の記憶(情報)を何らかの形で受け継いでいるとするのなら、それがブロックとなって、現実的に海に行くことを拒否する出来事を「創造」し、その結果が実際の問題としていつも現れるということです。


これが自分だけではなく、この例でいえば一緒に海に行こうと言ってくれた人にまで問題が起こることがあります。


ですから、決して「海に行くこと」自体がその人にとって悪いことではなく、海にまつわる記憶・潜在ブロックが悪いのだということになります。


とすれば、まずはその記憶を変換したり、浄化したりすることで問題は解消されるでしょう。


あるいは「実際行ってみると何でもなかった」という新しい事実を過去の記憶の上に塗り替えていくということです。


実はタロットを習う人で、このパターンが少なからずあるように感じます。いわば魔女狩り時代の記憶と言いますか、タロットや占いをしていて不幸になる歴史の情報をもっている人です。


これは過去生だけではありません。今生でも親やパートナーから、あるいは社会生活の中で自分が身につけた思いこみ、思考・概念によってもブロックが生じます。


「占いなんてやっている人はおかしい、変な人」という思いこみが心の奥で強くあれば(教育されていれば)、当然ブロックとして現実的に習えない状況として現れてきます。それは自分の今の気持ちとは違うことがあるのでやっかいなのです。


これも解決方法は、まず記憶の浄化・クリアリングから始めるということもありますが、とにかくタロットをやってみる、習ってみるという方法もあります。


確かに習っているうちに最初は苦しいことが出てくるかもしれませんが、真摯にタロットと向き合い、タロットとともに自分を見つめ浄化していくと、ある日を境に、タロットをしている自分が楽しくなってくることに気がついてきます。


そうなれば山を乗り越えたことになりますので、本来はこのような人はタロットに向いている人なので、水を得た魚のようにタロットをしている自分が活き活きと輝いてきますし、様々な思いこみ、枠組みもはずれて自由になってくるものです。


特にマルセイユタロットは古典的であるがゆえに歴史的背景が長く、いろいろな大変なものも含まれていますので、それらとご縁のある方は最初のうちは重く感じるかもしれませんね。


でもそれだけに、よいものに転換できた時、あなたを守る強力な守護霊となってくれるでしょう。


天使と悪魔、どちらに見えるか。

タロットを観ていると、いろいろと面白いことに気がつきます。


今日もそんな話のひとつです。(って、毎日そのような話なのですが…(^_^;))


タロットは絵で描かれた図像ですので、当然何らかのがあります。


そして今、市場で流布して使用されているほとんどのタロットカードはカラーで印刷されていますので、もあって、まさにカラフルです。


その色もタロットでは大きな意味を持つわけですが、仮に色をなくして、シルエットとして形・輪郭だけを描いていくとすればどうなるでしょうか?


きっちりトレースすれば元の形が何であるのか、あるいは元の形がわからなくても、何となくは想像がつくと思います。


ところが、輪郭もぼやけた感じになってくると、境目もあいまいになってきます。


たとえばマルセイユタロットの「節制」と「悪魔」のカード。


「節制」は天使であり、「悪魔」は文字通り悪魔なのですが、黒いただのぼやけたシルエットだと両方の区別ははっきりしないかもしれません。


もしかすると「節制」が悪魔に見えたり、逆に「悪魔」が天使に見える可能性もあります。


このことは現実的にもありえることです。


どういうことかというと、自分が天使だと信じていたものが実体は悪魔であるおそれもあるということですし、その逆もありなのです。


いわば、まだ見分けがつかない未熟な段階、あるいは成長過程においては、どちらかよくわからないままの混沌が実状であるということです。


悪い面でいうと、たとえば「天使」だと自分が思っていたもの(見えていた、信じていた存在)は、同じ羽をもった異質存在の「天狗」である場合も否定できません。(苦笑)


よいことでいうと、悪魔と思っていたものは、実は自分を試し、よい方向に向かわせようとしてくれる天使だということも考えられます。


とはいえ、ここでは天使か悪魔かの見極めをつけるまで、霊的能力を高めなくてはならないというスピリチュアル的な話をしているのではありません。


あいまいなシルエットで、悪魔か天使かわからない状態をどちらかに決定させるのは、まさに自分の意識次第だということが言いたいわけです。


自分の心が天使か悪魔かを浮かび上がらせるのです。


さらには「よい悪い」と判断する(悪魔か天使かを一方的に判断する)のではなく、天使・悪魔の二面を両方同時に観ていく(糧にする)ことも大切です。


単純に「正義」と「悪」と判断するのではなく、もっと上の「天」「超越」を仮定し、そこからの視点で把握しようとする態度をもつことです。


そうすると悪魔は悪だけではなく天使であり、「正」であるかもしれず、反対に「天使」もそう見えつつも実は「悪魔」であり、「誘惑」「快楽」逃避」の幻影かもしれないと過度に一方にとらわれることがなくなってきます。


そのようなチェックやバランスを働かせる意味でも、タロットは非常に有効だと考えています。


「悪魔」は癒しにつながるのです。

タロットカードの「悪魔」が癒しとつながっているなんて、皆さんは信じられますか?


カードを見ていますと、そういうこともあることに気がついてきました。


ところで、皆さんは自分は人を癒すことができると思っていらっしゃいますか?


「私なんて癒されることはあっても、癒してあげることなんてできないです」


という方も少なくないかもしれません。


でも、人は誰でも他人を癒す能力をもっていると私は思っています。


それが表に出ているか、潜在的に眠っているかの違いだけといえます。


たとえば親となれは子供を癒すこともあるかもしれませんし、友人として相手を癒したり、恋愛関係や結婚してのパートナーとしてお互いに癒しあうこともあるでしょう。


人だけではなく、もしかすると動物や植物、自然のあらゆるものの何かひとつへは、あなたが癒していることがあるかもしれないのです。


あなた自身からだけではなく、あなたから表現された作品・言葉・文章・行動・仕事・会社・建物・商品・ファッション・・・などいろいろです。


たとえあなたが落ち込んでいたとしても、「あの人、元気なさそうだな・・・そっか、みんな何か悩み事はあるものなんだ」と慰めや癒しにつながっていることもあるかもわかりません。


とはいえ、やはり自分に癒しの力があるということは普段はわからないものです。


そのために、人は逆に癒されに行きます。特に誰か人間に癒される場合は、重要なことが起こります。


それが「悪魔」とつながってくるのです。


「悪魔」と聞けば何か悪いイメージが出ますが、タロットをフラットな見方で認識できるようになれば、「悪魔」のよい面に普通に気がついてきます。


簡単にいえば人の個性や能力に「悪魔」は関係しています。


自分が癒されに「癒す人」に会いに行くと、もちろん自分は癒されて帰ってくるわけですが、ある日を境に、その癒す人への尊敬やあこがれと同時に、自分にもできるかもしれないと思うときが来ます。


それは自分が癒されたので、ほかの自分のように困っている人を癒したいという気持ちからも生じるのですが、もっといえば、もともと潜在していた自分自身の癒しの能力(誰もが持つ力)が、癒す人によって刺激を受け、外に発現して来た、あるいは表現を求めはじめたといえるでしょう。


だから、人は癒されると自分も人を癒したくなる気持ちがさらに出てくるわけですし、今、ヒーラーや相談の仕事をしている方の中でも、きっかけは誰かに癒されたからだという人も多いと思います。


それで「悪魔」です。


「悪魔」は人に存在している個性を引き出す能力があるのです。


それは誰かにあこがれたり、魅力を抱いたりすることで、自分の中にも同等の要素があることを実感することを象徴しています。


あこがれや魅力を感じるのは、自分にもそれがあることを心は知っているからであり、自分にはないと思っていても、モデルを見ることで改めて自分の魅力・能力として発見することができるのです。


癒す人を見て、自分に癒す力があることを知る、この仕組みの間にいるのが「悪魔」です。


マルセイユタロットの教えでは人はもともと神であるというものがあります。ならば人にはどんな能力や個性も潜在しているといえます。


それに気がついていくためのツールがマルセイユタロットでもあります。


そういう意味では、自分の中の潜在能力を引き出してくれる「悪魔」は、自分が神なるための架け橋であり、通り道だといえましょう。


タロットカードが示す伝達問題の別観点。

昨日の続きの記事になります。


タロットリーディングをしていると、最初に覚えていた、あるいはつかんでいたと思われる意味からはずれて、カード自身から示唆が得られるようなことがあります。


私はずいぶんそうしたことが積み重なってきました。


もちろんじっとカードを見ていたり、感覚だけでとらえようとしたりしていてもダメです。


併せて、きちんと象徴を含め知識的なことも蓄積していく必要があります。


その中のひとつ(カード自身から得られる示唆)に、前回書いた「伝達」問題があります。


カードでいえば、「女帝」「月」「力」「皇帝」「斎王」そして、もちろん昨日もふれた「法皇」も関連します。(マルセイユタロット)


今あげたカードたちは、面白いことにペアとなるカードが含まれており、またカモワン流などで言われているタロットの絵図「タロットマンダラ」の並びにも関係してきます。


それで、そうした「伝達」問題に関する一連のカードを、何かの言葉で表すとすれば「喉」と「言葉」に関係しているカードたちであると言えましょう。(ここにあげたカード以外もあるのですが、とりあえずです)


実はほとんどの人が、言いたい言葉を自分の中に留めています


そしてそれらはお腹にたまっていることもあれば、肩のような部分に残っていることもあるのですが、やはり喉のところにひっかかりとして固まっているように感じます。


言葉を飲み込む」という表現があるように、言いたいこと、表現したいことがあっても、人は状況や性格、気遣いなどによって「言わずに」まさに「飲み込んで」しまっていることが多いのです。


これは皆さんが考えているよりも、結構いろいろなことの要因になっているものなのです。


言霊といわれるように、言葉にはエネルギーがあり、発せられなかった思いの強い自分の言葉は、飲み込んでもエネルギーとして自身の中で滞留しています。


それが心身に影響することは、おそらく皆さんもうすうす気がついていらっしゃるのではないでしょうか。


だからといって、言葉を何でも相手にぶつければいいというものではありませんが、少なくとも多くの人は言いたいことも言えずの、遠慮が過剰になっているものと推測されます。


言いたいこと、話したいことはもっと伝えたほうがいいと感じます。


本当は言いたい相手に言えばよいのでしょうが、物理的・時間的・事情として無理な場合もあります。


そんな時には、カウンセラーなど相談の専門家の方に相手になってもらうことも効果的です。


結局は感情の解放、気持ちのリリースにつながるのです。


滞留している言葉を伝えること、話すことは時に非常な癒しのパワーを発揮し、心身の問題が快方に向かうばかりか、現実的な問題でさえブロックがはずれたことにより、よい方向に変化していきます。


そして、喉のつまりを伝達によってはずしていくと、創造性やイメージさえも豊かになってきます。


おそらくこれはチャクラ的なことと関連しているとも考えられ、内なる音声はまさに内なるイメージの波動にも影響を及ぼすと想像されるからです。


このことははっきりと絵柄でマルセイユタロット(特にカモワン版)で示されています。


そして不思議なことに、先述したカードたちを見ていると、伝えたくなる、言葉を発したくなるのです。まるでカードの精霊が後押ししてくれているかのようです。


これにはコツがあるのですが、そうしたことはまたタロット講座でお伝えできればと思います。




欲求をかなえて人類全体に寄与する。

「愚者」と「悪魔」を見ていて感じたことを書きたいと思います。


私たちは心にさまざまな欲求を抱えて生きています。


言葉としては、「感じたい」「味わいたい」「経験したい」「体験したい」「楽しみたい」・・・などと様々に表現できるものです。


これだけ情報の多い今の社会では、自分でも意識していなかった欲求(ニーズ)を刺激されることがあります。


物を売る商売などでは、この刺激を意図的にしていると言ってもいいくらいです。


時には欲求がないのに、あたかもあるように思わせる錯覚を起こさせることさえあります。


ただ今日はそのことを述べるのが目的ではありません。


むしろ欲求を刺激されることはよいこともあるという観点で話をします。


このように常に欲求刺激にさられさている私たちではあるのですが、欲求は言ってみれば満たされていない不満足感でもあります。


輪廻転生説や、多くの人の意識が過去・現在・未来に複合されて一人の魂に記憶として刻印されているという説を採れば、それだけ人類の欲求が一人一人に記憶されているとも考えられます。


実は心理的にも、人はある程度欲求が満たされないと高い目標や次元に進もうとしない、あるいは進めないことを言われることがあります。


満たされない不満足感がくすぶり、低次の段階に自分が留まってしまうのですね。


これを先の人類全体(の記憶)に当てはめるとすれば、一人一人が自分の欲求を満たすことによって、全体としても次元が上がっていく可能性が高まるということになります。


そこで、くすぶっていた人類の集合的な意識による欲求があぶり出されると考えれば、欲求を刺激されることも決して悪いことではないと思えてきます。


また現代はよいことに、交通機関も情報もすばらしく発達し、行きたいと自分が思えばたいていはその場所へ行ける時代にもなりましたし、体験したいことがあれば、昔とは違い、格段にあらゆることが簡単に体験できる世の中になっています。


遠い昔のあなたが、「鳥のように空を飛んで上から町を見たかった」と思いながらも時代的に叶わずの記憶が、今のあなたなら飛行機に乗って見ることが可能になって欲求を満たしていると言えます。


とすれば、かなりの過去のカルマ的欲求は減少していっているとも推測できます。全体の魂が軽くなっている可能性もありますね。


だからといって欲求のために好き勝手していいというわけではなく、広い視点から見れば、自分の欲求を満たすことで、他人や大勢の欲求をかなえることに害していたのなら、むしろその人はマイナスをしていることになります。


ですから逆に、全体から見てプラスになる自分の欲求をかなえることは、どんどん積極的にしていけばよいのではないかと思います。


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