カードからの気づき

学びと実践をタロットで考える

よく机上の空論と言われるように、実践の伴わない理論というのは空虚なものです。


でも、実践ばかりして、とにかく「なせばなる」と言って根性論みたいに学習しないのも問題です。


こうやって書くと、「はは、そりゃそうだよね」と、さも自分はどちらもバランスよくやっているかのような印象を抱いてしまいますが、意外に私たちはこのどちらかに傾いていることは多いものです。


それで、改めて学びと実践ということをタロット的に考えてみたいと思います。


さて、学び・学習とはいったい何をしていると思いますか?


いや、だから勉強しているんでしょ、 と答えればその通りなのですが(笑)、その意味について問うているのです。


先述の学びと実践という観点で分析すれば、学習はモデルや理念を自分の中に構築する作業をしていると言えます。


いわば物事には設計図があることを知り、そのイメージと書き方を学んでいると言い換えることができるでしょう。


設計図はモデルや型(パターン)でもあります。万人に理解できるように一般化したもの、抽象化したものと言ってもいいでしょう。


そして実践とはその一般化されたものの個性化と具体化、応用を行っていると考えられます。


つまり設計図で書いたものを実際に具現化することを行っているのです。


その過程では、当然、設計図(理念・モデル・型)通りには行かないことはあるものです。それが応用であり、ケースバイケースといわれる個性の発揮となります。(マルセイユタロットでは「手品師」でよく表されています)


実はこれは逆の方向でも考察でき、実践から一般理論を抽出することも可能になります。


言ってみれば学びと実践は抽象・一般化と具体・個性化のひとつの現れ、表現なのです。


「こういう理論を学んだ」ので(学び)、それを使ってみて「実際うまく行くか試してみる」(実践)というようなことであり、反対に「こういうことがあった」(実践)ので、「こういう理論が考えられる」(学び)ともなるものです。


これはマルセイユタロットでいえば「女帝」と「皇帝」のペアでも考えられますし、大アルカナでは数の多いカードと小さいカードとの関連でも当てはめることができます。またタロット全体としては大アルカナと小アルカナの関係とも共通するところなのです。


今、何気なくタロットで例えましたが、ひとつではなく複層的にタロットでは例えられていることに注目してください。


ここがタロットの構造としてのすごいところなのです。(意味がわからない人は、私の講座で確認するとよいでしょう)


さてタロットリーディングについても、学びと実践のバランスは大切です。


私の知り合いで心理学の理論を学び、心理の教壇にも立っていた人物で、それでも人々の悩みは心理学(理論)だけでは対応できないと、とある占いの実践の場で人々の相談に当たっている人がいます。彼です。


彼などはまさに理論と実践のバランスが取れている人、あるいは取ろうと努力されている人と言ってもよいのではないかと思います。ちなみに彼はマルセイユタロットも深く学ばれている人でもあります。


皆さんも何事であれ、実践と学び(理論)のバランスは常に考慮しながら進めて行かれるとよいでしょう。


星と世界 私たちは宇宙人か。

この前、少し講義まで時間がありましたのでスタバに入って講義のイメージングをしたり、手を放してボーとしたりしておりました。


するとふいに、「どうして人っておよそ自分の考えとは違う人が結構いたりするのだろう?」という素朴な疑問が浮かんできました。


もちろんそもそも性別の違い、年齢、国籍、育った環境など人はまさに様々であり、そこから生み出される価値観の相違によると言ってしまえば片が付くわけです。


しかしそうしたものとは別に、よく観察しますと「類は友を呼ぶ」と申しますか、似たような価値観や人間性、好みで人はまたグループを形成しているように思えます。


そしてそのグループにおいては、明文化はされていませんが、あるルールや規則が存在しているように思えます。


さらにいえば、そのルールや規則のようなものは、他のグループにはまったく通じないと言いますか、相容れないものとなっています。


地球という星の中で細かく国に分かれてその国別に独自の法律やルール・習慣があるように、私たちの世界にはある種の目に見えないグルーピングがあり、そのグループにおいて適用されるルールがあると想像できます。


そのグループとはいったい何なのだろう?と再び私は考えました。(「同じ価値観で結ばれたもの」といえばこれもそれまでですが・・・)


で、何気なくタロットをイメージしてみますと、頭に「」が浮かんできました。そういえばここはスターバックスです。スタバのシンボルとタロットの「星」は共通するところがあります。


さらに天上を見上げるとライトが17個(タロットの「星」のカードの持つ数)ありました。極めつけに、スマホに入れているマルセイユタロットアプリでタロットを引いてみると、出てきたカードは「星」でした。


こうなると「星」が何かを示しているのは明らかです。


星・・・「そうか!」と私はある発想を得ました。


よくスピリチュアルな世界では言われていることがあります。


それは私たちは地球人でもありますが、それぞれある特別な星(星団や銀河、星系)と関係し、そこから転生もしてくると考えられているものです。


先述したグループをそれぞれある星に関係した人のグループだと見れば謎が解けてきます。


おのおのの星々では精神や文化の発展度合いも違い、様々に常識価値観も異なっていると見ます。


つまりはその星の人間性・価値観の魂をもった人が地球に同時に集まっているのだと想定してみるのです。


そうすると、まるで仏教の六道輪廻の世界の住人が、一緒(同時)に人の姿をして存在している世界が地球のようなものとなってきます。


レベルがまちまちのまま、一緒くたに生活しているようなものです。しかし、やはりその中でも同じ星の匂いをかぎつけるのか、類友法則のように同種のレベルでグルーピングがされていくようです。


そして私たちの国ごとでも正義が異なるように、その星で正義とされていること、常識と思われていることでも他のレベルの星から見れば、不正義、非常識となるでしょう。


ほかにもある星では楽しいこと・知的なものと思われているものでも、別の星ではもう卒業したこと、野蛮なものと映ることもあるかもしれません。


こうして考えると、地球は決して共通のルールで動いているわけではなく、また同じ規則で裁かれるわけではないのかもしれません。


従ってある人が悪いことしているのになぜか見逃されているように見えるのは、行為がその悪い人のレベルの星のルールからするとOKではあるけれども、見逃されていると思う人の星のルールでは裁かれるべき性質のものなので、そう感じてしまうと考えることもできるのです。


なぜか私たちの地球では、地球に住む人間としての実際ルール(明文化されている法律や規則など)以外では、そのグループともいえる星のルールがそれぞれ適用されるみたいです。(笑)


なんて理不尽な!と怒る人もいるかもしれませんが、考えてみればそうした一緒くたの世界(笑)という非常に希有な時空間に生きているのが私たちでもあると言えます。


魂の成長の面でみれば、ある意味ラッキーなことなのかもしれません。なかなかそうした複層的価値観が同居する世界を経験することはまれでしょうから。


こうして考えると、「星」のカード以外にも私には「世界」のカードがイメージされます。「世界」のリーフの意味も今までとは別の意味でわかってきたような気がします。


まあ、このような世界に生きるということは、楽しみながら学ぶ気持ちで、多様な世界観と価値観を認めていくことが楽になる秘訣なのかもしれませんね。


あなたはすでに知っているのです。

マルセイユタロットの大アルカナを22枚を数の順番に並べたものを、カモワン流では「タロットマンダラ」と称されていましたし、ほかの文献などでもこの並べ方は自己の洞察・成長装置として見られるものです。


その全体図から得られた示唆をひとつご紹介します。


マルセイユタロットのある教えのひとつには、人は神性(神なる性質)を持つ存在だというのがあります。


すなわち私たちはもともと神(完全)であったということです。


しかしそのことを忘れ、地上に降り、肉体をもって転生を繰り返しながら神であることを思い出していくというのがこの教えの核にあります。(転生せずとも済む方法がタロットにより伝えられているとも言えます)


実際には難しいことではあるのですが、これをもう少し現実的な意味に適用してみると興味深いことがわかってきます。


私たちはもともと神であったという前提は、言ってみれば「何でも知っている」「何でもできる存在」だということになります。


しかし現実にはそうではありませんよね。


そのため、この世界ではどうしているのかといえば、たくさんの人・考えを個人個人が持つことによってカバーしあっていると考えてみてはどうでしょうか。


一人が完全に自分(神である自分)のことを思い出せればいいのですが、それが困難なので、多数によって全体に近づけるという考え方・方法です。


たとえば私たちはそれぞれ経験とその経験から感じること、学ぶことは人によって違います。またある人は数学の知識や技術があり、ほかの人は料理が得意という人もいます。


しかし、おそらく全世界の人の経験と知識、感情、行動などすべて合わせると、神に匹敵するほどの全知全能に近くなるのではないでしょうか。


そして私たちは知らないことは知っているほかの誰から学ぶことができます。


「知っていること・学んだこと」=「思い出したこと」と言い換えてもよいかもしれません。


こうしてたくさんの人と関係しあい、自分は少しずつ「思い出していく」のです、そう「神」であることを。


できないこと、知らないことを恥じる必要はありません。もともとあなたは神であり、知っているのであり、可能であり、もっているのですから。


ただそれを忘れているだけです。何もせず、忘れたままにしておくほうが恥ずかしいです。そのために思い出させてくれる人が、あなたの周囲に五万といるわけです。


インターネットなどがさらにそれを加速してくれているように感じます。ということは皆が悟りを得たり、神になったりする(すべて思い出す)日も近いかもしれません。


あ、そうそう、タロットでは神の世界には「悪魔」がいますので、まずは悪魔と遭遇したり、悪魔になってしまったりする人も出てくるかもしれませんね。注意しましょう。(笑)


「世界」のカードから理想世界を見る。

これは逃避の発想とつながる危険性があるので、強くは言いませんが、自分の問題というものが実は周囲との波動との違いによって起こっていることもあると想像しています。


タロットカード(マルセイユ版)でいえば、「世界」の逆の解釈の違いということになります。


よく精神世界やスピリチュアルなことを探究している人の間では、「問題はすべて自分にある」と言われることが多いようです。


それは究極的にはそうかもしれません。


しかしこの世は実際にいろいろな人が現実的に関係し合い、様々な想念も飛び交う世界です。


これを自分一人の問題や責任として考えていくと、自分を追いつめることにもなりかねません


現在、ニートや引きこもりの人、あるいは社会にうまく適応できない人が増えてきていると言われています。


その場合、だいたいはそのような人たちを「問題」ある人ととらえ、そうなっていない人は問題なし、正常だと考えます。


しかし果たして本当にそうでしょうか。


もし反対に彼らが正常であり、私たちが異常として想定するならば、私たちの社会・世界がどこかおかしなくなっていると考えられます。


その抵抗や反応として引きこもりになったり、社会に適応していないように見えていたりするだけかもしれないのです。


たとえば極端な話、「正直であることがよい」と考えている人が、あるグループに入った時、そのグループが詐欺集団であったならばどうでしょうか。


詐欺集団としてのグループの論理が正義としてとらえられることがあるので、その場合、正直者はまさにバカを見て、悪人だともみさなれ、グループから逸脱した不適応者だと烙印を押されるかもしれないのです。


正義という観点で見れば、何であろうと立場が変わればその正義はコロコロと変わり、人の正しさも相対的なものになってしまうわけですが、これを次元の成長、宇宙的な真理でみればそうとは言い切れなくなります。


先述した例では正直がダメで詐欺がよいということは私たちの通常のレベルではまず考えられないでしょうし、普通はその逆をノーマルで正常だと取ります。これはやはり人としての成長・真理的なものに近いものだと思います。


これと同様に、社会でうまく生きられない人はもしかすると、どこかある面では進歩しているかもしれないのです。


少なくともこれは言えます。


それは「世界のバラエティさ(多様さ)を許容できる世界に私たちはまだ発展していない」と。


もちろん今の社会に不適応になっている人を少しずつ適応させていくサポートや、本人たちの努力も一方では求められることもあります。


しかし大きな視点で見ると、通常と見える私たち自体が変わらなければならないこともあると予想されます。


いわば不適応になっている人が自ら進んで社会に適応していく社会や世界になっていればいいわけです。


また正常と見えた私たちのほうでさえ、いつ不適応者となるかもわからないのですから、やはり世界の許容量の拡大は必要でしょう。それは逆に私達一人一人の個人の意識の拡大が鍵かもしれません。


それが究極的に進めば、どんな人も受けいれられ充実した人生が過ごせるシステムのある世界となるでしょう。


最初に出したタロットカードの「世界」、これは4つの生き物に囲まれている人物を描いています。


「世界」のカードを逆向きで見ると、中央の人物を私たちは四面楚歌のように孤立しているように思いますが、実は周囲の生き物が真ん中のレベルに追いついていないことも考えられるのです。(逆位置解釈の場合)


すべての人が有機的に活かしあい、それぞれの個性と役割をもって全体性に貢献していくような形、それが「世界」の正立状態だとも言えます。


それが私たち個人の成長に関係しているということが、まさに「世界」のカードからも理解できるのです。


削りつくすと見えてくるもの。

さらっと書きますが、5月連休前にご紹介した高野山の結縁潅頂という儀式、10月1日~3日にもありますので、興味のある方は行かれてみてください。タロットでいえば「隠者」や「13」のイニシエーションが味わえるかもしれません。


さて、その「13」なのですが、ほかのカードでは死神などいう恐ろしい名前をつけられて、結構嫌われているカードではありますが、このブログでは何度もお伝えしてまいすように、決して一般的なイメージでの死神という存在ではありません。


「13」はマルセイユタロットにおいては名前がなく、数の13しか上の欄には書かれていません。(下のカードの名前が入る部分がそもそもないのです)


マルセイユタロットのひとつのとらえ方・考え方としては、大アルカナに描かれてるものはすべて自分自身の象徴だというものがあります。


それを適用すれば「13」もまた自分なのです。


もちろんいつもいつもというわけではなく、時と場合によって「13」が現れるということです。


「13」はいったい何をしているのでしょうか?


大きな鎌を持ち、自らは骨と皮だけのような姿になっています。言ってみればそぎ落としです。


そぎ落とすとどうなるのでしょうか? 何でもそうですが、削っていくイメージを抱いてみてください。


体積はどんどん少なく小さくなっていきますよね。果物だったら最後はだけ残るような印象です。


種とは何でしょう? とても小さく、見てくれさえも悪いかもしれませんが、そこにはすべての可能性が詰まっています。


大地にまけば再び芽を出し、花を咲かせ、果実を実らせるかもしれないのです。


つまりは凝縮されたエッセンスであり、見方を変えれば本質だとも言えます。


自分自身を削りに削り、行き着く先は本当の自分の核であり、心というよりに近いものかもしれません。


これだけは譲れない、あるいはどんなことがあってもこれが自分だと言えるもの、それを見つけるための作業が「13」だとも言えます。(もちろんほかの意味も「13」には数々込められています)


けれども意外に通常時には自分の核・コアのようなものは見つけにくいものです。


やはり厳しい環境に置かれたり、ギリギリの状況に追いつめられたりした時、真の自分の姿、隠された能力も出てくると言えます。


「13」の作業を行う限りにおいて、何もない(何も出てこない)ということはありません。必ずあなたに確かなものが出てきますし、形として見えにくくても大きな収穫があります。


これに気がついた時(真の自分、コア・核の発見)、実は「審判」のカードと関連するようなことが起きます。


またその前提として「恋人」カードに象徴されることが「13」の前に生じることもあります。


それは言葉では表現しにくいのですが、自分の生きる意味とか天命・使命生き甲斐のようなものが見えてくる感覚と言っていいかもしれません。


人生で起こるつらいこと、苦しいこと、大変なことというのは、いわば「13」の鎌の作業をしている(させられている)と想像できます。


それは自分を磨き(単に削っているのではなく、研磨しているのです)、自分本来の輝きや本質を見い出そうとする過程です。


「13」の絵柄が示すように、それは遠くや別のところにあるのではなく、今の自分や場所にあるのです。しかし鎌をもって作業にとりかからねば発見できないものでもあります。


あなたの本質を「13」とともに見つけていきましょう。


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