カードからの気づき
「隠者」から敬老を思う。
今日は敬老の日ですね。
タロットカード(マルセイユ版)でお年を召した方をイメージするとすれば、やはり「隠者」が一番浮かびやすいでしょうか。
「隠者」はその風貌からしてまるで森の木と同化してしまっているかのように目立たない存在ですが、その奥には長年修行して蓄積された知識・智慧が存在しています。
私たちも年を経ればそれなりに知恵がつきます。
全員が全員、年さえ取れば賢くなるのかといえばそうではないと皆さんは思われることでしょう。
しかし、よく自分自身に照らして考えてみればわかってくることがあります。
昨日より今日、昨年より今年、20年前より10年前・・・など冷静に振り返ってみれば、やはり「あの時はまだ何もわかっていなかった」と実感がわくことでしょう。
反対に「何も変わってない」という部分があるのも確かで、自分に厳しい人は「成長なんかしていない」と思う人もいらっしゃるかもしれません。
それでも、おそらく確実に今のあなたは過去のあなたよりも知見は広がっているはずです。
なぜならば人としての成長度を無視したとしても、生きている分、何かを見て経験してきたわけなのですから。
このように、私たちは年齢を積み重ね、生きていくだけで拡大していく宿命を背負っているともいえますし、何もしなくても変化させられる生き物だといえます。
ということは、人生は拡大・増加の旅と表現できます。ただ増加した分、減少するのもあります。肉体の機敏さ、頑強さ、毛髪、張り(笑)などです。
しかしながら、思えば失うのはほとんど肉体に関することばかりです。心の方は精神の柔軟性を失う人もいますが、逆に年を取ってから自由性を増す人もいます。
ですから肉体は衰えても、精神はいくらでも自由に飛翔させることができますし、逆にいえば「肉体の不自由さがあるからこそ、精神の柔軟性を持つ必要がある」(そう鍛えさせられている)と考えられます。
そうでなければ、肉体の大変さを感じてつらくなるばかりだからです。
よって、年齢を重ねるにつれ行わなければならない重要なことは、こだわりを持つことではなく、反対に心を柔らかく解放していくことになります。
その意味ではタロットを学ぶことはとてもよい刺激になりますし、頭脳を柔軟にさせる働きがあります。
それから年を取ることで重要な点がもうひとつあります。
長い時を経るということは、時間による緩衝材を持つということです。
ですから過去のことを考える時に間接的になり、より客観視できるということになります。昔のことに別の意味や価値を見いだすことができるのです。
「何でもあり」の姿勢くらいに柔らかく、好奇心をもって素敵に年を重ねて行きましょう。
「13」の無我夢中
マルセイユタロットのカードの「13」を見ていますと思うことがあります。
一般的に見て、このカードは最初にはやはり苦しそうに見えます。大きな鎌をもって容易ならざる作業をしているように感じます。
絵柄の人物の姿形も骨身であり、まさしく「骨身を削る」ような苦労をともなっているのでしょう。
こうした状態を実際の私たちの人生にあてはめると、それは苦難や試練ということになるのかもしれません。
試練や困難なことと聞くと、一般的に、「これはあなたにとっては大変でしょうが、自分を磨くためのよい体験なのです」と人から説明されることがあります。
「13」のタロットカードということに限らず、仕事や病気などの取り組み方として、普通に説教的に聞かされる話かもしれませんね。
それはもちろん大切なことであり、確かにその通りの面もあるでしょう。
しかしタロットの「13」からは、そのような「一般論」的な物の見方だけではない事柄も浮かんできます。
大変な時、一体私たちはどのような状態にあると言えるでしょうか?
おそらく心も現実的な行動もパニックになっているかのような混沌・混乱の中にあると思います。
クリアーに先や解決策が見えていたら、そんなにあせる必要も苦しみ続けることもないからです。
ですから真に大変な時というのは、「闇にある」状態と言ってもいいです。
闇の中でもがき苦しみ、悩んで私たちはいろいろと必死に考えたり手を出したりすることになります。
たいていは冷静さを欠いていますので、いわゆる「失敗」と思えるようなことを引き起こしてしまいます。その意味でも闇と言えるかもしれません。
まさに「盲目・手探り状態なのに手当たり次第」という感じが苦しみ時の人の行動です。
その結果で「やってしまった!」「ますますドツボにはまった・・・」ということは多くあるのですが、しかしながら必死なので、普段冷静な時には決してやらなかったようなことさえもやってしまうことがあります。
普通自分ではありえないことを思い、ありえないことをしてしまうのですね。
それは言ってみれば常識の境界線がはずれるということです。
これが悪い方向に働けば、自分や他人にも迷惑や危害が及ぶことにもなりますが、それほど強烈だということでもあります。
けれどもいいにしろ悪いにしろ、これまでの自分の常識を超えるわけですから、そこには突然の変革、大きな変容の道が切り開かれることもあるのです。
言い換えれば自分の殻が破れるのです。
そのことは当事者であるその時の自分にはほとんどわかりません。なぜなら苦しみの渦中にあって、とても自分を客観視することなどできないからです。
あとで救われ、落ち着きを取り戻した時に、「ああ、あの時は必死でわからなかったけれど、とんでもないことをやってしまったなあ、でも自分にもそんなところがあるんだ」と気がつきます。
人には普段発揮されない潜在的に隠された大きな力が眠っていると言われています。
その扉を開くのが「13」の体験なのかもしれません。
自分が本当に苦境に陥った時、人間の生存本能、眠っていたDNAの能力にスイッチが入るのかもしれません。
それは自分自身を生まれ変わらせるための実際的な儀式とも言えます。
マルセイユタロットでは正義から数の順番で続く13までの一連の流れが、まさに今回話してきた内容とつながっていくように感じます。
そして苦しみの変容のあと、待っているのは天使の「節制」の姿なのです。闇の中には混沌であるだけに、様々なものがあり、天使の種も入っていると言えましょう。
講座におけるシンクロニシティ
私の行うタロット講座では、実際に自分あるいは人と組んでのリーディング演習を行います。
講座を通じて何度も自分のテーマ(問いの内容は違いますが)でリーディングを行うことになりますので、自然、自分を見つめ直すことにつながってきます。
そもそもこのような時間をもつことだけでも重要な意味があります。
なぜならば普段たちは忙しさによって、または習慣や惰性によって自分自身をゆっくり振り返ったり、見つめたりすることはないからです。
ところが、そのような私たちでも日常において、自分のことを見なければならない時があります。
それがいわゆるアクシデントや問題と自分が思う事態が起きた場合であり、もうひとつは何かを行いたい、得たいというような願望を強く抱いた時といえるでしょう。
要は今の自分(心理・スキル)では対応しにくい状況が生じると、自分に立ち返らざるを得なくなるということです。
ということで別にタロット講座などに出なくても、人生において自分を見つめる時は否応なくやってくるといえばそうなのですが、あまりアクシデント的にやってきてほしくはありませんよね。
ですからあらかじめ見つめる作業をやっておくと、少しは楽にはなると考えられます。
いわば自ら先に修正をかけておくというスタイルです。そしてまた修正する道具やツールを持つことも今後において大きな意味で有利に働きます。
そうして講座に参加し、自分をテーマにリーディングしていくと、不思議とお題は異なるのにいつも同じカードが出たり、似たような傾向をタロットが示したりすることがよくあります。
私は多くの生徒さんの演習を見てきましたが、その確率は偶然を明らかに超えていると感じます。
タロットはシンクロニシティの世界です。目に見えないこと、普段とらえがたいメッセージを偶然引いたカードの中に意味を見いだすものです。
偶然のように思えない出方や感じ方をすれば、それはシンクロニシティ・必然であり、意味あるものと考えるのです。
その中でも誰が見ても必然と思える現れ方をすればするほど客観性を持ちますので、メッセージ的にも強いと信じることができます。
何度も同じカードが出るようなことはこれに相当するものとも考えられ、そしてそれがその人の現在の課題であり、テーマであると容易に想像できます。
それはカードからの単純な意味だけには留まりません。たとえば仮に何度も「愚者」の出る人にとって、「愚者は自由を表すからあなたのテーマは自由ですよ」などと言うのは浅はかなのものです。
「愚者」には様々な意味がありますが、たくさんの意味がもともとあるのではなく、意味を人がもたせているのです。それは「愚者」に限らず、どのカードでも言えることです。
もしかすると「愚者」は逃避も象徴しているかもしれませんし、逃避と自由は奥底では「つながる」こともよく考えればわかってきます。
ということは、その「つながり」の核の部分こそがその人のテーマであると指摘することができます。それは一言の言葉では表現できないものであり、その時のそれぞれの人によって意味が変わってくるものでもあります。
禅問答みたいになりますが、全員にもわかる「愚者」の意味と、その人の今にしかわからない「愚者」の意味があり、それらは言葉としては別々ですが実は別ではなく、潜在的にはつながっていて共通しているのだということです。
なんだか難しいなぁ・・・と思われるかもしれませんが、心配しなくてもOKです。
やっているうちに上記の例でいえば「愚者」が何を指しているのか、直観的にわかってきます。
ですからたいていこうなります。
「また愚者が出てますよね?」
「ええ。。。また出ているんです」
「もう何かは、あなたにはわかりますよね?」
「はい、たぶんこういうことなんだろうなと・・・わかります」
「それが答えですね」
「はい(深くうなずく)」
と別に意味を言わなくても心で把握することができるようになるのです。
これがタロットの象徴の働きであり、直観で本質を理解するということの一例になってきます。
誤解や齟齬を招く「言葉」は、時に不要となるのがタロットの世界です。(人に伝える場合はもちろん言葉・言語は大切です)
ちなみよく出る自分のその時のテーマとも言えるカードの象徴を理解すると、これまた不思議なことにそのカードは出なく(その時のテーマにおいて)なります。
個性なんて実はないのかもしれません。
まずお知らせです。
昨日メルマガ(講座を受講生された方用)第1号を発行しました。早速ご感想も何人かの方にいただいており、とてもうれしく思います。もともと書くのは好きですので、感想や反響が多ければ多い分、どんどんと発行ペースも上がるかも(笑)です。
それでメルマガの登録申請・希望を出された方で未着の方は、HPのお問い合せからでも再度ご連絡ください。場合によっては個別でメールで送らせていただきます。
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さて、
人は多かれ少なかれ、いろいろな人格をもって生きています。
職場の自分、家庭の自分、趣味の自分、大勢の前での自分、一人の自分、過去の自分、未来の自分など、私たちは一人でも幾通りもの顔をもって人生を歩んでいます。
これはよく言えば人は順応性のある生き物だと言えますし、巧みに自分の仮面を付け替えることのできる器用さを持つということでもあります。
仮面はペルソナとも言い、パーソナリティ、個性・人格とも訳されます。
「私の個性はこうだ」と思っていても、人から見れば、あなたが自分で想像している個性とは別の人格を見られているかもしれないのです。
そう考えると「自分が自分である個性・人格」とはどれであり、何なのかわからなくなってきます。
結局自分というものはないのかもしれません。肉体を持ち、生活を実際にするがために個性があるように思えるだけで、本当は個というものは存在しないと考えると、ちょっと怖くもありますよね。
これがおそらく存在喪失(自分がなくなること)への恐怖であり、タロットカードでは「13」が象徴しているように感じます。(死の恐怖もそれだと考えられます)
先ほど、自分の個性は人からそう思われている個性もあるのだという話をしましたが、すると面白いことにも気がつきます。
私たちの個性は実は人から見られる(思われる)ことにより作り上げられるのだと。
ですから育った環境の中で形作られてきたもの、最も多くあなたが反応しなければならなった姿・性質こそがあなたの個性となっている可能性が高いのです。
例えばおとなしい性格・個性として常態化しているあなたは、そうしなければ生きていけなかった、バランスが取れなかった理由が大きくあるということです。
そして、それは本当のあなたではなく、もっと言えば誰も本当の個である自分というものはいないのだとも考えられます。
いわばある空間と時間になじんだことによって、そこに落ち着く、反応するがごとくに個(個性)も発生したのだととらえることができます。
ではもともとの自分は本当にまったく何もないのかといえばそうではなく、やはり行き着くところは根源的な「一なるもの」「神」「宇宙」と呼ばれる究極存在と考えるのが妥当ではないかと思います。
神や仏の化身、アバターという言葉があるように、ひとつの根源からその場その場の状況、次元、フィールドに応じて形としてある種のものが生まれると想定すれば、私たち一人一人の個性もやはり大きな完全なるものからの化身と言えましょう。
ここにグノーシス的な考えに行き着くこともできるのです。
プリズムによってひとつの光が7色に派生するように、反対にたくさんのものを統合すればひとつのものにも還元されます。
それが自分のたくさんの人格や個を統合する意味や必要性でもあります。行き着くのは根源であり、完全であり、宇宙であり、神です。
壮大な話になってきましたが、もっと次元を低く実際的なことで言えば、私たちは自分と思っている個性も人からの反応で自分が作り上げてきた仮の個性かもしれないので、これからも作りかえていくことが可能だということです。
そしてこの個性はいわば波動と言いますか、ある種の回転とも言えるので、個性が変われば比率やスピードなどを変化させることにもつながり、運自体も変っていくことになります。
いわば人生を作り変えられるのです。
それはあなたの個性は実態がなく、逆に言えばすべてのものを含んでいるからです。
これらのことはマルセイユタロットの22枚のアルカナで整然と表現されていることなのです。だからこそ、タロットを使うことはこれらの人格を統合していくことにもつながるのです。
あなたの運はよいほうですか?
あなたは自分は運がいいと思っていらっしゃいますか?
私がタロットで相談してきたクライアントさんや普通にお会いする方々などを見て思うのは、やはり自分のセルフイメージ(自分が思っている自分)というものがとても大事で、それは運までも左右することがあるという印象です。
「私は運がいい」「私はピンチに陥っても誰かが助けてくれる」「私はなかなかついている」などと思っている人は、やはり強運だと言えましょう。
反対に「いいこともあるけど、悪いことも多い」「なんかついていない」「私の人生悪いことばかり」「きっとまた悪くなる」
と考えている人は、これもまたその通りに近い人生を歩むことになります。
では「運がいい」と思ったもの勝ちなのかと言われれば、実は精神(心)と実際の作用の働き方から考えればそうだと言えるでしょう。タロットカードの「戦車」の意味の隠喩にもなりますが、「勝ち」は「価値」になります。
私たちの精神と現実は、自分の思い(思考)によって選択された行動が大きな要因を占めると考えられます。
私たち(の脳)は、自分の思考に基づいた情報を集めることができますし、逆にいえばあまりに膨大な日々の情報の中で、自分の思考からはずれたものは省かれたり、見なかったことにされたりします。
これを運のことで言えば、自分の思っている運勢の状態を証明しようと自分の脳が情報を集めるのだとも考えられます。
つまり、自分は運がいいと思っていたのなら、そう思える情報(実際の出来事)を拾い集める傾向にあり、反対に運が悪いと思っている人は運が悪いと思える情報を収集するということになります。
また集めるだけではなく、意味づけも行います。ニュートラル・中立に起こったものでも、自分の普段の思いの傾向によって「これは自分にとって運がいいこと、悪いこと」と判断・ラベル付けをするわけですね。
ギャンブルや偶然を相手にする遊びや作業をする初心者に多いのが「ビキナーズラック」という初心者専用の幸運です。
これは初心者なのでそのことに対する知識や意味づけがニュートラルであり、何も考えてない状態なので、初心者にとっては普通のことが起こっているに過ぎないのに、端から見れば幸運に見えてしまうというものです。
ということは、元来、ニュートラルでは比較的私たちが思う「運がいい」ことが起きる(起きている)のです。ですから自然状態では運がいいとさえ言えます。
それを悪運や不運に変えているのは、私たち一人一人の想念であり、思考であり、そしてまたその集合体ではないでしょうか。
タロットカードで運を象徴するカード「運命の輪」(マルセイユタロット)の三匹の動物、特に輪の上にいるスフィンクスにこの運のとらえ方の示唆が隠されていると考えられます。
とにかくあなたは今日から「もともと私は運がいい」と思い直し、これからも「運はいい」のだと信じることです。