コミュニケーション

友だちはいなくてもいいけれど。

マルセイユタロットの大アルカナでは、数の順に成長していくという考えがあります。(小アルカナ数カードでも、ある視点からは言えることですが)

その観点でカードを観察すると、いろいろなことに気づくと思います。

そのひとつに、タロットの絵柄に出てくる人や動物の数の違いがあります。

全体の傾向として、数の小さいカードよりも、大きいカードのほうかそれらの数は多くなるように見えます。もちろん、数の小さいカードたちにも、人が多いもの(例えば「恋人」カード)もあります。

実は、そうした例外にも意味はありますが、今回は、この人や動物のようなものの数が増えていくことをヒントに、私たちの生き方について、考えてみましょう。

私たち人間は、ややこしい生き物と言いますか、たいてい、二律背反のような、別の心とか考えを併せて持ち、それらが葛藤することもあれば、どちらかのひとつを場面やシーンで選択して生きていることが多いものです。

そして、このこと(ふたつの相反する状態)は、一人のほうがいいと思うか、誰かと一緒にいたいと思うかという、誰しもよくある気持ちでも表されます。

性格や好みの差も当然あります。孤独を好む人、一人でいたほうが落ち着く人もいれば、常に誰かといなければ安心できないという人、大勢でにぎやかに過ごすのが楽しいと感じる人など、様々です。

しかし、たいていの人は、一人になりたい時もあれば、誰かと一緒にいたいと思う時もあるというのが普通でしょう。

これを、どらちかにしなければならないと思い過ぎると苦しくなります。

コミュニケーションの上手下手や、人間の価値を計る意味から、孤独、いわゆるボッチ(笑)を忌避したり、逆に、群れ・グループに入ることで、自分の存在を確認したりするようないびつな考えでは、自分が人とどう距離を保てばいいのかわからなくなって、不安になることでしょう。

タモリ氏も、「友だちなんかいらない」と述べたように、誰かといなくてはならないとか、友だちがいなければ人からなんと思われるだろうかとか、友だちから悪く思われないよう異常に気遣ったりするとかで、自分を見失い、自分が楽しく、あるいは穏やかに生きられないようでは、自分の人生なのに(他人のために生きるみたいで)本末転倒になってくるわけです。

その意味では、孤独、一人でもよしと割り切ったほうが楽かもしれません。

また、西尾維新氏のライトノベルで、アニメ化もされて人気になっている「化物語(ばけものがたり)」の主人公、阿良々木暦(あららぎこよみ)君も、最初は、「友だち作ると人間強度が下がる」という理由で、孤独を選んでいました。

これは、孤独の選択による精神性を中心とした強さが養われるという考えによるものと思われ、友だちを作ると、なるほど、友だちとの楽しい時間はあるかもしれませんが、反面いろいろと人間関係でわずらわしいところが出たり、気遣いするところがあったりで、自分というものが弱くなる(自分中心で決めらず、自分でいられなくなる)ということでしょう。

昨今の承認欲求オンパレードの付き合い方をしている人の多さを見ると、阿良々木君の主張も当を得ているかもしれません。

しかし、タロットの話に戻りますが、マルセイユタロットでは、先述したように、次第に人(や動物)は多くなっていきます

それでも中には、明らかに孤独が強調されているカードもあります。例えば「斎王」とか「隠者」などです、「隠者」に至っては、9の数なので、大アルカナでも半分くらいのそこそこの位置ながら、孤独性が謳われています。

昔から、精神的・霊的な成長のためには、俗世や一般の人から離れ、孤独な時間と空間に身を置かねばならないとされ、修行者に実践されてきました。その意味については、あえて今回は書きませんが、マルセイユタロットが霊的な成長プロセスを描いていると仮定するのなら、孤独の絵柄もあってしかるべきです。

一般生活においても、やたらと人と群れるのは、すでに言ってきたように、自分を見失うだけで、一人の時間は、いろいろな意味で必要でしょう。一言で言えば、人に依存しないように、一人になる、一人で生きるというシーンも大事だということです。

ただ、やはり、この世は自分一人だけの存在で成り立っていないのは明らかです。

たとえスピリチュアル的な意味で、「この世界は自分の創造にあり、究極的には自分しかいない」という考えであっても、自らを中心に、多様なものが放射されるがごとく、いろいろな階層・レベル、表現でもって、存在性は分化し、多様に「いのち」として表現されています。

ですから、他は自分でもあり、自らを救うということは他人も救うことになり、その逆もまた真なりで、他者を救うことは自己を救うことにもなると考えられます。

「化物語」の阿良々木君は、当初は人間強度が下がるからと、友だちを作りませんでしたが、本気で思っていたわけではなく、言ってみれば、友だちができない変わり者的な自分をすねていたのであり、孤独である自分を正当化して、かっこいい理屈をつけていたに過ぎません。それは強度どころか、自分の弱さでもあったのです。

結局、阿良々木君は、怪異と関係する者たちとの壮絶な体験を重ねることによって、友だちとも仲間とも恋人ともいえるような存在が増えました。その結果、むしろ彼の人間強度や魅力度は上がったように見えます。

これは、自分の弱さや限界を認め、受け入れることでもありました。

「化物語」はしょせん創作の話で、しかも怪異が出るようなファンタジーで、現実の私たちとは関係ない話と思うかもしれません。

ただ、タロットでも人の数が増えていたように、私たちは、一人よりも、全体(多勢)として見た時、その強さは最強になります。それは、さきほども述べたように、現実世界では、一人ひとりでは限界があり、できないことも多いからです。

霊的覚醒レベルになると、その一人の限界も超えていくようなことになるのでしょうが、現実的な意味においては、私たちが世界(全体)の力を知ることが、タロットからも示唆されているように思います。まさに「世界」と「力」のカードの関係のようでもあります。

私たちが、自分の個性を探求し、それを理解しつつも、同時に限界や苦手なところも知って、その面は、他人が担ってくれることを、「世界」というカードの視点を持つと気づいてきます。

よく言われるように、一人では無力だが、集まると大きな力になり、とてつもないことを成すことができるのです。

「化物語」の阿良々木君の言う、“人間強度”は、他人への依存(または逃避的な孤独)だと確かに下がることになりますが、自分の弱さも強さも個性も認めたうえで、他者を尊重すると、それは他者(が与える力)=自分(を救う力)にもなってきて、カードで言うと、「節制」の協同的力(それは救済力でもあります)が発現されてくるようになります。そうなると、逆に、人間強度は増すのです。

シンプルに言えば、私たち自身が世界であることを知る、世界と人々を好意的に見る(ただし、何でも甘んじて受け入れて支配されること、平均的思考で皆まったく同じになること、無抵抗になることとは別です)という感じでしょうか。

マルセイユタロットの「世界」の真ん中の人物が、周囲の四つの生き物とリースに囲まれて、踊っているように見えるのも、霊的には自分が宇宙になっていることでもあると考えられますが、現実的な話では、やはり、自他の協同、理解、助け合い、学び合い、能力・考えの提供、交換などの、それぞれの個性を活かし、調和する社会(世界)を示しているように思います。それが一人ひとりの強さと自信にもつながってくるのです。

全体で支え合えれば、一人ひとりの安心感も増し、自分自身の人生を豊かに、創造的にしていく機運もますます上がり、さらにはそれが全体の向上へと還元されてくるでしょう。

孤独で生きるのもよいですが、全体へ世界へと意識を向けていくことも、結局、自分のためにとってもよいことになるので、「自分のできる世界への開き方」を考えてみましょう。


現代の自分探し

自分を知りたい、自分らしくありたい、こういう望みを持つ人は増えたのではないかと思います。

昔から、いわゆる「自分探し」という名前で、自分が何者なのか、自分は何のために、どんな目的で生きているのか(生きて行けばよいのか)と、世界を旅する人がいました。

そして、精神・心理の世界で、自己表現の大切さが謳われようになり、また別の形で、それを求める人が増えたように感じます。

しかしながら、かつての「自分探し」の旅で、よくある結論・結末としてあったのは、結局、自分はここにいた、というもので、世界など旅する必要はなかったのだという「幸せの青い鳥」のような話でした。

まあそれでも、考えようによっては、世界を旅したからこそ、身近なこと、本当に大切なものがわかったということもあるので、探求したり、放浪したりすることは無駄ではないと思います。

そして、現在は、自己表現ということで、自分の個性、自分らしさというものに注目する人が多くなったのは、先述したとおりです。

これは裏を返せば、自分を押し殺し、無意識的に人の言いなりになって、何か社会や組織、大きな存在や常識と言われるものに自分をあてはめて生きようとし過ぎ、自分が本当にどうしたいのか、どう生きたいのかを見失っていた人がたくさんいたからだと考えられます。

ところが、ネット社会になり、SNSや動画などで、簡単に自分を発信・表現できる時代になり、自分自身を見る者、自己表現の方法と世界は増えたものの、他人から認められたいという欲求が増加したり、自分のことがますますわからなくなった、個性がみんなのようにうまく出せない(埋没した自分を感じる)という人も少なからずいるのではないかと思います。

コミョ障を自覚する人も増えたのは、こうあるべきとか、人はどんな場合でもうまく円滑にコミュニケーションすべきという観念のようなものがある中で、そうなれない自分が余計気になるようになったからではないかと思います。

言い換えれば、情報が多く、一般化(情報が伝わりやすく、形だけは共有)するシステムが作られているため)しやすくなったことで、自分がそのイメージとはそぐわないことが際立つ(実際の自分と、理想で語られるイメージとの乖離が強くなる)ようになったということです。

情報が一般化されてくると、このように、昔は考えもしなかった(情報として入らないか、少ない例しか見ないので、気にする範囲が狭かった)ことが、いろいろと嫌でも目に付いてきて、気になるのです。

もちろん、かつてあった地域の年齢階梯的な集団制度も崩れ、少子化で部屋にこもりがちな人が増えたり、あまり他人とコミュニケーションせずとも、お一人様でも生きていける環境が整ってきたりしたことことの弊害もあるでしょう。

要するに、今の社会、昔の自分探しとはまた違った意味で、自分を探さなければならない状況に追い込まれている人がたくさんいるのです。

そして、皮肉なことに、その探している自分は、情報化社会にある無機質とも言える集合概念のような“他人”に対して受けのいい自分、かっこいい自分、何か注目を浴びる自分という、本当の自分かどうかは疑わしい存在なのです。

また、精神・心理系の人が探す自分というのは、言葉では本当の自分、ありのままの自分というものですが、これも、抑圧している(されている)自分でない部分の自分ということで、本当の自分の一部でしかないのが実情でしょう。普段演じている自分も、大きな自分の中の一部であり、結局、どれもが自分なのです。

ですが、抑圧されている自分がそのままだと気持ち悪いですし、いつか暴発しかねませんので、その抑圧されているほうの自分を発見したり、コントロールしたり、浄化したりする必要はあると思います。

自我の二重構造と表現できるかもしれませんが、人に見せやすい自分と、見せにくい自分に対立・葛藤をさせてしまうと、エネルギー消費も無駄に巨大なものになり、歪みも起こしているので、心身に悪影響が出るのは必然でしょう。

よって、そのねじれや二重構造は解消するか、葛藤するふたつの自分を協議・調整させておくことは望ましいです。

とはいえ、あまり情報に踊らされて「自分を探す」ことは、やり過ぎないように注意したほうがよいです。

中には、それ(自分探しの手伝い、コーディネート)をわざと商売にしている人もいます。(そういう仕事があってもよいと思いますが、目的が別にある悪徳的なものも存在するからです)

さきほども言いましたように、自分が表現する(している)自分というのは、全部自分(トータルな自分の一部)ですから、あれが本当でこれは偽物と区別する必要もないでしょう。

マルセイユタロットで言えば、大アルカナ22枚に象徴される人格が自分の中にすべているみたいな話で、さらに小アルカナ的にいえば、それらが4つのシチュエーションや性質、10の段階などにも分かれるという感じです。これもすべて自分の中にあるものです。

タロットを知れば、少なくとも78枚(の象徴)の自分がいることがわかります。

ペルソナ、仮面というものがあり、ここからパーソナリティと言葉も出るように、私たちは全員、いつもペルソナでいるようなものです。本当の自分は仮面をはがした者ではなく、仮面全部を統合した者と言ったほうがいいかもしれません。

会社にいる自分、家庭にいる自分、友人といる自分、パートナーといる自分、趣味の時間にいる自分・・・たぶん、皆さん、それぞれの顔や態度は微妙に違うでしょう。解離性同一性障害(多重人格)ほどではないにしても、普通の人にも、いろいろな自分がいるのは確かなのです。

(演技や功利的な意味で)わざとやっている人もいるでしょうが、大半の人は自然に相手や状況に応じて、それにふさわしいと思う自分が出ています。

そもそも劇や映画などで演技が成り立つのも、演技者(人間)の中で、そういう人格を一時的にも形成できるからで、もちろんそれは演技者本人とは別人ですが、演じることができるのは、その性質を持つからと言えます。

だから、誰れしも、悪人にも善人にも、ヒーローにもヒロインにもなれる気質があるということです。

現実には、様々な条件やカルマ等もあり、すべての人格を思い通りに出せて、なれるわけでありませんが、人とはそういうもの(あらゆる人格の可能性を持つ者)だと思うと、自分探しというものが無意味であることがわかってくるでしょう。

あえて言うのならば、この(その)時代に生きることの意味や、生き甲斐を思える自分というものを作り上げることが「自分探し」と言えるかもしれません。

探すのではなく、作り上げるのですから、選択も創造も可能なのです。

性格や経験というベースがあるので、まったく新しい人物を創造することはなかなか難しいですが、結局、自分の生きる価値・生き甲斐ができれば、それは自分らしさとか、自分の個性とかになってきますので、自分探しは、自分なりの生き甲斐、この生(せい)のある人生に自分価値が持てるかにかかっているというわけです。

ですから、死ぬ前なら、いつでも間に合うわけで、この意味において、自分探しに遅いはないのです。

この人に出会えたことが良かったとか、この仕事ができて良かった、このチームに入れて良かった、この動物を飼って良かった、ここに来られて良かった・・・こういう瞬間や状況でも、自分の生き甲斐を感じることができれば、その時の自分は自分を探せていると言ってもよいです。

ということは、「自分探し」で見つけようとしている自分は、自分単独だけの存在(自分ひとりで見つけたり、見つかったりするもの)ではなく、相手や状況など、自分以外のものとの、相対的・関係的な形としての「自分」でもあるのです。

本当の自分とは、全体(世界)とのトータルな自分と、自分単独と思っている自分の両方の接点にあるものだと言っています。

自分らしさにこだわっても、それは本来の自分ではないのですから、あまり悩まなくてもよいです。

逆に、この現実世界では、自分らしさは、抑圧される自分が調整されている(規範性・社会性と、自我・エゴ性の自分がうまい具合に調和しているか、バランスが取れている)自分であり、他者との違いをペルソナ的に持ち、それが生き甲斐になっている自分なので、それはそれで、追求していく(その意味で自分探しをする)のは、現実を生きる意味ではよい(生きる意味を現実に見出す)ことだと思います。


「太陽」と「正義」 共感と分離

先月、記事で話題にしたカードたちが、たまたま二枚、並んで私の目に飛び込んできました。

それは「太陽」と「正義」です。

偶然ではありましたが、この二枚から、導けることがありますので書いてみたいと思います。

それは、共感と分離をテーマとしつつ、人間関係において、もっと楽にする方法というものです。

さて、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄からして、共感的なことは容易に想像できます。

誰かと気持ちを分かち合い、共感し合うことは、人生において有意義なことであるのは、皆さんもわかると思います。

人間には感情があり、いわゆる喜怒哀楽をもって、様々なシーンに感情を思い巡らせます。

これは、自分以外の相手がいるから感情も大きく揺れ、人を相手にすることで、気持ちも変わってくることになります。

感情は、さきほど述べたように喜怒哀楽という四つの感情に分けられますが、さらに大きな括りで言えば、ネガティブなものとポジティブなものに分けられるでしょう。

そして、他人がいることでそれらの幅が大きくなる(振り回される、振り幅が大きくなる)反面、他人がいることで、その揺れを逆方向に持っていくこともできます。

気持ちに共感し、分かち合うことができれば、ポジティブな感情は増幅させることができますし、反対に、ネガティブなことは慰められて、小さくすることもできるということです。

これが、反目しあう人との間では、ネガティブが増え(というより発生させられる原因にもなる)、ポジティブなものは縮小させられます。(笑)

人間はそう強くありません。中には、孤独を愛し、誰とも感情的に交流させず、自分の気持ちを一人でコントロールしてしまう人もいるでしょうが、普通の人は、なかなかそうは行きません。

ですから、ここはやはり仲間とか友人とか、気持ちを吐露したり、シェアしあえたりする人を持っておくことが、お互いによいことだと思います。

それは「太陽」が示すように、多くの人でなくてもよく、自分以外の誰かひとりが、自分の気持ちをわかってくれれば、人は人生に絶望することがなく、むしろ希望を持って、楽しくさえ生きられるのではないかと思います。

一人でもいいと言いましたが、できれば、自分の興味や関心、趣味、勉学、仕事ごとに気持ちを述べ合える人がいればいいですね。

さて、一方で、マルセイユタロットの「正義」は、人との関係においての「分離」について見ることができます。

気持ちを分かち合う人の存在が、自分の人生、特に感情の喜びの増大、悲しみやつらさの鎮静化、浄化などに作用して、人生に希望を見出させ、楽しさも多くなるのではないかと言いましたが、人間関係においては、逆に、切り離したほうがいい場合も少なくありません。

数年前に、アドラー心理学の本で、「嫌われる勇気」シリーズが流行りました。

個人的には、アドラー心理学の原因論ではなく、目的論一辺倒のトラウマ否定などについては、疑問がないわけではないのですが、それはともかく、あの本で一番良かったと私が思うのは、「自分と他者の課題の分離」という点に言及したことです。

平たく言えば、「人は人、自分は自分」と思うということで、要するに、自分と他者の行為と責任(可能範囲)を混同しない、きちんと切り分けて考えることです。

人にこうしてほしい、ああなってほしい、自分に対してこのように思ってほしい、行動してほしいと思い悩んだところで、人はあなたの奴隷でもありませんし、個性と自由意志を持ちますから、これは自分として完全にコントロールできる類のものではありません。

もちろん、人間ですから、最初のほうで述べたように、他人と関係することで、人は感情が揺れ動きます。(感情を発生させる)

それを止めることはできません。(つまりその瞬間に発生する感情を止めたり、コントロールしたりすることはできない)

しかし、最初から人は人、自分は自分だと、人と自分を分離させていれば、前もっての手立てですから、感情も発生しにくく、したとしても、大きく揺れ動くことは少なくなります。

分離すると言うと、精神世界やスピリチュアルなことに関心のある人には、その言葉自体抵抗を示す人もいます。愛をもって接すれば、理解しあえるとか、そもそも「分ける」ということが間違いであると言われる人もいます。

神や宇宙という大きな次元、ひとつという状態ではそうかもしれませんが、しかしそれは、レベルや階層というものを無視した考えでもあります。

人間の肉体や現実認識の階層レベルにおいては、分離して個性を持つのが常態であるので、当然、そのレベルにおいては分離した考えも必要になってきます。言い方を換えれば、個性を認める、お互いを自立した存在として確認するということです。

従って、他人や相手ができる範囲、請け負ったり、しなくてはならなかったりする責任というものと、自分のそれとでは当然違ってきますし、区別することが求められます。

自分が他人のために役立てることもありますが、自分ができる範囲は限れており、その人の代わりになってやれることと、やれないことの切り分けが必要です。

例えば、相手が食べたいというものを、代わりに買い物はできても、買ってきたものを相手の代わりに食べることはできず、当たり前ですが、自分が食べても相手は満足しないですし、相手のお腹も膨れません。(笑)

いわゆるお節介や介入をし過ぎるあまり、相手の自立を阻害したり、依存、時には悪意を助長したりすることもありますし、自分ではコントロールできないのに、相手の気持ちや行動を何とか(自分の思うように)したいと思い悩んで、多大なエネルギー浪費と悩みを抱えることになっている人がいます。

面白いことに、「正義」のカードは、マルセイユタロットの秘伝的な絵図の考えからすれば、霊的な次元の入り口に位置するものとされ、つまり、霊的向上には、「正義」の象徴性がまずは大事だと見ることができ、つまりは区別すること、責任応分での分離という概念も重要なのだとわかります。

そうであるのならば、愛の押しつけのようなことで、自分と相手を無理矢理融合させよう、理解しよう、協力し合おうというのも、まずいこともあるのです。

スピリチュアル的にも、お互いの個の自立が確立してからの統合への道筋があると考えられ、レベルの低い段階での共有・統合の観念は、むしろ癒着や依存関係と誤解されているところがあり、自分と相手の責任もしっかり切り分けられない、子供の状態であると言えます。

自分がやれないことはきっぱりと断ることであり、また、余計に相手に介入せず、その人ができること、しなくてはならないことは任せる心の広さがいります。それは本当は(大きな)(自分と他者への)がないとできないことなのです。

「嫌われる勇気」でもありましたように、他人がどう思うのかは、その人の課題であり、自分の課題とは別であることを思い、ただ自分のことに専念するほうが、気がかなり楽になり、あの本でも言われていたように、真の自己の自由に近づきます。

このように、分離することと、共感することをうまく扱っていけば、人生は自分の手に戻ってくることが多くなり、生きる実感も得られるのではないかと思います。


暴言、罵声、恐怖を与える大声の注意

トラウマは、厳密な心理用語として考えると、強烈なものとして、普通の人にはないものと思われがちですが、その解釈を緩くし、要するに無意識に今に影響を及ぼしている潜在データ(プログラム・印象)として考えると、誰にも程度の差こそあれ、あるのだと思います。

小さい頃の何でもない親や兄弟・姉妹のやりとり、昔見たテレビのドラマとか事件報道、学校でのささいな出来事、職場でのちょっとした失敗、悪い意味で注目されたことなど・・・それは自分では大したことない、忘れてしまったということでも、意外に今の自分の心に影を落としている場合もあるのです。

そうした中で、私が最近思うのは、言葉の暴力も、十分トラウマになっていることがあるのではないかということです。

もちろん、直接的に、虐待した親とか、いじめをした者からひどい言葉を受けたというのは当然のようにあるかもしれませんが、ここで言っているのは、そういうことだけではなく、普通にちょっと大声で怒鳴られたとか、イラついた人にどやされたとか、また直接ではなくても、暴言を言い合ってけんかしている人を見たとか、何かの(理不尽な)クレームなどで、ひどい言葉で、係員やコールセンターの人に放っているのを聞いたとか、そういう間接的なシーン・場面からのものでも、実は結構影響しているものなのではないかと推測しているわけです。

注意してみると、大声とか、叱られる時の声、そしてまさに暴言で罵声のような言葉を、自分に向けられる場合以外であっても、何か聞いた時は、人はビクッと身をすくめてしまいますし、恐怖を感じる人も多いと思います。

体が反応しているのですから、それは心にも影響していると見てもおかしくはないでしょう。

そんなのをいちいち気にしていたら生きていけないというは、まあ、その通りかもしれません。世の中にはいろいろな人もいますし、怒られて一人前になるものだと、社会人なら言う人も少なくありません。

ただ、何といいますか、もうそんな言葉(のひどさと大きさ)で恐怖させたり、注意を促したりする方法は、教育としても当然よいとは言えず、人としての関係の取り方としても、古過ぎるのではないかと思うわけです。

確かに、大声を出したり、強い言葉を言ったりしないと、危険な時もありますし、まだ判断力のつかない子ども時分では、やむをえない時もあるとは思います。

それにしても、使う言葉自体は注意しないといけないのではないかと考えます。

「世の中は甘いものではない」とか、「厳しい言葉を受けて成長していくものだ」という考えは、いまだ多くあります。時には、言葉だけではなく、手や足が出てしまい、本当の暴力をふるっている人さえ、少なくありません。

人は甘い環境にいたり、優しくし過ぎたりすると、つけあがる、さぼる、向上心を失うなどと言う人がいます。

物事には陰陽あり、そして強弱のような相反する力・エネルギーがあって、弛緩ばかりの状態はあり得ず、強く鍛えていく(鍛えられる)シーンも、自然の流れ・摂理としてはあると思います。

しかし、ここで言いたいのは、怒鳴ったり、暴言を吐いたり、暴力をふるったりして、他人をコントロールする方法は、あまりにも低いレベルであることに、もう全員が気づいてもいいでしょうということですし、人類としての成長、意識の向上としても、このことはとても重要なのではないかと思われるのです。

甘くすれば堕落する、逆に言えば、厳しくしないと成長しない、しっかりしないというのは、私たちがそう思い込んでいるレベルにまだあるからです。

かなりの昔は、そうしないと人も成長できない時代があったかもしれません。しかし、人の認識・智慧が向上すれば、優しさによって堕落することはなくなります。それは本当の意味で、皆が自立・自律できているからです。

見張りや注意をしておかないと、泥棒される、殺されるような世界では、自衛のために自他ともに厳しくしておかないと困りますし、自分や大切な人に危害が及ぶ場合があります。

そうなると、環境が先か、人が先かの問題はあるでしょうが、これは結論から言えば、人(の内面)が先でしょう。それがすべてを決めていると言ってもいいくらいです。

しかし、バランス(現実と理想、精神と実際)も重要なので、人の内面が中心といっても、その認識に至る前は、環境が人に影響を与えていくことにも着目しなければなりません。

何でも「話せばわかる」「話し合えば理解してもらえるはず」と言う人もいますが、そもそもコミュニケーションが成立しないレベルであったり、イデオロギー・思想・価値の対立によって、真の(解決に向けた)話し合いは、最初から忌避されている、ないに等しい状態になっていたりしていることもあります。話し合う前に、すでに問題があるのです。

マルセイユタロットでは、人間の世界と、それ以上の世界も示唆します。それによりますと、人が本当の意味で成長するには、物質だけではなく、精神や魂の成長段階も伴って、進んでいくわけですが、試練と救済は交互にやってきながら、次第に優しき世界へと絵柄も変化していっています。

つまりは、人は霊的に成長すると、本当に優しき世界が現出してくるようになることが描かれているわけです。

ただ、自分自身の認識(力)を上げていくためには、自分に対しては厳しいところもあります。(と言っても、自分をいじめたり、苦痛を与えたりするというのではなく、自身に光を当てると影も出てくるので、そうした統合・浄化作業においては、向き合うつらいこともあるということです)

それはそうと、元に戻りますと、とにかく、まずは言葉だけでも、優しいもの、美しいもの、愛をもつものに、なるべく変えて行き、どうしても大声や暴言を吐きたくなった時は、目の前に人がいれば、面と向かうのではなく、違う方向に向けたり誰もいない場所で、あとで吐いたりするほうがましと言えましょう。

見えなくても、破壊の波動のようなものが、自分の暴言・(怖がらせる悪い言葉での)大声から出ていて、それが相手の体だけではなく、目に見えない部分と、心の中にまで浸透してしまうのだと想像すると、言葉には注意深くなれるでしょう。

そして、そのようなものがトラウマになっていることもあり、もちろん、トラウマにさせてしまっている場合もあるわけです。それは反転して、相手に対してきつい言葉を吐く自分というものが生まれてしまうこともあります。

こうした悪循環により、社会は怖い言葉であふれ、余計に皆さん、不安と恐怖の世界(社会)に、この地球をしてしまうのです。

苦しく、厳しい社会は、私たちが総意で、そうさせてしまっているところがあります。

思想とか主張ではなく、人の認識レベルの向上のためとして、自分と他人に優しい言葉を使っていくことから始めるだけでも、ずいぶんと変わっていくのではないかと思います。

また暴言を聞いてしまった時は、思った以上に傷がついている(大人でも)ことがありますから、自分を労わってあげ、またハートナーや友人、家族など、話をちゃんと聞いてくれる人に、怖かったということを話して、受けとめてもらうことで、癒され、トラウマになることは少なくなると思います。

ただ、中には、優しさに甘えたり、つけこんだりする人もいるので、時と場合により、厳しい言葉、はっきりとした拒否の態度を取る必要性はあります。

これもそういうレベルの人がまだまだいるから、仕方のないことで、先述したように、成長過程のバランスとして、話せばわかるとか、優しく接すればすべてよしというわけにもいかないところはあります。

つまり自分の平安や領域を脅かしたり、ルールを無視したり、危害を加えたりする人から自分を守ることであり、これは自分にまずは優しくするということと同意なのです。


話す領域の違い 「法皇」と「恋人」

コミュニケーションは、一方通行なものではなく、双方向であるのが普通です。

つまり、聞くことと話すこと、どちらの役割もお互いに交換しあうわけです。これも究極的には、陰陽、二元表現の形といえます。

マルセイユタロットでも、例えば、聞く役割を中心として象徴させている「斎王」(一般的な名前では「女教皇」)と、話す役割が主な「法皇」(一般的には「教皇」)とセットになっているカードがあります。

そして、今日はこのうちの「法皇」の表す、「話すほう」について取り上げたいと思います。

「話す」ことは、言語やその他に障害がなければ、誰でもできることです。しかし、時と場所に応じて適切に話すということになると、難しくなってしまいます。

話し方教室というのが実際にあるように、人は話の訓練をしなければならないこともあります。

いわゆる慣れや経験も、話すのをスムースにするには必要です。となると、純粋に話し方の技術というものもあるでしょうが、結構、話すことで問題となるのは、精神面が大きいということです。

誰でも緊張していると話しづらいですし、逆に、不安や恐れがなく、リラックスした状態だと、なめらかに話すことができます。

たとえ、かんだり、とちったりしても、また話す内容が整理されていなくても、話している本人が気にしていなければ、饒舌なものとなります。

コミュニケーションの意味においては、最初に述べたように、双方向と考えると、話している自分だけが楽しくても、相手の気持ちがよくなかったり、内容が伝わっていなかったりすれば問題ではあります。

とはいえ、まず、なにはともあれ、話すことができなければ、相手に伝わる伝わらない以前の話になりますから、いかに自分が精神的に話せる状態にしておくか、そういう気持ちになるかということが大事な要素になるでしょう。

逆に言えば、話せる環境や状態に、聞く側も整えたり、誘導したりすることで、話し手は、より話しやすくもなることが考えられるわけです。(従って、聞く技術、聞く側の要素もコミュニケーションでは大きいのです)

さて、「話す」ことといえば、「法皇」のカードだと言いました。

この「法皇」の数はであり、次の6の数を持つカードは「恋人」です。このふたつを並べることは、以前もコミュニケーションや伝達において、ある示唆があることは書いたことがあると思います。

今回もこの二枚を数の順に並べてみましょう。

すると、「法皇」は「恋人」カード全体を見ている、指し示しているように見え、その中でもとりわけ、「恋人」カードの天使(キュービッド・クビド)に視線が注がれているのがわかります。

「恋人」の天使の図像の意味は、様々に考えられるのですが、「恋人」カードには、ほかに三人の人間たちも描かれており、これとの対比で見てみますと、天使は(通常の)人間とは異なる存在や性質を表していると考えることができます。

簡単に言えば、「人間」たちが、普通や常識、目にみえるようなことを意味し、「天使・キューピッド」がその反対の、普通ではないもの、常識外のもの、目に見えないようなことを示していると取れます。

「法皇」は、先述したように、この天使に注目しているのであり、「法皇」が話すこと、伝えることなどを意味するのであれば、その重要性は、天使側の領域にあるのだと言っているように思えます。

これには、いくつかののこと(意味・示唆)が考えられます。

ひとつは、話す主体(つまり「法皇」)は、天使を意識して話せということです。この場合の天使は、外側や仮面(見てくれ)、常識的条件で計るような自分、エゴのような自分ではなく、純粋な部分の自己、高次の自分を象徴していると想像できます。

また、これは、話し手自身のことだけではなく、話す相手、話される対象側の人間においても、見えない領域が意識されることを含むと取れます。

いわば、話すほうも、聞くほうも、見えている人間に向けてコミュニケーションするのではなく、見えていない部分の本当の自己同士のコミュニケーションをすることで、通常のコミュニケーションを超えた作用がもたらされることを表していると思えます。

同時に、私たちは、言葉(外に現れるもの、形や音が聞けるもの)以外の要素でも、コミュニケーションしている(話をしている)のだということも、ここからイメージすることが可能です。

それから、話さなけば、天使の矢が動かない(放たれない)ことがあることも、想像できます。

それは、誰かに自分の気持ちをきちんと伝えないと、縁が現実的に発生したり、動いたりしにくいということです。

現実の世界は、「恋人」カードの三人で示されるような、言葉や形(音で確認したり、目で見たりすること)でコミュニケーションがなされる世界です。

それこそ、願うだけの天使任せ、神様任せみたいなことでは、何も現実が変わらないということはあるわけです。

天使を動かしたければ、実際に言葉にすること、文字で表すこと、行動で示すことが、言われているのではないでしょうか。

しかも、天使の意味をもっと考えれば、自分自身とのコミュニケーションにおいても、偽りの気持ちや、ごまかしでいては、本当の通じ合いができず、いつも、他人の顔色をうかがって生きねばならない(「恋人カードの真ん中の人物と、両端の二人の人物の様子を見てみましょう)ことが伝わってきます。

実は、話すということについては、チャクラとの関係も含めて、「法皇」のその前のカードたちとのつながりやシンボルが描かれているのですが、それは口伝や秘密として、隠されている状態です。

とにかく、「法皇」と「恋人」を見て、単なる表面的なコミュニケーションや話し(方)だけではなく、もっと別の次元の話し、コミュニケーションがあることを意識すると、自分が本当に話したいこと、伝えたいことがわかってくるでしょう。

聞くだけばかりでもダメで、話すばかりでもいけませんが、それでも、自分の話したいことを話すのは、人として、自分を大事にするということにおいても、大切だと思います。

あのことが伝えられなかったと後悔するより、たとえ自分が傷ついても、人生全般(一生)で考えれば、伝えることに意味があったと思うこともあるでしょう。

そして、一方では、目に見える現実世界では、伝わらなかったこと(伝わらないこと)も、実はすべて、他の世界では伝わっていたということもあり、今はあなたの本当の気持ちがわかってくれなかったとしても、無意識の精神領域、霊的な部分では、すでに通じ合っていることもあるのだと思います。

それは、実際の結果とか、現象とは関係なく、まさに気持ち、エネルギーの伝わりなので、ひとことで言えば、真心(真の心)・純粋な気持ちが通じ合うので、いい意味でも、悪い意味でも隠し事はできない素のコミュニケーションだと言い換えることもできます。(自分と他人だけではなく、自分ともう一人の自己との間でも言えます)

おそらく、そのことは、通常、死後にわかるのでしょうが、生きている間にも、もしかすると、そういう伝わりの部分があるのかもしれないと意識すると、何かが変わってくるかもしれません。


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