コミュニケーション
人間関係の問題
相談ごとで多いもののひとつが、人間関係の問題です。
タロットリーディングでも、やはりこの問題を扱うことがあります。
タロットの場合、タロットそのものを人間と見立てて、関係性を客観視することもできますし、その関心の方向性や内容についてまで、タロットの象徴性を利用して、本人にはわからないことも推測することができます。
これは恋愛の好き嫌いの状況判断から、家庭、学校、職場のリレーションシップまで、タロットで見ることのできるもの(ただし、あくまで象徴とタロットからわかる予想の範囲で、です)は幅広いです。
それはともかく、人間関係の問題は、人がひとりで生きているわけではありませんから、人間である限り、ずっといつもつきまとうものです。
ですから、実践的にも、心理的にも、いろいろな方が様々な方法・対処の仕方を人間関係の問題において考えられ、披露されています。
それらを読むだけでも、実は結構な指針となったり、解決の糸口をつかめたりすることがあります。
人間関係の問題は、人が人たるゆえんに起因しており、それは、簡単に言えば、人はだれかと一緒にいたい、他人に理解してほしい、分かち合いたいという共同や共感、愛着の欲求がある反面、一人にしておいてほしい、パーソナルスペース(自分のスペース・平穏)を乱さないでほしい、人とは違う部分で一目おいてほしいという、相反するような欲求もあるからです。
まあ、言ってみれば、ひとりだと寂しいのに、自分という個人、一人を尊重してほしいというわがまま性が、誰にでもあるからなんですね。人間とは困った存在です。(笑)
結局、そのため、たいていのアドバイスとしては、人間関係を割り切る(区別する)か、愛をもって自分と他人をあまり区別しない方向に持って行くかのふたつの方法がメインとなってくるのです。
前者(割り切り)は、仕事のためとか、たまたま集められた人たちだとかと思って、自分を守るために他人とは区別してつきあい、必要以上にお互い干渉し合わないという方法です。
意識としては、自分の方に強く向いていて、ひたから「自分」のスペースの快適さを、心の内から確保していくというやり方です。
後者は逆に、自分と他人とは違う存在ではなく、痛みとか喜びとかを共有できる同じ「人間」だとして扱い、平たく言えば愛をもって、他人に接するというような方法で、できるだけ、自分と同じ部分を他人のうちに見つけていくことで、共感を得ていくというやり方です。
これは意識では、自分よりも他者に向かうという感じで、ちょっと修業的なところもなきにしもあらずですが、うまく行けば、人類みな兄弟という感覚になり、他人がどうあれ、自分の心理(気持ち)としては、理想的な環境を得られやすくなります。
どちらがいいかですが、通常は、前者の道を選択するほうが楽だと思います。
自分が壊れてしまえば元も子もありませんから、他人に気に入られようとするより、自分が安心安全であること優先して、まずは自分の身を守ることをするわけです。
だからと言って、別に他人に冷たくしたり、孤独でなければならなかったりというわけではなく、公私混同をなるべく避け、一緒に活動することが円滑にできるよう、礼儀と必要な関係構築だけはしておき、それ以上のプライベートなことに関わったり、親密になろうしたりするようなことは、自分が嫌ならば、特にしなくてもよいということです。
それでも、他人からいじめを受けたり、理不尽な関係性を要求されたりすることはあります。自分で自分を守れない時は、ほかの誰かに助けを求めることも必要となります。
そしてこれも割り切りの道のひとつですが、関係性があまりに苦痛な場合は、そこから立ち去るということも選択に入れます。
確かに、仕事とか住居の場合、なかなか転ずることは難しいこともありますが、それでも、自分が壊れるよりましで、思い切って移動してしまうということはありかと思います。
兵法でも、有名なことわざ、「三十六計逃げるに如かず」と言われるように、逃げたもの勝ちという場合もあるのです。
生き方や過ごし方は、自分が思っているより、いろいろな方法はあるものです。もしかすると、これまでのあなたの生き方よりも、もっと楽でよい道があることを、人間関係の悪さで、天が示してくれているのかもしれません。
人間関係に限らず、ひとつ(ひとり)だけにこだわるのは、苦痛の原因となることが多く、ほかの場所や方法、人間はいくらでもある(いる)のです。たまたま、今のあなたには合わない場所、人がいたということだと思えばいいでしょう。
※ただし、心理的・霊的には、パターンやデータとして、自分の中に根源の問題があって、それに気づくために、同じような問題がどこにいても起きる場合があります。
とはいうもの、実際には割り切るのも簡単なことではありません。
それは、今、特に人間関係に苦しんでいないか、他人からどう見られようと大丈夫だという強い自立心を持っている人くらいが、「割り切ればいい」と簡単に言えるのです。
特に注意したいのは、若者、学校に通っている子どもたちに対してです。
「学校で友達なんかいなくていい、一人で淡々と過ごしていればいいんだ」みたいなアドバイスをする人がいますが、それは大人からの視点だからできるのです。
思い出してください、学校にいた頃を。自分は一人でいいと割り切って過ごすことが、どれだけ困難なことであるかを。
今もどうかはわかりませんが、体育の時間とか授業においても、いろいろな場面で、人と組になったり、グループを組まされたりします。それも、子どもの自由性を尊重しているのか、「自由に好きな者同士で組みなさい」とか言われることがあり、それはいじめを受けている子、友達がいない、作りにくい子には地獄のような仕打ちです。
そもそも周りの視線が気にならないくらいなら、人間関係で悩むようなことはないのです。それは大人の場合でも言えるでしょう。
友達を作らなくていいのではなく、「・・・しなくてはならない」という観念の縛りを解く説明と理解(認識・自己改革)がいるのです。
先述したように、人は誰でも、共にいたい、自分を人に理解してほしい、愛し愛されたいという気持ちがあるので、誰も友達や話す相手がいないということは、それだけでつらいものなのです。
安易に「友達は必要ない」という助言は、言い方を慎重にしないと、学生には、特に誤解されるおそれがあります。
そういう意味では、やはり、ひとりひとりの心のケアや、自己と他人のバランスのために、学校以外、仕事以外でクオリティが発揮できたり、尊重されたりする時間・空間、人間が必要かと思います。
また、割り切る方法(自分と他人の責任と自由性の範囲を正しく理解する方法)を実践的に教えてくれる講演・セミナー、話し手、その心境を構築してきた経験者から伝えられる機会が、学生時代からあればいいかと思います。
個人的には、中二病のようなことも、精神衛生上では、時にはあってもよいかと考えています。あれは一種の自己防衛でもあるのです。
大きな話で言えば、おそらく、人間は個として自立したり、強くなったりする必要性が霊的な流れとしてあり(つまり分離の流れ)、それが確立したうえで、今度は統合に進むのだと考えられます。
人間関係での衝突・悩みは、私たちが個性を持つがために(成長の意味でも)起きることで、まだ認識が低いレベルでの自分と他人というもので止まっているからだと推測されます。
マルセイユタロットでも示されているように、統合の前には、分離として、それぞれの性質を深く認識できる状態が前提となります。
私たちが人間関係で苦労しているのも、大きな理由で言えば、人類の進化のための過程で起こっていることだと考えられます。
しかしながら、すでにその流れはそろそろ反転していてもいいかと思います。
その意味ては、割り切りの対応もいいのですが、そろそろ、自他が融合するような、愛の方向性で、人間関係も変わっていくとよいかなと願っていますし、きっとそうしたものに、今後はなっていくものと思います。
もちろん、ただ放置するのではなく、ひとりひとり、自他の調和を心がけることも、その進化の度合いを加速するうえでは重要かと考えます。
つまりは、現実的対処(それはそれでOKで緊急の場合はよいと思います)のさらに奥の、高次で霊的な視点の目覚めが求められてくるように思うのです。
話し伝え、聞き伝わること。
タロットリーディングを行っていると、人間関係においての問題では、コミュニケーションがひとつのテーマになっていることがよくあります。
人間同士のコミュニケーションだと、言葉か文字での伝達、やり取りがあります。そのほかに手振り身振りとか、雰囲気とか、言葉・文字以外のものもありますよね。
しかし、コミュニケーション手段で、普段大きな意味を持つのは、やはり言葉によるものではないでしょうか。
言葉のやり取りは、結局、話す、聞く(聴く)ということになります。ということは、コミュニケーションでも、話す(伝える)ことと、聞く(伝わる)ことが大事になってくるわけです。
マルセイユタロットの大アルカナの象徴を見ていると、この話すこと・伝えること、聞くこと・伝わることが、カードの人物などによって描かれているように思います。
話す、伝えるということで見てみますと、一番、その象徴性があるとうかがえるのは、5の「法皇」でしょう。彼は明らかに話をしており、それを聞きに来ている聴衆のような、弟子のような者たちもいます。
ですから、このカードが出る時は、何か話すこと、伝えることがテーマ・課題・問題になっていることがあると考えられるわけです。
そして、問題となっている多くのパターンでは、話し過ぎること、逆に話が足りないことが挙げられます。つまり、一言多かったり、余計なことをしゃべりすぎたり、話が長すぎて要領を得なかったりという状態か、反対に、言いたいことも言っていない、言いたいことが言えない、もっと話すべき・伝えるべきことがあるはずというような状況です。
もちろん、もともと寡黙な人や、よくしゃべる人がいるように、人には個性があるので、話すことの過不足に明確な平均的指針や基準があるわけではありません。
それでも場面場面、シチュエーションによっては、もっと話したほうがいい、自己主張したほうがいいということもあれば、今は沈黙を保っていたり、余計なことは言わないほうがよかったりすることがあるわけです。
カードの良いところは、自分ではなかなか気づかない、状況による伝達の適度な仕方を、例えば「法皇」のカードの出方によってわかるということなのです。
一般的な傾向としては、話が多すぎるタイプは、自分にベクトルが向き過ぎており、エゴの主張が過剰になっています。ということは、聞く(聴く)という反対側の態度が苦手であり、「人の話を聞かない」「途中で人の話をさえぎってまで自分が話したがる」というなこともあるでしょう。
逆に、言葉足りない人、あまり話をしたがらない人の中には、ベクトルが他人側に行き過ぎており、人に気遣うあまり、言いたいことも言えない、言ったら人間関係がギスギスしてしまうかもしれない・・・と思って、口をつぐんてしまうわけです。しかし、その分、人の話をよく聞く(聴く)ことができ、人から話がしやすい、よい人と思われる場合もあります。
ということで、話しの多い人は関心のベクトルが自分向き、話が足りない人は他人向きということなのですが、実は、よく考えてみると、両方ともベクトルは(過剰な、アンバランスな)自分向きなのです。
特に、他人や周囲に気遣って、あまり話をしない人、言いたいことも言えない人は、一見、人に配慮しているようで、本当のところは、トラブルや面倒を起こしたくない、事なかれ主義でとにかく穏便に済ませたい・・・という思いがあり、それは、つまるところ、自分を守りたい、自分を壊し(変化させ)たくない、もっと言えば、自分がかわいいということになってくるのです。
確かに人と争ってまで、何かをしたい、処理したいというわけではないという、その気持ちは優しい性格からのものと言えますが、いつまでも自分の殻に閉じこもって、自分がどうしたいのか、何がしたいのか、どうしてもらいたいのかなど、自分を主張しないと、何も意思を持たない人と扱われ、外国ではありませんが、否定もしないということは、すべて同意したとみなされることもあるわけです。
自分を変えることは怖く、勇気のいることですが、トラブルがあろうとも、時には本気で自分の思いを伝える、話すことで、相手も本気で応えてくれるようになるのです
そうして、最終的には、ぶつかりあいからでも、新しい何かや、たとえ妥協点であっても、お互いが伝え合った結果として、双方の気持ち的にも納得したものが生まれ、真のコミュニケーションが成立するケースがあります。
要するに、話す、伝達の問題は、どちらにしても自分側に関心のベクトルが向き過ぎており、その理由が、他人への無関心か、他人への過剰な配慮によるものかということなのです。コミュニケーションは双方の通じ合いあってのもので、やはりバランスの問題でもあるのですね。
ところで、マルセイユタロットでは、「法皇」とペアの概念を取るカードがあり、それが2の「斎王」です。ふたつのカードが並ぶと、まさに、話し、聞く(聴く)態度が見て取れます。
コミュニケーションの成立が、単純なこと、つまり、話し、聞くことであるのがわかるのですが、それゆえに、話す(主張する)だけではなく、聞く(沈黙している)態度も重要で、逆に聞くだけではなく、話すことも必要なのが、当たり前ですが、こうして画像で示されると、妙に納得できます。
話す「法皇」が男性で、ほかの複数の人間たちも描かれているのに対し、聞く「斎王」が、女性で、一人であること、書物らしい何かを持っていることも、きちんとした理由がタロット的にはあります。
だからと言って、別に女性は聞き役に回るべきというのではありません。これは実際の性のことよりも、性質・表現として見ることなのです。
タロットリーダーを目指す人は、まず、聞く(聴く)ことが大切で、普段、話過ぎる人、おしゃべりな人は、少し自分を抑えて、人の話を聞く態度に徹する時間がいります。
そして、やはり聞くだけではだめで、「法皇」として、話す、伝えるスキルも重要です。ただ、確かに言葉でもって伝えるのが一番伝えやすいでしょうが、自分の個性によっては、文章とか、態度も交えて伝えたほうがやりやすいという人もいますので、言葉のコミュニケーションスキル向上が必ずしも効果的であるとは限りません。また、言葉の内容そのものだけではなく、話すスピードやリズムなども、伝達手段の要素としては無視できないものになります。
相談やタロットリーディングの実践に限らず、話すこと、聞くことは、最初から言っているように、基本のコミュニケーション方法です。
人間、一生は長いようで短いものです。自分の思いを伝えないまま、この世を去るのも後悔するかもしれませんし、また、人の話をもっと聞いてあげていれば、誤解や争い、別離はなかった、もっと仲良くなれたかもしれないと悔やむこともあるかもしれません。
ということで、話すこと、聞くことを、もっと大切に意識してみるとよいでしょう。言葉では伝わらないものがあるのも確かですが、言葉でしか伝えられないもの、口(音声・響き)や文字にして伝えてほしいこともあるものです。
感性での共感性の危険さとその回避には
知識や理性によって、相手の状況を推察・判断し、あるいは自分の中で高度に理解が進むこと(知性の高次化)で、他人との共感性を持つことができます。
個人的には、ここうした(理性・知性によって共感を持つ)方法が、一人のみならず、引いては人類全体としての共感性を呼んで、物質的・利己中心的な見識から解放されるものとして、もっと注目されてもいいと思います。
しかし、一方で、感覚・感性的(感情・情緒的)に相手との共感性を持とうという方法があり、むしろ、そちらのほうが自然的(ナチュラル)な感じがして、今はよく語られていたり、実践されていたりするのではないでしょうか。
この感覚・感性的なものは、言ってみれば気持ちのようなものでつながり合って共感を抱くというものなので、波があったり、好き嫌いの感情で左右されることもあります。
ですから、よい意味で通じ合う時(同じ気持ちの好ましいものを相手に見た時)は、ものすごく共感や愛情を想い合うことができますが、反面、自分や相手の感情・データに、違和感・嫌悪感を持つようなものを見た時(感じた時)は、恐怖や憎しみのようなネガティブな感情が起こり、共感どころか、かえって相反してしまうこともあると想像できます。
ところで、人によっては、もともと特別に(または異常に)感覚が鋭敏になっている人がいます。
その鋭敏さが普通の五感ではなく、目に見えない情報を感じ取る感性であることもあり、そういった人は、人の気持ちや感情(または様々な個人的な情報)への感受性が強くなります。
こういう人は、エンパス体質とか霊感体質などと呼ばれることもあります。
さて、スピリチュアルの世界では、人との共感性・理解力が増すことが、人類の(理想とする)進化のように思われているところがあります。
もし、そういった説に乗るとすれば、それは、さきほど述べた特殊な感受性を持つような人の能力・感性が、普通の人にも現れるようになる状態と言ってもいいかもしれません。
けれども、それには落とし穴があるのです。
相手の気持ちがわかってしまうということは、それだけ相手のいろいろな気持ち・情報を見てしまうことにもなります。
もちろん、「通じ合い」というのは相互作用ですから、自分の情報も相手に伝わる(見えてしまう)わけです。
それがともによい感情、ポジティブなものであればお互い気持ちいいことになるでしょうが、ドロドロしたもの、見てほしくはないもの、デリケートなもの、ネガティブな感情などのものであったら、感じた方は不快感を持ちますし、見られた方は土足で人の心や大事な部分に踏み込まれた嫌悪感・憎しみが出るでしょう。
このように、うかつに共感・共鳴しようとするのは危険なこともあるわけです。
やはり、本当にわかり合えるためには、双方にわかり合おう、歩み寄ろうとする態度も大切だと思いますが、同時に、一人一人、それぞれにおいて浄化と言いますか、自分のデータ・情報を整理し、自分自身で自分を受け入れられる(甘えやごまかしではない)許しのような状態がないと、「見せ合う」「通じ合う」という素に近い状況になった時に、耐えられなくなるのではないかと思います。
つまり、真の(全体性としての)共感は、一人一人の浄化・成長・進化にかかっているということです。
有り体に言えば、お互い見られてもよい状態、それ(相手のすべて)が微笑ましく、愛しくも思えるくらいになって、はじめて高い共感性能力も活かせる(活きてくる)ものだということです。
逆に言うと、そういう状態に多くの人が達していないと、優れた共感性の能力は発現・解放されない(危険をブロックするセーフティロックのような安全弁が働いている)のではないかとも考えられます。
今の(わりあえない)世界の状況を作っているのは、ほかならぬ私たち自身の意識(のレベル状態)だとも言えます。
ここに自分を見つめる、受け入れるという作業が、相手との関係だけではなく、人類全体の進化の問題としても必要なことがわかります。
ちなみに、タロットは象徴としてのカードですから、象徴は抽象的ではあっても、普遍的な原理・パターンを表し、それでもって、個々の体験・具体性を全体性へと象徴化(昇華)することができます。
言い方を換えれば、一人一人の感じている気持ちや実際経験したことは、それぞれで違うわけですが、それが象徴となれば、生々しいもの(個人的感情)が削ぎ落とされ、ほかの人と共感できるシンボル・型として客観的に眺めることができるということです。
いわば、感情的・感性的共感の要素を持ちながら、理性的共感性を促すところもあるということなのです。
見えない自分自身のデータを絵柄に表出させることもできますし、このように相手との知性的な共感性を起こすことも可能なのが、マルセイユタロットと言えます。
「聲の形」「君の名は。」コミュニケーション。
今年はアニメ映画、「君の名は。」のヒットにより、普段アニメを見ない一般の方にも、アニメに接していただいた年と言えるかもしれません。そして、「君の名は。」に隠れてしまっていますが、実は、もう一作品、皆様にも見てもらいたい良作のアニメ映画があります。
それはアニメファンの間では有名な、京都アニメーションが制作した「聲の形」(こえのかたち)という映画です。
耳の障害を持つ子が、主人公の一人(正確には本当の主人公に関わる最重要人物)として出てくるので、多くの人はこの映画を話だけ聞くと、障害者がテーマの映画だと勘違いしてしまいますが、実は、この映画は、人間同士の「コミュニケーション」という普遍的なものがテーマと言えます。(それだけではないのですが)
障害を持つ子はそのシンボルという役割になっていて、実のところ、どんな人の部分にもある、共感性と逆に排他性のような、複雑な心の多面性を、それこそ多彩で高度な象徴をもって描いています。
私はかつて「君の名は。」のことをブログで書いて、マルセイユタロットで言えば、「斎王」と関係する物語と評しましたが、この「聲の形」は、面白いことに、マルセイユタロットでは「斎王」と特別なコンビネーションを形成する「法皇」と関連する映画だと感じています。
「法皇」は、いろいろな意味がありますが、特に、「伝える」というコミュニケーションを示唆してるカードであるからです。
また、「君の名は。」が、いわば、時空を超えたファンタジー的な結びつきを表現していたのに対し、「聲の形」は、現実的・リアルな人間関係(舞台は学校ということで、その集まり、組織も重要です)の意思疎通を描いていました。
前者が時空を超えてもわかりあい、伝わり、理解し合うものなのに対し、後者は同じ空間と時間を共有しながら、しかも気持ち的には決して最初から排他的なものを持っているわけでもない中で、集団とその力学、人間のエゴなどによって、伝わりにくく、誤解してしまうこともある私たちの生活においての現実性を見させてくれます。
そして、さらに言えば、「君の名は。」の中においても、時空を同じにする者たちの間では、理解が難しい点は多少表現されていました。(ただしその現実的和解や理解は見ているほうに想像させる手段を取っています。これを放置とするか、あくまでファンタジー性のほうをメインとしていたため、あえてそうしたのかは評価は分かれるところです)
一方、「聲の形」にも、時空を超えた理解と言いますか、シンクロが起こるシーンがあり、これは現実的な物語性からすると、かなり異質とも言えるものなのですが、そういうことも起こりうることを、それまでの象徴的なシーンの積み重ねで表現しています。
それから、「君の名は。」にしても、「聲の形」にしても、違う性質もの同士(たとえば異性同士)の結びつきが、現実空間で「生きる」「存続」を協力し合う力となること、それが永遠性(死であったり、反対の現実を超越する力であったり)にも関係してくることが描写されているのは、今のこの時代で、日本の映画だからこそという気もしています。
私はこのふたつの映画を観まして、特にコミュニケーションということにテーマを絞った時、まさにマルセイユタロットで言えば、「斎王」性と「法皇」性、さらには「太陽」、「審判」や「恋人」などのカードとの関連も見て取れました。
すなわち、私たちには現実的なコミュニケーションと非現実的なコミュニケーションがあり、また言い方を換えれば、言葉や文字などで、「形」として成っていて、意味がわかるものとして伝えられる形式と、言葉にならない声とか、テレパシーのような声なき声、はっきりとしていない何かインスピレーションのような感覚のもので伝え合ったり、伝わってくる、「形が見えないもの」の形式があるということです。
見えないほうは、時空や現実性も超えて、時にはロマンのように、ソウルメイト、過去生つながりような人同士を繋げることもあるでしょう。
立場や性別、年齢、国籍さえ違っても、何か同じ部分で共感できると言いますか、同じ使命・意志をずっと共有し合う仲間のような、そんな人たちとひかれあい、声なき声でコミュニケーションが可能になることもあります。
一方、人は、ひとつの時空の決まった中での人生を過ごします(個人としての一生)。
そう、現実的な人生・生活です。ここでは、ロマン性もありますが、多くは現実性の認識、きちんとした形というものが求められ、コミュニケーションにおいても、はっきりしたものが要求されることが多いです。
しかし、伝えたくても伝えられなかったり、伝わらなかったり、些細なことで誤解を呼んだりすることもあります。本当の心が、言葉や形・環境・やむを得ない現実の選択によって、曲げられているような感覚です。
そういう場合、形の見えないコミュニケーションが救いを呼ぶことがあるわけです。
ですが、きちんと形として伝えないと伝わらないこともあるのが、この現実の世の中です。
現実的な形あるコミュニケーションもあれば、心や見に見えない感覚でのコミュニケーションもあり、その両方を人は持っています。現実に生きる意味では、実はどちらも重要なものなのです。
現実的なコミュニケーション、あるいはひとつの人生・時代での伝わり方が困難で、誤解を生んだままでも、時空を超越して見れば、そういったことも表面を覆っていた鎧やコーティングのようなものとしてはがれ落ち、真実でわかりあえる瞬間が来るかもしれません。
そう思うと、いつの時も救いはあるのでしょう。
それと同時、現実の今の人生の期間においても、形として一歩踏み出す勇気もあれば、よいのかもしれません。
難しいから面白い、それが人間同士のコミュニケーションと言えるでしょう。
「恋人」と「審判」 そのコミュニケーション
マルセイユタロットの「恋人」のカードと、「審判」のカードは同じ構造の絵柄を持ちます。
それでも、その違いには明確な線引き・数学的な比率があり(これらのカードだけではありませんが)、そのことは無造作にマルセイユタロットが作られているわけではないことを証明しています。
それはさておき、この二枚には、ある種のコミュニケーションの違いといったものが象徴されています。
そして、ほかのカードとの関連と、自分の経験とも照らし合わせてみますと、興味深いことがわかってきました。
それは、人には、人間とコミュニケーションする時と、人以外のものとコミュニケーションする機会・時間があり、その両方の意識的な気づきが自己の変化・変容にも関わっているということです。
さて、私たちが人とコミュニケーションしない時というのは、どんな状況でしょうか?
何らかのことで人と関わりたくないという気持ちの時もあれば、周囲に人がいなかったり、またいじめや村八分など、会話したくてもできない状態に追い込まれていたりと、自分の意志とは関係なく生じる場合があるでしょう。
自分からコミュニケーションを拒んでいても、環境がそうさせていても、それは一言で言えば、「孤独」の状況と言えます。
このような時、誰ともコミュニケーションせず、ただ耐え続けるというのは、相当な意志の強さか忍耐力が要求されます。
普通はあまりに大変なので、そこから、人以外のものともコミュニケーションを取ろうとし始めるでしょう。
もちろん、内なる自分と言いますか、自問自答、独り言のような、自分自身と会話する場合もあるでしょうが、やはり、(心の中の)自分とだけではつらく、ほかの存在と妄想であっても会話したいと思うことになります。
人以外と言いますと、例えば、動物とか植物が考えられますし、そういった「生物」ではなく、モノとか人形とか絵画などのこともあるかもしれません。
いずれにしても、人は孤独の状態に陥った時、人以外のものとコミュニケーションするようになっていくのです。
その状況は、冷静に見れば、気がおかしくなったように見えるかもしれませんし、ほかの存在と言っても、実際にしゃべってくれるわけではありませんから、見ようによっては統合失調症みたいなものにも感じます。
しかしながら、そこに私たちの意識の変容の可能性もあるのです。
追いつめられ、孤独になり、現実の人間とのコミュニケーションができにくくなってつらい状況ではありますが、そこから、人以外のものとコミュニケーションしていくことにより、人でなくても「命」「魂」「エネルギー」のようなものが宿っていることを感じ始めることになるのです。
それまでの、「モノと人間」というように、人間とほかのものが分離したような常識的世界観から、周囲のものすべでが、何か「命あるもの」のように感じてくるわけです。
まるで世界が有機的つながっているように見え、直線から円環的にとらえ直されてくると言ってもよいでしょう。
それはまさに、異種・異質間同士のコミュニケーションから実感する、意識の変容体験なのです。
見えるそのままの形ではなく、その奧に宿る本質的なものと接する機会でもあるのです。
そんなものは妄想であり、自分の思い込みに過ぎないと言えばその通りかもしれません。
ただ、重要なのは、実際に人以外のものに命があったり、コミュニケーションできたりするということではなく、そのような環境に作り替えることのできる「自分」の力の存在なのです。
ただおそらく、スピリチュアル的には、形やモノにとらわれない(人以外との)コミュニケーションを想定することは、非常に重要な視点だと考えられます。
それは別の世界の状態があること、別の次元に気づくことにもなるからです。
たとえ人づきあいが苦手で、人とのコミュニケーションがうまく行かなくても、見えないものとのコミュニケーション、動物や生物、時にはモノとコミュニケートできるチャンスはあります。
あなたのコミュニケーションの能力や豊かさは、実はほかの存在のものとの間にあるのかもしれないのです。
芸術家とかクリエイタータイプの人は、その可能性が高いです。
また先述したように、孤独な状況こそが、通常と異なる異質なコミュニケーションに向きやすい時でもあります。
孤独は不幸とか、寂しいとかのイメージがありますが、孤独にも孤独なりの良さがあります。
何事も両面あり、多くの人とコミュニケーションできる状態にも、逆に言えば、煩わしかったり、情報が多すぎて迷ったり、人に気遣い過ぎたり、時間を取られたりするというマイナス面もあるわけです。
「恋人」カードは、主に人とのコミュニケーションを描きつつ、異質性のものも匂わさせています。
反対に「審判」は、人以外のもの(存在)とのコミュニケーションが示唆されています。
しかし「審判」にも人は描かれていますので、人とのコミュニケーションもが忘れられているわけではありません。(ただし、「審判」の人物たちが、「恋人」カードの人間たちと同じレベルの存在とは限りませんが)
そして、マルセイユタロット自体、様々なコミュニケーションのツールであり、それは全体としての機能だけではなく、一枚一枚においても、それぞれコミュニケートする対象や世界が異なる性質も併せ持ちます。
それくらい詳細に見ていくと、あなたがタロットを使って、何とコミュニケーションしたいのか、すればよいのかということが次第にわってくるのです。
コミュニケーションは、あなたのを迷わせることもありますが、統合的に見れば、どのレベルにおいても、自らの救いになりますし、拡大・成長させていく機会を与えてくれるものだと考えられます。