コミュニケーション

言語・文字、伝達と理解 「斎王」と「法皇」

マルセイユタロットにはコンビや組、ペアとなるカード(とその概念・考え方)があります。

その中では、「斎王」(一般のカード名称では「女教皇」)と、「法皇」(以下同じく「教皇」「法王」)というペアがあります。

このペアの意味するところに、相当に深い教義と秘密が隠されており、実は先日実施した恋愛セミナー(受講生のみの限定セミナー)においても、その一端をお話したところです。

この両者はカードの印象からして、およそ恋とか愛とか、関係なさそうに見えますし、現代的価値観で見た場合は確かにそうかもしれません。

ところが、ある視点から見ると・・・意外にも意外・・というものなのですが、ここではシークレットにしておきます。

マルセイユタロットには、やはり易々と口外できない部分もありますし(縁があったり、準備や用意された人に伝えられる性質があります)、私のほかにもマルセイユタロットを伝えている方はたくさんいらっしゃり、その方たちにもご迷惑をおかけしたくないのもあります。

そうした口伝や隠された秘密とは別に、私自身が気づいたり、マルセイユタロットを象徴として見た時に、一般的に考察できる面ももちろんあります。

このブログでは、そのようなものを公開しているところです。

さて、「斎王」と「法皇」です。

マルセイユタロットの「斎王」の絵柄は、本を手にした女性が描かれています。

一方、「法皇」には本はなく、代わりに弟子のような、聴講者のような人たちが描かれ、肝心の「法皇(法王)」と思える人物は、その人たちに向けてか、もっと別の人たちにかはわかりませんが、とにかく話をしているように見えます。

この対比から見て、現実的には書物(文字)と言語(言葉)ということが浮かんできます。

私たちが何かを知りたい、伝えたいと思う時、文明社会の人間は、文字と言葉で理解したり、伝達しあったりします。

このふたつ(言葉と文字)は欠かせないものです。

しかしながら、これらはまた誤解を生みやすいものでもあります。

国や文化が違えば、言葉と文字はだいたい異なってきますし、同じ国内であっても方言があったり、年齢や属する社会・組織などによって言葉も、使う文字ですら違ってくる場合があります。

また、心の内や感覚、見えない領域を表現する時、どうもそのニュアンスがうまく言葉や文字で表せない、伝えられないと違和感を覚えたことは、誰にでもあると思います。

ましてや、別の言語や文字を翻訳する作業ともなれば、それはもう大変でしょう。

特に、本だけの文字で読んで理解・伝達しようとする場合、言葉よりも、難しいところがあるかもしれません。

実際に本を書いた人に会って、その人からの話を聞くことで、文字ではわからなかったことがはっきりする場合があります。

中には、ビジネス的に、わざと文字(本)ではわかりづらくしておいて、自分たちの開催するセミナーで本当のことをわかりやすく、詳しく話すという手口もあります。

そのような意図的なものはなくても、やはり実際に話を聞いて、説明を受けたほうがわかりやすかったということは多いでしょう。

これは、言葉を聞けたからということだけではないと思います。

やはり、「人間」「肉声」に直接ふれたということも大きいでしょう。

直接会って人から話を聞くということは、音声と言葉の意味以外の、いわば「人間全体」から発せられるものが、単に言葉や文字だけの時よりも、情報量が多いと推測されます。

声や態度、視覚、感情などか入ることにより、雰囲気としてのニュアンスも伝わり、メッセージの質と量が違ってくるわけです。

ですから、そう考えると、文字で読むだけ(本)より、さらにそれを書いた人やそのことを伝えたい関係者から話を実際に聞くほうが、情報伝達の意味で有意義ということになります。

ただ、マルセイユタロットの「斎王」は、本を手にしていますが、読んでいるようにも見えないので、別の情報源があるのかもしれませんし、本の読み方、接し方は我たちが一般に思うものとは異なっているようにも感じます。

それはさておき、文字と言葉というものは、非常に大切なものではあるものの、本質や伝えたいことが、必ずしも完璧に表現できるものではなく、むしろ解釈、人、それを扱う集団、グループによって変わってしまうものと理解しておくとよいでしょう。

文字と言葉は、一種の具体化方法であり、個別化・個性化の手段と言えます。

どの文字を使い、どの言葉を話すかは、自分の個性を決めると言っていいものがあります。

ということは、言葉や文字の扱いを変えることで、自分を変えることも可能なわけです。

気をつけて見れば、似た者同士というのは、同じような言葉回し、言葉使い、文章の書き方などしているのに気がつきます。(ブログとかSNSを見るとよくわかるでしょう)

もうひとつ言いますと、同じ言語や文字のシステムを共有するものが、同じ思想やレベルを保ち、これが非常に特殊(な言語・文字)になれば、特別な言語と文字による秘匿された集団を形成する(ある秘密を守る、鍵をかける)ことができます。

タロットの場合は、文字や言葉というより、絵で見る視覚的なものがメインです。このことから、タロットは、通常の言葉や文字で伝え合う性質・レベルとは異なることがわかります。

神や天使、心や精神、霊的な世界というのは、人間の言葉・文字では表しにくいものです。

マルセイユタロットには、そうした、いわば次元の異なる世界間とのコミュニケーションを可能する絵の文字・言葉があるのです。

私たちは結局、文字や言葉でわかったふうになっているかもしれませんが、その文字・言葉は、ニュアンスや本質として、本当に全員共通の理解(意味)があるかどうかと考えると、実は、誰一人として、同じ言葉・文字の意味を持っていないのかもしれないのです。

ということは、本を読んでも、話を聞いても、本当のところ、一人一人の世界観と意味によって解釈され、誰もまったく同じ意味として思っていない可能性もあるのです。

同時に、それでも共通理解のようなものが人同士でできているということは、純粋に文字・言語で理解しているのではなく、ある種の心、本質、元型といわれるような、エネルギー的なもので感じているのかもしれません。

「わかる」「わかった」ということが、頭の理解と、感情・感覚の納得、ともに必要なのは、このような理由もありそうです。


自分はどこに存在するのか? 関係と映像

タロットを象徴的に見ていますと、私たちには様々な顔(人格・姿)があることがわかります。

そして、いったい、本当の自分とはどんな人物で、どんな顔を持つのかと疑問になってきます。

いや、自分と思うこの自分こそが本当の自分だと、皆さん思うでしょうが、その姿を確認することは不可能です。

たとえ、鏡で見たとしても、反転した像です。まあ、さらに反転した像を見ればわかるのかもしれませんが、姿がわかったところで、今度は内面がはっきりしません。

自分の性格を一言で表すことはできないでしょうし、思考や感情が目まぐるしく変わる(動く)わけですから、「こういう人物」だと自分で規定してしまうことは難しいわけです。

さて、自分を自分で認識することはこのように困難なものですが、他人から見た自分というのは、まさにその映った姿ですから、他人は自分を認識していることになります。(厳密にはそうではないかもしれませんが)

しかしながら、他人の思う自分というのは、言わばペルソナ、あるいは役割のようなもので、やはり自分そのものとは言い難いです。

夫婦や恋人、パートナーからすれば、自分は相手の文字通り「お相手」ということになりますし、その関係性や性別によって、妻だったり、夫だったりするわけです。

同様に、会社や組織では、やはり関係性によって、上司と部下だったり、同僚同士だったりします。

地域社会では、近所のおじさん・おばさんかもしれませんし、自治会員と会長、防犯委員同士みたいななこともあるでしょう。

もちろん家族として、親子・祖父母と孫、親戚の関係ということにもなります。友人であれば、自分は相手の友達ということです。

結局、人間社会における関係性において、自分と他人は規定されると言ってもいいでしょう。

ということは、人間関係と役割が増えれば増えるほど、自分が演じると言いますか、自分がなる役というのも増加するわけです。これは自分から見た他人にも言えます。

よく他人は自分の鏡だと言いますが、こうした役割的な面で見ますと、鏡にしても、面白いことがわかってきます。

つまり、私たちは、いくらでも自分を変えることができるのです。

相手に映った自分の姿は、相手との関係性、相手が自分のことを役としてどう見ているかによって決まるわけです。

言わば、相手鏡(それは相手が思うこちらの役・性質)によって映し出されたものが、自分のひとつの姿にもなるのです。

逆に、自分も鏡を持っており、それに映った相手の姿で相手(との関係性)を認識します。

この鏡は人が相手をどう判断するか、どう見ているかによって変わるものです。複数の鏡を持つことも可能でしょう。

例えば、漫画や映画でおなじみの「釣りバカ日誌」では、ハマちゃんとスーさんは、会社では平社員と社長という関係で、この鏡(役割としての認識では)ハマちゃんはスーさんを社長という姿で自分の鏡に映し出しますが、いったん趣味の釣りの場面においては、ハマちゃんの鏡はスーさんが釣りの弟子であり、釣友と映し出されるわけです。

鏡については、もっと考察していくと興味深いことがわかってきますが、ここでは、鏡よりも、映し出される可能性について指摘しておきたいです。

本当の自分というものはわかりづらいと最初に言いましたが、それだからこそ、このように、人との関係において、その関係の数だけ(いやそれ以上)とも言える自分の姿が相手に映し出されるわけです。

まさに百面相と言いますか、千面相・万面相かもしれません。

それだけ、私たち一人一人、無限の顔(役)になれる可能性を有しているわけです。

しかし、ここが肝心ですが、その可能性も、人の鏡に映し出されなければ出ることがないのです。

ということは、現実的に見て、たくさんの関係性を結んでいくことが、自分の顔の可能性を開くということになります。

別に「いい顔」だけではなく、怒りっぽい顔、ナーバスな顔、臆病な顔、支配的な顔、暴力的な顔といったものも、相手によっては出る(映し出される)かもしれません。

それにとらわれるのではなく、あくまで映し出された自分の可能性のひとつとして受け流すとよいわけです。

つまり、自分というものは千変万化するものであり、今見せている姿もそれのひとつに過ぎないので、人から言われた(批判された)あなたの顔や姿を気にし過ぎる必要はないわけです。

他人に映る自分の姿や役割は、心理的には、自分の一面を統合するためのひとつの手段と言えます。

相手に映るものだけではなく、自分が映し出す相手の姿・役も、人しての可能性として見ることができます。

映し出せるということは、あなたの中に、それに反応する(わかっている)部分があるから映し出せるわけです。

そうしたところで、実は象徴的に、自分が映し出される役と、相手を自分の鏡で映し出す時との両方でよく現れる顔・役があります。

象徴的にというのは、現実的な名前のついた関係性の役割、夫婦とか親子とか、部下と上司とかというのではなく、エネルギーや運動的なものとして見るものです。

支えになるとか、導くとか、取り持つとか、深くするとか、そういった感じでたとえられるでしょう。

おそらくそれが、今回(今生)のあなたとしての特徴といえば特徴となる部分で、本質(しかし本当の自分というのとはまた違いますが)のようなあなたなのかもしれません。

マルセイユタロットでいえば、22枚の大アルカナで象徴(もう少し絞ることもできます)で見ることのできる表現であり、役割です。

結局、本当の自分などなく、スピリチュアル的によく言われるように、全部、またはひとつ、あるいは何もないという状態がある(「ない」のですが「ない」ことが「ある」ということです)だけなのかもしれません。

従って、自分というものは、人同士の関係性、思考や感情などのエネルギーによって、現実空間に映し出される像全体、またはその時その時に現れる像・姿を指すともいえ、最初から何も決まっていないものなのかもしれないのです。


コミュニケーションと妖怪なるものの関係

ゲゲゲの鬼太郎でおなじみの漫画家・水木しげる先生がお亡くなりました。

妖怪といえば水木先生と言われるほど、今の日本人の妖怪イメージを創り上げた方だと思います。

先生が妖怪のことについてお話される映像をいくつか見たことがありますが、何となくタロットの精霊のことを語るタロットリーダーと似ている気がしました。

ここで妖怪が科学的にいるとかいないとかのまじめな話をしてもつまらないですので、ちょっと変わったアプローチで妖怪を考えてみたいと思います。

結論から言えば、私は妖怪を、その存在自体が、一種のコミュニケーションや情報通信・交換の方法のひとつではないかと考えています。

ところで、私は少し民俗学もかじっていましたので、妖怪の類が神の地位から落とされたもの、零落したものであるという説は知っていました。

水木先生自身も、妖怪研究の過程で、そう語っていらっしゃったこともあるようですね。

マルセイユタロットでも、かつて神であった者が姿を変えて、あるカードの人物になっているというものがあります。

どの世界でも、古い時代にそこで崇拝されていた神聖なものが、別の民族に征服されたり、新しい時代になったりして変化した時、意図的であれ、無意識的であれ、姿を変えて(変えられて)、神とは異なる形のものになって、人々の意識に存在するようになります。

例えばキリスト教が主体となったヨーロッパのほとんどの地域でも、キリスト教の聖人、そしてそうした者たちにこらしめられたり、調伏されたりする存在などに、かつて信仰されていた土着の神、古代の神、聖なるもののシンボルがあてがわれているのを見ることができます。

それが妖怪や精霊という、伝説で語られたり、特別な時に現れたりする存在なのです。

いずれにしても、普通の状態や一般の人間とは異なる存在であり、いい者もいれば悪い者もいるという印象になります。

また神なるものが、その征服した民族や、新しい時代の人々にとっての目に見えない部分での聖なるもの、つまり良きもの、正しいものの部分であるならば、妖怪や精霊といったものは、悪いもの、隠しておきたいもの、イレギュラーなものということになります。

ですから、悪魔(的な者)とみなされることもあるわけです。

ということは、心理学的に見れば、自分の影(シャドー)や抑圧されている性格・部分のようなもので、むしろ、そこに解放や自由の種もあることになります。(これは非常に重要なことです)

結局、神や悪魔、天使や妖怪・精霊というものは、別の次元や目に見えない部分の意識とコンタクトするための、人に与えられたコミュニケーションの技術であると、ひとつには考えられるのです。

私たちはコミュニケーションといえば、通常、話す言葉、書く文字、目に見える画像・映像などの情報、音声などによると思っています。

しかし、色でも見えない帯域があったり、音でも普通は聞こえない音域があるように、人間の通常の五感だけでは感知できない部分があります。

またいわゆる第六感というものも人にはあると言われ、それらよって得る情報があると考える人もいます。

そういった(通常感知できない)部分を知ろうとしても、普通は感覚的に無理なわけです。

ですから機械や装置というもので、今は補っているわけですが、この、通常は見えない・感じない部分を、特別な人のような存在を仮定することで、認識の補助とするのが、精霊的なものだと言えます。

神や悪魔、妖怪や精霊、天使といったものが、その各周波数や帯域に生きている存在ということで見るわけです。

そうした存在は、周波数を変えることで、こちら側の通常状態に現れることが可能になるのかもしれません。

逆に私達が、何らかのことで、あちら側の状態と合った時(シンクロした時)、コンタクトが取れ、コミュニケートできるとも考えられます。

人を主体とした場合、そうした存在は、人が異次元や普通に知覚できないこととコミュニケーションしたり、情報を取得(交換)したりする一種の「機器」となりますが、存在側を主体とした場合、存在はまさに生命的なものとなります。

存在とのコミュニケーションやコンタクトで大事なのは、水木先生もそうであったように、やはり、相手側(妖怪などの存在側)によって立つこと、見えない存在を生命的なものとしてコミュニケーションする(できる)と考えられるかどうかだと思います。

もっと言えば、「考える」というより、「思う」というのに近く、感情的(リアリティの感覚)なものが鍵となると言えるでしょう。

この感覚・状態というのは、タロットリーディングにおける、タロットの精霊とのコンタクトという一連の概念・操作と、やはり似ているように感じるのです。


家族・親子間コミュニケーションで使うタロット

人と人とのコミュニケーションは案外難しいものです。

第一にコミュニケーションには言葉が主に使われますが、言葉はいわば本質のレッテル・ラベルのようなもので、誤解を生みやすく、言外という言葉もあるように、言葉や文字以外の交流、読み取りという部分でのコミュニケーションも少なくありません。

そこが意外に重要な部分を担っていることがあります。

かといって、複雑に考えすぎるのも問題で、日本人は特に見えない部分を察することに特徴はあるものの、それがかえって言葉足らずになったり、空気を読まないといけないというような圧迫感を覚えたりすることもありますね。

ところで、直接、面と向かって話すコミュニケーションが一番伝わりやすいと思っている人もいるかもしれませんが、実は必ずしもそうではないことは、皆さんも経験されているでしょう。

好きな人の前ではうまく話せないとか、大事なことがなかなか思いきって言えないとか、恋人・夫婦・親子・家族・親友だからこそ、かえって直接は言いにくい・・・なんてことはあるものです。

そういう場合、直接ではなく、間接のコミュニケーションのほうがうまく行く時があります。

それは間に何かをはさむことで、クッションとなり、話しやすくなったり、冷静になったりできるからですね。

以前、ブログでも書いたように、夫婦間でもぬいぐるみなどを間に介して話す(ぬいぐるみを人間のようにして、自分を代弁させる)と、案外、気まずい時でも意志が伝えやすくなります。

さて、タロットもこうした、間接のコミュニケーションの道具として使うことができます。

タロットは一種の絵文字のようなものです。

絵を見て伝え合うという意味では、コミュニケーションツール(道具)のひとつです。

これはタロットの生徒さんや、タロットを学習した人の中でよく聞く話ですが、親子・夫婦間でタロットを間に入れて会話すると、普段とは違う、いろいろなことが話し合えるということがあります。

特に親子間は意外と効果的です。年齢は小学生くらいのお子さんからでも可能です。

それはタロットが先にも言いましたように、文字ではなく絵でできているからで、難しい言葉ではなく、絵を見て語るということは、小さいお子さんでもできるからです。

この場合は、親(タロットを学んだ人)がタロットリーダーになります。

そしてお子さんには純粋に絵を見てもらっての印象を話してもらいます。それを親がタロットの象徴に基づきながら、話をしていきます。

言ってみれば、とても純粋なタロットリーディングです。

中学生以上くらいになってきますと、十分タロットの意味を伝えながらの話もできますので、普通に大人の感じのタロットリーディングをしていくとよいでしょう。

最初のきっかけとして、「お母さん、タロットを習ったので、あなたにタロット占いをしてあげようか」「練習につきあって」みたいな感じからでいいと思います。

この時、二人は親子でありながら一面では親子ではなく、つまりはタロットリーダーとクライアントの関係になり、家族から離れ、客観的な関係性へと変化します。

実の親より、おじさんとかおばさんに、気軽に話せたり、相談しやすかったりするのは、こうした肉親ではない気軽さ、客観性があるからです。

その状態が、タロットを介することで、実の親子にも訪れるのです。

すると、親御さんとしては、今まで知らなかったようなことが、子供さんの口から飛び出ることを聞いたり、自分自身でも、普段はつっこまないことや、感じないことを感じたりするようなことを経験します。

お子さんのほうでも、どうしてこんなことしゃっべってしまうんだろう・・・みたいな感じで、思わず、本音や感じていること、いつもの親に対しては言わないこと(言えないこと)を話す場合があります。

それがタロットの効果なのです。

「効果」とはふたつのことを言っています。

ひとつは「間にツールを入れる」間接コミュニケーションの方法によって、非日常化的効果・客観的効果が出るということ、そしてもうひとつは、タロット(マルセイユタロット)自体の象徴効果です。

前者は、別にタロットでなくても何でもよいわけです。

しかし後者は、マルセイユタロットならではの効果があり(図形の特徴、人の元型を象徴しているデザインなどからによる効果)、マルセイユタロットでなければならないこともあります。

あと、自分たち親子でするには、まだ照れとか、抵抗がある場合でも、お子さんの問題を、一緒に習った人にリーディングしてもらうとか、仲間に読み解いてもらうとかすることで、やはりその結果を話題として、タロットによるコミュニケーションが親子でできます。

ということで、親子や家族間のコミュニケーションにも、マルセイユタロットは有効に使えることもありますよ、といった話でした。


同じことは伝えられない、しかし。

私はマルセイユタロットを教え、伝える講師をしています。

長年というほどではないですが、それなりに続いていますので、教えている時間と受講される方の数も、自然に増えることになってきます。

かつては普遍的な教えをきちんと守って伝えていこうという気持ちが強かったのですが、ずっと講師をやってきますと、同じものを全員同じ形で伝えることはできないということに気がついてきました。

また、伝えることだけではなく、受け取るほうにも違いがあり、例えば同じ言葉、文章、意味などをこちらが話したとしても、聴いている方々には、必ずしも同じ内容で受け取っているとは限らないのです。

これはイメージと個人の体験にもよります。

もし「太陽」という単語をこちらが言ったとします。

そうすると、全員、聴いているほうは確かに「太陽」を思い浮かべるでしょうが、それぞれの抱いているイメージ、想像した「太陽」は、おそらく、皆、違っているはずです。

ある人は自分の家から見る太陽をイメージする人もいれば、ある人は本や絵が描かれた太陽を思う人もいるでしょう。

黄色く輝いているのか、赤く燃えているのか、はたまた黒い太陽として不思議な映像を思い浮かぶ人もいるかもしれません。

このように、「太陽」ひとつとってもそうなのですから、ましてや文章ともなってきますと、かなり違ったイメージを抱いたり、意味ですら異なって受け取っていたりすると考えられるのです。

ですから、伝える方としても、どのレベルで、何を伝えるのかということを考えないといけません。

それは抽象と具体のバランスともいえますし、本質と周辺の、巧みな組合せと言ってもいいでしょう。

先述したように、結局、人はそれぞれの個性でもって、一人一人違うものとして受け入れていきますので、その前提を認めることが重要です。

と同時に、そのバラバラで多様な個人個人のイメージを、あるレベルにおいて統合したり、本質的・抽象的・象徴的にまとめあげたりしなければなりません。

タロットでいえば、一枚のカードの意味を、言葉では言い表せないけれども、「本質的にはこういうこと」だと心と頭で理解するようなことであり、また逆にいえば、その本質に至るためには、「具体的で個別的な例えや次元の話も、時には必要」であるとなります。

この具体的な例えや次元の段階が、個性的ということであるので、人によって違うわけです。

政治や仕事のことで表現したほうがわかりやすい人もいれば、恋愛や人間関係で例えたほうが入ってくるという人もいるようにです。

ということは、ここがとても大事なことですが、自分が理解しやすい、「ああ、そういうことなのね」と気づく例えや表現・次元こそが、自分に向いていたり、適しやすい(得意とする)分野であるということになります。

ネットの掲示板では、ある事件について、「ドラゴンボールで例えるならば、どういうことになるのか説明してくれ」(笑)みたいな風に書かれているのがありますが、それはアニメや漫画が好きな人には、そういう例えでしてくれるほうがわかりやいと同時に、その人はアニメや漫画の分野は得意であるということになります。

さらには、それぞれが個性の生き物であるとしても、「日本人ならば」とか、「関西人ならば」とか、「この年代の人ならば」・・・という具合に、典型的な共通項とか、共感できる要素で結ばれる集団というものがあります。

それでもって、グルーピングできる人数のデータによって、本質理解の助けとなることがあります。

抽象的なものの理解には、できるだけ多くの共通因子や共通項で例えるか、個別になじみのある分野で例えるかで、わかりやすさが変わってくるのです。

あと、伝えられたものをさらに自分が伝えていくということになりますと、伝言ゲームではないですが、微妙に最初の伝達からズレが生じてきます

コピーを重ねるうちに、原本が何であったのかがわかりづらくなってくる、あるいはオリジナルがぼやけてくるというのに似ています。

ただ、悪いことばかりではありません。人の伝達は、単純な機械のコピーとは異なるからです。

いわばオリジナルな複製と言ってもいいもので、結局、これも人のそれぞれの個性によって、伝えられたものに自分の表現が入れられて、同じではあっても、別のものとして伝えられていくのです。

そこで、個性的な表現によって新たな創造がなされ、世界は多彩になっていきます。その多彩さがまた、本質へ引き寄せられる人たちへの機会を増やしていくことにもなります。

ですから、きちんと伝わっているかどうか、伝えられているかどうかとナーバスになったり、嘆いたりせず、その人が自分流の表現で、伝えられたものにオリジナルな複合と発展が遂げられていくことに期待したほうがよいわけです。

しかしながら、たとえ抽象的ではあっても、本質が伝えられているかどうかという点は、伝達において重要でしょう。

枝葉や周辺のことはその人独特の表現ではあっても、本質そのものはきちんと伝えられているかはチェックされるべき点です。

しかしそれは、ただ単語や並べられた言葉のテスト(チェック)では本当はわからず、自己の体験や表現によって語られたり、文章化されたりして出てくる魂的とも言える表現から伝わってくるもので、確かめられるのです。

普遍的で本質的なものは、実は個性的で具体的なものの中に流れています。

伝えられた言葉や文章をまったく同じにコピーして語ったとしても、そこに本質的なコアなオリジナルの理解がなければ、それは真の伝達とは言えないでしょう。

伝達は自分流になるのが当たり前と思いつつも、その自分流の中に、本質的で普遍的なものがあるかどうか、ここが大切なところとなります。

その点では、あることを本当に伝達していくという意味では、教えを聴いた人が、得手勝手に次にそのままコピー状に伝えたり、教えたりしていいわけでもないのです。

このことは、マルセイユタロットでは「法皇」と「恋人」カードの並びや、「正義」と「隠者」の並びなどに見ることができます。


Top