コミュニケーション

人間関係で得られる自分の大切さ

人間関係、多くの人がこれで悩みますが、反面、たくさんの人が人との関わり合いで喜びを感じます

苦しみが多い分だけ、喜びも多い、まさに宇宙的バランスともいえる話です。

だからこそ、なるべく人と関わることで、様々な感情や思考を体験することになり、つまるところ自己の世界を拡大し、成長につなげていくことができるわけです。

とはいえ、何が何でも人と関わらねばならないというわけでもありません。

物事は陰陽、二元の表現でバランスが取られる世界です。時には一人部屋で閉じこもったり、自然豊かな人のいない環境で静かに過ごしたいと思うこともあるでしょう。

マルセイユタロットでも、例えば「恋人」カードのように人と関係している姿を描いているのもあれば、「隠者」のように孤独に隠れて生活しているように描かれているカードがあります。

そうして一人の時、家族といる時、親しい人や仲間と過ごす時、社会で職場や公の場で大勢の人と活動している時などなど、いろいろなシーンとフィールドで自分を鍛え、時に慰め癒し、あらゆる局面を経験しているのだと思うことができます。

また人は一人では自分のことがわかっているようで、実は案外理解していないことはよくあるものです。

一人の世界にいると、自分と他者の違いがわかりにくくなります。ということは、自分が何者であり、ほか(他人)とどう違うのか(つまりは個性)が見えにくくなるわけです。

従って、やはり他者と関わるほうが、逆に自分というものが見えてくるのです。

この場合、ネガティブとポジティブの両面を他者と自分との関係において見ることになります。

たいていは他者にあって自分にはないものが目に付き、その比較によって自分を悩ませたり、他者が嫌いになったりします。

これはなにも能力やモノの所有だけの話ではありません。

自分は「こういう状態がいいと思っている」「こういうものが正しいと考えている」というものがあるのに、相手は「それではない」「それが正しいと思っていない」という、自らの持つ好みや考えが他人には「ない」という価値観的所有の問題もあるわけです。

こういうマイナスと言いますか、ネガティブな所有比較によって、人との関係で自分が悩むことが結構あります。

しかし、物事は二元のバランスであることは再三話してきました。先述したように、他者と比較するからこそポジティブに思う面も出るのです。

それは例えば、自分では悪い面、何もよい特徴とは言えない部分と自らが思っていたことが、他者から見れば、実はそれがすごい能力だったり、価値あるものであったりすることです。

言ってみれば他者による自分の個性の発見(確認)というものです。

「え、そんなことがうらやましいの? すごいの・・・?」と自分が驚くようなことが、他人から言われることがあります。

自分は自分の世界の中にいるので、それがなかなかわからないわけです。

他者という別の世界観があるからこそ、それに照らし合わせると、あなたの存在も多次元的存在へと変化します。

あなたは自分自身が思う自分だけではなく、他者があなたと接し思う数だけの「あなた」が存在するわけです。

実際、クライアントで来られる方とかタロットを受講される方々など拝見していても、とても魅力的ですばらいものをお持ちなのに、自分ではそうとは思っていないという場合が多々あります。

また普段抑え込んでいる奥底にある輝き・自由・冒険性、その逆に極めて誠実で集中力に富むような気質も、他者からすると、その人の中にあるのが見えてくるのです。

それを指摘してもらうだけで、その人を抑圧していたものがはずれ、自己の解放へと進むきっかけになる場合もあるのです。

マルセイユタロットは人の元型も象徴しますので、タロットで表されているモデルは、自分自身、そして他者にも存在し、それを人間関係において共有することもできれば、自己の個性として発見するツールとして活用することもできます。

現実世界ではペルソナと言って、仮面をかぶり、役割に応じていろいろな人とつきあっていかねばならないケースと場面があります。

それも悪いことではなく、社会生活や交際をスムースにするための手段であり、人に備わった偉大なる力と言えます。

ただ、あまりにも仮面をかぶりすぎたり、付け替えすぎたりして、本来の自分と言いますか、純粋で素直な部分というのが出しにくい状態になってきます。

仮面は防具でもあるので、生身の自分が傷つけられるのを防いでいる意味もあり、それでずっと防具をつけすぎていると、守られている分、生身を出すのが怖くなってくるわけです。

よく「子供のようになればいい」と言いますが、それは本質的にはその通りではありますが、大人であることをやめるわけにはいきせん。

大人であるのは、仮面をつけることができる能力を身につけたということでもあります。社会性や公共のルール、人に迷惑をかけないこと、自制心を持つのが大人です。

何も考えず、傍若無人に無軌道で人に迷惑かけてふるまうことが、自由や子供心を持つということではないことは誰しもわかるでしょう。

そんなふるまいをすることは実は簡単であり、それが問題であることはわかっているので、誰しも自由性と制約性の狭間で悩むのです。

しかしながら、やはり何事もやり過ぎは問題となります。

自分が自分でないことは、実は仮面をつけ続けている中で、それが過度になってくると、自分自身で何となくわかってきます。

あるいは、実際に自分が生きるのが苦しく感じたり、環境的・状況的にも不幸に思うようなことが現れてきたりします。(内なる葛藤の外への投影)

そうした時、心身に問題が出たり、人間関係もおかくしなったりすることがあります。

自分のバランスが崩れているので、その影響が内外に立ち現れてくるわけですね。

自分のバランスを取り戻すのにはいろいろと方法はあります。

それは自分自身が実は知っており、自分の表面意識はわからずとも、自然に導かれるように人に出会ったり、本に巡り会えたり、方法を教えてもらったり、環境を変えざるを得ない事件が起こったりすることがあります。

あと、他者の中にその人が気づいていないすばらしさ、良さを指摘してあげるのもよいでしょう。

それは結局、自分の良さを再発見したり、新発見したりすることにつながるのです。

なぜなら、人の良さを見つけられる(理解できる)ということは、あなたはその価値を知っているのであり、同時に自分にもその要素があるからなのです。

あなたは多重の存在であり、今自分が思っている以上の可能性と大きさ、深さがあります。

あなたの良さはどこかで誰かが必ず理解してくれていますし、それがわかる機会に、自分が望めば、あなたが今考えているよりも多く出逢うことになるでしょう。


学びにおける質問の重要性

私はマルセイユタロット講座の講師をしています。

するとやはり、タロットと言えど、教えられるだけの一方的なものの見方から、双方の立場として見ることが増えてきます。

ところで日本に住む私たちは、ほぼ誰もが義務教育の課程として学校に通います。最近は大学まで進む人が多いですので、生徒、つまり「受講する側」としてはかなりの期間を過ごすことになるわけです。

言ってみれば、学ぶ側のスタイルというのは、この学校時代に身についてしまうのです。

最近の学校はどうかわかりませんが、私の学生時代を見ましても、授業というものはただ先生が「黒板に説明したいことを書いて話す」というもので、生徒もひたすらノートにそれを書きまくるという形式が多かったように思います。

今後はタブレット型の機器などの普及で、そうしたスタイルも変わってくるとは予想されます。

とは言っても、今のほとんどの大人の人は、黒板やホワイトボードに書いたものを写し、試験前になってそれらを暗記するという勉強のやり方に慣れていると想像できます。

そして最初に戻りますが、私が教える側の立場になった時感じたのは、学生時代、もっと先生に質問すればよかったというものです。

授業のスタイルの全体的な問題は、確かに簡単ではないものが日本にはあると思います。今の状態が、いいか悪いかは賛否両論でしょう。

ただ、個人レベルで見た時、少なくとも質問はもう少ししても良いのではないかと思うのです。

先生も機会が与えられないと、進行は先生のスケジュールと思いによって行うしかなくなってきます。

ここに、もし生徒さんからよい質問が出ると、先生も答えざるを得ませんし、その質問と回答自体が当事者だけではなく、聞いているほかの生徒さんたちにも学びとなることが多いのです。

先生のほうでも、簡単には答えられないような質問が出れば、さらに精進する必要性に迫られ、より高いレベルへと自分を誘うことができます。

そして生徒さん側も、質問するという行為が勇気と自信を自らに与え、学びを受動的なものから能動的なものへ変えることができます。

質問するためには授業の内容に関心と興味を持たねばならず、また質問をして行くことにより、質問の投げかけ方・まとめ方(構成とか話し方等)もレベルアップしていきますので、物事の本質をつかむのが早くなり、おそらく外国語さえ学べば、国際的にもコミュニケーション技術は向上するものと考えられます。

質問は自分のわからないところを明確にします。質問力が上がると、漠然とただ外から流される人生ではなく、主体的に生きる力が与えられます。

質問の根源ともいえる「なぜ?」という問いかけ、これがあらゆるものを深く叡智あるところへ導くのです。

そもそも大きな質問テーマとして、私たちはなぜ生きているのか?存在しているのか?というものもあります。

あまり考えすぎるのもよくありませんが、内外に興味と好奇心を持ち、問いかけていくこと人生の質を高めることになると私は思います。

マルセイユタロットを教えるようになった時、今まではそれほど意識していなかった事柄でも、人に伝える段階では、「果たして、なぜこのような意味なのか?」というようなことを知らなくてはならなくなりました。

そうして、自分なりに文献や資料などを調べ、誰かに聞き、時にはタロットの精霊そのものからインスピレーション的に伝えられたことで、やっと人にタロットを教える立場となったのです。

結局、自らの疑問・質問に自分で答えを見つけようと模索・探究・行動する時、必ず何らかの道筋・指針・回答が得られるものだと思います。

たとえ明確な回答が得られなかったとしても、その過程こそが自分を成長させることは間違いありません。

何かの学び・学習をしていこうと思う方、現在している方は、学校時代の受身の方法から脱却し、積極的に質問をする、または自らに問いかけるような意識で臨まれるとよいと思います。


コミュニケーションのバランス

コミュニケーションの構造は、相手の話を聞くことと、自分の話したいことを伝えるという交換にあります。

まさに出し入れ、受容と伝達、インプット・アウトプットということになり、これを象徴的・エネルギー的に表現すれば、陰陽と呼ばれる様式になるわけです。

このように、実はコミュニケーションにも陰陽があるということであり、ということは、コミュニケーション以外の陰陽要素とも結びつけていくことが可能になるのです。

しかし、まったく違う分野のものを結びつけるのには、難しさがあります。いわば、いったん表面的な飾り立てを削ぎ落として、「陰陽」要素というような極めてシンプルなものにまで凝縮しなければならないからです。

その作業やモノサシとして使い勝手がいいのが「象徴(シンボル)」であり、私の伝えているマルセイユタロットもそのひとつなのです。

さて、コミュニケーションも結局は内外、陰陽エネルギーの交換・交流だと考えますと、そのバランスを見れば、どちらか一方に偏り過ぎていると、人は違和感を覚えたり、気持ちが落ち着かなくなったりするのが容易に想像できます。

ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、この「バランス」とは、目盛りや分量で計ったような50:50(フィフテイ・フィフティ)のものではないということです。

この観点は意外に重要です。というのも、真の「平等」や「公平」というのは、まったく皆が物理的に同じ条件でなけれはならないということではない(同じ量ではない)からです。

すごくわかりやすい例で言います。

ここにりんごが4つあったとします。そして子供が2人いました。普通は、りんごを二つずつ分ければ平等だと思うでしょう。しかし、ここに詳しい情報が入れば別です。一人の子供はまだ赤ちゃんでりんごをそのまま食べられません。もう一人は健康で元気な男子高校生です。

この場合、りんごを二つずつ分けるのは公平と言えるでしょうか? もちろん非常に長期スパンで考えると、二つずつ分けておく(ストックしておく)というのは公平で平等かもしれませんが、りんごを長期保存できるかはわかりません。

というように、諸々の個別事情というものを考慮に入れると、実は公平や平等というのも変わってくるわけです。真の平等や公平というものは、実は神のみぞ知る基準かもしれません。

公平や平等は長期・短期や、宇宙視点か現実視点かでまた変化もしますし、知性や智慧がより磨かれれば、高度な平等観を会得することができると解釈できます。

ではコミュケーションに戻ります。

コミュニケーションも、もともとその人の持っている性質(パーソナリティ・性別等)や、今置かれている立場・環境によって、陰陽やエネルギー交換の度合いが変化します。

先述したように50:50が必ずしもよいわけではありません。それでも、極端にどちらかに偏っていてはそれを回復・修正しようとする働きが自然に出てきます。

その自然に逆らって、抑圧したり、無視したりすれば、人間関係に支障を来し、自分か相手かを傷つけることにもなりかねません。

そのセンサーとして、やはり大切なのは自分の感覚です。具体的に言えば、違和感や落ち着きのなさ、「言いたい」と思う気持ち、逆に「聞きたい」と思う感情などがあります。

特に起こりがちなのが、もともと受容的な行動や精神を好む傾向の人が、過剰に受け入れすぎて、自分の言いたいことを抑えている場合、もうひとつはその逆で、普段から話やおしゃべりが好きで、よく自分のことを話している人が行き過ぎて、人の話を聞こうとしない態度になってしまっているというものです。

ものすごく単純なことですが、言いたいことを言うか、もっと人の話を聞くだけで、多くの人のコミュニケーションがよくなり、自分も相手も活き活きとしてくるのです。

よく話を自分からする人は、努めて人の話を聞く「間」を空けてあげましょう。「間」与えるということです。

こんなことでも、「与える」ことにつながり、それはほかの陰陽要素、例えばお金の収支などとも関係してくるのです。

反対に、普段よく人の話を聞き過ぎている人は、時には人の話を遮ってでも、自分の話したいことを言ってみてください。

あなたが言いたいことを言っていないので、相手は勝手に「それでいいのだ」と判断して、あなたの気持ちを無視して進めてしまうことになるのです。

それであとから不快な気持ちになったり、自己嫌悪する悪いサイクルを断ち切りましょう。ただ一言、嫌なら嫌だと、賛同するならOKだと、その気持ちを述べればいいだけなのですから。

言いたいことが言えていない、伝えたいことが伝わっていない、聞いてほしいことが聞いてもらっていない、こうした些細でシンプルなことがお互いの誤解やすれ違いを生みだし、人間関係の大きな問題となっていることがあるのです。

日本人特有の以心伝心も大切ですが、昔の人より現代人は西洋化されている分、かつてのような第六感が鈍くなっていることもありますので、それではわからず、問題が生じがちになるのです。

さらにそれと同様に、逆に主張しなくてはわからないとなって、話を一方的にする人も多くなってきましたので、「聞いてほしい」という欲求も昔より増加していると考えられます。

要は、今は、言うべき時と聞くべき時とで、ちょっとメリハリとして意識しなくてはならない時代になってきたと言うことです。

それはともかくとしましても、あと一歩、出すか引くかするだけで、劇的に事態は改善されることがあります。人に気遣うあまり、結局自分も相手にも不快で迷惑をかけていることもあります。

ほんの一時の勇気自制が、場や人に本当の力を与えるのです。まさにこれはマルセイユタロットの「力」のカードの極意でもあります。


情報を発信する人へ。

マルセイユタロットを知るようになって、この世の中は大きく分けてふたつの世界とモノの見方があり、またさらに細かく言えば、多様な世界(観)があり、人の数だけ世界があるのだとわかってきました。

いわゆる表の情報とか裏の情報とか言われるものも、そうした部類に入ります。

究極のところ、どんな情報であれ、自分が信じるか信じないかということでその情報が自分にとって真実と成り得るか、そうでないかの判断のもとになっていると思います。

この信じ方というのが、まさに人によって千差万別なのです。

しかし、これもまた大まかな分類や傾向で見ることが可能で、たとえば古代西洋風に言えば、四大元素別の「信じ方」があります。

一部の例を示すと、「私は実際に体験しないと信じない」というタイプ、「いろいろな情報を整理して、たくさんの人が言っているからそうだと信じる」タイプ、「とにかく、自分の信念に添っているから、あるいは信頼している人からの情報だから信じる」というようなタイプなどで見ていくことができます。

またたいていはそれら(信じ方タイプ)が複合しており、そのうち、一番重きを置くのが「この信じ方」ということが一般的かもしれません。

さて、あの東日本大震災以降、様々な情報がネット・報道・口コミ等で飛び交っています。特に福島の原発問題はその最たるものと言えます。

またそこから派生したり、先頃東京五輪が決定したニュースもあって、日本のこれからについてもいろいろな意見が出されています。

それらを読んでいて思うのは、情報をただ流すだけの人と、「たがら我々はどうすればよいのか」という改善策・対応策を一緒に書いてくれている人の二種類があるということです。

前者の人も後者の人も、情報を仕入れる、与えてもらうという観点からはとても有意義ですが、時に前者の人は私たちを絶望に淵に沈めるか、ただ楽観視させるだけになることもあります。

どうも、よい情報・悪い情報に限らず、それをお知らせする人は自分を情報通と思っているのか、どちらにおいても選民思想というか、そこはかとなく傲慢さを感じます。

「私は真実を知っている、どうだ、教えてやったぞ」というニュアンスが伝わってくるのです。

もちろん、皆さんのためを思って教えてくれている人もたくさんいますし、ただ真実を伝えたいという情熱と謙虚さをもってお知らせしてくれている人も少なくありません。

しかしながら、特に現状を悪い状態として「実はこうなんだ」と知らせる人の中には、日本全体、または一般のささやかなながらも頑張って生きている人たちを突き放すかのような感覚が受け取られます。

いわく、「もうダメなんだよこの国」とか、「こんなバカな国民が信じられない」みたいなものが裏に感じられるわけです。

それは結局、「自分はえらい」「私は違う」みたいな独善的か、反対に投げやりで消極的、タロット的に言うとアーリマン・ルシファー的なものに支配されている気がします。

それから特定の人への怒りが一般の人にも向けられている場合もありそうで、そこに情報を発信している人の個人的な恨みのような感情さえ見ることもあります。

ですから、なるべく皆さんに向けて(現状がまずいことの)情報を発信していたたく方は、その改善策や希望に至る考えを書いていただきたく願います。

別に具体論ではなくても、精神論でもいいと思います。具体策はわからないけれども、こうなってほしいとか、こういう希望があるのでは・・というものでもずいぶん違うと思います。

人を絶望に貶めて、何の得(徳でもあります)があるのかと言いたいわけですね。(そういう役割もこの世の表現としてはあるので、頭ではわかりますが)

絶望状況を知らせるのは、それだけ深刻であるわけですし、絶望なら絶望状況として受け止めねばならない場合もあります。

しかしたとえそのような状態においても、私たちに少しでも気持ちを整理できるもの、納得できるもの、あきらめず、生きていく勇気や力が与えられるものを書いてほしいと思います。

ま、しかし、これも私の感情や我が儘といえばそうでもありますので、単なる一個人の願いとして受け取っていただければ結構です。


嫌いなもの・人への対処法

人間であれば、好き嫌いという感情が出るのは当たり前です。

好きなことに対しては、誰しも積極的になったり、好意的に見られたりして問題はありませんが、嫌いなことに対して、どう向き合うか、どのように対応すればよいのかで、人は悩みます。

従って、好き嫌いの問題は、嫌いなこと(人)への対処であると言い換えてもよいかもしれません。

ただ「好きなことが見つからない」とかと言った悩みもあるので、「好き」の部分での問題がないわけではありませんが、「嫌い」な方がウェートは大きいでしょう。

さて、この「嫌い」ついてどするかですが、結局は「嫌い」なものを受け入れるか、「嫌い」を好きに変えるか、「嫌い」は嫌いで放置しておくかの対応があります。

あと、もうひとつは、その中間とも言える方法で、「嫌い」の一部を認め、そのほかは「嫌い」にしておくというやり方もあります。

実は「嫌い」なものへの対処方法というだけではなく、物事の選択において、この4つの方法は基本ですので覚えておくとよいでしょう。マルセイユタロットでは「恋人」カードでこのことは表されています。(別の裏カードも考慮すると、さらに確実です)

それで4つの方法のうち、「嫌い」なものを「好き」にするというのは、180度好みを変えるわけですから、労力としては一番大変です。

けれども、それができると反転したエネルギーによって、強烈な「好き」に変わる可能性もあります。

最初はイメージで嫌いだったけれど、やってみたら意外に面白く好きになったという趣味や、最初は嫌いな人でも何かがきっかけで好きになり、パートナー・親友として続いているというようなケースですね。

とはいえ、やはり普通は、嫌いなものを好きに変えるのはかなりの努力がいるでしょう。

これと真反対の、「嫌いを放置」するの方法ですが、これは確かに楽ではありますが、人間的成長が望めない対応です。

せっかく違う価値観や個性を見せられているのに無視してしまうのは、自分の可能性拡大の機会を失っていることにもなります。

しかしながら、本当に嫌いなもの、生理的・精神的にダメージが来るくらい嫌いなものを無理して関わろうとするのも、人生の時間とエネルギーを浪費してしまうことにもなりかねませんので、これも程度の問題だと言えます。

そうなると、現実的でいて自分の成長も考慮する方法となると、「嫌い」を受け入れるか、「一部」を認めるということになるでしょう。

中でも、「自分はこのようなものが嫌いなのだ」と認め、「受け入れる」ことは大切です。その際、嫌っている自分をジャッジしないことがポイントで、ジャッジし過ぎるとまさに自分を嫌う「自己嫌悪」に陥ります。

ただ、よく心理やスピリチュアルで言われるような、「人の嫌いな部分は自分にもそれがあることを認める」「人は自分の鏡」という考え方を鵜呑みにしてしまうのは、少し危険があるので注意が必要です。

個人的にはこれには一部の真理が含まれていて、確かに自分を成長・浄化せさるための有益な手段と見方だとは思いますが、単純にそのまま他人を鏡作用として当てはめると、前述したようにジャッジが入り、自己にネガティブさばかりを見つけてしまう恐れがあるのです。

つまり、「私って、この人・あの人・たくさんの人の悪い部分を持っているダメでひどい人間なんだ」と思ってしまうわけです。

これでは自己尊重どころか、相手のネガティブさを自分に拡大投影して植え付けているようなものです。何事もバランスが大事で、相手のネガティブが自分にもあると思うためには、自己尊重(尊大ではありません)がそれと同等に必要です。

たとえば人は自分の鏡だとするのなら、、反対に、いいことがあった時、ポジティブな人・親切な人と接した時、成功して輝かしい人と出会った時・・・なども、「自分にそれがある」「自分もそうなんだ」と積極的に見ることができるはずです。なぜか、多くの人は人のポジティブな部分は自分には見ようとしないのですね。(笑)

ということで、ここでひとつ提案と言いますか、マルセイユタロットから得られた「ある便利な方法」をお伝えしたいと思います。

それは嫌いなものや人を個別化して、さらに抽象化するという方法です。

人間で考えてみればわかりやすいのですが、ある人が嫌いだと思ってもその人をトータルとして嫌いと見たり、表れている嫌いな部分そのものを真に受けたりするのでないということが鍵です。

トータルで見ないということはよく言われるので、詳しい説明はカットします。

簡単に言えば「人格」と「行為」は別として見たり、嫌いな人でもその人全部が悪いわけではないと考えたりするやり方で、まあ、比較的当たり前の「焦点ずらし」による感情中和法です。

もうひとつの方法は、例えばその人が貧乏ゆすりをしているのが嫌いだと思えば、貧乏ゆすりそのものは確かにあなたにとっては嫌でしょうが、それを「貧乏ゆすり」という現象・表現として人から切り離して個別に取り上げ、さらに抽象化するという作業です。

「抽象化する」とは、もっと大きな括りで見てみるということです。

そうすると「貧乏ゆすり」とは、結局「いらいらしている時の癖である」となり、もっと単純化すると、「単にコミュニケーションの際の癖がある」とこの場合には考えらます。

それを今度は「自分にもある」として考えます。そう、もしかすると、あなたも知らず知らず人前でしゃべったりする時、貧乏ゆすりではなくても、口癖や仕草があるのかもしれません。

それが相手にとって不快かどうかはまた別で、ひょっとすると他人はほとんど気にも止めないもので、ただ「癖がある」という程度のものなのかもしれませんが、「自分で注意してみるのもありかな?」と思うことはできます。たぶんそのほうが、もっと人前でよいコミュニケーションができるのでしょう。

というように、相手の嫌いな部分をそのまま自分にあると受けるのではなく、普遍化や抽象化することで拡大し、それが自分のその時の個別メッセージである(反面教師的な意味とか、ポジティブ・ネガティブ意味は様々です)と考えると、気が楽な上に気付きももたらされるという対応になりうるのです。

何事も極端(限定・固定的)に思いすぎるのはバランスを欠くので、注意が必要です。

あとシンクロニシティとして、何度も同じ部分を見せられるかどうかという点も、気にしなくてはならない「嫌い」な部分か、放置していてもいい「嫌い」な部分かの判断のもとになります。


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