コミュニケーション

傷をなめ合う関係

最初にお知らせです。

前回のメルマガの件で、リーディング課題に投稿したのに動画のアドレスがまだ届いていない方はご連絡ください。

投稿者に一斉にお送りしているので、迷惑メールフォルダなどに分類されてしまっていることもあるかもしれず、再度ご確認ください。

それから、今回投稿できなかったけれども解説動画を見たい方は、この課題について自分なりにリーディング(ワンポイントでもOK)されて、当方に結果を送られた方には、動画アドレスをお教えいたしますので、チャレンジしてみてください。期限はありませんので、時間のある時にでも是非やってみてくださいね。

さて、私はアニメーションが好きなのですが、かつて強烈なインパクトをもって、いまだに私の心に残り続けるアニメがあります。

それは「伝説巨神イデオン」というアニメですが、別に今日はこのアニメについて書こうというのではありません。(書き出すととんでもないことになりそうなので・・・(^^;))

注目したいのはそのエンディングにおける歌詞です。「コスモスに君と」という歌が流れるのですが、これを歌っているのは、あの戸田恵子さんです。(このアニメの声優としても出演されています)

この歌詞自体、イデオンを作った富野氏の作詞で、作品とリンクしてとても意味深いのですが、あえて作品から切り離して今回は万人向けに取り上げます。

この中で印象的なフレーズに、「傷をなめ合う道化芝居」というものがあります。

人の人生の中で、まさにこの「傷をなめ合う関係」というものがあり、しかしそれは滑稽な「道化芝居」と映ることがままあります。

スピリチュアル的にいえば、「同じ波動を持つ」者同士で、類は友を呼ぶ法則です。

また心理的には「同じ価値観を持っていたり、似たような心の反応を示す」者同士で、やはり歌詞の通り、大なり小なり同じトラウマや傷、精神的不安を抱えている場合が多いです。

当人たちにとっては最初は心地よく、自分の居場所のように感じられますが、次第に空虚さのようなものが見えてきて、もしかして「道化芝居」を演じているのではないかと気付く時があります。

それは共通点があるからこそ理解しあえる面もあるものの、同じ不安要素を抱えるため、自分の鏡として相手にそれを見てしまうことになり、トラウマや傷も蘇りやすいからです。(「コスモスに君と」の二番の歌詞がまさにこの状態と言えます)

こう考えると、そのような関係は「悪い」のかと思えますが、この「コスモスに君と」の「傷をなめ合う」というフレーズの前には、「慈しみ、ふと、分け合って」という歌詞があるのです。

やはり、同じ問題や傷を持つ者同士だからわかりあえ、たとえ「傷をなめ合う」という「道化芝居」であっても、そこには確かに癒しがあります。悲しみを「分け合う」ことができ、それにより悲しみ(哀しみ)は軽減できるのです。

似たもの同士で、一時的避難、退行のように見えても、マルセイユタロットでいえば、「吊るし」や「斎王」「隠者」のように、過去に関係しながらもエネルギーをたくわえて、成長していくための(待避・休息・籠もり)一過程と見ることができます。

見た目は依存的ではあるのですが、必ずしも悪いわけではないのです。

ただ「道化芝居」であると自覚してきた時、そこから二人、あるいは同じ波動を持つ者同士は、ともに自分たちの問題の根(の解消・浄化)に取り組むことに着手したほうが、幸せは長続きするでしょう。また本当の支え合う関係にもなります。

そうすれば「道化芝居」ではなく、「主役」を活き活きと両者ともに演じることができるようになります。

しかし相手が成長(道化芝居からの脱却)を拒否する場合は、目指すべき方向性や波動の異なりによって、別れざるを得ないこともあります。

今の道化芝居に留まるか、新しい自分に成長するかの選択です。

先述したように、癒し合う過程も大切ですので、急ぐ必要はありませんが、空しさを伴わない心から安心できる関係になるためには、マルセイユタロットでいえば「13」として選択をしなければならないことがあります。


陰陽タイプと相手との反応性

タロットなどしていて思うのは、世の中は陰陽と言われるように、二元のエネルギーや質・状態が繰り返されたり、さらにそこからまた二元に分かれ続けることによって、いろいろなものができていると想像できることです。


ここからいろいろなことが実は考察できて興味深いのですが、今日は特に人間関係に焦点を当てて見てみたいと思います。


物事が陰陽で分かれるとするならば、人にも陰陽があると考えられます。


これは自分自身の中に陰陽があると見ることもできますし、自分とほかのタイプの人(他人)というように分けることも可能です。


自他で見た場合でも、男女という区分の時は陰陽は変わらないかもしれませんが、いわゆる男性的・女性的という質的なもので考えると、男性が女性的役割、女性が男性的役割になっているペアもいます。


というように、まさにケースバイケースで自分も人も陰陽で入れ替わっていきます。


とはいえ、誰しも何となく思っているように、何か自分は「陽タイプである」「陰タイプ」であるという基本やベースの感じ方があります。


それは持って生まれた気質というものでしょう。これには肉体的部分もあれば、目に見えない部分での領域から生まれていることもあります。


占い技法では、常識とは異なった枠組で、この陰陽タイプを振り分けることをします。(古代では常識ですが)


ともあれ、人間にはもともと、あるいは成育歴などで培われた意味で、「陽タイプ」的な人と「陰タイプ」的な人に分かれると言えます。


男女としてのカップルは当然として、だいたい交友関係などにおいても、陰陽タイプがセットで仲がよいということはあるものです。(たとえ同じ気質であっても、局面においてはどちらかがその役割になっています)


ここで、もしあなたと誰か関係のある人が相反するタイプで、しかもその相反度がかなり大きい場合は、ともに違和感を覚えるのは当然です。


特に陰タイプの人は、まるで相手の陽タイプの太陽の光に照らし出されるかのように、自分の影が一層濃くなりますので、自己嫌悪に陥ったり、陽タイプの人に嫉妬や反感を激しく覚えることがあります。


普段は見えなかった(隠された)自分の影や闇が、強烈な光でコントラストとして浮かび上がるわけです。


実はこの逆もあり、陰タイプの反射(月光)によって、太陽の黒点ともいえるような陽タイプの影も映し出されることがあります。


明るく楽しそうに活躍している人の態度や言葉が、とてもよいものであることはわかるのに、なぜか感情的に受け入れられない、腹が立つというような場合は、相手の光に照らし出された自分の闇が見えたのだと思うことです。(もちろん、ほかの理由もあります)


つまり、相反するタイプは別のものを持つがゆえに、 自分の長所と短所をともに映し出し、あぶり出す役割があるのです。


長所・短所と書きましたが、どちらかがいいとか悪いとかではありません。表現の違いだけです。


一方相反していると実は相補と言って、二人によって補いあう関係も築かれ、調和やバランスが生まれることもあります。


基本的なもともとのタイプが人にはあるとはいえ、先述したように、他人との関係・状況の違いによってタイプの入れ替わりは普通にありますので(同タイプエネルギーは同時存在することはありえないと考えられます)、どんな関係においても、意識すれば自分自身に気付きと発展がもたらされると考えられます。


※同タイプが同時に存在しえないというのは、たとえば自分も基本陰・相手も陰であっても、どちかが陽にその時は変じるか、自分と相手の陰エネルギーにふさわしい別の陽二人がいたり、陽エネルギーダブルになる事柄が二人の間に生じたりすると考察できるようなことです。


単に相手は自分の鏡として見るだけではなく、このようなエネルギー・質的なことでの反応として見ていくのも面白いことです。


人の言葉を素直に聞けますか?

人間とは不思議なもので、ある人の言葉は素直に聞けるのに、ある人のものはなぜか抵抗が出てしまうという場合があります。


この理由は様々ですが、そのいくつかを書いてみたいと思います。


まず、単純にその人との関係がどうかということが挙げられるでしょう。


すなわち、友人や親しい人であればあるほど、どんな内容でも比較的あなたは耳を傾けることができるはずです。


これはいわば親密性がもともとその人と自分にはついているので、最初から心がオープンになっている状態だからです。


反対に仲の悪い人、日頃から好ましく思っていない人には対しては、たとえその人が結構いいことを言っているように思えても、あなたの色メガネ(笑)がそれをねじ曲げ、「あんな人が言っているのだから、何か裏があるに違いない」とか「えらそーなこと言っても、あんたはどうなのよ」という感じで、素直に聞くことができません。


それからほとんど関係のない人、普段意識することもない人の場合は、むしろフラット・公平にその人の話を聞くことができるでしょう。あなたには何の損得・好き嫌い感情がその人に対してはないからです。


これを逆に見てみれば、あなたと何らかの関係がついた人は、なかなかフラットにその人の言うことを聞くのが難しいとなります。多かれ少なかれ、どちらかに感情が傾くからです。


またその人のことを好ましく思っていれば、素直に好意的に聞けるかといえばそうでもなく、むしろ好き・嫌いの感情がどちらにせよ多量にある場合は、あることがきっかけで、一気に天秤の傾きが逆に変化することもあります。


たとえば自分が崇拝していた人が、ある日思っていたことと違った行動や態度を示した(と感じた)時、天秤はガタンと逆方向に傾きを変え、一番の批判の対象者になるというような感じです。


結局のところ、自分が正しいと思っていること、よいと感じていることを基準にして、誰の言葉であれ、自分で判定して「素直に」なったり、「聞く耳を持たなく」なったりするのだと想像されます。


ですから自分の「正義」や「よし」としている基準は何なのかということを知ることは大事で、それによって今までよりもフラットに人の言葉を聞くことができるようになります。


それから、これもよくあるのですが、その人が愛情をもって話しているかどうかも大きなポイントです。


本当は「」と言ったほうがいいのですが、実際にはそこまでは難しく大げさになるので、あえて「愛情」としておきます。


たとえば師匠と弟子の関係において、師匠が弟子の成長を願い、根本的に愛情をもっての言葉であるならば、たとえ厳しい叱咤であっても、おそらくその弟子は師匠の言葉を受け入れることができるでしょう。(弟子のレベルによっては表面的な言葉しかわからず、奥の愛情に気付くことができないこともありますが)


別に何かを教え教えられる間柄でなくても、普通に人と人との間でも、愛情のない特にキツイ言葉は、受け取ったほうはかなりの確率で傷つくことになります。


もしあなたが人から受けた言葉でひどく傷ついた場合は、言い方もあるとは思いますが、その言った人があなたに対して愛情がなかった(いつもはあってもその時は薄かったということもあります)と考えてよいかもしれません。


親しい間柄であっても、怒りに身を任せたり、悲しみのあまりだったり、相手のことに愛情を向ける余裕のない時は、やはり相手を傷つける言葉になりがちです。


愛情があれば、たとえその時には気がつかなかったとしても、将来「ああ、あの人は真に私のことを思ってあの時は言ってくれていたのだ」と悟ることができます。


人は平穏無事でいつも過ごし、傷つきたくないと思って生きています。何か不快なことや問題であると感じた時は、快適な状態や元の状況に戻そうという機能も働きます。


つまりは問題状況をよしとできない生理的なものがあるのです。だからこそ傷つき、悩むとも言えます。


しかしその、何とかしようと思う気持ちと努力が、これまでの自分よりも拡大や成長することにもつながります。自然にそうなるよう仕組みまれていると言えます。


ですから人には感じる「感情」とそれを整理する「知性」とが備わっているのです。神(大いなるもの)の配置に感謝です。


二匹の犬のお話。

私の家の近所にはを飼っている家庭が多いです。


ですから犬を散歩させている方もよく見受けられます。


ところで、私はもともと犬が苦手でした。(^_^;) 昔、小学生の頃、何度か犬に追いかけられたり、噛まれたりしたトラウマがあったからなんですね。


どれくらい苦手だったのかといえば、それこそ漫画「めぞん一刻」(古いネタで恐縮です)の三鷹さんみたいなもので、かわいい小型犬でも逃げていました。。。(笑)


ところがタロットをしているうちに、段々苦手意識がなくなってきました。(完全に払拭されたわけではないのですが、かなりましになりました)


その理由ははっきりとしませんが、タロットの絵柄の何枚かには犬が描かれており、その影響があったのかもしれません。


特にマルセイユタロットの大アルカナの中でも特殊な位置にある「愚者」のカードには、犬の存在が顕著で重要であり、必然的に「愚者」を見ることが多かったこともあります。


パスワーキング(タロットカードの瞑想)で、その「愚者」などでは犬も当然登場してくるので、そうしたことによる効果があった可能性もあります。


さて、別に私の犬トラウマ克服話(苦笑)をするために書いているのではありません。


実は近所のあるお宅には二匹の犬が飼われていて、その犬に関するお話なのです。


この二匹の犬、一方は比較的大型で、もう一方は小さな小型犬です。


そして大型のほうはあまり動きは少なく、どちらかというと無愛想な感じです。大きいこともあって、少し恐い印象さえ受けます。一方の小型のほうはとてもよく動き、よくほえて愛嬌がある感じがします。


ですからぱっと見には、おそらくほとんどの人は小型犬のほうに好印象を抱くと思います。


しかしなにせ近所のものですから、ほぼ毎日のように私はこの犬たちに出会うことになりますので、その場だけの印象には収まらないことが出てきます。


すると観察していてわかったのですが、大型犬は意外と愛想がいいのです。愛想というより、人間的な表情やしぐさを時にするのです。


人間的というのは、「ぷい」と知らんぷりしつつ、ちょっと気になる人間を目で追っていたり、疲れているのか、ぐたーと四肢を投げ出してだらしない格好をしていたかと思うと、飼い主や特定の人間ま前ではかしこまっていたりと・・・なにかと面白いのです。


それで小型犬はというと、これが画一的でいつもキャンキャンとほえて、やたらとうるさく、落ち着きがありません。誰彼なく自分の存在を知らしめようとするのか、近寄ってきてほえます。(威嚇のほえ方ではありませんが)


見ていると小型犬は、態度だけではなく、その表情までがあせっているように思えてくるので不思議です。


これらのことを私たち人間に当てはめてみますと面白いことがわかります。


それは関わってもらいたいからと言ってストレートに自己主張することが、人の本当の関心を呼ぶのではないということです。


騒ぎ立てますと誰でも最初には注目はされますが、いつも騒いでいますと、それこそオオカミ少年の話のようになって、「またあいつ、大げさに騒いでいるよ」となって、誰にも関心を寄せてもらえなくなります。


また毎回同じパターンだと人は飽きてしまいます。面白味のないヤツと思われます。


ところがこの大型犬のように、一見普通で近寄りがたい存在であっても、メリハリをつけたり、変化に富んだ態度や表情でいたりすると、人はその対象に向けての興味や興味が増していくものです。


まさに波や変化があったほうが魅力的に映り、長期に人の関心が続くのです。


波や変化のことだけではなく、「味」「味わい」と表現できる奥深さや特質があっても同じように人は惹きつけられます。


反対に単調であったり、底が浅かったり、押しつけがましいだけの状態であると、この小型犬のように味気なく疎ましい存在となってしまうのです。


小型犬は飽きられるていることがわかっているのか、ますますほえたり慌てた態度をして関心を引こうとしますが、逆に余計避けられてしまうという悪循環に陥っています。


これを見ていますと、本当に人間もそうだなあと思わされます。


皆までは言いませんが、この二匹の犬のエピソードのを通して何か感じていただければよいかと思います。


メールでのコミュニケーションのポイント

現代はメールのやり取りがコミュニケーションの大きなツールや方法となっています。


必然、顔の見えない相手と文章で交流することになりますから、どちらかの一方的なこと(思いこみ)も増えてきているでしょう。


そこからコミュニケーションの行き違い、齟齬というものも発生します。


ビジネスにおいてはビジネスメールの慣習も常識もかなり浸透して普遍的になってきましたので、その形式に則っていれば問題はあまり起きないでしょう。


しかし半公的なことや、プライベートなことになりますと、結構問題は起きているのではないかと推測されます。


その要因はやはり、その場では顔が見えない相手とのコミュニケートであり、直接対話をしていないということにあるでしょう。


そしておそらくは「時」や「間」と呼ばれる、その人固有の感覚的な時間軸・回転のようなものが影響していると感じます。(タロットでいえば「運命の輪」)


まさにタイミングや、間が合うか合わないかの問題と言えそうです。


お互いに関心が強くある場合は、引き寄せ合って互いの時間の回転率のようなものも同調し、比較的メールであっても違和感のないペースでやり取りができると思います。


しかし普通の関心の時や、ましてや一方が強い関心を抱いているのに、他方がそれほどでもないといった場合は、そのペースがちぐはぐになってしまうのも当然といえば当然です。


これにもともと本人が持っている時間感覚・回転率というものがあり、それが他人と大幅に異なっていれば、これも合わせる理由(仕事か個人での関心)がなければ自ずと不調になるでしょう。


実際に会って話をするコミュニケーションでは、表情や態度など、言葉だけでははない相手全体の雰囲気を感じ取って、自分も相手も時間感覚を同調しようという働きがスムースに行われることが多いのですが、相手が見えない場合はそうも行きません。


ここにメールだけのやり取りで交流を図っていくことの難しさがあります。


ただ反面、その場では実際に会っていないので、過剰に相手を意識することなく(気遣うことはなく)、意外に本音を出し合うことも可能なのがメールでもありますね。


しかし、それでも時間の回転率を合わせることは難しいかもしれません。


最初からメールのやり取りのタイミングが合う人というのは、お互いにその時点で関心を寄せ合っているか、二人の時間軸が同調している関係であるといえます。


この同調には、自力で行えるものと、天や神とも呼べる自然からの同調のものとがあることはあまり知られていません。(タロットからの教えでもあります)


天からの同調はシンクロニシティや、といった現象でなされることがあります。


しかし、その同調にもまったく自力は必要ないかといえばそうではなく、自力の部分とともに天からの働きかけで、二人の時間軸や回転率が同調し、コミュニケーションや出会いがかなうといったものとなります。


同調があるのですから、反対の非同調・不調、つまり別離や不和なども自力とその他のものがあると言えます。


ということは、結局は、自ら天や自然との同調を大きな意味では果たし、局所的な意味では、相手を思いやって同調していくことで、スムースに物事が流れていくと考えられるのです。


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