スピリチュアル
「呼ばれた」感の安全と注意
これは先日配信したメルマガ(講座受講者・修了者専用)に書いたことで、そのフォローの意味と、また一般的にも書いておいたほうがいいかもしれないと思い、ブログ記事にすることにしました。
聖地、神社仏閣などに行かれる人で、そこの神なるものや、特別な存在などから「“呼ばれた”からここに来た」のだと主張する人が見受けられるようになりました。
今回は、そのような存在がいるのかいないのかの争点ではなく、一応、そういったものが存在するとしての前提で、そのような存在から「呼ばれる」という感覚(「呼ばれた」感)はどうなのかということが主題です。
さて、そうした感覚の中には、安全なもの(もしくは当人や他人があまり気にしなくてもよいもの)と、危険なもの(本人や他人にとっても問題と考えられるもの)があるように思います。
安全なものの傾向としてのひとつは、その人に何かしらの感応力(巫女的な能力、次元の異なったエネルギーや存在を感じ取ったり、コミュニケートできたりする能力)があり、実感としてきちんと受容・コントロールできている場合です。
これはもともとの能力とともに、ある程度の修行、自己統制力も必要とされるでしょう。
こういうタイプは、サイキックや心霊的なことのプロ(そういった世界で生きている、生業としている)の人たちに多いもので、当然ながら別次元の存在や通常とは異なるエネルギーへの扱い、作法・儀式、自己と他人への抑制・コントロールにも長けているところがあります。
そしてもうひとつのタイプは、「呼ばれた」感覚そのものがライトなものであり、そのため、影響もライトなものになるという種類です。
例を挙げれば、ライトなスピリチュアルブームに乗って、ちょっとした旅行感覚で聖地を訪れ、そこで参拝などしてるうちに、「なんかここの神様に呼ばれた感覚がする~ありがとう~感謝♪」みたいな感じのものです。(笑)
一見、ふざけているようでもありますが、聖地を訪れるという純粋な感覚は持ち合わせており、意外に本人たちには、その時(聖地にいる時)はまじめな部分で参拝しています。
それでも、全体としては、やはり旅行の一環のようなもの(ライトなもの)でもあります。
しかし、もし神様のようなものがいらっしゃるとすれば、まるで、おじいさんがかわいい孫を見るようなもので、旅を楽しんでいること、神や自然は敬っていることは伝わって来ていて、たぶん(神様は)大目に見てくれるものだと考えられます。
これに対し、問題なのは、「呼ばれた」感覚にかなりのリアリティを本人が持ち、壮大な役割とか、特別な使命を言われたと信じ込むようなケースです。
それも、俗地、日常生活を行っている場所にいる段階から「呼ばれた」感か強くなり、居ても立ってもいられなくなり、とにもかくにも聖地や神社などにかけつけます。
そうすると、そこの神様から語りかけられて、私の使命を告げられることになっていた・・・みたいなストーリーが典型です。
しかも、その旅の過程において、「私が訪れることがすべて決まっていた」「次々とシンクロや特別なことが起こり、これが真実だと告げていた」・・・というようなものも、よくこのストーリーには付随します。
このようなケースで注意する(疑問に思う)ことは、まず、神様と崇敬される特別(異次元)の高次存在が、なにゆえに、普通であるその人を呼ぶのか? 使命を与えるのか? ということです。
先述したような修行をしてきたり、特別な巫女的な能力の家系に生まれてきたりした人などは別としても、普通の、ちょっとスピリチュアルに関心のあるくらいのあなたが、なぜ神様に選ばれるのか?ということになります。
これは心理的には、裏を返せばわかることで、つまりは特別な存在に選ばれる=私は特別である、特別でありたいということであり、さらには、そう思うことは、そのままの自分という存在に価値があまり認められない、人と比べて自分を見て、どこか劣っていると思っているという心の構造が見えてきます。
そもそも、わざわざ呼ばなくても、高次な存在なら、時間と空間を超越し、あなたのいる今の場所にコミュニケートすることは可能でしょう。
ストーリーとしては、困難だと思える所や、通常の人ではたどりつけないと言われる場所に自分がたどりついたこと(試験にクリアーする物語とか、ほかの人では扉が開かなくても自分には開くというもの)、それは、物語創作のうえでは人を感動させたり、面白くさせたりするセオリーであり、この場合は、「自分を感動(洗脳)させている」わけです。
だから、「呼ばれて(選ばれて)」「行く」ほうが、自分の特別感(ストーリー)のためには(都合が)よいのです。
それから、ここまでではなくても、自分のやっていることに、どこかしら自信や確信がなく、神的な特別な存在からお墨付きのようなものをもらったという感覚(ストーリー)によって、自信を得る仕組みになっていることもあります。(見方によっては「神の名」を利用していることと同じです。しかし、神託を得たい気持ちも人にはありますので、一概には悪いこととは言えませんが)
あと、これはあくまで私見ですが、もしサイキック的な影響がある場合、それは神とか(高次存在)ではなく、人の思念、または低次存在から来ているということも考えられ「呼ばれた」と思っている人の中には、結構こうしたものと高次のものとの区別がつかず、誤解しているようなことも多いのではないかと推測されます。
そうした(人や低次の)存在からのものでは、「呼ばれた」のは、興味本位目的や、あなたを惑わして、それを見て楽しむという「余興」のためとかであり、また、あなたの生命エネルギーを奪うためなどのことも考えられ、あまりよいものとは言えません。
「呼ばれた」感を中心として、やたら壮大で綿密な、自分と神様との救済物語のようなものがあり、それが本人が何か言う度に内容が変わっていたり、強迫的なものとして、その人自身の自由な行動に制限がかけらる状態になっていたりする時は、心理・精神的には「統合失調症」のおそれも否定できません。
他人から見て、あまりにもひどい押しつけや妄想的になれば、それは病的な状態とも言えますし、その人と交流している周囲の人にも混乱が及びます。
一方、「呼ばれた」感の中でも、現地(聖地・神社仏閣など)に行ってはじめて感応するような場合もあります。
これは少しニュアンスが違い、「呼ばれた」のではなく、その場所自体や、敬われている存在(像や絵で象徴化されていることが多い)に対して、何かしら自分に理由がある、因縁(良い悪いどちらでも)があると考えることができます。
現実的な理由・縁(何かの思い出とリンクしていた、たまたまその場所の雰囲気と自分の気持ちが合ったなど)もあれば、前世的データや見えない部分での縁もあるかもしれません。
人間には物質的・常識的・肉体部分で感応する部分と、それを超えたり、通常は隠れて見えない部分だったりするもので感応するところがあります。
いわば、アンテナ能力が複数層に分かれているようなものです。
人から崇められたり、祈りを捧げられたりした場所は、人々の様々な思念も溜め込まれていると考えられます。
そうしたものと、今の自分の中にある何かのデータとリンクすれば、反応を起こすことも想定できます。
それを縁と言えば、縁なのかもしれません。
心の鍵のようなものが、ある聖地的な場所や、神・仏の祀られているところと感応して、開く場合もあるわけです。
例えば、ある観音像を見て、自分のなかの観音心(癒しや救済の力)を想起させ、自らで自分を救う気持ちが生じることがあります。
つまり、仏(神)像は、その仏(神)の表す特徴によって、人である自分のその特質の神性・仏性を目覚めさせる役割もあるわけです。
またこれまで祈られてきた人々のそれぞれの思い(それは悲しみや苦しみもあります)が仏(神)像、聖地の場所に溜め込まれ、それらの内の何かが、自分の中で受け止め、感応することもあります。
(歴史などを調べると、その像や場所に捧げられた祈りの質と、集団の背景がわかって、自分と心理的、前世的に関係していることがわかることもあります。いわば、共鳴した理由とでも言えるものです)
それは自分に似たところや何かしら関係があるためで、やはりご縁と言ってもいいでしょう。
このようなものは、(外から)「呼ばれた」感とは違い、自分自身が神仏の象徴を通して呼び起こしたものと考えてよいと思います。
(心)霊的次元の和解、救い
今日の話は、一段とファンタジーと言いますか、狭義のスピリチュアルな話となります。
マルセイユタロットの絵図の語るところによれば、この世界はいわゆる現実、普通に私たちが生まれて死ぬまで過ごす世界だけではなく、肉体を超えた死後の世界のような、(心)霊的世界があると示されています。(もっとも、これも受け取る人の考え方に左右はされますが)
ところで、私たちが自分を自分だと認識し、他人を自分とは違うその人だと思う状態というのは、主体と客体感覚を伴う「自我意識」を持っているということになります。
精神世界・スピリチュアルな世界観でよく述べられているように、人が宇宙・大元・「ひとつ」としての統合次元まで至ると、そういった自我意識は消失するものと考えられています。
言わば、統合されればされるほど、(哲学的・宗教的に表現すれば)悟れば悟るほど、人の意識は希薄というか、抽象的なものになり、自分や他人を分けて認識することがなくなっていくもの推測されています。
ですから、そういった究極の次元からの視点では、個人の悩みも喜びも、また他人を意識する世界すべても、幻想である(認識として存在しない)という説になるのは当然です。
そもそも、喜怒哀楽の感覚というのも、比較対象や波のような上下左右の「差」があって初めて「それ」として表せるものでもあり、そういった差異がない世界・意識においては、すべてはあってないという、不思議な超越状態とも考えられますから、現実での結果やプロセス、思いに至るまで、個人としての意識は無意味であると言えます。
しかし、現実問題、私たちは究極まで悟っていないのが普通ですし、毎日起こる出来事、過ごす日々、環境において、感覚・感情・思考様々に変化し、悩みや苦しみ、そして喜びや楽しみも味わうことになります。
それに意味がないと言っても、意味があると世界(という設定・条件)から逃れられない(あるいは選択して来ている)私たちにとっては、究極次元で語れることに違和感があるのも理解できます。
そこで最初の話に戻ります。
先述したように、究極のひとつの次元、大元、ひとつであり全体しかないという状態(超越意識状態)と、自我意識を持ち、現実で生きている私たちの普通の意識状態との間に、中間としての意識層もあるのではないかと想定するのです。
これが死後の世界とか、(心)霊的世界(心魂の世界)と言ってもいいかもしれません。
その次元では、人は肉体を持たないので、肉体(物質・現実)次元での欲求・縛りからは解放されるものの、自我意識が完全に消失してるわけではなく、データのようなものとして、自分が現実世界でどのような人間として生き、どのような自分以外の人たちと関わり、心に思いを残してきたかということは存在していると見ます。
まさに意識的に、ひとつ・全体に至っている状態と、自分と別々の人がいるという状態の中間と考えられます。
この次元で重要なのは、意識が肉体から解放されていることであり、つまり物理的・時間的干渉、制約から完全ではなくても、ほぼそこから逃れられていると考えられることと、より、「素」の状態、心と個の魂同士が相互に、しかもダイレクトにアクセスしやすくなっていると思えることです。
それは心のデータ的に、ほとんど隠し事ができずに、自分と他人とコミュニケーションできる状態だと言えます。もっとわかりやすく言えば、誰もが裸のつきあいみたいになる(笑)ということです。
これはかなり恥ずかしいことでもありますが(^_^;)、ほかの人の真意が理解できることでもあります。
現実世界では仕方なくこうしていたものの、それは本意ではなかったとか、本当は謝りたかったとか、あなたを愛していたけれど、現実世界ではどうしようもできなかったとか・・・現実での物理的・空間的・時間的制約、あるいは肉体的・生存的欲求のための強い自我から来る心情的虚偽や方便を使ってしまったことなどが、中間の心霊的状態ではその干渉がなくなり、ほぼ魂の真意のようなものが露わになるということです。
先にも言ったように、これはかなり恥ずかしかったり、厳しいところでもあったりする反面、やっと本当の気持ちが確認でき、個の魂としての交流ができる癒しや愛を実感できる次元だと思えます。
現実では報われなくても、この世界、この次元では報われる可能性があるという、救いの世界でもあります。(反対に現実よりシビアに真実がわかる、さらされるという次元でもあります)
ですから、こう思うのです。
現実世界では何らかの事情で交流できなかったり、別れてしまったり、誤解があって対立したりした人でも、自分の真意は忘れず、自分も相手も責めず、いつか魂の(霊的)次元で癒し合い、和解することができると信じれば、この世が苦しみの世界であっても、生きながらすでに救いの気持ちも生じてくるでしょう。
そして、だからこそ、一気に全体次元、ひとつの統合次元に向かうことには抵抗してしまう部分も、人にはあるのだと感じられます。
言ってしまえば、できるだけ現実次元に留まりたい、せめて心霊的次元で和解したり真意を伝えたたりしたいという意識です。
個としての意識がなくなれば、それは究極の救済でもあるのでしょうが、個人として現実次元での生きた証しのようなものも消えてしまい、まだかすかに個の意識が残る段階での、その昇華や浄化を行いたいという強烈な望みのようなものがネックになると思われます。
そういった意味で、現実次元、心霊的次元、超越・統合次元の順で、できるだけ自分が思い残しをなくしたり、調和を働かせたりするということが、人類全体の進化にも関わってくるように感じます。
現実次元においては、簡単な言葉でいえば、できるだけ、「仕方ない」で済ますことのないような人生を送っていきたいというものになりますし、私たちは決して現実次元に生きるだけの存在ではない(望み・救いは多層の次元の目的と用意がある)という思いです。
バーチャル世界の危険性
タロットはイメージの世界とも言えるほど、タロットとイメージは関係が深いものです。
イメージもつきつめて行けば、非常にリアルなものになってくるのですが、これと似たものに、最近とみに発達してきたバーチャル世界、バーチャル体験があります。
しかし、個人的に思うのは、今、技術的にもリアル(現実感覚)にほとんど近づきつつある、機器によるバーチャルな世界は、かなり危険があるように思います。
今のバーチャル世界は、実はイメージとは関係なくなり、言ってみれば自分がイメージするのではなく、勝手に機械が作り出した世界を仮想現実として体験しているに過ぎない状態です。
マルセイユタロットにある秘伝的な思想では、この現実・リアルですら仮想空間のようなものだと語られます。
そのうえ、さらに現実の中でバーチャル空間が作られるわけですから、仮想の仮想ということで、何重にも自分をだましていることになります。
マルセイユタロットの教えによれば、私たちの認識不足、認知が曇らされているために、この現実への認識も、真実の姿ではなく、仮想的なものとして、真実の投影空間のように体験していると示唆しています。
このことを、「牢獄に入っている(囚われている)人間の状態」と例えられることもあります。
それなのに、さらに偽物(影)をモデルにして、そのまた偽物を作って楽しむというのがバーチャル世界です。
言わば、牢獄の中にさらに牢獄を作るようなものです。
マルセイユタロットの教えでは、私たちが霊的(な覚醒)に重要なのは、この牢獄状態から抜け出すことにあると語られますが、人類は、バーチャル世界の発達により、ますます牢獄ライフを加速させようとしています。
私から見れば、バーチャル世界は、牢獄ライフからのさらなる逃避(麻痺の加速)であり、真実から遠ざけるものと映ります。
自分でイメージを喚起して、思索を象徴的に高度に進めていくのとは逆で、バーチャルはイメージによる創造・思索を放棄し、私たちを一層、奴隷にしてしまう世界(装置)だと言えます。
ほかに、アニメーションもイメージ・二次元の世界ですが、この世界に入りたいという人や、どっぷり二次元に浸かってしまって、二次元キャラしか愛せないというのは、逆にイメージに囚われ、バーチャル世界に反応的・奴隷的になっているのと同じと言えます。
アニメの描くイメージとストーリーの世界から、思索を深め、感性を高め、創造性を刺激し、プラトン的に言えばイデアに接することが大切なのです。
ただ、何事も悪いことばかりでありません。バーチャル世界においても、よいことはあるでしょう。
例えば、バーチャル世界の擬似的環境の体験によって、ストレスの軽減、ちょっとした心の解放、心理的なセラピー、ホルモンバランスや脳内物質の調整などのために、使える余地は残されていると思います。
ただあくまで、一時的なものであり、ずっと使い続けたり、その世界に浸りすぎたりするのは、霊的な退行と言えるものを自分にひどくもたらせてしまうのではないかと危惧されます。
(マルセイユ)タロット的な言い方をすれば、自分が悪魔のエネルギーに取り込まれ、エゴの肥大と、自我(提示の自分)と自己(高次の自分)の分離を激しくさせてしまうと考えられます。
マルセイユタロットの教えには、自分の神性に目覚めるというのがありますが、自分の内に神を見ようとするのと、自分が神であると思うのとではまったく反対ではあるものの、実はプロセスとしては似たようなところもあり(これは説明すると難しいですので、ここでは割愛します)、神性が悪魔にすり替わり、妄想世界の自我に囚われる危険性もあるのです。
そして、ネット世界もバーチャル世界と似たところがあるので、ここも誘惑と堕落の罠に満ちています。
自分に自信がなかったり、現実に嫌気が差していたり、不幸だと思ったりしている人は、自我(エゴ)を一時的に満足させてくれる、ネットにおいてのカリスマ的な人や、そうした人が話す言葉、書く文章、見せる技術に魅了されます。
しかしそれは、ネットにおいて作られた虚像ということもあるのです。
ネットでの虚像がすでに強固に、自分がそれに囚われると、たとえリアルに面会しても、その虚像が自分に生き続けることがあります。
なぜなら、リアル・現実も虚像のひとつ(投影する空間)だからです。
確かにリアルのほうが実像に近くなってくるでしょうが、二重の投影が一重になるだけで、あまり変わらない場合もあるのです。
まあ、それでもそれらも含めて、人生、現実、すべてが味わい、体験だとすれば、いいも悪いもなく、バーチャルでもネットでもすばらしいものと言えます。
もし問題があるとすれば、まったく無自覚な状態にいることであり、提供されるもの、目の前にあるものに、ただ反応しているだけという人生になることでしょうか。
それでも充実した人生だったと思えれば、十分なのかもしれません。
バーチャル世界とは別にして、現実とは何か、どんな価値があるのか、については、いろいろな意見や考え方があるでしょう。
愛のレベルによっては拒否も攻撃もある。
真のスピリチュアル、大きな愛の世界では、どんな人、どんなことも、いいも悪いもなく、それがただあるだけでしょうが、一方で、現実レベル、人間的レベルまで次元を落として見れば、一概にそうとは言えないところが出てきます。
わかりやすく言うと、悪意やネガティブな形での愛の表現になったり、遭遇したりする(こともある)ということです。
やっかいなのは、やっている人の自覚がなかったり、悪意ある人に操られてしまったりしていることがある場合です。
当人にとっては、愛であると思い込んでいるので、本人の中では悪気もないですし、自覚がない時は、さらにオートマチックのように、自然に何の考察もなしにやってしまいます。
まだ目に見える行動や形であればましですが、さらに難しいものになってきますと、サイキック的な影響・攻撃としてなされることがあります。
愛の裏返し、低次の利己的な愛が、嫉妬や妨害、偏愛、ストーキング(行為に現れなくても、粘着する思いとしてサイキック現象となります)になって、見えない世界でのエネルギーのやり取り、奪い合い、攻撃となっているわけです。
普通の人でも、心で感じたり、思ったりする(サイキックの)世界は誰でもありますから、多少なりとも、いわゆる人の思念・生霊的な影響は皆受けていると言えますが、通常は、すぐ離れたり、健康的な心身がバリア的に防御していたりしますので、問題とはなりません。
ただ心が弱っていたり、あまりにも強い思念に囚われていたり、ショックなことが起きたりすると、バリアーにほころびができ、あるいは自ら受け入れてしまい、サイキック的な影響が心身、運という一連の流れに出ることがあります。
それと問題なのは、いつも自分の気持ちを抑圧していたり、気遣い過ぎたりして、他人を傷つけないようにする余り、逆に自分が傷ついてしまう人がいることです。
ちゃんと自分が嫌だと思うことや、自分か傷ついていること、迷惑であること、悲しんでいることなどを、普段から述べておく(表現しておく)ことで、実はサイキック的な場面においても、バリアが強く働くことになります。
誰でもいい顔をしたり、気遣って何も言えなくなったりするからこそ、どす黒い自分の抑圧した心が溜まり、それがまた悪いエネルギーを引き寄せたり、愛に見えつつも悪意あるものの侵入を許したりします。
あなたを好きになったり、良かれと思って世話をして近づいてくる人物の中には、その人自身は本当に愛を抱いて助けたい、愛したい、支えたいと思ってはいる部分はあっても、その実、人のよい相手だからエネルギーを奪いやすいと判断している、本人も気がついていない裏の闇がある人もいるのです。
そしてたいていは、そういう人には、もっと大きな闇の存在(タロットでいうところの悪魔的なもの)がバックについていることがあり、それこそが本当の問題と言えます。
まあしかし、これも高次の目で見れば、あなたがきちんと自分を大切にするかどうか、そして本当の愛に目覚めるための試練や役割であり、相手も自分も変容させることは可能です。
また低次の利己的な愛、打算的な愛があっても、それは人間の常でもあり、見下したり、悪く言えたりできるものでもありません。そういう人の性質をふまえたうえで、すべてはもっと高いレベルへと昇華することができるはずです。
マルセイユタロット的に言えば、悪魔も神(の家)に出会うための、露払いみたいなものです。
けれども、やはり、現実レベルにおいては、拒否すべき時は拒否する勇気を持ちましょう。
愛でもってもわからない人はいますし、逆に低次の愛であなたを縛り、エネルギーを奪うレベルの人たちが、現実次元では確実に存在していますので、自分を守るためにも、毅然とした態度と気持ちを持つことです。
「世界」と「節制」と「戦車」の物語
今日はちょっと、スピリチュアルというか、ファンタジーな話になります。
あまりそういうものが合わない人は、飛ばしていただいてもよいです。
ただ、ファンタジー的なものは、逃避もある分、癒しや現実を超越したものをもたらすこともありますし、常識的に見ても不可解なこと、矛盾したことの多い現実の世の中にあって、自己の納得する個人的物語(ストーリー)を紡ぎ出すことがあります。
要するに、生きにくさのための清涼剤にもなれば、活性剤にもなるというわけです。
そういう意味も込めての話です。
マルセイユタロットでは、大アルカナの「戦車」、「節制」、「世界」は、7の数を核として、ある種の共有したもの、関連性を持つカードたちになります。
その関連性には、いろいろな意味が考えられるのですが、今日は、そのまま単純に、三枚の名前や意味を見た時に現れた、ファンタジーな世界観を紹介します。
それは、あなたは、「世界」を救済するために現れた、別“世界“の
「天使」であり「戦士」であるということです。
このうち、「世界」は、すでに言葉が直接出ていますが、「救済」や「天使」という言葉は、「節制」のカードがら出る主要な意味であり、「戦士」というのも、「戦車」からイメージできるものです。
これで、3つのカードがすべて登場しているのがわかります。
では、この文章の意味とは何か? です。
この現実(現状)の世界は、楽しくもありますが、苦しいことも多く、簡単にすべての人が楽に幸せに生きられる世界ではないのは、皆さんも実感しているでしょう。
それゆえ、この世を天国、幸せに満ちた(あるいは、誰もがそういう状態になれる可能性の)世界ではなく、むしろ地獄や悪魔の創った、とんでもなくひどい世界であると認識する考え方もあるくらいです。
自分・個人としてどう思っているのかはともかく、多くの人の状態を見れば、少なくとも誰にでも優しい世界とは言えず、かえって難しい(厳しい)世界であるとも言えましょう。
そういう困難な世界にあえて挑戦し、戦士として来訪することで、この現実世界に立ち向かい、同時に、天使(的な使命感)として、他者のサポートや救済に回ることを行っている人がいると想定してみます。
ただ、戦士の自覚、天使の自覚がまだなく、自分が困難な世界に来たという感覚だけは残っており、そのため、違和感や生きづらさをひどく感じて、苦しんでいるという者も存在すると見ます。
この世界に来訪する際に、そのショックで、ほぼ元の記憶を失う仕組み(おそらく相当な次元転移があったので、弊害としてそうなる)があり、ある意味、それを承知で来ているわけですが、一部の人は思い出すこともでき、その人たちは、戦士や天使としての自覚を取り戻し、厳しいこの世界に使命をもって活動していくことになります。
しかし、いまだ思い出せない人は、次元転移のショックが続いているため、いわば戦士の屈強な心身から麻痺や劣化した状態にあり、普通以上にナーバスになったり、弱い人となっていることも考えられます。
とはいえ、元は戦士であるので、何らかのきっかけで、ショックが癒され、たとえ完全に記憶が戻らなくても、ある程度の回復があれば、勇気と力が湧き起こり、救済側の天使(役)として、他者のサポートに活動していく(そのような志を抱く)ことになるでしょう。
精神やスピリチュアルな活動・仕事で、人の役に立ちたいと思う人の中には、そういう意志も働いているのかもしれません。
そして、さらには言えば、なぜにわざわざこの厳しい現実の世界に来るのかと言えば、ほかの人の救済という意味だけではなく、そうすることの切実なる必要性、理由があるのではないかと推測できます。
それは、向こうの世界が退屈であるか、何らかの危機に瀕しているかということです。
バランスを欠いているとも言えますし、保たれているバランス状態のレベルが、意図するものより、低いものになっているということも考えられます。
こちらの現実世界と、戦士たちがいるあちらの世界とは、何らかの形で鏡像関係、対称性や関連性をもっており、いわば、ふたつでひとつのような世界観になっていると思えます。
向こうの世界は、こちからから見れば、一見、極めて平和で調和が保たれているかのようですが、長い間刺激もなく、オートマチックな、機械的ともいえる暮らしに支配され、創造性が失われつつあるのかもしれません。
自由や楽ではあるものの、退屈やパターン化に支配されているおそれもあるでしょう。
また反対に、向こうは問題もなく、それなりに活性化して個性あふれる社会なのかもしれませんが、こちら側との相互リンクがあるため、ちょうどこちらの世界が、天気や自然で災害が起こるように、向こうの世界もネガティブなこちらの世界の影響を受け、天変地異が起こったり、何か自然がおかしくなってきているのかもしれません。
いずれによ、こちらの世界とあちらの世界の再調整のために、向こうからこちらに介入しなければならないことが想像されます。
どちらの世界においても、別の意味で自由や解放、平和が脅かされている状態となっているわけです。
通常は、次元が異なるので、両者の行き来はできないものの、ある条件をもとに、向こうからこちらに行くことはできるのではないかと思えます。
ただ、先述したように、それはかなり大変なことであり、欠点として、記憶を失う(場合が多い)ことがあるのだと考えられます。
しかしそれでも、戦士・天使に目覚めるプログラムは、こちらの世界の条件次第ではある(復活する)ので、頑張って志願する人も多いのでしょう。
こちらの世界(と人々)が少しでも癒され、変化することで、あちらの世界は、きっとこちら側が思っている以上の恩恵が得られるのだと思います。
この二つの世界を並行次元で見るか、上下次元で見るかによって、いろいろな神話や思想の型をあてはめることができます。
このような話が、そのまま事実だというつもりは毛頭ありませんが(笑)、この型・パターンが、私たち人類の意識にあること自体に、実は興味深いものがあると言えます。
少なくとも、現状(地球・社会の今のシステム、多くの人の共有している型)に違和感を覚えることは、現実逃避や悪いことではないと思っています。