スピリチュアル
過去生データの共有が示すもの
最近、タロットの受講生の方とのメールのやり取りで、面白いことに気がつきました。
気がついたというより、そうではないだろうかと思っていたことに、ある確証というか、ひとつの事例がもらえたということでしょうか。
その方はヒプノセラピー(前世・催眠療法)を経験している人なのですが、自分のある過去生ビジョンによって得たカタルシス(浄化)が、ほかの人からが見た過去生ビジョンとシンクロしていたという話です。
他人であっても、同じようなビジョン(過去の事象・事件・人物等)を見るということは結構あると思うのですが、今回聞いた話で特徴的だったのは、自分の過去生の経験の浄化が成ったと思ったタイミングで、その過去生ビジョンで関係していたであろう時代の人物たちが喜んでいたり、浄化されたりしたビジョンとして、ほかの人が見たということなのです。
つまり、過去生の中の時間が動いているわけです。
正確には、過去のある人物(に関わる)事件や心情が、解決された(浄化)されたように、今(現代)の人たちの幾人かで共有したビジョンを見た(と感じた)ということになります。
言ってしまえば、一人の夢と、その夢の続きを、違う形(別の登場人物や別角度のビジョン)で、複数の人が見ているようなものです。
ここで、私はその過去生が事実かどうかとか、一人の現代人が、その過去生での人物の魂を、そのまま転生して持っているというようなことを言いたいのではありません。
ですから、過去生そののが正しいとか正しくないということがテーマではないのです。
重要なのは、ふたつです。
ひとつは、過去生のようなビジョンを見ること(見るとは限りませんが、とにかく、そういう感覚になること)によって、癒しや浄化が行われる仕組みがあること。たとえ仕組みではなくても、見た人の心には納得できる感覚と、心理的な癒しが起こること。
そして、今回、ここがもっとも私がポイントだと思うのは、その過去生ビジョンやストーリーの共有があることです。
ここから考えると、過去生というものが魂の転生として記憶されているかどうかは別として(つまり素朴で純粋な輪廻転生説は置いておいて)、何らかの過去生のような(と思わせる)情報と、それが保存・ストックされている空間や記憶庫(レコード)の存在、さらに、それにリンク・同期・同調する機能が、人間にはある(感じられる)ということです。
記憶は人間一人の中(脳と脳以外のもの)にありますが、それだけではない、何か大きな記憶の集合体、データベースやデータ空間のようなものが、見えない形で存在していると考えられます。
心理学的には、ユングが述べた集合的無意識とか、唯識では阿頼耶識のような層があり、そこに様々な人類の記憶やデータが備わっていると見ます。
たとえ死んでも、生きていた時の記憶はずっとどこかにアップロードされていて、ひとつの巨大情報空間を形成していると想像することもできます。
これらとリンクしたり、同期したり(つまりデータのダウンロード)するには、いろいろな約束ごと、想念の同調・一致があるのだと推測されますが、ともかく、様々な時代の、色々な人の生きた記憶、それには心情的なデータも含まれており、そうしたものが違う時代の人にも影響を及ぼす宇宙の仕組みがあるのだと思われます。
言ってみれば、時間という縛りをなくした、長大な浄化システムのようなもので、過去生の人間の思い(未浄化のもの、思い残し、ネガティブな感情などの)データが、時という枠組を超えて、未来の人の思いと同調し(逆の、未来側から過去側へというのもあるでしょう)、相互浄化を果たす働きがあるのではないかということです。
今の時代や時間では、ある個人の問題として起きていることですが、それは元をたどれば、過去世などのほかの人、あるいは多くの人の集合体データとリンクしいるもので、それがために、今の自分の問題を解決したり、浄化したりすることは、そのデータ自体の浄化にもつなかっているということです。(過去世だけではなく、今の生きている時代のほかの人のデータの影響も含めて)
ロマンチックな言い方をすれば、過去の人間の思いが、未来の人によって解決される(時間超越の見方では、逆の方向もあり)みたいなことですね。過去と未来の時空を超えた物語(ストーリー)です。
なぜ自分が、ある過去生のデータ(その時代の人物や周囲の人間、事柄)とリンクするのかは、魂が輪廻転生しているからとか、データを受け継ぐ気質があるからとか、同調する同じ性質を今持っているからとか、いろいろと理由は考えられます。
タロット受講生の方のヒプノセラピーの先生のお話では、血縁的な先祖として、ずっと時代を下って縁をたどり、過去生人物の思いが、遠い未来の子孫にリンクしていくことがあるというものでした。
確かに、そういう繋がりでリンクしていくこともあるのかもしれません。(このことは日本人の先祖供養システムの、行事としての本質的意味に関係すると思います)
もちろん、血族や民族性を超えた過去生データとの同期もあると思います。
何度も言いますが、その人が、自分の見た過去生自体をかつて生きていた(同じ魂だった)とか、過去生が事実かどうかという点は、あまり関係ないのです。
個人の癒しの感情、問題の出所が納得する物語(お話、ストーリー)として、たとえ作り話であっても、その人の生活・人生に影響を及ぼすものがあるという点です。
そしてそれらが、一人だけの世界ではなく、同調するかのように、何人かの人とつながり、またデータの書き換えのような、過去生でのビジョンの変更(過去の事件と人物の心情が変わったように感じること)が、感覚として、今生きている人の複数の人で共有されるという現象があることです。
ここから考えると、私たちはやはり個人一人で生きているのではなく、人類全体として、何らかの意志やルールを取り決めて、巨大な集合意識体として生きているということです。
それはいいことばかりではなく、ネガティブなものも共有して蓄積し、時空を超えて影響しあい、それが個人としての表現(それぞれ個人の人生)にも関係してくるのです。
逆に言えば、一人の思いはほかの多くの人にも影響し、よい意味で言えば、意識の浄化・深化・進化が一人でも多く進めば、多数の集合体としての次元上昇が起き、まったく(共通認識で設定される)世界は変わる可能性があります。
マルセイユタロットの大アルカナでも、数の大きいカードは、複数の人物たちが登場し、個人や常識として見える現実、さらには時間と空間で規定された世界を、もはや超越したものとして描写されていることがわかります。
つまりは、人類全体への意識として、気づきや関心がシフトしていくようになるのです。
「太陽」の二人、太陽の船団
マルセイユタロットに「太陽」というカードがあります。
「太陽」のカードは、二人の人物が肩を抱いたり、手を出したりして、特別な関係にあることを想像させる絵柄となっています。
このカードは、人物に限らず、あらゆる二元的な分離を統合していく象徴として、原理的に解釈していくことができますが、人間関係のフィールドや次元に置きますと、やはり「特別な二人」「影響の強い二人」として見ることができます。
だからと言って、単純にこのカードが、例えば恋愛や人間関係の問題において出た(引いた)からと言って、特別な二人を表すとは限らないところが、象徴としての「タロットカード」ではあります。
ここではリーディングでの意味や解釈のことではなく、このカードの絵柄の象徴性から見る、特殊な人間関係のお話です。
人は人生において、この「太陽」のカードのような、自分以外の特別な他人を(血縁や家族以外で)持つことがあります。
持つというより、そう思わせる人というのに近いでしょうか。
おそらく自分の人生に、他人として(あとで恋人や友人、家族となるにしても)強い影響を及ぼすと考えられるのは、どの分野においても三人程度だと考えられます。
それは、例えば数秘においても、関係性や調和を象徴する「6」の数が、「3+3」、または、1を基点にして、3つの連続する数「1+2+3」とか「7+8+9」の合計数の数字根(単数化したもの)が、「6」となって、その構成が先述したように「3」の倍数(3のペア)になっていることからも想像できます。
しかし、本当の意味で重要となる人物は、自分のほかにあと一人という、ペア的、対称・対照・対象的人物、すなわち「太陽」のような二人(自分とあと一人)ということになるのではないかと思います。
それは一言でいえば、魂の共有とでもいうべき人物で、現実的な意味での友人や恋人という範疇を超えた関係性、魂の共鳴を持つ人ということです。
ただ魂の共鳴と言っても、対称性として現れた場合は、まったく正反対、あるいは違和感が強いけれども、どこか同じ核・コアを感じさせるような人となることもあると考えられます。
いわゆるソウルメイトと言えばソウルメイトですが、ロマンチックな恋愛感情のもの、恋の運命の人というのとは違い、この人生(あるいは別の人生においても)魂的なサポーターであったり、伴侶であったり(現実の夫婦という意味ではありません、そういう場合もありますが)します。
そのような人が若くして現れる場合もあるでしょぅが、たいていは、中年以降に実際に現れたり、認識できたりすることが多く、それは、若年の時には、この人生での創造的可能性を考慮して、あえて現れないようになっているとも考えられます。
しかし、年を重ねて、現実的地位が固まってきたり、ある程度の経験をしてきたりしたところで、特に物質よりも精神(心)、魂への観点へと変化していくことが多くなりますので、そういう関係の者(魂のつながり、共鳴者)であることを認識しやすくなるというのもあるかもしれません。
またそのつながりは、もっと大きなグループ(ソウルグループのようなもの)とも関連し、そこの意志を実現するために、特別な二人として意識されることもあると想像しています。
逆に言えば、「太陽」で象徴されるもう一人の人物に会うことで、あなたの本当の使命、魂の生き方というものを思い出すことになるかもしれません。
このような人同士(太陽の二人)は、すべてが理解しあえると思ってはいけません。
このカードは、段階や次元で見た場合、霊的・魂的次元を象徴しますから、その次元において共鳴したり、理解したりできるということです。
ですから、実際的(現実的)、感情的(心・精神)にわかりあえる、意気投合する、気が合うという感じでもない場合があるのです。
このあたりが、ロマンチックなソウルメイト願望の対象者とは異なるところでもあります。
いずれにしろ、「太陽」の人物たちは、お互いに、それぞれにある「太陽」「本質」を燃え上がらせ(情熱的になるということではありません)、自らの魂の表現を可能な限り、この人生において実現しようとシフトし、その援助をともにしていきます。
その人の存在があなたの太陽であり、また相手にとってもあなたが太陽になるのです。(現実の生活や仕事の面で相手を輝かせるというニュアンスとは違います。そうなる場合もありますが)
これは陰陽的な、月と太陽という関係性とは違うので、留意する必要はあるでしょう。
たとえ「太陽的」な人が現実にいないとしても、見えないネットワークの中で、すでに二人は出会い、無意識の中では共有しているかもしれないのです。
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そういう二人の場合は、実際に肉体をもって現れる必要がないため、現実の人生で出会うという形を取っていないと言えます。
「太陽」の二人、そのグループは、例えれば船団のようなもので、船のこぎ手としてペアになる二人であり、それが集まってひとつの船となり、その船がまた集まって、ひとつの目的に向かって航海していく船団を形作っています。
マルセイユタロットの「太陽」の絵柄にも、水のような流れが描かれており、向かって右側の人物の足下には、白い島(大陸)も現れています。
太陽の船団は、その白い島に向かっているのでしょう。その島にたどりつくと、二人は歓喜に包まれるのです。
私たちの現実の人生も、この旅の演出のひとつなのかもしれません。そこにペアとなる人は、どこかにいるはずです。
運・運気はあるという現実感
マルセイユタロットで「運命の輪」というカードがあります。
このカードのモチーフは、西洋では普遍的なもので、ほかのタロットにおいても、またタロットやカード以外でも、「運命」のシンボルとしてよく登場するものです。
東洋においても、「運」とか「運気」というものは、特に占いの世界においては重要視されます。
今回は、「運」とは何か?ということではなく、むしろ「運」という概念や象徴性が、私たちの生活や、精神的・霊的な探求においても、何か影響があるということについて、ふれたいと思います。
運や運気と呼ばれるものは、(形や見た目として)ないと言えばないですが、結構、誰しも、「運」を言葉して使っています。
運がある・ないとか、(運が)ついている・ついていないとか、(英語的に)ラッキーだったとか、不運だ、運に見放された・・・など、運・運気を思わせる表現は日常的に使われますし、よく見られます。
ということは、意識において、実在性があるものと見ることができます。
この、「意識したものに実在性がある」とする見方(実際的な影響があるものと見る考え)は、「リアリティ」(現実感)というものを考えるうえで重要です。
ここでいうリアリティとは、その人が現実だと思う感覚、意識、世界観と言ってもよく、全員に普遍的にある、(個人のフィルターを通していない)本当の現実というのとは違います。
要するに「運」は、ほとんどの人が普通にあると思っていたり、そういう言葉で表現したりするので、目に見えなくても影響のある「存在」なのです。
それをあえて見える形にしたのが、タロットでは「運命の輪」であり、占い的には運気の流れとして、図やある種の概念として(目や頭(論理)で)わかるように表現していると言えます。
もう少しはっきり言えば、私たちが現実意識をもって生活している限り、運・運気・運命という、目には見えなくても、影響する力として支配されるのだということです。
そうした現実感(運が存在するというリアリティ)をもって、ほとんどの人が暮らしているからです。言ってみれば、運は私たちの集合意識が作り出しているとも言えます。
物質次元から精神へと移行し、それらの両者の統合、また霊的な探求や発展を望む時、現実意識(今までのリアリティ感)を超越していくことが求められます。
従って、そういうことを志向する者は、運・運気というものから逃れる、あるいは運などないという発想になってきます。
ところが、そうは言っても、死ぬわけではないので、肉体をもって現実というフィールドで活動しなくてはならず、そうすると、どうしても、先述した多くの人(の現実感)によって意識されている「運」というものに支配された世界の影響を受けることになります。
いくら「そんなものは関係ない」と言ったところで、多勢に無勢、意識の多数派に負けてしまいます。結局、運に支配されるような世界に、中途半端ながらも関わることになるわけです。
これはおそらく霊的には、肉体と精神、さらに個の魂に刻まれた、いわばカルマのようなデータとも関係し、「運」という、実体はなくても影響するものとして、そのカルマ的な部分にリンクするようになっていると考えられます。
従って、「運」という巨大な意識体から逃れるためには、自分の思考や感情データ(運を意識する考え方や感じ方のこと)の除去や脱却、調整だけではなく、カルマ的な調整・デリート(浄化)も必要になってくると想像できます。
そして、ここが面白いところなのですが、運にリアリティを持つ次元にいる私たちは、いいか悪いかは別にして、普通に、逆から考えると、運(運気)を使って、それに乗ったりしての、現実生活をエンジョイさせたり、現世利益を得たりの、いわゆる一般的な幸せや、よい生活ということを目指すこともできるのです。
また同時に、カルマ的な浄化が進めば、運に左右されないというか、見た目には、運がいいような現実の状況として現れてくるとも言えましょう。
ということは、物質的・現実的な充実を図るにしても、精神的・霊的な探求と解放を進めていくにしても、「運」については、必ず通らなくてはならないポイントであると述べることができます。
これはマルセイユタロットの「愚者」を除く、手品師(1)から世界(21)の大アルカナの数の並びにおいて、ほぼ真ん中に位置する「10」という数を、「運命の輪」が持っていることでもわかります。
しかし、後者の精神的・霊的解放を目指す人は、あまり運を意識し過ぎた生活をすると、運という実体のないものを実体化させてしまうことに傾き、結局、運による支配から逃れられない強固な枠・鎖を自らで作ることになりますから、注意が必要です。
そして、あくまで自分一代の生活を、現実的な意味で充実させたい、地位や名誉を得たい、お金や事業、人間関係など、地上的な意味でうまく進めたいという方には、運の利用、運の流れに乗るということは、とても重要なことになるでしょう。
運を活かすも殺すも、また運というものを実として見るか虚として見るかも、皆さんの目的次第だと言えます。
春分の日を例にして
先日、春分の日を迎え、多くの方が、ここに意識を集中していたように思います。
SNSからの情報の広がりなどの影響もあって、この日を宇宙元年という呼称にしている方も見られ、変化や新しさを強調している雰囲気が伝わってきました。スピ的な世界では、次元上昇やアセンションが行われる日という人もいるようです。
確かに春分の日を境に、新たな意識と行動でリフレッシュしたり、リセットしたりしていくのも、大きな流れと個人の動きをリンクさせ、調和させていくことでも、その一助となるのではないかと推測されます。
ただ一方で、こういった太陽と地球の関係性における、ある種のポイントを見るというのは、実は当たり前のことであり、そもそも暦はそうしてできているものです。
しかし現代では、占星術的ともいえる起点と終点、あるいはその流れ・循環というものがあまり意識されず、現在の起点ポイント・1/1を基に、どちらかといえば、季節や自然の流れにそぐわない暦になっていることで、多くの人がどこか違和感を覚えたり、心と体と時期・季節の巡りに、ギクシャクとしたものを感じたりしている状態と言えます。
ですから、機械的な時期の動きではなく、再び、古代では当たり前に意識されていた性質的な時の流れを感じていくのを取り戻す意味では、春分の日を起点として見ていくのもよいかと感じます。
一方で、それは本当に自分にとってそういうことになるのか? 果たして春分の日はどういうものなのか?など、探求したり、自身で内と外の動きを精査したりすることも求められます。
人がそういうから、そういう時期だから、そういうエネルギーが流れるようになるから・・・とか、情報として仕入れるのはよいにしても、そのまま鵜呑みにして、ほかの人へも、何も考えずに流し伝播させていくというのは、危険なところもあるのです。
これでは、迷信の広がり、災害時のデマの流れとあまり変わらないからです。
宇宙には大きな流れ・循環があるものと想像されます。
それらの究極的な流れ(もともとは動きも何もないひとつのものと考えられます)から、各レベル・次元・世界によって、同じような型・パターンが踏襲されつつも、表現を変えて顕現していきます。
そのうちのレベルのひとつが地球から見た太陽周期であり、その関係性において4のつ重要なポイント(春分・夏至・秋分・冬至)が生まれます。
それは二次元的には、円と直線(交わり・交点)で表されるもので、三次元的には球とその交点で示されます。
これが私たちに機械的に影響するという見方もあるでしょうが、大切なのは、こういった関係性(形・比)が象徴や型・モデルであり、次元と世界が異なれば、別の表現として、とらえられてくるということです。
例えば、4つのポイントは、地球と太陽の関係性の重要なポイントですが、先述したように、図形的には水平と垂直性という直線のうえに、太陽が回転している軌道(天動説的に見ます)との交点、つまり円との交接によって生まれるポイントなわけであり、地球が私たち自身、あるいは常識的な思考性ということであるならば、太陽は自分との関係性の相手だったり、自分の中の高次の自分という「他人や別の自分」として示すことができます。
ということは、自分と他人、あるいは自分自身との関係性において交わるポイントであると見ることができ、その意味で、変化や新規、回帰・リセット、上昇・下降、別離や出会いという実際の現象として現れてくる(こともある)と考えられます。
もちろん象徴的な四季としての流れ、つまり春・夏・秋・冬の循環とも関係し、それらも季節ではそうですが、別の表現・レベルでは違う現れ方をしますし、同時に、本質的には同じ性質を持っているということになります。
マルセイユタロットでは「太陽」というカードがありますが、ほかのカードとの関連性を見れば、こうした季節や時期の流れが、壮大な宇宙周期とも合致しながら、個別にも働いていることがわかります。
そして、それは単純に同期しているのではなく、私たち個人個人の意識と大いなるものはつながっているとはいえ、そのレベルの違いによって、個人としてはまったく違ったように感じられたり、現れたりするということも理解しておく必要があるのです。
要するに、簡単にいえば、「皆が言うからそうなんだ」ではなく、自分にとってはどうなのか?という視点が、実は全体の本質につながる視点にもなるのだという、一見矛盾していますが、そういう考え方も入れるとよいですよ、ということなのです。
信じることは統合の意味でも大切なことではありますが、まずは分離して考えることも重要なのです。鵜呑みにすることと、本当の意味で信じられるかの違いは、精査や検証、実感など「過程を経ているかどうか」(たとえ自分の直感を入れるにしても)によります。
知性ということでそれらを考察していくのもよいですし、感性を深め、自らの感覚と、その奧に流れている全体性のもの、これらを「感じる・観る」というのでもよいでしょう。
いずれにせよ、情報はあくまでまだ情報の段階であり、それはあなた自身では精査されていない(落とし込まれていない)ことなのです。
気持ちのいい言葉に踊らされたり、高揚してしまったりするのには、注意も必要です。
自然の流れとして当たり前にそうなる(傾向)というのがあるわけですし、また、一人一人個性をもっている存在ですから、皆が皆、同じようになる(ならなければならないという)わけでもないのです。
春分の日のあたり、別に何もなかった、感じなかったという人があってもそれはそれでいいですし、人に言われたからとか、雰囲気に流されたからではなく、確かに何か自分は感じた、新しい感じになった、そうのように考察することができたというものならば、それはそれでもいいわけです。
これは春分の日だけに限らないことです。
冷静に観てください。一年のうち、どれほど多くの「変化の日」や、「ここから何か始まる」とか、「これで○○は終わり」とか、多くの人が述べているかを。
すべては記念日、すべては特別な日みたいになっている状態です。(笑)
自分の中に、自分は特別でありたい、自分は進んでいたい、自分は何か目に見えない力で成功したい、自分は取り残されたくない・・・このような思いはないですか?
結局、多くの人が、ある時期のポイントを特別視する背景には、自分の劣等感や優越感のようなものがあり、ことさら心理的な問題が、ある日を特別視しているのです。
言い換えれば、ある「日」「ポイント」を利用して、自分を特別視したい、癒したい、承認されたい、愛されたいという思いの投影になっています。
もちろん、これがすべてではなく、時期的(時間的)なポイントに特別なものがあるのは、場所(空間的)にそのようなところがあるのと同じで、心理的な影響のものではなく、むしろ逆で、そのような特別な時空だからこそ、心理・感情に関係してくるのだということもできます。
ここで言っているのは、春分の日などを無視せよというのではなく、洗脳や迷信に流されるような、退行ともとれる状態にならないよう、自身の知性と崇高な感覚を働かせる見方をしていきましょうと述べているのです。
私たちの故郷はどこか。
落ち着く音楽を聴いたり、ほっとするような映像作品や絵画を見たりすると、心が温かく、穏やかな気分に満たされる時があると思います。
そのほとんどは、私たちにある、生まれてから今に至る何らかの記憶と、それに付随する感情が、その際に再生されていると見ることができ、そう言ってしまえば、脳内ホルモンの分泌(記憶の再生ととも促されるリラックスへの指令等)などと関連して、身も蓋もないことになってしまいます。
しかしながら、一方で、個人的には、そういった記憶の再生機能とは違って、私たちの中に別の意味での記憶が蘇ってくるからではないかという思いもあります。
これはマルセイユタロットにおいての、例えば、「太陽」とか」「星」、あるいは「世界」のような、数のうえでも上位にあるもので、絵柄的にも明るかったり、融和(友愛)的だったりするカードを見ていて感じることでもあるのです。
それは一言でいえば、我々人類の、「ユートピアの記憶」とでも表現すべきものです。
この世の中は世知辛く、自分がたとえ幸せだとしても、世界規模で見渡せば、貧困や深刻な病気で苦しむ人々、戦争や争いで文字通り、戦々恐々と日々を暮らしている人、また日本においても、物質的には困ることのない環境かもしれませんが、学校や職場においても、多くの人は精神的には決して毎日が楽しいわけではなく、中にはひどく追いつめられたり、厳しく、つらい状況で過ごしたりしている人もいます。
スピリチュアルな人の中には、それは自分が創造しているから、自分が不幸や苦しいと思っているから世界もそう見えてくるのだという人もいます。
ただ、根源的にはそういうことも言えるかもしれませんが、冷静に見れば、全員とは言わないまでも、あまりにもこの世界は矛盾や苦しみで満ちているのも事実でしょう。
まあ、それは“事実”ではなく、自分の思い込み・認識力の低さ、つまりは幻想であると、スピリチュアル的には言えてしまうところもあるので、こういった話は堂々巡りにもなりがちです。
ですので、今はそれは置いておきたいと思います。
話を戻しますと、私たちの中には、平和的状態を思い出す何らかの記憶があり、それはもしかすると、一概に生育史から生まれたものではなく、別次元や、別の時代の記憶であるかもしれないということです。
ロマンチックな話でメルヘンのような設定ですが(笑)、実はこのことはとても重要だと思っています。
マルセイユタロットの教えには、私たちの中には高次の認識、あるいは神性・完全性を保持しているという考えがあります。
私たちがなぜ、平和的・友愛的なものにほっとし、時には涙を流すかのような懐かしさ・郷愁を覚えることがあるのか?と言えば、それは、そういう状態の実現性(状態の存在)を知っているからにほかならないのではないでしょぅか。
宇宙人的な話が好きな人は、私たちの今の状態から見れば、より高度でユートピア的な星系にいた魂の記憶と言ってもいいかもしれません。
私自身は、タロッティストなので、タロットによる象徴的な考えが好きで、宇宙人的なことも、あくまで象徴的に見るようにしていますが、要するに表現の違いであり、象徴的にはユートピア世界のように表せる次元があるということです。
それをある人は、なになにの星という人もいれば、太古の平和的地球とか、理想郷としてのシャンバラとか地底世界とか、桃源郷のように言う人もいるということだと思います。
また修行系では、悟り世界の住人たち、(死者の世界という意味ではなく)彼岸の世界ということなのかもしれません。
こういった記憶と遭遇するには、具体的なものよりも抽象的、あるいは言葉とか文字ではなく、絵(色彩含む)・図形・音・波動などのシンボル・象徴が必要なのです。
だからこそ、人は音楽・映像・絵画など、芸術とその作品によって、ユートピアである元郷を想起することができるのだと思います。
プラトン的にいえば「イデア」への観照であり、イデアであるからこそ現実とは別の世界にあるのです。
しかしそれは夢物語や、単にあこがれるだけのものではなく、私たちの高次の記憶に確かに存在するもので、私たちの囚われている現実的な時間と空間という概念を超えれば、そこにまさしく現出してくるものと想定できます。
つまり、本当の私たちが住む世界はそこにあり、それは故郷・ふるさとと言えるところなのです。
そして、今は何らかの原因で、次元を下降した状態で、現実という苦しみと矛盾の世界に生きており、本当の故郷を思い出せるもの、懐かしめるものに出会うと、魂が反応してしまうのだと想像できます。
通常では現実逃避の発想だと一笑に付されるでしょうが、マルセイユタロットの絵柄を見ていると、私はそう感じるのです。