スピリチュアル

夢の力と「月」の関係

今日の話は、「」の話です。
 
と言っても、「将来の夢を語る」というような、希望や理想の「夢」のことではなく、私たちが寝ている時に見る「夢」のほうの話です。

「夢」というのは不思議なもので、まったく見ないという人もいれば、極めて鮮明で、まるで現実であるかのような夢を見る人もいます。
 
マルセイユタロットの描く「月」のカードと「夢」の関係性には、かなりの秘密が隠されていると感じます。それは私の考えでは、相当重大なものだと思っています。
 
その「月」のカードと、ほかのカードたちを観察していますと、非現実の最たるものであるともいえる「」には、逆に「現実」とつながっていると想像させるものが多くあります。
 
いわば、夢を見ることで現実が創られると言え、またその反対に、現実が夢を壊す、または消費する(しかし、反面創造にもなっている)と言ってもいいものがあるのです。
 
前者は、想像力が創造力(日本語の妙味)と関係すると考えると、何となくわかってくると思います。
 
夢を見るエネルギー、夢そのものを作り出すエネルギー(私たちに夢を見させたり、映し出させたりするエネルギーの本質)は、つまりはイメージの源泉と同じものであり、だからこそ、イメージする力や働きが、自分の中でうまくできないと、夢見はたとえあっても、その内容はランダムで不可解なものに終始すると考えられます。
 
また現実も同様(夢ほどではないにしても)に、ただランダムに起き、それに反応する毎日となります。
 
つまり、夢を見ることに何らかの意図を込めること(夢の中での自分の自立を目指すこと)で、夢のエネルギーの本質を扱う術が見えてくる可能性があるのです。
 
そして、その本質のエネルギーは、もっと言うと、現実世界を映し出すための投影機のエネルギー源のようなものにもなっており、それがために、夢の扱い如何によっては、現実にも変化や影響が及びことになると想定できます。
 
さらに、夢(を作り出すもの)のエネルギーは、おそらく私たちの感情のそれと繋がっており、しかも、マルセイユタロットの「月」にあるように、月や天体(宇宙)ともリンクしていることがうかがえます。
 
一般に西洋占星術においても、「月」と感情の深い関係が言われているところです。
 
ただ、普通、夢を意識しないままでいると、夢は主に、現実生活(日中活動)における私たちの感情のや受けた印象の整理・浄化に働いているだけで(しかしこれは、スムースに日中の活動をするためには、とても重要なことです)、特段、夢と現実のつながりについて考えることはありません。
 
せいぜい、夢占いや夢判断で分析するくらいでしょうか。(夢分析も、心理的には意味ががあると考えられます)
 
ここで、マルセイユタロットの「月」のカードから、「夢」のことを意識してみると、夢のコントロール(夢への秘儀的理解)というものが、本当の意味での覚醒には重要だということがわかってきます。
 
実は私たちは、普通の現実生活(日中の活動)の中では、むしろ夜とは違う別の夢を見て寝ている状態であり、逆に、夜寝ている時は、本質の部分にふれている(覚醒の扉に近づいている、しかし完全には扉はオープンしていない)のではないかと推測されます。
 
言ってみれば、起きている時も寝ている時も「夢」を見ていることは同じなのです。つまりはずっと寝ているわけですが(笑)、その夢見の仕方が異なり、寝ている時のほうが、実は覚醒に近いほうになっているということです。
 
寝ている時の夢のほうは、現実の時より、不可能なことが可能になりますが、それは言い換えれば、夜に私たちは覚醒しつつあると言えますから、何でもできる状態に近くなっていると言えるのです。
 
その可能なる意識を寝ている時に持っておき、夢にふりまわされるのではなく、夢の中で自分の意志が反映されるよう、コントロール(夢の改変)に努力すると、その力は、現実へも影響されることになるとイメージできます。
 
これは、夢の訓練によって、現実もある程度、変えることができるということです。
 
ただ、これは願望実現の方法を言っているのではなく、私たちが奴隷のように自分の思う現実の中で「睡眠」させられているを自覚し、一種の牢獄状態から抜け出すための力を強化する目的で述べています。
 
簡単にいえば、真の主体性を取り戻すための夢見ということです。
 
なお、最初のほうに書きました、現実が夢を消費する、壊すということは、どういうことかと言いますと、せっかく「夢を見る」いうイメージの源泉との繋がり(内なる創造性と関係)が、日中起きている時の現実のビジョン(これも一種の夢)に振り回される(現実の生活に追い立てられる)ことによって混乱し、そのために(夢の)エネルギーを消費することで、イメージと創造の力(とのつながり)を失うことにあるからです。
 
夜、貯めていたエネルギーが、日中のビジョン整理のために消費されるようなものです。
 
ところが、これまた逆転の発想になりますが、私たちの日中の活動も夢を見ているとするならば、現実もある程度作り出していることにもなりますから(一人だけではなく、関わる皆で生み出している)、ある意味、現実生活も夢の反映や投影、創造でもあるわけです。
 
しかし自覚なき場合は、ほとんど無意識で映画を見ているようなものに過ぎず、映画が作り出されていることのすごさ、エネルギーに気づくことができません。
 
そして、日中に私たちが体験し、活動してきた現実生活の印象は、夜寝ている時に「月」によって吸収され、天体のエネルギーとして利用されることになることが考えられます。
 
これを書いていいのか、悩むところですが・・・ここまで来ると書かざるを得ませんが、結局、私たちが無意識(無自覚)のまま、ただ流されて生きることは、様々な現実生活のビジョン(見ていること、体験していること)によって受容した印象が、エネルギーとなって一時的に保存され、夜になって、月による回収が行われ、その時、私たちは逆に月からあるイメージ(夢)を付与されているのではないかということです。
 
前にも書きましたが、「月に願いを・・・」という願望実現法は、これを自分のほうから積極的に月の奴隷として行う方法になりますから、それこそ現実としての夢見の強化(願いは叶うと見させられること)にはなっても、真の覚醒とはかけ離れた方向性になるのがわかります。
 
こう書くと、月にネガティブなイメージを抱くかもしれませんが、何事も二元の意味はありますから、実は、月はただそういう機能と役割であり、大きな観点からすれば、やはり私たちにとって恩恵を与えてくれる天体だと言えます。
 
太陽と月と地球、それぞれの距離はまったく違うのに、地球から見える太陽と月が、例えば皆既日食現象が起きるように、ほぼ同じ大きさになるようになっていることを見ても、神(何か大いなるもの)の意志を感じますし、やはり太陽と月が、地球(私たち人類)にとって、まずはもっとも重要な天体であることがわかるものです。

変化のタイミング

人生、まったく新しい展開になることもありますが、考えてみれば、同じことの繰り返しを続けている時間が多いものです。仕事しかり、日常の生活しかりです。

しかし、そういうルーチンな毎日の中でも、誰でも転機といったものがやってきます。
 
特にこの現実世界では、違うこと、別々なこと、常ならず、つまり「無常」を体験することが強い世界ですから、同じ安定した状態(変わらない状態)がずっと続くなどということないと考えられます。
 
不思議なもので、変わらない日々が多いのに、変わることは宿命づけられているという、まことに奇妙な世界に私たちは生きているわけです。
 
ただ、この「変化」(転機)というものは、潜在的なものと、明らかにドカーンといった形で、衝撃をもって来る場合とがあります。前者は深く潜行してい潜水艦ような動きであり、後者は海上や地上でのわかりやすい進行とインパクトと言えましょう。
 
また、特定の(個人特有の)周期的なパターンで変化する場合と、周期が読めない突発的、イレギュラー的なものもあります。
 
周期パターンは、よく観察すると(データを見ると)、比較的、誰の目にも見えやいものとなりますから、従って、ある程度の予測も可能になります。
 
こういった「周期」は、個人のパターンとしてあるものですが、大きく考えれば、天体やその他、もっと長大なものの流れとリンクしていることもあります。ただ、人によって5年ごととか7年ごととかの違いはあります。
 
一方の突然来るものは予測が難しく、国や地球規模でいえば天災のようなもので読みづらいですし、その人にとっては急なものですから、対応もできず、ショックも大なるものがあります。けれども、それだけに、回復や修復させることがてきれば、自分(の能力・キャパシティ)を急成長させる可能性もあります。
 
おそらく潜在的なものであれ、また突発的なものであれ、実はそれを把握する方法がなかったり、何かの気づき(兆候)を見逃したりしたために、蓄積されたものが爆発したという事態が考えられます。つまり、どの事件・変化にも因果関係や理由があるのだと想像できるのです。
 
しかし残念ながら、私たちは科学と情報収集力が発達した現在でさえ、そうした事件や変化に至った因果関係・原因を全部解き明かすことができません。因果関係というのも、一代限りとか、目に見えるものだけでの範囲ではないこともあり得ます。
 
そのため、どうしても「占い」のようなものを利用したり、何らかの方法で、目に見えない世界から(常識外から)の情報を集めようとしたりするわけです。
 
そうした、ある別分野や別次元からの情報を読み解いたり、受け取ったりする専門家も、この世の仕組みとしては存在していてよいものだと、個人的には思っています。
 
その人たちは全部の情報を知っているわけではありませんが、例えば、ロールプレイングゲームの世界においても、占いやお告げをくれるキャラクターたちが登場し、その人たちが意外にゲームを進めるうえでの、重要な鍵やアイテムのありかのヒントを与えてくれることがあります。同時に、ガセ情報・偽情報で、プレイヤーを迷わす(惑わす)役割としても現れます。
 
映画「マトリックス」の世界でも、預言者とも予言者とも取れるオラクル(託宣)をするおばさんが登場しましたが、あの人も全部知っていたというより、「その時における真実(その時のレベルの認識)」を主人公のネオに告げることで、彼の覚醒への、きっかけを与えた人ということになっています。
 
現実でわかる情報以外のものをもたらせる人も、当然ですが全知全能ではなく、「人間」として個人のフィルターを通したり、現実次元の規制を受けたりしつつ、天上といいますか、神(や悪魔)次元の情報の一部をもたらせて、人間自身の変化を促している存在になっているといえましょう。
 
そういう人は天(神・悪魔と、象徴的言ってもよい者)から選ばれるか、ほかの仕事をしていたり、興味がなかったりしたとしても、自然とそういう役割についていく、演じていくことなる場合が見られます。
 
それから、マルセイユタロットで言えば、大アルカナで「」の数を持つカードには、あるシンボル(象徴)が共通して描かれています。
 
そのシンボルからは多種の意味が想起されますが、「事件の発生」「変化の周期」という視点から見れば、「同じようなことが繰り返されながらも、そこには別次元への変移があり、その転移が発生すると、まったく違う世界になる」という秘密が隠されています。
 
現実的には、例えば、「前にもこんなことがあったよな」とか、「やっていることや悩んでいることは違うけれども、状況は似たようなことがまた起こっている」という気づきで、その気づきを深めると、自分にとっての大きなターニングポイントを自覚することができ、積極的に変化の波に乗ることができます。
 
それは言わば、自分の運命の切り替えの発生と言ってもいいでしょう。別の言い方では、次元(レベル・階層の)転移です。
 
人によっては、それが「明確さ」をもって現実的に発生することがあり、例えば、昔の(何か自分に大きく影響していた時の)関係者に遭遇したり、再会したりするとか、なくなったモノが出てくるとか、同じ土地や場所を違う形で訪問することになったとか、そういう事態です。
 
変化の波は連動していることが多く、例えて言えば、新年度の4月の時期のように、仕事も変ったことで、交流していた人も変わり、恋愛も古いのが終わって新しい恋がやってきた・・・みたいになるわけです。
 
まさに雪崩現象のように、変化の波が各分野に波及することを実感するでしょう。それはシンクロニシティとして感じることもあります。変化の波の規模が大きければ大きいほど、次元転移の幅も大きかったということになります。
 
しかし一方で、よくよく見れば、変化はあっても、人は同じようなパターンの中で、やはり生きているのです。
 
次元転移で、何が実はもっとも変化したのかといえば、それは「」だといえます。ですから、住むところや働くところがたとえ同じであっても、質が変わっていれば、文字通り、「あなたの世界(の質)」は変わっていると言えるのです。

波動について。

スピリチュアルな世界では、波動という概念がよく取り上げられます。

私自身はあまりしませんが、タロットをするの人の間でも話題にする言葉のひとつですね。

「周波数」という人もいれば、何か「氣」のようなものとたとえる人もいますが、現代の科学的な定義の同じ言葉とは、また違うニュアンスでスピリチュアル系統の人が言っていることは、何となくわかるでしょう。

まあ、普通の人や、厳密な観点で言えば、「波動」というのも、うさんくさい表現(笑)、科学を無視しているかのような表現、迷信みたいなものということになるのですが、ここはちょっとしたファンタジー気分で思っていただいて、あえて波動について見ていくことにましょう。

波動の定義は、スピリチュアルの世界でもまちまちだと感じますので、結局、先述したようなファンタジーとして見るしかないのですが(苦笑)、いわゆる「気分の良し悪し」みたいな感覚で見ると、なんとなくスピリチュアルの人がいう波動の世界観もわかってきます。

気分が悪くて、その結果、状態も悪くなってきているというのが悪い波動(低次の波動)で、よい気持ちになって、明るく、ワクワクした感じになると、状態も自然によい方向になるのがよい波動(高次の波動)、という考えが代表的です。

これも、常識的に見れば当たり前で、極端なことを言えば、体か心を痛めて病気になっていたら、当然仕事にも私生活にも影響が出て、順調には行かなくなりますので、自分の現実の状態も悪くなります。

そもそも気分が悪いと余裕もなくなり、「よい状況にある」なんて言えないのが当たり前です。

反対に、気分が最高によいのなら、何でもポジティブにとらえられ、いつもなら気になること、腹の立つことがあっても、「いいよ、いいよ」みたいに流すこともできるでしょう。

両思いの楽しい恋をしていたら、世の中はバラ色に見えるでしょうし、好きな人にふられたり、いじめを受けたりしていたら、死にたいと思うほど、暗い世として映るでしょう。

結局のところ、体の状況にしても、環境にしても、自分の心のあり方・状態が、自分の内と外を見る状態にリンクしてくるということで、それが機械ではない感情を持つ人間だからだと言えそうです。

ということは、あえてレベルの低い見方と言いますか、シンプルな見方をすれば、スピリチュアル系の人のいう「波動」とは、感情の浮き沈みに近いものということになります。

ただ、個人としての感情の浮き沈みだけではなく、全体レベル(普遍的・俯瞰的レベル)の浮き沈みもあると考えますと、いわゆる波動のレベル・次元という考えも出てきます。

例えば、Aさんの感情の浮き沈みレベル(波の振幅の中心点、その位置)は、Bさんのそれより、かなり上であるとするならば、Aさんの波動(波)の下(振幅の最低点)は、Bさんの波動振幅の最高点ということもありえるわけです。

これはAさんの落ち込みが、Bさんのグッドフィーリング・チョーいい気持ちと感じるものと、同じレベルであるという面白いことになります。(あくまで数値的に見た場合ですが)

ということは、波動の中心ポイントがかなり高度になっている人は、もはや、常人からは、神のような状態に見えるということでしょう。(笑)

マルセイユタロットでいえば、「手品師」レベルと「世界」レベルの違いのようなものです。

しかし、一方で、あまりに上に行きすぎると、下の波動とは接することがないという事態になってしまいます。

見える世界と見えない世界という区別をするとすれば、私たちに見えるレベルの波動があり、見えない波動レベルまで行くと、現実離れしてしまうことになります。

そこで階段のように、上り下りする波動転換が必要となるのがわかるのですが、その詳しいことはまた別の時にお話します。

話を波動と感情の関係ということに戻しますと、要は、自分の感情(気持ち)をアップさせていくこと感情の浮き沈みの幅を少なくしていくことが重要になってくるわけで、しかもアップさせたものを持続させていく(波の荒さを少なくし、波の幅の中心点を上に持っていく)ことも大切になります。

しかし、実際には、問題や葛藤を抱えている時、何か悩み事がある時というのは、現実的な状況にも困っているわけですから、気分がよいわけはありません。つまり、感情が大きく揺らいだり、波(波動)が下のほうに向かっていたりするわけです。

これを無理矢理上げようとしても、土台、無理な話です。とても悲しい時に、心から楽しく笑えというようなものです。(笑)

ですが、スピリチュアルな世界では、気持ち・波動が現実を決めるというのですから、これまた酷でキツイお話です。

しかし、スピリチュアル世界でのお話に、あえて準拠するのなら、外側の環境を変えるより、気持ち・波動を変えるほうが先ということになります。

ただ、同じ状況で悶々とし、じっと考えて続けていても、埒があきません。「私の気分、よくなれ!」と祈ったところで、またすぐに抱えている問題によって、気分が落ち込みます。

そこで、現実的に考えられる、気分の切り替え方法を探ります。

要は、ネックとなっている問題が気分を悪くしているのですから、結局、その問題に真剣に取り組むことが、結果的に気分も変えていくことにつながります。

問題から逃げたり、放置したり、何か宝くじでも当たるかのような奇跡的なことを願ったりしていても、不安や心配、葛藤は続くものです。気分も変わりません。そして、ますます、その気分に応じた状態を、スピ系の方の言う、「引き寄せる」と表現する事態になります。

従って、とにかく何か問題解決に向けた行動を起こすことが、気持ちの変換、気分の転換には効果的です。

調べられることがあれば調べてみる、探せる方法があるのなら試してみる、相談できる場所があるなら行ってみる、苦しい状態を家族や友人・知り合いに伝えてみる、すっきりさせるために勇気をもって告白してみる、休息が必要なら休んでみる、お金が必要なら働いてみる・・・当たり前で、一歩、行動に移せることは、意外に多くあるものです。

気分の固定は、タロットの四大元素で言えば、「水」の中の「土」と関係し、それらはを解放したり、変化させたりするのには、ほかの元素の「風」や「火」が必要となります。これらが固まった感情に変化を起こします。

そうして、不安や心配で固まっていた状態から、何らかの変化を経て、波動の変化・転換が起きます。劇的な変化ではなくても、少なくとも、以前より変わっているのは確かです。

私たちは、スピリチュアルなことをいつも最重視して生きられるわけでもありませんし、感情を無視した機械のような肉体だけの塊でもありません。

たとえ波動の変化が現実を決めるとしても、実際への働きかけ(行動)が、気持ちやエネルギーに変化にもたらせます。

瞑想して気分を変えるよりも、瞑想できる状態・環境づくりへ、まずは作業することが求められる場合もあるのです。

波動変化・上昇は、時にスピリチュアルな方法よりも、現実世界の常識的なことにある(の方が効果的なことがある)のも、何とも皮肉な話なのですが、だからこそ、本当にスピリチュアル(奥底にspiritが息づいていること)に気づくこともできるのです。


タロットを学ぶ人のバランス

マルセイユタロットには過度にスピリチュアル傾向になることも、また反対に唯物主義と言いますか、霊的・精神的なもの、見えないもの、感覚的なものなどを退けてしまう傾向にも、どちらへも傾き過ぎないバランス機能が働きます。

とはいえ、全体・普遍としてはそうなのですが、個人それぞれの特質、価値観もありますので、人である限り、その影響は必ず受けます。

よって、同じマルセイユタロットを学んでいても、やはりどちらかに傾くところはあるわけです。

ただ、タロットが好きとか、タロットを学びたいというように人は、多かれ少なかれスピリチュアルな傾向を含みますから、物質的・論理的な傾向と言っても、あくまで一般のものとは違っていて、スピリチュアルなことに関心はあるけれども、何か自分の中で整合性や論理的な理由がほしいものが強い人となるでしょう。しかしそのような人でも、普通の人よりは、十分スピリチュアル(苦笑)なのです。

今の時代は、インターネットの普及によって、莫大な情報に接することのできる反面、SNSに参加する人も多くなって、実は、逆に友達とか仲間内とか、スモールな世界、似たもの同士がつながり合い、情報交換しているようなところがあります。

似たもの同士と言いますか、同じ趣味志向性を持つ人たちとのつながりになりますから、そこから入る情報も、当然偏っているわけです。

すでにご存じの人も多いように、SNSではデマ情報も数多く存在します。時には、意図的な操作のために、ある情報がセンセーショナルに流されていることもあります。

今では画像や動画も簡単にねつ造・加工が可能ですし、その画像自体は事実であっても、書かれている文章とは関係なかったり、時期が異なっていたりということはよくあるケースです。

また、誰もが簡単に自分から発信できるようになりましたから、思い込みだけで書いているものもあるわけです。

自分から発信が容易にできるということは、反対に、どうしても人に認められたい、自分の発信していることに共感してほしい、反応してほしいという承認欲求が過度に刺激されることになりますので、勢い、自意識過剰な中二病的(笑)な発言とか、客観的要素の少ない感覚的なもので書かれたものも増加していくことになります。

話がそれてきましたが、何が言いたいかと言いますと、タロットをするような人は、もともとスピリチュアルな傾向がある中で、さらにSNSの活用によって、同じ性質の人たちとの狭い世界と情報に偏る(過度のスピリチュアルな偏りの)ところが出てくるということなのです。

その偏りが迷信の域にまで来ているところがあり、「スピリチュアル」が悪い意味でのオカルト化していることすらあります。(本来の「オカルト」の意味は、今の一般の使い方のような意味とはニュアンスは異なりますが、ここでは一般の意味で使用しています)

悪く言えば、非現実的、逃避的、退行的傾向が助長される(されている)ということです。

非現実的、逃避的、退行的と書いたこれらの傾向は、実は解放と自由との背中合わせにあるものです。

つまり、常識や当たり前の全体価値観に染まってしまい、大人として正しくふるまわねばならないという縛りによって、本来の自分、自由性を持つ自分を失った状態に、楔を打ち込むのが非現実的なものにあるのです。

よくインナーチャイルドの問題が心理的には問われますが、霊的な観点では、インナーチャイルドの問題は、必ずしも悪いわけではなく、魂の純粋性や神性への回帰、そのうずきとして起こってくることがあります。

その過程では、一時的に退行的になったり、空想的になったり、引き籠もったりもあると考えられます。

こういう場合は、いわば正しい退行みたいなところもあるのですが、仲間内、あるいは登録しているSNS(の友人・グループ)から流れてくる自分の好きな情報で、承認欲求を慰め合い、自分たちの傷をなめ合って、言わば子どもへの退行のような現象を起こしている人も少なくないのです。(これらも全部悪いわけではなく、一時的には必要なこともあります)

いろいろな心理的・スピリチュアル的知識と技術を求めてさまよい、大量のお金と時間を消費していく人もありますが、その人たちの中には、結局、承認欲求が働いていることがあるのです。

「自分を見つけたい(自分探し)」というのは、自分を自分として承認したいという欲求につながっており、それが自分による自分への承認ならばいいのですが、つまるところ、他人からの承認へとすり替わっていくことが多いのです。(実はその「他人」とは誰かに気づくためのの作業でもあると言えます)

心理的には、たいていこのようなケースは、自分の親や、これまでの人生で、心理的に重要な位置を占めていた人からの承認(が欲しかった)ということが見られます。

過度のスピリチュアルに傾いたり、まずい退行状態に足踏みしたりすることのないように、やはりバランスが大事であり、疑いや反感が出る自分も認めること、違和感を放置しないこともポイントです。

またスピリチュアルの世界では、常識的なことは嫌われますが、常識との葛藤・悩みはバランスの意味でも、自分の成長の意味でも重要なことなのです。

何事も、そしてどの世界にもルール・段階があること、おいしい話や、一足飛びに進むことは、それなりの危険性・リスクがあること(格段の飛躍はできないわけではありませんが、やはり、それなりのできる理由とリスクがあります)

しかし、リスクは反面、冒険・チャレンジでもあるので、ずっと慎重であり続ける必要もありませんが、現実世界における物理法則のような法則性がある(その法則性の性質は異なりますが)ことは、見えない世界を扱う場合でも、理解しておいたほうがよいでしょう。


生きづらさの肯定から観る。

人生とは、ダイナミックで、どんな人にとっても、あとで振り返ればドラマティックなものであり、「素晴らしきかな、我が人生」とか、「物事はすべて完璧なタイミングとバランスでできている」とされて、この世に神なる完全性を見る姿勢があります。

あくまで、自分視点で見れば、人生は、自分がいかにそうしたことを多く体験し、また思考して実感できるかで、生きやすくもなり、充実することもできるということになるでしょう。

現在の多くの心理系、スピリチュアル系の方の主張も、これに類するように思います。

自分の思い方次第で、自分を中心とする範囲の世界は幸せになるかもしれませんし、なにはともあれ、とりあえずはそれ(自分の幸せ)が先決、大事と考えるのはおかしなことではないと思います。

自分自身が幸せや充実感を覚えていれば、それだけ自分の見る世界も幸福に満ち、外部の世界、自分以外の人たちに対してでも優しく、穏やかな目で見ることができます。

世界は私のために優しい、愛がある、幸せを提供してくれていると思えるからです。この「世界」の部分を「宇宙」とか「神」に置き換えても同じことになります。(すると宇宙や神に感謝の念もわき起こるでしょう)

ですから、自分を大切にすること自分がいかに満たされ、幸福な状態になることは重要であり、それゆえ、先述したように、たくさんの方々は、自分方向への愛と充実を訴え、その方法を提供してくれているのです。

そのおかげもあって、自分を解放し、自分らしく生きている人も増えました。

一方、そうは言っても、私たちは現実的には、他者の世界、外に見る世界に、あるいは自分が現実の世界で体験することも含めて、理不尽と思えること、悲惨とも感じるようなこと、多数の人が自由に活き活きと暮らしているとは言い難い状態がシビアに確認できます。

タロットによる相談をしたり、タロットの象徴的思考から世の中を観察したりしても、生きづらさをずっと感じ、この社会に不安システムの問題を思い、どこにいても、何をしても気が晴れないという人も、少なからず、いらっしゃるのではと感じています。

実は私自身も、こうした思いはずっと昔から持っているものです。

いくら心理やスピリチュアルを学び実践しても、また経済的な成功を目指して頑張っても、どこか違和感を覚えたり、うまく行かないと感じたり、それで(これで)いいのだろうか?と疑問に思い始めている人たちがいます。

それはまた、技術とか、自分も含めて「個人」の問題とかではないのではないか?という疑念も生じている場合もあるでしょう。

ちょっと前にブログでも取り上げました「君の名は。」のようなアニメ映画なども近頃では流行り、特に若い人たちがたくさん観ているようです。

これを「現実離れ」や「軽い(ライトな)傾向」と、批判する向きをありますが、今のこの時代、この社会の中で逃げられず、希望も見出せず、どうしようもない閉塞感に行き詰まってしまっている反動として、非現実的表現の奥にあるピュアな(純粋な)もの、もっと言えば「イデア的なもの」に向かっている(観ようとしている)と、考えることもできる気がします。

こうした人たちが感じる「生きづらさ」とは何かを見ていくと、色々なことが見えてくると思います。とはいえ、陰謀論とかの話の次元ではありません。

とにかく、今は楽しくあること、楽であること、リアルを充実させること、目一杯人生を味わうことなどが推奨されていますが、それはそれで素晴らしいことなのですが、そういう気持ちに全面的になれないどこか引っかかる、何かがおかしい、何か違う・・・と感じている人も少なくないのだということです。(むしろ増えている気がします)

それは確かに心理的問題、心のブロックということもあるのでしょうが、それとは別の次元の、普遍で根本的なものがあると、私は感じているところなのです。

言い方を換えれば、心のブロックというとらえ方そのものが、すでに、本当の問題を隠してしまっているということです。

タロットを使う次元にも様々なものがあるのですが、一般的に対人的なリーディングや占いにおいては、心理次元や現実次元の問題と対処を見て、クライアントの実際生活での調和(成功や夢の実現、個としての自分本来性の発揮、自分の好きなことで生きていくなど)を見ていくことが多いものです。

これはタロットを使う(もちろん、タロット以外のことでも)たくさんの先生方がされていることであり、それを上手に指導したり、アドバイスを与えてくれたりする人がいらっしゃいます。

ただ、私はこうしたものも考えたり、アドバイスをしたりもしますが、もうひとつ、今日後半に述べたきたようなことである「この世の矛盾や生きづらさ」をどうとらえ、どうすれは現実次元と純粋次元の統合を図っていくことができるのかということに関心が主体として移っており、それに共鳴する人に対して、マルセイユタロットを教えたり、マルセイユタロットを使ったリーディングをしたりすることが多くなってきました。

一言でいえば、「世の中の生きづらさの肯定」であり、それを現実の世界で、どう調整して行くかというテーマと言えるでしょう。(この「調整」は、時に、いい意味での「離脱」ともなりますが、依存や一般的な意味の「現実逃避」とはまた別です)

またこのことは、単独(自分一人だけ)でどうなるものでもないというテーマですので、マルセイユタロットに関心のある皆さんと一緒に考え、実践していこうという思いでもいます。


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