スピリチュアル

アニメ映画「君の名は。」に関して。

アニメ映画「君の名は。」が大ヒットしているようですね。

私も今や、映像作品は、ほぼアニメばかり見ている(笑)状況(これには、単純にアニメが好きという以外にも理由があります)ですので、もちろん、無関心ではいられませんでした。

ただ、「君の名は。」は、普段アニメを見る層を超越して、多くの一般の人にも受ける形となったので、かえって後回しして鑑賞しようという気持ちでもありました。

ということで、先日、ようやく「君の名を。」を観てきました。それで、幾つかタロットに関連したり、普段思うところとも関係したりすることがありましたので、それを簡単に書いてみたいと思います。若干のネタバレもありますので、まだ観ていない方はご注意ください。(鑑賞後に読むほうがよいです)

この作品は、基本、ファンタジーであるので、そこからスピリチュアルなことに関係させて、すでに多くの人が論評したり、指摘したりしています。

ですから、私ごときが今更言ったところで・・というのがあるのですが、私なりの視点で思ったことを書きたいと思います。

まず、マルセイユタロットでは「斎王」、他のタロットでは、「女教皇」と呼ばれる存在が、この作品のキー(鍵となる人物)として描かれていました。

この存在は、その象徴性を深く辿って行くと、巫女的なものや、女神信仰と結びついてきます。言い換えれば、私たちが今忘れている精神性の奧にある霊性を直接感応する力、平たくいえば、見えない世界の情報をキャッチする能力、異次元認識と情報を直感的に自分に下ろす器といってもよいでしょう。

マルセイユタロット的には、ほかの女性的なカードとも関係し、特に「」のカードとのつながりは、この作品においても深いものがあると感じます。

映画では、主人公ふたりの女性側の人が、この巫女的な系統にあることが描かれ、その巫女の体内からのものと融合したお酒が、もう一人の主人公の男の子(マルセイユタロット的には「斎王」に対しての「法皇」とも取れますし、そもそもの二元的エネルギーも象徴しています)をトランス状態に導くような描写がありました。これらは、女神的な力が、日常を超越したパワー、聖別なる神聖な力があることを象徴しているとも言えましょう。

この主人公男女二人の意識が入れ替わるというのも、もはや古典的表現ではあるのですが、全体を通して見れば、お互いの立場・視点の意識的交換として、見るもの見られるものを統合し、新たな視点(境地)を獲得していく示唆だとも取れます。(マルセイユタロットでは、「恋人」や「月」に関係してきます)

もうひとつの、この作品の(ストーリー的な)特徴として、時空を越える、あるいは時空を無視して、人物同士が繋がる(コンタクトする)というものがあります。

それが主人公二人というわけなのですが、そのつながりの象徴、あるいは超越するためのワープ道具的扱いになっていたのが、糸を組み合わせる組紐(くみひも)でした。

時空をジャンプするようなことはファンタジーであり、いわば現実離れしていて、私たちが感じているリアルな世界では、まず起こることのない現象なために(しかし夢だとありえるということでもあります)、だからこそ、そこに夢やロマンを感じ、作品では感動を与える核となっていました。

さて、一方で、この作品の別の面での特徴があります。それは、妙にリアルさがあるということです。

先述したように、この作品では、霊的な世界や時空を越えるようなファンタジー要素、つまりは反リアリティ(非現実的・現実逃避・現実遊離的なもの)が核となっているのに対し、一方では、この監督の作品の特徴でもあるのですが、背景や街・自然の描写が超絶なほどきれいで、言ってみればリアル(写真的・見たまま)なのです。(まあ、この監督の他の作品や、短編作品ほどではありませんでしたが)

それから、おそらく多くの人(特に私たち日本人)が、衝撃を受けたであろう、物語の「転」に当たる、「災害」が大きく関係していたというシーン。

これは東日本大震災も含めて、今年の熊本や九州での地震被害、北日本での台風被害、さらに近年での様々の自然と人災的な災害の数々を、日本人なら思い起こさずにはいられない部分です。つまり、これも観る人によっては特にリアルなところなのです。

そうして、導かれていくこの作品からの印象は、このような言葉で置き換えることができるでしょう。

「今、日本で(日本人に)何が起きているのか? 起ころうとしているのか?」

それは、同じアニメ出身監督、庵野氏が監督した実写映画で、こちらも今年ヒットした「シン・ゴジラ」にも、同様のテーマがあると見えるものです。

昔なら、アニメや特撮映画の世界というのは、一部の特殊な人、マニアックな人が見るものでした。しかし、時代は変わり、アニメのような表現は、多くの人になじみのあるものになり、私たち日本では、すでに普遍化したと言ってもいい状態です。

「君の名は。」のヒットにも、戦略的なものもあるでしょうが、アニメーション表現に抵抗のなくなった人々が増えたこと、そして、この作品には、恋愛という要素を元にした、見えない部分の純粋性が描写されていたこと、さらには、その背景に、リアルなものもあり、完全なファンタジー、お伽話としてではなく、物質性や現実性の意味もうまくマッチング・風味付けされていたこと、などがヒットの要因としてあるでしょう。

ただ、さらに奧を見ていくと、監督や制作者たちの意図も超越し、日本人のもつDNA的(組紐的なもので象徴)な元型(イデア)に接触し、それが時空(時間と空間、つまりは私たちが通常認識している現実感覚)や、個別的な人との隔たりも越えるような統合的方向性を示唆していたものと考えられます。

災害のことを入れたり、リアルな日常の(特に東京という大都会の象徴)世界を細密に描くことで、私たちに日常や現実性を意識させつつも、この作品には遠景や空(ソラ・宇宙)、星といったものが象徴的によく出てきており、先述したように、作品自体はファンタジーであるので、現実から離れたような世界を描きます。

何よりも、これは実写ではなく、すべてが絵で構成されている、現実にはない世界を描写するアニメという作品です。

 

この作品を見て、ファンタジーの世界でピュアなものにふれ、それで感動したというのもよいでしょうし、リアルな面でありえない、ツッコミどころ満載(実際、私もそれは感じた部分はあります)という点で、このような作品は合わないとし、批判したり、それほど感動もなかったりしたという人もいらっしゃるでしょう。

それはまた一人一人の個性の違いであって、どう感じたか、思ったかについては自由で、いがみ合うことではありません。

ただ、なぜ多くの人に、今、こうしたアニメ作品が受けたのか、話題になったのかということを考察していくと、上述の「今、日本で(日本人に)何が起きているのか? 起ころうとしているのか?」ということに関連して、商売上や現実的観点から以外の、霊的なテーマとして浮かび上がってくるものがあると思います。

そしてその問いの答えは、皆さん自身で、映画を観ながら探してみてください。


シンクロニシティの意味の解釈の前に。

シンクロニシティ、偶然のような必然の一致、立て続けに起こる同調現象とでも例えられ、特にスピリチュアルに関心のある方には、人気の現象です。

シンクロニシティがなぜ起こるのかのメカニズムについては諸説あり、なかなか解説するのは難しいことです。

よく知られているのには、ユング心理学を基盤とした、集合的無意識による他人との潜在的なつながりのようなことで発生していると説明されます。

しかし、それとは別に、いわゆる霊的存在とか、自分(の状態)とは次元の違うエネルギーや存在からのお知らせ、働きかけとして、シンクロニシティが起こる、いや起こされているという説もあります。

言ってみれば、シンクロニシティについては、内側(潜在意識的なもの)からのものと、外側からのもの(別存在からの働きかけ)とに大別されると考えることもできます。

もし、そうだとすれば、このふたつのものを混交して、私たちはシンクロニシティを体験しているのかもしれません。

いずれにしても、シンクロニシティという現象は、今の時点では、まだはっきり(論理的・科学的に)説明できるものではないと言えましょう。

タロット(リーディング)は、偶然引いたカードに意味を見出す技法ですから、このシンクロニシティと大きく関係するどころか、それそのものでもあると言えます。

ですから、シンクロニシティを前提にしていないと、リーディングや解釈も成り立たないところもあるわけです。

そういうわけで、タロットをやっていると、シンクロニシティについて考えたり、感じたり、鋭くなったりするのは、むしろ当然となります。

そこで、私が思うのは、シンクロにニシティといえど、ほとんど思い込みの世界で起こっているのではないかということです。

自分の思い込みと意味づけで、シンクロニシティのように感じてしまうのか、それとは違い、純粋に、偶然の同調が起こっているのか、判断がつきにくいところがあります。

これ(その判断)については、書けるところも一部あります(最後に少しだけ書いています)が、また別の機会に譲りたいと思います。

今回は、そのシンクロニシティで、自分の「思い込み」だろうと、純粋に「お知らせ」であろうと、どちらにしても適用でき、しかも、一般的にはあまり言われていないことを指摘しておきたいと思います。

今、結構、スピリチュアル志向の人には、シンクロニシティとは、宇宙とか魂とか高次からのメッセージのように思われているところがあり、いわば、シンクロニシティからの解釈を好意的、もしくは正しいもの、自分の選択すべき方向性してとらえてしまうことが多いように思います。

しかし、先述したように、シンクロニシティは、自分の思い込みのこともあります。

人は自分の関心が向いたものに対して、必然的に注意を払いますが、それにより、一見、関連性のないランダムなものでも、関連づけてしまう心の作用が働き、それがシンクロニシティのように感じられてしまうとも考えられます。

一方、何か霊的な存在、あるいは自分の内なるものからの呼び起こされたものが、シンクロニシティ現象として現れるとした場合も、そこから解釈されることが正しいとは限りません。

タロットカードでも、カードの象徴性のつながりから、偶然性から必然性へと変わって見ていくことがあります。

しかし、それは内容的にポジティブなものを示しているとは限らないものです。

つまり、シンクロニシティの起こるシステムはどうであれ、それは自分の意識で確実に、何か意味づけしていることには変わりないということです。

ということは、いい意味づけもあれば、悪い意味づけ(解釈と言ってもよいです)もあるわけです。

例えば、何かの会に参加しようとした時、電車の遅延とか、忘れ物とか、子どもの体調が悪くなったとかで、一度ならず二度までも同じようなことがあった・・・とすれば、その意味の解釈としては、「その会に参加することはまずい」というものもあれば、「障害はお試しであり、自分の意志貫徹を試されている」と見ることもできます。

どちらが正しいのかというのは、当人の解釈の範囲でしかありませんので、はっきりとは言えないものです。

ですから、ここで、シンクロニシティの意味を、イエスかノーかとか、正しいか正しくないとかで見るというよりも、結局、自分の心に何かしら引っかかりや、こだわり、関心がある(引っかかりも、いいとか悪いとかの意味ではなく)ことは確かとして考えるとよいのです。

自分にとって何かしらの意味があるから、シンクロニシティとして感じる(またはお知らせされていると感じる)わけで、その解釈を知りたいと思うのが人情ですが、まずは、意味がある(注意が向いている)とだけ見ておくわけです。

一番大事なのは、自分の関心が今どこに向かっていて、そのことについて、どう感じるか、どう思う(考える)のかということです。

先述の例で言えば、自分はなぜ会に参加する途中のことや、電車の遅れなどのことで、それほど気になるのか、そして、もし会に参加できなかった場合の自分気持ちはどうなのか? 逆に、スムースに参加できていればどうだったのか? 

このように、シンクロニシティ(と感じたことを)を振り返れば、やっていることが正しいか・正しくないかというよりも、自分自身の興味や学びの方向性、あせりや熱中度についても、違った目で見ることができます。

まあ、それでも、人として、正しいか正しくないかを知りたいと思う気持ちもあるでしょうから、その場合は、シンクロニシティだけの現象に頼らず、ほかの技法で見たり、自分の利害関係から離れているほかの人への相談をして、確認してみるとよいでしょう。

本当にすごい(自分にとって必要な)メッセージの場合は、電流が流れたようなものになったり、ありえないタイミングで、強烈な印象として飛び込んで来たりするものです。

こういう場合は、内からというより、外(別の存在や次元)からのものかもしれませんが。

タロットでいえば、誰がどう見ても、「まさにその通り!」「ホント、そうだよね」「タロットさんのおっしゃる通り」「いやー、これはもう、これしかないでしょう」(笑)みたいな展開が現れる状態です。

ついでに、こだわりやブロック(自分を狭めている枠)も、カードのシンクロニシティとして出ますから、シンクロニシティのメッセージ(の解釈)を好意的・肯定的ばかりに見るのは、希望(欲求)を反映したケースが多いと言えます。


ジャッジする自分は悪いのか。

よくあるテーマで、最近も、タロットリーデイングのクライアントの方と話題になったことがあります。

それはマルセイユタロットで言えば、「正義」のカードと関係する話です。

スピリチュアルや心理関係に興味を持ち、自己を分析したり、成長しようと頑張ってきたりすると、必ず、「ジャッジ」という問題に行き当たります。

ジャッジの問題とは、人や物事に対して、自分が評価を下してしまうということであり、シンプルに言えば、あれがいいとか、これが悪いとか決めてしまう心の傾向のことですね。

そして、おおむね、これについて、「ジャッジしないことがいい」とされています。

「ジャッジしないのが成長の証、心理的・スピリチュアル的な成長」みたいなことで言われるわけですよ。

でも、そうは言っても、ジャッジしてしまう自分がいる・・・ということで、私はまだまだだとか、ジャッジしてしまう自分ダメ・・・みたいに思って落ち込んでしまう人がいます。

これについては、まず、前提に大きな矛盾があるということを冷静に考えるとよいです。

ジャッジしないほうがよい、ジャッジする者は未熟、この設定自体、ジャッジしている(いい・悪いの視点で見ている)のです。

おそらく、ジャッジについて(ジャッジの問題について)、もともと言われていたのはそういうことではないのでしょうが、ジャッジする自分のことを気にしている方は、ジャッジすること自体の問題を、すでにいい・悪いで見ていることに気づいてください。

「じゃ、私はますます二重のジャッジ(自分自身が日々ジャッジする問題と、ジャッジするしないという問題を扱うこと自体の問題)の意味で、余計未熟だったんだ!」とふさぎ込む(笑)かもしれませんが、気づくことは大事ですから、気づいたあなたは自己基準で成長しているのです。

それから、ジッャジする・しないの基準を、自分(自己)基準で見ているか(絶対評価で見ているか)、他人基準で判断しているか(相対評価で見ているか)を考えてみましょう。

たいてい、ジャッジのことで悩んでいる人は、他人基準で見ています。

すなわち、何かとても聖人君子のような理想のモデル、スピリチュアルを極めた人とか、悟った人とか、あるいはそこまで行かなくても自分の師匠とか先生とか、そういう類の人を想像していて、「おそらく、そういう人はジャッジなんてしないはず・・・」と思い込み、そのような(自分が思い描く理想の)人の基準で自分のジャッジ具合を比べているわけです。

ここもすでに二重のジャッジ(自分自身の日々のシャッジへの思いと、理想の人の基準で見る自分へのジャッジ)があります。

さて、ここで、私が一番、ジャッジに関して言いたいことを述べます。

それは、この現実の世界で、人間ならば、ジャッジすることが正常である(普通である)ということです。

言い換えればジャッジすることが現実存在(実存)として、生きている実感を味わえることになります。

なぜなのかを説明すると、実はかなり複雑になりますので、あえて簡単に言いますと、この現実世界は個別世界、すなわち、一人一人違う個性を持つことで成り立つ世界だからというのが理由となります。

その「」こそ、私たちを現実と認識させている見方であり、構造と言ってもいいのです。

つまり、違いがあるのが当たり前で、違いを自覚するのも当然、それにいい・悪いの差をつけてしまう見方になるのも仕方がないわけなのです。

ただスピ系などで、「ジャッジしないようになる自分」と言われているのは、自分が思う、いい・悪いの判断のレベルを上げましょうということだと私は思っています。

いい・悪いを判断する基準とは、別の言い方をすれば個人の価値観になります。

価値観はその時代の国や社会、自分の属する集団・組織などで形成される一般的なものと、一人一人の個人的なものがありますが、ここでは個人的なものが主となります。

誰もが何らかの形で、自分の価値観を持ち、それによってジャッジ・判断を下すわけですが、その価値観の基準が自分なりに変わってくると、当然、ジャッジも変化していくわけです。

それが結果的に、前のジャッジしている自分より、今の自分のほうが、ジャッジをしていると思うこと自体も少なくなったし、ジャッジする対象や物事も変わったというようなことになるのです。

変化ですから、レベルでいえば、上と下のようものがあり、下がることもあれば上がることもあります。

上がるというのは、価値観が前のものより統合されたり、多角化されたりしたことで、モノの見方が変化し、前の時点でのいい・悪いがの線引きが消えたと思っていい状態です。

わかりやすい表現で言えば、以前腹が立ったり、感情が乱されたり、いいとか悪いとか判断していたりしていた基準(線引き・限界点)そのものが変わったわけで、ですから前のものには感情は反応はしなくなるのです。

下がるのは、逆に前より沸点や限界値が下がるか、色が白黒はっきりと線引きされるようになって、感情の反応が低いところで起こるようになると言えばよいでしょうか。

ま、とにかく、ジャッジするのは人として当たり前で、しっかり生きている証拠だと思えばいいです。(笑)

で、ジャッジする自分をなくそうとしたり、批判したりするのではなく、単純に価値観が変わる体験をしたり、自分のモノの見方のレベルを変えてみたりしてみましょうということなのです。

要するに、自分のジャッジの基準、モノサシを変えるわけです。

で、ジャッジする基準の変化は、感情ベースなアプローチと思考ベースのアプローチに大まかに分けてあり、前者が自分のハートとか素直な心で見るみたいなことで、よくスピ系で言われているものです。

ですが、これも誤解がすごくあるのですが、感情ベースより思考ベースのほうが合う人がいて、思考でもって視点を多角化することで、モノの見方の基準をレベルアップさせることができるのです。

まあ、思考のほうは、知識を増やすとか、お勉強によってみたいなことになりますが。(笑)

思考がジャッジを下しているから悪いみたいな話がありますが、感情が好き嫌いで判断していることもあるのですよ。そして思考が高度になれば、ジャッジレベルもまったく変わってきます。

でも、やはりどちらのベースにしても、そのレベルや段階において、ジャッジの基準はありますから、ジャッジしてしまう自分を責める必要はありません。

注意すべきは、まったく同じ基準でずっとジャッジが続いている自分の場合です。

他人とジャッジの具合を比べても意味はありません。あくまで自分基準です。

自分が成長しない基準で堂々巡りを繰り返していたり、反射的にジャッジが続いてしまっていたりして、それを自覚しないでいること(ジャッジしている自分を自覚することと、そのジャッジしている自分を責めることとは別ですから注意してください)が問題なのです。

ということで、ジャッジ(する自分)も楽しんでしまいましょう。楽しむコツは、「何によって自分はいい・悪いの判断をしているか」の基準を、自分で自分を愛おしく見ながら(笑)考えることです。

そうすると、現実の世界の仕組みやすごさ、そしてそのからくりに気づいてきます。

マルセイユタロットで言えば、「正義」を超えて、「隠者」から「運命の輪」への気づき・覚醒と関係していると言えましょう。


この時期の自分の癒し・浄化・供養

お盆になりますと、過去のことが想い出されたり、懐かしく感じたりすることが、人によってはあると思います。

伝統的にお盆は、普通の人でも日本人なら、亡くなった人やご先祖のことを偲ぶ期間でもありますので、自分自身のかつてのことに郷愁的な思いが出るのも自然かもしれません。

タロットカードを見ていると、一種のパラレルワールド的な発想を見ることがあります。

そうしたパラレルワールド的なもので考えますと、過去の自分、いや過去だけではなく未来の自分も含めて、数多の「自分」の存在がある(いる)と言えます。

これを別データや別次元の自分として見ることも可能でしょう。時系列的な過去や未来の自分も、その時その時の自分として、並列的に存在していると考えることもできます。

お盆の時期は、霊的な扉が開く時だと言われますので、いわば、霊的に誰もが感応しやすくなっているわけです。

いや私たち、今を生きている人間は普段と同じなのかもしれませんが、向こう側の者たち(霊)が、この見える世界の次元の状態にシンクロ(適応)しやすくなっていると言ったほうがいいのかもしれません。

いずれにしても、普段は見えない側の者たちが、私たちの意識にとらえられやすくなるわけです。

ということは、ご先祖や亡くなった人の霊だけではなく、さきほど述べた自分自身の別存在、分霊ともいうべきパラレルワールドの自分も、普段より意識しやすくなることもありそうです。

特に過去ゲート的なものが開くので、それで昔のことを想い出したり、懐かしんだりすることになるとも考えられます。

そして、中にはただ思い出すだけではなく、すごく気になってしまう過去の自分があるかもしれません。

それは言い換えれば、後悔したり、苦しんだりしている自分の姿で、未浄化の自分とも表現できます。

ならば、供養(浄化・癒しを)する必要があります。

それは普段でもできるのですが、こうした通常と別の次元の扉が開いているお盆などの期間は、特に供養の効果が届きやすい可能性があります。

そう、まさに別の世界の自分自身への供養・浄化を、この時期に行ってみるのです。

方法としては、祈りとして別の自分に思念で届けてもよいでしょうし、今の幸せや、恵まれている状態を思って、そのエネルギー(満足や穏やかな心)を送ってもよいでしょう。

タロットがあれば、カードで象徴化して、自分が特に癒しや浄化につながると感じるカードを選択して、思いとともに浄化されていくイメージをするのもよいかもしれません。

普段はこういった別存在の自分は、寝ている時の夢などに現れやすいです。

確かに夢と言えば夢であり、現実の自分とは関係ないでしょうが、そんな夢を見ること自体、例えば心理的には何か心に引っかかっているものがあると言えます。

夢を見ることによって、「イメージ」として顕在化し、浄化を図っているのだと考えることもできます。

「心残り」という言葉があるように、心がそこに残っているわけです。心はエネルギーとして見れば、やはりそのひとつの現れです。

さらに、時間が本来ないものとすれば、心残りという形での何らかのエネルギーの形質が、過去の(あるいは未来と自分が思う)空間(普通の空間概念とは違いますが)に留まっており、それが今の自分に何らかの影響を及ぼしていると想像することができます。

別次元、あるいは心の奥深くに「心残り」の見えないエネルギーとしてあるのなら、それを見える形や意識の表面として浮上させることで、エネルギー(表現)をさらに変化させていることになります。

ということは、それだけでエネルギーが変質している可能性があり、もとあった空間から全部ではなくても、移行(変容)していることも考えられます。

こうしたことで、過去(や未来)のエネルギーが変わり、自分が本当の自分と思っている(つまり今の自分として意識している)時系列での「現実」の選択肢・岐路も変わってくることが予想されます。

皆さんにも、「あのことを思いだしただけで、その時は重たくても、あとで何か心が軽くなった」とかの経験があるでしょう。

そして過去(の事件・誰か)を許したということで、まったく生き方も変わることがあるわけです。

過去だけではなく、例えば未来に希望を持つ気持ちになれただけで(それは選択肢の幅の増加や位置の上昇でもあります)、「今」この時が輝き出し、まさに「この瞬間」が意識から変わります。今という質の変化と言ってもいいでしょう。

私ちは結局とのことろ、今この時しか生きていないと言えますが、逆説的になりますが、その分、無数の並列的な選択肢の(別の)自分、時間軸を意識した場合の縦列的な、過去・未来の自分(世界)というものも、捨てて来たり、同時に存在したりしているわけです。

このように、私たちの「今」というものは、無数のクロス(交差)・シンクロでできていると考えられます。その点では、いつも奇跡的な「一点」にいます。

しかしその一点も、多くの関連性を持つ点であり、点でありながら、極大な円(球)ともいえ、だからこそ、別存在の自分の影響も考慮されるものなのです。

時系列的には今だけではなく、過去、そして未来のイメージ(の可能性・幅)も大事だということです。


聖域訪問における特別感について。

スピリチュアルブームもあってか(そんなものがあるかどうかは本当は不明ですが(苦笑))、神社や聖域など、パワースポットと呼ばれるところ訪問したがる人は増えているようです。

いわゆるスピリチュアル傾向にある人は、そういうところに行くと、何か特別なことが起こることを期待している節がうかがえます。

まあ、一般レベルの話で、特別な場所なのだから、まさしく特別なことが自分に起こってほしいと思うのは人情でしょう。

しかし、ここで、特にスピリチュアルを志向する人は、改めて考えてほしいのです。

いわゆる「スピリチュアル」を志向する人の理想・思想的には、人は誰しも平等であり、究極的にはひとつであるというものがあります。

そして分離・葛藤・競争ではなく、共助・統合・平和的な方向性を持っていることでしょう。

ところが、大いなるものにふれて、「人類はひとつ」というような気持ちになろうとする聖域において、逆に自分は(神から)選ばれている、特別な使命がある、自分(だけ)には神からの意志が示された、神からの恩寵・特別な徴(しるし)を見た・・・というようになる人がいます。

やれ風が吹いた、虹が出た、オーブが写真に写った、眷属が見えた、特別な音が聞こえた、天気が晴れた、結婚式があった・・・まあ、実にいろいろなことをこじつけて、自分の身に特別なことが起きたことをアピールします。

これは、「自分」の個という存在と、神という何か大きく、場をすべて支配するような存在とが別々に意識(設定)され、その中で自分という特別な存在が、大きなものから選ばれている、意識されているという視点になっているのです。

有り体に言えば、自分と神との「分離」、自己の「特別」視と「選民」意識です。

これはさきほど述べたスピリチュアル的な思想とは正反対のものになっていることに気づくはずです。

聖域では、むしろ自己の存在を消して、宇宙や自然と一体感を味わうはずのものが、かえって「自己」を際立たせ、自らの分離感・特別感を助長してしまうシステム(仕組み)に、自分からしてしまっているのです。

いや、私自身も聖域訪問などで、そのような特別感を抱いたり、シンクロ的にこれは普通とは違うことが起こったと思ったりすることがあります。(苦笑)

そういう気持ちは先述したように、人として普通にある感情なのです。

選ばれたい、特別になりたいという気持ちです。それは人というものは「個性(一人一人の違い)」を持ち、分離している存在だから、そうなるのは当たり前なのです。

ただ、それは裏を返せば、その感情を抱いてしまうのは、現実(人間としての普通)意識にいることであり、せっかくの聖域に来ている意味とは逆になってしまうのです。

聖域訪問を、ひとつのレジャー・観光という感じで行うのであれば、同行している友人たちとともに特別感に浸ってみるのも、「人間としての楽しみ・喜び」としてはOKだと思います。

選ばれている喜び、愛されている喜びというのは、時に必要だからです。普段の生活ではなかなか選ばれている感とか、愛されている感を持つのが難しいものです。

その点、自然や神という抽象的で大きな存在を仮定し、それを実感できる場所(聖域)において、自分と対峙させた時、何か特別に感じることがあれば、大いなるものから選ばれている感、愛されている感を味わうことが可能です。

それで自分の価値を改めて自身が確認し、平和な気持ちに満たされることもあるでしょう。

ですから、聖域で、特別感・選民感を持つことも悪いわけではないのです。

けれども、さらにそこから一歩進み、結局、神とか大いなるものは自分でもある(個と全の統合・一体感)と考え、それを感じさせるための装置だと「聖域」を見ることで、分離感・特別感が次第に消えていくような心境を目指すとよいと思います。

マルセイユタロットでは、そのことを「神の家」と「星」のカードで表しています。逆に選民感とか特別感は、その前に位置する「悪魔」のカードが象徴していると言えましょう。

「15・悪魔」「16・神の家」「17・星」という数順の並びから見て、自分に対する特別感から、やがて神との一体感、神が自分の中に宿ることを実感する過程が描かれているように思います。

聖域では何も自分に起こらないのがむしろスピリチュアル的には当然と言え、すでにいるだけ、存在しているだけで、すべてが特別であり、反対に普遍でもあるのです。

ある意味、自分を素直に純粋にさせる場所と言い換えてもよいでしょう。

聖と俗、その境界線は、ひとつと多数、統合と分離の線引きであり、普段の日常では俗として多数の「違い」の中で翻弄されながら、反対に自分が取るに足らない「全体」に埋没してしまう、ちっぽけなものとして感じられます。

逆に聖域では、違いのないひとつの存在として、全体=個、いや個の境界線が消失し、大いるなる自身(全体)に戻る場所になっていると言えましょう。

この両方を交替・交流していくことで、自身の俗性と聖性のバランスを取っていく(昔は儀式化・習慣化していた)のだと考えられます。結局意識のメリハリが重要でもあるわけです。

いかに聖域で普遍を意識することができるかで、あなた(というより全員)が特別であることがわかるのです。


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