スピリチュアル

漫画・アニメの実写化に思う。

最近の日本の(とは限りませんが)映画界では、漫画やアニメの実写化というのが、ひとつの流行りというか、売り出し方になっているようです。

これには、いろいろな現実的理由があるでしょう。

ちょっとネガティブな考えになりますが、売り出したいタレントとかアイドル、女優・俳優がいて、とにかく話題作りのために映画のネタ元として、漫画・アニメが利用されている点があるように感じます。

あるいは、とにかく何か映画を作りたいけれども、ストーリー案やネタがないので、漫画・アニメを使うみたいな印象です。

要するに最初に、売り出したい人、注目させたいことありきということで、原作とか話とか映像とかは何でもいいわけです。

ただ、何でもいいと言っても、まったく話題性のない漫画やアニメ作品では注目度が低いですから、それでは興行的に失敗の危険性も高くなります。

よって、最初からすでに人気のある漫画とか、作品になったアニメから選ばれるのだと推測されます。

いわば、手っ取り早い売り出しということです。

ただ、そんな売り出し的な「映画」とはいえ、経済的・商売的に成り立たないとそうそう連続で作られるわけはないでしょうから、それなりに採算は合う(利益がある)のでしょう。

純粋にその漫画やアニメのファン、作品愛のある人にとっては、安易な売り出しや興行のための実写化は悲しいですし、怒りすら覚える人もあると思います。

実際、登場人物のイメージはおろか、内容や世界観さえも、原作やアニメ化されたものとはほど遠いものばかりで、出来上がったものは、いわば、たちの悪いコスプレ映画みたいになっています。

目的が作品愛、好きな作品をどうしても実写化したいという思いからではないので、そうなるのも当たり前でしょう。

とはいえ、最初からオリジナルな話と映画を作るのは、今やとても難しく(脚本家とか物語のクリエイターとかが育っていないように思います)、一から作品を作ると、時間とお金もかかるうえに、できても、まったく売れない危険のほうが大きいと思われていることもあるのでしょう。

それならば、人気の漫画やアニメに頼るというのも、商業的にわからないではありません。

しかし、それでは根本的な「創造」にはほど遠く、このままでは、模倣や一時しのぎが続き、オートマチックに機械的に生産されるものに成り下がって、新しい娯楽(性)を追求(創造)することでさえ、てぎなくなってしまうようにも見えます。

もちろん、きちんと作品愛をもって映画化されている制作者、最初からオリジナルで勝負したいと熱望されている方もいらっしゃるとは思います。

ですから、これは、映画界とか芸能界とか素人である者が見た、単なる邪推・推測でしかなく、制作の事情など、何もわかってない観客側のたわごとと聞き流していただければ結構です。

ただ、外から見ると、そんな風に見えてしまうのだということです。

長々と今の日本映画の風潮について書いていますが、これがいったいタロットと何の関係あるのかと思うかもしれません。(笑) でもあるのです。

私は先述したように、漫画・アニメの安易とも見える実写映画化に、嘆きと悲しみを、ずっと抱いていました。

しかし、こういうものにも、何か大いなる意志とか、宇宙の流れとかあるのではないかと考えた時、はたと思い当たることがあったのです。

それは、イメージが現実化されているという流れ(の意図)です。

漫画やアニメというのは、いわばイメージの世界です。二次元的と言ってもいいでしょう。

実写の場合は、映画自体は二次元ですが、演じている人、背景・舞台などは、実際にある(いる)ものか、三次元的に物質化された作りものです。

つまりは、実写映画というものは、より三次元というか、物質化、現実化されているわけです。

ここでひとつには、「思考の現実化」みたいなことが加速しているとも言えます。

ただ、それは表側、表面的な見方でしょう。

私はマルセイユタロットに描かれているところから見て、今まで「裏」と思っていたものが「表」化し、反対に「表」と見ていたものが「裏」であることの逆転現象が、時代の進化、もしくは霊性の進化によって起こると見ています。

マルセイユタロット的にいえば、今の映画の状況も、「18」の「月」から「4」の「皇帝」の流れと見えますし、不思議な言い方になりますが、まったくその逆こそが本質だということで理解(示唆)できます。

起こっている物事をそのまま見るのではなく、裏から考察する、意味を反対に見るというような、「吊るし」の視点で、本質が露わになってきます。

結局、漫画・アニメの実写化は、よくも悪くも、本質回帰(一面ではよいこと)の示唆であり、そして一時的には、確かに非常にまずいことにもなっていると言えます。

ですが、少なくとも、今まで単純に現実的事情(理由)などで見ていた時よりかは見方が変わり、「まあ、これも時代(宇宙)の流れか」と、ちょっとポジティブに考えられるようになりました。

けれども、普通の「人間」としての感情部分では、「えー、あの作品を実写化?、えー、この人が主役? やめてくれよ!」と人情的には思います。(笑)

二次元だからこそ表現できるものがあり、そこに良さや美しさ、理想を見ることができるのです。それは、現実逃避的な意味で言っているのではありません。イデアを知るということの重要さでの観点です。

優れた二次元的作品を、三次元(生身での表現)にした時点で、それ(イデア)は失われることを知ってほしいですね。

強いて見るとするならば、三次元に表現されるイデアの精神ですが、残念ながら、今の実写化・三次元作品には、原作愛がないものが多いと感じられるので、必然、精神を見ることも不可能となります。


「13」に思う「再生」

今日、浮かんで来ましたのは「再生」というテーマであり、マルセイユタロットのカードとしては、「13」の姿がイメージされました。

「13」の場合は、いろいろな解釈はあるでしょうが、絵柄には骨と皮の人物が描かれ、見ようによっては、大変苦しく厳しそうに感じますので、むしろ「再生中」というように、その過程や、まっただ中の状況と言えるかもしれません。

再生後であるならば、「審判」のほうが意味的には合うでしょう。それでも、あえて「13」で再生をテーマとして見てみたいと思います。

さて、ここで、もし「再生」というものがなく、ただ死滅してしまう、終わってしまうだけだと考えてみてください。

それでは、まさに地獄と言いますか、闇の中のループが永遠に続くみたいになります。

しかし、その状況も、やがて抜けることができる、新しい自分に生まれ変わるのだという、変化・変容を信じることができれば、つらくとも希望が出て、推進力や耐える力が生まれます。「13」では杖のようにも見える大鎌でも、それを感じさせます。

私たちの生きる現実は、うれしいことや楽しいこともある反面、大変厳しく、つらいことも多い世界です。

その量は同じかどうかは、見方や人によるかもしれません。

けれども、世界全体を見回せば、戦争や貧困、災害等、その他様々な問題のあることがわかり、むしろ人生が楽しく幸福と思っている人よりも、つらく苦しい人生にある人のほうが多いのではないかと思えることもあります。

ここで世界が変わらず、たとえ変わっても、さほどのものではないとしたら、やはり絶望せざるを得ない人も出るでしょう。

けれども、よくよく考えれば、この世界は不変のことはほとんどありません。

生々流転、始まったものは終わりを必ず迎えます。人も生まれると、やがて年を取り、死を迎えます。

誰一人、まったく同じ状態が人生で続く人はおらず、当然自分だけの世界ではありませんから、他人や社会、国、世界全体も常に動き、変化しているものとすれば、現実とは変化する世界であると言い換えることもできます。

変わらないのは、まさに「変わらない」と思うその気持ち、思考であり、言い換えれば、心の中では「変わらずの状態」にすることは可能です。

ですから、心の世界では不変はあり得るのかもしれません。ただ、これも、あくまで自分の思いだけであり、他人の思いや考えが変わることを止めることはできません。

話を「再生」に戻します。

再生するためには、一度、何らかの変化のプロセスを通過しないといけません。

「再生」であるならば、文字通り、再び生きること、再び生き返ることであり、ということは、一度その前に「停滞」から「死」「終わり」を迎えなければならないわけです。

「再生」が、単なる変化ではないことが、これでわかるでしょう。

とはいえ、「再生」も変化の一種であり、言わば、死から生に推移するほどの、極端で大きな変化が「再生」なのです。

そこで、先述した「現実とは変化する世界」という話とリンクしてきます。

幸いにも、この現実世界は変化がノーマルなので、至るところに変化の機会・場所は存在しているわけです。年を取っていくだけでも、変化していく状態です。

この中でも、さきほど言及した、極端で大きな変化となると、それが「再生」の過程に近くなります。

変化することが常の世界ならば、つらく苦しい状態でも、再生の希望はあるということになります。

再生が見えないのは地獄だと述べましたが、それはこの世界における自分を勝手に絶望させているだけだからかもしれません。

この世界は変化するのですから、自分を変化させていくことを受け入れれば、大変な状況においても、「再生」という光を見い出せるのです。

あきらめて、自ら肉体的に死を選んでしまえば、せっかくのこの世界の変化性の特典を利用せずに終わることになります。

ただし、いい・悪いは別にして、自分で死を選ぶという自由さえもあるのが、またこの世界です。その結果がどうなるかはわかりませんが。

しかし、再生は単なる変化ではありませんので、精神的には「死」というものを受け入れる覚悟がいります。それは象徴的に、古い自分を殺す、今までの自分が死ぬことになるものです。

これがある大きな現実の「問題」として、外から起こる場合もあれば、自分の中から起こる場合もあります。

いずれにしても、「死ぬかと思った」というような事件が、再生に向かわせます。

これはいわゆる肉体的な「死亡」「絶命」のことを言っているのではなく、象徴的・精神的「死」のことを指しています。

普通は、なかなか精神的に「死ぬかと思った」というようなことはないでしょう。そんな経験はあえてしなくてもよいはずです。

しかし、どうしても、本当の意味で「再生」したいのなら、死ぬかと思うくらいの経験、あるいは、まさに真剣になる、ギリギリ感覚の体験が必要です。

だからといって、車や電車に飛び込むようなことをしろと言っているのでは、もちろんありません。

またわざわざ、仕事で自分を追い込み、生死をかけるほどの体験をしろと言うのでもありません。

ただ、再生は死や終わりというものとのセットであるので、何かが終わることの覚悟・受容、終わらせる積極的決意を持つことなのです。

そして人生の苦しい体験・事件・問題においては、絶望せず、自己の再生を希望とし、これが魂の研磨であり、余計なものは、それによりそぎ落とされ、純粋な自分(神性なる部分・貴い部分・魂次元で求めるもの)が立ち上がり蘇ってくるという意識で臨むことです。

順風満帆を求めるのは変化の世界では矛盾していることです。しかし、無闇(まさに知性が闇に閉ざされている状態)に苦労し、つらさを味わいすぎることもありません。

私たちはこの世界で、「再生」を経験し、もっと純度の高い自分になるよう、旅をしていると言えます。

もちろん個人の目的・人生は人それぞれです。そこにも変化と選択の自由があります。

なお、ひとつの再生が完了すると、それは前の自分ではなくなり、まさしく生まれ変わって、次元を移行させています。

SF的に言えば、同じような人・環境・世界のように見えて、その本質は皆変わっています(次元移行している)ので、あなたが見てきた人とは別人であり、違うフィールドなのです。

いわば、多重に存在するいくつもの地球のひとつから、また別のどれかの地球に移行したという感じです。

ですから、急に人の対応がよくなったり、場所がキラキラと輝いて見えたり、ほかの場所に行きたくなったり、ほかの人とつきあいたくなったりするのです。

再生ではなく退行の場合でも、次元でいえば下降がありますので、それも逆の意味で違う世界に行くことになります。

「運命の輪」のようにクルクル回っていては、再生しているようでそうではなく、それは「死」を迎えていないのです。

心の世界は不変が可能ですから、終わらせていないもの、死しんでいないものは、ずっと同じ次元で拘束し続けることになります。

これが思い出や過去に囚われることの意味にもなっています。

ですから、死(終わり・完結)の意識が「時間」を進ませ、無限地獄のような闇からの解放を促すのです。

あの世(目に見えない世界)ではなく、変化が常にあるこの世、現世、現実でこそ、解放のチャンスは多いのだ気づくことが重要です。


タロティストからの結縁潅頂の勧め

私は父の実家が寺であり、祖父が真言宗の僧侶だったせいか、仏教とか、特に真言密教への関心や縁があるように感じます。

マルセイユタロットを学んだ時、このタロットに真言密教と同じような教えが根本にあることを知り、自分の出自と関連して、シンクロニシティを感じたことがあります。

さらにこのタロットを学ぶコースの際、フランスでの講座にも参加しましたが、その時同室だったのが、真言僧侶の方でした。

余談ですが、自分の家系にある宗教というのは、油断がならないもので(笑)、思いの外、自分に影響があるものです。それは縛りのこともあれば、守護のこともあります。

やはり先祖的には守護として働くように思います。それは、ご先祖の供養も、家の宗教で行われているはずだからで、霊的に見て、子孫に守護的になるのだと推測されます。

このあたりは大学で私は民俗学でも、弔い上げのシステムとして学習した経緯があります。

今思えば、大学での学びの選択にも、もしかすると、家の宗教やご先祖様が関係していたのかもしれませんね。ただ、オチではないてすが、大学はキリスト教系でした。(笑)

守護といえば、私の場合、こんなことがありました。それは、とある新興系の宗教からの勧誘を以前強く受けていた時、なぜかそのことを知らない父親から、突然携帯にコールがあったというものです。

当時は父と離れて暮らしていましたので、しばらく父とは会ってもいなかったですし、また父からのコールされた内容も、ただのご機嫌伺い(笑)だっただけに、だからこそ、このタイミングで・・と非常に驚きました。まるで家の宗教が自分を守ってくれているかのように感じたからです。

私の場合は寺系統ですから、普通の人より強い家の霊統と言いますか、そういうものがあるのかもしれませんが、やはり長年信仰してきたその家系の宗教のエネルギー、縁というものは無視できないものと言えるでしょう。

ということで私のご先祖様も喜ばれるのかどうかわかりませんが(笑)、GWのこの時期、ついつい、タロットの生徒さんたちにもご紹介してしまう行事があります。

それは高野山での「結縁潅頂」という儀式です。

毎年、5月3日から5日と、秋の10月1日から3日までも行われています。これは一言で言えば、仏様と縁を結ばせていただくという行事です。

私も参加したことがありますが、やはり真言縁があるのか、高野山に行っただけで感動があり、この儀式前のお坊さんの説話には、なぜか涙が出て止まりませんでした。実際の儀式においても、なにがしかの精神的な変容を実感した部分がありました。

儀式の内容はここでは述べませんが、形式的に、自身の死と再生を促し、仏様とは、実は自分の中にある仏性のことであり、それと改めて邂逅する(仏性を自覚し、目覚めさせる)という意味の儀式ではないかと感じました。

高野山HPにある当該儀式の説明にも、そうした趣旨として受け取ることが可能です。

目覚めは本質的には仏性で皆同じでしょうが、おそらくその時その時の心の状態、成長段階によって、人によって目覚めや気づきは、いろいろな形で起こると想像されます。

その形こそが、様々な形で化身されている仏様ということになるでしょう。

本来はどの仏様と縁が結ばれるか、個人で異なるのでしょうが、実際の儀式では、全員「大日如来」という中心根本の仏様に今はなっているようです。

ですから、儀式に参加された場合、最後に自分の内面をよく観察し、一体何に気づき、心や魂の声とも呼ぶべきものを聴いたのか、覚えておくとよいでしょう。

目覚めには幾層のものや段階があると考えられます。

つまり、同じレベルでの色の違いとでもいうべき横軸と、次元が異なりつつも同色のグラデーションになっているという縦軸の違いです。

私たちは普段修行してるお坊さんではありませんから、大きな目覚めとか覚醒というものはないかもしれません。言ってみれば、横軸の目覚めレベルです。

それでも、人には仏の心、仏性が誰でも存在し、普段の生活においても、その発動・発心は、たとえ小さくともあると想像できます。

ならば、せっかくのこうした特別なご縁のある場所と時での儀式に会したのなら、もっと鋭敏な感性でもって、自身の目覚め、仏性への気づきに自覚的になるはずです。言い換えれば、先述した縦軸の目覚めや気づきです。

真剣になればなるほど、特別な意識で臨めば臨むほど、気づきもそれに応じたもの(横軸だけではなく縦軸の目覚め)になるということです。

だからこそ、聖地というものが存在し、日常と非日常の違いを施した装置・舞台というものもあるのです。

実は、仏性を神性と置き換えれば、それはマルセイユタロットに流れる教義と等しいものになると考えられます。

マルセイユタロットには、横軸縦軸の精神・霊的覚醒の仕組みが図像で描かれています。

さらにマルセイユタロットは意識やエネルギーの型やモデルも象徴しますので、例えば、この儀式のようなものにおける、自身の中の仏(神)の化身を、カードの図像を通して、想像する(実感する)ことが可能です。

神や仏、精霊や天使といった表現で人が示してきたエネルギー、性質とは何なのか、それがカードによって感じられ、理解することが次第にできるようになります。

ただそれにもやはり、段階やレベルがあり、「自分はもうわかった」と、うぬぼれてはいけないことも、カードは伝えています。

ともあれ、マルセイユタロット好きの人は、一度この「結縁潅頂」の儀式(春か秋、あるいは両方)に参加されてみるのもよいかと思います。

ちなみに高野山HPによりますと、今年の5月のものには、「限定御守り」の授与があるようですので、ますますよい機会かもしれませんね。


今の世界が生きにくい(生きづらい)人たちへ。

今日はあえての逃避の良さと言いますか、そういう傾向の人に応援歌を送りたいという気持ちで書きます。

というのも、私自身もそういうところがあるからです。(苦笑)

まず、この世の中、楽しいこともありますが、つらいこと、苦しいことが多いのは否めません。

生きている限り、悩み、労苦はつきもので、おまけにこの地球という星ときたら、なんでもかんでもごちゃまぜの世界、あらゆるレベルと階層が混濁している状態といえ、ナーバスな人は生きづらいこと、この上なしです。

現実の学校でもありますが、生徒のレベルや状態がまちまちな場合、だいたいにおいて、低いほうに平均化されます。あるいは、強引だったり、パワーで支配するものが優勢になります。

この星にも、レベルの高い人がたくさんいらっしゃると思いますが、残念ながら、いまだ争いごと、お金や権力での支配構造がはびこっている状態です。

レベルの高低を言うと問題があるかもしれませんので、ここは、あえて「好き嫌い」と表現しまして、まあ、今の地球は(昔からもそうですが)、戦争や支配など、そういうことが好きな人たちが大勢を占める星になっているのだと思えます。

報道される事件にも悲惨なものや、信じられない残酷なものが少なくありませんし、歴史的に見ても、酷いことがあまりにも多すぎる気がします。

このような状況(世界)で、生きるのが嫌になったり、引き籠もったり、社会におそれをなしてしまうのも、むしろ当然のところがあるような気がします。

ですから、この状態でもしっかり生きられる人は本当にすごいと思いますし、もしかすると、感性や遺伝子レベルでも、まったく違う生き物なのかもしれないと見てしまうほどです。

そして、スピリチュアル的に言えば、魂がこの世界の今の表現に合わない、なじまない、感じの人がいます。

いや、だからと言って、この世界になじまない人たちが優れているというのではありません。見方によっては軟弱で、傷つくのが怖い人たちということにもなります。

先述の「好き嫌い」的分け方で言うと、今の世の中の仕組みが苦手、あるいは、積極的に生きにくい(従って生きるのが下手と見られる)、適合しにくいということです。

なぜ、そのような魂の者がこの地球に来てしまったのか、理由はわかりません。

修行のためとか、宇宙の戦士(困難さを経験して、ほかに還元するため)として来たとか、囚人のように送り込まれたとか、いろいろスピリチュアルでは言われます。

グノーシス神話的に言いますと、悪魔に閉じこめられた世界で、本当の叡智ある世界に戻ろうと努力していると例えることもできます。

いずれにしろ、どこか間違っているのではないかという気持ち、ここ、あるいはこれではない感覚、というものがあって、それでも頑張ってこの世界に溶け込もう、生きようとはするけれども、何か、どうしても逃避的になってしまう、という人がいるように思います。

もちろん、こういったもの(思考)は、中二病と紙一重で(笑)、現実に適応できない自分のために、都合のよいように作られるストーリーであることもわかります。

しかし、現実が正しいのか、私たちの厭世観や違和感の奧にある世界(その人が見るイデアといってもいいものです)が正しいのか、観点の相違だけであって、明確にはわからない(判断がつかない)と考えることもできます。

人には、ありのまま・現状を受け入れていくことと、理想を見て、現状の差や違いを改革していくこととの両方が必要ではないかと思います。

現実と現状の世界で自分を最高に輝かすという生き方もあれば、反対に、現状を変えていく生き方、さらには、現状から逃避する生き方もあるわけです。

このうち、現状から逃避するのは、もっとも低劣で、批判されるべきものと、一般的には思われています。

確かに、まるっきり、逃避、究極的には死まで行くと問題で、当人にとっても逃避生活は地獄のようなものになります。

当たり前の話ですが、現実・現状から逃げても、現実に生きる限り、逃げ場はないわけで、到達地もなく、ただ逃避行あるのみです。

逃げることは、たとえ鬼ごっこのような遊びでも緊張感が伴い、気が休まる時がありません。従って、逃げている間はずっと修羅場・地獄の毎日となります。

ただし、面白いもので、タロットをやっていて気がついてきたのですが、地獄にならない方法もあります。

それは逃避行しながら現実を生きるという、矛盾したような方法です。

今のような世界の状態・表現になじめない気質を持つ人が対象ですが、実は簡単なことで、案外、誰でもたまにはしていることなのです。

これは、意識的(意図的)な夢遊病(笑)みたいなもので、心は非現実に生きつつ、肉体は現実に生きさせるというやり方です。

一見、心と肉体が分離した、それこそ病的な感じがしますが、そうではないのです。

しかも、これにはある種の覚悟がいります。もう少し、順を追って説明します。

まず、「自分は夢の世界でしか生きられない人間」だと自覚することが最初です。

夢の世界で生きるとは、現実逃避する自分を受け入れるということです。

無理して現実に適合しようとしたり、他人に必死で迎合したり、社会でいい人、今の社会的に尊敬されたり、評価されたり、人気が出たりする人間をあきらめます。

ここが実は難しいところです。

現実に生きようとすると、今の世界の価値基準での「よい人間」「有能な人間」「持っている人間」「評価される人間」というものを目指そうとします。

それが当たり前ですから。

ただ、そうすると、今の世界の表現がもともと合わない気質をもっている人には、無理が生じる生活になりがちで、言わばもともと混ざらない「水」と「油」を、何とか混ぜ合わそうということになって、ますます「水」と「油」の分離(自分と今の世界の間との壁)が激しくなるのです。

ということで、自分はこの世界に合わないことを素直に認め、自分の心の中にある「理想」や「感覚」を頼りに、なるべくそれと適合する場所・人間・表現のものを探します。

ただし現実は完全に合うものはないですから、どうしても精神(心)とか三次元以外のものになる可能性があります。あるいは動物とか、人ではない生き物との関係の中にそれに近いものがあるかもしれません。

と言っても、私たちは食べないと死にますし、現実社会の中で、一人山に籠もって生活するのも難しく、実社会でとにかく生活していかねばなりません。

そこには法律やルール、社会常識、責任というものも存在します。

これ(社会とルール・責任など)は牢獄というか、そういう世界に修行に来ていると割り切り、だからこそ、できるだけ肉体とか、物質レベルでも、快適になることを選択し、行動します。

「修行」と言っても、いい意味の修行というより、囚人生活みたいなものなので、同じ囚人生活であっても、なるべく牢屋の中で快適になる道を選択したほうが、まだましだからです。(笑)

大切なのは、現実で生きながらも、心は夢に生きることです。心まで現実(現状という現実)に適合(迎合)させては、完全に現実の奴隷となります。

「自分は夢がエネルギーであり、食べ物だ」と認識(自覚)して、ほかの一般の人が口に入れる「食物」は、肉体と現実という牢獄で差し出される「配給される食事」だと考えます。(配給でも、本当の牢屋とは違い、ある程度、自分でおいしいもの、美しいものを入れることはできます)

「夢」という本当の食べ物を忘れると、この世界に合わないあなたは、栄養不足となるばかりか、精神的には餓死する危険性さえあります。

「夢」が何なのか、これは人によって違います。

好きな仕事であったり、趣味であったり、使命感をもった活動であったり、愛する人との生活、自然とのふれあい、さらには文字通り、睡眠で見る「夢」ということもありえます。

本質的に現実(現状)に生きず、夢に生き、そして仮初めの(他人にとっては現実でも、自分にとっては仮と思える)世界を旅するように生きていく、これがナーバスで、この星の今の表現に合わない人たちの、ひとつの楽に生きる方法となるでしょう。

逃避的な傾向の人、あなたは実は、すばらしい旅をしているトラベラーであり、ボイジャーなのです。


前世の考えをどう扱うか。

タロットをしていると、前世というものについて聞かれることもあります。

前世についてはいろいろな考え方があります。

そもそもそういうものはなく、人生は今生きている限り、死後の世界なんてないという完全否定派もあれば、同じ魂が何度も生まれ変わることを信じている人まで、様々です。

前世があると言う人でも、同じ魂なのか、別の魂の記憶の集合体や人間以外のほかの生命体も含むのか、転生する時間も、未来に向かう方向だけではなく、過去に転生したり、同じ時をループし続けたりするとか、様々な種類が存在します。

死んだらわかると言えばそれまでですが、もしかすると、死んでも全容はわからないのかもしれません。

生きている時、催眠やある種の変性意識、覚醒体験などによって前世のビジョンを見ることがあります。

それが果たして自分の過去世なのか、あるいは単なるイメージなのか、ほかのものなのか、証明することは難しいです。

ただ、そうやって「思い出したイメージや記憶」をもとに、調査してみると、実際、過去にそのような人が存在したり、体験があったりしたことは事実としていくつか例があるようです。

だからと言って前世・過去世が存在するかという点はまた別となるでしょう。

しかしながら、前述のケース(過去の事実を知らない現在の人がソースや情報を得ることができたケース)から、私たちは何らかの形で、知らない過去データにアクセスすることができる場合もあると言えるのかもしれません。

過去の記憶やデータが、今の自分の心や行動に影響を及ぼしていると考え、それを思い出すことで、現在の悩まされている症状を消失させたり、行動制限を解除したりすることができるのであれば、それはよいことでもあります。

この場合、前世があるとか、前世の記憶が事実であるとか、それについての真偽を問うよりも、現実につらい状況にある人が癒されることに意味があると考えることもできます。

多かれ少なかれ、私たちは自分を洗脳しながら(思い込ませながら)生きているようなものです。

言い方を換えれば、起こった事実を自分の価値観や設定で解釈して生きているということです。

ですから、前世とそれに影響されている自分という設定・ストーリーによって、自分を救うことができるのなら、それもまたひとつの方法・療法と言えます。

とはいえ、逆に、悪い方向に傾くこともあり得ます。

それはあまりにも前世と今の自分というストーリーに、関連性とリアリティを持たせてしまう場合です。

これが治癒や癒し、浄化、自由なる自分に向かうためになる場合ならよいのですが、前世に逆に<囚われてしまい、今の自分を縛って不自由にさせることになるのでは本末転倒です。 例えば恋愛では、「この人とは前世でも特別な関係にいた」と思い込むことで、運命論的になり、DVを受けたり、相手にとっての都合の良い関係でいいように利用されたりすることを肯定してしまう罠にはまっていくケースもあります。 また変なカルマ論に取り憑かれ、「私が不幸なのは、前世で悪いことをした報い」だとしたり、「この人にはひどいことを前世でしたようなので、今生は尽くさないといけない」と思ったりする人もいます。 仮に前世が事実だとしても、今生のあなたはと前世のあなたが全く同じ人ではないはずです。時代も背景も生き方も姿形も思想も考え方も違うわけです。

そこに関連性を見出すかどうかは、ほぼあなたの思い込みでしかありません。

私自身は、前世記憶というのは、一人の魂の記憶の蓄積とは限らないと考えてえり、言わば複数や、特には別次元も含む断片記憶の集合体によってできていると想像していますので、なおさらそう感じます。

ならば、逆に思い直すこと(自分の考え次第)で、関係がないと切り離すこともできるわけです。

どうしても前世を信じたい、関係をもたせたいという人でも、では、何のためにその記憶を思い出して今にいるのかということです。

おそらく、こういう(前世のような)人生にしたくなかったということではないでしょうか?

ということは、自分は前世の出来事に囚われず、もっと自由に悔いのないように、新たな人生では生きてみたいとなると思います。

ですから、今生こそがまさにあなたの人生そのものであり、これしかないのだと思って、今生のあなたらしく生きればよいのです。

前世の記憶やデータが、より自由に生きたい今生のあなたのために役立つのであれば、利用するのも時にはありかもしれません。

しかし、反対に前世の記憶が障害や囚われとなるようでは、そんなものはないほうがましでしょう。

こういったこととは別に、仮に前世(あるいは未来の記憶が)ある場合、個人的には、ある特定の時代ループというものが一番恐ろしい(問題)という気がしています。

このループには、特定の期間だけではなく、同じ状況で時代や設定が異なるという、違う形でのループがあると思っており、どちらにしても、その脱出は、グノーシス的には大きなテーマであろうと推測しています。

そして私たちの多くは、これに、はまっている気がしています。

ただまあ、大きな話となりますので、この話はまた別の機会に譲りたいと思います。


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