スピリチュアル
スピリチュアルメッセージのひとつの解釈法
このブログを読まれている方ならば、大なり小なりスピリチュアルなことに関心があると思います。
中には、スピリチュアルな能力を持つという方に、セッションを受けたり、メッセージやアドバイスをいただいたりした(する)という人もいらっしゃるでしょう。
スピリチュアルを志向する人たちの中では、こういったセッションやメッセージ(の内容)をどうとらえるかということが議論されることがあります。
すべて正しいと見る人もいれば、何とつながっているのかわからないので疑ってかかるべきだとか、洗脳されているとか、高次の存在や天使からのメッセージなのできっと自分のためになるとか、いろいろと言われます。
私自身は、まずタロットをしていることもあって、そもそもタロットの霊など、目に見えない存在や世界を、たとえ仮であっても想定しておかないとお話になりませんので、スピリチュアル的なもの・存在は基本信じています。
ただ、タロットを心理的な投影のカード(自分の心を絵柄として投影して見ることのできる装置)として考えるならば、スピリチュアルや霊的なものを考えなくても通る世界ではあります。
しかし、一方で、心理だけで考察していると実は袋小路に陥る危険性があるとも思っており、それはメルマガ(受講者・修了者用)や講義などでもお話していることです。
とはいえ、最初のあたりは心理の世界での考察や、心理カードとしてタロットを見たり、扱ったりすることでも十分効果はあると言えますし、精神的にも安全だと考えられます。
実は、心理カードとして扱うのであれば、別にタロットでなくても効果はそう変わらないでしょう。
場合によっては、自分でカードを作ってもよいかもしれません。
言ってみれば、ある程度、絵柄的に、人生や人の心模様をシーン別に描いているのであれば、何でも心理カードとしては使えるという意味です。
人の心の(反応)パターンは、一見バラバラなように見えて、その実、ほとんど同じだからです。時代が変わっても、国籍や人種、性別が違っても、ほぼ同じパターンだと言えます。
わかりやすく言えば、例えば、程度の差こそあれ、誰でも喜怒哀楽の感情や現れはあるということです。
だから、心理カードは作りやすく、誰が作っても、だいたいは人の心のパターンを必然的に描きだすわけです。
ところが、タロット、ことマルセイユタロットにおいては、心理カードという世界の範疇では収まり切れないことがあり、それは心理以外の目に見えない事柄、「スピリチュアル」と一般に考えられる世界に通じていかないと本当の理解はできないと感じています。
それはさておき、スピリチュアルメッセージや鑑定を受ける時で、お勧めしたいのが、言われたことや浮かんだものを象徴的にとらえるということです。
言われたり、受け取ったりしたものが正しいか正しくないか、あるいは、そのスピリチュアルな能力がどれほどで、いったい何から出ている(つながっている)かというようなことを「具体的に」考え出すと、キリがないからです。
本当は審神(さにわ)のような、ついている存在、言っている内容を判定・判断する人がいるとよいかもしれませんが、なかなかそういったことは難しく、またそれにこだわると、制限も多くなる気がします。
そこで、すべてを「象徴」と考え、言われた言葉、浮かんだ映像そのものをダイレクトに信じるのではなく、たとえ具体的であっても、いったん抽象的に本質だけ汲み取るようにして受け取るとよいと思います。
例えば、ふたつの仕事や二人の人の間で選択に悩んでいて、スピリチュアルリーダーやメッセンジャーから、「Aという仕事・人を選んだほうがよいと出ています」と言われたとしても、それはAそのものの選択というより、両者を比較して、Aというものが表す本質を見よ(逆にいうと、Bというものの表面にも注目せよ)という具合に考えるわけです。
「要するに、気持ちが明るくなるほうなのね」とか、「結局、私は何も本当は見ていなかったわけなのか」とか、そうした物事の本質を象徴的にとらえるわけですね。
だいたい象徴(大きな、あるいはひとつの括りにまとめてしまう抽象次元でもあります)で見ると、スピリチュアルな人や占いをする人など(結局は象徴を扱う人ということになります)、誰に相談しても似たような方向性や結果になります。
個別や具体次元になればなるほど、カラー(色)が出て、違いが詳細に出てきます。従って、具体的なものでメッセージを得ようとすればするほど、それこそ、間違いという(枝分かれした違う道の次元に迷い込む)確率も高くなるのです。(逆に、当たる当たらないの、ピッタシはまる具合も際だちます)
そういう意味では複数の人(技術)に相談したり、試したり、スピリチュアルな人からのメッセージを受け取ったりすると、象徴性が高まりますので、そうした方法(複数の人に、あるいは複数の技術で見てもらう)を選択するのもありかと思います。
ただ、自分自身、象徴というものを学び、そのとらえ方・見方を経験としても蓄積していったほうが、より本質への理解は早く、確実になると言えます。
それは普段から私たちは、具体的なもの(情報)を欲し、それを求めて行動する生活に慣れてしまっているので、なかなか象徴的に物事を把握するということが最初は困難だからです。
例えば、「向いている職業は音楽家で、それもトランペット奏者です」みたいな言い方・答えがほしいし、それを言われると安心するみたいなことです。
しかし、世の中はすべて、ある意味、象徴なのです。
具体の世界はもちろんありますが、その次元だけで考え・行動していると拡大と発展、あるいは脱出や解放も難しくなります。
上の例で言えば、「トランペット奏者になる」と強く決めて行動することは、時にその道での成功も呼びますが、反面、それしかないという限定と固着(執着)を生み出します。
仮にほかの楽器の才能があったり、音楽でも奏者ではなく、作曲や舞台演出、出版など、関係する他分野での活躍が向いていたりする可能性もあるかもしれません。
具体にこだわると、その多くある可能性をつぶしてしまうことにもなりかねません。
音楽という「象徴」は大切にしながらも、自分は音楽の分野で何を表現したいのか、関わりたいのかという本質を知ると、方向性は確固としながらも、柔軟に生きていくことができるのです。
ですから象徴を学び、理解すること(象徴を使うこと)は、人生においても大切になってくるのです。
肉体以外の体から来る症状
先日はちょっと個人的に大変な事件があり、久々に衝撃を受けました。
まあ、これも必要な体験だったと思いますし、どんなことにもバランス的な思考で見ると、それに見合う恩恵があることがわかります。
とにかく、その事件でいろいろな方にお世話になりましたので、ここで改めてお礼申し上げておきます。
さて、今日は肉体的な痛み、心身の不調について、ある視点から考えたいと思います。
タロットリーディングをしていても思うことがあるのですが、心身のことは、医学的なものを超えたところでの原因や要因となっていることがあるように感じます。
別にタロットで治療してるわけではなく(それは法律上もできませんが)、あること(問い)と関連して、タロットを展開して読んでみると、そうした身体のことの話題になる時があるのですね。
精神・心のことは、よくわからないことはいまだ多いので、医学的にも分析しにくいのは事実でしょうが、肉体的なことでも、原因がわかりづらいことがあるのは、皆さんも経験していることでしょう。
そして原因不明なのに痛むとか、治らないとか、そうしたことになってくるわけです。
その場合、代替医療を施したり、精神的なことからアプローチしたりして解決する場合もあります。
それで治ったり、痛みが治まったりすることもありますが、それでも原因そのものはわからないままとか、推測の範囲でしかわからない状態という時も出ます。
ですから、原因と治療についても、いろいろな仮説も登場します。
今回の話も、そんな中のひとつとして受け取っていだたければと思います。
私たちの体は、目に見えている普通の肉体以外に、スピリチュアル的には多層の体を有している(多層の体で構成されている)と言われています。
いわゆる、エーテル体とかアストラル体とか呼ばれるものです。
この数は細かくわければかなりのものになるという説もありますが、大まかにわけると4つくらいだという人もいます。
それはともかく、もしそうしたものがあると仮定するのなら、私たちは物質的な見た目の肉体以外でのデータや記憶も受け継いでいると考えられます。
そこに損傷したものがあるとするのなら、そこから物質としての肉体に影響が出ることもあると想像されます。
ですから、肉体的には問題がないように見えても、ほかの体では「病」「傷」としてのデータとして残っていると、肉体的に痛みや問題として感じるのではないかということです。
この別の体の損傷データが、いつ、どのように発生し、どこまで受け継がれるのかという問題(設定)によって、現世のみのことから、過去生まで原因を追及することが可能かもしれません。
少なくとも、現世、つまり自分の生まれた歴史・生育過程において、感情的心理的なショックを受けていれば、それを記憶する別の肉体があり、それが物質的な肉体にまで影響を及ぼしていると考えることもできるわけです。
逆のことも言え、強烈に肉体に損傷や傷を受けると、別の体にもそれが刻印されて、肉体が回復しても、別の体では傷が残って、やはり痛むようなこともあり得ると見ます。
肉体の一部が欠損しても、かゆみや痛みがあるのは、別の体ではその部位が「型」として存在しいるからなのかもしれないのです。
仮に過去生まで含めると、その受け継がれたデータは、かなり深刻なものだったのかもしれません。
おそらく過去生から引き継がれるというのは、それだけ修復が転生においても難しかったか、引き継ぐ理由(カルマ的なもの)があったと考えられるからです。
なお、ここで注意したいのは、それはあくまでデータであるので、今の自分の人格とは別問題で、悔恨の念や罪悪感をもったり、要因と考えすぎたりする(悪いと思う)必要はないということです。
もちろんカルマ的に見れば、自分が引き受ける因縁というものがあるのかもしれませんが、やはり今の自分とは切り離して考えたほうがいいように思います。
そもそも私自身は、過去生と転生について、一人の人間のデータがそのまま未来生に、一人の者の中に組み込まれるとは考えておらず、ある宇宙的法則に基づいて、一見ランダムに見える形で、様々の人の記憶・データが混交されて転生されると見ています。
また時間の概念をはずすと、未来だけではなく、過去へも転生することはあり得るでしょう。
そう考えますと、ますます「自分」のせいでその傷を受けた、傷を与えたみたいな考えは、傲慢にもなり得ると思います。
ただ、データを受け持ったのはあるわけですから、無意味ではないと思います。
過去生療法やヒプノセラピーなどでは、それを思い出して、今の症状の軽減や消失に役立てることもあります。
いずれにしても、やがて物質的肉体だけではない、別の体の存在の確認と、それに関連するデータと修復技術も、おそらく開発されるものと思います。
その時、個人は一人一人切り離されたものではなく、データと体が相互に関連し合い、一人の問題が実はほかの人ともつながってるいことが明確にされるでしょう。
そして、それは人だけではなく、環境・自然・地球・宇宙ともつながりのあることがわかり、一層、人と自然、宇宙の調和的な発想と技術が進化するものと予想されます。
それには、マルセイユタロット的に言えば、「月」と「吊るし」に、非常に重要な示唆が隠されていると私は感じています。
火と水の試練 個人所有・全体存在
ここ数年、日本と言いますか。世界的にも災害や気候・環境変動が多くなった気がします。
最近でも台風による関東・東北方面の水害、九州・阿蘇山の噴火とたて続けに起こっています。
被害に遭われた方には、お見舞いと、一刻も早い回復をお祈り申し上げます。
さて、このような状況を少しスピリチュアル的にタロットの象徴を通して見てみたいと思います。
今月の災害や自然の驚異にも顕著ですが、それは水害と噴火ということで、火と水の試練ととらえることができます。
マルセイユタロットにも、錬金術的な象徴とともにも、火と水の試練、あるいは浄化、破壊と再生ということが込められています。
火と水、そして試練と言っても、もちろん象徴なので、物理的なそれそのものではありません。(そういうこともありますが)
相反する要素やエネルギーによるぶつかりあい、混ぜ合わせ、さらには反応、融合、溶融、蒸留、抽出などによって、一度破壊されものが新たなものとして再統合される過程・プロセスを言います。
これが物理的にも精神的にも表れるというのが、錬金術的思想と表現です。
タロットの象徴から理解されることは、この錬金術的なプロセスによって人間の完成(しかし一時的には破壊であり、象徴的な死を経由することでもあります)が行われるということです。
これを個人個人の単位で見ることもできれば、人類全体としてとらえることもできます。
そうしますと、こうして起こる列島規模、ひいては地球規模で起こる災害、天変地異は、私たち個人はもとより、人類全体として、なにがしかの成長、変容を促していると見ることも可能になります。
タロットを見て浮かんでくるのは、「愚者」です。
「愚者」はこの錬金術的プロセスを経験する主体であり、変化の過程を楽しむ旅人です。
私たちはこれまで所有による区別によって、自分本意の満足感を得ていました。
何か(お金とか地位とか知識とか)を所有することで区別・差異を感じ、結局、所有意識を設けることで、不足する思いに満足・充足を得ていたのです。
所有(できる自由と多様さ)が、また成長だと信じていた節もあります。
それは一時代としては必要な考えであり、人類文化を促進させるためのモチベーションとなっていたところもあるでしょう。
しかし、所有はやはり区別と差をどんどんと生み出し、「持つ」ということ、差をつけるということに際限がなくなっていくおそれがあります。
本来完全性があり、区別もない人間の、分離感幻想を拡大・強固にしてしまう危険性があるのです。
さらにはひとつ場所やひとつの考え、一人の人など、ひとつのものにこだわり過ぎては、それを失ったときのショックも大きなものとなります。
勢い、失いたくないために、余計にこだわり、つまりは執着を持つことになります。
執着を持てば持つほど、失うかもしれない不安や、その対処・予防に余念がなくなります。言わば、自由さを失うのです。
結局、これも所有に囚われた姿と言えます。
ここで所有を自分一人という単位で考えるのではなく(つまりは自己の満足というレベルではなく)、全体の満足、資源や所有は全体にあると転換すると、逆に一人一人の所有はシンプルなものとなります。一人が持たなくても全体が持っているからです。
ですが、共産主義とはまた違います。皆が一緒ではなく競争はあり、それ(競争)はあっても、差をつけるためのものではなく、あくまで個性の違いとしてゲーム(遊び)的になされるものです。そして得たモノを失っても恐怖のない世界なのです。
失う恐怖がないのは、それが失われていない、失われたかのように見えるだけと実感しているからできることです。
ですから、個人単位での所有というより、全体所有に価値変換していくと、たとえ家が失われ、財産が失われたとしても、もともとそれは自分だけのものではないので、そうした概念がそもそも生じず、失う恐れ自体もなくなるということです。
現実的には難しいかもしれませんが、少なくとも、いつでも移動できる(旅人になれる)シンプルな生活を心掛け、モノ・心としての所有をなるべく少なくし、シェアしあえる生活環境に整えていくことで、よもやの災害にも強くなれるでしょう。
働き方も収入源も人間関係も多様にし、ひとつだけにこだわらない(実際できていなくても、考え方だけでも柔軟にしておく)ほうが気楽ですし、いざという時にも臨機応変さが出ます。
その地域だから、その人(たち)とだからできることもありますし、それが悪いわけでもなく、いい面もたくさんあります。
一方で、そうしたものにこだわらない生活スタイルもあるということで、自分を列島規模、地球規模でとらえてみましょうと、外側の(地球規模の天変地異の)環境が促しているとも言えます。
同じ事がたくさん(繰り返し)起こること、あるいは広い地域で起きることは、拡大意識、意識を広げることがメッセージとして隠れている場合があります。
マルセイユタロットでいえば、「愚者」と「世界」が並ぶような感じです。
私たちの意識の切り替えが、いやが応でも、環境側から促進されている状態と言えます。
火と水の試練、それはまさに「火(か)」「水(み)」、神からのメッセージなのかもしれませんね。
公務員時代を、ふとスピリチュアル的に考える。
久しぶりに公務員時代のことやうつ病になった時のことについて、少し書いてみたいと思います。
もしかしたら、苦しんでいる人の何かの参考になるかもしれません。また反対に、まったく役に立たない内容かもしれません。
まあ、こんなヤツもいたのだと軽く読んでいただければと思います。
私は公務員をしていた時に、うつ病になりました。
その原因は、直接的には残業などが続き、体力的に疲弊していたこと、そして本当の理由は、今でこそわかりますが、自分をかなり殺して生きていたことにあると思っています。
公務員と聞けば、現在でも手堅い人気職でしょう。一般的にも楽な職場と思われているようです。
しかし、どの仕事もどの職場もそれなりにそうであるように、公務員の世界も決して楽なことはありません。
業務内容も、職場によるとはいえ、今はどこも人員不足であり、また悪しき担当制が徹底されていることにより、専門的で孤独な仕事でもあります。
それなのに、転勤すれば、もともとの専門職は別として、事務職の人などはゼネラリストとして、それまでとはまったく違う別の仕事を、いきなり全・市とか県とか国レベルで「専門家」として担当させられます。
なかなか民間では想像つかないと思いますが、転勤で変わる公務員の仕事は、一般でいえば会社が変わったり、転職して仕事そのものが変わったりするのに近いような衝撃があります。
加えて、外部(市民や県民、国民)との対応と同時に、内部(同じ公的機関内、別の公的機関同士)での仕事がかなりあります。
銀行のように、むしろ終業時間が来てから(対外的なことは終わっても内的にある)が、本当の仕事(時間)のようなものです。
ここらあたりは、いろいろと公務員特有の古い体質、組織なとが影響しており、私がいた頃でさえ、まさに内側で仕事を作り合っているとしか思えないようなところと、それも職員が実は喜んでいるような“マゾヒスト”的な体質が感じられました。
全部がそうとはいいませんが、少なからず、そういうところが公務員の世界にはあるのだと思います。
タロットをするようになって、霊的(スピリチュアル的)に物事を見ることが増えました。
そうして考えますと、公務員にひかれたり、公務員になる方というのは、多くの縛りブロックと言いますか、規則やルールを遵守しようという性質と、一方でそれを破壊したいとう衝動との葛藤カルマとでも言うべきものを持ち合わせている人が多いように思いました。
もし前世縁というものがあると仮定すれば、やはり過去生においても、何らかの規則や縛りが強い社会・組織で生きた人たちだったのかもしれません。
ある意味、組織を守ったり、自分の信条を壊さないようにするために、責任感も強かったのだと想像されます。
しかし、反面、それで他人を苦しめた経験があったり、何よりも自分自身に嘘をついて自分を縛ったりしていたところがあるのかもしれません。
それから公務員を選ぶ人は、よい意味で言いますと、公共の福祉に貢献したいという思いがどこかに持っているはずで、そこから自己犠牲の精神も強くなるのだと考えられます。(それが曲がった形となって、マゾヒスト的な傾向となっているように思います)
ただやはり、公務員なのですから、一方では、安定や自分の身を守りたいという強固な保守性、自己保身性も存在しているでしょう。
そうして考えると、公務員になる人のスピリチュアルな魂というのは、いろいろと「葛藤」がつきものという気がします。
そこで再び、今生で公務員になることで、過去データ(カルマと呼んでもいいのかもしれません)を浄化しようという働き(行動・環境調整)が出るのたと思います。
そして公務員になれば、葛藤を統合、あるいは破棄するかのようなデリート作業によって、自分をもう一段階を進めさそうとするでしょう。
ひとつは、公務員をする中で、魂自体は比較的自由に生きるような選択をするというのが考えられます。
これは公務員というしがらみの中にあっても、自分を縛らず、自らの主張や選択が、公務自体と結びついているというやり方です。
公務は公共の福祉や人々に役立つ仕事ですので、社会的に意義があります。
ですから、仕事ではあっても、社会貢献をしたいというような人にとっては、生き方や方向性と直接関係し、それは民間よりもリンク性が高くなる可能性があります。
公務員は儲けやお金稼ぎで仕事するのではなく、みんなのために役立つ仕事をするからです。
簡単に言えば、公務員生活を充実させることで、カルマを解消していく方法です。
また別の方法では、やはり相当な軋轢や葛藤を公務員をすることで経験し、そこから自分に残る強固な安定思考(志向)を最終的には解除していくというやり方があります。
強固な安定志向は、つまるところ、不足感や分離の恐れから出ています。
ということは、全体に戻る方向性によってそれは解消されていきます。ですが、恐れを手放すということは、とても勇気がいることです。
マルセイユタロットでいえば、バカ者(一般常識の世界から見て変人のように見える者)、つまり「愚者」になって「世界」のカードの境地を目指す、「13」(破壊)を経験して、「節制」によって救済する(される)みたいなことになります。
これはわかりやすく言えば、公務員は自分に合っていないと決意し、安定的な地位を捨て、民間で働いたり、起業したりして生きることを、現実的には意味するでしょう。
まあ、私の場合は後者になっているのですが、ギリギリまで悩み、追いつめられたので、自己選択をした(自分で決意をもって選択した)というより、ちょっと無理矢理させられたみたいなところがありますので、まだ残存思念のようなものがあるかもしれません。(笑)
これは公務員の話で書いていますが、民間のお仕事であっても、業種や働き方によっては、どこか通じるところはあると思います。
今の仕事で苦しんでいる人は、ちょっと、スピリチュアル的な視点でもって考えてみるのも、自己の救いになることがあります。
ただ、逃避のためにスピリチュアルを利用しないようにはしたいものです。
ですが、逃避しないと本当に危ないこともあるので、逃避が決して悪いわけではありませが。
そうこう書いているうちに、結構文章量が多くなりました。
まだうつ病の話ができていないので、続きは次の記事で書きたいと思います。
今更ながら、「引き寄せ」の考察
スピリチュアルが好きな人の間の世界で一世を風靡しながら、最近はいろいろなところで否定されがちの、ちょっとかわいそう(笑)とも言える「引き寄せの法則」ですが、それでも考え方としては面白い点はあると思います。(私自身はこれを使うとか使わないという次元での興味がなく、その考え方やシステム、信じる人の心を考察することに関心があります)
結局のところ、「引き寄せの法則」も波動や一種のエネルギーなるものが鍵となりそうですが、その波動というものが今ひとつわからないものであり、もちろん今の科学的見地からはまったくのオカルト(本来のオカルトの意味とは別の「怪しい」という意味で)ということになって、まともには考察されにくいわけです。
ということで、ややこしくなりますので、とりあえずここではスピリチュアル的な物言いにして、科学的なことは置いておきます。(笑)
いわゆる「引き寄せ」の核が、仮に波動なるものとして設定しますと、引き寄せをうまくするには、引き寄せたいものの波動を作り出すか、その波動に近づけるということになるでしょう。
しかし、引き寄せたいものというのは、逆に言えば引き寄せられていないもの、自分がまだ実現していないものの場合が多いはずですから、引き寄せたいものの波動を作り出すのは、そもそも難しいわけです。
経験したことのないものをイメージしろ、話してみてください、と言ったところで、それができにくいことは誰にでもわかると思います。
またその波動に近づけると言っても、やはりこれも味わったことのないものであり、近づけようにも近づけるそれそのものがわからないのですから、困難なことと言えます。言わば、羅針盤もなく、目的地がわからないまま、大海を航海するようなものです。
ということは、「引き寄せ」はそもそも不可能な技法(考え方)なのかと言えば、そうとも言えません。
なぜなら、波動というものが物質的な目に見えるような実体ではないからです。
実体ではないのなら、実体を見なくても、あるいは実際に手などで感じなくても、その本質がつかめればいいということになります。
もちろんそれそのもの(引き寄せたいもの・状態そのもの)を実現していない状態なのですから、先述したように、イメージをつかむのも暗中模索という感じになるのは否めません。
見たこともないものを想像するというのは確かに難しいものなのですが、こういう場合は、たくさんの、それ(引き寄せたい内容・状況)と似たような「情報」を集めることによって、次第に本体に接近することもできそうです。
中身が見えない箱の中に何かがあり、その中身を周囲の人は知っていて、でも中身そのものは教えてはくれないルールで、周りの人に中身は何かのヒントを聞くというような感じです。
一人の人に聞くより、あるいは一回だけ聞くより、それを知っている多くの人に、または何回も聞くことで、中身としての実体に、より迫ることが可能です。
引き寄せるのが波動であるのなら、本当は具体性はあまり意味をなしません。
例えば、お金を引き寄せたいとしても、お金そのものをイメージしてもあまり意味がないということです、
あなたはお金の持つ何の波動・エネルギーを引き寄せたいかということが重要で、「お金を引き寄せたい」というそのままのことだけだと、オモチャのお金とか、お金風に印刷された紙とか、コイン状の金属・固まりとかを引き寄せることになるかもしれないのです。(笑)
あなたが引き寄せたいものが、「お金を使って得られる自由な生活」ということであるのなら、お金よりも自由な生活を体験している人を知るとか、自由な生活をエネルギーや波動として象徴していると思えるもの(情報・状態)を集める必要があるでしょう。
さらには、そういった本質(モノとか具体性ではなく、波動として同じ状態・性質)波動の情報をたくさん集めるにしても、その情報を干渉させてしまう状況では問題です。
特に自分の中の情報をクリアーにしておかないと情報(波動)が打ち消しあい、望むものを引き寄せることは難しくなると予想されます。
だいたいは、この干渉(障害)が、引き寄せ(がうまく行かないこと)での問題・要因と言えそうです。
ここであえて、今では古めかしい「ラジオ」(笑)で例えます。
まずラジオ自体の性能の問題があり、受信する周波数の域が限定されていれば、その範囲でしかラジオ放送や番組を聴くことができません。
そして電波をクリアーにキャッチできず、ラジオの混信がひどいと、やはり放送をうまく聴くことはできません。
これと同じように考えれば、自分の波動域の上昇(性能のアップ)、クリアーに望む波動と同調させる状態(干渉を起こさせない澄み切った状態)があって初めて、引き寄せがうまく行くのではないかと想像されます。
もう少しわかりやすく言いますと、要するに自分が望むもの・状態を実現できるレベルに成長しているか、成っているか(成りつつあるか)ということが重要で、そのレベル未満であると、そもそも引き寄せられないに等しいということです。
というわけで、レベルアップのためには、自己の内面(思考と感情)を、望む方向に抵抗や疑い・恐れなく統一できていること(クリアーにできていること)、セルフイメージが、望むものを実現できるリアリティを持っていること(現実感がある状態に成長している、しようとしていること)が大事だと言えます。
ただ叶えたい、実現したいと思っているだけでは、夢想しているだけに過ぎないでしょう。まさそれは浮かんでは消える泡沫のようなものです。(しかし、願望が何なのかをはっきりさせることは、最初の段階で必要)
と言っても、強いイメージや思いをずっと持っていればいいというわけではなく、これまで書いたように、実現したいそのこと自体よりも、「それを生み出しているエネルギーや波動を実現する」ことが本質なので、強く思っていたところで、自分がその波動に遠い状態ならば、引き寄せは困難です。
むしろ、強く思いすぎて、まだ叶えられない自分のふがいなさや惨めさのほうが強化されて、望む波動との分離(乖離)がますます激しくなることもあります。
自分が「大それた望みだな」「これは無理目の望みだ」と思うようものは、文字通り、「大きくそれた望み」「無理な願望」ということで実現する(笑)(つまりは望みは叶わない、引き寄せられない)わけなのです。