スピリチュアル

「幸せ」について考えてみる。

いろいろな方が、いろいろな方法で、人に対して“あること”を伝えています。

それは「幸せになる」ということです。

物質(成功)面からアプローチする場合もありますし、心の満足や解放から推し進めていく場合もあるでしょう。

いずれにしても、そのほとんどは、結局何を求めているのか、何を目的として語っているのかと言えば、「幸せになること」なのです。

ところが、「幸せ」という概念は、一般的なイメージもあるにはありますが、実は観念によるもの、つまり一人一人の思いや価値観で違うものなので、一口に「幸せになる」と言っても難しいものなのです。

この点が、「幸せになること」「幸せになる方法」においても、みんなに通用する部分と、私(わたくし)やあの人(個人)にしか通用しない部分とがある理由になります。

このことを理解していないと、得てして、押しつけの幸せ(観)を人に強要することになります。

言ってみれば、お酒好きな人が、お酒の飲めない人に無理矢理お酒を勧めるようなものです。

お酒が(好きで)飲める人は、お酒を飲むことはどうかと問われれば、当然、おいしく、楽しく、気分がよいものだと答えるでしょう。

ところが、お酒が一滴も飲めない人、体質的に飲めば生命や身体的に危険が及ぶ人の場合、お酒を飲むということは、まるで正反対の恐ろしいことになります。

狭義の幸せ、個人の思う幸せも同じであり、自分が思う幸せ感や幸せな状態というのは、ほかの人にとっては苦痛で不幸のこともあるのです。

「幸せになりましょう」言葉で、もし嫌悪感や気持ち悪さを感じるとするのなら、それは、そう言っている人の幸せというものの表現や実態に、自分の幸せ感(観)が合わないからの場合があります。

先のお酒の例でいえば、ベロベロで酔っているのはもちろん、ほろ酔い気分の状態であったとしても、「それは経験したくないなあ」とか、「お酒を飲んで酔うなんて、どうにも気持ちがわからない」「ほかでいい気持ちになる方法はあるだろうに..」と見るような感じです。

まあ、人は不快に思ったり、苦痛だと感じたりすることからは避けようとするものですから、結局、同じような感じ方をする人や、価値観(ただし、まったく同じ価値観の人は皆無です)の合う人で集まってくるのです。

批判したところで、もともと価値観や幸せと思うポイントが違うのですから、あまり意味はありません。まさにお楽しみは人それぞれであり、それを間違っているとか、面白くないとか言うのは野暮というものです。

一方で人の価値観や考え方は、訓練したり、知識や経験によって与えられたりして、変化しますので、新しい幸せ感、これまでとは異質な幸せ感(観)というものが出てくることもあります。

またお酒の例でいえば、もともとお酒を飲む力があった人が、飲まず嫌いや経験不足なだけであって、あとでそのおいしさや飲み方を覚えると、お酒を飲むことによる幸せ感というものが芽生えることもあるわけです。

ということは、「幸せと思う」想い方・方法をたくさん学べば(トレーニングすれば)、幸せな時間は物理的にも増加すると言えます。

これは言い換えれば、多様な価値観を受容する(多様な価値観を持つことではないので注意)心になればよいという意味でもあります。

ところがいろいろと落とし穴もあります。

そもそも人の幸せ感は、個人の快楽や欲求充足に基づくことが多く、平たく言えば低レベルな刺激だったり、現世利益にまみれたりすることに「幸せ感」がすり替わっていることもあるのです。

極端な例でいえば、麻薬で多幸感が得られるので、お手軽にやっていると麻薬中毒になりました・・・みたいなことです。

麻薬であっても、リスクがあることは別としても、確かに「幸せな気持ち」は感じているでしょう。

もし中毒症状を引き起こしたりせず、身体・精神的な危険がなかったりしたとしたら、麻薬を使用して多幸感を得るというのは、手段として間違ってると言えるでしょうか?

いや、幸せ(感)の質が違うんですよ、と言う人もいるかもしれませんが、幸せが個人の価値観や気持ちに基づいていると判断する限り、なかなかこれが悪いとは言い切れません。

しかし、もし幸せ感が、誰かによってコントロールされ、与えられている「ある概念」であり、それが個人的観念に巧妙に変化させられているとすれば、それはかなり厄介な問題です。

言い換えれば、誰か、あるいはある一部のグループのための共通的幸せ(感・観)のために、個人的な幸せ感が利用されているという場合です。

このあたりは単純なことではないので、なかなか判断は難しく、幻想と錯覚が入り交じった複雑なものだと言えます。

ただ無自覚・無意識的に、私たちは、自分の幸せへの欲求、幸せを感じたい心に、さらに植え付けられた「ある幸せ」のイメージがかぶせられて、本当の高次の幸せとは別のものを追い求めるよう、駆り立てられているのではないかと想像することもあります。

これ(そういう欺瞞の仕組みに気づくこと)は、マルセイユタロットに秘められた教義のひとつでもあるのです。

幸せになることは人として当然とも言える感情ですが、自分の求めている幸せとは何か、さらには、それ以外の幸せは本当にないのか、人のいう幸せは果たして自分の価値観に合っているのか、よく観察・洞察する必要があります。

自分を知ることは幸せにつながりますが、自分を知るつもりが、その過程でいつの間にか、人からコピーされた幸せの価値観と基準になっていて、それを実現することが目的に変わっていることがあります。

ずる賢い人は、幸せと自分を知るということをセットで道具とし、実は自分を知るプロセスや手段(メソッド)自体を売ることを目的としていることもあります。

従って、さらに悪質になりますと、自分探しをさせることに駆り立てることをわざとさせます。つまりは今まで意識していなかった欲求(デマンド)をわざと生み出させます。そう、まさにデマンド・需要になるのです。

自由・解放・ありのまま・常識やルールに従わない・じぶんらしく・やりたいことをやればいい・・・など、これらは自分・個性としての価値観を充足させることで幸せに近づく方法でもありますが、一方では、巧妙で悪質な勢力の広告や宣伝のうたい文句になっていることもあるのです。

幸せは個人とその価値観によって違うものではありますが、天(神・統合的総合的全体的視点)の幸せ観もありますし、その中間(個人と全体の間)もあります。

理想的には全体と個、天・地・人の幸せに適うもの(といっても、同じレベルですべてが適うというものではありません)が発見できればよいのかもしれません。


現実と現実感(リアリティ)

現実」という言葉と「現実感」というのは、似ているようで異なります。

私はタロットリーディングの指導時に、この意味の違いを明確にお話し、クライアント・相談者の現実感に沿ったリーディングを心がけるよう、お伝えしています。

現実と現実感(リアリティ)の違いは、現実は普遍的な事実であり、現実感は個別(それぞれの個人)が思う「現実(実在的・可能的)」感覚です。

現実はどの人から見ても、そうとらえられる客観的事実のようなもので、物理法則や全員に適用できるルール、科学的・論理的事象そのものと言えます。

一方、私たちは一人一人、見ている対象は同じであっても、人によって感じ方・意味合い(づけ)は異なってきます。

極端なことを言えば、同じ黄色を見ていても、もしそれが10段階の色合い(濃度)にわかれているとして、Aさんは5度の色を見ているかもしれませんし、Bさんには8度の色を見ているかもしれないのです。

そもそも視力の違いがあるのですから、同じ形であっても、ぼやけたり、クリアーに見えたりするのは普通に起こっているところです。

さらに人には感情やそれぞれが持つ価値観がありますから、それが加わってくれば、客観的な物事・事実が、色眼鏡をかけたように、もっとバイアスがかかってくるのは当たり前だと言えます。

しかしながら、当人にはそれが事実や現実だと思えますので、それ(バイアスのかかった事実・事象)が一人一人の現実感・リアリティだと考えることができます。

いつも何か霊が見えるという人にとっては、その霊が存在する世界が、その人にとってはもはや現実です。

しかし霊の見えない人、霊を信じない人には、当然まったく見えないですし、自分の考えにも入ってきませんから、その人にとって、まさに霊は「存在しない存在」であり、その人の世界には霊はいません。言い方を換えれば、現実感がないのです。

このように、人は自分にとって現実感・リアリティのないものは、自分の世界において存在しなくなる(あるいは価値がなくなる)ので、逆に言えば、何か実現したいことがある場合、その実現イメージを自分にとっての現実感あるものに変えていかなければなりません。

例えば、収入が月10万の人が、月1000万というのを目指すとしても、いくらその願望達成へのイメージを抱いても、それに自分として現実感が伴わなければ、なかなか自分の世界で現実とはなりにくいわけです。

ここで重要なのは、個別(個人の範囲での)願望の場合、他人にとって現実感がなくても、あくまで自分にとって現実感があればいいということです。

他人から「そんなの無理だ」と言われたとしても、自分がすでに「実現できる」と現実感が濃厚になっていれば、叶う可能性は高くなります。

スピリチュアル的なことでも同じで、悟りとか調和とか統合のイメージも、まったくの空想とか、雲の上のこととするのではなく、自分の中で現実感のあることとして、体感したり、一瞬でもその境地を得たり、智慧のひらめきで届きそうな気がしたりする感覚になることが重要です。

また、もっと争いのない調和のとれた社会を目指すとか、貨幣経済の奴隷から逃れた誰もが自分の個性を活かした平和な社会を作りたいと願うのなら、その実現方法にリアリティを持たせることです。

上記のような、特に社会の変革を求めるような願いの場合、個人的願望とは違い、一人だけの力では困難なところがありますから、自分だけではなく、多くの人の現実感も変えていくことが求められます。

空想や理論だけでは、多数の人(が参加する大きな枠組)の現実感は変えにくいことがあるからです。

よって、「それは実現可能かも」と思わせる具体的な案などが必要となるのです。もちろん最初に理想やイデア、現実を超えるイメージを持つことも重要です。

物事を実現させたり、可能にさせたりするのには、理想と実践、夢に向かう具体的アプローチ、これらはセットとして考えるべきで、そのポイントは現実感の構築・感得となります。

簡単に言えば、自己改革とは今の自分の現実感・リアリティのフィールド拡大か、次元(レベル)の上昇ということになります。

スプーンが曲がることに、自分が現実感を得られれば(誰しも曲げられるという環境に身を置いたり、曲がることに当たり前の感覚が得られたりすれば)、きっとスプーンは曲がるでしょう。(笑)
※冗談のようですが、これは、能力開発や潜在意識系のセミナーなどで、結構、よく行われていることです。


完全性と非完全性 現実と理想

マルセイユタロットが表す大きな教義のひとつに、「人の完全性」というものがあげられます。

完全性とは完璧というのとは少しニュアンスが違うのですが、神や仏、宇宙などで象徴される全体性を示唆し、言ってみれば、「それそのもので何も不足するものはない」と表現できるものです。

スピリチュアルのことを学んだり、関心をもって探究したりすれば、必ずと言っていいほど行き当たる言葉であり、境地です。

もともと、私たちは何も過不足なく、存在自体完全なのだという認識ですね。これはまたグノーシス(自らの神性を認識する)に通じるものでもあります。

この観点は私も賛同しますし、ここを前提としなければ、マルセイユタロットにおいても、中途半端なものになると思っています。

しかしながら、現実的な側面で見ていくと、大きな誤解もあるような気がします。

精神やイメージ、心の中では「完全性」はいつでも思うことができます。

言い換えれば、精神世界・理想においては、確かに全員それぞれが完全であると述べられます。

厳密に言えば、「完全性を思い浮かべることができる」(完全性をイデアする、完全性のアイデアを持つ)ということです。

けれども、実体・現実の世界では、自分が神のように完全だと自覚することは難しいものです。

真面目に考えれば、自分はおろか、誰一人完全な人間なんていないと見るのが常識的で、当たり前の感覚です。

ということは、人の完全性、逆から言えば、完全性を持つ人というのは単なる幻想で、現実にはありえないということになります。

こうしたことを理由に、スピリチュアルというものは浮ついたもので、真実味もないと、特にリアリスト的な人からはみなされるわけです。

確かにそれはその通りでしょう。ただし、あくまで現実世界しか実体として見ない(存在として意識しない)場合は、です。

ここで大切なのは、両世界を行き来するために「橋」を架けることなのです。別の言い方をすれば、両方(の世界の認識)あって完全と見る考え方の受け入れとなります。

これ(架け橋する力)はマルセイユタロットでいえば、「愚者」そのものの力にも相当し、「法皇」はそれを伝えています。

現実で私たちが非完全(不完全)なのは、別の世界、つまりイメージや理想、現実を超えたところの世界では完全であることを強く認識させるためでもあります。

現実(通常の世界、見て触れる実体の世界)と理想(イメージや心・精神、通常認識しにくい世界)では表現方法が異なるのです。

そもそも端的にいえば、具体(個別)とイメージ(全体)という表現の違いが、ふたつの世界ではあります。

古代西洋のエネルギーのとらえ方の概念、四大元素を用いれば、主に「風」と「土(地)」の違いのようなものです。

イメージや裏の意識の世界では、いくらでも想像が可能なので、すべてがつながっていることも意識することができます。実際にそうした世界では、すべてがつながっていると考えてよいでしょう。

一方、現実では、一人一人個性を持ち、皆が異なる状態で存在します。従ってバラバラなため、過不足を感じるのが普通であり、一人の人間で完全だという思いは、客観的にも認識できにくいものです。

運動が得意であっても、ビジネスができるとは限りませんし、勉強ができても恋愛ではうまくいかないという人もいます。また生まれつき大きなハンディを背負っている人もいれば、知能も身体も恵まれている人もいます。

そう、現実はまさに「違い」の世界であり、一見、そのままでは差別性・非(不)完全性を強く認識させる世界になります。

ところが視点を変えると、実は完全性も強烈に現実に現れます。それは、全員がひとつひとつのピースのように、ある大きなものの一部であるという観点をもった時です。

そうすれば、この現実世界での「完全(の認識)」とは、個人での非完全性の認識(自分の過不足を認めること)と、そこから来る助け合いや相互の受容それぞれの能力・特技・個性の活用というものだと気づいてきます。

イメージや精神の世界では、すぐに完全になれる(思える)のに対し、現実では逆に完全を「個」で認識するのは困難な世界になっています。

その代わり、まさに現実(実が現れると書きます)の特徴の通り、実体として個と個が助け合ったり、得意なものを交換しあったりすることで、全体としての完全を感じていく仕組みになっているのです。

一方のイメージ世界では、すぐに完全を想像することはできても、実感としては難しく、また宇宙的一体感は瞑想や理想のイメージで得られたとしても、自分自身が個としても生きているので、よほど悟った人以外、またすぐに現実との矛盾(完全やひとつは感じても、実際はずっとそうはなれない、それを活かせない自分との葛藤や悩みが出る)に苛まされることになります。

たとえ自分が「完全性」を、イメージ・瞑想・スピリチュアルテクニックなどで感じられたとしても、それを他の人にも同じように感じられるようにすることは難しく、勢い、自分のこと(自分の感じたこと、自分が言うこと)を信じられない人に対して幻滅を感じたり、進化の遅れた人のように見下したりしてしまう傾向が出ます。

そこまで極端ではなくても、同じ感覚を共有できる人だけで固まり、セクト化・カルト化する場合もあります。

それを防ぐためにも、現実での非完全性を思いつつ、全体としての完全性を認識するようにし(個としての、現実としての不完全を認めたうえで、全員で完全と見る)、違いの対立ではなく、違いを活かし合うという方向性を持つことが重要になってきます。

逆に言えば、現実では違っているのが当たり前で、いくら精神やイメージで「皆はひとつ」とか、「宇宙は完全だから何もしなくてよい」とか思っていても、実体(現実)では一人一人異なっていること、非(不)完全性を強く思う仕組みになっているので、安易な「完全性」の主張は、現実での矛盾や苦しみを助長することになると理解しておく必要があります。

しかしながら、イメージで感じた全や一という感覚は、現実世界では、完全ではない(と感じる)一人一人の実社会での協力的関係(の構築)によって近づくことができるのです。

ということは、やはり、イメージや理念としても「完全性」を知っておく、学んでおくことは重要です。理想がないとよい現実を作ることができず、現実は混沌とし、さらにひどいものになるからです。

時には、一時的でも宇宙的・全体的一体感を味わっておくのもよいでしょう。

その意味では、害のない程度のトリップ体験ができる方法はありだとは思います。(扱う知識はいるでしょうが)

こうして、現実と非現実(イメージとか理想の世界)とは、お互い真逆のような状態でありながら相互にリンクし、実は同じことを対称的な表現で経験させるようになっているのです。

ですからふたつを意識したり、認識したりするほうが、真理に近づくのも早いと言えます。ふたつがあるからひとつが見えてくるのです。

しかしながら、表現がまったく反対になることを覚えておかないと、どちらかの世界に傾き、迷走することになります。

元に戻りますが、結局は私たちは宇宙そのものであり、やはりどちら(の世界)から見ても、完全なのだと私は考えています。(ただし、意識や認識のレベルによって、その完全性自体のレベルも変わると思っています)


願望実現法、音声と感情の関係

世の中に、いわゆる「願望実現法」なるものは数多く紹介されています。

その真偽のほどはともかくとして、実践してみて、何がしかの効果があったものもあるでしょうし、全く効果がなかったものもあるでしょう。

私自身が思うのは、やはり、ここでも全体性と個別性があるのではないかということです。

簡単に言えば、全員に通用する部分と、個人個人でしか効かない部分があるということです。

では全員に通用するものを採用すればいいではないかと思うかもしれませんが、これはあくまで私の意見ですが、おそらく全員に通用するというものは、その働きが「個人」としては弱くなるのではないかと考えています。

いや、個人であっても、もしかすれば、強く働いているのかもしれませんが、それが個人の思いに反映されない絶対法則のようなもので、結局、個人的な願望をかなえるということには、あまり影響がないようなものであると想像できます。

言ってみれば万有引力の法則みたいな感じで、これは地球にいる者全員に作用しますが、一人だけ重力から抜けようとしても、それは無理なことというのに似ています。

あまりに普遍的で宇宙的ともいえる強力なものなので、実は個人個人がどうかできるものではないと言い換えてもいいかもしれません。

ですから、全員に通用するようなものは、見た目、「個人には弱く働いている」ように感じるわけです。

ということで、あまた言われている願望実現法も、自分に合ったものを探してください、と述べることになります。

さて、そんなたくさんある願望実現法のひとつに、言葉で自分の願望を唱え叶えるというものがあります。

いわゆるアファーメーションもその種類に入るのかもしれません。(ただし、やり方は似ていても、少し違う部分もあるとは思います)

こうした場合、感情を込めて言ったほうがいいのか、反対に、感情を込めないで、ただ機械的に述べたほうがいいのかという疑問が起こります。

なんとなく感覚では、気持ちや感情を込めたほうが叶いやすいように思います。

言葉には、ある種の波動や周波数のようなものが存在すると仮定しますと(仮定しなくても音声ですから当然あるはずですが、ここでは、その言葉による一定の波動・パワーという意味で述べています)、感情のエネルギーが影響して、言葉の持つ力を増強させることがあるかもしれないとは考えられます。

ただし、今、私は「増強」と言いましたが、影響を及ぼすというのは、何も強めるだけではなく、弱めることもありえると思います。

感情にも波動があるのなら、波同士、干渉し合い、振動は激しくなる場合もあれば、逆に波が収まってしまうようなこともあり得るでしょう。

ということは、感情を込めて願望を述べること、あるいは何かポジティブな波動をもたらすと言われている言葉(「ありがとう」など)でも、必ずしも、よいわけではないと言えます。

言えば言うほど、逆効果ということもあるわけです。

あまり感情が入り過ぎて、波動に影響を別の意味で与えてしまうようになる状態で言葉や文章を述べるのなら、まったく気持ちを込めず、機械のように一定のリズムで唱えたほうが効果的なこともあるかもしれません。

おそらく普段、ネガティブ気味、またはそういう言葉をよく何気なくつぶやいてしまうような人は、感情を込めずに言うほうがよく、逆に、普段からポジティブな言葉や思いでいる人は、いつものようにその感情を込めて述べたほうがいいと考えられます。

ただし、先述したように、あまりにも力が入りすぎるような時、例えば、「絶対叶えてやるんだ!」とか、崖っぷちのようにギリギリに追いつめられた状態で言うような時は、誰でも自然にネガティブ(暗いというようなネガティブではなく、破壊に近い爆発的エネルギー)に傾きますので、そういう場合は、やはり感情はあえて込めないほうがよいでしょう。

まあ、これも個人差があるでしょうから、自分に合う方法で試されるとよいと思います。

ちなみにタロットを使う願望実現法も考えられますが、個人的には使いませんし、お勧めしません。


聖なるものを想像(創造)する。

私たちは、ともすれば毎日、同じようなことを繰り返し、そのまま無為に流された生活をしてしまいます。

それは仕方のない面もあり、そのほうが楽なことは確かです。

変化がないということは、このように楽な一方、面白味がなく、いろいろなものも停滞気味だという裏の面もあります。

逆にいえば、変化に富む毎日というのは、面白くはあっても、危険な面もあり、エネルギーも多く使い、何かと大変なことも多いわけです。

農耕(稲作)をするかつての日常の生活においても、やはり平穏で同じことを繰り返すような毎日と、お祭りをしてにぎわったり、神聖な気持ちになったりする特別な日とに分かれていました。

これは意識的というより、自然にそのようなサイクルが組まれていたと考えられます。(意図的な面もあったとは思います)

民俗学では、このサイクルをハレ(非日常)と(日常)ととらえ、日常のケのエネルギーが枯渇してくるとケガレとなり、そして神聖なるものと交流する「ハレ」状態をもって、その補給や浄化とし、また通常のケに戻っていたと想定されています。

いわゆるお祭りはオマツリとして、神を祀り、霊的にも神のエネルギーを降ろしてもらうことに意義があったと考えられます。(反対に言えば、内なる神性を、神を想像することで覚醒させていたと言い換えてもいいかもしれません)

たとえ神なるものが存在しなかったとしても、その存在を地域住民の皆が信じることで、心理的効果が及び、リフレッシュできたと思われます。

私個人としては、思いこみ的な心理効果とともに、霊的な何かのエネルギーの変転が、実際にあったのではないかと推測しています。

いずれにしても、「信じる」ことと、それが多くの人に共通意識となることが、神と人の交流や意識交換・意識変化システムにとって、非常に重要な要素であったと考えられます。

そのため、「神がいる」ということを視覚的にも認識しやすいように、神殿、つまり日本ならば神社・仏閣が造られたと想像できます。

しかも、日常のフィールドと明らかに異なるように見せるためには、高台であったり、森の中であったり、特別な場所が社の場所として選定されたことでしょう。

もちろんエネルギー場として、もともと特殊であったところということも考えられます。

ただ、人々の意識・思いが、信じる力の束となり、その場所に「神」なるもの、神聖なる存在・フィールドを創造したのだとも言えそうです。

日本語の音は不思議なもので、この場合の「思い」と「重い」がまさに重なり、思いが入る所は、ほかとは違う重力場になっている感覚があったのではないでしょうか。すなわち聖域です。

人々の思いが何らかの形で重さに影響し、その場所に行くと軽くなったり、重くなったりするようにも思います。(「重さ」は影響力にも関係)

このように昔は、村々の鎮守の社のような形式で、地域住民の共通理解によるイメージの神様が存在することで、生活に適度なメリハリがあったと想像できます。

しかし、現代の私たちはそうした共通理解の神殿や神を持たないため、カリスマ的な人や、ある分野に特別な知識や技術を持った人を神的に扱ったり(ネットでは「神」という言葉の使い方を見ればわかります)、かなり広域な範囲での神殿(有名神社)をわざわざ訪れたりします。

それも好き勝手な個人のリズムで、です。

言い換えれば日常的なメリハリが利かなくなっているのと、まとまりの力が弱くなっているのですね。

本当は地域のセンター的なところに聖域を作り、その意識を再び醸成していく必要があるように感じますが、なかなか難しいので、まずは個人の家から始めるのがいいかと思います。

それは神棚とか仏壇の復活と言いますか、そうした「聖なるもの」が認識できるものを家にも作ったり、置いたりします。

ただ意識が重要なので、飾っているだけではダメで、まして掃除も何もせず、ほこりをかぶっている放置状態では、単なるスペースの無駄となって逆効果とも言えます。

意識を特別なものにするためには、実在感が大切です。

つまりリアリティです。それは、思うだけではなく、現実の行為が必要となってきます。

手を合わせたり、祈ったり、唱えたり、お供えをしたり、そういうような聖なるものに対する実際の自分の行為があいまって、意識的・感覚的に、そこのフィールドに聖なるものが芽生えるのだと思えます。

そして、できれば一家の共通認識を形成することです。

つまり、家族全員が信じる状態というものにすれば、それだけ効果はその家全体に及ぶようになってくるというものです。

ただ、契約のように思ったり、何かを叶えるための代償のように感じたりすると、自分を縛ること(想像した聖なるものに縛られること)になるので、聖なるものに願望実現を祈るのは避け、感謝的な気持ちを捧げることにしたほうがよいと思います。

いずれにしても、普段の生活の中で、聖なるものを意識する場所と時間があることで、確実に意識を切り替えたり、クリアーにしたりすることが可能になってきます。

言ってみれば、流されにくくなるということなのです。

実はマルセイユタロットに接する時間を持つ行為も、これに類する(意識の切り替え)ことになります。


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