スピリチュアル

自己創造の世界

先日、タロットの受講生・修了者用に発行しているメルマガを出したところです。

今回は「運命」についてタロット的に考察しています。

そこで語ったひとつのは、「自己創造の世界」という概念です。

今日のブログでは、メルマガの記事と同じようには行きませんが、この「自己創造の世界」について、少しふれてみたいと思います。

いきなり結論から言いますと、私たち一人一人は、結局、自分の作り(創り)出した世界で遊んでいる存在ではないかということです。

ということは、スピリチュアルな世界や潜在意識関係でもよく言われるように、自分の信じた通りの世界・人生を自分が体験するということになります。

ただし、自分が思ったり、信じていたりすることは、表面意識・自覚しているものだけとは限らず、そのほとんどは、別のところ(潜在意識やほかの記憶庫)にあるとも考えられます。

ここがやっかいなところで、従って、自分の(自覚している)願望がそのまま叶うわけではないのです。

ですが、今回は、この、自覚したものと無自覚なものとのデータの違いと実現度を述べることが趣旨ではないので、省きます。

私の言いたいのは、先述したように「自己創造の世界」ということで、要するに、意識的であれ、無意識的であれ、自分が作り出した世界で、私たちは生きるようになるという「仕組み」についてなのです。

例えば、「運」(幸運・不運)というものががあると思う人は、その通りの世界観を自分が投影した「現実」を経験していくことになります。

具体的には例示した「運」を信じる人の場合で説明します。

そういう人は、その「運」「不運」というものについて明確にしたいため、まず現象観察から入り、そして占いやほかの分野などでも、「運」ということについて書かれたり、解説されたりしているものを学び、いよいよはっきりと「運」の存在、その善し悪し、働き方、運用の方法、幸運のつかみ方などを体験し、実践していくことになっていきます。

最後は、それでよい人生をどれだけ送れたか、あるいは人にも教えられたか(とらえ方によっては、救えたかにもなるかもしれません)を、満足度によって計ることになると思います。

これは実はとても面白いことなのですが、今の説明のままではわかりづらいので、ゲームで例えます。そうすると、とてもわかりやすいからです。

さて、自分で創造する世界とは、ゲームで言えば、自分が作り、設定したゲームのスイッチをオンにさせて楽しむことのわけですが、「自己創造」ゲームにおいては、このスイッチを押す時は、自分がゲーム設定をしたことを一度完全に忘却します。

忘れているので、現れたゲームの世界を、現実の体験として受け止めます。

しかもゲームを楽しむルールはわかったとしても、その真意やゲームの詳細な攻略方法などはわからないままです。

人それぞれのゲームでは、「こういうことをすれば成功と言えるんだ」とか、「これがスピリチュアル的にすばらしい生き方なんだ」とか、「運をつかんで幸運な人生を送るんだ」とか、そういう願望や思いが自己の世界設定を生み出し、その世界観が通じる現実を味わう(体験させられる)ということになります。

またこのゲームは、自分の考えや価値観、目的が変われば、設定もその都度変更されていきます。

まさに自分が身につけた(信じた)ものの通りに、ゲーム世界観と設定も改編されていくわけです。

最終的には、ゲーム終了時、実際には自分の寿命が尽きるか、亡くなるということになってきますが、自分の創造したゲーム世界で、いかに高得点を自分がたたき出したかうまく遊べたかを振り返り、満足してあの世に旅立つか、悔いを残して亡くなるかみたいになります。

つまり、これ(自分が思うゲームの達成感や遊技感)が幸せや不幸せ、人生での達成感や充実感、逆の不満足感や悔恨度になっていくわけです。

冷静に考えると滑稽なことです。

もともとは自分が作り、また途中においても自らが改編しているゲームに、わざと設定を忘れて、ほかならぬ自分が作ったそのゲームを極めようと邁進するわけですから。

これをばからしいと思うか、いやいや、これはこれでとてもすばらしいことだと思うかによって、ゲームの意味(つまりその人が思う現実の意味)も変わってくると思います。

言っておきますが、このようなゲームを作って、設定を忘却してまでリアリティを感じるという超高度な楽しみ方は、なかなか味わえるものではなく、おそらく肉体をもって生まれた人生だけの体験だと言えるでしょう。

それは一時(いっとき)、与えられた特殊な能力と設定なのです。

これを起動せず(と言っても強制的に起動させられますが)、意図的に避けよう(悟りなど過度に目指すことにつながるかもしれませんし、逃避的・自虐的人生を送ることであるかもしれません)としたりしても、もったいない面があるのではないかと思います。

しかしまた、一方では、この仕組みのまま、ゲームに熱中し、自分で自分をはめてしまう(縛ってしまう)ことに強い力が働きすぎると、どこかドラッグ中毒みたいな違和感も覚えるのではないかと危惧します。

もっと言えば、こういった仕組みを理解している一部の人たちがいて、この一人一人のゲーム世界に介入できるシステムも働いているのではないかと想像してしまいます。(まあ、それも自己創造の世界といえばそうかもしれませんが)

自己創造の世界のゲームで充実したと思える人生を送るのもいいのでしょうが、ゲームをやらないと、あるいはゲームをやりながら、ゲーム自体にのめり込まない生き方もある気がします。

結局、ゲームの得点自体を競うものではなく、競わせるように見せかけて、ドキドキワクワクを体験するかのようなそのプロセスと演出に、リアリティさや迫真さを覚えることが目的でもあると考えられるからです。

このあたりは難しいところではありますが、マルセイユタロットの教義や象徴を見ていくと、ゲームの謎について、描かれているように感じるのです。

いずれにしても、大事なことは、一人一人、自分が作る世界で、究極的な意味においては「楽しんでいる」わけですから、その選択に他人(自分)がとやかく言う必要もないのです。

いや、「とやかく、必要以上に思い悩む必要はない」と言ったほうがいいでしょう。

人間関係性においては、何かを人に言ったり、言われたりすることは当然あるからで、それはコントロールしにくいものです。(特に他人から言われるものは)

けれども、自分が受け取る方、言われたことをどうとらえるか、思うかは、ある程度コントロール可能です。

ですから、「とやかく悩む必要はない」と心の対処のほうを述べているわけです。

また、「自分が生み出す世界」での、「あなた自身が他人に対してとやかく働きかける設定」(笑)というのもあるかもしれませんので、その意味では、人に関わり、援助したり、反対に助けられたりすることが積極的にあってもよい思っています。

それから、それぞれの創造世界は微妙に重なりあっているとも言え、その点から見ると、きっと人の数だけ何らかの影響を及ぼし合っていると言えるかもしれず、自分の思い・行動が、全く一人の世界で閉鎖し、完結しているものではないと思います。

自分が何をゲームで今設定しているのかは、やはり外側の起こったことで見ていくことがいいでしょう。

その時はゲームに取り込まれている自分に客観性をもたらすことが重要ですから、何かツールを使ったり、シンクロニシティを見たり、反対に異質感際だつものをピックアップしたりするとよいでしょう。

なお、客観性をもたらせるのには、「象徴解釈」ということも大きな手助けとなります。


偶然の再会の意味

偶然の再会という出来事があります。

人によって、その意味もまたそれぞれだと思いますが、これを現象そのままのこととして受け止めるか、象徴的出来事として解釈するかによって違ってくることがあります。

現象そのものとして受け止めるというのは、端的にいえば、「その人」に再会したことに意味があるというものです。

再会の出来事というより、その人との出会い、邂逅に意味を置いて考えてみましょうということになります。

その人が何かずっと伝えたかったことがあるのかもしれませんし、その人から紹介される仕事があるのかもしれません。

また、自分自身がその人に対して、何か言いたいことを残していた可能性もあります。

さらには、恋愛などでよくあるように、再会することで、前には進めなかった恋愛が進行していくというのもあります。つまりは、一歩関係性を深めたり、やり直したりするために再会したとも言えます。

それは、いわば「運命の出会い」「運命の再会」というべきものかもしれません。

タロットを占い的に使う場合は、たとえば「運命の輪」などが登場することで、そうした出会いを暗示することもあり得ます。

一方、再会を象徴的に解釈するというのは、その人との出会いももちろん意味あるかもしれませんが、それよりも、その人と「再び会う」こと、それ(再会現象)自体に重要なポイントがあると考えるものです。

さらには、その人と過ごしたり、出会っていたりした昔の自分の状態も思い出し、その人が自分にとって何かの象徴であることをつきとめると、再会の真の意味がわかってきます。

例えば、私にはこういうことがありました。

5年くらい前、タロットの仕事に行き詰まり、とあるところでアルバイトを始めていたのですが、なんと、その通勤途中に、公務員時代の上司に偶然、遭遇することになったのです。

その方は、当時でももう定年されており、第二の就職先にお勤めされていたのですが、それにしても、偶然でびっくりしました。

この方が私の上司だった時代、私は公務員として、いろいろと基礎から仕事を仕切り直していた時代であり(最初は児童相談所勤務でしたので、典型的な公務事務的な仕事が、まだ身に付いておりませんでした)、また後半はそれなりに公務員生活も充実していた時でもありました。

しかし、反面、うつ病の要因になった期間とも言えました。

つまり、まさにいい面でも悪い面でも、私の公務員時代の象徴が、この上司(と仕事した時代)と言えたのです。

さて、私がその元上司と再会した時、通っていたアルバイト先(これも半行政的なところでしたが)も期間限定であったので、次のアルバイト先も決めていた状態(内定していた状態)でした。

しかし、この元上司と偶然再会し、アルバイト期間が終了しようとした矢先、なぜか急に次のアルバイト先の都合でアルバイトがダメになり、再びタロットの仕事をすることに向き合わざるを得ない状況になりました。

結果、今に至るわけですが、いろいろと人生で転機のあった中で、あの時も大きなもののひとつと言えました。

結局、再会した元上司は、その象徴的意味合いにおいて、私が公務員という仕事と、完全なる決別を促す存在だったわけです。

元上司という人間の登場で、典型的な公務員時代を思い起こさせることで、逆に、今はもうそうではない自分(私)を暗示させていたと考えられます。

(別に元上司の方と特別な話をしたわけではありません、象徴という意味においてです)

おそらく私の中で、どこかまだ公務員時代の名残や、タロットを仕事とすることに対してのブロックや、いい加減さというものが残っていたのでしょう。

このように、再会する人、あるいはその出来事そのものが、象徴として自分の(変化などの)何かを知らせてくれることになっているのです。

SF的に考えると、再会する人は、実際にその人自身ではない可能性もあり、あなたが生み出した別次元のその人とも考えられますし、また別の時間軸に存在したその人と、今の自分の時間軸が瞬間的にシンクロした出来事だとも推測できます。(タロット的には「運命の輪」のリンク)

ということは、あなた自身の次元がゆらめいていることは確かであり、それゆえ、あなたが今(誰かと偶然再会した時)、変容過程にあることを証明できるわけなのです。

人の偶然の再会というのは、それだけ大きな意味があると考えられます。


難しく考える人、シンプルに行動できない人へ。

今日はちょっと、よりスピリチュアルな話になると思います。

あんまりスピスピするのが嫌いな人は読み飛ばしてください。(笑)

ある日、タロットを見ながら、ふと思ったことがあるので、それを書きます。

ところで、物事を気楽に考えたり、シンプルにとらえたりできない傾向の人がいます。

逆に言えば、ちょっと難しく考えすぎたり、ルールや規則などを強く遵守しようとしたりするような感じの人と言えます。

まあ、私もどちらかといえばこのタイプと言えましょうか。

だいたいにおいて、そういう傾向ですので、堅苦しく、自分で自分を縛ってしまうようなことがあり、ま、関西弁でいえば「しんどい人」となるわけです。(苦笑)

で、「もうそんなことやめましょうや」とか、「そんなにきつくしなくたって生きられますよ」とか、「もっと自由にありのままでやっていけば、本当に自他共に調和していくんですよ」みたいに言われるわけです。

それはもっともな話なのです。

ところが、それでもこのような人たちは、自由(ラフ)になりたがらないところがあるのですね。(^_^;)

もちろん心理的にはですね、自分のそのような生き方に、自分の価値が見いだせるような仮設定があるわけで、それは親の承認とか、他者評価に関わることが多いわけです。

平たく言えば、きちんとしている自分、複雑に難しくしている自分は、自分の受け入れて欲しいと思っている人からの理想像(事実は「自分の思うその人」からの像ですが)なのですね。

ま、つまりは、自分としてはかっこいい(と感じている)わけですよ、これが。

けれども、今回は私の言うことはそれ(心理的な話)とはちょっと違うものです。

結論から言えば、このような傾向の人は、魂的にそれを好きで選択しているということです。

あるゲームや遊技を想像してください。

完璧な状態、たとえば道具がきちんとそろっている、ゲーム攻略本などの情報もある、なんてことであれば、まあ、そのゲームや遊びは簡単にクリアーできます。順当に楽しめるわけです。

でも、次第に熟練してきますと、正攻法や環境が整っている状態では面白くないわけです。

そこで、まったく別のゲームを今度はするか、あるいは、同じゲームでもわざとハンディをつけてやってみるわけです。

両手両足を使うより、足だけでボールを運ぶ縛りを入れれば面白くなったとして、サッカーができたように、です。

これが実は「人生ゲーム」においても、同じではないかと思うのです。

わざと難しくしてしまう道を選ぶのも、人生にあえてハンディを入れ、より楽しんだり、生きる技術を熟達させようとしたりしていると考えられるのです。

簡単にすればいいものを、なんでそんな難しく考えたり、してしまったりするのかは、実は魂のゲーム的な(ゲームを楽しむための)選択だったわけです。(もちろん全員がそうではないですが、ひとつの考えです)

ですから、こういうことを生まれる前に決めてきていますので、この魂タイプの人は、簡単なこと、シンプルなこと、優しい(易しい)こと、楽な方とかを避けてしまうことが多いのですね。

宇宙の真理を追究する、みたいなことが好きなタイプの人は、本当にこういう魂傾向の人が結構いるように感じます。

いや、本当は知っているんですよ、真理も、魂(自分のスピリット・神性・高次の存在)は。

しかし、それもあえてわからなくしたうえで、探究や解明のプロセスも複雑にしていくようにし向けているわけです。

それがまた、思考タイプや感情タイプなどによってわけられて、人生での実体験(生活ベース)で苦労したり、いろいろと考えを複雑にしたり(思索・思考の罠にはまったりする)して、自らを苦しめるわけです。

さあ、この難しい状況からどう脱出する? どう真理にたどりつく? どうやって幸せをつかむ? みたいな感じです。(笑)

現実的(表面意識的)にはとても大変なのですが、魂としては楽しんでいるとしかいいようがないのです。皮肉といえば皮肉ですが、それも自己の選択なので責められません。(笑)

死んだ後に、あの世で「今回はちょっとやばかったっすよ、縛りかけすぎて途中で死ぬかと思いました、あ、私もともと死んでも生きてもいないんですけどネ(^_^;)」なんて言っているかもしれません。(漫画ワンピースのブルックのギャグみたいですが・・)

反対に「ぬるい、ぬるかったよ、今回の設定は。次回はスーパーな縛りをかけておくよ」と言う人もいるかもしれません。

武道・戦闘系漫画やアニメでよくあるように、めちゃくちゃ重い縛りをかけて修行すれば、それを脱いだ時、高速で技を繰り出したり、実力が上がっていたりするようなものです。

そういうようなこを地球にしにきている魂グループがあるのだと感じます。

そんなこと知ったこっちゃないわ! 妙な与太話つきあってられないよ、現実で感じていることが大変で重要なんだよ!!という人は、最初にも言いましたように、この話は無視してくたさい。ひとつのおとぎ話、ファンタジーとして受け取っていただいたほうがよいでしょう。

ただ、こうした、別の観点から見てみるという方向性の違いを意識し、違うものを同時に見る(見る・見られる)ことを統合して行くことは、解放のヒントにもなるのです。言いたかったのは実はそのことなのです。


他人に、過去や未来の自分を見ること。

いろいろな方のブログとかSNSでの投稿を見ておりますと、時折、まるで自分の過去を見ているかのような人の主張や内容に出会うことがあります。

たまには上から目線で、「まだまだ青いな」とか、「ああ、そんなレベルのこともあったよなあ・・」なんて感じることもあります。(苦笑)

ネットのアスキーアートでギャグにもなっている「そんな風に思っていたことが、僕にもありました・・・」みたいな感じのやつです。

しかし、よく考えると、これは自分や他人との相対的なレベル評価の話ではないことに気がついてきます。

よくスピリチュアルでは「人と比べてはいけない」「もともと人はすべて同じであり、誰もが完全である」ということが言われます。

本質的にはその通りだと私も思いますが、ただ実際的には、人は多くの他人と暮らしているわけであり、見える世界での「ある・なし」を中心にして、人と自分を比べてしまうのは仕方のないことで、単純に「比べるな」というほうが普通は無理です。

私はタロットをやっていくうちに、そういった表面的な精神論といいますか、スピリチュアルの言い方には違和感を持つようになり、「仕方なくやってしまいがちなこと」「当たり前に人がしてしまうこと」には、実は深い意味があるのではないかと考えるようになりました。

そしてだいたいは逆説的に考えればうまく説明が付くこともわかってきました。これはマルセイユタロットの「吊るし」のおかげと言ってもよいです。

詳しくはまたの機会に譲りますが、例えば先述の、私たちがつい人と比べるという話も、別にやってはいけないことではなく、そうすることに別の意味合いがあるということです。もっと言うと目的があるのです。

ただそれにとらわれてしまうこと、無意識なことが問題なのです。

さて、話を戻します。

いろいろな人に過去の自分を見て、「今は自分は成長したなあ・・」と感じるのはいいとしても、「この人はまだまだだな」とか思うのは、実は違う話になります。(それをしてはいけないということではありません)

結論から言いますと、すべては自分なのです。

他人に対して過去の自分のように思ってはいても、そう感じたあなた自身は、他人にあなた(自分)を見ているのであり、優越感や劣等感とは関係なく、ただ自分がそこにいるだけなのです。

(ややこしい話になって申し訳ありませんが)未熟や発展途上だと思う状態の自分も、一方で成長した、だいぶん理解したと感じている状態の自分も、やはり同時に存在しています。

時間という概念を入れればあたかも成長したかのように感じますが、おそらく本質的にはそうではなく、別の見方をすれば、未熟な自分は未熟でやはり今も存在するのです。

それをわからせてくれるために、他人という入れ物を媒体にして見せてくれていると言ってもいいでしょう。

他人は他人で存在していますが、自分が過去の自分に似ていると感じているその他人は、あなたの心の中に存在する自分なのです。

ということで、他人はあなたより劣っているわけでも、優れているわけでもないのです。

他人の人が本当はどんな人で、どういうレベルにあるのかは、その人でしかわからず、自分が考えている他人への評価・印象は、あくまでこちら側・自分が見て感じ、思っている他人であり、結局はそれは自分が創りあげた「他人(への評価レベル)」という存在に過ぎないわけです。

とすれば、他人への思いに自分を感じるということは、まさに自分の中の自分を投影して見ていることになるのです。

時には他人に、恥ずかしかった頃の自分を見ることもあるでしょうし、怒りや悲しみの時代の自分を見ることもあるでしょう。

もちろん反対に、喜びや楽しさにあふれた自分を見ることもあるかもしれませんし、過去だけではなく、当然未来の自分も見ることができるはずです。

つまり、何かしら、自分が反応する他人や他人の表現というのは、どれも自分の中の分身のひとつ、別世界(多次元)での自分と言えるかもしれないのです。

まあ、だからといって、よく言われるように受け入れなければならないとか、クリアーにしなければならないとか、そういうことを述べているわけでもありません。

人を見て自分が成長したと思うのならば、それはその通りで、何かの部分で成長したところがあるのですが、それは成長というより、気づきというのに近く、もともとすべて備える自分が、より元に戻りつつあるという観点で考えることができます。

いろいろな自分を他人から見る上で重要な視点を言いますと、それは受け入れるよりも否定できるかということにあります。

もちろん受け入れることも大切なのですが、同時に否定し、捨て去ることもポイントです。いかに過去や今の自分(の考え・信念)を捨てることができるか。こういう視点です。

時には未来の「こうなりたい」と思う自分すら否定し、捨てるのも自己変容では有効なこともあります。

マルセイユタロットでいえば、これらのエネルギーと表現は「13」になります。

あるいは「愚者」として、捨てるというより、こだわらない、気にしないようになるものだとも言えます。

「そんな時代もあった」「こんな考えをしていた自分がいた」「それでいいと思っていた」「これが正しいと思っていた」・・・

そのように思うことは、実はかつての自分の状態をいい意味で否定しているからです。(自分そのものを否定しているのではなく、そう信じていた自分の枠を超えたため、否定することもできるようになったという意味です)

私たちは様々なタイプの自分、未熟性や成長性のある自分を他人を通して見ることにより、新しい自分へと殻を破って生まれ変わります

別の言い方をすれば、完全性に次第に戻っていきます。

この世界は、本当に自分を見せてくれるワンダーランドなのです。スピリチュアル的な究極の考えでは、人は自分一人しかいませんので、それも当たり前のことになります。


パチンコの不思議な世界

いきなりタイトルで引かれた方もいるかもしれませんね。(苦笑)

タロットのブログなのにパチンコの話題とはこれいかに?ですが、実は、たまにタロットの受講生の方にも、余興で時々私が話している内容でもあるのですね。

私は大学生の頃にパチンコにはまったことがあり(苦笑)、以後社会人になってもちょくちょく熱心にやっておりました。ですから、まあ、結構事情に詳しいところはあります。

そしてタロットを学び、いよいよスピリチュアルな観点で世界を見るようになってからは、パチンコがいかに興味深いものであることを、別の観点でもってあとで気がついたのです。

興味深いと言っても、ギャンブルの部分とか遊技の面白さのことを言っているのではありません。

それは端的に言うと、パチンコを提供している側とお客との関係であり、その間にある「パチンコ」台という遊技ゲームが介される仕組み、この一連を含めてのスピリチュアル的視点です。

このブログの読者には、パチンコを知らない人も多いと思いますので、まずは、パチンコ台のシステムについてお話しします。

お客はお金を払ってパチンコ玉を買います。(現在では台の横にお金を入れるところがあり、自動的にお金を入れると玉が出てきます) そして台にあるハンドルを調整して玉を打ち出します。

打ち出された玉は、台に開いている穴に入り、その瞬間、台の盤面についているモニター画面のデジタル数字(絵柄のこともあります)が回転し、同じ数字が3つ揃えばフィーバーと言って、大量の玉が台から出てくるようになっています。(「フィーバー台」と呼ばれる種類のもの)

そして出た玉の量に応じて最後に品物に換えるわけですが、三点方式と言いまして、その品物をまた別のところでお金で買い取ってもらえる仕組みがあり、それでお客は最終的には玉をお金に換えることができるわけです。本来は違法性を追求される部分もあるとは思うのですが、まあ、警察組織も暗黙の了解みたいなところがあるようですね。

それはさておき、そのいわゆる大当たり(数字が揃う当たり)を引き当てるには、台の種類によって異なりますが、現在はおよそ400分の1から100分の1の間の確率になっているようです。もちろん当たる確率が低いほど、出玉が大量に期待できるようになっています。その分、お金もつぎこまれる(デジタル数字を回す回数を多くしなければならない)ことになりますが。

どんな確率であっても、結局、玉が穴に入ると同時に台の内部カウンターで機械的抽選が行われ、当選か否かが決定しているわけです。つまり玉が入った瞬間にはもう当たりかはずれかが確定しているのです。

ところが、今のパチンコ台では技術も進み、大当たりまでの演出効果が非常に複雑にされています

どういうことかと言いますと、玉が穴に入って数字が止まるまでの間に、長いもので5分近くもかかって大当たりかはずれかの画面(台についている数字の回るモニター)演出が行われているのです。

先述したように、実際は玉が入った瞬間に、もう当たりかはずれかは決まっているのですが、結果をすぐに出すのでは面白くないので、その間をできるだけ長くワクワク、ドキドキ、ハラハラを楽しんでもらうおうと演出されているわけですね。

このシステムは、おそらくパチンコを趣味としたり、よくしたりしている人にはわかっているはずなのですが、実際にパチンコ屋に入って遊技しているお客さんを客観的に見ますと、実に不思議な光景になっているのに気がつきます。

それは上記の当たりはずれの演出時間の時に、台についているボタン(演出用についている押ボタン、それ自体に当たりはずれに作用させる効果はありません)を必死で強烈に押し続けている人がいたり(ボタンが壊れるくらいの勢いです)、数字がそろうことを祈っているのか、何やら手で妙なおまじない的な仕草をしたり(きっとそれをして、過去当たったことがあるのでしょう)、まさに本当に両手を合わせて祈っている人もいたりします。

またはずれると、怒りにまかせて台を殴ったりする人、台に向かって罵倒したりする人、「当たれ!」と言葉に出してしまう人、出ないから(当たらない)と店員に文句言う人なども結構います。

当たったら当たったで、歓喜・興奮し、おそらく遊技者の心拍数は上昇し、アドレナリン、その他の快楽ホルモン物質も大量に分泌されていることだと推測できます。言わば、演出された世界で本当の感情や身体反応を経験しているのです。

さらには、社会問題にまでなっていますが、小さいお子さんを車内に置いたまま、ずっとパチンコに興じたり、お金がないのにサラ金にまで借金してやり続ける依存症の人がいたり、とにかく不思議な世界がそこにはあります。もちろん普通に正常に遊技している人もいます。

しかし、そういう人たちも、もしパチンコに出会わなければ、そういう状態になっていなかったかもしれませんし、どの人もパチンコ屋で遊技している自分と、外で普通に生活し、仕事している時の自分とでは違う部分はあるでしょう。

ともかくも、結局、台は機械であり、そしてまた店側でも制御していることもあるのではないかと想像できます。(違法性はあるかもしれませんが、よく考えるとまったくの自然確率で任せると店はつぶれるでしょう)

少なくとも、玉が入った瞬間には当たりはずれの抽選結果は出ているのであり、それがモニターとして、結果として、台の現象として、まだ目に見えてないだけなのです。

いくら、演出画面を見て、祈ったり、おまじないをしたり、台を叩いたりしても、結果は途中で変わりません。

変わるとすれば、違法性のある裏で制御している台であり、それは店側のコントロールに関わることで、物理法則の意味では、遊技している人の意志や力で何とかできるものではありません

さて、ここまで書いてくればカンのいい人は気づいているかもしれません。

そう、このパチンコの奇妙な世界が、なんと私たちの現実世界に似ていることかと。

私たちは、まるでこの現実世界でパチンコ台を打たされているようなものと言えます。

パチンコ台に当たるのが、まさにこの世界をゲームとして見た場合の、現実に存在する様々なツール、物質、楽しむ仕組みです。

楽しむ仕組みではあるものの、パチンコ台のように苦しみも、人によっては味わっています。ツール・パチンコ台はそれが仕事であったり、恋愛や人間関係であったりするとも言えます。

パチンコのお客が時には自分でもわかっていながら、傍目から見るとおかしな行動を取ってしまうのは、やはりその遊技が現実的な「お金」というものにからんでいるからです。

自分の生活に関わるもっとも明確な形のエネルギーであるので、皆、その獲得や喪失で一喜一憂し、必死になるわけです。単に景品が商品だけでしたら、そこまで依存したり、事件になったりはしないでしょう。

これと同様に、私たちの現実世界でも「お金」というものに多くの人が支配されていますし、その多寡、獲得・喪失で翻弄されています。

もっといえば生活基盤や生活満足のもとがお金になっているということです。結局、パチンコと同様、お金のあるなし、獲得と喪失のゲームに参加し、一喜一憂していると言えましょう。

またパチンコと同じように、ある確定した原理がありながら、それがわからず、あるいは気づいていても、演出に振り回されてしまうように、私たちは起こる現象にただ喜怒哀楽を示し、流れるままに生かされているような感じです。

現実世界でも、パチンコの遊技者と同様、おまじないしたり、神頼みしたり、奇妙なことを盲目的に信じたりしています。パチンコは店から出ることができますが、現実世界は出ることができません。

私たちは無知なお客になったり、ゲームの演出に無自覚に振り回されたりしていてはまずいことがわかります。

パチンコでトータルで勝つ人はまれです。ほとんどの人が最初は勝っても、つまるところ、負けてお金がなくなっていきます。ただ、勝ち方はあるとも言われています。バチプロなる人も実際に存在します。しかし、勝ったところで、それは本当の勝利者と言えるのかどうか、この点は重要です。(マルセイユタロットの「戦車」と関連)

現実世界(スピリチュアル的な意味)で、パチンコのお店に該当するものが何で、そのお店を経営し、許可している大元が何かはあえてここではふれません。皆さんで考えてみてください。

そもそ外国人から見ても、一斉に同じような台に向かって黙々とお金を投入し長時間遊ぶ姿は、何かの工場作業員をイメージさせるようで、とても奇妙なようです。

私自身、パチンコに興じている人の姿を見て、本当に愕然とし、恐怖しました。それはもちろんパチンコそのものへの恐怖ではなく、自分も含めて、私たちの多くが奴隷のように生きている(生かされている)のではないかという恐怖です。

それはまさに、マルセイユタロットで描かれているグノーシス的な思想と重なってくるものでした。

ということで、最後でやっとタロットが出てきましたが、残念ながら、この話は、このあたりで終了といたします。ま、打ち止めということですね。(笑) あんまり語りすぎるのもいけませんので。


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