スピリチュアル
20 「審判」 この日に思う
マルセイユタロットには「20」の数を持つ「審判」というカードがあります。
私は単純にタロットと数を結びつけるのは問題がある(タロットと数は無関係ではもちろんありませんが)とする考えをもっていますが、今回はたとえこじつけでも、意味を深められる可能性があるとして、「審判」と20の数を、あえて取り上げます。
と言いますのは、今日は1.17なのです。この日はあの、阪神淡路大震災が発生した日であり、被害に遭われた方、関係者を亡くされた方には、本当に特別な日です。
そして、今年はあれから20年に当たります。皆さん、様々な思いがあることでしょう。
ここで「20」という数を持つマルセイユタロットの「審判」を取り上げたのも、、20年という数の偶然もありますが、何よりもその図像の関係性です。
マルセイユ版の「審判」のカードは以下のようなもので、絵柄は天使と(聖)家族の姿で描かれています。
それは人々がまるで天に祈っているかのようにも見えますし、人が昇天しようとして、天使が祝福を与えているようにも見えます。
マルセイユタロットでは「運命の輪」というカードが持つ「10」の倍の数となって運命を乗り越え、「20」の「審判」で自身と次元が変容する様を象徴しているところもあります。
運命に振り回されてきた感のある「運命の輪」10年間くらいの状態から、「審判」というカードを見ていると、生きている人も亡くなられた方も、20年経過して、何かのレベルが上昇していく様のようにも思えます。
個人的な話になりますが、たくさんの方々が亡くなられたあの地震ではありますが、逆に私は地震によって生かされたところがあります。(詳しい経緯は省きます)
このように、地震の経験は大きな意味では共通ですが、一人一人実は違います。
肉親の方が亡くなられてずっとつらい思いをして、ご自分を責め続けている方もいらっしゃると思いますし、命救われて、恩返しの意味も込め、人一倍前向きに生きて来た方もいらっしゃるでしょう。
一人一人の経験と思いを、他人が本当の意味で理解することはできません。
しかし、一人ではどうしよもなかった思いも、同じ体験をした方々と分かち合うことで、苦しみが軽減されたり、生きる力を取り戻したりすることもあります。
また、救助に当たった人、ドクターやカウンセラー、ボランティアの方々・・物質的経済的に援助をされて来た方など、様々な「他人」によって救われきた部分もあるはずです。
そしてさらには、国や地方公共団体(公)、さらには各国など地球規模での援助、支援もあったことでしょう。
究極的には、おそらく、目に見えない力(宇宙や神のような次元からのもの)も受けていると思います。
個人個人の思いは先ほども述べたように、他人にはわかりませんし、一人一人の人生はその人自身のもので、他人がとやかくは言えません。
しかし、やはり人は一人では生きていないのです。災害時だけではなく、普段でも実は助け合って、支え合って生きていると言えます。
自分一人では救えない時は、他人や組織、最後は地球・宇宙的な範囲まで広げていくと救いがもたらされることがあります。
タロットに戻りますと、「審判」には天使が描かれていますが、ほかのカードに救済の意味を持つ「節制」というものがあり、これはまさに救いの天使の姿が中心に描写されています。
つまりは、タロットにおける「天使」の象徴は、救済的意味合いもあると考えられ(メインの意味はほかにもありますが)、私はこれを観音力のようなものと考えています。
20年を祈念する地震の報道でも、災害時における「自助」「互助」「公助」ということが言われていました。
まず自分を助ける備え、次に地域や身近な人が相互に支えられる助け合い的な普段からの活動、最後には制度や支援・仕組みなど、公による救済システムが求められるわけです。
スピリチュアル的なことで言えば、自らの観音力、関係の観音力、全体の観音力の発動と連繋だとも言えます。
「観音」も「仏」のひとつの表現と考えるならば、これを西洋のタロット風に言えば「天使」となり、それは神の一表現ということになるでしょう。
とすれば、自らを助けるためには、自らの神(仏)を目覚めさせることが重要だということです。
これもこじつけかもしれませんが、「地震」という響きが、自神(じしん)ということに変換されるように感じます。
先頃の東日本大震災でも、多くの尊い命が奪われました。
今、私たちは、自らの(内なる)神をもっと思い、目覚めさせる時期に来ているのではないでしょうか。
自神が現れる時、それは本当の意味での自身と自信にもなるのです。
一人では無理な時、協力してくれる人や自分に手を差し伸べてくれる人たちは、きっと周囲にいるはずですし、宇宙規模ではいつもあなたのそばに天使はいるでしょう。
一人だけで必死で頑張るのではなく、また自分の欲望だけを満たそうとわがままになるのではなく、時に人に任せ信頼し、時に自身(自神)を思って奮い立ち、自らをしっかりと生きることが重要だと改めて思います。
といっても、別に使命とか天命とか、特別なものがなくてもよいのです。また生きる意味がどんなものであっても、それは個人の自由でしょう。
喜怒哀楽含め、あなたが生きる実感を伴い、「ああ、地に人に天に生きている、生かされていると」思えれば、それでよいような気がしています。
神社仏閣の参拝における本質システム
常識的には新年になって、初詣で皆さん神社などに参拝されると思います。
ですが年末に一年に感謝の意味を込めて、参拝されるのもよいと思います。
そして何も遠くの、それこそパワースポットなんかに行かなくても(楽しみながら旅行的に行くのもありですが)、近所の神社でもそれは可能です。
ここで、私は神様うんぬんの話をしたいわけではありません。(個人的には無神論者というわけではありませんが)
参拝する、その機能的な意味について考えてみたいのです。
日本の神社の場合は、ご神体が「鏡」になっていることがほとんどでしょう。これには諸説ありますが、参拝者の自分自身を映し出す「鏡」となっているという話があります。
つまりは、自分自身がご神体になるわけですね。
マルセイユタロットは神性を回復するさせるための神聖ツールであるという立場を取る私としては、人に神性が宿ることは実感としてあり、日本の神社の、この鏡ご神体システムは見事だと思わせることがあります。
たとえそこに神なるものがおわすかどうかは別としましても、心理的に考えますと、少なくとも一年に一度(以上)は、たいていの人は神社に参拝いたしますので、自らを鏡によって振り返っていることになります。
ただし、それを意識する必要はあるでしょう。しかし、意識していなくても、日本人ならば、神社に参るという一連の行為が、神聖さを強くイメージさせ、そうした超越的なものに敬意を払うという仕組みが自然にできるようになっていると言えます。
最低でも、神社に参ることで、日常的な意識とは別の意識でその場にいる経験をすることになります。
この意識の「聖なる」ものへの切り替えシステムが、非常に大切だと私は考えています。これは精神的(霊的)リセット機能でもあるからです。
ということは、あまり雑多な状態で参るより、静かな環境や気持ちになれる場所・時間帯のほうがよいのかもしれません。
それでも、たくさんの人が訪れる初詣であっても、お社の前に来て、手を合わせて祈る時、誰しも敬虔な気持ちになっているでしょう。この瞬間だけは、日常的な意識のままでいる人はとても少ないと言えます。
このように見ると、神社やお寺の参拝自体が、一瞬であっても、自分の純粋な魂や神性(仏性)にふれさせる機能が働くよう設定されていることがわかります。
それは大変有り難い話です。
楽しく友人やパートナーと一緒に参拝するのもよいのですが、参拝が自分を振り返る自動システムになっているようなものですので、いっそのこと、もっと自己を省みることに徹し、境内に入る時から、列に並んでいる時から、一年を回想し、新年に新たな思いを結び直してみるのもよいでしょう。
すると、人によってはあまりよくない年で苦労ばかりの時であったかもしれませんが、ふと、どこかに救済があったこと、飛躍や脱出のチャンスがあったこと、大変なだからこそ味わいのある年だったことに気がつくかもしれません。
反対に充実した年を体験した人は、万事順調だったわけではなく、誰かの手助けや幸運とも思えるようなことがあったことを思い出すでしょう。
「ああ、やはり人生捨てたもんじゃないな」とか、「自分に神(性)や仏(性)はあるのだろうな」とか、少しでも感じられたら幸いです。
参拝して神や仏にすがるのではなく、すでに自分や自分の人生には在るといことに気がつくのが真の参拝であり、その報告をして幸せになるのが一連の儀式とシステムと言えます。
さて、今年一年、時々や偶然でもブログをお読みいただき、ありがとうございました。ご縁に感謝いたします。
なお、来年は1/3から記事をアップする予定です。
皆様、どうぞ、よいお年をお迎えください。
僕(私)なりの愛ですよ。
ちょっと前の(原作付)アニメになりますが、「四畳半神話体系」という作品があります。
※ややネタバレになりますので、この先は読むのに注意してください。
この作品は、京都の大学生の主人公が、自分のキャンパスライフをバラ色にすべく、満足行かなかった生活を何度も時間遡行してループするという物語です。
時間を巻き戻すというより、別々の並行世界(パラレルワールド)を、ある地点(時点)からやり直すというのが正しいかもしれません。
結局、何度やっても納得行かなかった主人公は、とうとう四畳半に引きこもる(これがタイトルの意味にも関係していきます)という生活パターンを選んでしまうのですが、最終的にはそのことにより、大きな示唆を得ることになります。
ところで、毎度毎度、どの人生パターンを選んでも、登場してくる重要な人物は同じで、特に主人公に、まさしく悪魔のように関わってくる友人がいます。
主人公は彼のことを、いろいろと自分をそそのかして、キャンパスライフを台無しにしてくれる悪友だと見ています。彼さえいなければ、まともな大学生活が送れるのに・・・とさえ思っています。
しかし、友人はどの人生パターンにおいても主人公に強引なくらい関わって来て、主人公が、「なぜ俺にそんなこだわる(関わる)んだ」と文句をを言っても、「僕なりの愛ですよ」とにやにや笑うだけです。
この悪友のセリフが、ラストシーンでは極めて重要なものとして活きるところが、このアニメの真骨頂でもあります。
※ここからは本当にネタバレですので、興味のあ人は、アニメを観てから読んでください。アニメとは関係なく、ただ今回のブログ記事の趣旨を読みたい人は、このあと途中読み飛ばして▼印のところから読み始めてください。
あとで主人公は、不満足でくだらないキャンパスライフを過ごしてしまったと思った自分の人生経験が、実はとてもすばらしい恩恵に満ちたものであったことを知ります。
特にあの悪友がいたらこそ、自分の人生が充実していたものであったことに気づくわけです。つまり、悪魔が天使であったことを知るのですね。
しかも悪友の顔が、悪友と思っていた時は、アニメでも本当に悪魔みたいな顔に描かれているのですが、最後に主人公が彼の真の姿を知った時、というより、彼に対する認識が変わった時、友人の顔もまともな、むしろかわいらしい顔に変容します。
言ってみれば、主人公が思い、認識してた姿(像)がまさに彼の体験していた世界であり、彼の信じていた通りのものがそのまま見えていたというわけなのです。
このアニメの描くところは、タロットや精神世界でもよく語られる内容を面白く、わかりやすく伝えているように感じます。
▼どんな苦しみや悲しみ、あるいは喜びも嬉しさも、様々なものが用意されている世界設定がなければ味わうことができません。
特に人間と感情は重要なファクターです。
中にはあなたにとってひどいと思う人もいるかもしれませんが、みんな役割があり、悪魔のようでいて天使でもあるのです。
彼ら彼女らがいるからこそ、大局的な意味で、楽しい人生経験が送ることができているのです。
そのことは現実に今まさに経験している最中には、なかなか気づくことができません。
おそらく、死後私たちはそのことにすべて気がつかされるのでしょう。
よく言われるように、それは総合的な視点(相手側の感情や見方などが入るもの)も得て、人生を振り返ることができるからではないかと考えられます。
仏や神という存在概念は、多様性や同時性というものが挙げられます。同時にいろいろなレベルやパターンで存在することができ、また、同時にあらゆるものの知覚を認識することができるというものです。
つまり、一でありながら多でもあり、その逆も真です。
私たちは亡くなると仏様と呼ばれるように、たぶん、この同時知覚、一であり多である感覚を神レベルの完全とは行かないまでも、得ることができるのではないかと推測されます。
そのため、自分が経験してきた人生を瞬間的かつ、同時的に(どの時代にも存在すること)、また多様的(あらゆる人物の思い・角度的)に体験し直すことになり、自分だけで見てきたものが、いかに偏りがあり、狭量なものであったのかを悟ることになると想像できます。
結局のところ、人生のあらゆる経験・体験が、すべて神(言ってみれば自分自身)からのプレゼントであったことに気づくことになるのでしょう。
しかしながら、何も死後まで待つ必要もないと思われます。
マルセイユタロットは生きながらにして、死後体験するであろうことを認識させる手段が描かれていると言われています。
今までの説明からしましても、その鍵は俯瞰した見方と多様なものの見方(感じ方でもある)にあると言えます。
また一方で、客観的に人生を見るようなものとは反対の、その時その時に集中する力や熱中性も必要かと思います。
そうでなければ、ただ冷徹な人生観しか得られないことになり、感情は入らず、本当の意味で楽しい経験をすることができません。(輪廻転生説を取り入れるとすれば、私たちが過去生を忘却して生まれる理由もここにあると、ひとつには考えられます)
こうして人生を過ごしていく時、あらゆるものが「僕・私(それは自分自身)なりの愛ですよ」とわかってきて、世の中は結局は「愛」なのだという結論になるわけです。(笑)
そう思うと、どんな選択も自分の愛であり、間違いということはなく、迷っていても楽になるでしょう。
ロールプレイングゲームと人生
皆さんはロールプレイングゲームというものをしたことがあるでしょうか?
ゲーム好きな人は当たり前のようにされているでしょうが、ゲームをやらない人には何それ?と思うかもしれません。
私も昔はゲームをしていた時もありますが、今はゲームをしませんので、最近のそれがどんなものかはわかりません。
たぶん、相当複雑で映像や動画もすごいことになっているのでしょうし、ほかの人(の作るキャラクター)とも交流しながらだというのも普通にあると思います。
さて、このロールプレイングゲーム、実は結構私たちの世界の仕組みを、単純にモデル化したものではないかと思うことがあります。
ゲームを進行していく時、最初は自分の選択するキャラクター単独であっても、やがてパーティーと言って仲間や組を作らねばならず、そうしないと敵を倒したり、イベント(事件)に対応したりすることが難しくなります。
その仲間も、それぞれが得意技と弱点を持っており、要するに、長所短所があるわけです。場面やシーンによっては、短所と思っていたのが長所になることもあれば、その逆もあります。
さらにはみんな個性があって、それがゲームをクリアーするためには必要な能力であったり性質であったりします。ある意味、全員ゲームにとっては必要な人と言えます。
とにかくゲーム者は自分のキャラを中心に、そういった仲間や組の人たちの特質も把握しながら、うまくゲームを進行していかなくてはなりません。
また、ロールプレイングゲームの面白いところは、何かのイベント発生や武器・秘密アイテムを手に入れるには、特殊な条件をクリアーしないといけなかったり、ある品物を入手する必要があったり、決められた場所に所定のタイミングで行かないといけなかったりと、条件が様々にちりばめられています。
そしてその条件の選択とイベントの発生具合によって、ゲームの流れがそれぞれ枝分かれしてきて、過程はもちろん、最終結果まで変わることがあります。
こう見ると、ゲームの世界はまるで私たちの人生そのものと言えましょう。
出会う人も違えば、起こるタイミング、経験したことの様々な種類によって、発生する事件も変わってきますし、プロセスと結果も違ってくる、人生と同じです。
あることを起こす(あることが起こる)には、あるものと、ある人と、ある所と、あるタイミングが結びつかないと生じない・・・ひとつでも異なると、また別のイベントや体験が起こる仕組み(仕掛け)になっている・・・と見ると、一人一人の人生と重ね合わせることができます。
ところでゲームにはゲーム世界のルール・設定があります。そのルールからはずれたことは起こりません。まあ、これはゲームの場合は制作者のプログラミングと世界観ということになるでしょう。
このゲームのルールやブログロムに当たるのが、まさに神や宇宙のルール・法則と言ってもいいでしょう。
ところが、ゲームとは違う点があります。それがマルセイユタロットなどに伝えられている内容であり、古代では普遍的に伝承されている「人は神性を持つ存在である」ということ、もっと究極的に言えば、「人は神(になれる存在)である」ということです。
ということは、自分自身がゲームの枠・ルールを超えてその世界から脱することもできれば、ゲーム内のルールを自分で変えることも可能なわけです。
ただし、ほとんどの人は自分がゲームをしていることすら自覚していません。自覚(覚醒といえます)しなければ、ルールを変えることも不可能です。
多くの人は、いわば自分が作ったゲームの中に分身として入り込み、その制約やルール(これも演出道具として自分が創っている)のもとでゲームに熱中するあまり、自分がゲームの制作者であることも忘れてしまっている状態と言えましょう。
家の子供のように、おかーちゃん(笑)から「あんた、いつまでゲームやってんの!」と怒られることもないので、ずっとゲームをしたままです。
しかしこのおかーちゃんは、実は女神としてあなたに声かけしてくれているのですが、子供(私たち)は「うるさいなあ」と耳栓をしているので、聞こえない状態です。(ギャグのようですが、古代伝承的には非常に重要な例えをしています。
さて、今回はこのゲーム脱出の話がメインではありません。(脱出の話はグノーシスと関係し、マルセイユタロットの真髄になります)
多くの人はゲームへの脱出より、ゲームの得点を上げたり、ゲームを盛り上げたりすることに力を入れます。
そういうシステムなので、それも仕方ないと言いますか、ある目的のこともあるので、悪いことではないと思います。
前のほうの文章で、ロールプレイングゲームのイベント発生の仕組みについて述べました。
これが、この人生というゲームを面白くしたり、自分にとってスムースに進めたりするためのヒントになる気がします。
イベント発生にはある条件が整う必要があると言いました。
ということは、逆にいえば条件が整えばイベントは発生し、そして整うまではやはり発生しないことになります。
またもし条件がわかれば、イベントは意図的に、また促進的に発生させることができることになります。
ここから考えて、条件がわからない時は、数打ちゃ当たる方式で行うか、自分が経験したイベントを、すでに発生させている人から条件や道筋を聞くかということが有効な方法として思いつきます。
前者はとにかく興味を持ったことにはどんどんチャレンジしていくということになりますし、後者は先人の教えや経験者、知恵者から話を聞いたり学んだりするということにるかもしれません。
またタイミングというプログラムもされていますので、物や人の条件が整っても、時期が合わなければ発生しないこともあります。ですから、タイミングということも重要です。
物事が起こったり、成果が出たりするまでに、それなりの時期が必要なのだと見ると、あせらずにすみます。
それから時々、ゲームの中には重要な示唆を与える占い師のような人や、お告げを与える託宣者のような人物も出ることがあります。
その人の言うことが全部正しいとは限りませんが(詐欺師や惑わす人もゲームには登場します)、象徴的に極めて重要なことを述べている場合があります。
それどころか、ゲーム自体の秘密に関係していることもあります。
そしてゲームでは、何回挑戦しても敗れてしまう相手とか、うまく行かない事件とかがあります。
その場合、たいていゲーム者があせっています。まるでギャンブル中毒の人のように、今度こそと思って、同じ方法でやってしまい、また負けてしまうわけです。
こういうものをクリアーしたい場合、冷静に相手や敵を分析し、攻略本みたいなものも読み、相手を倒す弱点を知ったり、武器・アイテムを入手しなくてはなりません。
感情的になればなるほどクリアーは遠のきます。
とはいえ、何度も繰り返している内に、経験ポイントがあがったり、それなりに戦い方も慣れたりはします。
そして、ある時にふとクリティカルヒットを叩き込むことができる場合があります。
ゲームでは敵に負けるとライフポイントがゼロになってゲームのキャラは死ぬわけですが、ゲームなので、もちろんゲームをしている人が死ぬのではなく、セーブしたデータのところからやり直しとなります。
人生ではこれが輪廻転生と想像できるかもしれません。
何度も同じパターンをクリアーしようとチャレンジしているわけです。けれどもゲーム同様、まったく同じ戦法ではまたやられてしまうかもしれません。
きっとあなたの中には、今現実に困難なことでも、どこかに何度も過去生のようなもので挑戦してきたその記憶が残っており、経験値とともに、今生での冷静な対応、効果的な方策によっては、乗り越えるべきことも可能だと思われます。
ヒントは今生で感じる「イレギュラーな」出来事にあると言えましょう。
いずれにしましても、人生をロールプレイングゲームのように象徴として見ることで、意外な視点や打開策を見つけ出すことができるかもしれません。
ロールプレイングゲームはあくまでひとつの提案に過ぎません。つまりは人生を俯瞰するという視点を獲得してみましょうと言っているのであり、それは別にゲームでなくても何でもよいのです。
私もマルセイユタロットをしてきたおかげで、ゲームともリンクさせることができているのですから。
自分が信じたものの力
スピリチュアルな世界では、自分の信じた通りに自分が世界を創造するという説があります。
私自身は、そう思う部分と、全部がそうとも言い切れない部分もあると考えています。
何事も極端にひとつのことで説明仕切れないという立場なのですが、原理としては究極的にはありうる話だとも思っています。
あくまで究極的に・・ということなので、現実の表現レベルで見るとなかなか難しく、たとえ原理的にそうであっても、そう気づけない仕組みもあり、ストレートに表されるような仕掛けにはなっていないと見ています。
しかしながら、心理的にも、信じることは自分の価値観に反映されますので、信じたものの世界でありたい、信じた形になってほしいという思いから、信じたものをデータとして切り取って見てしまうということはあると思えます。
そうなると、自分の世界観がイコール実際の世界とはいえないまでも、世界そのものに近くなってしまうこともあるでしょう。
もしこれをタロットとか占い・セラピーの技術の世界まで適用すると、自分の信じた技術や世界観がそのまま力にもなるということです。
逆にいえば、自分の信じないものは効果も出にくく当たりにくいですし、自分がその技法を提供しても、他人を納得させることは難しいと言えます。
つまりは自分が信頼し、確信を持てば持つほど、人への影響力を持つということです。
セラピーや占いの技術が未熟だから人を癒せない、鑑定できないという場合ももちろんありますが、提供する自分自身がまだそれに対して信頼を覚えていない、確信が持てないということもあるのです。
まあ、経験不足・技量不足だからこそ、まだ十分に確信に至らないという、当たり前のリンクもあるわけですが。
誰がやっても普遍的に、または同じ再現性の効果があるというのであれば、かなりその技法は客観性と科学性を持ちますが、心の世界を扱うものでは、目に見えない分野だけに、なかなかそうはいかないのが現実です。
従って、どうしても信じること、というのが鍵となってくるのです。
信じるためには、自分がその技法やツールに対して、興味があったり、好きであったり、愛があったりすることが必要でしょう。
それらがなくても信じることはできますが、興味がなかったり、嫌いなものだったりするものに対して、なかなか信頼を置くことは難しいはずです。
要するに、人様に何か提供するもので、影響を及ぼすものには、自分の中でそれに対する厚い信頼や愛があると効果が出やすい(力を持ちやすい)ということです。
そういうことでは、対象(技法やツール)と自分との相性も無視できません。
「好きこそものの上手なれ」といわれるように、学んだり、身につけたりする過程で、ワクワクしたり、やっていて楽しいと思えたり、喜びを感じたりする気持ちがとても重要です。
もちろんその過程で苦しみや困難さもあるでしょうが、苦痛ばかり感じる、違和感ばかり覚えるというのでは、信頼と愛をそれに対して向けることもできず、結局、力を得ることもできにくくなります。
私の場合もマルセイユタロットが好きというのがもともとあり、これを信じる気持ちがとても強いので、マルセイユタロットが効果的な力を持つとも言えますし、その世界(マルセイユタロットが示す世界)が納得できるようなものを自分に見せてくれる状況になっているとも言えます。
自分が信じたものがその世界になるというわけでもありますが、もうひとつの考えとして、自分がその対象の表す世界を信じる事を選択するという縁、自分の中にあるそれを引きつける何かとの相性もあるということであり、そう思うと、信じるものとの出会いもなかなか興味深いわけです。
さて、あなたはどんなものと出会い、その世界を信じることになるでしょうか。
あなたが信じたものは、自分のパワーを仮託したもの(分身)となり、自分や人を変えるツールともなるのです。
昔の武士の刀も物理的な切れ味や刀術によるところもあると思いますが、おそらくそのような持ち主の信頼による力の発揮もあったかと想像できます。
まるで漫画やアニメみたいな話ではありますが、タロットを扱っていると、そういうこともあると実際に思えてきます。