スピリチュアル

自分らしい成功

最近はスピリチュアル・心理系の方々から、自分の中の妬みや嫉妬、自分が認められないことへの反感、拗ね、そして自分の中にあるブロック・抵抗といったものがよく取り上げられています。

そして、自分が幸せになれない要因は、それらに多くあると力説される方も増えてきました。

それはまさしく、「その通り」と当てはまる人も多いのではないかと思いますし、私も一面は賛成する部分があります。

ともあれ、自分の中の「自分」というものを見つめたり、調べたりするような傾向が多くなってきたのは、実はよいことかもしれません。

一昔前は、自分の中のいろいろな自分が存在するという概念さえ、心理に関心のある一部の人や、スピリチュアルなことを学んでいる人くらいしか、それほど語られなかったのですから。

とはいえ、何事も行き過ぎやひとつのことだけに視野を絞ってしまうのは危険でもあり、問題となる場合があります。

どうも、今は、それに強い関心が集まりすぎている気が私にはします。

自分がうまく行かないのも、幸せになれないのもすべて自分の中のブロックが原因だといわんばかりです。

あまつさえ、成功していない人は、すべて中に問題を抱えている、ブロックや妬みがあると言う人さえいます。(誰も問題のない人など、いないのですし、究極的には実は誰も問題ではないのです)

そしてその成功観念が、ほとんどの場合、「お金のあるなし(多寡)」「自分の好きなことで稼いでいるかどうか」という観点になっていることにも危険性を感じます。

世の中や宇宙の仕組みの本質(根源)はシンプルなものと考えられますが、それらが現実世界において表現される時、いろいろな要素に分かれ、個別性を持ってきますので、事はそう単純なものではありません。

つまり、一人一人状況や事情は異なるということです。

自分が何かに妬んでいるから、ブロックをかけているから成功しないんだというのは、本質的にはその通りかもしれませんが、現象や表現としては一般的に言われていることとは別の場合もあります。

すでに自分の妬みやブロックが何なのかを知った上でも、それでも疑念が出たり、うまくいかなかったり、もっと奥深いものも存在したりします。

派手にうまく行っている人や成功者の言葉はすべて正しいと思うのも危険です。

もちろん正しいこともあるでしょうし、自分がその人をモデルにしたい場合は、見習ったり、言動を参考にしたりすることは有意義でしょう。

しかし、自分の魂の望む本当の「成功」というものは、その方達が表現している「成功」の形なのかどうか、精査してみる必要もあります。

その時、おそらくあなたは対象の人やその方の成功表現に、何らかの違和感を覚えるでしょう。

ただ、相手の方からすれば、あなたの違和感は「あなたを成功させようとしないブロックだ」と言われると思います。

相手が成功していたり、幸せな人生を歩んでいるように見えるたりする人ならば、あなたはその人から言われたことは正しく、自分が間違っていると思うかもしれません。それは相手(の価値)を高く見て、自分(の価値)を卑下しているからでもあります。

けれども、さきほど、述べたように、あなたの魂が望む本当の成功というものが、それらの人の成功表現とは異なる場合もあるのです。いやむしろ、個別性を持つ現実世界だからこそ、違っていて当たり前とも言えます。

その人の具体的な表現を真似したり、あこがれたりするのではなく、その方がその人らしく表現できているというその本質を成功だと見たほうがよいです。

となれば、あなたらしい成功というのは、お金をたくさん稼いだり、誰もがうらやむ生活ができたり、好きな仕事を自由にできたりすることとは限らないこともあり得ます。

これは清貧主義になれとか、お金を持つこを否定したりとか、そういうことを言っているのはでまったくありません。

これを言えば、多くの人は頭がおかしいのではないかと思われるかもしれませんが、人間の自由は、「幸せでなくてもよい」ということさえ、選ぶ自由があるのです。

いいですか、これはよく言われるような、心のブロックが自分の幸せを阻害している、幸せになりたくないというビリーフや信念があって、それが実際に自分を不幸の状態に留まらせているという潜在意識的選択のことを言っているのではありません。

それらのことを克服(認識)したうえで、それでもあえて幸せを選択しない道を選ぶことも、人間の自由にはあるということです。

まあ、ただここでいう幸せが一般的な概念での「幸せ」なので、幸せを選ばない自由を満喫する幸せということであれば、結局は誰もが自分の思う幸せを志向していると言えるのですが。(笑)

とにかく、自分らしくは幸せの基本ではありますが、その自分らしくは案外本当は誤解されたり、わかっていなかったり、モデルや一般的成功者の信条や生活様式であったりと、「人のものである」ことが多いのです。

情報に踊らされていると、自分らしくを表現して行っているつもりが、いつの間にかそれは、洗脳者側の「洗脳者から思う、なってほしい奴隷らしいあなた(笑)」ということになっていることもあるので、よくよく考えないといけないですよと、ちょっとだけ警告する話をしてみたわけです。


常識と常識外 一般人の覚醒 その2

前回の続きとなります。

この前は、まじめで普通に生きる一般人の覚醒はどうすりゃいいんだ? てな話で終わったと思います。

一方、変わり者は簡単に常識外になれるので、覚醒しやすいように見えますが、実は大きな枠組みでは「覚醒したかのような役割」を演じさせられていることもあるんですよ、みたいなことも書きました。

さて、普通の人が常識外へ移行していく(この場合、それが気づきや覚醒と同意義になります)には、安全策を取ったほうがいいと私は思っています。

まあ、一気にブレイクというのもいいんですが、普通人だからこそ、その方法にはなじめなかったり、危険になったりするんですね。

意外にまじめな人ほど、突如暴走したがるものです。古いですが、アニメ「エヴァンゲリオン」の当初のシンジ君みたいものです。(笑)

「崖から飛び降りてみろ!」(実は命は落とすことはない飛び降りと仮定します)と言われたところで、臆病者(普通人)はなかなかできませんし、できたとしてもおっかなびっくりなので、本当は安全な姿勢があるのに、緊張したまま飛び降りるから、本当に事故ってしまうようなものと言えます。

ということで、ゆっくりと、しかし少しずつ確実に気づきを増やしていく方法を提案したいのです。

それは簡単に言えば、常識と非常識の境目・断層に片足だけ突っ込んでみる(笑)というやり方です。

この世の中で、いわゆる常識や当たり前、怪しまれない生き方や方法というのがあるとすれば、その逆も当然あるわけです。

例えば、『私は「占い」に頼ることをしている』なんて言えば、普通の人は「ちょっと怪しいんじゃないの」とか「依存させられているよ、この人」とか思うでしょう。(苦笑)

しかし、現実に占い師はたくさんいますし、占いのお店やインターネットの占いサイトは山のようにあります。

また企業の社長さんが、もっともらくし、マーケティング理論や調査からはじき出した策を選ぶようでいて、最終的に迷ったら占いに頼るみたいなことは、影で多いものです。

そう、「占い」というのは、この場合、常識と非常期の境目に位置するものだと考えられます。

実はこうしたものこそ、日常を超えた意識や見方の獲得(言ってみれば「覚醒」)に移行しやすい通路となっているのです。

しかし巧妙に仕組まれている部分もあるので、どっぷり「占い」に浸かったり(それこそ占い依存症)、逆に一度は占いをやってみたものの、「信用できない」と、また元の常識の世界に戻ってしまったりすると、覚醒を目的とした場合は、まったく意味がなくなってきます。

ここで重要なのは、日常の世界・常識の世界において、ちょっとだけ非常識であったり、変わったことになったりしている世界を体験してみる、覗いてみるという精神と行動です。

疑いと信頼の逆転です。いつも疑っていること、怪しいと思っていることを、ちょっとだけでも信頼してみる、反対に、いつもは信頼しているもの、当たり前だと思っているものを少し疑うわけです。

非常識と言っても、まったくの空想や実在していない世界に足を踏み入れてはいけません。常識であれ、非常識であれ、「実存すること」 これが大切なのです。

※「映像や二次元表現は、空想ではあっても、それ自体、現実世界に表現されて、誰でも「見る」ことができますので、実存している言えます。

「占い」によって、別の世界があることを体験する、理解する、そうして自分を占い(世界)モードでも遊べる「私」というものを自覚させて行きます。そういう自分を創造すると言ってもいいでしょう。

しかし、完全に占いにはまるのではなく、普通の日常の世界とその常識の中で生きる自分も重要視します。

こうして、普通の世界と占いの世界を行ったり来たりして楽しむと、タロットで言う「愚者」の架け橋ができあがってきます。

すると、常識と思っていた世界に揺らぎが生じ、本当に不思議な気分になってくるでしょう。

ただこの状態は危険な時でもあるので、それぞれの仲間(日常の友人、占いの話が通じる世界の友人)うちで自分を保つ(孤独ではないことを実感する、どちらにも居場所があることを確認しておく)ことです。

「占い」を例にしましたが、もちろん、ほかのことでもいいのです。

ポイントは、さきほども言いましたように、常識と非常識の狭間にあるものの経験であり、特に非常識なものは、非常識であっても実存する(実際に存在している、表現されている)ものでないとならないということです。

こうして、私たちはゆっくりと、安全に、別意識や別世界を体験していくことができ、隠されたものにくさびを打ち込むことができてきます。

まあ、それでも、本当の覚醒ではないですし、その小さな気づきと覚醒の積み重ねが大切になってくると言えます。


常識と常識外 一般人の覚醒

マルセイユタロットでいえば、気づくこと、いえ気がつかなければならないことは、カードの数だけあると言えます。

なぜならば、タロットが世界や宇宙の象徴だと考えられるからです。

カードは重要なパートで22枚、全体では78枚もありますから、少なく見積もっても22、全部では78もの気づきが必要なことになります。

しかもタロットは象徴なので、厳密にはこの数で収まるものではありません。

従って、ひとつやふたつ気付いたからと言って、やはり次の気づきのための葛藤や悩み、疑問、カウンター、アンチが起こってくるのが普通だと思えます。

「ああ、これですべてわかった、気付いた」「もう絶対ずっと幸せ~」なんてことは一時的にはあるかもしれませんが、おそらく幻想だと私は考えています。

ただし、マルセイユタロットをはじめ、古代の象徴体系を見ていくと、ある種の真っ当な気づき(覚醒といってもよい)のプロセス・過程があり、それから逸れていなければ、ある段階に達した到達感・境地というのはあるとも思っています。(先があることがたとえわかっていたとしても)

気づきや覚醒のための重要なカードは、マルセイユタロットにおいては、まずは「愚者」だと言えます。

ともかくも「愚者」になることが鍵を握ります。

簡単にいえば「常識からはずれていくこと」を意味しますが、とはいえ、まったく非常識になれとか、バカな行動を取らなくてはならないとか、そいうことでもありません。

言葉で表せば簡単ですが、あなたの過去から現在における(時には未来も)「常識を疑え」ということになろうかと思います。

何度も言いますが、「常識を疑う」ということは、窓ガラス壊したり、信号無視したりしてバイクで暴走して、「オレかっこいい」という日常の規則やルールを破った自分に悦に入る、自分は人とは違うんだと傲慢になるという意味ではありません。

それでもよいケースもあるにはありますが、これは逆効果なのです。

人とは違って目立ったことをすれば常識外の人間になって、常識を疑った私はかっこいい、成功したというような気持ちになりますが、それこそが罠というか大きな仕組みの中のことでもあります。

非常識な存在があって常識より面白くなり、さらに、その非常識な者が、より大きな常識の世界の貢献者となるからです。

何を言っているのかわからないかもしれませんが、みんなが同じで同じ方法でないとうまく行かないとなっていたら、まさに完璧に動きのない世界になってしまいます。

しかし一見、合意のルールや規則・社会からはずれた考えや行動でも、存在として際立つという抜け道のようなものを残しておくと、それはそれで高度な意味で完璧で完全な世界と言えます。

いわば、孫悟空がこの世の果てまで行って「やったぞ!」と得意気に話しても、実はお釈迦様の手の平で踊っていたに過ぎないというニュアンスに近いことです。お釈迦様からしたら、孫悟空も常識の存在です。

孫悟空のような、一般レベルの常識では許されないような存在でも、大きな意味での「常識」の世界からすれば許容される存在なのです。

もっといえば、常識があれば必ず非常識があり、非常識は一度多くの人に認識されると、その瞬間常識になり、同時にその世界(常識の世界)は拡大するというものです。

つまり、はぐれ者、異端者も常識を拡大させるために意図した役割を演じさせられていることになります。だから、変わったことをして成功したり、目立ったりしたところで、それは常識外という常識でもあるのです。

まあ、それがやりたい人はやればいいでしょうし、自分が気がついていなくても、そういう役割になる人は必ずどんな世界でも、いつの時代でもいるものです。適性とか、役割として選ばれた人(自分で選ぶことも可能ですが)と言えましょう。

ただし、全員がそうはならないのが世の常です。

では不良や異端者、革命者などになれない、一般人、本当の常識人、冒険をする勇気や意気地のない人たち(私もそうですよ(^_^;))はどうればよいのでしょうか?

それについては、また次の記事で書きたいと思います。


人生の目的を探すこと

自分はいったい、人生で何をしたいのか? 生きている目的は何なのか? 使命や天命、やるべきことなどがあるのか? 

人は誰でもこういった悩みを抱える時があります。

この問いたちは、要するに、個人的なことのように見えて、全体との関わりがテーマとなっています。

言わば、自分は社会や世の中、宇宙にとって、どんな役立つ(または役割のある)人間なのか?というようなことが知りたい、いえ、実感として味わいたいということでしょう。

そうして、人は自分なりにその答えを求め、思考し、行動します。

これに関連する考え方として、大きくわけるとふたつのものが出ます。

ひとつは、まさに天命として、自分がやるべきことが(宇宙・神)から与えられるているものだと考えるケース。

もうひとつは、自分で意味を決めて、自らでスートリーを作り、演じるというケースです。

前者は道筋のようなものがどこかにヒントとしてあると考えることもありますし、天からメッセージとして伝えられているはずだと想像して探すことをするかもしれません。

人によっては、占い師に運命を見てもらったり、誰かに相談したりして、自分の歩むべき道の発見に努めるでしょう。

後者は、言ってみれば、真っ白なキャンバスに自分で絵の具で絵を描くようなものですから、誰かに言われたり、指図されたりするのではなく、自分が決めたらいいんだと、自由意志を尊重することになるはずです。

私自身は、どちらでもいいと思っています。そもそも自分の人生に意味を見い出せなくても、充実した生き方ができる場合もあるからです。

ただ、ふたつの考えを融合してみるのも面白いかなと、マルセイユタロットを見ていて思います。

まず、自分が人生において、「充実している」「生きている」と実感している時は、あまり自分のなすべきことを探求しようとはしないでしょう。

それはそのまま、「今そのもの」が使命や天命というものに添っていて、ちゃんと道を進んでいると解釈することもできるからです。

しかし、何かどこか空しいものを感じていたり、違和感を覚えていたりするという場合は、自分の魂の求めるものとは違うことをしているのではないかと疑うこともできます。

しかし、本質は合っていて、表現方法が異なっているという場合や、規模や場所、対象が違っているだけという場合も考えられます。

ですから、具体的なことよりも、抽象的なもので、自分のなすべきこと、生きる意味を考えたほうが本質に近くなると言えます。

さて、話を戻しますが、もともと自分のやるべきことが決まっていると考えるケース(運命・使命論)と、反対に何も決まっておらず、自分が見つける意志を示すことで初めて自分が生きる意味が出てくる場合(自由意志、創造説)と、両方を一緒にすることができるのではないかと前述しました。

私の思うところ、このふたつは表裏一体、モノの見方の違いで、実は同じことであると見ています。

宇宙や世界にとって、一人の個人は小さな構成員のひとつに過ぎず、大きな観点で言えば取るに足らない存在です。

ところが、そんなちっぽけな「ひとり」でも、「実存している」という事実があり、もし世界や宇宙が完全だ(完全でなくても意志を持つ)とすれば、たった一人の個人でも、その存在自体は全体として意味があると考えられます。(パーツとして、欠かすことができない)

ですから、一人の思いや行動、貢献・表現も無視できないものとなります。

言わば、一人一人の個性表現が全体となって、それ自体が宇宙だということです。

その反対にまた、宇宙は私たちに自由に思い・行動する許可を与えており、個人の目標や目的・使命感も、一人一人自由に創造できると考えられます。

つまり、例えで出した「(個人の)真っ白なキャンバス」に色や絵を自由に塗ったり、描いたりすることが個人的にOKなのです。

ところが、自由に個人的に描いた絵だと思っていたのが、有機的に全体的なネットワークシステムのようなものに繋がっており、宇宙の全体意志とリンクしていることにもなると想像できます。

言い換えれば、個人で勝手に描いた絵が、実は宇宙を楽しませていることにもなっているという構造です。

従って、どんな風に自分の人生を思おうが自由であり、それがまた、宇宙(全体)には何らかの役割や役立ちとして機能している可能性が高いのだと言えます。

とはいえ、人間同士のコミュニケーションでもそうであるように、自分一人で勝手に思っているよりも、直接的ではなくても、どのような形であれ、相互にコミュニケートできていたほうが、どちらにとっても面白く、わかりやすいことになると思います。

スピリチュアル的に言えば、自分の目的や目標、やりたいことに対して、宇宙からサポートを受けやすいということになるでしょう。

ということなので、宇宙が「こうしてくれればよいかな?」という思いをふまえたうえで(感じ取りながら)、自分の個人的・個性的表現として生き甲斐や使命を演じていく(達成していく)というのが、どちらにとっても楽しいことになるのではないかとイメージできます。

それが、運命や天命を探求したり、人や自然と交流したり、暗号のようにちりばめられている宇宙からのメッセージや意志を読み解いたりすることの意味につながってくるわけです。

「これが私の生きる道」と独り相撲のように、自身のキャンバスに描くのもよいですが(また描かなくてもよいでしょう)、「この絵はこんな方向でいいのかな?」「もしかしたら、ここはこんな色がいいのかもしれないよね?」と、様々なものと交信し、情報を入れながら完成形の絵を想像して描いていくのも、より楽しいと思います。

ちなみにコミュニケートする「暗号」は、シンクロという形や言葉遊び(同音異義語など)、夢解釈、象徴ツールを使うなどのことで、意外に明確に伝わる場合があります。

実は真っ白なキャンバスのようでいて、大体はすでに下絵が描かれていることが多いものです。

その下絵から大きくズレている人生を歩んでいる時、人は心に葛藤や閉塞感・違和感を覚えるものだと思います。

また一方で、下絵のように思っていても、一枚はがすと全く別の下絵やキャンバスが出てきて、それに描くこともできるのが人のすごいところであり、その自由性も有しているのだと、マルセイユタロットを見ていると思うのです。


自然の驚異と祈り

今月、各地で起こった災害について心痛めるところです。

特に、広島の土砂災害は、あの地域がかつて私が住んだこともある場所なので、余計です。

私は中学・高校の年代に、広島市安佐南区八木に住んでいたのです。災害に遭ったところは、まさに通学路だったり、自転車で走っていたりしていたところでした。※幸い高校時代の友人は無事でした。

災害で命を落とされた方のご冥福をお祈りいたしますとともに、一日も早い復旧・復興、被害に遭われた方の生活の安定を望みます。

世間では、あのような場所に家を建てること自体間違っているとか、住むのが信じられないと言う人がいますが、普段は確かに山あいでこそあれ、あのような同時多発的な土砂災害が起こるとは、普通の人には想像がつきにくかったと思います。私が住んでいた時も、そん心配をしたことがありませんでした。

また、昔と違い、今は一時間に何百ミリもの大量の雨が降るような事態が増え、以前とは比べものにならないくらいの自然の猛威と言えます。

しかし、こうして実際に災害が起こってしまうと、やはり問題が浮き彫りにされます。行政の問題、土地や家の販売業者の問題、住民の意識の問題・・・様々とあるでしょう。何とかもっと被害を減らすこと、命を救うことはできなかったものかと思わされます。

私はこう思います。

「あんな場所に住むなんて」という批判よりも、普通の人としての感覚、安全だと思わされてきた住民の情報と状態を思い、本当に自分ならば、同じ人生の選択状況に置かれた時、あのような地区に住むことを止めたのかかどうか、自身に問うてみるべきだと。もともと生まれた時からその場所に住んでいたという人もいて、簡単に転居などできるものではありません。

と同時に、無批判に終わることなく、やはり以前にも土砂災害は発生していたのですから、今後の対応策を人々は考えるべきだったでしょうし、これからも検討していかねばならないと思います。

人の痛みに寄り添う人間的感覚と労りを持ち、また機能的・機械的・科学的にも検証し、災害の被害を減らしたり、軽減できたりする工夫を考え、実行していくことだと思います。この時には改革によって、面倒さや煩わしさ、時には痛みも伴うかもしれません。マルセイユタロットでいえば、「節制」と「正義」の関係のようなものです。

さて、視点を変えまして、ここからスピリチュアルな話にします。

マルセイユタロットでは「審判」や「星」が特に想起されるのですが、「祈り」という行為があります。

かつて、人々は自然の驚異に対して畏れ、祈りをしてきました。いわば、大地や空に対して祈りを通じて「鎮めて」きたわけです。

現代的に見ると、これは迷信や昔の人の素朴な信仰によるものと解釈されがちですが、私はタロットから見ましても、このことは現実的な意味があったと想像しています。

祈りはどこでやっても同じ効果があったかと言えば、そうではなかったでしょう。

聖地」と呼ばれる特別な場所で祈りが捧げられることが多かったのは、その場所・フィールドに意味があったからと考えられます。

また人数、もしくは限定された(選ばれ、修行した)人による祈り、さらには人の配置と音声の方法という選択も実は厳格であったと思います。

これがいわば「儀式」です。儀式には何かの力が発動するための手順があったとイメージできるわけです。

では、その力とは何か? おそらくそれが周波数や波動といったものに関連するものと予想されます。

わかりやすく言えば、ある特定の場所や人、作法によっての祈りが、大地や空中のエネルギーフィールドに何らかの影響を及ぼし、過剰な、あるいは不足的でアンバランスなエネルギー状態を中和させていたのではないかということです。

おそらく普段からの自然への畏れが崇拝にもつながり、「神」のように崇め奉ることで、調和に導いていたのではないでしょうか。

その逆も重要なのですが、祈ることで自然エネルギーと一体化することもでき、自己の浄化や充足感(隔絶感や孤独感の反対であり、つながりや絆を感じることでもあった)に関係していたと思います。

安心安全が、自然(神)への祈りの双方向によって、外(環境)と内(自身)にもたらされていたわけです。

まさに生かしているし、生かされている感覚だったでしょう。

日本では神社仏閣がその機能の一端を担っており、ネットワーク的につながっていたと想像できます。

日常の参拝が、ひいては自然と自分とを鎮める(調和させる)役割になっていたとイメージされます。※エネルギーとは別ですが、環境民俗学的にも、神社・祠等の参拝と信仰が環境を守っていたということが指摘されています。

昔は無意識に、それを象徴的行為としてやっていましたが、今は象徴的感覚と知識を削ぎ落とした時代になりましたので、祈り自体の量や機会も減り、文字通り、「自然と」自然が暴走するようなことになっているのではないかと思います。

そういう意味では、「祈り」を復活させていきたいものです。


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