スピリチュアル
自分の宝と出会う縁
今の時代はインターネットもあり、様々な情報が簡単に手に入ったり、接したりできる時代になりました。
もし、この世界をふたつに分けるとしたら、ネガティブなものとポジティブなものというように分類することができるかもしれません。
ただ、価値観や人それぞれのモノサシによって、何がネガティブで何がポジティブかを分けるのポイントが変わってきますので、分け方そのものについては、なかなか決められません。
しかし、物事を大きく分けると「ふたつの視点」になることは言えるのではないかと思います。
ということで、世の中にあふれる情報や技術というものが自分にとってポジでもネガでも、とにかく手に入れやすい状況になっているのは確かでしょう。
言ってみれば、良くなるのも悪くなるのも簡単な時代になったということです。
ところで、これだけたくさんの情報がある中でも、意外に本格的に接したり、学んだりするのものは少ないものです。
つまり選択して実行・実践するまでとなるのには、数が限られるわけです。
それは一人の人間が現実的に関われる量(時間や場所と言ってもいいでしょう)というのは無限ではなく、制限があるからです。誰でも寿命があり、まったくの自由の状態ではありません。
従って、やはり、情報に接することは増えても、自分にとっての大切なもの(技術やメソッド、考え方など)というのは、特別なものになると言えます。
ここにマルセイユタロットでいえば、「恋人」カードの天使で表される「縁」や高次(と低次が合いまったこと)の働きかけというものを想像することができます。
タロットとの出会い、タロット学習においても、この「働きかけ」が見られます。
私のところにタロットを習いに来られる方のきっかけも様々ですが、最初からはっきり決めた状態で、私の伝えるタロットを習いたいと言って来られる方は少ないです。
私自身、知名度があったり、本を出したりしているわけでもありませんので、言わば「知る人ぞ知る」(笑)ような状態です。
ですから、講師の名前で来られるというのではないです。やはり、基本は、タロットや、その中でもマルセイユタロットに興味があるという感じなのが普通です。
※最近はブログを読んでという人も増えましたが。
習うきっかけ、出会うきっかけというのは、たまたま文化教室のチラシを見たとか、検索したらたまたま出ていた(私は検索の対策とか操作はしていません)とか、自分の仕事の休日がたまたま私が講義をしている曜日だけだったなど、ほとんど“たまたま”なのです。
もちろん講座を受講された知人から勧められたからということもあるにはありますが、全体的に、たまたまとか、偶然とかで受講することになったというケースも少なくないわけです。
そもそも私自身が、マルセイユタロットとの出会いにおいて、最初からタロットを習おうとすら思っておらず、たまたま見た雑誌の広告に載っていたことがきっかけなのですから、不思議なものです。
ところが、最初は「たまたま」なのですが、その後、「たまたま」が「たまたま」ではなく、何か必然であったことがわかる場合があります。
特にこのタロットに出会う人は、その傾向が強いように感じます。
それがなぜなのかは、論理的には説明できませんが、やはり、「縁」やその時に出会う必然性のきっかけというものがあるのだと思えます。
時にはまるで、未来の時間から働きかけがあって、出会わせてくれているかのように感じることもあります。
しかし、マルセイユタロットに出会ったからと言って、自分にとってこれがどの程度のものになるのかは、その後の関わり方や相性・本当の縁によると思います。
最初に述べたように、今はあらゆる情報があり、自分にとってよい技術・方法というのも、いろいろな可能性があるわけです。
タロットがそれとなる人もいれば、そうでない人も、もちろんたくさんいらっしゃいます。こういうものは1つだけとは限らず、複数の場合もあります。
ですから、タロットそのものを「宝」として自分の成長に役立てることができる人もいれば、タロットを学習したことによって、それまですでに「宝」としてもっていたものが、さらに輝くことになった(タロットは補強や通過点)という人もいます。
またタロットを習ったことで、タロットに関連する新しいメソッドに出会って、それが「宝」となったという人もいらっしゃるでしょう。
中には、タロットを習い、さらにはそれを捨てることで、自分の本当の「宝」となる考えや技術をつかむ人もいると思います。
私たちは一人一人違う個性を持っています。だから、自分だけの「宝」というものがあるのです。
それは技術やモノが人と同じではあっても、自分の理解や扱いにおいては「オリジナル」なものになります。
実は「宝」は、自分自身であり、すでに誰でも最初から持っているものです。
従って技術とかメソッドは宝ではなく、自分という(自分が持つ)「宝」を引き出すための、自分にとって適性のあるツール・鍵といえるでしょう。
これが個性によって、相性的に、それぞれ個人で異なるのだと思います。
だから、自分を変えたり、活き活きとさせたり、安心させたりしてくれる方法というのは、人によって違っていて当たり前なのです。
私はそれが、たまたま(笑)マルセイユタロットでした。
タロットに出会える縁も興味深いのですが、タロットに縁を持つその人自身との出会いの縁もまた「縁」であり、その何重もの働く「縁」の不思議さとすばらしさに、感動せざるを得ません。
それは、世界(宇宙)はデザインされている、計画されているとさえ思う驚嘆さなのです。
あなたは何と出会えるでしょうか。
憑依について。
先日の27日に久しぶりにタロットのお話とリーディングを体験する会をしました。
知っている方も入っていただいて、何か勉強会みたいな雰囲気にもなりましたが、参加していただいた皆様、ありがとうございました。
毎回ですが、特に何かを話そうという取り決めはしていないのですが(マルセイユタロットに流れる教義は説明します)、その時に応じて勝手に話したいことが出るようです。今回は二元の統合がメインでしたね。
リーディングにおいては、女帝のカードもよく出ました。きっと女帝に関するテーマが、参加者の皆さんに隠されていたのでしょう。名刺も皆さんへのメッセージですよ。
それともうひとつお知らせです。受講生・修了生用のメルマガを本日、配信しております。メルマガ配信スタンド移行後ですので、届いていない人もいるかもしれず、登録している人はチェックしてみてくださいね。
さて、今回は何を書こうかなと思っていると、「憑依」という言葉が浮かんできました。
これについて語れというわけですかな。
まず言っておきますが、私は霊感師や心霊治療家でもないですし、見えないものが見えるというたちでもありません。
人間としてはごくごく普通の感覚の人物です。
ただタロットをしているだけあって、そういう見えない世界のことを探究したり、ふれたりする機会は少なからずあり、次第に感性は以前より高くなってきたと思えます。
あと、何も「憑依」といっても、必ずしも霊的なものとして考えていないということは、述べておかないといけません。
言い方を換えれば、自分の中の別人格が現れると言ってもよいのが「憑依」だと、ひとつには思っています。
そう書くと、憑依とは多重人格障害のことではないのかという意見もあるでしょうが、多くのケースでは、かなりその可能性は高いと私は見ています。
ただし、そうとも言い切れないのがあるのも、私の中では存在します。
いずれにしても、「憑依」というものを定義するのなら、通常の自分、今まで社会的に多くの人に見せてきた、冷静に判断できる自分の状態ではない人格が現れる状態と言えるかもしれません。
その憑依するものが別に存在するのか、自分の中にもともとあったものが拡大したり、何かのきっかけで急激に入れ替わったりするのかはわかりません。
しかしながら、もし見えない他の存在というものがあるとすれば、単独で存在している何かが取り憑くというより(それも考えられますが)、私の観察では、結構、一種のエネルギーグループを形成している存在があって、そこと同調した場合に、グループから派遣されるような、あるいは磁石のように自分が引き寄せるような形で、自分の今までのエネルギー性質が変化してしまうことが、ケースとして多いのでないかと思っています。
これが現実世界での表現(エネルギーグループ)となれば、信仰集団とか、同じ意志や思想を持つグループ、何か強い意図を抱いている人たちだと言えます。
いわば、集団の思い・想念がエネルギー体として人格化したものとも言えますし、逆に考えれば、もともとあったある種のエネルギー性質が、人の集団という場を得たことで、活動(憑依)できる寄る代や拠り所をもったということも言えるでしょう。
実は、憑依という言い方をすればネガティブな感じを受けますが、何かに取って代わるとか、今までとは異なる状態に(一時的に)変化するということならば、ポジティブな憑依もあると考えられます。
ですから、その集団の意図が、特に自分や他人・社会にとって悪影響がない限りは、よい憑依みたいな形で、活き活きとした自分になることもできると想像できます。
まあ、おそらく、誰でも何らかの軽い憑依状態は毎日あり、ただ基本となる主人格まで影響を及ぼすに至っていないものなので、日常に支障を来すことはないと言えます。
タロットでいえば、タロットカードの枚数分の精霊(エネルギー性質)がおり、その憑依を受けてリーディングしていることもあると考えられます。
それがいいか悪いかは、簡単には判断がつきません。
結局、現実や常識を大幅に逸脱し、戻って来られない状態、コントロールが自分でできない状態がまずいと考えられるでしょう。
自分でコントロールできない場合は、もはや人格的に人から見ておかしな状態とか、今までのその人とは別人のようになっていることもあるので、すぐにわかると思います。(自分ではわからづらいのが問題)
その状態は、本来のその人ではありませんから(ある意味、別のその人でもあるのですが)、そういう人と対した時、他人のように思って感情的に切り離すことも必要になる場合があります。
安易に変わりたい願望を抱き続けたり、パワースポットなどと言って煽られて、やたらと場所と心をを移動させたり、特殊なグループや信仰集団に過度にのめり込んだりすると、自己コントロールができない憑依(されている状態)となることがあります。
自分に自信を持つ(自尊心を持つ)ということは、心理的な意味でも大切ですが、この悪い意味での憑依にならないようにするためにも、重要なのです。
自分軸がフラフラとしていると、やはり憑かれやすくなるわけで、また反対に異常に尊大になって、えらそーになっていると、これまた同様の存在と同調して憑依を受けやすくなるでしょう。
さきほど、タロットにおいても憑依と考えられることがあると言いましたが、反対に憑依を防御することもタロットをやっていると強くなる気がします。
それはシステムとして見ると、自分の内的人格を発見し、認識する作業があるからです。
つまり、一度自分をばらして(解体して)、再統合するということです。
その過程で別人格を危険のないように見ますので、自分というものを客観視して、逆に強く柔軟に自らを規定することができるようになってくるのです。
漫画・アニメ的に言えば、憑依を受けようとすると、タロットの象徴的カードを通して自らが人格を分散させ、存在を希薄にします。
そのため憑依側からすれば拠り所や憑依するものがあまりなく、影響が与えにくくなります。
そうしたところ(相手が去ったところ)で、再び自分を統合して戻すみたいな感じです。
あと、タロットの精霊自体が守護的なものとなる場合もあります。
とはいえ、タロットに使われてしまうようになるのも問題なのです。
危険な憑依は、自分の自信を失ったり、病気であったり、経済的不安が強くあったり、恋愛等で感情の波が激しく動く時だったり、ダジャレ的ではありますが、「ツカレ(疲れ)たり」した時など、まさに不安や恐れを抱く時に、現れやすく同調しやすくなります。
今・ここ・自分というものを実感できたり、戻ることのできたりする方法や場所、技術、または友人や相談者を、普段から持っておくことも、保険の意味ではよいでしょう。
お知らせと、危機から来る「特別な出会い」
まず、二、三のお知らせを。
●お問い合せについて
最近、タロット講座やリーディングのお問い合せをいただくことが続いており、有り難い思いでいますが、せっかくお問い合せをいただいたのに、メールアドレスのご記入ミスなどで戻ってきてしまうことがあります。お問い合せいただいて、3日経過してもこちらからの返信がない場合は、再度ご確認いただければ(迷惑メールフォルダ等に入っていることも含めて)と存じます。
●タロット講座
現在、関西では9月中・後半頃開始の予定のコース(基礎講座ハイクラス)を計画しています。それ以外でも随時、個人講義やグループ講義も行いますので、お問い合せください。
関西以外の遠方の人には、スカイプ講座や、招待いただければ個人・グループででも出張講座を行うことができます。
基本的に全国主要都市で、3名以上(地域によっては4名以上)の受講があれば、出張費なしで講座を行うことができます。(個人・グループ2名以内は出張費が必要です)
その他、関東では神奈川県藤沢市で行うタロットのお話会&リーディング体験会、そしてタロット講座の企画を考えていますが、参加ご希望・ご要望があれば、お問い合せしていだたければ実施の可能性が高まります。
リーズナブルにまずは入門からという方は、10月から開講予定の京都新聞文化センター、よみうり神戸文化センターのカルチャークラスをご検討いただければと思います。(体験会は9月にあります)
●7/27(日) マルセイユタロットお話会&リーディング体験会
大阪市中央区で上記の会を行います。残りあと一名様です。会の詳細はこちらの記事にて。
お知らせが長くなってしまいましたが、本日の記事です。
私は今でこそ、マルセイユタロットの講師をしていますが、以前は実は、タロットについてまったく興味がなく、将来タロットを使った仕事をするなど思いもよりませんでした。
その私がなぜマルセイユタロットと関わることになったのかということは、またシリーズで詳しく書きたいとは思いますが、簡単に言えば、個人的「危機」があったからです。
すでにこのブログでも何度か書いていますし、カテゴリーとしても「うつ 心の健康」とあるように、私はうつ病を患い、不安神経症とも複合して、非常に苦しい時期がありました。
人間、誰でも生命や存在、土台、精神の危機が何度か人生であると思いますが(まったく寿命まで何もない人もいらっしゃるでしょうが)、私の場合もうつ病の時がまさにそれでした。
まあ、マルセイユタロットでいえば、「13」であり、「隠者」と「神の家」にも通じる出来事です。
その時は、なかなか個人的には壮絶な状況だったのですが(見た目はそうではなかったかもしれませんが精神的には危険な状況でした)、いろいろともがき、時にはあきらめ、治療を試みたりしているうちに時間が経過し、よやうく気がつくと普通の状態にゆっくりと戻っていました。
その最終過程で出会ったのがマルセイユタロットだったのです。
つまり、逆に言えば、こういう「危機」がなければ、タロットに関心を向けることもなく、たとえ興味を一時的に抱いても、本格的に学習したり、扱ったりすることはなかっただろうと思えるのです。
これを目的論風に言うと、タロットに出会うために危機を起こしていたとも言えますし、実はタロットに出会うということは、単にタロット(マルセイユタロット)に出会うことが目的ではなく、タロットの示す奥底の何か(グノーシスであったり、智慧であったりするもの、光)を知る(確認・認識すする)ためであったとも言えるのです。
今でこそ思えば、相当苦しい経験であったがゆえに、タロットの奥深い部分に興味をもつことができ、そこに向けた取り組みが始まったと考えられます。
もし当時よりも軽い状況で、「ちょっとしたしんどさ程度」の過程でタロットに出会っていたとすれば、そこまでタロットに深く入っていたかどうかは疑問です。
何が言いたいのかといえば、要するに、人の個人的「危機」は、ある霊的な導き(成長の導き)そのものであるということです。
そしてまた、タロットとの出会いといえば、衝撃的なイメージがあるかもしれませんが、私にとっては意外にもそうではなく、それまでの過程は壮絶であっても、出会い自体はふとしたきっかけみたいなものだったわけです。
ということは、人にとって影響を与える重要なものというのは、必ずしも一目惚れとか、強烈な体験をもってとかではないということでもあります。
遭遇のきっかけは偶然(を装っていたり)であったり、些細なことだったりするのです。
従って、ピンと来たらとか、何となく気になるというようなレベルでも、特に危機のあと(危機の最中は冷静な判断ができず、逆に危険です)で少し落ち着いてきた時に出会うものは、人であれ、モノであれ、何か時別な意味をもつことがあるかもしれず、注目するとよいでしょう。
自分にとってよいものは、人にとってよいものであるとは限りません。でも一生の出会いというものは誰にでもひとつやふたつはあると思います。
自分を中心に世界が回っている。
「自分なんて、世界から見ればちっぽけなものだ」と思うことがあるかもしれません。
反対に、「アタクシ(オレ様)を中心に世界が回っている」(笑)と極端な言い方をされる人もいます。
タロットには、「世界」と名のつくカードがあり、マルセイユタロットの場合だと、意外にも「吊るし」というカード(一般名「吊るし人」「吊された男」)と「世界」は似たところがあります。
いわば、自分を取り巻く「世界」をどうとらえるのかの違いがカードの「世界」なり、「吊るし」なりで表現されていると言ってもいいかもしれません。
さて、さきほど述べた「自分と世界」との関係の言い方ですが、「自分を中心に世界が回っている」ということに対して、「何様だと思っているんだ!」と嫌悪感を覚えたり、「そんな風に思えたらいいよねぇ・・」とうらやましがったり、あるいはバカにしたりするのが通常の人の感覚かもしれません。
そして冷静になって見た場合、やっぱり「自分なんて、世界から見ればちっぽけな存在だ」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。
もっとも、「自分なんて小さな存在」という言い方には、ふたつの意味があると思います。
ひとつは文字通り、自分は小さくて取りに足らない、もっと言えば「存在だけでは価値のない人間だ」というものです。
そしてもうひとつは、あまりに世界や宇宙は広く、その大きさに比べて自分は小さいけれども、逆に「大自然・宇宙・神の偉大さを知る」という謙虚さや感銘から出るものです。
たぶん、そのふたつは誰でも経験があるのではないかと思います。何が言いたいのかと言えば、人はそういうもの(矛盾したり、相反したりする考えをするもの)だということです。
何か大きなものと比べて自分に価値がないと思う場合もあれば、その大きなものに心打たれ、感動することもあるという矛盾のような、そうでもないような人の心の動き・状態があるわけです。
ですから、何かと比べて自分に価値がないと感じてしまうことは誰でもあることだと思っていいのですし、自分より大きな存在・状態に依存してしまったり、感動したり、身を投げ出してしまうような不思議な感覚になったりすることもやはりあるのだと思えばよいのです。
さて、ここで、さらにタロット的に大切なのは、最初に取り上げたもうひとつの自分と世界との関係性のとらえ方です。
すなちわ、「自分を中心に世界が回っている」というものです。
これは先述したように、普通は傲慢に見えたり、馬鹿者の言う言葉に思えたりしますが、タロット的・神秘主義的には真理に近いのではないかと、個人的には思っています。
人には言わなくてもよいのですが(むしろ言わない方がよいかもです)、自分の中では「世界は自分を中心に回っている、できている」と考えることは、違う発想や観点を持つためには重要だと感じます。
天体としても、常識的には地動説ですが、精神世界的には天動説も入れたほうがよいこともあるのです。天動説ならば、自分が観測者であり、観測者を中心に天(天体・星々)が回っていることになるからです。
「自分が世界の中心である」ことの、極めてシンプルな証明というか、こじつけみたいなものがあります。
それは目をつぶれば、外の世界は見えなくなるということです。あるいは音も聞こえなくすれば、さらに確実でしょう。
要は自分が見たり、聞いたり、五感で感じたりできるからこそ、「外に世界があると認識される」のであって、自分の五感がなくなれば、世界は実感として消失する可能性は高いです。
一般的に生きている時に五感がなくなるということはほぼないでしょうが、死ぬと五感はなくなります。(意識も残るのかどうかわかりません)
とすれば、死ぬということは、確実に自分が認識していた世界が消えるということになります。
そうすると、やはり自分が世界の中心であると言えるかもしれないのです。
「いや、死んでも世界は普通にあるじゃないですか」と思う人もいらっしゃるでしょう。
実際に自分の知っている人が亡くなっても、自分や世界は存在していますから、もし自分が死んでも、そのあとの世界は自分がいないだけで存在し続けると考えるのが普通です。それが客観的な事実であり、歴史でもあるからです。
でも、生きている人の世界の中では、誰も自分が亡くなったあとにそのまま世界が存続していると自分で証明することはできないのです。
霊の存在とか、魂の永続性とか、エネルギーの変化とか想定しないと、自分の死後の世界を自分が確認する方法がありません。
とすると、極端に言えば、自分が死ねば自分が信じていた(認識していた)世界は終わります。消失するわけです。
自分を中心に世界が回っているどころか、そもそも世界の存在の根拠は自分自身であったという壮大なオチ(笑)です。
輪廻転生があるとしても、同じ意識と認識でこの世界に生きるという経験は今回限りということも考えられます。
まさに死ぬとすべて(の劇・映画上映)が終わるのだと考えておくと、自分の今の価値の大切さがわかるのではないでしょうか。
自分がいるからこそ人生劇場が上映され続けているのだと思えば、自分の存在そのもの、生きているだけで価値があるとも言えます。
確かに一人の人間は、世界からすればちっぽけな存在かもしれませんが、このように自分は世界の中心でもあると見ることもできるのですから、もったいない人生を送ってしまわないようにしたいものですね。
人生に意味があるのか?への、ふたつの考え方。
私たちの人生には、すべて意味があるという考え方があります。
そして、それに対してもひとつ、もともとある程度、青写真や大まかな計画表が、生まれる前から設定しており、生まれてからはそれに従い、その場その場を実際の選択にて、人生を現実に創造していると見る向きがあります。
この立場で見ると、やはりどうしてもその設計図を知りたいと思うようになるでしょう。
設計図を知りたいというほどではないにしても、自分(の人生)には使命や目的があり、それに従い生きているのだと思いたくなりますから、では自分の使命や目的とは何だろう?と探したくなるのも当然と言えます。
ところが、通常はそれがなかなかわからないですし、また設計図まで知ろうとすると、もっと困難になります。
そこでいろいろな特殊な技術(運命学・過去催眠等)を学んだり、目に見えないことまでわかるという人に探ってもらおうとしたりします。
こうして全部ではないにしても、、何となく自分が何のために生きているのかを想像することができ、それに叶った生き方をしたり、今までの人生の意味を俯瞰したり、自分の存在の価値を認めたりするようなことができます。
これで生き方が楽になったり、強い意志を持って生きられるようになったりする人もいますので、この考えと方法もよいことはあると思います。
ただ、私はタロットカードを観察している中で、こうも考えられるなあ、というものが出ています。
それは、人生にはもともと意味などなく、また設計図もなく、ただこの現実というフィールドに放り投げられるだけだと。
えーっ!、今までこのブログとかで語ってきたこととはまるで違うじゃないですか、とおっしゃる方もいるかもしれません。
いえ、これはあくまで、「こうも考えられる」という中でのひとつの発想に過ぎません。ただ、このような考え方も面白く、ある視点を提供できるのではないかということで書いているのです。
もう少し説明していきます。
私たちは、もともと意味の(設定されてい)ない人生フィールドを生きているだけだとすると、一見、目的地もなく、海図や地図も持たずに航海や旅をしているようなものに思えてきますが、実は逆説的ですが、「そうではない」と発想の転換をすることが重要なのです。
その解答の鍵は、「人生をゲームだととらえること」にあります。
簡単に言ってしまえば、目的や使命、地図でさえも、このゲームという人生の中にアイテムというか、宝箱のような形でどこかに置かれており、あるいは、誰かがヒントとして知らせてくれたり、書物とか紙とかに断片が書かれていたりするというようなものなのです。
そう、結局は楽しい(あるいは苦しい?)ゲームとして、私たちはあらゆるツールや情報を用意されているフィールドに、ゲーマーとして参加しているという考え方です。
最初から目的も使命もゴールも設定されていない、特殊で難しいゲームですが、このゲームはすごいことに、自分で目的とか難度とか、ゴールさえゲーム中に設定することのできる、極めて創造性と自由度の高いもので、それだけに高度なのです。
先程、これには目的がないと言いましたが、実は奥底には目的はあり、それは一言でいえば、このゲームを体験すること自体が目的といえるでしょう。
もしかしたら、その意味では、最初からやはりゲーム説明書とか、「こうしたい」というような大まかなゲーマーの意志設計のようなものはあるかもしれません。
とはいえ、ほとんどはゲームの中でも決めていくことができるものなのだと考えられます。
人生が仮に、こうしたものだとすれば、私たちはむしろ、積極的に自分の人生の「意味」を創り上げなくてはなりません。
いつまでも意味を見い出していない(創り上げていない)と、ゲームはゲームとしては面白い(現実で起きる現象に反応している面白さはある)かもしれませんが、自己の「キャラ立ち」はせず(笑)、多くの中に埋もれてしまいがちです。
「お前は何のために生きている?」と、ゲーム中の他の人物から問いかけられて、「いや、ぜんぜんわからない」「?」と答えるキャラより、「○○を成し遂げるためだ!」「なになにや、誰それを愛するため」「これこれを作ってみたいと思っている」というキャラのほうが、見ていて注目度が上がりますよね。
あ、別にこれと言った具体的な目的とか使命感がなくても、「オレはただこの世界を思いっきり楽しむことにすると決めたんだよ」と豪快に笑って話すキャラとか、「私はね、目の前の人をどんな人でも愛そうと思っているのよ」なんて、慈しみある目で優しく語るキャラとか、うまくしゃべることができなくても、「・・ただ誠実に生きたいのです・・」とやっと絞り出すように言うキャラとかでも、見ているほうとしてはひかれてしまいますよね。(笑)
この「見ているほう」というのが神(ゲームをしているもう一人の真我)であると比定すると、さらに興味深くなります。
スピリチュアル的には、もともとの生前の計画や設計図を知ろうとするのもよいとは思いますが、こうした生まれてしまったフィールドと事象の中で、自分の目的や生き方を「決めていく」のも面白いのではないでしょうか。
後者の場合、自分で自分の生きている(生きてきた)人生の意味を発見していくことにもなりますから、シンクロニシテイとか、関連性を考察するための多角的視線とか、統合的・俯瞰的・抽象的観点とかが大切になってくるのです。
そのために、マルセイユタロットはとても役に立つでしょう。