スピリチュアル
「アナと雪の女王」Let It Goから。
もうすでに古い話題になりつつあるのかもしれませんが(^_^;)、映画「アナと雪の女王」のLet It Goの歌が話題になっているようですね。
何かが話題になったり、流行になったりする時、それはたいてい意図的な仕掛けがあることが多いものですが、それはさておき、もうひとつ、流行(はやり)には意図的なものとは別に、何か大いなる意志のようなものが働いている場合もあります。
あるいは、人類全体の集合意識のようなものが要求していると言ってもよいでしょうか。
私は「アナと雪の女王」を見ていませんが、これだけ話題になるというその歌の「歌詞」を見たり、歌を聴いてみたりしました。
すると、たぶん特に注目されているのはこの部分だろうというのが推測できました。歌詞で言うと、
『ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの』
の部分です。
実際にサビとして、かなり強調されているような形になっていますね。
これを歌いたくなる人が多いということは、裏を返せば、自分がありのままではないと感じている人が結構いらっしゃるということでもありますね。
そういう(ありのままでいたい)願望や気持ちがあるということであり、世の中は「ありのまま」でいられない苦しさやつらがあるというメッセージでもあるわけです。だからもう、いいかげん、みんな、「本来に戻りましょうよ」ということですね。
私の伝えているマルセイユタロットでも、あるいは様々な癒し・自己実現・スピリチュアルな世界においても、「ありのまま」になることはよく言われていることです。その言葉だけでも救われる人はいるものです。
まあしかし、一方では、「ありのまま」とは、 「今の自分のまま」とは限らないこともあります。
「ありのまま」という歌詞に反応してしまうのも、「ありのまま」という自分の存在や状態がどこかにイメージされるのに、実際にはそうではない、それを取り戻していない自分を感じているという場合もあるわけです。
ということは、「今の自分」と「ありのままの自分」はイコールではないことになります。
ここで、「ありのまま」についての論議をするつもりはありません。
ただ、重要なことは、「ありのままの自分」という「状態」を、ほとんどの人は知っているということです。また同時に、その、「ありのまま」ではない自分も感じているということでもあるのです。
ここに、ふたつの自己が存在していることに気か付きます。
誰もが本質の自分(ありのままの自分)を知っていながら、それではない自分を生きていると言い換えてもよいです。
もし本質の自分を取り戻した時、どうなるかを、この歌は以下のように表しています。
『だってもう自由よ なんでもできる』
なんと、ありのままの自分である時は、「なんでもできる、自由だ」と言っているのです。
この状態は、マルセイユタロットでは「愚者」であり、「世界」でもあると言えます。
私たちは、誰もが本質ではパワーあふれる(「力」のカードでも象徴)、自由な自分であることを知っていながら、現実のしがらみ世界を、そのルールや規則、反応に基づいてペルソナ(仮面)をかぶって生きているわけです。
とすれば、私たちは「ありのままの自分」、「本来知っている自分」を回復させたいと思う旅(人生)を、ずっとしているのだと言ってもよいかもしれません。
この歌に多くの人が共鳴してしまうのも、言わば、自分の本当の故郷(魂のふるさと、ありか、状態)を想起させ、それを懐かしく響かせるからだと考えられます。
一方、物事には正負、相反することが必ず存在してバランスが取れる世界でもあります。
この歌に反感を持つ人もいるでしょうし、「ありのまま」を強調する歌とその流行に対して、安易な逃避思考を助長するのではないかと危惧する人もいると思います。
私はそれはそれでいいと思っています。そうなるのがバランスだからです。
ただし、「ありのまま」というのと、「そのままでいい」というのとは別だとは言っておきたいです。
もちろんイコールの時もあるのですが、ありのままでいいということは、まったく何もしないでいいということではないでしょう。
「ありのままでいい」とは、先述したように、自分の魂が知っている、言ってみれば「神(完全)」状態の本質のままでいいと言っているのであって、ペルソナとして様々に変転している多重の自分のひとつのままでいいと言っているわけではないからです。
「ありのまま」に同調してしまう人の中には、他者から評価を得たい、自分の存在を人から肯定してもらいたい欲求がもとになっていることが多々あります。
それは誰でも持っていることなので悪いわけではありませんが、いつまでも他者評価によって自己が肯定されなければ満足できない状態では、「ありのまま」どころか、逆に「人のまま」「他者の言うまま」が自分の「ありのまま」と化してしまうおそれがあります。
マルセイユタロットの教えの場合、自分のほとんどの状態(本質からずれている見方をしている状態)は、「そのままでいい」とはなりません。人は向上し、変化を求める生き物でもあります。そのままでいいのは、コアにある部分です。
言い換えれば、コアな部分を思い出す、取り戻すためには、今の「ありのまま」の状態では問題になることが多く、その問題状況とは、幻想(今のありのままの状態)で納得するよう、自分をだましていることだと言ってもよいでしょう。
私たちは、ありのままになるためには、ある「力」を取り戻す必要があるのです。その過程では、破壊と創造(再生)はつきものです。
「アナと雪の女王」の歌の映像でも、氷を割るほどの力と、同時に割れた瞬間に氷の結晶が幾何学的に出来上がるシーンがセットで表現されています。
これが破壊と創造を象徴していると言えましょう。ありのままのためには、変わることは常なのです。
同じであるには同じではないことを目指す。
マルセイユタロットのカードによれば、緩やかに進んだり、ただ身を任せるようにしたりする時と、厳しく律したり、きちんと目標と計画性をもって進めたりするほうがよい場合と、その両方があると伝えられます。
色々な方が、「こうすれば幸せになれる」「こうしたら願いが叶う」とか、様々なことをお話されます。有料で伝達されている人もあれば、無料やただのネタという感じで話されている人もいます。
私は、これらのことを見たり聞いたりするうえで、時には「それは違うんじゃないか?」「いやー、まったくその通り」「果たして、これは料金に見合うのか?」「もったいないなぁ、お金払ってでももっと聞きたいよ」など、それこそ、自分の中でも「様々に」思うことがあります。
冷静に考えてみますと、面白いもので、他人の表現も色々、そしてそれを感じたり、評価したりする自分も「色々」なのですね。
ということは、ものすごい量の「色々」が内と外であるわけです。これは見方を変えれば、すばらしいことです。
内なる感じ方においてでも、別の人ではまったく異なる思い方、感じ方をされているはずです。
ということは、それだけ「内なる」ものも無数に近くあるということです。
そう、これらがまさにマルセイユタロットでいう、「世界」のカードです。ありとあらゆるものが存在し、しかしひとつの「世界」として包括されます。
「世界」のカードを見ていると、バラエティこそ世界であるということがわかってきます。昔の中国の「諸子百家」ではありませんが、意見や感じ方はたくさんあって当たり前なわけです。
たとえ真理がひとつであっても、その見方や表現方法は個性を持つ。これがこの世であり、世界でしょう。
さて、話が戻りますが、そうは言っても、自分が幸せになることや願望は叶えたいと思うのが人情です。
世界は多様で正解はひとつではないにしろ、何か自分にとって合う方法があるはずだと考えます。
そうやって、あれこれ本を読んだり、セミナーを受けたりします。これも悪いわけではありません。
世界として、人や物事が色々な表現をしてくれているわけで、それを味わってみることにもなるのですから。
ですが、ここで考えたいのは、誰かが伝えている方法が、まったくそのままの通りで自分に合うのかどうかという点です。
さきほど世界はバラエティであり、内と外の多様さがあると言いました。
ということは、人間が遺伝子構造自体は同一でも、誰一人同じ人がいないというように(情報が違うとも言えます)、真の意味で「自分に合う方法」というのは、まさに自分・オリジナルでしかないのだとわかります。
人の言っていることはどれも正しく、しかし自分にとっては正解ではないということです(部分的には正解でもあります)。
どうしても結果が出ないとか、どうも違和感を覚えるというのは、実は当たり前かもしれません。それはあなたに合っていないというより、あなたのオリジナルに昇華していない(発見していない)というのが正しいかもしれないのです。
オリジナルを発見・創造するのには、無から難しいです。型を学んだり、他の人の方法をトレースしたりすることも必要でしょう。
その意味で、誰かに学び、その技術なり方法なりを実践してみることです。しばらくやって効果がないのなら、また別のものを学習したり、試したりすることもよいでしょう。
そうやって、自分の方法を構築するわけです。
人生は自分の個性表現と言い換えてもよいものです。
他人の真似をしてもいいのですが、それは結局、自分の人生を自分のものにするための、一部のモデルに過ぎません。
自分の人生は自分でしか生きられませんし、まったく同じ経験や感じ方は、他人では誰一人できないのです。
しかしながら、これも「世界」のカードが語ることですが、世の中や人は多様であっても、次第にひとつとしてまとめて行くことができます。たくさんの人が最終的には「人間」としての種にまとまるように、です。
タロットでは4つのグルーピングや世界観が述べられています。
それは小アルカナというパートには顕著に示されていますが、マルセイユタロットの私の使っている言い方では、「剣」「杯」「杖」「玉」、つまり四大元素の「風」「水」「火」「地」となります。
この4つの組に見られる表現や質がやはり存在し、その傾向が強く出たり、合う合わないなどの気質が見えたりします。
これを単純な性格論のように考えてはいけません。世界・宇宙の質表現なので、人間だけのことではないのです。アストロロジー(西洋占星術)的にはサインや惑星の表すエネルギーとしても関係してきます。
そうした大局的規模からミクロや心の世界まで関係するのが四大なのですが、このことはあまり理解されていません。
私も当初はよくわかりませんでしたが、マルセイユタロットの構造を見ていると、自然に心に入ってきました。(まだまだ学びと理解の途上ですが)
要は、こうした古代の世界観を通して、大なるものと小なるもの、つまり宇宙と自分個性との関係を知り、自分のオリジナル道を発見して、自分にあった表現と生き方をしていけば、それすなわち、楽(解放・自由)や幸せにつながるということなのです。
言葉で言うとまったくの矛盾になりますが、「人は同じであり、しかし全員、別でもある」ということを理解するのが重要なのです。
これには安易に調和や同一、一体を求めるよりも、逆に表面的には分離や不調和であることを目指す(それが悪いことではないことを理解する)ことのほうが大切だとわかってきます。実はまったく同じことなのですから。
タロットの扱いにおける二面(二元)
タロットをどのように扱うか、それは意外と大切な問題です。
この場合の「扱う」とは、タロットの活用のことではなく、どのようにタロットと接するかということです。
タロットは紙の上に絵柄が載っている、まさに「カード」です。
といういことは、当たり前ですが、まずはモノであり物質だということです。
それもさきほど述べたように材質が「紙」なので、プラスチックとか金属などとは違い、痛みやすいのです。
カードによってはコーティングがしっかりされているものもあって、見た目はさほど痛まないように感じるのですが、やはり長い間使用していると、角のあたりが曲がってきたり、絵柄の表面が薄くなったり(塗料がはげたり)します。
当たり前ですが、自分専門(自分だけのために使う人)で、あまりタロットを使わない人は、そのきれいさは長期間保てます。逆に、対人向けにリーディングや占いをたくさん行う人は、かなり早いペースで痛みが来ます。プロの人などは顕著でしょう。
教える先生によっては、タロットはあまり換えない(新品に取り替えない)ほうがよい言われる方もおられるかもしれませんが(その理由もあるにはあります、それについてはまた別の機会に)、私は痛めば新しいものに交換することをおすすめしています。
やはりくたくたになったタロットは、自分であっても、リーディングされるクライアントにとっても、見た目やさわり心地がよくなく、気分も悪くなるからです。
いずれにしても、痛みやすいタロットは、物理的に丁寧に扱い、使ったあとは布でふくなど、クリーニングもしっかり行っておく必要があります。
それからタロットはもうひとつ、精神的・霊的に扱わなくてはならない部分があります。これを信じるか信じないかは個人の自由ですが、私はタロットには物理的な部分以外の、目に見えない表現の世界があると思っています。
それは例えば、カードをきれいにしても、ドロッとした重さを感じたり、反対に見た目は何ともないのに、以前よりクリアーになっているのを感じたりするからです。ほかにも人によってはタロットの意志を感じたり、霊的な存在のコンタクトが入るようなこともあったりします。(タロットの精霊の存在)
「そんなものは気分の問題や思い込みに過ぎない」という人もいるでしょう。ただ、そう言い張る人はタロットは真剣にされないほうがいいと思います。あまり向いていないとはっきり言っておきましょう。
少なくとも精神世界に関心や興味が抱ける人でないと、タロットを扱うことが難しくなります。
もし純粋に物質・モノとしてカードを扱いたければ、カードを自作したり、トランプや気に入った絵のついたカードで、物事を投影してみるとよいと思います。それでも心理的な使い方までは可能でしょう。(ただし実はトランプやほかのカードにあっても、精神世界の表現は存在します)
ということで、「タロットの扱い」ということになりますと、モノとして大切にする部分と、目に見えない分野も表現している「霊的な存在」として扱う部分とのふたつの意味があるわけです。
後者は最初は難しいかもしれませんが、精神の表現を見る(「見る」ことは難しいのですが)ためには、信じることが最初の段階となってくるのです。
信じるというより、そういう世界があることを受け入れると言ったほうがよいでしょうか。
逆説的になるのですが、信じること・受け入れることで、向こう側の世界は半ば形のように現れてくるのです。(実際ではなく、自分の精神に)
ますます混乱するかもしれませんが、あなたがそれを創り上げると言ってもいいかもしれません。物理的なモノとしてのカードは現実にすでに存在し、誰であっても見ること・感じる(五感で)ことが可能です。
しかし、霊的・精神的カードの世界は、誰もがわかるわけではなく、さらにいうならば、個別的(それぞれ扱う人によって個性が出る)世界でもあります。あなたが感じようとしなければ、その世界は扉を滅多に開くことはありません。(何もしないと、最初は「ない世界」に等しいということ)
逆にあなたが信じ、感じようとすれば、あなたのレベルに応じて扉は開閉(閉まることもあるのが重要です)されます。
世の中は二元(ふたつの質の表現)で現れる世界です。実際やモノの世界と、精神や心の世界のふたつでひとつです。タロットは如実にそれが表れる「霊物」両面の世界なのです。
マルセイユタロットが示す「悟り」
マルセイユタロットには、いわゆる「悟り」の道が描かれているのですが、これが最大にしてもっともシンプルなマルセイユタロットの秘密です。
なんだそんな簡単なことが秘密だったの?と思うかしもれませんが、いいですか、「悟り」ですよ、「悟り」
「悟りの道」を示唆しているものなんて、そうそう世の中にはありません。
ほかにあるとすれば、多くの人は仏教などの経典をイメージされるかもしれませんよね。あるいは高次に啓示を受けた人物が書いたものとか。
それが、絵のついたカードごとき(一般の人が思う感覚ではこうでしょう)に象徴されているのです。考えてみれば不思議なことです。
とはいえ、現実的には「悟り」なんて言うと、宗教ぽいですし、あまりにも大きなテーマで、「そんなこと無理無理」「考えるだけ無駄」「そんなこと思っても、現実的に生活が楽になるわけではない」と思うのが本音でしょう。
そう、実はあまりにもテーマが壮大すぎると、人は自分のことと感じることができません。
精神世界が宗教ぽくなってしまうのも、「精神」なので物質や現実とのリンクが希薄なことと同時に、このように扱うテーマがあまりに広大なので、とらえがたい、現実感がないというのが理由でしょう。
特に人が実際に悩んだり、苦しんだりすることは、例えば「目の前の好きな人の気持ちがどうなのか?」とか、「お金が足りない、何とかしなくては・・」とか、「毎日の仕事がつらい、つまらない・・」とか、狭く個人的なテーマであることが多く、いちいち宇宙とか愛とか感じている暇はないんだよ、という方が実際ではと思います。
しかし、実は壮大なテーマと個人的で卑近な問題・課題はつながっているのです。というより、つなげけていくと、気持ちが楽になったり、現実的な生活や悩みが縮小したり、解消したりしていきます。
ただ、個別テーマと大きな全体テーマの関係性が切り離されていると、どちらか一方だけをしきりに向き合おうとして、それは一時的な問題解決にはなりますが、またぞろ、似たような身近な問題や課題としてテーマが浮上してきます。
宇宙は大きなことを気付かせるために、身近で個別なあなた自身のことや、あなたの周囲で起こる小さな事で表現させる(わからせる)のです。
マルセイユタロットの場合、この個別と全体という関係性をうまくつなげてくれるツールとして活用することができます。
いわばそれは、「悟り」というようなでっかいことを想定しながら、毎日の生活の中で「悟り」につながる小さな事ことを発見していく作業とも言えます。
両者の関係性に意味を見い出せていない時は、それは無駄な作業であり、ちっとも楽しくありません。
ところが、タロットを使えば、カード一枚一枚に大きなテーマと小さなテーマが同時に含まれ、気づきが待っていることが見えてきます。
簡単に言えば、私たちが「気づき」や「発見」「理解」「腑に落ちる」「わかった!」「そうだったのか」という言葉で呼ぶその現象こそ、実は「悟り」なのです。
と、私はタロットを見ながら思うのです。(大きな悟りに至っているわけではないので、大それたことは言えませんが)
小さな「悟り」があることは、大きな「悟り」があるからという前提にもなります。
小さな悟りを積み重ねると、真の悟りになるという考えではなく、もともと悟っている存在で完全であることを、小さな悟りを蓄積して(刺激にして)思い出すという方向性の逆で見るのです。すると、大きな「悟り」が自分のどこかにすでに存在していることを想定できるようになります。
すでに自分は悟っている存在ながら、現実生活の中であえてハンディをつけ、悟りゲームを楽しんでいるようなものと考えればよいでしょう。
マルセイユタロットは大アルカナと小アルカナのデザインが明確に区別されているのが特徴です。
私も当初はよくわからないところもあったのですが、これは明らかに意図してそうされていることが次第に確信をもって理解できてきました。
占い的にタロットを使っていてはなかなかわからないことであり、そのため、占い師の使うタロットは大も小もほぼ同じデザインであったり、同じような絵柄であったりするカードが使われるわけです。その方が「占い」としては使いやすいでしょう。
しかしマルセイユタロットはふたつ(大アルカナと小アルカナ)を区別する必要があったのです。
それが、先述した大きなテーマと小さな身近なテーマとの区別であり、そしてタロットがセット(デッキ)としてひと組78枚(大アルカナ22枚・小アルカナ56枚)であるように、大と小のアルカナが合わされることで、大テーマと小テーマの統合が図られる仕組みになっているのです。
しかも、大アルカナにもそれぞれ小さなテーマが含まれており、どのカードもたった一枚だけで完全性が象徴されています。それゆえ、一枚一枚を具体的なテーマや課題にも象徴させることができ、抽象的ながら具体的な事柄に対処することが可能になってくるのです。
今さらながら、マルセイユタロットのおそるべきとも言える、その計算しつくされた構成と構造に、驚きを覚えます。
マルセイユタロットの故地を訪れること。
何かのツールや技術については、その開発背景やルーツを探ると、より理解を深めることができる場合があります。
私の扱うマルセイユタロットについても同じです。
世にタロットを学びたい、使いたいという人も多いですし、実際に占いやリーディングツールに活用されている方もたくさんいらっしゃいます。
ただ、そのタロットの成り立ちやルーツ・背景を調べたり、実際に製作されたであろう所以の土地など行かれるたりする方はそんなに多くはないように思います。
あくまで個人的な考えと思いですが、マルセイユタロットの場合は、特に上記に述べたことが重要で、できれば私は南仏に行ってみたほうがよいと感じます。
またマルセイユタロットに流れる歴史的・秘教的背景などにもふれていたほうが、タロットに魂が入るといいますか、その扱いや思いの厚みが違ってくるように思います。
もちろんそんなことに興味はなくても、マルセイユタロットを使うこともできますし、逆にあまりのめり込みすぎるのも因習的にとらわれて、まさに「思い」が「重い」に変わり、自分やクライアントを縛る結果ともなりかねないこともあるでしょう。
それでも、個人的には南仏とマルセイユタロットに込められた歴史的背景は知っておいたほうがよいように思えるのです。
マルセイユタロットに関係する、特に南仏やスペイン国境近くの場所に行くのは、私の場合の例ですが、それまでマルセイユタロットに強い興味を感じていたとしても、霊的なと言いますか、もっと深い縁のつながりのようなもの、心や魂のようなものは、訪れる前とでは、かなり違ったと言えました。
実際に訪問してみますと、何かが違うのです。「ああ、この雰囲気がこのタロットに流れているのだな」と感じる「何か」です。
土地土地にはヨーロッパでいうゲニウス・ロキという、日本でいう土地神様みたいな精霊がいると考えられています。
それに感応するということもありますし、イエス信仰だけではない、ヨーロッパや中南米ラテン系国々におけるマリア信仰(マグダラのマリア・聖母マリア等)のカトリックの日常性にもふれるということにも意味があると思います。(キリスト教にふれるというよりも、キリスト教の表現を借りて現れる女神信仰的なものを感じるということです)
リーディングにおいても、私は南仏に行った後と、その前では明らかに雰囲気やとらえ方が変わったのを自覚しました。
霊的なパイプやトンネルが日本とヨーロッパという距離を超えて、つながったというような意識・感覚です。
カードに伝統的に培われてきたエネルギーが入魂されると言ってもいいでしょう。
※カード自体に入るのではなく、カードに描かれている構図と象徴によって、エネルギーがキャッチされると表現したほうが正確かもしれません。
とはいえ、なかなかフランスに時間を取って行くというのも、普通はそう簡単なことではありませんから、とりあえずは写真や絵、インターネットの情報などで雰囲気に浸るというのも手です。
また日本でも教会や西洋的なものにふれる機会や場所に意識的に行ってみるというのも、ひとつの方法と言えます。
歴史や背景については、私の講座でもわかりやすく伝えています。やはりマルセイユタロットの力の発動には、段階的に様々な知識と感覚の受容が必要とされるように思います。