スピリチュアル

宝くじについて。

年末に人々の関心を引くもののひとつに、「宝くじ」や「抽選くじ」といったものがあります。

恒例のジャンボ宝くじもあれば、商店街・デパートなどでのくじ引きもあるでしょう。

ということで、特にこの「宝くじ」について思うところを書きたいと思います。

「宝くじ」はギャンブルかと言われると難しいところで、普通にたくさんの人が買いますし、それにのめり込んで財産を失い、人生を破綻させたという人はあまり聞きませんから、宝くじはギャンブルとは言えないかもしれません。

しかし何か普通ではないお金の稼ぎ方・失い方に入りますし、というものが大きく作用するという意味では、やはりギャンブルと言える部分もあるでしょう。

いずれにしても、何事もプラス・マイナス面があるものです。

今日は普通とは違った観点で、その「宝くじ」のマイナス面とプラス面を見ていきます。

まずプラス面ですが、当たり前のことのように思いますが、実は心理的高揚効果が高いという点です。

宝くじを買う人は、もちろん当たってほしいという思いでいるのでしょうが、結構多くの人が、「当たる」ということより、「買うこと自体」を楽しんでいるように見えます。

いわゆる「夢を買う」というヤツですが、これは言い換えれば、「夢という商品を買ってお金を消費している」ということにもなります。

つまり、人は品物を買って満足するように、「宝くじ」という夢商品を買って自分を満足させているということです。

当たれば消費額はリターンされたり、それこそ今年の流行言葉で言えば「倍返し」(笑)以上で返ってきたりするでしょうが、普通は当たらず、元金分は戻りません。

要するに、「宝くじ商品を買う」という消費行為をしたに過ぎないのですが、それでも「宝くじ」という商品価値に、その支払ったお金分はあると思って割り切ることができるから、たくさんの人は毎年買っているわけですね。

現代人が品物を買うのは、生存の理由ではほとんどありませんので、結局は心理的満足に基づくものと言えます。簡単にいえば、「宝くじ」を買うのは気分がよい、欲求を満たしているということです。

当たるかもしれない・・当たらなくてもワクワクできる・・ということで、買うこと自体に楽しみがあり、気持ちもよくなって、その瞬間、スピリチュアル的に言えば、周波数や波動が本人としては上昇するわけです。

恒例行事のように毎年宝くじを買うような人は、ある意味、気分のリセットをしていると言えます。宝くじを買うという行為が、実は自分の運気を戻したり、上げたりしていることもあるわけです。

ただ、「当たらなかった・・」と結果を悔やみ、あまりにも当選こだわる場合は、気分の上昇や運気アップどころか、逆効果になるので、気軽に楽しむということで買うのが一番いいと言えるかもしれません。

次にマイナス面について述べます。これもまた、あまり語られていない側面で言います。

それは、自力でお金を稼ぐという関心が希薄になるという点です。

宝くじを買うということは、お金がほしい、お金を手に入れたいということですが、それは自力ではなく完全な他力で、まさに運任せです。

そういう気持ちでいる限り、自分が大金を稼ぐことのできる存在であるという意識には行きません。

「私はしがないサラリーマンやOL、派遣社員ですので・・」「私は年も取っていますから・・」というように、お金を稼ぐ手段はほかにはないと思っているかもしれませんが、果たして本当にそうなのかはわからないものです。

自己の能力・可能性を限定し、自分は宝くじでしかお金をほかに手に入れる術を持たないと思い込ませているのであり、もっと言えば、自分で自分を救うことはできない(宝くじというものが救ってくれる)と思っているということになります。

自分は「外から救われるべきもの」となって、基本、依存的精神となります。

さらには、運のよいことも悪いことも、文字通り「運」によるもので、運というコントロール不能な外側の何かによって、自分は支配されているという潜在意識ともなるのです。

まだ「支配されている」と表せる時はよいのですが、これがやがてオートマチックになると、「支配されるべき」となって、「されたほうがよい」「されることが心地よい」と変化して行きます。これはマルセイユタロットで言う「悪魔」の支配状態です。

宝くじに頼るということは、マルセイユタロットの教義で言えば、グノーシスの覚醒から遠ざかることになります。

さらに、スピリチュアル傾向の人で、宝くじに強く期待する人に、次のようなことも考えてみることをおすすめします。

スピリチュアルなことに関心がある人は、たいてい、統合社会を目指し、葛藤や競争、戦いの激しい社会から脱却したいと願っているはずです。

競争が起こるというのは比較があるからで、宝くじのシステムというのは、その最たるものです。

一等とか、二等とか、たとえ五等とかでも、一握りの当たる人と、その他大勢の非当選者で成り立つものです。これは現代社会の搾取構造とよく似ています。

宝くじを買って当選を期待するということは、あなたは知らず知らずのうちに競争システムに荷担しているのであり、それを自分自身が強化していることに気がつかなくてなりません。

とはいえ、くじで集められたお金が、福祉やその他社会貢献で役立てられている(かどうかは実はわからないのですが・・)こともありますので、一概にはシステムが悪いとは言えません。

まあ、つまり、「宝くじ」がある社会はというのは、そのシステムが必要な社会だと言えるでしょうし、そのレベルにある惑星だとも述べることもできます。

それから時々タロットを習う人で、「タロットで宝くじを当てられますか?」という質問をされる方がいらっしゃまいすが、ネタで言うのは面白くて、その観点でやってみるのは楽しい部分もありますが、真面目にそう質問される方は、少なくとも私の伝えるマルセイユタロットとは質が合わないとお答えするしかありません。

誤解しないでいただきたいのは、宝くじが悪だと言ったり、絶対にしてはいけないと言っているのではなく、その本質を知った上で、自分が楽しむひとつの方法だと割り切ってやれば、別に問題はないのです。タロットと宝くじに関しても同じです。

むしろがんじがらめに考えたり、行動を規制し過ぎたりするほうが、実はもっと自分にとって悪質です。

スピリチュアル的には、すべてのものは、神または自分が、自分の経験や選択のために用意した乗り物や道具だと言えるのです。


記憶の再現の不思議さ

皆さんは写真のアルバムを見ることがありますか?

最近はビデオや動画データとして残していることが増えていますので、写真としてのアルバムは少なくなっているのかしもれません。

写真には写真の味・良さがありますし、動画は動画で音や動きがあって面白いですよね。昔には残せなかった形ですし。

現在、写真の3D的な再現装置はありますが、動画を手軽に3D再現するまでには至っていないと思います。

これが簡単に家庭でできるようになってきますと、かなり思い出の記憶装置と再現としてはリアルになってくるでしょう。

今は音とか映像だけの動きかもしれませんが、やがて匂いとか触覚的な感覚など、五感でキャッチされたことも再現されるようになって、ほとんど現実と変わらない状態になることも予想されます。

記憶されたデータは科学的には変わることはない(劣化したり破壊されたりはあるでしょうが)のですが、心理的に変化する場合があります。

SF映画のように、タイムスリップした者が歴史を変えてしまったら、現代のその過去を撮影した時の写真にも変化が出る、というようなものとはもちろん違います。(苦笑)

ところが不思議なもので、現在の自分に大きな変化が生まれれば、過去の自分の写真を改めて見た時、なぜか以前見た時と、雰囲気・ニュアンス的に違っているように感じられることがあるのです。

心理的に言えば、今の心境が過去の(写真を見た時の)心境とは異なるので、それは当然であり、別に不思議でも何でもないと言えます。これは常識的な見方です。

ただ、これを逆転させて見ると面白い発想ができます。

写真を見ている自分は、「自分」として別人になったわけではありません。多少の身長や体重の変化はあったとしても、根本的に人間として変化はない「自分」のはずです。

しかし実際は写真が前とは違うように感じられたというのは、自分ではなく、写真の方が何か変化したのではないかと見ることもできます。

いや、両方(自分も変化し、写真も変化したの)かもしれません。

現在わかっている物理法則により、写真や動画データが別物に勝手に変わることはありえないでしょう。ここがこの世界での不変の法則と言いますか、限定されたルールだと思います。

一方で、変わらないようでいて変わっていく、あるいは変えられないと思っていたものでも、変えられることがあるかもしれないのです。

ひとつの限定されたルールや時空間を設定すると、その世界では不変であり、ルールに縛られ、変えることはなかなかできないでしょう

しかし多数の世界が同時存在していたり、次元として移行するという発想と技術があれば、同じ世界では不変であったものも、簡単に変化をさせることができます。

「変える」と言うより、マクロ的に見れば、実は似たような世界間での移動に過ぎない状態であり、それがミクロ的(元の世界の視点)に見れば、何かが変わっているように感じられるということです。

「写真データが変わることはなく、こちらの心境が変わっているだけ」と思うのが限定された世界です。(ただ心境が変わることも次元移行、多数世界だと言えますが)

これに対して、「写真のほうも変化している」と見るのが、別次元を想定する考え方です。

何を言っているのかわからないかもしれませんが、この頭がおしくなるような思考法を統合できれば、かなり発想の転換と、現実を超える方法が見つかる可能性が高いです。

今述べている事柄は、言わば、「おかしい、変だ、狂っている」という感じですが、それはタロットで表現すれば、「愚者」がイメージできます。「愚者」にならなければ、実はスピリチュアルな道に進めないと言われています。

今回の例では写真を例にしていますが、人々の記憶やイメージとなれば、もっと限定されたもの(物理的ルール)が少なくなりますので、かなり過去や未来を変えることが可能になります。

あなたがまったく思い出せなくなるような人物や、反対にふいに記憶に出てくる人や光景、まだ実際に経験していないけれども夢や瞑想のイメージで出現してくるものなど、実は過去・未来を操作したり、自分が変わってきたことにより、過去や未来からの働きかけと修正も起こってきたりしているのだと考えることもできます。

物理的にも写真やアルバムが紛失したり(逆になくなっていたものが出てきたり)、嫌な時代の人の記憶が自分だけではなく、同窓会などでほかの人の記憶からも薄れていたり、そうしたことが発生することがあるのです。

まあこれも、意識の変化による、自分の注意や集中する方向性の変化ということで片付けることも可能です。

しかし、その理由であっても、こういうことも言えます。

例えばもし過去においていじめで苦しんだ人が、思い出したくもない人物や場所があるのに、それが今も出てきてつらくなってしまうという場合があったとします

その後、この人のその経験と思い出が浄化されたり、癒されたりするようなことがあれば、気持ちはとても楽になりますので、以前のように思い出すことも少なくなり、それ以降の人生が軽やかになるのは想像できると思います。

これを「データの変換」「書き換え」だと言ってしまえば、シンプルなことであり、そう理解したほうがわかりやすいかもしれません。NLP(神経言語プログラミング)に近くなってきますね。

この記事の最初に方で、「次第に記録再現がリアルなものに技術的にはなってくるだろう」というような意味を述べたのは、それによって、リアルなデータ書き換えも可能になりそうだからです。

自己暗示と言えば自己暗示かもしれませんが、リアルな修正追体験ができれば、それだけまさに人をリアルに変化させる可能性があるということであり、心理的には非常に有用な技術として期待できそうです。

ただし、同じくらい洗脳の危険もありますね。記憶をすり替えられたり、変えられたりすることも簡単になってくるかもしれません。何事もプラスマイナスの要素はあります。

ということは、私たちの意識が、マイナス面もわかったうえで、うまく使ってコントロールできるレベルに達することが、技術のよりよい進歩にもつながるということです。

ここに個人個人の意識レベルの向上が、全体の発展にも貢献することが見て取れます。


日常と非日常的時間・空間のサイクルと効果

さて、この前の記事で日常と非日常の話を出しましたので、今度はまた、それについてアプローチを変えて書きたいと思います。

日常と非日常、前回でも書きましたが、結局は意識によって区別されているに過ぎず、環境の違いではないことはお伝えしました。

しかしながら、一方で、実際の環境というものも無視することはできません。それは私たちが意識や心だけの存在ではないからです。

心を変えるには外からと内からの方法がありますが、外の環境の変化は、やはり自分の心に多大な影響があると言わざるを得ません。

静かなところでは落ち着いた気持ちになり、逆に騒々しい場所ではざわついた感じに心もなってきます。

ところが、心をあまり乱されない訓練を受けていたり、思考のレベルが上がって意識的に拡大していたりすると、ほとんど環境によって左右されることが少なくなります。

ここに、心の鍛え方、物事のとらえ方、考え方による幸せや安定をもたらす技術の根拠が見えてきます。

とは言うものの、先程述べたように、なかなか普通は環境からまったく影響を受けない心境になるのは難しいものです。

ということであれば、環境を使って意識や心も変化させたり、楽しんだりするという別の考え方もできます。

むしろその方が簡単かもしれません。

実はそれは、特別に意識せずとも、皆さんが普通にやっていることです。「気分転換」のための移動・変化というやつです。

大きなものは引っ越しや海外留学・長期研修などですし、小さなものではカフェに行ったり、ショッピングを楽しんだり、旅行に行ったり、音楽を聴いたりすることなどもそうです。

昔の日本では、「ハレ」と「ケ」と言って、祭祀を行うハレの日と、日常の農耕生活をするケとの区別がありました。

日常生活の繰り返しではエネルギーが次第に枯渇し、「ケガレ」となるため、神のエネルギーを祭祀によって受け入れ再生復活するという民俗行事や信仰があったわけです。(これも民俗学での一説ですので、必ずしもこれらの用語がその理由であるとは言えませんが)

翻って私たちの現代では、かつてのようなメリハリある生活が失われています。

民俗学者によっては、今はいつも「ハレ」(つまり非日常、興奮状態)になっているという人もいるくらいです。あるいは逆に聖なるハレの日はなく、いつも「ケガレ」(エネルギーを失っている低俗)状態だと主張する方もいます。

私も思うのは、今の人たちが年中ハレ状態(お祭り状態)であると言えますし、年中ケガレ状態(エネルギー枯渇状態)とも言えるように感じます。

要はバランスや調整がおしかくなって踊らされており、本来持つ創造的エネルギーが浪費させられている気がするのです。多くは消費に向けられていると言えます。

マルセイユタロットでは「女帝」や「13」と関係してきますが、創造と破壊のエネルギーがアンバランスであり、創造したくても阻害されたり消費させられたりし、終了再生しようとしてもそれが妨げられ、無駄に続けさせられているのが現代かもしれません。

よって、私たは意識的に自分で「ハレ」と「ケ」のリズムを創り出す必要がありそうです。

たとえば一年を通しても、どこかで自分をリセットしたり、見直したりする時期をチェックポイントとして持っておくとよいと思います。

便利なのは、やはり星の運行によって生じる特別ポイントを使うやり方です。わかりやすいものでは、春・秋分、夏至・冬至などが使えます。

また一ヶ月や一週間、さらには一日のうちでも、メリハリをつける意識を持ち、やはり聖と俗静と動といったふたつのバランスを取るとよいでしょう。またこのバランスは時間量的に全く同じではなく、むしろ非日常や聖というものは短いもの(しかしエネルギーは強いもの)です。

とにかく、どっぷりと日常で流される生活を続けるのでなく、どこかで自分の好きな場所や、気持ちが正されるような空間・時間を持ち、自分をリセットしてみることです。

環境から変えるということでは、旅などもいいでしょう。

その旅の場合も、やたらめったら日常意識的にたくさんの観光地巡りをして行くのではなく、非日常というものを意識して、普通では味わえない感覚や場所を特別に訪れると、ハレ効果は高くなります。

あなたが今、創造的な自分になっていないと感じているのなら、自分を見直せる空間と時間をもっと作ったり、非日常な環境を経験してみたりするとよいでしょう。

一言で言えば、自分の神性(内なる神。それは外なる偉大な神でもあります)とつながる「とき」を持つということです。

マルセイユタロットにふれる時間というのも、その目的のひとつなのです。


他人は自分の鏡のようでいて違うこともある。

スピリチュアルや心理の世界ではよく言われる「他人は自分の(心の)鏡

このブログでも何度か言及していますが、この考え方をどんな場面でも適用してしまうと、逆に自分を縛ってしまうことになります。

まあ、「考え方」というものは、おしなべてそういうことになりがちです。

すなわち、原理主義というか、「絶対」という信じ込み方をすれば、たとえ心を解放する技術だと伝えられても、逆の作用を及ぼすこともあるということです。

そして、何でもそうですが、「逆もまた真なり」というパターンや、「まったく反対のことを想像してみる」のも、実は法則を適用したり、活用したりする上でも有効です。

さて「他人は自分の鏡」ということですが、この場合、相手に自分の似たところを探す、あるいは気付かせてもらうことになります。

ということは、注視するのは、いつも共通点ということになってしまいます。

しかし、そうは言っても他人は他人ですから、違う点があるのも当たり前です。

従って、相手に自分と同じところがある、あるいは自分の部分で相手に表れているものがあると思うと同時に、やはり自分と相手では違うこともあると認識するのも大切です。

共通点ももちろん意味がありますが、相違点もしかりなのです。

たとえば極端なことを言えば、男女のカップルで共通点を見い出すこともありますが、そもそもが女性・男性と性が異なります。

もちろんこのような明かな違いだけではなく、微妙な異なり方もあるはずです。「ここまではよく似ているけれど、これは何か彼(彼女)とは違うよ」といった感じで。

そこがあなたの個性であり、実は長所人生における個性表現(仕事・役割・趣味の傾向など)となりうる可能性があるのです。

ですから、゛他人のネガティブな好意や感情を見て、「ああ、私にもこういうところはあるのだな」と気付くことも結構なのですが、逆に「いや、待てよ、そういうところもあるけれども、こんなところでこんな表現はしないよな」と思い返すこともできるのです。

鏡ではあっても、微妙な揺らぎのある鏡であり、そっくりそのまま映し(写し)出すということではありません。

他人を見て、自分自身が成長していることや発展していることに気付く場合だってあります。

それは相手と似ている部分があるからこそ比べやすく、その上でやはり違いもあって、その違いが自分の個性・成長・変容ポイントとして再浮上してくるのです。

もちろん違いが逆に、自分のマイナス点や低下している部分ということもあり得ます。

マルセイユタロットの「月」や「太陽」にはそうしたことも描かれています。

まったく相手や他人・周囲の環境を切り離して見てしまうより、やはり自分の投影装置や鏡として自己認識・自己洞察のプロセスとして考える方法は有用でしょう。

しかし同時に、そっくりそのまま文字通り「鏡」として見るのではなく、つぶさに観察し、相手との違和感や異質点を発見するのも、自分にとって建設的な見方となります。

特に同質のようでいて異質、異質のようでよく見れば同質という部分まで踏み込めば、分離しながらも統合、統合しながらも分離という宇宙的エネルギー表現の本質に行き着くこともあるかもしれません。

世の中は矛盾のオンパレードなのですが、そこには実は矛盾がないという禅問答的(笑)世界なのです。

マルセイユタロットを知ったり、星を知ったり、数を知ったりすること(つまり古代象徴学を学ぶこと)で、この矛盾的異質的かつ統合的同質的世界を理解するのに役立ちます。


人は人、自分は自分と観るスピリチュアル。

精神的な世界観では人は皆同じで、すべてつながっているというものがあります。

一方、現実的には地球上に住む人、誰一人として自分とまったく同じ人間はいません

ただ種としての「人間」という大きな括りで見れば、やはり「ひとつ」と言えます。つまりは、どんどん抽象的的に思考していくと、どんなものでも同じになってくるということですね。

逆に言えば、具体的になればなるほど、違いが際立ってくることになります。

スピリチュアルなことや精神世界が好きな人にとっては、人類皆兄弟、宇宙はひとつ、人は自分の鏡みたいな考え方にもなじむでしょうし、そうした思考(志向でもありますが)で、普段から世の中や人のことを見ているかもしれません。

しかし先述したように、具体的・現実的になると、やはり違うように見えるのが事実なので、これを無視するわけにもいきません。

時にはこうした具体性を重視して考えたほうが、気が楽になることがあるのです。

平たく言えば、人は人、自分は自分という見方です。

世の中には、自分とまったく相容れない、あるいは自分の趣味・志向・常識等からかけ離れた人が存在します。それも、少なからず、と言うより、おそらくものすごくたくさんの人がいるでしょう。

報道やニュースでは、殺人をしたり、凶悪な犯罪を平気でしたりする残虐な人間を見ることがあります。

また日常生活においても、見た目普通の人が、あなたにとっては考えられない食事の仕方、話し方、感情の表し方などしているのを目撃したり、経験されたりしたことがあるでしょう。

これらを統合的(人と自分はひとつである)に考え、自分の潜在的なことや、宇宙からのメッセージ・象徴として気づきを獲得することも可能ですが、いつもいつもそればかりやっていると疲れてしまうこともあります。

統合があれば分離もあり、陽あれば陰ありとして、二元のエネルギーで表現できるのが宇宙の仕組みです。

ならば、人と自分を分けてみるのもアリなのです。

そうでないと、「神はそんな(ネガティブとして常軌を逸する)人間を創造するはずがない」とか、「自分の鏡として見た場合、自分がそんな要素を持っているとは考えられない」と悩む人が出てくるわけです。

ここで、スピリチュアルな人にも納得してもらえるよう、極めてシンプルな説明をすれば、「神はすべてを創り給うた」ということです。

ポジだろうがネガだろうが、ありとあらゆる表現があるのが世界や宇宙だと見るのです。マルセイユタロットの「愚者」や「世界」のひとつの見方でもあります。

そしてもっとも表現方法として、私たち「人間」が認識しやすいのが、ほかならぬ「人間そのものによる表現」です。言い換えれば、あまたの人間たち、一人一人個性を持つ人間全員が神の表現ツールなのです。

ですから、あなたとってひどい人もいれば優しい人もいますし、プラス・マイナスの意味でサプライズを起こすとんでもない野郎(笑)がいたり、同情や悲しみを誘う人がいたりもするわけです。

ある意味、「信じられない!」「考えられない!」と思える人に出会うことは、それだけ宇宙の多様さを実感するチャンスが訪れていると見ることができます。

男女で分かり合えないのも普通であり、逆に異質なもの同士でわかりあえた(統合できた)時、そこには新しい創造(愛や子供としての人間など)と歓喜も生まれます。

だからと言って、必ず統合しなければならないというわけでもありません。統合にもある種の働きかけや、のようなものがあると考えられるからです。

また、自分にとって相容れない人を必ず受け入れなさいということでもありません。

個人としての「人」ではなく、そのような「人の表現」の存在を受け入れ(表現を無理矢理自分に受け入れるのではなくて、表現が許されていること、及びその表見自体の存在を受け入れる)、宇宙のすばらしさに驚嘆するのです。

そして、その「宇宙」こそが、(高次の)自分であり、自分が結局全てを創造していると見ることもできます。

さあ、今日からあなたも、「うわー、こんなこと考える人いるんだ!」「すごい、こんな行動できるなんて!」「これはありえない!」と、人ではなく、その表現に対して意識してみましょう。

表現している人間個人に対しては、別に一時的には怒ったり、嫉妬したり、悲しんだりしてもよいのですが、それにずっと飲まれることはせず、「ああこれも宇宙のバラエティ表現・創造力の偉大なパワーの発現だよなぁ」と感嘆してみれば、感情の激流に流されることは少なくなるでしょう。

分離(解体)して統合(凝固)する、まるで錬金術の文句のようなことが、人間観察をしていると生じるのです。


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