スピリチュアル
波動が高いことがいいとは限らない。
以前、私は魂や霊性が向上するということは、上に上っていくことと誤解していた時がありました。
もし「悟り」のような境地かあるとすれば、どんどん自分が階段を上るがごとく、ピラミッドの頂上を目指していくものだと考えていたわけです。
もちろん、一面ではそういうことなのかもしれません。ヒエラルキーの法則は、ヘルメスの法則でもあります。
しかし、マルセイユタロットを続けてきて今思うのは、決して「上ること」「進むこと」「極めること」が、向上の意味ではないということです。
確かに私の講座の中にも、タロットの絵柄の示唆による霊的な向上の道程を示すことはあります。
これは今は比較的よく知られているので、ご存じの方も多いでしょうが、要は「世界」のカードがその完成(の境地)を表すというものです。
ところが、これだけの説明では、向上のほんの一部の面を指摘したに過ぎないことが、後々わかってきました。
タロットは多様で複層的な見方ができ、そこから得られる気づきや知識は膨大です。
が、それはもともと自分が持っていたもの、あるいは人生で得てきたものの再発見・再整理でもあります。
つまり、タロットはこれら(自分の内に持っているもの、すでに得てきた大切なもの)を覚醒させる(意識に上らせる)ためのツールになっているのです。
こうして、新たに登場してきた霊性の向上の意味というものが「階段ステップ状」のものではなく、平行あるいは下降、さらには螺旋や波状、円形など、四方八方にシフト・拡大する道の解釈でした。
考えてみれば、「世界」のカードは四方八方の拡大を絵柄からも意味します。
このイメージをシンプルに答えるとするのならば、どこにでも悟りはある、また今の意識段階でイメージする「悟り」ということ自体も多様であり、幻想でもあるということです。
「悟り」には悟れば悟るほど先の「悟り」があり、それはキリがなく、しかし全部「悟り」であるのも確かであるという奇妙な話になります。
こうなると、進むステップではなく、足踏みしながら浮いているような、再び巡り巡って現地点(今)に戻ることにもなりそうなのです。
虫の動きにも「悟り」があり、私たちのエゴといわれる部分にも「悟り」がある・・・このような感覚でしょうか。
以前、「堕天と昇天」ということで、上下の快楽と浄化・霊的向上があることを述べましたが、特にイメージの悪い堕天方向にもダイヤモンドのような輝きの原石があるのです。
ダイヤモンドも炭も、炭素としては同じであることで、このことはニュアンスとしてわかると思います。
スピリチュアル傾向の方に、もっと別の方法で述べるとするのならば、「波動が高い」というのがいいこととは限らないということでもあります。
そもそもいい・悪いではなく、振動数の違い、表現、まさに文字通り表れ方の違いだと思えばいいわけです。
波動を高くすることが目的ではなく、波動が高い・低いを経験し、適切で自由な選択と表現ができることが重要だと、今の私は考えています。
ただ「高い」を知らなければ選択もできません。ですから、それに至る実践と経験の必要性はあるでしょう。この点においては上を目指すのも意味があります。
同時に「低い」ものも、それはどういう状態なのか、どういう現れになるのかということを知る上でも、否定したり、忌避したりするのではなく、受け入れることが求められます。
その第一歩は、普段はいい・悪い、吉凶ということを感じつも(これを思うのは人として当たり前なので、そう感じる自分を一度認めます)、そこから脱却する意識と志向を持つことです。
マルセイユタロットの「月」と「太陽」にもこのことは象徴されますが、一度分離して統合するという観点が非常に重要です。
ところで私は現在、新講座を企画しています。
そのひとつに、大アルカナ22枚を使った具体的な自己変革・整理・統合の活用法をお伝えするものがあります。
私がマルセイユタロットで研鑽してたきたものを、思考法・技術として体系化したものになります。
そして今日述べたことは、これの核心に近いことになります。
実施の際には、皆さんにお話できることを楽しみにしております。
「運」の巡行・逆行とバランス
「運」の良し悪しという観点からすると、何事もまさに「運がいいこと」と「運が悪いこと」に分かれます。
言わば自分自身で、世界・事象をポジティブとネガティブのふたつに分けているようなものです。
エネルギー的には、ネガとポジという二面は存在すると考えられますので、その見方は大きな意味では間違っていないと言えるかもしれませんが、「いい・悪い」と評価した見方になっているのが問題です。
結局、「いい・悪い」という自分の主観で分けている限りは、真の意味で宇宙的なネガとポジではないと述べられるでしょうし、理解もできていないと分析できるかもしれません。
私がタロットリーディングを指導する時、占い的に吉凶判断を勧めないのは、こうした理由がひとつにはあるからです。
とはいえ、「運」という言葉自体、人間・社会にはあるのですから、昔からそれは目に見えずとも、人々が何らかのものとして感じ、想定してきたのは間違いありません。
無理に良し悪しとしてふたつに分けなくても、生きている限り、私たちは自然に自分にとってよいこと・悪いことを体験しますし、そう感じます。
けれども、これも多くの自己啓発系の本やセミナーで説明されているように、自分の基準・思い込み・価値観・信念のようなものによって、いいか悪いか判断され、色づけされたものです。
「こういう状態がいい・望ましい」「これはダメ」と決めたモノサシや法律が自分の中にあるわけです。それ自体も、ほとんどは生まれてきてからの環境と経験によって形成されています。
自分でもちろん作っているのですが、無自覚に人から植え付けられていることも多く、置かれた環境の身近なモデルから発生しているパターンが少なからず存在しています。
「良し悪し」判断の成り立ちの説明はともかくとしまして、運がよい悪いを感じるシーンは、実はランダムと言いますか、普通は計算が不可能です。
ある価値観や信念があったとしても、それに照らし合わせて判断する現実の出来事の発生の仕組みは、なかなか解明できないということです。
たとえば、ある場所に引っ越したり、旅行したりして、その土地での経験がアンラッキーであるケースと、ラッキーな場合があります。
病気になったり、交通機関が遅れていたり、人間関係がまずくなったりということが起こる反面、すごくスムースに物事が進んだり、すばらしい人との出会いがあったりすることもあるわけです。
これを占い・運命学などで見ると理由がわかることもありますが、本当にそれが正しいのかどうかは、今の科学的的考察にはなじまないものなのでわかりません。
ただこのケースだと、移住したり、移動したりすることそれ自体にいいも悪いも最初はあまり考えていなかったはずです。
いや、強いて言えば旅行や引っ越しに対しては、どちらかというと、皆、ポジティブな思いが最初にはあるのではないでしょうか。
それが実際の行動の中で、良し悪しで判断される経験に変わります。
ここで感情的に体感する「良し悪し」は、自分の信念とか価値観とかも超えた、ほとんど誰もが感じてしまう「良し悪し」ではないかと想像できます。
最初はむしろポジティブにとらえていたくらいですから、それが反転すること(もあるというの)は、自分の信念で判断する以上のものが起こったのだと考えることができるからです。
もちろん自分の信念・価値観によってどんな体験も見方が変わるので、それ(信念体系)を超えたとは言い難いですが、そういうものとは別の、やはり自分のその時持っている特質と合う合わないというようなことで表現できる「運気」というものの影響があるのではないかと感じられるわけです。
川の流れを逆行すればよりパワーが必要なように、あるいは騒がしいところで個人と濃密な会話をしようとしても聞き取りにくくて難しいように、自分のエネルギー(したいこと、欲求の体現するエネルギー)と、その場のエネルギー表現が著しく異なっている場合は、文字通り「自然」にならず、不調和を生み出すという認識です。
ですから、そういうものを「運気」というものであるならぱ、旅先・引っ越し先でのトラブルの例で挙げたようなことも、自分とその場との不調和で考えることは可能です。
これは自分の信念の判断から来る「良し悪し」とは、あまり関係ないことと言えるかもしれません。
ここまで書いてきますと、「ほら、やっぱり運の良し悪しはあるんじゃないの、だったら、占いで最初からそれを避けてよい運気になる道・タイミングを選択したほうがいいに決まっているわ」
と思う方がいらっしゃるのも当然です。
ただ、確かに一時的・短期的にはそうとも言えますが、長期的・大局的に見ますと、そうとも言い切れないところがあります。
というのは、結局、宇宙は調和(二元の力の統合)に向かいますので(というよりもともとそれである)、一見不調和のように見えて、どこかで調和がバランスが取れており、自分自身という観点であっても、その範囲以外の時間か空間においてバランスは計られると考えることができるからです。
例えば、川の流れに逆行すれば、確かにパワーはかなり消費しますが、流れている方向に行くわけですから、何か流れてくるものに遭遇する確率は高くなりますし、こちらに向かってくるのでつかみやすいでと言えます。もしかすると、ほしいものが流れてくるかもしれません。(笑)
また、流れに逆らって動くことで体が鍛えられますし、流れの強弱をより体感することもできます。
さらには時間がかかったことで、注意深く進むこともでき、いろいろなものを新たに発見することになる可能性もあります。
ということで、実は何事も完全にマイナスや悪いということはありません。その時悪いと感じても、必ずどこでいいことはあるものです。
ここで再び信念や価値観の問題ともなってくるのですが、残念ながら、そのいいことを見る目(発見する思い方)がその時のあなたに養われていないと、「悪い人生だった」とずっと嘆き続けることになります。
言い換えれば、不運・不幸というものは、自分の信念体系チェンジによる世界観拡大のチャンスでもあるわけです。(こうしたことは、心理・スピリチュアル系の人にはもはや常識かもしれません)
もっと言えば、喜び・楽しみ・慈しみの方法を広げてくれる(別の味わい方もあることを教えてくれる)機会であり、結局は愛の拡大に自分を後押ししてくれる天(神性なる自分)の働きとも言えましょう。
となると、見た目では幸不幸の機会はアトランダムで計算不可能かもですが、本当の自分は計算ずくなのだと考察することもできます。
川の流れに逆らったばかりに体力を消費してヘロヘロになった、どうしてくれる!ほんとに運が悪い!と思うか、先述したように時間や空間をもっと広く見て、よいこともあって悲惨ではなかったと思うかの違いと言えましょう。
と言っても、あまりに激流に逆らって完全に流され、溺死してしまっては元も子もありません。これは明らかに「悪い」ものと普通は思うでしょう。
でもこれのバランスさえ取られているのではと思えるのです。それは目に見えない世界や、死後の世界観も含んで考えると何とかなりそうだからです。
が、計られ(図られ)はするものの、現実世界の常識世界観では不幸としかいいようがありませんから、当たり前の知識・常識を持つこと、さらには「運気」的なものも考慮に入れた生き方をすることは、やはりうまく現実人生を泳ぐコツと言えるでしょう。
ただそれだけだと、現実レベルのみの話に終わります。現実レベルの何がいけないのかと言われたら、別に何も悪くないのですが、もっと生きながらに別の世界も経験してみたい人や、この世はある種の牢獄というワンダーランド(笑)と思う人もこの世にはいるということです。
神社に行って内なる神と感応する。
パワースポット巡りが今もブームのように続いているようですね。
ブームになると、アンチの人や批判的に見る人がそれだけ増えるのも、ある意味当然です。
やれ「パワースポットへ行くのは危険」だとか、「実は汚れに行くだけ」とか、「もらう感覚ばかりでかえって運が悪くなる」とか、まあ、いろいろ意見はあるものです。
個人的には、ネガティブに見るこれらの意見のそれぞれにも一理があると思っています。
一方、もちろんパワースポットをそのままパワーやエネルギーがあるところ、それらをいただける場所と考えることも、一面肯定しています。
要は、自分にとって都合のいい解釈をすればいいのです。(笑)
ただひとつだけ基準やルールがあるとするならば、バランス感覚が大切だということですね。何事もやり過ぎや極端なマイナスはまずいものです。
自分が過剰にパワースポット信仰になり過ぎていると感じたり、何でも否定的に考えがちだなあと思ったりすれば、バランス的に修正すればよいということです。
さて、パワースポットといえば神社などが多く言われているところですが、神社ですから、そこには「神様」がおられます。
と、人は考えている、想像しているということですね。ここで実際に「神様」なるものがおわすかどうかは議論しません。
今日言いたいのは、その「神様」が、神社などの社に外の存在としていらっしゃるのではなく、自分の中に実は存在しているということです。
「なんだ、そんなことか、よく言われていることで知っているよ」と思われるかもしれません。
ではなぜ、あなたは神社にお参りするのですか?
自分の中に神がいることを信じているのなら、神社などに行かずとも済むのではないでしょうか。
ここで考察します。自分の中に神がいても、わざわざ外の神社にお参りに行くのは何か意味があるのではないかと。
するとこのことに気がつきます。
行く・お参りする=行動している
ということは、自ら何か行動して「形を示す」ことに意味があるのではないかと思いが行きます。
また家に神棚がある人も多いと思います。当然、ほとんどの人は神棚にお供えし、手合わせることをしているでしょう。ここでも行為・行動が形として示されます。
自分の中に神がいても、行動や形をこの三次元の世界で表すことが、何か霊力の発動に関係しているのではないかと想像することが可能です。
またマルセイユタロット的にはこのようにも考えられます。
マルセイユタロットの教義では、自分の中に神性が内在していると考えています。(あくまで私の採用している説においてですが)
すなわち、神の性質は自分にもあるということなのですから、日本の神社の神々においても、それらはすべて(悪神も)自分の中に、同じ性質を有しているものがあると考えることができます。
天照大神も素戔嗚尊も、全部性質としては自分の中に「ある」のです。その感応や発現装置として神社があり、それぞれの神を祀っている神社に自分が行くことで、自分の中にある同じ性質を発動させることができるという仕組みです。
もちろんそれには個人差や、人間としての個人の特性(レベルの違い・個性)があり、ものすごくその神(神社)に感応する人もいれば、全然何も感じないという人もいます。
奇しくも神社でのご神体は「鏡」であることが多く、自分(の中の神性)を映し出す・転写させるという意味では、理にかなう話です。
ということで、神社に行くのは、一面、自分の神性を感応させたり、発動・表現させたりするためにはよいことと言えます。
同様に、「神」を「仏」として言い換えれば、自分の中にある「仏性」を感応させることになり、その仏様をお祭りしているお寺もよいわけです。
宗教観や民族が違っても、たとえば観音様がマリア様と同じ性質として見ることもでき、世界中どこでもその祀られている神の性質・性格を知れば、自分との感応は可能だということになります。
ちなみにこれのミニバージョンがタロットであるということは、あまり知られていないことです。
いわゆる「○○の法則」ものについて。
たぶん、まずどんな人にも、どんな状況でも必ずその通りになるという法則はないでしょう。
ということは、冷静に考えれば、巷で言われている精神的なことや目に見えないこと、あるいは成功法則みたいなことでの絶対はないと考えられます。
これは私の伝えるているタロットでも同じことが言えるでしょう。
しかしながら、ここからが面白いことになります。
確かに万人に必ずどんな場合でも成功したり、当てはまる方式や法則というものはなかなかないかもしれません。
それでも、おそらく本を書いている本人、セミナーなどしてそれを伝えている人自身は、全くの嘘・創作・詐欺ではない限り、自分が経験したことを述べているはずです。
つまり、その人においては「成功」した法則なのです。
だからといって、他人にそのまま適用できるかどうかわからないのは先述した通りですが、本に出したり、セミナーしたりするほどですから、当人はもちろん、他人においても、比較的多くの人に同様の結果をもたらすことができるとも考えられます。
ということは、万人共通ではないものの、多数は適用されたものであるとも言えます。反面、一部または多くかもしれませんが、通用しなかった人もいるでしょう。
これは何かに似ているとは言えませんか?
それは「楽しめるもの」という意味でのアトラクションや、レジャー・レクリエーション・芸術みたいなものとたとえることができます。
ある人にとってはとても楽しいことではあっても、ほかの人にはそうとは思えないものがあります。
さらには映画や創作で言えば、メジャーヒットもあればスマッシュヒットもありますし、カルトな人気のものもあります。
たくさんの人を楽しませるものは、それだけ流行となり、ブームを作ったり、制作側には報酬という形でお金やエネルギーも入ったりします。
つまり、いわゆる「成功法則」や精神的のものの法則的な説は、「一時的」には人生の楽しみのためにあると思っていいのではないかということです。
何によって楽しみを感じるかは人によって違うように、それぞれの成功ルール・法則はやはり細かくは人によっても異なるのですが、流行もありますし、全員ではないものの、多くの人に当てはまるものもあると考えると、面白いものです。
また楽しみ方はひとつではなく、人はいろいろな事・モノの組み合わせで人生を楽しんでいるように(趣味や喜びごとがひとつという人は少ないでしょう)、法則ものも様々に組み合わせ、融合したり、取捨選択したりして、自分流の楽しみ方を見つければよいのです。
そして、実は法則ものを探究していくと、この世界の仕組みについて、おそるべきこともわかってくるのですが、それはまたの機会にお話したいと思います。
前の文章で「一時的には」と表現しているのはそのためです。
だから私は法則ものの否定をしているのではなく、むしろ大いにまずは活用したり、研究したりするとよいですよという立場なのです。しかしそれをそのまま、丸呑みで信じるというものとも違います。
それから法則ものの中には、私の認識では「占い」も入ることを言っておきます。
宇宙に意味はあるのか、ないのか。
今回は大きなテーマになっています。最初に言っておきますが、結論は私にはわかりません。
それでは身も蓋もないので(笑)、考えるネタ、きっかけのようなものを提供したいと思います。
さて、このテーマを考えるに当たって問題になるのは、そもそもここで取り上げる「意味」とはどういうことなのかという点です。
と言いますのも、意味を「価値」や「評価」だと決めてしまう場合があるからです。
この場合の「価値」・「評価」とは、簡単にいえば、あるモノサシによって決められるよい・悪い、または多い・少ない、濃い・薄いなどのの「位置」であり、その基準です。
要は、何かの判定のための「基準」があるかどうかということになるでしょう。
この観点からすれば、「宇宙に意味はない」とするのが、スピリチュアル的な考えでは大勢を占めるのではないかと思います。
ただこの「宇宙」というものが、どの範疇や規模でとらえるかによって変わってきます。
「宇宙」というものを根源の何か、エネルギーのようなものとして見た場合、そこに価値評価(判断)する基準はないと見たほうがわかりやすいです。
たとえれば「色がない」「偏りがない」「オールOK」みたいな世界です。
この視点ならば、宇宙は意味(色・何かの価値基準)はないと言ってもいいかもしれません。
しかし、意味を理由(存在理由)や、必要性ということで見るのならば、私個人的には宇宙には意味があると考えています。
まず、これだけ完璧に、天体から人間・微生物に至るまで、あらゆるものが精巧かつ巧妙に存在していること自体が奇跡で、これに「意味がない」とは、とうてい思えないところがあります。
一言でいえば、「神」のようなものを想定しないと説明がつかないということです。
ただし神は、「意味なく、ただそのように完璧に創造した」と言えないこともありませんので、意味があるかないかとなると、「世界が完全・完璧・精巧に見えるから」という理由だけでは説明できないかもしれません。
今度は、フィールド(次元)を落として考えてみます。
例えば、「生きていることに意味がない(宇宙に意味がないことは同意義になるので)」としたならば、全員が果たしてそのことを納得できるでしょうか?
端的に言えば、「あなたの人生は無意味だ」と言われた時の感覚です。
おそらく、「私は人生に意味があると思っている」「私は使命や天命を感じている」「意味があるからこそ、人は生きられる」「意味を見つけるのは、人生そのものの発見に等しい」と言われる方は少なくないと思います。
このように、一気に「宇宙に意味はない」としてしまうと、個別的な人間の存在する意味さえなくなってくるおそれがあるのです。
となれば、やはり宇宙に意味はあるのか、あったほうがよいのかという感じにもなってきます。
ここで元に戻り、大きな俯瞰した目線で再び「宇宙」を見ます。そうすると、全体性や根源性にもう一度還ってきます。
ここに、「根源(ひとつ)と多数」「一と全」というような、古代の宇宙観がヒントとなって現れます。
つまり、根源・ひとつと表現する「大宇宙」では「意味はない」のですが、人間として個人個人・個性を持ってきますと、その「小宇宙」には「意味が出てくる」ということなのです。
図を想像するとわかりやすいです。
中心点から同心円状に幾つも広がる円をイメージしてください。(波紋みたいなイメージ)
外の円になればなるほど個別性を持ち、意味が出てきます。それもその個人に応じた意味です。
そして、中に行けば行くほど、円は点に近づき、最終的にはただの小さな一点になりますが、その「点」には意味はないのです。強いていうならば「在る」ことだけが意味としてあります。
もうひとつ例えると、宇宙の根源には意味はなくても、個人的には意味を「作ることができる」ということです。
「意味」も創造可能なように、神が人を「創造」してくれたと言ってもいいでしょう。
言うなれば、「意味」はあなた(自分)が作っているわけです。
また、ここが極めて重要なことですが、意味づけることによって、自分の人生(というより自分自身の世界)が創造されるということであり、宇宙と世界に「意味を持つこと」は、まさしく意味があることと解釈できるのです。
それから、結局個としての「自分」も、全体としてのまとまったひとつの存在の一部、表現と言えますから、根源・一なる存在においては「意味を持たない」とも言えますし、全体の中から生み出された個別表現としては「意味を持つ」ことになります。
ということは、意味はないようで意味はあるとも言え、また逆に意味はあるようで意味はないと述べることもできます。
これではわけがわからくなりますが(^_^;)、それが「宇宙」だと私は思っています。