スピリチュアル
年齢は自分で設定できる
この前は年齢と時間の不思議な関係をについてお話しました。
今日もそれと少し似たお話になります。
ところで、中高年になった冗談好きな人は、自分の年齢について聞かれると、「永遠の18歳です!」などと答える人がいらっしゃいますよね。(笑)
関西ではギャグでの会話も普通にありますので(ま、他地域の人が思うほど、いつもではないですよ)、こうしたノリで笑わせてくれる人は結構います。
ところが、これが意外に重要なことに関係しているのです。
実は自分の年齢は自分で決められるところがあります。もちろん、物理的に進む万人に共通の時間では自分で決めることはできませんが、心の年齢は自分で設定することができるのです。
ですから、極端なことをいえば、自分は二十歳だと思っていれば、まさにその年齢で留まり、精神的に歳を取ることがありません。
肉体や外見は確かに年齢とともに年老いてくるのは否めませんが、気持ちはまた別のところ(次元)に置くことも可能なのです。
この、「別の次元に置く」という表現は、言い方を変えれば別の時間軸・流れでの空間に自分を仮想させる(仮に存在させる)という意味でもあります。
多次元宇宙論的には、人には何人もの次元の違う自分がいて、イメージされる分だけ別に存在していると考えることもできます。従って、自分が何歳だと思うその自分が、ずっとどこかにいるということも仮定できるのです。
これは実は年齢のことだけではなく、性格(人格)や出身を変えて存在させることもできます。
以前、自分の誕生日を仕事の都合で変えていた人がいましたが、その人の行動や外見までも、まさにその仮の誕生日に根ざしたものになっていました。
また占星術など占い技法使ってある人を見たとして、その人の誕生日がたとえ真実でなくても、その人がそれが本当だと強く思っていれば、命占の通りに近い人間や人生を歩んでいる人がいるのを何人か見たことがあります。(もちろん厳密な意味では本当の誕生日でしかわからないこともあります)
実際の誕生日と違うもので別の人物になりきるということは、芸能人などに実際に多くあるパターンです。
人の思念(思い込み)による人間形成は、時にすごい創造の力を持ちます。
従ってなりたい自分をイメージしたり、人にアピールしたりすることは、本当にその別の自分を、この世界から材料として集め、構築し、実現していくことになるのです。心のホムンクルス(人造人間)みたいなものです。
「私は若くない」「もう無理だ」「自分は取るに足らない人間だ」と思っていると、まさしくその思った通りの人間として、自分を作り上げてしまいます。
いかに自分の普段の思いが大切であるかということなのです。
これからの供養の問題
お盆の時期になりましたので、それに関連した内容を書きたいと思います。
最近、ある方と話をしていた時のことです。
その方の子供さん(すでに成人です)たちのお子様(当人からすればお孫さん)のうち、男の子がいらっしゃらなく、また親戚の方たちの御子息にも女の子のみで、男の子には恵まれないと嘆いておられました。
その話をお聞きしていますと、私自身の親族にも言えることであると気づいて愕然としました。
これはたまたまその方や私に当てはまることで、一般的には男の子が生まれるのが極端に少ないというわけではないと思います。
ただこの時に私が感じたことがありました。
性を決定しているのは生物学的にはX,Y染色体です(厳密にはそうではない場合もあるらしいですが)。
このうちY染色体が男性特有のものなのですが、この染色体は男性にのみ存在するため変化に弱く、生殖遺伝を繰り返していくうちに劣化すると考えられています。
以前ある番組で、小さく劣化していくヒトのY染色体は、すなわち男性の誕生にも影響を及ぼし、生まれても個体として弱い人間(情報がきちんと伝わっていない遺伝子によるので)になることが懸念されていました。
近頃の草食系男子と呼ばれる男性の軟弱化も、もしかするとこうしたことが関係しているのかもしれません。
さらに問題なのは、劣化が進むと、ついにはY染色体が消失してしまうのではないかとも言われています。そうなるとXX型の組み合わせばかりとなり、女性しか生まれないことになります。
ただ、生物にはY染色体を消失しても雌雄のあるものも存在するらしいので、神視点からすれば、人類の新たな形に進化して行っているのかもしれません。
さて何が言いたいのかと申しますと、実は先祖供養の話なのです。
だいたい日本社会では、男系家系でご先祖の供養を行ってきています。つまりは苗字の家系ですね。
それを実際に行うのは、その家を継いだ男子です。もちろん女子がお婿さんをもらって、別の男子が家に入って祀る場合もありますが、いずれにしても男子の責任と役割でした。
それがもし男性が生まれにくい世の中になればどうなるのでしょうか?
男性が少なくなれば女性がペアとしては余る形となりますので、女性の姉妹が生家の先祖供養を行うようになるのかもしれませんね。
また生殖としては、現状の人間機能のままで続くのなら、一夫多妻制にせざるを得なくなってきます。すると、さらに優秀な男性が求められるようになりますね。
人類の存亡がどうなるのかという問題もありますが、先祖を供養していく(それは死んだ自分が供養されていくことと同じです)ためには、もはや個々の家対応では難しい時代になってきていると言えるのではないでしょうか。
あまつさえ、無縁社会、孤独死などと叫ばれ、晩婚化で少子化も進む時代です。
「供養など関係ない。死ねばみな土になるだけ」と考えていらっしゃる人もいるかもしれませんが、目に見えない世界では、供養の行為は計り知れないものがあると想定されています。
確かに死んでみないと何もわかりませんし、科学的に証明できるものではありませんが、亡くなった人を想い、供養するという精神的・儀式的行為は、生きている人へも亡くなった方へも双方に何らかの影響を及ぼすものではないかと想像できます。
仮に供養に意味がないとしても、人の死を考える、自分の死と向き合うということでも、人が亡くなったあとのことを思うのは、決して悪いわけではないと考えられます。
私は、これからは社会や国家レベルで供養を考えていく必要性があるのではないかと考えています。それは言い方を変えれば、自分と血縁的には関係のない他人を祀る行為をそれぞれが行うということです。
そうすると、そこにまた供養縁とでもいうべき新たな縁・関係が生じます。少なくとも、他人事という感覚が薄くなり、他人を意識する、気遣うということが増えるような気がします。
霊的にも全員で全員を祀る・供養するような感じですので、大きな力が生じるように思われます。目に見えない世界でのつながりが深まれば、現実の目に見える世界でも、「絆」が強固になっていく相互作用が生じるでしょう。
こうして一個人、一家庭の供養問題から日本人全体の目線へと移していくことができ、それが個と全体の再生につながっていくものと想像できます。
まさにそれは、実はマルセイユタロットに描かれていることでもあるのですね。
神は外にいるのか、内にいるのか?
私たちは何かあると、神頼みしたり、神に祈ったりします。
ここでいう「神」とは何も神道における神を指すのではなく、仏教的には「仏」と言ってもいいですし、とにかく特定の宗教には関係なく、私たち人間を超越した存在ということです。
時や場所に関係なく、私たちは困難なことに遭遇したり、夢や希望を叶えてほしいと思ったり、奇跡的なことを望んだりするような場合など祈ります。
またその祈りが形式化・儀式化されることで、神殿や寺院のような「祈る場所」も作られてきます。
ところで、スピリチュアルな考えでよく言われるのは、実は「神様は自分の中に存在している」というものがあります。
心理的な技法の前提でも、「答えは自分が知っている」というものがあり、これなども表現の違いであって同じような意味になるかもしれません。
それならば、何も外(の神に)に祈るという行為はしなくていいはずです。
私たち自分自身の中に神が存在するのですから、外に祈るのではなく、自分に祈ればいいだけとなるはずですから。
外に祈るなどすれば、それこそ、「どこ向いて祈っているんだ!」となりますよね。
しかしながら、最初にも書いたように、私たちはやはり一般的には外に祈ります。自分に祈るような人はほとんどいないでしょう。
「いや、それはスピリチュアルな関心や気づきがある人と、一般の、そうしたことには無関心な人との違いだよ」と思うかもしれません。
ただ特別なこと(人・行為)がスピリチュアルだというのもどうかという気がしますし、多くの人が外に祈っているのに、「自分の中に神がいる」ということが果たして正しいのかという疑念にもなってきます。
反対に「自分に祈らないから叶うものも叶わず、世の中がおかしいのだ」という考え方もできるでしょう。
いわゆる目覚めや悟りのようなものには、通常を超える必要性があり、それならばやはり、皆のしている方向とは異なるもののほうが正しいということになるかもしれません。
この問い(自分の外に神がいるのか、中にいるのか)の答えは誰にもわからないでしょうから、結局答えというものはないと思ったほうがよいでしょう。
しかしこれらを統合する解答(どちらでもなくて、どちらでもある)は導き出せそうです。そして、私自身はその統合した答えを出そうとすること自体に大きな意味があると感じています。
皆さんもこの問いに取り組んでみてください。きっといろいろな気づきが得られることでしょう。
私自身はマルセイユタロットを使って、この問いに対峙しています。面白い事に、マルセイユタロットはこうした禅問答のようなことに光りを与えたり、発想を導いてくれたりするのです。
それはマルセイユタロット自体、まさに智慧の宝庫だからです。
ただそのためには、最低でも基本的なマルセイユタロットの伝えているものと意味を知る必要はあります。
幸せになるためのふたつの方向性。
前回は選択の自由を意識すること、自由の幅を拡大することなどについてお話しました。
そして、その前には今の自分の世界観(留まっている世界・枠)を知ることも大切であるとお伝えいたしました。
結局、これは選択の幅と量を増加させるだけではなく、幸せ感を増やすことにもつながるのです。
幸せというのは、物理的な量の多寡(たとえばお金など)にもよりますが、つまるところ、自分の感じ方であり主観です。
お金がたくさんあるから幸せと感じるのも、そのお金が現代ではほかのものと交換できる代替物であり、いわば自分が好きな時に好きなものと交換できる価値が今あるからにほかなりません。
好きな時に好きなものと交換できるということは、これもやはり「選択の自由さ」があるということで、それができる自分という「心が満足する」ことにつながっています。
こうして考えると、幸せはモノの量ではなく心の感じ方にあり、また自分を満足させるために選択の自由さがある状態ということに行き着いてきます。
そうなると幸せというものを大きくするためには、ふたつの方向性が考えられます。
ひとつは幸せと感じる心を鋭敏にすること。言い換えれば幸せを感知しやすい深い心にするということです。(深度)
もうひとつは、自分の認識している世界そのものを拡げるということになります。(拡大度)
この心の深度と拡大性が深く大きくなればなるほど、幸せと感じる幅も広がるのだと言えるのです。いわば、心を縦に深めるか、横に拡げるかみたいなことです。
ですからどちらでもよいので、やってみることです。
例えば横に拡げるというのは、自分の制限している枠(今の世界観の限界)に気づき、「ねばならない」という思い込みをはずしていくことになります。
それには前回も書きましたが、今の常識と思っていることから非常識と感じられる事柄・考え方・行動を少しずつ取り入れていくことでしょう。
その前には自分の枠に少しでも気付くための、自分を俯瞰したり客観視したりする方法やツールを使うのもよいです。
縦に深くしていく場合はや自分の心を見つめていくことになりますので、自分がひとつの心や思い方でできるているのではなく、多数の心の集合体であること、その強弱や混乱で問題が起こっているように見えることなど知っていくとよいでしょう。
また目に見えないものへの関心を抱いていくと、意識が横(というより裏)にも拡がり、自分を違った方向から見ることができるようになります。
こうして、知識も含めて自分の意識・感じ方が拡大していくと、人間の多数の価値観と選択肢を知るようになります。
それは小さい子が遊び方を知って、今までただの道具や生活の場所だったものが遊具や楽しい遊びの空間に変身してしまうのと似て、これまでは何の関心も興味も示していなかったものがあなたの喜びや楽しみのひとつへと変わっていく過程でもあります。
時には苦だと思っていたことや好ましくないことさえも、知見・意識の拡大によってモノの見方が変化し、楽しみや喜びになることもありえます。
また選択の幅も同時に広がっていることになりますので、それだけあなたの選択肢・選択する時間さえも拡大し、自由さを増すことになります。
そして、これはあまり言われないことなので言っておきますが、拡大すればプラスのことばかりが拡大するのではなく、マイナスの部分も同時に拡大する(知覚できるようになる)ことになりますので、自由獲得の道では、マイナス(と思える)事柄も今まで以上に起こってくることもあると覚えておくとよいでしょう。
その両者に対して、どう融合した見方に立てるかも、あなたの幸せ感の拡大と獲得に大きく関係してくるのです。
「愛」の気づき方
どんな世界でも「愛」が大切だと言われます。
スピリチュアルな分野では、宇宙や神は「愛」しかないという人もいます。
そういわれると実はシンプルな話(結局は「愛」となりますので)になり、心が楽になることもあります。
一方で、「愛とは何か」とか、テーマとして深く見つめていくと逆に複雑になってきます。「愛」について考えすぎると、心が苦しくなることさえあります。
こう書きながらも、思わず自分自身笑ってしまいました。なぜかと言いますと、タロットなど、古代的な象徴を理解していくと、物事は単純で、かつ複雑であるという宇宙の本質や真理が見えてくるからです。
実は今回の記事では宇宙は「愛」なのか?ということを考察しようとしていたのですが、図らずもいきなり結論が出てしまった感(「愛」はシンプルで複雑であるため)があります。ですから笑ってしまったのです。(^^;)
そう、象徴的に見れば、物事はすべてシンプルなのですが、その表現や次元(レベル)の違いによって、多少、大小、明暗など千差万別に変化するものなのです。
仏教的に言えば、すべては仏の慈悲の表現、西洋的には神というひとつの偉大なものが、化身や天使(使い)と現れるみたい形です。
神のような大きな愛、究極の愛を求めれば不足や至らなさをに感じるかもしれませんが、自分なり、相手なり、状態なりによって、「愛」の表現はどこにでも、どんな時にでもそのレベルに応じて遍在していると言えるでしょう。この考え方に立てば、皆「愛」です。
とはいえ、いきなり大きなもの、レベルの高いものに一足飛びに到達することは、ほかのことを思ってみても難しいことは誰でもわかるでしょう。
愛するということは、愛(の表現・物理的には形にもなります)を発見する能力を磨くということでもあります。
愛が何なのか、どういう質でエネルギーは何なのかを感じ理解しないと、同質ものを自分や周囲から発見することは困難です。
しかしながら、意外なことですが、「それが愛なんだよ」と言われて初めて気がつくことが人にはあるのです。
「こんなものが愛だったなんて!」と驚き、知るのです。それは本当に些細なものなのです。
例えば、私はこの前、通っている整体師の先生から「打ち身は放置しているとよくないので、打ち身すると手を当てるとよいですよ」と教えられましたが、それ以来、どこかに足や手をぶつけたりした場合、自分の手をその箇所に当てることをしています。
すると、その自分の手の温かさ、エネルギー、いたわりが突然自分の心に響いてきたのですね。
まるで自分の体が、お互いに「ありがとう」と言っているような感覚です。その時私は、これは「愛だな」と気がつきました。
単に手を当てただけで、そこに小さいとはいえ「愛」があったのです。(正確には気付いた、発見した)
すると自分の体に宿る愛とエネルギー、それはいったいどこから来ているのかということを思うと、レベルの高いものに少しだけ近づく感じも起こります。これはまるで象徴によって根源の一部にふれる感覚と似ています。
「私は自分を愛せない」「人を愛せない」「愛なんて大げさな・・・」と思う方は、本当に局所的な部分、わずかな時間でもよいので、注意深く「愛」の発見に努めてみるとよいでしょう。
「愛」と思うから大変なのであって、労り、気遣い、注意、温かみ、穏やかさ、守る気持ち・・・など誰しも持っている表現している些細なことからの発見でよいのです。
大事なのは、「在る(どこにも存在する)ことに気付く」ことですね。
そして注目すれば、人にはその情報を集める機能が働きますので、自然、あなたの周りには「愛」が集まってくる(もともとあったものに気がつく)ようになります。