スピリチュアル

スピリチュアルという言葉を考える。

スピリチュアルという言葉が認識され、流行するようになってだいぶん経ってきましたが、この言葉は定義するには少々難しいところがあります。


おそらく人によってかなり変わってくるでしょうし、同じ人でも自分の経験や成長度合いによっても変化してくるものでしょう。


私の場合は「スピリチュアル」を精神と現実を融合、あるいは超越する「霊性」という言葉で語ることが多いのですが、別の表現で言いますと、最近は「現実に調和をもたらすこと」「実際を生きやすくすること」になるのではないかと思うようになっています。


とかく「スピリチュアル」というと、現実離れしたことや直感や感性、フィーリング、目に見えない不可思議なこととして例えられがちです。


「スピリチュアル」がそういう意味ではないということは、ほとんどの人は今は理解し始めているとは思いますが、やはり「スピリチュアル」で大切なのは現実とは切り離せられないということでしょう。


そもそも現実と区別しようとするその態度や思考自体が、すでにスピリチュアリティから離れていると言えます。


私の考えではスピリチュアルとは融合や統合に向かう方向ですので、分離・区別ということをし過ぎると逆方向の流れになってしまいます。


結局、現実と切り離すと、スピリチュアルが実際と遊離して、妄想や空想、ファンタジーへの逃避ということになってしまいます。


これが精神世界やスピリチュアリティを志向する人には、大なり小なり存在するおそれが高いので、常に逃避になっていないかチェックする姿勢は大切でしょう。


ただ逃避がすべて悪いわけではなく、現実世界でのあまりにもつらい体験や苦しい出来事から身を守り、エネルギーを保存するためには別空間を想定して、そこに逃げ込むことも場合によってはありだと思います。


それでも考えてほしいのは、決してスピリチュアルが実際とは別のところに存在しているのではなく、いわゆる物の見方や次元を変えただけに過ぎない「現実」でもあるということです。


つまりは今まで知らなかった物の見方であり情報だということです。


問題はそれがこれまで自分が身につけてきた現実の思考や判断方法とは異なるので、時には矛盾が生じることです。


この矛盾によって妄想まがいと決めつけられたり、反対に現実や実際を無視したりするようなことが起きます。


実は矛盾こそが統合の道のきっかけなのです。矛盾しているように見えて、スピリチュアルの視点では統合しているということです。あるいは統合の視野を手に入れるチャンスが来たとも言えます。


ということは矛盾が生じている時、自分がスピリチュアルだと思っている見方は、実は精神的なものか、あるいはこれまでのあなたの見方とは違うものであって、厳密には「スピリチュアル」な視点とは言えないものだということです。


スピリチュアルを霊性とした場合、これまでの現実的な見方と、自分がスピリチュアルと思っている見方との矛盾から統合点を発見できた瞬間にが出ます。それこそがスピリチュアリティと言えるでしょう。


矛盾が統合されたり、解消されたりするわけですから、これまでより高い次元にあなたは行くことになります。


そうした場合、生きていく実感でもかなり楽になっているはずです。高い次元にいれば、それまで低い次元にあった問題は問題ではなくなるからです。


ここに「スピリチュアルが現実を生きやすくする智慧」であることが定義できます。


スピリチュアルが進むと、おそらくどんな仕事に就こうが、どんな生き方になろうが穏やかかで楽しくなっていくことでしょう。


そうすれば「好きな仕事をしている時だけ活き活きしている」というのが、まだ本当にはスピリチュアルに生きているのではないということがわかっていただけると思います。


夢を語りましょう。

新年らしい話題として、「夢を語る」ということを挙げたいと思います。


夢と言っても初夢などの、夜寝ている時に見る夢ではありません。


将来や未来に、「こうしたい」「ああなりたい」という願望・希望のものです。これを語るには、やはり年の初めなど、フレッシュな時分がよいものです。


けれども別に新年に限らず、親しい人と集まって、制限や制約をなしにして自分の夢を披露し合うという会を催してみてはいかがでしょうか?


私たちは普段、特に仕事や公の場などでは、とかく批判や指導を受けがちです。


もちろんそのことで自己の修正を図り、いい意味で向上させていくことも可能になるわけですが、逆に意気消沈したり、夢を大きく抱けない心境になったりすることもあります。


そして、人から「いいね!」とか「それ、とっても良さそう!」とか、「素敵な考えですよね!」「なんてすばらしい夢なんでしょう!」と評価されたり、褒められたりする機会もほとんどありません。


フェイスブックはじめ同意を表現するボタンが、日本語では「いいね!」という言葉で表現されているのは、こうしたこととは無関係でもないと思っています。


とにかく家族でも友人でも、少人数からでもよいので、今年の初めは皆さんで自分の夢を語り合い、それを「無理だよ」とか言って非難せずに全肯定してみることを企画されるとよいでしょう。


これは実は自分の神性を発現させるのにはとてもよいことなのてす。


先述したように、日常では自分以外のことも含めて、否定的な言葉や批評に満ちあふれていますから、本来私たちが持つ無限の可能性は極端に押し込められ、牢獄に閉じこめられている状態だと言えます。


神性とは神なる性質であり、神は万能ですから、人にも神と同等の創造性と万能性が内在していると見ます。これはグノーシス的な考え方です。


神性の開花は霊的な向上の道でもあるのですが、難しい方法だけではなく、単純に自分の中に眠っている夢を出す(語る)だけでも、神性とつながることがあるのです。


幼き頃、私たちは大きな希望と夢を抱き、何かになれる、何かができることを信じていたと思います。その気持ちを取り戻すわけです。


悲しいことに、成長して大人としてのしがらみの人生を歩む中で、次第に「自分は小さい人間だ」「ほどほどのところでいい」と思い込まされるようなります。


そしてそこから今度は大きな人間として、再び自分を取り戻して行くのは、自分一人の単独では難しくなります。


なぜなら、自分が人間として小さくなってしまったのは、人目を気にし、他人や世間からの評価や言葉によってなされてきたところがあるからです。


つまり他人からの言葉の影響が大きいので、自分自身で跳ね返すことも困難になっているわけです。


それならば逆に、人からの言葉で励まされ、勇気づけられると、人はまた大きな人間に戻ることができるかもしれません。


本来は人(の評価)に頼っていては問題ではありますが、この場合は有効なこともあります。


ということで、肯定的に夢を語り合う機会が重要となってくるのです。ここでは人からよい評価と肯定を与えられるので、大きな影響力が及ぶのです。


さあ、今夜にでもあなたの素敵な夢を語り合ってみましょう。


過去・現在・未来で受け継がれる意外なもの。

精神世界、スピリチュアルに関心がある方の中には、よく前世について話題になることがあります。


前世というものがあるのかどうか、そしてそれがどんな形で記憶や体験が受け継がれていくのか、諸説様々であり、通常、今、生きている人間では真実はわからないと思います。


とはいえ、前世療法のワイス博士の事例などを見ましても、過去生を記憶していると思える人がいらっしゃるのではないか、そういうものがあるのではないかと私たちに思わせます。


と、ここまで書いてくれば、前世の話をするのですか? と思われるでしょうが、実は違います。(^^;)


逆に現世での記憶についてのことです。ただこれが過去世や未来世につながるかもしれないと想像できるので、前世の話をいきなり持ち出したのです。


ところで私たちは普通は社会て生活している限り、いつも誰かと会っています。それも知っている人だけではなく、すれ違う人も入れれば、かなりの数の見知らぬ人とも刹那ですが出会っているわけです。


もちろん一瞬の人はほとんど記憶に残らず過ぎていきます。


しかし仕事やプライベートでも時間と空間の共有を長くしている人は、その分だけ一緒にいる人の印象も強く深くなってきます。


ということはあなたも過ごした分、印象を相手に残していることになります。


またあまり長くなくとも、ほんのとひとときでさえも、たとえば電車のホームで誰かと口論しているところを周囲の人に見られた場合、かなりの人に大きなインパクトを残すことでしょう。


こうして人は人に対して様々なシーンから、見た人の印象・イメージ・心象風景を記憶として蓄積していくわけです。


これはほとんど毎日のことなので、おそらくは潜在意識にしまい込まれ、思い出すことも少ないかもしれません。


しかしながらやはり記憶はされている、データとしは残されているものと考えられます。


こうしたもの(記憶)も、もしも輪廻で何らかの形で受け継がれていくとすれば、あなたの今生でのすべてのふるまいが、見ているあらゆる人に記憶として残され、大げさにいえばそれがずっと人類のデータとして残り、誰か、あるいは複数の次なる生を受ける人に引き継がれるかもしれないのです。


このことを考えると、単に「私だけ、自分だけ」と思ってた今の生活・行動が、実は人類全体に影響を与えるものでもあるという、大変壮大なことになってくるのです。


また大きく考えなくても、一瞬の印象・インパクトが相手に残り、それが非常にネガティブなものであったとしたら、それだけで恨みの感情として記憶され、恨みをもった人の子々孫々に恨みを与えた人の記憶が伝承されていくおそれもあるかもしれないのです。


そんなアホな、と思うかもしれませんが、人間の記憶装置は脳だけではなく、見えないものや雰囲気さえも記憶する何か別の装置があると想像できるので、あながち誇大妄想とは片付けられないものがあると思っています。


何が言いたいのかといえばこういうことです。


今の人生、一瞬一瞬誰に見られているかわからず、またそれが次の世代以上に引き継がれていく可能性もあるかもしれないので、いつも天の目を意識して恥ずかしくない生き方ができれば望ましいのではないかと。


まあでも、失敗やかっこ悪さがあってもいいのです。


それが笑い話や成長のための物語・エピソードとして、語り継がれても皆がほほえましく応援してくれるような類のものならばです。


記憶外の記憶。

先週金曜から土曜にかけて、こっそりと(笑)東京に行っておりました。


東京の生徒さんのアフターフォローや、私自身のインプット(学び)、調整などのためです。


私は関西、大阪・京都・神戸(自分で「タロット三都物語」(^^;)と言っています)を中心に活動していますが、時には奈良や四国方面にも呼ばれて出かけることがあります。


そしてスカイプ講座もしておりますので、数は多くありませんが少しずつ遠方の受講生さんも増えています。(あ、ちなみに少しですが、来年1月からのスカイプ枠があります。遠方で希望される方はお問い合せください)


関西の人に対してはアフターフォローや勉強会もできるのですが、遠方となりますと難しくなります。


でも遠方の人もご縁があり、学んでもらえたこともありますので、全員が全員とは行かないですが、なるべく実際にお会いして、アフターフォローも含めてタロットを中心に語り合いたいと考えています。


私は受講生の個性、自由性を尊重しながらも、人として、人間としてのおつきあいも重視しているのです。もちろんそういうものはいらないという人、ただ技術だけを学びたいという人もそれはそれでOKです。


さて私が東京へ行くと思うのですが、人の記憶は忘れているようで、どこかに覚えているものがあるものだという感覚です。


実は私は幼少の頃、東京に一年ほどいたことがあります。とはいえ、ほとんど実際の記憶はありません。断片的にシーンのように思い出すことがあるという程度です。


現実的には何も覚えていないと言ったほうがよいのですが、不思議と空気といいますか、どこか懐かしさや既視感を感じることがあるのです。時々関東の方のクライアントや講座の受講生の方とご縁が深くなるのも、そうしたことがあるのかもしれません。


こうしたことを思うと、私たちは忘れてしまっているようでも、どこかの記憶庫(脳だけとは限りません)に経験したこと、体験したことは必ず保持されており、その影響も皆無ではないと言えるのではないでしょうか。


これは学習でも同様かもしれません。何気なく読んだ本や覚えようとしていなかった事柄でも記憶には入っており、それが何かの刺激で現れてくるということです。


自分には意識がありませんから、それが不思議であったり、シンクロのように感じたり、インスピレーションのように思ったりすることもあるでしょう。


ひらめきの正体は実はこれが多いのかもしれません。つまり、すでに知っていることを何かのきっかけで思い出したということです。


そのきっかけとなるのは、同質のこと、あるいはまったく逆の異質なものでのことが多いと感じます。


ですから、「何か自分にとって強く感じる」というものはそれなりに意味があり、似たようなものや事柄、場所を経験済みのことが隠されていて、それを思い出すために刺激として再度今の現実の事件を経験しているのかもしれないのです。


私もこう書きながら、幼少期の東京での大事なことが次第に思い出されてきました。


それは実に今とつながっていたことなのです。それはまたいつかお話しましょう。


縦の感謝

実は私、今発熱でダウンしております。疲れがたまってそれを処理し切れてないものを感じていたので、ついに来たかという感じです。

結構大変で、この数行を書くのが精一杯です。でも記事が書けているのは・・・それは秘密です。(笑) あ、決してゴーストライターがいるわけではありませんよ。



ところで皆さんは遺伝子というものを考えたことがありますか?


生物が親から受け継ぐ情報ですよね。この遺伝子に欠かせないのは媒体になるDNAであり、DNAの塩基配列は4つあるのも、タロット的には面白いところです。


それはさておき、化学的には私は無知なので詳細はわからないにしても、遺伝子にはずっと生物が誕生し、生き続けてきた記憶が残されているのではないかと考えられます。


ですから私たちが想像する以上に、ものすごい記憶・情報が含まれていると思われ、大げさにいえば地球の歴史分、生物として生き残ってきたものがあると言えましょう。


ということは私たちは霊長類・人であるのならば頂点に立つ生き物として、すさまじい対応力・変革力が内在しているとも考えられます。思ったより激変する環境に強いのが人かもしれません。


一方、その遺伝子とともに、私は何か目に見えない情報というのも子に親から受け継がれていくのではないかとイメージしています。


親だけではありません。さらにその親、そのまた親・・・というように連綿に縦につながっていく家系、つまり先祖から続くものがあると推測できます。


つまりその人たち(先祖)の情報も子孫として受け継がれていくのではないかと思えます。


身体的なことは遺伝子情報で受け継ぐのでしょうが、霊的なものと言いますか、先祖が行ってきたこと、思い、実績というのは少なからず、目に見えない情報として子孫が引き継いでいるような気がします。


たとえば、私は祖父の家系がお寺であり、言ってみれば「お坊さん」をしていたわけですが、そういう雰囲気は私自身も受け継いでいると感じます。(このことを言わなくても、そう指摘されるることが多く、言わば目に見えない部分と言えます)


肉体的にいえば、私は決して強面・大柄で、ゴツイ男性的という感じではありません。(ブログ写真を見てもらえばわかります)


これは相談を受ける側としては人には安心感を与えやすいかもしれません。これも肉体・外見的なことですから、やはり親から受け継いだものとなるでしょう。


ということは目に見える部分、見えない部分で親・先祖から引き継いでいる恩恵が私にあるわけです。


曲がりなりにも私がタロットで人を教えたり、話や相談ができているのも、祖父に続くお寺の家系、父親の多弁さ(笑)などを受けているからだと思います。


そう思うと、本当に先祖や親というものに感謝の心が出てきます。


とはいえ中には逆にマイナスの部分を引き継いでいるのでは?と感じる方もいらっしゃるかもしれません。


そうした人でも、実は自分がその供養やプラスに価値転換させていく役割をもっているのだと思えば、マイナスと思っている部分が壮大なプラスに転じることもあり得ると感じます。


結局は感謝に行き着くのではないでしょうか。


先にも述べたように、私たちは誰一人、親や先祖なしで生まれた人はいないのですから、自分の縦の線に思いを馳せ、感謝を起こすのは自然だと感じます。


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