スピリチュアル
パワースポットを訪れる前に。
少し前からいわゆるパワースポットを訪れるブームのようなものが続いています。
パワースポットというのは、そこへ行けば運がよくなる波動のよい土地だと信じられているようです。
もちろん目に見えないことへの興味、自然やすでにある霊的な土地に関心と敬意を持つということではこれはよい面もあると思います。
実際に訪問して感覚が研ぎ澄まされたり、心身の調子がよくなったり、運が開けてきたりすることもあるかもしれません。
しかし、私が思うのは行くのはよいにしても、受ける側の人間の問題も大きいと思います。
事実かどうか別として、パワースポットにとてもよい波動や運気がよくなるものが流れているとしましょう。
ところがその波動をキャッチできる受信機がないままだとどうでしょうか。
ラジオでもテレビでも受信する側の周波数を合わせていないと、音声や映像は聞こえず映りません。
同じように、こちら側・受ける側の周波数が適合していないとその波動は素通りする可能性が高いと考えられます。
そしてさらに問題なのは、パワースポットに群がる人々の波動を受けてしまうことです。
もし多くの人が「あやかりたい」とか「運気をもらいたい」とか、「願い事が叶ってほしい」など私利私欲の欲望を持ってスポットに来ており、あなたも同じような気持ちでいたとするのならば、その周波数に合うかのように受信してしまうおそれがあります。
欲望で来る人は現状に感謝の気持ちがなく、不満や不足の心の状態にあります。
つまりかなりドロドロしたネガティブなものがあなたに入ってしまう(影響を受ける・同調する)危険性もあるのです。
いいものを受け取るにはいいものを受け取るための準備が必要です。言ってみれば受信側の調整です。
パワースポットによってよくなるというのも、ほとんど思いこみが大きいと想像されます。そのような場所へ行く旅や気分転換の意味が大だと推測されるのです。
でも思いこみによって実は人は人生を作っています。
そういう意味では「よくなる」「よくなった」と信じることもありでしょう。
ただそれでも、恩恵を「もらいたい」気分で行くことは「奪いたい」気分と同様ですので、そういう気持ちで「よいもの」と周波数を合わせることは難しいと思います。
パワースポットに行く前に、自分の心を見直し、感謝できることがないかと探るほうがよいと考えられます。
今日書いてきたことはマルセイユタロットでは「星」と「斎王」に深く関係しますので、カードを持っている人はまた見ておいてください。
「学び」ととらえることのよい面・悪い面
スピリチュアルや精神世界的な関心を持つと、何でも「学び」だととらえようとする傾向が生まれます。
これはきちんとニュートラルポジションというものを意識していないと、よいところと悪いところのどちらかに傾いてしまうところがあるように感じます。
たとえば悪い面というのは「学び」だと思いこむことで、自分が体験している苦しみをずっとそのまま耐えようとすることです。
いわば耐えること、我慢することが「勉強」なのだ、自分のためになるのだと信じ込んでしまうわけですね。
これはとても危険です。
パートナーからDVを受けたり、職場での理不尽な扱いを受けていたりするのでも、「これは私が受けなければならない試練だ」と盲信してしまい、自分を責めて救済する(される)機会からはずれてしまうばかりか、非現実的な世界観に閉じこめられる危うさもはらんでいます。
ここまで極端ではなくても、「すべては私に原因がある」のだと必要以上に自分を責めてしまうことが、「学び」を過剰に意識するとで起こることがあります。
確かに究極的には「自分の認識によって世界が作られている」ということもあるとは思いますが、それは自分を責めなくてはならないこととは別だと思います。
自分を責めること、それ自体が自分で原因を作っていることにもなるのです。
さて、一方で「学び」ととらえることでよいことは、やはりたくさんあります。
それは改めてここで説明する必要もないと思います。
そこで、ひとつだけ「学び」のとらえ方の工夫と言いますか、見方をお話したいと思います。
それは「学び」や「修行」と思うことと同時に、それを楽しむ自分を意識するということです。
そのためには成長するであろう自分のその先のイメージを持つことも大切です。
一般的に「この学びを通して何が得られるのだろう?」と考えることは多いと思いますが、その先の、学び終わったあと、学びから得たあとの自分はどう変わっているのかということをワクワクしながらイメージするのです。
それがまた今の試練を楽しむことにつながってきます。
ただこれはなかなか自分一人や、何もツールがない状態だと難しいことがあります。
ですからアドバイスをもらえたり、客観的に見てもらえたりする誰かに話す、あるいはタロットなど自分を象徴的に見つめることのできる道具を持つということが有効になってくるのです。
愛の灯があなたを照らす。
人は誰でも苦しいこと、つらいこと、悲しいことを経験しています。
また人からみればそうでないように見えても、自分なりに精一杯やっています。
もちろん反対に手を抜いたり、さぼったり、怠惰になったりしていることもありますが、基本的にはほとんどの人は一生懸命やっているものです。
そんな中、やはり長い人生で息切れを起こしたり、どうしようもなくつらく、疲れてしまったりする時期はあります。
こんな時どうすればよいのかです。
解決法とはいえませんが、たった一人、あるいは唯一と言ってもよい、本当に心から愛を感じられる人や事柄を経験していること、あるいは持っていることが癒しに大きな効果をもたらすと思っています。
そうすれば険しく困難に思える人生も、その愛の光・灯で自分の心を照らすことができ、遭難や沈没をせずに済みます。
問題はそうした人や事柄に遭遇できにくいことかもしれません。
それでも、今ではなく、もっと過去に遡ったり、あるいは常識を超える見方や発想を持ったりすると、意外にもその愛や光に気がつくことがあります。
あまりにも日常に埋没してしまって、ぬくもりのような体験や経験を忘れてしまっていることもあるのです。
また常識で凝り固まった考え方でいると、あなたに注がれている愛の形を見逃してしまうことがあります。
ですから、たとえば亡くなった人、自然、動物などを観たり思ったりして、そこからの愛を感じてみるなどのことをするとよいでしょう。
あるいはいわゆるスピリチュアルという視点を自分に入れれば、時空を超えてあなたに流れされている愛の表現を感じることもできるかもしれません。
それから、自分がもらうだけではなく、まず誰かに心の底から愛を与えよう、受け入れようとすることでも、逆にあなた自身に流入してくる愛に気がつくこともできます。
愛を与えることのできる自分に気がつくことで、その愛がどこから来ているかを考察することで真の発見があるからです。
こうした経験がひとつでもあれば、どんな場合てもそのこと思い出せばハートは温かくなり、生きる希望がわいてきます。
いわばあなた自身が生きるに値することを「愛すること」「愛されていること」で感じるのです。(「愛すること」をあえて先に書いています)
マルセイユタロットでは受け入れることの重要性、愛することの大切さはいろいろなカードで示されています。
カードからのエネルギーを感じてみることも、愛の表現(流入と流出)につながることでしょう。
季節にアセンションを感じる。
精神世界の間では、「アセンション」といわれるような一種の次元上昇、変革が起こるといわれています。
マヤ暦との関連もあり、それが来年の12月22日だという人もあれば、計算方法の違いで今年10月28日ではないかという説もあります。
私自身はそもそもアセンションというものがあるのかどうか、そしてそれが日にちとして特定できるのかといったことにいろいろと思うことはありますが、今は肯定もしなければ否定もしない立場でいます。
歴史を遡れば、いつの時代にも終末論とか新生論のようなことはありました。つい最近でもミレニアムとして、2000年になる時が境目であるという話もあったばかりです。
いずれにしても、ある日を境に、突然すべてが見た目さえも変わるというようなことはないでしょう。
ただ、意識としては人によっては少しずつ、それこそある時期を目処にして変わってくるということもあるようには感じています。
たとえば、私自身、最近体調のせいにしていましたが(それも確かにあるのですが)、心身の状態が以前とは異なってきているのをここ一ヶ月くらいの間で感じています。
皆さんの中にも敏感な方は、体、あるいは心で、ポジ・ネガ両方どちらかの症状として現れている人もいるかもしれませんね。
これももしかすると前に書いた、「類は友を呼ぶ」ような、似たような魂や、意識の状態、信じているものによってグルーピングされた人の間で、それぞれ共通している可能性もあるのではないかと思っています。
それから最近よく感じるのは、境目・区切りの消失感ですね。
たとえば季節です。
今は秋真っ盛りのはずですが、どうも暑くて日差しが夏みたいに感じることがあります。
そうかと思えば、春らしいけだるさと陽気さに見えることもありますし、温度とは関係なく冬のようなたそがれ感を思うこともあります。
季節はタロットで表されているところの「四大元素」でもとらえることができるのですが、いわば、その四大元素的にすべてひとつの季節に包含されているような感覚です。
ただ四大元素論でいえばそれは正しい感覚となります。
なぜならば、四大の性質(エレメント)は、それぞれひとつのエレメントずつ分断されているものではなく、ひとつの中にもすべてのエレメントが含まれているからです。
今までのそれぞれの季節にも、やはりほかの季節を見ることはできたはずですが、それが自分や世界の変化によって、次第に全体的に統合化されつつあることと重なり、季節にも「ひとつからすべてを感じられる」ようになってきたのではないかと思います。
そういう意味では、私の中ではアセンションというものはあるのかもしれないと感じ始めているところです。
自分劇の奇跡
この時期(秋)になりますと、いろいろと思い出すことがあります。
秋に物思いにふける・・・えっと・・・実は結構私はロマンチックな傾向があるもので、、(苦笑)
それで大学時代、民俗学をやってまして、大学のゼミの人たちとともに滋賀県のある村に調査に行ったことを思い出します。いわゆるフィールドワークというやつです。
今の時期というより確かもっと遅い晩秋だったと記憶しているのですが、まあ秋の雰囲気が来ると感覚的に思い出すこともあるのです。
この調査に参加したゼミの仲間たちとは実は学校を離れても、ほとんど普段の遊び仲間みたいなものでもあり、サークル活動仲間みたいなところもある強固なメンバーでしたので、民俗学の調査と言っても、半ばグループ旅行みたいなところもあったのですね。
さて調査の日、大学に集合して車を数台にわけ、指導教授の乗る車を先頭に、一斉に山奥の村に向かうわれわれでした。大昔の知る人ぞ知る「水曜スペシャル、川口探検隊」の気分です。(笑)
右手に琵琶湖を眺めながら、やがて車は左方向の山あいに入り、さらに奥へと進みます。次第に道らしき道もなくなっていき、「この先、どうなるんだ・・・」と心配気味になっていたところで現地に到着しました。
見るとそこは数件の家々が段々畑のところどころに位置しているような、のんびりとした村でした。でもきちんと神社や能舞台すらあります。歴史ある村だということは一目でわかりました。
あとで教授が「こんなに調査のしやすい村は見たことがない」というくらい村人もいい人たちばかりで、古老の方々をはじめ、皆さんからいろいろとお話を聞くことができました。その中には不思議な伝説もありましたよ。
で、われわれゼミ仲間たちですが、面白いことに、同じ調査をするのでも個性が出るのですね。
いきなり村人たちに気さくに話しかけ、自己紹介して積極的に自分から問いを発していく人。
話を聞いているうちに、話に登場する実際の場所を見たくなったのか、村人に案内を乞うて行動を始める人。
まずは村そのものを知らねばと、人に話を聞く前に、村のあちこちを回って迷子になりかける人。(笑)
「オレはあんまり興味ないから・・・」といわんばかりに、一匹狼よろしく皆の輪からはずれつつも、村人から問いかけられるとうれしそうに話をする、今で言う「ツンデレ系」の人。
まさに観光気分そのもので、調査などそっちのけではしゃぐ人。
反対に、まじめに文献やノートを見ながら、いかにも民俗学の調査らしく話を記録する人。
途中で輪から離れ、何かほかの成果をあげるためか、家庭訪問して独自の調査を開始する人。
私はどれだったかというと、皆様のご想像にお任せします。(笑)
ま、なにより、私はこのように自分たちも含めて全体を観察するのは好きでした。(^_^;)
それで当時私は、このようなゼミ仲間の様々な調査態度に、好意的に感じる人もいましたし、お遊び気分でやっているようなメンバーには反感を抱くこともありました。
いわば、いい悪いの評価を下していたのです。
でも今となれば、その評価の基準は何だったのかといいますと、結局は自分がいいと思う内容や行為・態度であったわけです。
それに合う人はよい人、合わない人は悪い人みたいに決めていたということになります。
今ならわかるのですが、みんなあの調査では必要な人たちでした。
観光気分の人がいたからこそ、私はこのことをはっきりと今でも思い出すことができますし、実際「観光的な楽しい調査」と記憶として感じています。
また迷子になった人のおかげで、村全体がわかり、村人たちとも広く交流することが結果的にできました。
もちろんまじめに調査もしたので、あとの学習や卒論にも結びつくことになりました。
何が言いたいのかと言いますと、どの局面でも大局的な視点で見ると、誰もがどんな人にもふさわしい役割を人生劇場で演じており、それはそれぞれの劇場において必要な役柄になっているということです。
誰一人欠けていても、その劇は劇として成立しないのです。
面白いことに、舞台と役柄はその場面においては同じなのに、役者それぞれには違う劇に見えているということですね。劇の意味するところもそれぞれで異なります。
またさらに、私たちは観客席側の人間にもなることができるということです。
今、あの調査を思い出すと、本当に秋の日の美しく不思議な思い出として蘇ります。それは全員が必要だったということに気がついた時、奇跡のようにも感じます。
そうすると、当時は反感を抱いてた人や事柄に対しても感謝の心や涙すら出てきます。ありがたいですよねぇ。。。これが神の配在なのかもしれません。
このようにして皆さんも時間の経過とともに思い出し確認してみると、自分の人生劇場が奇跡の連続であることに気がつくことができるかもしれません。