スピリチュアル

感謝の理屈

よく精神的な世界でも、「日頃の感謝が重要と言われます。


これをちょっと理屈で考えてみましょう。


理屈と言っても、いわゆる科学的なものではありません。


ある種のつじつま合わせみたいなものと思ってください。「こう考えると面白く、納得する人もいるかもしれませんね」ということで書いています。


その前提として、大いなるものや宇宙、天、神といったサムシンググレートな存在を仮定しなければなりません。


そういう前提がそもそも変であると感じられる方は、今からの理屈自体になじむことができませんので、あらかじめ言っておきます。


さて、「現状への感謝ができる」ということは、今あるもの(こと)に対して有り難さを感じることでもあります。


言ってみれば、「今に満足する」気持ちであり、実感です。もちろんたいていの人は全部が満足というわけにはいかず、なにがしかの不満や不安はあるのが普通だと思います。


それを無理に全てを満足とせよというわけではないのです。


ただ、先述したように、ある大きな存在を認めるとすると、その者の視点に立てば、現状に満足を得ていない人、感謝を捧げられない人はどう映るのか、少し考えてみるとよいでしょう。


今の小さな幸せさえ気づけない人にとって、いきなり大きな幸せを与えたらどうなると思いますか?


言わばこれはペットボトルの水を十分扱う能力さえないのに、プールや湖の水を持ったところで活用できないのは当たり前ではないかということなのです。


「いや、そんなことはない、今よりもっとお金があれば幸福になれる」と主張する人もいるでしょう。


でも今の収入が得られることの大切さ、重要さ、有り難さがわからず、毎月の給料をギャンブルや買い物であっといいう間に消費してしまう、あるいはそれほどひどくなくても、いつの間にか月末になるとお金がなくなっているという扱いをしている人は、果たしてお金を大切にし、コントロールしていると言えますか?


そんな人に、もしあなたがお金を貸すとした場合、安心して貸すことができますか?


これと同様に、大いなる者があなたに、より大きな幸せを与えたいと思っていても、やはりまずは小さなものからでも十分に自分の中で感謝とコントロールができていないと、次のステップには行かせてくれないのだと思います。


人の器量を表現する言葉として、「うつわ(器)の大小」というものがあります。その人の心や物事を受け入れる広さを器として物で表現しているわけですね。


この器(うつわ)こそが、言い換えれば「感謝」ができる能力だと思います。器の中が感謝の水・磁気で満たされれば、次の大きな器に変化し、その分幸せを受け取れる(幸せと感じる)量も増えると想像されます。


現状(今あるもの)に満足し、感謝することはそのためにも必要不可欠です。


これは現状に甘んずるという意味とは違います。


拡大・成長意識を持ちながらも、現状感謝によって、基礎としての器・受容器を確認し、それを強化していかなくてはならないと言っているのです。


建物でも何でも、基礎とその土台・壁のようなものをしっかりと強固にしていかなければ大きなものに広げられないですし、さらに大きな建築物を上に建てて行くこともできません。


このことはマルセイユタロットでは悪魔」「神の家」「星」で表現されています。


不満や悩みを述べる前に、まずは今の自分の状況に感謝をして行きましょう。


本当の自分に生きる。

私のところに来られるタロットの受講生の方は、ほとんど何らかの形で変化・変容の過渡期に来ている方たちばかりです。
自分でも気がついている方もいらっしゃいますが、そうでない方もいらっしゃいます。
それでもタロット講座で実際にタロット展開してリーディング練習しているうちに、皆さん気がついてくる場合が多いです。
講座に参加したということは、知らず知らず、自分の中の本当の自分のようなものが変化・成長を促そうと選択していたのかもしれません。
たまたまそのきっかけとしてタロット講座であったということでしょう。逆にいえば、このタロット講座は自分の変化をとらえる、見つめるのには適しているということでもあります。
そして、受講者の方たちを見ていますと、最近多いのは、「今の生活や仕事が何か違う」「どうも満足がいかない」「これでいいのだろうか・・・」「もっと自分に何かできることがあるのではないか」というような問いです。
これは深くには自分の魂の叫びのようなものが含まれています。そして最初にも述べたように、「本当の自分」を置き去りにしてきた、あるいは隠してきた場合に、その自分が存在を知らしめようとしているのだとも考えられます。
そうしたもう一人自分との融合がとれていない場合は、現状の不満足・違和感という形で次第に表面化してきます。
それが局面として現れると仕事であったり、生活であったりするのです。
いわば、カードでいえばテーマは「太陽」です。今の自分ともう一人の自分が融合・統合化される状態、これが「太陽」のカードの絵柄が示しています。
そして近年は特に、偽りの自分でいることが全体的に難しくなってきています。このあたりは次元上昇といわれるスピリチュアル的な意味もあるのかもしれません。
ここであえて「心」と「魂」という分類をするのなら、「心」はその都度変化していくもの「魂」は不変のものとたとえることができます。
今の自分で現れている部分は、心での自分が多く、これは一人(ひとつ)だけではありません。生きるためにはいろいろな自分を仮面・ペルソナのように付け替えていかなくてはならないこともあります。
しかしそれができるのもある意味、人間としての特技であり、特徴です。
しかしながら、それとは別に、やはり不変ともいえる何か核・コアな自分というものも存在しています。
その魂的な自分が何なのかはわかりづらくもありますが、具体的ではなくとも、こうしたい、こうありたいという自分と考えられるでしょう。
実をいうと、私はこれは「人の役に立ちたい、貢献したい」「世界・自然・宇宙に息づいている自分でありたい」というものが、ほとんどの人に当てはまるのではないかと思っています。
つまり、それが実感できれば魂やもう一人の自分は満足に至ると言ってもよいのです。
この観点から今の仕事、生活はどうなのかと考えてみるのです。
人の役に立っていることが実感できていない生活や仕事。
大きなものとつながっている、ともに息づいているとは思えない今の自分の状態。
こういうことであるならば、現在の自分はやはり何かバランスがおかしいのではないかと見るのもよいでしょう。
しかしだからといって、安易に生活や仕事を変えるというのも現実的には問題が大きいこともあります。
大切なのは、上記の「役に立っている実感」「全体と自分が調和していく実感」「今の」現実の生活や仕事の中から、どう導き出すことができるかを考え、実行することです。
その上で、やはり変えなくてはならない部分があるのなら、思い悩み続けるのではなく、行動として働きかけていくことです。
いきなりの大きな変革や行動は誰しも難しいものです。ですから、まさにできる範囲、できることから少しずつ改革・実践していくのです。
その積み重ねが必ず、自分の求めていた実感に至る道を示してくれるでしょう。いわば「太陽」になる自分の道です。
人生は長いようで短いのです。
もはや世間や親や配偶者・子供、これまでの常識に従う生き方を続けていく時代ではありません。今生は誰の人生でもなく、あなた自身の人生にほかならないのです。
自分のために生きること、これが実は家族やパートナー、周囲の人の幸せにもつながっていく時代になってきているのです。
とはいえ、つらいことから逃げるとか楽をするとか、わがままに生きていいというのではありません。
自分の魂に正直に生きていく」ということなのです。
これは実は厳しい部分(タロットカードでいうと「月」の葛藤)もあるのですが、それを超えるとまさに太陽のように輝いた自分になり、それが周囲の人を照らすことになるのです。


スピリチュアル系明暗

タロットをしている私が言うのも何ですが(^_^;)、少し前から始まった最近のいわゆる癒し系スピリチュアル系といわれるブームにも注意が必要だと感じます。


もちろん、何事にもよいと思える側面悪いと感じられる面両方常に(モノの見方として)存在するのですが、それだけにいいことばかりではないことにも配慮すべきです。


その前に、スピリチュアルブームでよいことというのを見てみましょう。


それはやはり唯物主義に固まることなく、精神や目に見えない部分での感覚・直観を大切し、モノと心の統合を図る視点を持つことができるという面でしょう。


言い換えれば現実・実際の二面性・両極の考察と観点の獲得です。


簡単に言えば、今までとは異なる考え方、裏の見方もできるようになるということです。


そうすれば、不条理だと感じていた現実の世界や不幸だと思っていたこれまでの自分が、実は違う見方では納得のいくものであり、世界は意外にバランスがとれているものだという、調和や必然性に気がつくようになってきます。


さらに過去を否定することなく、前向きに生きていく力とすることもできます。生き甲斐の新たな創造と言ってもいいかもしれません。


しかしながら、一方では、癒しやスピリチュアルといわれる世界では、心の解放が叫ばれ、自由や「自分のよいと思う感じ方」が過度に重視される傾向もあり、「自分が納得すれば何でもいいんだ」ということになりがちです。


言い換えれば、自分の心への絶対の信頼が求められ疑いや評価をなくすということに近くなってきます。


これは悪いわけではないとはいえ、本質的な魂や神性と呼ばれる人の持つ崇高な部分への信頼ならばよいのですが、「心」ともなれば意外に仮面であったり、エゴであったりすることもあるのが問題なのです。


そうすると、いつの間にか「の信頼」だと思っていたことが、それは単に「一部のへの盲信・盲従」であったり、誰かからの洗脳であったりしたという場合もあるのです。


言ってみればその時は、宗教と紙一重の差といいますか、限りなく近くなります


「自分の感覚を信じましょう」「直感に従いましょう」「宇宙や自然にゆだねましょう」というような非常に気持ちのいい言葉によって、実は私たちは考えること、疑いを持つことをやめさせられているおそれもあるのです。


支配層は非常に巧妙に私たちを操ります。


よいものと信じて疑わないスピリチュアル系の技術も、実は集金マシーンの都合の良い道具でしかないこともあるのです。


ただお金を奪われるだけならまだしも、心も洗脳させられ、操られるおそれもあります。


人を裁くことはよろしくはないと言えますが、だからといってすべて盲目的に受け入れ、感性のままに動き、批判がましいことは一切さしはさまないことがいいわけではありません。


霊的な世界に入るには、まずは「正義」のカードで象徴される観点を持つことが大切となってくるのです。


あなたは神である。

いきなりの質問ですが、あなたは完全ですか?


こう問われると、ほとんどの人は「自分が完全なわけはない」「欠点だらけだ」と答えるでしょう。


私も表面的な意味ではそう答えざるを得ない、未熟な人間です。


このように、ほとんどの人は自分は何か劣っている欠点がある足りない「人」だと思っています。


それは謙虚さもあるので、いいことでもありますが、本質的にはやはり問題なのです。


ところでカモワン版マルセイユタロットの教えの中には、グノーシスというものが根底にあります。


これは「知る」「認識する」という意味であり、何を知るのかと言えば、ズバリ「自分が神であることを認識する」ということなのです。


人が神であるはずがない、何という奢り、グノーシスって悪魔の教えじゃないの?と疑うのももっともです。


実際に、カトリック・キリスト教では弾圧の対象の教義でした。


しかし、奢りとは違います。


簡単にいえば自分の中には「神」がいると考えるのです。ですから、逆に考えれば仮面としての悪魔も別の人格も存在することになります。それはいわばエゴと言ってもいいものかもしれません。


それとは別に、人には純粋で崇高な神の性質・神性があるのだという考えであり、それを自覚することで神に至ることができるというのがグノーシスなのです。(グノーシスには様々な考え・流派があり、一概には言えませんが本質的には同じと考えられます)


「認識する」と書いたように、単に頭で知るだけでは神性にたどりつけません。識別したり、認めたり、腑に落ちたりする体験など様々な深い落とし込み・味わい・気づきが必要なものです。


しかしながら、もともと「自分は神のように完全である」ととらえていたのなら、「人は問題を起こすやっかいな動物だ」とか、「悪いことをしても当然だ」とか、「しょせんはこんなもの」とか、自分を限定したり卑下したりすることから救われる可能性も出てきます。


では神のように完全な存在なのに、なにゆえこのように悩み苦しみ、間違いを犯し、欠点の多い人間なのかと思われるでしょう。


それは神であることを忘れているからです。というより、忘れさせられていると言ってもいいかもしれません。


スピリチュアルな考えになりますが、おそらく死後であったり、肉体を離れたりした時にはそのこと(自分が神であること)を自然に思い出せるのでしょう。


それなのにわざわざ現実世界に肉体を伴って生きているのは、思い出すということを賭けていると言ってもいいかもしれません。


思い出す方法や過程を、魂としては楽しんでいるという考えです。


同じルートや方法ばかりでは成長や発展、創造性が限定されてしまうので、宇宙の法則(創造・維持・破壊のサイクルを通して結局創造していくこと)に適わないのかもしれず、そのためわざわざ現実での思い出しのプロセスを開発しているとも言えます。


かなり思い出す人生もあれば、ほとんど思い出せない人生もあるでしょう。


それでも必ず何らかの気づきはどの人生でもあったはずです。それこそが宇宙の創造のひとつであり、大きな存在からすればやはり新しい何かであり、喜びだと考えられます。


そのためには、大前提を思い出しておくことです。それが「グノーシス」であり、自分が神であり、神性が内にあるという理解なのです。


また自分が神であるということをたとえ深く理解できていなくても、そう思うだけであなたはすでに神である自分からのエネルギーを時空を超えて受けていることにもなります。


ちょうどタロットマンダラでいえば、「世界」から「愚者」に向けてエネルギーが送られているかのようなものです。それは逆説的になりますが、「愚者」が「世界」を目指すことを志したからそうなるのです。


あなたがカモワン版マルセイユタロットの秘儀にふれた時、すでにそれは起こっているのです。


あなたは与えていますか?

タロット、特に大アルカナを見ていると、まるでいろいろな人たちが集まっているかのように見えてきます。


その中では、人に何かを伝えていたり、つなげていたりと、何かその人物自身がほかの人に対して大きな影響力を与えているカードがあります。


反対に、誰かから何かを受け取っているようなスタイルの絵柄もあります。


そう、結局のところ、人は誰かに何かを与え、逆に誰かから何かを受け取っているのです。


そして、いつもそのことは同じ立場のままで固定されるのではなく、ある場面や状況によって、入れ替わるのが社会の実態でしょう。


これをカード一枚で表すとすれば、やはり「節制」ということになるでしょうか。


「節制」には二つの壺を持った天使が、壺からの液体を移し替えている姿が描かれています。(カモワン版マルセイユタロット)


この交互に移し替えられている「液体」がわれわれの様々な供給と受容(消費のこともあり)を示しており、液体が流れている元の「」というが、われわれ自身であったり、培った技能やスキル、知識・製造物などを象徴したりするのです。


このことは、私たちにまた大きな示唆を与えてくれます。


「自分はとても人に何かを与えるような人物ではない」と思っているかもしれませんが、誰でも自分が与える側になれるのです。


さらにこれを突き進めると、「与えなければ、真の意味で与えられることもない」という発想を得ます。


与えてもらいたければ、何かを与えることを先に自分に課すべきかもしれません。


それでもやはり、「私には何もない」と言う人がいるでしょう。


でも、本当にあなたには「与えること」「提供する」ことは何もないと言えますか?


何も物やお金のことだけではありません。形のないものや行動も与える要素のひとつです。


そして、もしそれでも本当に何もないと思っているのなら、こう感じてみましょう。


あなたはすでに肉体を持ち、考える頭脳と生命を「与えられて」、この地上に生かされています。


ならば、あなたが与えることと言えば、その与えられたものを十分に意識して、無駄にせず、精一杯「生きていく」ことになるでしょう。


生きていくこと自体、あなたが与えていることなのかもしれないのです。


誰に与えているのでしょうか? それは宇宙とか天とか神とか言われる大きなものへ与えていると考えられます。


もちろん生きていくためには食べ物も必要ですし、もっと言えば空気も水もいります。


これだけで大きな消費かもしれませんが、おそらくあなたが人として生きていることで、それだけで天や宇宙に与えている何かがあるのではないかと思われます。


ただ、生き方として、不平不満を述べ続けたり、ただ無気力に生きていくだけだったりするようなものは、消費過剰と言いますか、エネルギーとして宇宙に「与えていく」ことができていないのかもしれません。


だから、与える人生を歩むためには、何よりも力強く希望をもって生きていくことだと私は感じています。


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