スピリチュアル

赤信号にて引き寄せの法則を思う。

私は最寄りの電車の駅から少し離れたところに住んでいますので、そこに出るためにバスに乗ります。


まあ、15分程度ではあるのですが、その比較的短い時間の間に、何本か信号のある交差点を通過します。


その中で小さな三叉路があり、そこではあまり人が通らないのですが、なぜかよく赤信号でバスがつかまります。


自家用車ではないので、別にそこで止まっても予定の時間で駅には到着するのですが、私にはそもそもそこに信号があることにやや疑問もあったので、イライラしてしまうこともあったのですね。


ですから、そこに近づく度に、「今度は青で通過してくれるだろうか・・・」なんて思うようになりました。


という状態でバスに乗りますと、必ずと言っていいほどそこの場所では赤信号なのです。ご丁寧に「行きも帰りも」です。(苦笑)


それで、ある時、バスに乗っている最中iPhoneをさわっていますと、気がついたらその場所は通過していました。


私にはほとんど停まった記憶がありませんから、おそらくその場所でも青信号だったのでしょう。


それから何回か同じように、何かほかのことに熱中していたり、まったく信号のことを気にもとめなかったりした時に限って、その場所で赤信号になってつかまることはありませんでした。


このことからはっきりしたことがあります。


私たちはよいことにしろ、悪いことにしろ、注目していることに対して「事件」が起きるのです。


いえ、逆です。事件が起きているように自分が意識してしまうのです。


あることに意識が向けば向くほど、それに対して自分が反応してしまうようなことを自分が見い出すと言ってもいいかもしれません。


あることに注目したことで反応や事件が起きるものには、自分にとっていいと思えることもあれば、悪いこともあります。


いわゆる「引き寄せの法則」もこれに近いところがあるでしょう。


ただ「引き寄せの法則」と違うのは、自分が望むものを思えば引き寄せるのでもなく、また自分が起こってほしくないものを願えば、その起こってほしくないこと自体が起こるというものでもないという理解です。


言ってみれば「自分の願い(望み)」とは実は関係ないということです。関係があるのは、あなたの関心ごとに対してなのです。


何を願おうとも、それが引き寄せられるか、あるいは望まないことが逆に引き寄せられるかなどには関係なく、ただあなたが関心を抱いたものに応じた事柄が起こるということです。


正確にいえば、自分で「ある事柄」にフォーカスしているので、自然にそのことに対して「意識過剰」になって、あたかも何かが起きたように思える、認識するということでしょうか。


お金にフォーカスしていればお金を引き寄せるとか、「お金がほしい」と言っているのは「お金がないこと」を意識することになるから「お金が引き寄せられない」とかというものではないのです。


ただお金という事柄・関心を自分が抱くことで、それにフォーカスしたために、そのことに関連する事柄を自分自身が情報として強化するようになるということです。


その結果、お金(関連の情報、過不足という量のことについても)を引き寄せたか(あるいは引き寄せられなかったか)のように見えるのです。


関心を抱き、そのことに意識を向けるのは、逆に考えれば、そのような思考と世界に生きているのですよということにもなり、それに応じたものが現実としてあなたにはとらえられるということになります。


※注目を受けている人や事柄の方からあなたを見ていると想像してみてください。


このため、カモワン流のタロットカードとリーディングは、人物の視線(つまり関心を示す)に注目するのです。


生徒と先生

私の持論に、「みんな先生であり、生徒である」というものがあります。


私たちはいわば、この世界で大きな学校に入学して学んでいるようなものです。


しかし実際の学校と違っているのは、先生と生徒というのが固定されていないということです。


誰しもがある時は先生となり、ある時は生徒となります。上下という意味での教壇もなく、ある意味すべてが教壇であり、受講する教室でもあるということです。


しかも科目は無限に存在し、同時に受講可能です。


こんないい学校はありません。(笑)


でもみんな、通信簿の基準がわからないのです。成績はいったいどう評価されるでしょうか?


このことはまさしく神のみぞ知るかもしれません。


しかしながら、少しはうかがい知ることができます。


それはまずは私たちが生きている世界での決められた評価ではないということでしょう。


一応ですね、どの教室でも運営のためには決まりやルールがあります。


ですが、それはあくまで運営や教室・学校での過ごし方に関する「校則」みたいなものなので、自分の成績とは関係ありません


でも校則なので「拘束」があります。(しゃれではありませんが(^_^;))


その中で自分が評価されるのは、実際の学校でも「校則をきちんと守ったこと」ではありませんよね?


私が思うに、成績や評価というものは、いかに人生を充実させたかということにあり、究極的には「愛」が最大の基準ではないかと想像しています。


どれほど愛を学び、表現できたか。


これによって言ってみれば成績が決まるというものです。ですがそれは人と比べる相対評価ではなく、自分自身の絶対評価ではないかと思っています。


人には個性があり、それぞれが違う部分をもっているのが「世界」です。


なぜ人が違うのかと言えば、「すべての人は生徒であり先生であり、この世が学校である」と見れば理由はわかってくるでしょう。


あえて説明はここで止めておきますね。


タロットとアストラル層

今日は非常にスピリチュアルな話になり、受け入れられない人は無視していただいて結構です。


タロット(カモワン版マルセイユタロット)にはアストロロジー(占星学)の象徴や意味も込められています。


どこがどうつながるのかは、絵柄からアストロロジーの惑星記号が見い出されたり、黄道十二宮が象徴されていたりということもあれば、カード全体がアストロジックな考えを導いている(と感じる)ということがあります。


そしてこのタロットにおけるアストロロジーは、現代的な占星学よりも古典占星学を適用したほうが理にかなっているように私には思えます。


特に天球理論というものがあるのですが、これは地球をそれぞれの惑星がボールのように何重にも回転しながら覆っているというイメージで表されるものです。


このことは基礎講座でもお伝えしているところですが、私たちが普通に今の科学としての天文学で認識している地球と惑星の関係、天体の動きや仕組みとはまるっきり概念が違うものなので、説明されないとすぐには理解できないと思います。


それはともかくとして、簡単にいえば、ある古典的な占星学においては、地球は星々で覆われているということです。


私はこの星々で覆われているということが、ちょうどタロットマンダラの階層や段階に見えてくるのです。さらに意識の次元やレベルよってもそれぞれの星々の層にわかれるのではないかと思っています。


つまり、地球を取り巻いて何重にも星々の円がさらに存在していて、それら円の層が意識の相違でもあり、タロットカードのそれぞれもある規則をもってその層とリンクしているということです。


それで何が言いたいのかといえば、地球というのはいわば象徴であり、同時にほかの星(惑星)も象徴体だと考えられ、それには地球意識の次元と別の星意識の次元があり、それぞれが合わさることで今の私たちの存在(意識)があると述べたいのです。


この場合、地球意識が一番次元が低いとも思いがちですが、私は単純にそういう話ではなく、地球以外の惑星の層の次元の影響があることを認識する、あるいはそうしたものがあることを知る、そして今の層の混じり具合を変えていくことが可能だと意識することが大切だと思っているのです。


層の混交度合いが変われば、当然影響も変化し、自分の意識が大きく変容していくと考えられるからです。言ってみれば、いつも見ているフィルターが変わるということでもあります。


これをもちろん王道の占星学で行ってもよいのですが、さきほどタロットと星の層のリンクにふれたように、タロットを使うことによって今の自分の層を変えていくこともできるのではないかと考えているのです。


あなたはどちらを選択するか。

ある新聞記事を読んでいますと、その昔、平安時代前期、西暦でいうとおよそ800年からの百年間はかなりの天変地異があったことが記されていました。


無論、今回の震災関連によって掘り起こされた歴史認識への記事です。


皆さんも一度貞観時代とか延暦・仁和などで調べてみればわかると思いますが、本当に数多くの災害が昔なのに記録として残されるほど発生していたようです。


富士山の噴火、関東地方の地震、伊豆や東海地方での地震、阿蘇山の噴火・・・そして今回のものに匹敵する三陸沖の地震と大津波が起こったのもこの頃でした。


私が驚いたのは、さらにこの時代、越中・越後、播磨国とか、いわば平成での大地震の土地、新潟や神戸とほぼ同じか近いところでも起こっていたということです。しかも東南海地震までもこの後、発生していたことがわかります。


これらは単なる偶然と片付けられるでしょうか?


昨日の想定外の話ではありませんが、何かここまで来ますと、とても今回のことが「想定外」だったとは思えなくなってきます。


私はここで皆さんに予言をしたり、不安をあおったりしているのではもちろんありません。


私が言いたいのは時間の流れと繰り返し、そして意識の変換のことなのです。


実はタロットに流れる古代の時間概念は直線ではなく、円環思考だと私は考えています。


これは時間は単純に過去から未来へ直線で流れていくというのではなく、円として閉じており、同じところに再びもどって来るという発想です。つまり同じことが繰り返されるのです


そのため、「歴史は繰り返される」と言われるがごとくの現象が生じます。


しかしながら、まったく同じことが起きるということではありません。同じような流れや出来事が象徴的に現れつつも、その対応や意識の変化によっては次元を超える形で体験することになり、それに応じてまったく異なる世界を生きることにもなるのです。


にわかには、何を言っているのか理解しがたいかもしれません。


これを図で説明すると少しわかりやすくなるでしょう。その図とは「らせん」です。


ひとつの円を描いて、さらにその円の始点であり終点の部分を、一段上に持って行き、そこからまた始点として円を描き、終点を同じように一段上げて新しい円の始点とする・・・というように繰り返していけば、ちょうど全体像から見れば円がらせん状に上昇していくように見えるはずです。


このことは、同じ道をたどりながらも次元を上げれば同じ経験ではなくなるという意味でもあります。(らせんの円が、それぞれ立体的には空間の位置が違うことに注目してください)


もしも平安初期9世紀頃の災害・天変地異を記憶や記録に留めて、その再現をシミュレートしていれば、私たちの次元は上がり、これほどの大きな被害は出なかったかもしれません。


これは単純に「備えがあれば物理的に大丈夫であった」という意味ではありません。意識の転換・変換があれば、同じ災害を経験する次元そのものを回避するというようなものに近いです。


またこのようなインパクトによって、何らかの意識の上昇を促す働きがあるのかもしれないと想像できます。


しかしここで注意したいのは、決して円は上昇のみではないということです。


先述したらせんの円も始点と終点部分を下げれば、次の円はどんどん下降していくことになるからです。


大きな円はひとつの時間や出来事の繰り返しの流れだとしても、言ってみれば、そこから上に向かうか下に向かうかは、個々人の意識によって選択が任されていると考えられるのです。


上の選択の人が集団として多くなれば全体としても上に行き、下の人が多いと転落・下降が待っているということかもしれません。


ということは、私たちは一人でも多く上昇することを思ってその選択をし、気概と勇気を持って新しい時代や次元を創り上げていく姿勢が求められているように思います。


少なくとも下降する意識ではなく、上昇していくイメージを自分の中に抱いておくことは、これからの時代、とても重要だと感じます。



今生での自己表現

これまでも自分の生き方に迷うことの多い時代と言えましたが、3.11以降の災害から、さらに生き方について悩まれる方も増えていらっしゃるかもしれません。


そう思いつつも、おそらく皆さんは、この時代のこの国に、今の年齢で生きていることに何か意義があるのでは感じているのではないでしょうか。


日本人の意識や霊的な考え方の多くには「輪廻転生」の思想が根底にはありますので、短絡的に見てしまえば、つい「まだ別の人生がある」というように思ってしまいがちです。


ですが、「この自分」である「自分」を生きるのは一度きりですから、むしろ今生をもっとも大切に考えないといけないでしょう。


そしてこのような状況になれば、もはやいろいろなことを躊躇している暇はなくっているとも言えます。


もちろん状況の変化により、わがままな意味で自分の思い通りに生きるということは難しくなってきたのは確かでしょう。


しかし、自分が本来やりたかったこと、自己を表現することを、様々な理由をつけて先延ばしにしてきた人は、そろそろ本腰を入れて今生でそれを実現するように行動していく時が来たのではないかと感じています。


もしかすると、これまでやれなかったのは、今までの社会状況が自分にとって合わなかったからかもしれませんし、経済活動ということを常に意識させられてきて、それとの融合か見い出せていなかったからなのかもしれません。


けれども、今後の社会の急激な変化によっては、あなたのしたいことが時代にも合致することになるかもしれませんし、あなたのやりたいことと社会との接点が見つけやすくなる可能性もあると考えられます。


一般的に、現在は全体の先行きは不透明ではあります。これまで「こう進めばいい」と確信に満ちていた人も迷ったり、方向転換を余儀なくされたりしている場合もあるでしょう。


そんな中で自己表現をしていくということは大変難しく、社会状況と相容れないこともあると思います。


これまではやはりどうしても「経済成功の観点」から「自分の(確立、表現の)成功」ととらえられていたことが多かったように感じますので、むしろ今後はパラダイムシフト(今までの常識的な価値観からの変化)が起こり、違った意味での自己表現での評価というものがなされてくるように思います。


いわばそれは、ここでも再々登場しているタロットマンダラの順序を、いきなり中層(「正義」から「節制」)から始めるようなものです。


このような意味からも、自分のやりたいことを、これまでとは違う方法での表現、形態で行っていくということがやりやすく、また実行に移す機会に来ているとも言えるのではないでしょうか。


残された時間、今生を大切にしましょう。


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