スピリチュアル
アニメ映画「天気の子」から再び
「君の名は。」で一世を風靡した新海誠氏の新作アニメ映画、「天気の子」が、昨年公開されました。
この映画については、「君の名は。」の次回作でもあったことで期待度が大きかった分、結果的には評価や意見が前作より分かれ、賛否の否も多くあったように思います。
かくいう私も、このブログで、「天気の子」について書いたとき、内容や完成度において、不満があることは書いています。
しかし、今年のコロナウィルス禍の中で、ふと、この「天気の子」を思い出したところ、この映画は、ある意味、予言めいたところがあったのではないかと感じるところがありました。
また解釈や評価においても、(個人的には)かなり変わってきた部分があります。
昨年は、まさに「天気」が荒れ狂い、台風による被害が日本では多く出たことで、もともとこの映画の予言的な説は出ていました。
「天気の子」では何日も降り続く雨による異常気象の世界を描いていましたが、実際にこの映画の公開後、台風による雨(風もですが)の災害があったわけです。
そして、今年のコロナウィルスの世界です。
雨ではありませんが、ウィルスという「目に見えない雨」により、日本はもとより、世界中が異常な状態に巻き込まれています。天気で例えると、とても普通の天気ではなく、悪天候が続いています。
映画「天気の子」の世界では、最終的に、雨は二年半も降り続き、東京の下流域が水没しながらも、人々はそれを受け入れ、新しい形での生活をそれなりに過ごして行くようになった・・・ということが描かれていました。
「天気の子」においては、異常な長雨による“変わらざるを得ない世界”になりましたが、現実の私たちの世界も、コロナウィルスによって“変わらざるを得ない世界”に移行しようとしています。
ところで、「天気の子」の賛否両論でよくクローブアップされたのが、主人公の少年の最後の決断ではなかったでしょうか。
世界の人(天候の安定)を見捨て、どこか自分勝手に見える、自分と好きな人がいる世界を選ぶような形の主人公の決断。
だからと言って、世界(日本)の人も、彼らを責めるわけでもなく(まあ、主人公たちのことを本当に知る人は少なかったわけですが)、淡々と洪水のような世界を受け入れている風な描写もありました。
そのどちらもが、当時は個人的に、かなり違和感があったのですが、コロナウィルスによる今の世界を見ていますと、「天気の子」のこれらの描写が、かえって別の(隠された)意味に思えたきたのです。
「天気」をもし象徴的にとらえれば、それは一般の「空気」なのかもしれません。
コロナ禍で、本当に怖いところは、人々の同調圧力やマスコミの捏造にも似た恐怖の報道の部分もあります。言ってみれば、「世の中の空気」です。
もちろん、「天気の子」の災害的な天候ということでは、今年の実際のことでは、「(異常な)天気」は「コロナウィルス」の象徴とも言えます。
「コロナウィルス」は「天気の子」の雨と同じように、それまでの人々の暮らしを環境的に変える要因になっています。と、同時に、「世の中の空気」もまた、これまでとは違うものが作られています。
このような「天気」、すなわち、「空気」「問題の要因」によって、私たち一人一人は、自分の生き方・姿勢が問われています。
アニメや物語の世界では、これまでは、予定調和的か、あるいは破綻した世界にあっても、何かしらの正しい論理、正しいか間違いかのふたつの基準は見ている者にとっても比較的はっきりしていました。
あるいは、たとえはっきりしていなくても、思いもつかない第三の道があったり、意外な方法論が示されたりしていました。
つまりは、よい世界になっても、ダメな世界になっても、それなりの納得性が見ている側にはあったのです。
ところが「天気の子」では、前述したように、ラストは、すっきりしない、どうにも不満や中途半端さの残る感じがありました。
しかし、よくよく考えてみますと、「正しさ」「すっきりさ」とは何かということなのです。
コロナ禍によって、元の世界に戻ることが正しい(期待する)という人もいれば、もう元の世界には戻れないから、新しい生活を模索しながら見つけていくのが正しいという人もいます。未知なるウィルスのせいで、正しさや落としどころ、あり様がわからなくなっているのです。
ですから、結局、「天気」「空気」として、多くの同調の意見、圧力を取り入れて、不安や不透明さをごまかそうとします。
「天気の子」では、「世の中なんてどうせ始めから狂っている」という登場人物のセリフがあります。
異常気象前の「元」のあり様からして狂っていたのだから、世界の環境がどう変わろうと、狂ったままで生活すればいい(何も間違いや正しさはわからないし、言えない)という感じがうかがえました。
これはまさに、今の状況、今後の状態の予言と言いますか、どう私たちは考えれば楽になるのかを、示唆しているようにも思えます。
また、主人公は、「僕たちは、大丈夫」というセリフを述べます。
そのセリフは、最初は、能天気というか、バカなのではないかと(笑)思えるものでしたが、これも、今の現実の状況を見て「天気の子」の主人公のセリフを考え直すと、味わい深いものになってきます。
つまり、こういうことだと思うのです。
「大丈夫だと思えば大丈夫」ということだと。
もっと言えば、大丈夫だと決めるのは、ほかならぬ自分自身であり、他人や世間の空気(天気・環境)などではないと主張しているように思います。
たとえそれが、ほかの人から、あるいは全体の空気から困難なものに見えても、大丈夫かどうかは自分が感じ、決め、導けることである、というわけです。
結局、「天気の子」は、柔軟性をもとにしながら、ある意味、霊的な自立につながる話だと受け取りました。
それは、外側を受け入れながらも内なる強さで世界に対処し、創造的に生きることであり、「天気の子」の、一見、投げやりで身勝手に思える描写でも、おそらく計算されていて、次世代(の子、次世代の生き方)ということを、すでにテーマにしていたのだと考えられます。まさに予言の映画です。
マルセイユタロットで言えば、「力」のカードが浮かんできました。
奇しくも、「天気の子」が公開された年月日は、2019年7月19日であり、これをばらして足していくと「29」となり、この「2」と「9」をさらに足すと、「11」となります。(数秘術のやり方)
マルセイユタロットでは、「11」を持つのは「力」のカードで、偶然ながら、何か意図を感じます。
また「11」をさらに足すと「2」になり、この数はマルセイユタロットでは「斎王」で、巫女的な女性を表します。(ちなみに巫女的な女性の力については、昨年、「天気の子」をもとにしたブログ記事に書いています)
「11」の「力」は、ライオンを従えた若々しい女性のカードです。「1」という数があるので、新しいという意味もあり、まさにこれからの、新時代・新次元の段階を象徴しているのかもしれません。
「力」のカードから考えると、私たちはライオンという恐怖をコントロールし、動物や自然とも共生し、すべてを受け入れる柔軟性を持ち、人としての本当の「力」を取り戻す時代に来ているような気がします。
「天気の子」の異常気象は二年半も続いたことを考えると、この映画と現実の奇妙なシンクロが見て取れる今、もしかすると、コロナウィルスも、二年半くらいは落ち着くのにかかるのもかしれません。
しかしその間に、人々の意識は変わり、たとえ狂った世界のままであったとしても、自分自身に本質的な調和と力を取り戻すことができれば、従来の価値観での間違い・正解、異常(狂い)・正常の観点を超えた、新たな次元に上昇、飛翔することができるように思います。
偶像崇拝
宗教には、「偶像崇拝」の問題があります。
偶像崇拝とは、神や仏などその信仰対象を(特にモノの像として)かたどったもの、可視化したものを、「崇拝」する行為のことを言います。
イスラム教はこれが強く禁止されていることは有名ですが、ユダヤ教、キリスト教も、旧約聖書の記載から、やはり偶像崇拝は禁止されています。つまりは、世界三大宗教と言われる西洋系(アラブ系とも言えますが)の宗教は、偶像崇拝を禁止しているわけです。
もとはと言えば、偶像崇拝は、やはり宗教的に問題があったでしょう。
崇高な意味で言えば、その宗教における「神」「最高の存在」を、人間的・現実的形で表すことは、失礼でもありますし、そもそも至高の存在であるならば、それは現実的な意味での「形」で表現することは無理であると考えられるからです。
この、偶像崇拝をしてはならないという戒め、決まり事は、よく考えると、なかなかのものであり、今風に言うならば、スピリチュアルな世界をどう表現するかの問題に関わっていると言えます。
形ある像があるということは、物質として私たちが目に見える形で、それを見ている、理解することになります。そうするうちに、いつの間にか、その像を通した「形」を崇めてしまうことになります。いわば、信仰が像そのものになるわけです。
これは、言い換えれば、目に見えない世界を物質化していると言えます。
本来、抽象的な、誰のものでもない神、特定の何かでもない、超越的で唯一絶対的な神が、私たちの普通の世界、誰かで何かである(あらねばならない)低次で具体的世界に堕してしまうようなものです。
それは、「私(だけ)の神」「私の思う神」「人間のような神」「私の個人的な願いをかなえてくれる神」として、身近で、しかしより個別的な神として「見える」ようになるわけです。
簡単に言えば、神の具体化・現実化、個別化ですが、それは神のエゴ化、私物化、利便性や時には経済的利用の代物となってしまうこともあるのです。
例えば、ある宗教の神像が作られたとします。その神像が、便宜的には、この現実の世界で見える神であり、その宗教のシンボルともなります。
その宗教を信じている人には、像は崇高で、まさに神に見えるでしょうが、他の神を信仰している宗教徒からすれば、邪教のシンボル・像ということになり、その像を叩き壊しても、むしろ賞賛されるくらいのものかもしれません。
ということは、像そのものがリトマス試験紙のように、信仰の度合い、信徒の判定に使えることにもなります。まさに隠れキリシタンにおける踏み絵みたいなものです。
すると、偶像そのものが争いを起こす種ともなりかねません。
これは神が偶像として卑近な世界に見える形に変えられ、私物化されることにより、起こる現象と言えます。
だからこそ、神を偶像や可視化してはならず、誰の心にも存在はするものの、具体的な像・色形として固定化されるものではなく、普遍的で超越的存在として抽象概念のようなものにしておく必要があるわけです。
誰にも神がいるようにするためには、「この神は違う」とか「この神はイメージ通り」とか、意見がバラバラになって、神そのものへの信仰から離れてしまわないように、誰のものでもない、どんな形でもない空気みたいなものにしたほうがよいわけです。
翻って、現代のライトスピリチュアル事情を見ると、まるで偶像崇拝をしているような人たちが少なくないことがわかるでしょう。
神や天使、仏や菩薩などの名前を語り、私にはなになに様がついている、私はこの神様が見えている、私を守っている存在はこれこれです、なになに神がこうおっしゃっています・・・とか、その語る人には、超越的存在が具体的な姿・像として見えていたり、言葉などが聞こえてきたりしているようです。最近はスピリチュアル系ユーチューバーなどでも多いですよね。
あくまで、神の高い次元を人間的に理解するうえでのバージョンを落とした媒介的なものとして、イメージや偶像を象徴的に使うことはあるかもしれません。そうしないと、なかなか高次の世界に、一般の我々が近づくことができないからです。
大学生の講義をそのまましても、幼稚園児には理解不能なように、比喩やたとえ話のようなものがいります。おとぎ話や物語のようなものですね。それと同様に、神話や説話として、私たちの世界に神の世界が披露されているわけです。
偶像がそうした媒介的、次元の違いを象徴・比喩的な装置として結びつける役割であるのなら、それはありです。
マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像は、これが意識されていると見ます。
崇高な世界、神の世界を理解するために、あえて具体的な象徴図として可視化されていて、しかし、単に目に見える絵というものだけではなく(それでは偶像崇拝の問題が現れるため)、やはりそこには(内在的な)神が意識できるように、神の世界の言葉・形が、私たちの世界のものに置き換えられていると考えることができます。
秘儀的には、数とか精緻な幾何学的な図は、それら神と人間をつなげる言語になっています。マルセイユタロットには、それが使われているわけです。
偶像崇拝の問題は、具体的であるがために、外側にモノや形として、固定した神を見てしまうことにあります。像を拝む行為をしているうちに、像に意識が投影され、像が人間化(感情や特定ルールを持つ)してしまうのです。
最初は自分が中心となって像を見ていたのに、いつしか自分の外側で自分を裁いたり、救ったりする存在がいるのと同じ(つまりは、形ある法律のようなもの)になり、その法律・検察官・裁判官に従わないと、自分には悪いことが起こる(罰せられる)、救われないという、見るものから見られるもの(存在)に、像(神)への意識が反転してしまうのです。
見られるものとは、普段、他人や社会を意識して、自他を比べて生活している私たちの意識そのものです。
神が抽象的で私たち中に存在するものであるのならば、見られるというより、高い見地での倫理的・哲学的・霊的意識で、自分をよい意味で律することができます。
この場合、自分が神=完全性持つ存在として認識され、低次の自分とは異なる高次の意識が、客観性をもって自己をコントロールしたり、示唆を与えたりするかのような意識が働き、自分で自分を導く状態が生み出されます。(それを補助する人やツール、シンボル、象徴などは必要かもしれませんが)
見られているのが人間や具体性ではなく、比べるのは自分自身(の中)ということになるからです。
偶像崇拝を悪い状態にしてしまうと、他人によって見られる意識のほうが強くなり、自分の自由を奪うどころか、個人化・現実化した神の像(支配するルール)によって、人の自由さえ、奪いかねません。
世界三大宗教は偶像崇拝を禁止したのですが、結局、布教における妥協で、可視化するものを多く作ってしまったこと、またイスラム教においては、おそらく神の概念を抽象化し過ぎたために、媒介するものがコーラン(クルアーン)などの「聖典の教え」そのものになって、それを遵守するかどうか、誰が正しく抽象的な神を理解しているか、受け持っているかという、正統性の「争い」が激しくなったものと想像します。
ですから、偶像・可視化のやり過ぎ、またやりなさ過ぎも問題で、神と人を媒介し、結び付けるシンボル・象徴はあったほうがよいのではないかと思います。
そして大切なのは、それがあくまで中間的・段階的な便宜性のものであり、神が人間の世界に堕ちてしまわないよう(反対に、人がおごり高ぶらないよう)にする必要があります。
その点でもっとも大切なのは、外に神がいるという発想ではなく、内に神がいるという認識だと思います。
あくまで偶像は、自分の内なる神性(それは宇宙であり全であるもの)を引き出す媒介装置であるとみなすわけです。
そして逆に言えば、それらの像や可視化できるシンボルがないと、なかなか現実の、普段の私たちの意識においては、神性を自分に実感することができず、そのための舞台装置として、聖域、神殿、偶像などの仕組みがあったほうが、最初や段階としては、よいわけです。
この考えに立っていれば、偶像崇拝で変な方向に行ったり、何者かわからない、しかしエゴや欲望などを強く引き出してしまう、まさに「偶像」を崇拝することはなくなるでしょう。
ちなみに、偶像は人の場合もあり、今は違う意味に使われていますが、偶像はアイドルであり、自分のアイドルとして崇拝し過ぎてしまうと、その人が自分を支配することになります。何も芸能人のアイドルだけではなく、スピ系の人や、それぞれの世界で強い影響力を持つカリスマ的な人なども、偶像になりえます。
ここまで書いてくると、すでに気づいていると思いますが、悪い意味での崇拝される偶像対象は、マルセイユタロットでいえば「悪魔」(のエネルギーを可視化した存在)なのです。ただし、その悪魔も、扱い方によっては、よいものにもなります。
問題なのは対象を具体的に崇拝することで、自分が強く支配され、自分の自由が奪われ、自分を見るものとして(自分がそのモノに見られているという意識が働いて)、自分に君臨させている場合です。
その偶像なしでは生きてはいけない、絶対だと思う人、その偶像の作る世界観・ルールを人に強制している人は、注意してください。
個性と二極化、自分の選択
スピリチュアルな世界では、融和や統合を説きつつも、結構、差別化とか二極化の話がよくされます。
今回のコロナウィルス禍の中でも、不安の波に埋もれる人と打開を目指す人、進化する人とそのままの人とか、新しい世界に行く人と取り残される人・・・など、表現の微妙な違いはあるものの、やはり、二極化で語られることが多いように思います。
人は自分の望む世界にシフトしていく、あるいは、自分が世界を創造していくという、スピリチュアル的な観点がありますが、そこからすると、どうしても、それぞれの人の希望によって住む世界が異なってくるという言い方になるのは当たり前かもしれません。
死後の天国や地獄の概念においても、それも二極化であり、もともとそういうふたつの世界があるという見方もありますが、結局、スピリチュアル的には、自分の望む世界、あるいは自分に見合う世界に収まるということで解釈されており、たとえ地獄であっても、本人の想念がそれであれば、まさにその世界は自分にとってふさわしいということになるようです。
ただ、二極化という観念も、魂の向上のために方便的に言われているものならともかく、そこに差別意識や選民思想などが働いている場合は、ちょっとどうかなと思うところがあります。
自分はえらい、自分は進んでいる、覚醒しない人は置いてけぼり、物質は悪で霊や精神こそ至上・・・みたいなスピリチュアル的な思考・感情は、かなりアンバランスな面もあるのではないかと危惧されます。一種の逃避や、エゴの肥大による自分へのわがままな保守ということもありえます。
自分というものはまずは大事ではありまずか、自分と全体とを共有して見て、自己の救いが他者の救い、全体の救いになり、その逆もまたありで、他者の救いが自分の救いに同時になるという、相対しながらも同じに見られる視点も重要だと考えます。
タロットでも、カードそれぞれのエネルギー・波動の違いを設定して、優劣的に解釈する人がいます。
カードの違いは、実際に絵柄も意味も異なるわけですから、その見方は当然なのですが、そこに優劣的観点を入れてしまうと、場合によっては問題となります。
それは、カードに良し悪しの順列ができてしまうことで、単なる吉凶判断になったり、エゴ的な見方を増幅させたり(自分さえよければよいという見方)、劣るとみられるカードの扱いが悪くなったり(ひどい場合は無視や拒否)するおそれがあるからです。
一枚ずつの違いを見ながらも、全体としてどうなのか、すべてが等しく意味を持ち、なおかつ個性があって、カード同士が組み合わさると、新たな意味が出たり、アドバイス・救済方法が見つかったりするという感じで見ていくのがよいと思います。
それが実は、自分と世の中のバランスある見方にもつながるからです。
よく、「私には個性やウリがない」「人と比べて優れているところがない」と嘆く人がいます。
これにはまず、前提を変えるとよいです。つまり、普通、なかなか人より優れているような才能、能力、技術は見つかりにくいということです。
だいたいの人は、個性はあっても、それが優劣の優て売り出せるほどの自信もなければ、実際にそれほど際立つものを持つ人は少ないと認識しておくとよいということです。ありていに言えば、多くの人は平凡なのです。(笑)
それでも、もともとの才能や外見はともかくとしても、あとから身につけたり、変えてたりしていくことで、自分の個性やウリ、エッジを立てることは可能です。このあたりは努力や工夫によります。
あと、さきほどのカードの話に関連しますが、自分一人だけではなかなか自分の個性がわからない、ウリにもできなくても、他の人と関わったり、協力したり、利用しあったりすることで、自分の個性・ウリが目立ってくる、わかってくるという場合があるのです。
人には大なり小なり、得意不得意、関心の強い部分、そうでない部分があり、それらは一人一人だとあまり際立たないかもしれないのですが、ほかの人との関わりによって、欠点も目立つかもしれませんが、目線の違い(目の付け所)とか、他人よりかはましにできる部分が逆に見えてくることがあるのです。
だからチームになれば、自分の個性が実は出てくる、わかってくる、表現できてくるパターンは意外に多いのです。
そういう意味ては、これからは、競争の優劣ではなく、その時々のチームやコラボによって自分も他人も活かされる時代になるのかもしれません。
例えば、ユーチューバーでも一人でやっていると、なかなか個性が出せず、多くの似たような動画として埋もれるおそれは大でも、誰かと組むと、その動画に個性が出て、目立つ場合もあるかもしれません。
また、何かひとつが飛びぬけていないとウリにならないと誤解している人もいます。
この世は、まったくのオリジナルはすでに出尽くしていると言われ、だいたいは、すでにあるアイデアの組み合わせで、新しいものができていると目されます。
ですから、組み合わせの妙があればいいのです。
人より少し才能があるもの、好きで努力できるもの、こういう分野を複数もって組み合わせ、伸ばすことで、新たな個性として表現できるわけです。この場合、異質なもの同士であればあるほど、その個性は輝きます。
ひとつの孤高なる頂に君臨し続けることはかなり大変です。よほどの際立つ才能があるか、とてもつない努力が続けられるかでないと、そのポジションは保てないでしょう。
しかし、複数の里山的な山を持っていると、一応平地よりは高くて目立ちますし、里山が複数集まれば、それなりの財産にもなります。
トップになって支配するという意識ではなく、ちょっとした特技や工夫、好きで伸ばしたものを皆さんに提供して、自分の不得意なものは、ほかの人に提供してもらったり、助けてもらったりするという相互扶助的な精神でやっていくと、肩に力が入らず、よいのではないかと思います。
際立つ個性はないのが当たり前の中で、それでも、自分らしい生き方(それは人と同じてあっても違っていても別にどうてもよく、とにかく自分を生きていると思えるもの)がなんとか少しでもできていればOKだとやっていれば、いつの間にか、それが個性として輝いてくると思います。
さて、二極化の差別化はまずいところもあるというお話を最初にしましたが、それでも、もし、今までの世の中に何かおかしさや違和感を持っていた人は、ポストコロナウィルスの世界と言われる今後について、やはり、自分なりの選択と創造(想像でもあります)をしていたほうが無難かと思います。
日本では緊急事態宣言も解かれ、少しずつ平常に戻りつつありますが、果たして「もとに戻る」「もとに戻りたい」と考えるのか、「新しい世界に移行する」と考えるのかの、その思考の違いによっては、自分の選択する(居る)世界も変わってくるのではないかと、スピリチュアル的には思います。
人はともすれば、流されやすい生き物です。
東日本大震災の時もそうでしたが、事態が収まってくれば、元の黙阿弥(本当はそうではないのですが)ということにもなりかねません。いや、それが自分の望みであり、それがよいという人は、別に構わないと思います。
しかし、これまでの世界に違和感を持っていた人、このコロナウィルス騒ぎで、世界や体制への疑問が出てきた人にとっては、元に戻るという流れと考えは危険かもしれません。
自分はどんな世の中の、どんな世界を望むのか、その世界は、全体として、今までよりたくさんの人の救いになるのか、そうした思いをもって今後のことを思い、活動していくことは、新たな世界にシフトしたい人には重要かと思います。
自分一人がどうこうしたところで、世界が変わるとはとうてい思えないでしょう。
ただ、今は世界自体が変わってきているという、まれな機会でもあるのです。そこに自分の思いを載せていくのも、これまためったにない機会かもしれないのです。
元の世界を希望する人、これからを悲観する人も少なくないでしょうが、あなた自身は、あなたの望むよい世界を、少なくとも想像していくことは必要かと思います。
モノと心の整理、浄化の関係
今、多くの皆さんの中では、これまで日常だったものが非日常化し、逆に非日常のことが日常化したため、前の記事でも書きましたが、物事の相対化、いわば、ひとつのことがふたつの関係性で成り立ち、ふたつは異質でありながら同質であると見ることのできる視点の獲得が起こってきています。
もし前の生活に戻りたいと強く思ったり、やたらとあせって、今後は、自分が勝者、優位に立ちたいと激しく思ったりすると、優劣みたいな感覚が残っていますので、つまりは均衡ではなく、どちらかに偏っていることになり、それでは第三の位置(新たな創造とも言えます)がわからないままになるでしょう。
ともかく、バランス的に多角的、あるいは両方の視点を持つことか、今の時期大切かと思います。
さて、それと関係する話になるのですが、今回は持つことと持たないことをテーマにしつつ、内と外をシンプルにしていく方向性を述べたいと思います。
ステイホームということで、外出や直接の人付き合いを自粛し、家での時間が多くなってきますと、やたらと無駄なものがあったことに気づいてきた人もいらっしゃるはずです。
現に、これはある面では困ったことではあるのですが、時間ができて部屋の中を見渡すと、余計なものが目立つようになり、整理して処分する人が増えたため、ゴミが増大したという話も聞きます。まあ、することがないから、この際、部屋・モノの整理整頓でもしようかと思い立つ人も多いということでしょうか。
こういう部屋のモノだけではなく、テレワークを実施する会社も増えたことで、今まで理想やアイデアの中にはあっても、実際にはしていなかったテレワークを本当に経験することで、毎日勤務していたことは何だったんだとか、家にいてもほとんど仕事が回るじゃないかと、仕事のやり方の無駄に気づいた人もたくさんいたと思います。
雇用者・社員だけではなく、そもそもの経営者陣自体がそれに気づいたということもあるかもしれません。
これも通勤するという方法とテレワークの形式の相対化とも言えなくはありません。(どちらがいい悪いではなく、ともに単なる労働形式の違いと真に認識すること)
こうして、モノや労働という目に見える分野において、無駄なものに気づいて、それがそぎ落とされ、新たな価値観が生まれる(正しくは気づく)ことになります。
これはこれまで、いかに余計なモノといいいますか、しなくてもいいことをしていた(やらされていた)、持たなくてもいいものを持たされていたということでもあります。
おそらくそれは、半田広宣さんの提唱されているヌーソロジー的には、マクロとミクロの三次元的空間感覚に支配されていることからも起きているものだと想像されます。(ヌーソロジーとマルセイユタロットのシステム・教義は非常に近いものがあると私は考えています)
私たちは、普通、自分を中心にして周囲に膨大な空間がマクロ的に広がっていると認識(感覚)していますが、それはあくまで、そういう認識に落ち込むレベルや次元に自分が閉じ込められいるからであり、本当は次元認識を上げて行けば、例えばミクロとマクロの感覚も相対化され、もうひとつの空間ともいうべきものが立ち現われ、空間認識が変わることで、私たちの感覚、思考自体も変化することが起きると言われます。
余談ですが、これは思考だけでなく体感としても言えます。師匠に習い、特別な教えの中で、個人が体感から入って本質的な法則を知るのが従来の神秘的実践修行であり、アイデア・論理から入って、誰もが普遍的に体感していくのがヌーソロジーみたいなところがあるように思っています。
私たちが大きな空間の中のちっぽけな存在であると思っているので、自分自身を大きくするには、物質的には空間を埋めるほどのモノや、気持ち(感情)的には、心の隙間を埋めつくす、他人からの賞賛や承認、許可、単純ににぎわいがほしいと思ってしまうのだと考えられます。
もうひとつの空間とでもいうべきものが現れ、認識できるようになると、自分の中にすべてがあるという感覚となり、モノや心がエネルギーとして表現されているようなことがわかってきて、物理的・目に見える普通の世界の認識が反転し、モノや他人の声で満たして優位に立つ、あるいは自分の欠損を補うという発想(感覚)は、ミクロ・マクロの相対化に応じて減っていくと思われます。
あと、別の見方として(まったく上記と関係ない話ではなく、むしろ関連性は濃いのですが)、モノと心を同じように見ていくというものがあります。
部屋の中がきれいになったのに、何か心が落ち着かないという経験はないでしょうか?
もちろん、たいていは、部屋が整理され、きれいになれば、心もすっきりするということは多いです。
このことからも、モノと心、モノを見ている自分の気持ちと、モノ自体から発せられるものが自分かの気持ちを動かしている(反応している)という両方のことが見て取れますが、要するに、モノの状態によって自分の気持ちも変わり、逆に自分の気持ちによってモノの状態も変わるということです。
きれいにしようと思った時から、モノはすでに動き始めているようなものです。
しかし、モノはきれいになったのに心がそうではないということもあるのはどうしてでしょうか? これはやはり、厳密な(本当の)意味ではモノはきれいになっていない、そこにあると考えたほうが、なんだか論理的のようにも思います。
スピリチュアルな言い方をすれば、エネルギーがまだ残ってるとでも言いましょうか。
例えば、失恋して、すべて思い出の品は処分したはずなのに、まだ心は晴れない・・・というのも、感覚としては同じようなものでしょう。
そうすると、この「自分の心に残っているもの」こそが本当の重さ(モノ)であり、それを何とかしないと、見えているモノを処分しても、半分は居残ったままなのかもしれません。
とは言え、モノを処分すれば心がすっきりすることがあるのも確かですから、やはり、モノと心というふたつの次元が存在し、それらがリンクして、完全に均衡が取れている時は、モノと心の世界も同調しますが、不均衡な時は、見えないところで、認識のズレが生じていて、まさに「心残り」という感覚が現れるのではないかと思います。
おそらく、見えない世界、もうひとつの空間がわかるようになれば、そこに人やモノがまだいる・在ることが気づくようになるでしょう。霊的にはエーテル空間にいるような存在たちです。
それらは自分のエーテル(生命エネルギー)を通して投影されているようなところもありますから、自分の心がきれいになれば、それらも変化し、消えていくことになるでしょう。(消えるのではなく、おそらく別のものに変わる)
このあたりは、実は異世界系やエネルギー系を扱うアニメーションなどでは、よく表現されていることです。
何が言いたいのかと言いますと、結局、自分の人生もそうですが、世の中全体をよくするためには、見えるものだけてはない、私たちの心の中も重要であり、その掃除とでも申しますか、浄化が必要であるということです。
モノの無駄がわかってきた今、シンプルな生活でも十分であり、むしろそのほうが自然であったことに気づいてきても、心の中が重たいままでは、また活動再開となってくると、モノや他人の声で埋めようとすることに戻ってしまう恐れがあるわけです。
さらに、これからは人類全体としての集合カルマのようなものを浄化していくことが急速に起き、それが個人としては、自分の重たい心、悪い意味でこだわり過ぎている、無意識層のデータ・束縛心のクリアリング課題として生じてくると思われます。
以前よりも今のほうが、むしろセラピーを受けたほうがよい人もいるかもしれません。
言葉としては癒すということになるのでしょうが、癒すためには、囚われていた思いを手放していける処方・方法がいるということです。ただの対処療法では中毒を起こすことがあります。
わかりやすく言えば、ドラッグ(快楽)に頼るかのような一時的な癒しです。セラピーであっても、それは起こりうることがあります。セラピーによって脳内の快楽物質で出て、快楽を感じ、そのため、またセラピーを受けたくなるという悪循環です。
またいずれセラピーによる中毒症状については書くこともあるかもしれませんが、これは提供する側も、受ける側も注意する必要があります。
いずれにしても、モノの整理もいいですが、心の整理も、この際、積極的に取り組むと、これからの時代、自分自身が生きやすくなるのではないかと思います。
相対化が重要な時代へ
最近は例の件で、皆さん、家にいることが多くなったと思います。
すると当然ですが、いろいろなことが変わってきます。
つまり、人間、何かしらの変化が外的に起こると、内的にも当たり前のように変わるものがあるということで、その逆(内的に変われば外的にも変わる)も言えます。
変化があった時、同時に、今まで当たり前・普通・常識だと感じていたことも、そうではなかったことに気づきます。
日常性が失われると、その日常性の特別さに気づくようなものです。言い換えれば非日常が日常となり、これまで日常と思っていたことが非日常化してしまうわけです。
ほかにも、悪い状態でも案外よいこともある、その逆の、よいと思っていたことも悪い面があったこと、というような両面性に気づくこともあるでしょう。
結局、あらゆるものの相対化・両性(完全性)認識(異質ながらも同等性を見る)が進むということです。これは霊的にも非常に大きな気づきと言いますか、覚醒のプロセスに近いと思います。
私事で言いますと、タロット講座については、かなり前にSkype(スカイプ)によって、オンラインでやり始めて以来、昨年途中あたりからZoomに切り替えていましたが、まだまだリアル(直接対面する)講座がメインだと自分では思っていました。(ただ昨年後半あたりから、実質的にはZoomでの個人講座が中心になっていましたが)
数年前では、友人・知人からルームをレンタルしてのタロットリーディングや講義をしており、そのレンタル調整に苦労することもありました。
しかし、次第にオンラインでの講義が増え、いよいよ、世の中も例の件でオンラインで行うのが普通になった今、かつてルームの確保、調整に悩んでいた日はなんだったのかと思うようになり、場所というもののこだわりは消え、全国(もっと言えば世界)へ向けて、対象を広げる感覚がノーマルになっています。
言ってみればリアル講座の価値とオンライン講座の価値が同等になり、むしろオンライン講座がメイン、常態とすることに変化したのです。
さきほども言いましたが、私個人では、すでにかなり前からオンライン講義やセッションはしていたのですが、その時は今のような感覚や意識、気づきがなかったのです。やはり意識が変わってきたのは、昨年に本格的にZoomをやり出してからかもしれません。
これは、本当の意味で、リアル講座とオンライン講座(リーディングやセッション含む)が相対化してきたからと言えます。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも大事で同じ価値があり、ただやり方が違うだけだということが、真の意味でわかってきたということなのです。
どちらかでなくてはならない、こちらが優秀であちらは間違っている・・・このような相対化できていない認識では、なかなかふたつを統合したモノの見方ができません。
相対化がきちんと行えて初めて、どちらの価値もまったく同等に扱うことができるのです。
そうすると、どちらがいいとか悪いとか、そういう次元・意識はなくなり、どちらもありで、状況によって使い分ければいいとフラットな感覚になることができます。
今、家にいることで、これまでは常識で当たり前だったことと、今まで非常識・非日常・特別だと思っていたことの入れ替えが行われ、意識の上で、かなりのものが相対化されてきていると思います。
統合には相対化が必要であることが、これでわかるでしょう。
もう一度、相対化について言いますと、違いはあってもどちも同等だと認識できる、気づくことです。吉凶とか良し悪しとか優劣とか、そんな感覚が出ている間は、相対化できているのではなく、単なる差別化です。でも差別化からまずは始まり、ふたつの区別がはっきりとできてこそ、相対化ができ、統合に向かうのです。
ところで、最近、家にいることで、悩みがなくなった・・・という人も少なくないと聞きます。
もちろん、逆に悩みが続いている、新たに発生している人もいるでしょう。特に先行きか見えず、雇用、経済、生活の問題・不安を抱えている人は深刻です。
それでも、今までの活動が停止したことで、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」となり、そこで様々なことを見つめ直したり、見方が変化したりすることで、物事や価値の相対化が進み、悩みや問題が消えた(問題を問題だと思わなくなった)人が結構いらっしゃるのではないかと思います。
そして、これまで考えても考えてもわからなかったことが、案外、環境の変化によって、すぐに変わることができ、悩んでいたことに回答を得たということもあるでしょう。
とすると、精神世界などでは、心が現実を作ると言われますが、その逆で、思考を巡らして何もしないよりかは、外側の環境、現実が変わることで、自分が変わる(変わらざるを得ない)ということのほうが簡単な場合もあるわけです。
実は、思考の変化→現実の変化というパターンと、現実の変化→思考の変化のパターンも、両面性の話で、相対化していくことができると思います。結局、これもどちらも同じだということです。
これから、タロットにおいての相談(クライアントの問いや質問)も大きく変わって行く可能性があります。
これまで(というか昭和のような古い時代ですが)のような優劣や吉凶、良し悪しを判断するようなものは、質問としても減っていくでしょう。たとえそのような質問であっても、本当に望むこと、真の質問は別にあるようになると思います。(すでにそうなってはきているのですが)
タロットリーダーも、今まで以上に高い意識や認識が求められ、クライアントさんの質問そのままをただリーディングし、回答する(それがクライアントさんの満足なものであったとしても)レベルを超えたものを提供し、リーダー自身もリーディングが終われば、変容しているような、そういうセッション、リーディングがノーマルになっていくよう、進化することが望まれます。
簡単に言えば、問題を通して物事(の見方を)相対化し、意識統合するための共同作業や場を提供するようなものです。(さらに言えば、真の問いを提示していくようなリーディング)
タロット講座におきましても、前からそれを意識していますが、もっとそれにフォーカスした内容になっていくと思います。
ちなみに、私自身、タロットに「これからの時代、何をタロットで提供できるか?」と質問し展開したところ、重要なカードでは「月」と「審判」、「女帝」と「運命の輪」(プラス「皇帝」も)が出ていました。
ここから見ても、今日書いた記事とぴったりかなという気がしています。(マルセイユタロットの細かな象徴、深い意味、特別な霊的絵図としての設計図的観点を知っていないと、なぜ今日の記事とリンクするのかはわかりにくいかもしれませんが)
最後に、悩みがないことはいいと普通思われますが、そうでもないと言えるところもあります。悩みが深かったり、あり過ぎたりするのが問題なだけで、適度な悩みは自己や社会を成長させるものだと思っています。
そしてこの世は、自分の進化に応じた悩みが発生し、責任度合が増していくことで、その分、これまでの自分では考えられなかった境地・境涯での悩みも起き、それによって、私たちはさらに成長していく仕組みになっているのだと思います。
そういうゲーム世界に私たちは来ており、今、そのゲームの設定が一段上がっていて、知らず知らず、私たちは新しいアップロードされたゲーム世界に踏み込んでいるのです。