スピリチュアル
アニメ映画「天気の子」から
アニメ映画「君の名は。」で一大ブレイクした新海誠氏の新作、「天気の子」を観てまいりました。
新海作品の特徴である写真のような美しい背景、絵の描写は今作でも同様で、それを大画面で見るだけでも、なかなかの感動があります。
すでに100億の興行収入に至ったと報道されており、いくら「君の名は。」の余韻と期待の影響とは言え、面白くなければこんなヒットはしないでしょうから、多くの人に評価されたのだと思います。
ただ、個人的には、今回の作品にはひっかかる点が多く、総合的には評価を低くせざるを得ませんでした。日本のアニメーションは質が高いものが多いので、アニメ慣れしている者からすると、満足できないところもありました。また、隠された意味なども、推測範囲ではありますが、今回はそれが設定の色づけや雰囲気で利用されている感がありました。
ここからは、映画「天気の子」に関連しつつも、内容(映画の作者の意図や意味など)からは少し離れ、マルセイユタロットとからめつつ、別の話もしてして行きたいと思います。
映画の内容にふれますので、ネタバレも含まれますから、映画が未見の方や、これから鑑賞しようという人は、鑑賞後に読んでください。
新海氏の作品では、大ヒットとなった「君の名は。」でも、巫女(的な人物)の存在が鍵となっています。
今回の「天気の子」でも、天候を操ることができる(映画においては、雨を晴れにすることができる)巫女的な女性が登場し、その能力が物語の根幹をなすと同時に、結末に大きく関与します。
両作とも、神社・社のような場所が登場します。「君の名は。」では田舎の自然に、「天気の子」では廃墟ビルの屋上に描写されていました。
特に「天気の子」では、都会・廃墟ビルとの対比が際立ち、特別かつ異質な場所であることが強調され、しかも、ある意味、見捨てられた存在でもありました。ただし、完全に荒れ果てた社にはなっておらず、誰かがお盆の精霊馬(牛)のようなものを供えていたようにも見えました。つまり、聖なる場所として息づいている、生きていたということです。
私は大学時代、民俗学もやっていたので、こういう場所の意味については学んだことがあります。「天気の子」のあの描写から見ると、「屋敷神」的なものであり、ビル(に入居する会社・人間)を守る神になりますが、映画では、もっと大きな意味合いを持たせていたように思います。そもそも屋敷神も、日本の「家の神」と同様、祖先が神格化したものが多く、そうすると、身近な霊的世界との通路を、あの場所は示していたとも考えられます。
ところで、タロットをするようになって、民俗学で学び・経験したことが、霊的な意味をもって響いてくるようになりました。
現代は科学的な目線と心理的な目線で、民俗・風習を見ることが多くなっています。(それは悪いわけではありません) こうしたもので民俗的なものを考察すると、どうしても、意味合いに現実的なもの(言い換えれば物質的・三次元感覚的なもの)を見てしまいます。
例えば、神社があるから森(自然環境)も守られると見て、それが逆転し、森を守るために神社が機能していたというような見方で、さらに言えば、心理的な意見になってくると、森と神社の区域が継続されていくことで、当然、神社の区域は通常の居住域と違う環境になり、神社に行くだけで不思議な気持ちになるのだ・・・というものになります。
確かにそうとも言えるのですが、それは実益的な目線での機能論的であり、また結果論で、物質中心の考えみたいなものです。
霊的な見方になりますと、実は、本当に神社の存在に現実を超えた理由と意味合い(霊的理由、必要性)があり、その霊域のためには森が必要であるということになります。最初に「霊」や「見えない世界」ありきなのです。
もともと、神(物質次元を超える領域)を感じる場所だからこそ、神社や聖域があるというもので、区別したからほかとは違ってきたというのとは後先が別です。これは、「占い」をデータや統計の結果だと見るのと、もともとの根源的な象徴体系があって、統計から出た法則や結果ではないというのと同じとも言えます。
それはともかく、新海氏の作品で、このところ、立て続けに、巫女と、その巫女の特質による霊的通路を開くというモチーフが見て取れるわけです。
このことは、古代世界では、むしろ当たり前のことで、日本でも普通にあり、沖縄などでは今もって、、地域や家により、その伝統が受け継がれているところもあります。
マルセイユタロットでは、「斎王」(アルカナナンバー2の、普通では女教皇と呼ばれるカード)が巫女に該当します。
マルセイユタロットの大アルカナには、22枚のカードでもって、全体性や統合、完成を示す象徴性があります。数の順も霊的成長を表していると言え、「斎王」は二番目という早い段階で登場するカードです。
ということは、タロットの作った者たちから見ても、「斎王」の存在がいかに現実の世界でも重要だったかがわかります。
マルセイユタロットでは、「斎王」の視線は、1の数を持つ「手品師」に向いており、「手品師」の作業を見守っているかのようにも見えます。ちなみに、「手品師」は若い人やそのような男性像も表しますので、ここでは女性が若く未熟な男性を見守っている、そういう力があることを示しているようにも感じます。
すると、その場合の巫女的な女性は、地域社会の母親的存在にもなっているわけです。社会的範囲に押し広げれば、男性の社会的・経済的仕事は、女性の霊的保護あって初めてうまく行くのだということにもなります。
「天気の子」では、島から家出をした主人公の少年が、天気を操る不思議な女の子と出会う物語であり、これは島が閉塞的な社会、もっというと、自分を閉じ込める限界的世界、旧世界を表し、それは実は自己を囲い込もうとする自分の母親(実際のではなく、像・イメージ・象徴としての存在)でもあるのです。
しかし、少年は家出をしたものの、新しい世界(東京)では経済的・社会的に困り、その救済の第一歩は、巫女の女の子からされているのです。それは、新しい母親代わりの出現でもあります。しかし、少年は守られることによって、まだ自分の本当の成長(独立・自立)はなされておらず、巫女の少女も、姉的な役割で、実際、映画でも年齢を偽り、少年よりも年上と言って、年下扱いをしていました。
少年の成長には、母性的なものだけではなく、父性的なものが不可欠で、新しい自分と社会に向かって生まれ変わるために、父性的な者からのイニシエーションが必要なのです。
その父性的役割に当たる人が、少年を雇ってくれた編集プロダクションのライターの人でしたが、いかんせん、映画では役割があいまいになってしまい、どっちつかずのような感じ(この人自身もまだ少年と大人の狭間で揺れていたと言えます)に描写されていた気がします。言い換えれば、映画では、現代において自分を強くさせてくれる父性の欠如(あいまいさ・揺らぎ)も示していたのかもしれません。
物語では、結果的に巫女を喪失することで、母親的な保護がなくなり、少年は大人(あるいは女性と対等な存在として)へと、自ら選択せざるを得なくなったようにも見えます。
さて、女性性・男性性の統合によって、真の調和がなされると、スピリチュアルな世界では言われます。
このことは、象徴的にも、実際的も、霊と通じていた古代社会では、多くの人に直感的に理解されていたように思います。
しかし、時代の進化のために、あえて、両性質の分離状態が強まり、これにより、物質的なもの、目に見える世界重視の傾向に、ますます拍車がかかりました。(分けるということは、はっきりすること、個性を持つことにもつながります)
ふたつの分離は、精神と物質、霊的なものと実際的なものの境界を切断し、ふたつはまったく別のものとして見なされ、特に見えない霊や精神の世界は、存在しないものと扱われるようになったのが現代の特徴と言えます。
ところが、しばらく前から、その反転が起こり、霊的なもの、見えないものの実在性を人々は認識し始めてきたと言えます。そもそもふたつは別なものではなく、ひとつであり、見方の違いによって、離れている(違うもののように見えている)たけには過ぎないという理解が、少しずつ出て来たように思います。
古代のやり方をそのまま現代に持ってくることはないでしょうが、少なくとも、かつては感じていた霊的なつながり、その存在性を再び新たな形で見出す必要はあると言えます。
「天気の子」では、一人の巫女的な女の子が、全体の天候の調整のために犠牲になる世界を、少年の少女への思いが変えることにより、別の世界線を選択するという話になっています。
すると、ここでは、多くの人が、主人公の最後にした選択がよいのか、少女を人身御供として多くの人を救う(天候不順を回復させる)ほうがいいのかという、二元的な正義の議論みたいになっています。
前者ではいかにもロマンという感じで、ボーイミーツガール、セカイ系アニメ(二人などの狭い人間関係が、世界全体の危機に直結したり、影響を及ぼしたりする話)でよくある形で、世界がたとえ滅んでも、少女との一緒の世界(瞬間・時間)を選ぶみたいな、これまたよくある感じにもなります。二人だけの恋の選択では、それも美しいかもしれません。マルセイユタロットでは恋人カードの次元の話(選択)です。しかし、言ってしまえば、それはある意味、全体への責任を放棄した、利己的な心中とも言えます。
いい意味で解釈すれば、人のことより、自分の幸せが大事だ、自分を犠牲することがよいこととは言えないという、他人や外側に忖度して(笑)、自分がどうしたいのか、どう生きたいのかを忘れてしまう人が多い今の警鐘とも考えられます。ですが、先述したように、わがまま、自分たちさえよければいいという自分勝手と紙一重です。(苦笑)
少年少女の純愛的なものでは、「交響詩篇エウレカセブン」というアニメがあり、「天気の子」のシーンとよく似ていたところがあって(物語の構図も似ています)比べてしまいますが、エウレカセブンのほうは、50話も描き続けた二人の関係の積み重ねがあり、なおかつ二人の選択が自分勝手とは言えず、多くの人を救い、愛を波及させるものであったので、主人公たち少年少女の恋愛に、胸を打つものがありましたが、「天気の子」は、正直、それほどでもなかったです。
では少女が人身御供になればよかったのかと言えば、これも「魔法少女まどか☆マギカ」ですでにされているように、ひとつの解決ではありますが、やはり、犠牲というのはつらいところがあります。古代社会においても、いけにえという儀式があり、それはそれで深い意味があったとは思うものの、ほかのやり方もあるのではないかという気がします。
言ってみれば、特別な能力の者に、特別な役割を担ってもらうということなのですが、イレギュラーに頼るそのやり方は、全体として覚醒がなされていないから、ということもあります。イエス・キリストの磔刑の型にそれを見ることも可能てす。
多くの人の目を覚ましたり、それこそ世界全体にまで影響を及ぼしたりするためには、特別な者の命の犠牲もやむを得ないところがあるのかもしれませんが、もっと別の解決策がないのかという思いが出るのも当然でしょう。
もしかすると、新海氏は、どちらの選択も問題があることをあえて示し、私たちにもっと高次の(創造的な方法の)見方を促したのかもしれません。そう見ると、「天気の子」も面白い作品となります。
「天気の子」の中のセリフで、「この世界はもともと狂っている」というような言い方が出ます。
これはある意味、グノーシス的な言葉と言えます。
私たちはこの狂った世界で、深刻にならずに、タロットで言えば「愚者」のように気楽に、自分の幸せを求めて生きて行こうじゃないかという人生の応援歌のようにも聞こえますが、グノーシスの見地に立てば、そんな能天気なことにはならないのです。
ですから、私から見れば、グノーシス的でありながら、反グノーシスなのが「天気の子」です。
「天気の子」では、雨が降り続く世界を選択したせいで、東京の街はかなり海に沈んだようになっていました。まるで、エヴァンゲリオンのセカンドインパクト後みたいな感じです。
それに対して、あまりにも以前と変わらない、能天気な人々が描かれており(そもそも、その前にも雨が続きすぎる天候では、あんな平常感ではいられないはずです)、災害続きの日本人の感覚では、おそらくありえないと感じた人も多かったのではないでしょうか。
映画の話は創作であり、どのように描かれても、それは自由です。
ここで言いたいのは、映画の話ではなく、現実の私たちの世界と選択のことです。
今の世界観や常識の中で、選択や方法を模索しても、堂々巡りになったり、何かの多大な犠牲を払わねばならなかったりします。
ここには、物質と精神(霊)が隔絶された世界観による、二元的な悪循環が根源的な問題となっています。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中の二匹の動物状態です。
私たちが、ふたつに分かれた両者を統合できる視点を持てた時、「運命の輪」(その時点でのどちらかの世界・選択)を超えることでき、新しい世界に(次元)に移行します。
「天気の子」でいえば、ラストのどちらの選択でもない世界です。それは登場人物の思いが共有でき、しかも、特別なものの犠牲なく、霊的・社会的に進化した世界と言えます。(作品としてそれを描くかどうかはまた別の話であり、あえてすっきりしない終わり方をするのも、アートの世界の表現としてはありだと思います)
狂った世界であるのなら、狂っていない世界に戻す(戻る)知性と感性を働かせる必要があります。
私たちは、その試しを受けており、奥底には狂っていない世界に戻る鍵を誰しもが持っているのです。それが特定の誰かとか、特別な能力を持っている人のみとかではなく、私たち全員がそうである可能性に気づかないといけない時代になってきたのです。
人生、生きるとは何かのタイプ論
スピリチュアルや精神世界の話のテーマに、私たちの人生(生きること)の意味とは何かというものがあります。
まあ、これは哲学的命題とも言えますし、昔から、人類が抱いてきた根本的な質問と言ってもよいでしょう。
マルセイユタロットでも、これはテーマとなるものです。(マルセイユタロットの場合、現実で生きる人生だけはない部分も扱います)
そして、これまで多くの方が様々な見地から意見を述べて来られました。
スピリチュアル系統の意見でも、もちろん、いろいろとあるのですが、大きく分けて、修行系と楽しみ・幸せ系というものがあると言えます。
また、別の分け方をすれば、「人生には意味ある」系と「人生には意味がない」系(笑)のタイプ(考え方)があると言いましょうか、そういうものもある気がします。
まず、修行系と楽しみ・幸せ系ですが、どちらも成長や発展を基軸にしているのですが、修行系は、人生は楽しみばかりではなく、つらいことや苦しいこともたくさんあり、それらの経験を通して、鍛えられ、成長していくという感じのニュアンスになります。
つまりは、人生劇場=修行場になっているという考えです。だいたいにおいて、輪廻転生説を取りますし、仏教的なカルマの概念も内包することが多いです。
一方、楽しみ・幸せ系も、基本、輪廻転生説を持ち、自分が成長していくというのも似たところではあるのですが、特に今生の人生は苦しいことを経験して成長するのではなく、楽しむため、幸せを感じるために生まれてきているのであり、そのため、楽しみと幸せこそが人生の最大のテーマで、修行のように人生はとらえないとし、修行(苦行的な意味で)の人生にしないこと、そのこと自体が大きな気づきにもなっています。
とは言え、どちらも極端になり過ぎると問題で、修行系は苦しみこそが成長の糧というように思っているところがあるので、わざわざくしなくてもいい苦労をしてしまうこと、本当の意味ではない自己犠牲を払って(自分の成長のために自己犠牲を払わねばならないというある種のエゴイズム)、自分自身を生きるということがなくなることがあります。
楽しみ・幸せ系が偏ってしまうと、楽ばかりを求めるようになり、しなくてはならない努力を放棄したり、欲望が肥大したり、無責任な状態になったりします。また、どこか上から目線で、自分はもう修行は終わったとか、楽を選べる成長を果たしていると、自分宗教の教祖になったり、妙なカリスマ性を持ったりして人を洗脳することがあります。
結局、どれが正しいかはわからないですし、思い込みの世界といえばそれまでなので、どう生きようが、自分の思い・信念次第であり、法律に違反したり、人に迷惑がかかっていたりしなければ、他人がとやかく言うものでもないと思います。
また、どちらも知性と感性をバランスよく働かせれば、それぞれの目的にかなった効率的な生き方ができると考えられます。
修行系は情報をうまく扱えば、苦しいことをせずに済む場合がありますし、楽しみ・幸せ系は、逆に一般の情報に振り回され、自分の感性を信じていない(大切にしてない)ところがあります。(その逆も、それぞれにありますが)
ただ、両方の極端なケースを見たように、結局、エゴイズムが過ぎると、どちらの信念によっても不調和になりそうな気がします。
自他のバランスといいいますか、自分の人生は自分のものではありますが、人生の舞台、つまり世界は他人によっても創られていますので、自分だけのことを考えていても、うまく行かないのは当然だと思います。(もちろん、自分がいること、自分を生きることが基本ではありますが)
あと、最初に挙げたように、人生には意味があるという立場と、意味なんてないという考えの分け方がありますが、これについては、以前も書いたように思いますので、興味のある人はそちらを参照してください。また改めて書くかもしれませんが。
それで、今日言いたいことは実は別にあります。これまでは長い前振りみたいなものてす。(笑)
先述した分け方で、楽しみ・幸せ系がスピリチュアルでは、今、主流にあるように思います。それは今までが修行系の考えが多かったのですから、その反動でもあるでしょう。
しかし、ここで修行系とは少し違う意味での、苦行を欲する人たちもいることを指摘しておきたいです。
何と言いますか、皮肉な言い方になりますが、苦しいことを経験するのが楽しみで幸せの人もいるという、ふたつの融合みたいな傾向の人たちです。
そういう人は、自分の成長や発展のためというより、楽しみ・幸せ系のように、まさに自己の喜びのために苦行を選んでいるわけです。
ゲームで言いますと、ノーマルモードや初期状態のゲームではつまらなくなり、ハンディ・障害、隠しごとが複雑にあるほうが面白くなるタイプのゲーマーです。
従って、一見、修行系のように見えますが、魂は困難なこと、難しいシチュエーションを人生に望んでおり、他人が「あなたはもっと楽に生きられる」とか、「幸せから逃げている」というような言い方(特にスピリチュアルや心理系のような人から指摘)をされると、場違い感や反抗的な気持ちが出てしまうのです。(図星だから反発することもあるので、注意は必要です)
しかし厄介なことに、自分の通常意識や感情では、もっと楽で幸せな(一般的な意味での)人生を生きたいと思っている場合が多く、自分の魂部分の求めとは矛盾していることがあるので、葛藤が出ることもあります。
これと似ているもので、根本的に異なるケースでは、心理的な話になりますが、つらい人生を歩んでいることに、自分の個性とアイデンティティを求めている人がいます。
苦しい人生が楽になってしまうと、私ではなくなる、私が今まで苦労してきたことが無駄になると思っていて、これは不幸自慢などをしてしまう人に多いですね。
ハンディのあるゲームを楽しむタイプは、これ(苦しい人生に自分の個性・存在感を見出しているタイプ)とは違うのです。
一般的な意味の幸せを、万人が求めているわけではないということが重要です。それが、この個性ある世界、現実と言えましょう。
ですが、誰しも、魂次元では喜びを求めているという意味では同じなのかもしれません。
すると、修行であれ、楽しみであれ、人生は魂の喜びによって選択されていると見ることもできます。
けれども、これもやはり、ひとつの考えから出ていることなので、人生とは何かについては、つまるところ、その答えは一人ひとりの心の中にあると言えましょう。
すると、あなた(自分)らしく生きるのが、あなた(自分)の人生に一番沿うことになるのです。
今起きている問題の象徴性
最近の一般世間の報道や話題を見ても、時代はやはり、あるひとつの方向性に進んでいると考えられます。
※注 日本の旧媒体メディアの報道の内容自体は信頼が置けないものが多く、その報道内容から述べているのではなく、裏にどういうことが起こっているのかということを見ていくとわかるものがあるということです
それは、スピリチュアル・精神世界では当たり前のように言われており、こちらのブログでも何度か書いておりますが、一言で言えば「統合」の道です。
おそらく、宇宙、あるいは宗教的な言い方をすれば「神」ということでもよいでしょうが、そういうものに意志があるとすれば、全体として成長・進化がテーマになっているのは間違いないのではないかと思います。
ただ、その成長や進化の概念が、私たち現実意識の普通の人間の状態では、なかなかわからないわけです。
私たち(個人個人)がそれは成長である、進化のためのものと考えても、宇宙から見れば逆の意味の場合もあると思います。
ところが、マルセイユタロットを扱っていくとわかるようになりますが、「象徴」として見ると、私たちが思う成長と、宇宙(神)が思う成長は、事象としては違うことはあっても、実は根本では同じではないかと考えることができます。
簡単に言えば、それぞれのレベルで成長の表現が異なる(ように見える)のだと言うことです。
この、「レベルや次元において物事の捉え方・表現が異なる(ように見える)」というは、ある意味、宇宙の法則のようなものと考えてもよいかと思います。
すると、今、宇宙全体で進もうとしている成長性・統合への道が、一人ひとりの個人レベルにあっては、逆の方向やマイナスのように思えることもありうるわけです。
これは個人のもう少し上のレべである社会や集団、国などにもおいても同様です。
ただ、先述したように、ひとつの共通した骨子のような、根本は成長・進化・統合の道にあるので、そこはどのレベルにおいても変わらないのですが、その表れ方が違うように感じるわけです。
特に、個人レベルになればなるほど、当然ですが、個人的なこととして起こりますから(認識される)、まったく宇宙とか、社会とかとは関係ないようなことだと思ってしまうのも当然と言えば当然です。(おそらく死後、私たちはもっと大きな括りで自分のことを見ることが自然にできるでしょうが)
マルセイユタロット的な表現を使えば、ある人にとっては「手品師」の経験が今起こり、また別の人では「皇帝」、そのまたほかの人では「太陽」・・・というように、一人ひとり、カードで象徴される出来事が起こっていて、カード単体から見れば、各人バラバラな体験になっているわけです。
ところが、もしタロットカードを成長や進化の道として俯瞰した見方をすれば、どの人も全体としての一部(個人)の経験をしており、それは実は全体の経験ともつながっているのですから、結局は、誰もが成長・進化していると見ることが可能です。
マルセイユタロットには、レベルや階層で見ていく概念(観点)もありますから、それを導入すると、自分の成長の過程は、特に全体としてどのレベルで起こっているのか、必要なことなのかということも把握できます。
ところで、前にも書きましたが、統合的成長への道には、いきなり統合が始まるわけではなく、何事もそうですが、順序と言うものがあります。
そして、「統合」へは相反する概念とも言える「分離」が、まずは起こるのです。このことはマルセイユタロットを見ているとよくわかることで、最終的には、カードで言いますと、「月」から「太陽」へと進む過程でもあります。
あるレベルの分離が完全に行われることで、次の段階の統合へ進むと考えられます。
分離が必要というのは、例えるならば、化学薬品の性質を知らずに、いきなり混ぜ合わてしまうと爆発したり、危険ガスが発生したりで混乱を来してしまうのに似ています。そうならないためには、きちんと分離したものの状態(それぞれの薬品そのものの性質)を把握することが求められます。
これは今の人間で言えば、個性の確立、自立と責任の独立にあると考えられます。
マルセイユタロット的には、「正義」の象徴性が現在強く起こって来ているのではないかということです。
一人ひとり、そして集団や社会においても、先送りにしていたこと、中途半端や騙し騙しやっていたこと、あるいは隠していた不正なこと(社会においては法的な不正や、一般的正義・倫理にもとること、個人においては自分の良心における正義、本当の自分の気持ちに反することなど)なとが露呈したり、対処しなくてはならなくなったりしています。
つまりは、「問題」という形を通して、分離(よいこと悪いことなど、本来の自己と仮の自分など)が強化されてきているわけです。
そうやって、否が応でも、自分と向き合うことになるのです。
全体としての進化のため、個人個人の進化も必要とされるので、一人ひとり・個人のレベルにおいても、自分自身の問題と向き合うことがこれまで以上に早く、そして容赦なく出てくるのではないかと思われます。
ただ、すでに自己と向き合い、浄化をしてきたものは、自分の問題はあまり起きず、他人や社会のために問題に取り組んだり、関わったりすることが起きてくると予想できますし、そういう人はすでに同時進行で、自分と他人の両方を救う活動をしてきているでしょう。
自分の問題がかなりクリアーになって来たという人は、一般的な意味でのマイナスなこと、ネガティブなこと、問題が起きなくなるというわけではないと思います。(もちろん、実際に起きなくなることも多いでしょうが)
ただ、起きてはいても、それに囚われることがなくなってくるというほうが近いでしょうか。
他人から見れば、それは問題で大変だなと思うことも、当人とってはさほど気にならない、むしろ喜びみたいな境地にもなっているかもしれません。
また起こった問題の解消や解決自体のスピードが、倍速のような感じで速くなるということもあるでしょう。(これはマルセイユタロットの「運命の輪」「審判」に関係します)
ともあれ、ここ数年、平成が終わりに向かうに伴い、大きな変化(環境だけではなく、精神的なことも含む)のあった方は少なくないでしょうし、今まで潜在的には進んでいたものが、令和になって、いよいよ目に見える形で、現実のこととして起きて来ることが多くなったように思います。
ですから、あなたに起きている問題も、象徴的に言えば、進化や成長の流れにあるものであり、苦しく大変な人も中にはいらっしゃるでしょうが、統合の前の分離として、肉体的にも精神的にも、霊的なものに統合していく前の段階として起こっているものだと理解すると、また捉え方や意味合い、そして実際の問題も変わってくると思います。
ただ分離というのは、何かと混沌としたものになりがちですから、その整理のためにも、マルセイユタロットなど、何かの宇宙的(全体的)な象徴ツールを持っておくことはよいでしょう。
モノから心、そして霊の時代へ。
先日、マルセイユタロットの体験会を行いました。
体験会でお話する内容は、その時の時代性、集まっていただいた人の傾向などによっても、話すことが変わってきます。
今回、個別リーディングの前に、一人ひとりのために、タロット(大アルカナ)を引いてみたのですが、全員、数が上のほうのカードであったのは、少し驚きました。それらのカードは特定次元を象徴し、いわば霊的なもの(階層)を示唆するカードたちでもあったからです。
そうすると、やはり時代的には「令和」の響きの通り、霊性の目覚めに、より向かっていく時代になっていることが、このような場でも示されているのかもしれないと感じました。
タロットのような象徴カードは、個人的に出したカードでも、全体システムと関連して考察することができ、全と個、同じ構造の中にレベルや階層、見え方、表現を変えて、それぞれの世界があるとし、「タロット」という構造・象徴を通して、個人と全体を見ることになるのです。
従って、たとえ個人的なことでも全体として、あるいは、その逆の全体的・社会的なことであっても、個人と関係して読むことができるのです。
そして、今日のテーマもそのことになってきます。
先日の体験会でも実はお話したことであり、私のタロット学習のグループの方にも、メルマガやグループコミュニケーションツールを通じて伝えていますが、時代の流れが、モノから心(精神)へ、そして霊(魂と表現できる場合もあります)へと中心がシフトして行っているように思います。(ただし、単純な横の流れではなく、繰り返しや循環のある流れ)
これは、日本の時代で言いますと、昭和・平成・令和以降の区切りとして考えられますが、もつと長期的・世界的な時間の流れで区分することもできます。
モノの時代とは、物質至上主義みたいなもので、目に見るモノや能力の多寡(多い・少ない)での評価が中心となります。そして個人の価値観が、社会の全体的な価値観とも一致することが普通でした。
その後の心・精神の時代とは、モノや多い・少ないではなく、内面、質に関心が向かい、社会全体よりも、個人がどうなのか、どう思っているか、どう感じているかということが重視されるようになりました。
平成は、まさにこれが進んだ時代と言えます。
ゆえに、問題・解決の視点でも、個人の内面(心・精神)で見ることが進み、その結果、心の問題(うつ病など心の不調問題)がクローズアップされ、世間に普通に認知されるようになってきたと思います。
そしてよい状態、望ましい方向性(問題の解決方向)としても、物質的な成功の方法論の多様化と同時に、心が中心になり、自分の心を見る、心を整える、ということが多くなってきました。
心のアプローチも、心理学的なものもあれば、狭義の意味でのスピリチュアル的なものもあります。(区分けすると、今生での心理的データを扱うか、個人成育歴を超えた多次元や過去生などのデータを入れるかによって違ってくると思います)
いずれにしても、心・精神に観点がシフトしたことて、「自分」「個性」というものも、実はさらに強調されるようになったのです。
だから、「ありのままの自分」とか、「本当の自分」という言葉で、「自分とは何か? 誰か?」「自分は何がしたいのか? どう思っているのか?」ということが、たくさんの人からのテーマとして掲げられるようになったと考えられます。
しかしながら、その反面、今もそうですが、現実での自分と、心にある自分との乖離、葛藤というものも、大きくなる人が増えたかもしれません。
それまでは単純に、モノ的な多い・少ないの社会的価値観を自分にトレースしていれば、目的意識も保て、成功や幸せというのも、ある意味、人(社会)が与えてくれる単純なイメージで良かったところもあるのです。
それが「自分の心」というものに視点が移ってきたので、自分(の中の心)が納得しなければ、満足しないという状況も出てきたわけです。
そもそも自分の心とは何か、本当の自分とはいったいどの部分で、何を求めているのかということも、心は見えない部分だけに、不明瞭で混沌としたところがあります。
そして、自分の心の満足を追求するあまり、快楽と区別がつかず、楽しいということを誤解して、楽であること、すぐに回答が出ること、とにかく“自分”なので、自分さえよければいい、自分の快楽こそが一番先に求められることという風潮に堕ちてきたところもうかがえます。
また、自分の中をあまりに探求し過ぎて、自分(の内面)が巨大な存在になってしまって、掘っても掘っても問題が出現し、心の平静どころか、心の問題の無限地獄のような状況に陥ってしまうまじめな人も出ています。
「自分らしさ」が煽られる時代になり、その自分らしさが結局わからず、他人から評価されることで、自他の区別をはっきりさせ、自分(自我と言ってもいいです)を仮の形で作り上げるようなことも拍車がかかっています。(SNSなどで見られる承認欲求、自分を個性的に魅せようとする傾向など)
心の時代にシフトしたことで、一人ひとりの心を見るようになり、確かにそのことで(自分の)心を大切したり、周囲の価値観をただ受け入れるだけではなく、個人(自分)の思いに気づいたりするように進化したところもありますが、一方で、モノの価値観がまだ基本にあることで、モノと心の葛藤という、複雑な事情を、個人個人が抱え混むような時代にもなったと言えます。
例えば、本当にしたい仕事(心)と経済的(モノ)でやる仕事との間で悩むとか、そういうことです。(昔は経済的事情の仕事が、社会と個人の価値観とで一致し、個人的にも一生の保証と保障になっていたので、心をあまり悩ませることもなかったわけです)
このままでは、自分の心と外側のモノ的な世界とをうまく合わせられた人は(心の欲求が環境的にも叶っていた、叶うことができた人)はよくても、大多数の人は、おそらく自分の心を取り戻していけば行くほど、悩みも増える(外との乖離が激しく感じられる)のではないかと思います。
それを妥協して生けていける人もいるてしょうが、それが私たち全体として積もっていくと、どこかで社会としても悲鳴が上がってくるようなことになる(システム的に限界が来る)ようになるのではないかと予想されます。
ですから、これからは、再度、関心を自分中心から他者や社会、もっというと宇宙のような全体に向ける必要があると思います。
もちろん、個人の(心の)課題を放置してよいというのではありません。自分を見つめながらも、自分だけに固執せず、全体としての視点を持つようにするということです。
タロットリーディングで言いますと、個人的な幸せや解放を意図しながも、全体として、この人の役割は何かとか、一人ひとりが霊的に目覚める方向性を考慮に入れたリーディング視点を持つということになります。
結局、モノと心が統合できる考えや気づきを、私たち一人ひとりと、大げさにいえば人類全体でもたらす必要が、これからはあるのではないかと言っているわけです。
自分が幸せになるのはもちろん、他人も世界の人も、皆が幸せになるあり方はどうなのか、自分にはそんな大きな話は関係ないと言われるかもしれませんが、まず、視点を変える、そういう個人と全体との接合を思うだけで、だいぶんこれからが違うように感じます。
言葉で言えば、モノと心の根源である霊を覚醒させるという方向性ですが、言うは易し行うは難しかもしれませんし、「霊」というものだけに、心よりもさらに具体性に欠ける嫌いがあります。
それでも、心の時代に、スピリチュアルな志向も以前より顕著になったことで、今後、真の霊的な成長に関心を持つ人も増えてきたように思います。
ただ、ライトにスピリチュアルを思う人は、最初はそれでもよいと思いますが、どうしても受動的精神になりがちで、何か神とか天使とか、特別な高次存在から受け取るみたいなニュアンスが強くなっています。
受け取ることも、もちろん大事ですが、同時に、能動的になる、創造することも重要です。
これは男性性にもつながります。女性性の時代と、今まで男性性の歪な支配的なものからの解放の意味でよく言われていましたが、男性性のよい側面も評価していくこと(男性性の修正と真の回復)も大切です。
女性であっても、自身の男性性はありますし、男性にも女性性があります。霊的向上には、それらのバランスよい統合が求められます。
自分がどう感じ、どう思うのかということは、ある意味、能動的に見えて受動的でもありました。これからは、ただ感じたり、受け取ったりするだけではなく、自分自身が考え、選択していくこと、決断していくこと、創造していくことも重要な転換の鍵になると考えられます。
何といいますか、何か特別な存在から受け取るだけではなく、自分の中に特別な・高次な霊があることを思い、その中心から発動していくという感じでしょうか。
高次と響き合いながら自分の内なるものを目覚めさせ、自分がすでに高次であることに気づくと言い換えてもよいでしょう。
マルセイユタロットでいえば、自分の中に「神の家」を建てる、自分自身が「神の家」になることでもあります。
矛盾をどう解決するのかは、それは、従来の知識や感覚では対立するだけで、埒が明かないものです。つまりは、今いる次元や階層を超えたレベル、知性と感性がいるのです。それが、言わば、霊性の向上、目覚めと同意義になります。
マルセイユタロットの「鷲」の象徴は、そうした智慧とも関係してくるのです。
自己評価が低い人、生きる価値を見出したい人
自分の中に高次な存在がいるとか、内なる神性が宿るという話は、精神世界、スピリチュアルに関心のある人には、半ば常識的なものです。
私の使うマルセイユタロットも、そうした思想のもとに作成されていると考えられます。
しかし、同時に私たちは普通の人間として、肉体的・精神(心理)的に悩み、迷い、苦しみ、また苦痛から逃れ、快楽や安楽などの利己的な欲求をかなえようとする存在でもあります。
いわば低次と高次、その中間の状態などが混在し、それらの葛藤の中に実際の「生」や「現実」があると言えます。
難しいことを考えれば高次の状態に至るわけでもありませんし、かと言って、単純に、自分の気持ちのままに生きるということも、どこまでが通常の状態の欲求から来ているのか、高いレベルの成長につながる求めになっているのか、わからないところもあります。
ですから、あまり低次・高次などの区別をつけ過ぎず、様々な自分がいることを認め、前のブログでも書いたように、それぞれの状況によって、各種モードの自分でもって対応していくというのが、現実的・臨機応変的生き方になると思います。
とは言え、この時代、いくらたくさんのコーチとかセラピストとか、カウンセラーとか、セミナー講師とかの方々が、自己評価を上げること、セルフイメージを高めることの重要さ、その方法を述べているにも関わらず、なかなか自己の価値を十分に認めることのできる人は少ないのではないでしょうか。
悪い言い方をすれば、自己評価が低い人は自己評価の高い人に、ビジネス的に搾取されるところもあるような気がします。
さらに社会全体や世界レベルで考えると、なかなか普通の人が、自分が(特別に)貢献しているなどとは思えにくく、むしろ、生きていることすら価値がない、無駄かもしれないと落ち込むような状況・人間は、結構多いのではないかとも想像します。
一言て言いますと、現実は、自己評価を高められるほどやさしい社会(世界)ではないということです。
もちろん情報や方法次第で、生き方も楽になったり、成功したり、それに伴って自己評価をグンと上げることのできる人もいるでしょう。
よく、社会や人のせいにするな、すべては自分の問題だと言われますが、ある面ではその通りではあるものの、物事は一面たけでは推し量れず(ひとつだけの原因や要因とは言えず)、環境や仕組みのほうが、自分に問題を引き起こさせていると取ることも可能だと思います。
学力やスポーツ、そして経済など、すべてにおいて激しい競争や他者との比較評価に成り立つこの世界では、自己評価を高めたり、自分が役に立っていることを真に感じることなど、至難の業ではないかと思うほどです。
と言っても、現実は現実、社会は社会です。こういう世界であっても、生きていくことを、私たちはおそらく選択して誕生しています。
ということで、たとえ自己評価が低く、生きる価値があるのだろうか?とか、自分が何か役に立っているのだろか?と思っている人がいても、ある考え方をすることで、何とか生きていけるかもしれない方法を、私なりに、簡単に伝えたいと思います。これは、何よりも、自分に言い聞かせているものでもあるのです。
それは自分自身に意味や価値を見出そうとしたり、発見したりしようとせず、生きるプロセスをただ続けるということです。
それでは空しいばかりと思うでしょう。
ここで言う「ただ生きる」というのは、何もしないのではなく、ある目的を持って生きるということです。
それは「真理を追究する」という目的です。ただ、真理と言っても、たぶん、真理などというものは見つからないかもしれませんし、ないのかもしれません。
それでも、違う言い方をすれば、「どうしてこのような世界・システムになっているのか」「なぜ生きる(生きているのか、生きなければならないのか)」ということを、「生」の状態をつつけながら追求していく態度のことを述べています。
必ず答えを出さなくてはならないというものでもありません。たぶん一生かかっても、明確な答えは出ないでしょう。また、よく一般的に言わるような「自分の生きる意味(価値)を考える」というものとも、少しニュアンスか違います。
自分(だけ)の生きる意味を考えるのではなく、社会・世界全体としての生きるシステムについて、どういうことだろうかと思考してみるということです。哲学的と言えば哲学的かもしれません。
そうすると、安易に死ぬわけにもいきませんし、漫然と受動的に生きるのも問題となります。
平たく言えば、自分に深く追求するテーマを持って生きるということで、日々がそのテーマを深め、構築してくプロセスとしての道になるということなのです。それでテーマとして、「自分の生」を考察モデルとし、「人生」と「宇宙システム」みたいなものを設定して考察してみましょうというわけです。
ですから、人に役立つとか、自分に価値があるかないかとなどとは無関係になります。
けれども、ずっと(寿命まで)生きなくては。ある程度の答えを得たり、テーマを深めたりすることができないものです。年齢や経験を重ねることで、こういった考察はさらに進んでいくものでもあります。
ところで、この世界を例えばゲームのような仮想世界だとすれば、ゲームの設定を最大限に活かして自分が楽しむというケースと、もし他者と協力してゲームを楽しむことが目的であれば、そうした共同作業によって、ゲーム設定内の目標を達成していくというやり方もあるでしょう。
一方で、否応なくゲーム参加してしまったとか、ゲームそのものを楽しむ目的ではなく、ゲームの状態はどうかとか、ゲームの出来具合をチェックする側として参加した場合もあるかもしれません。
さらに言えば、非常に高度なゲームとして、自分自身がゲームプレイヤーであることと、ゲームの世界にいること自体を忘却するようなシステムのゲームに自分を入れて、どうやってゲームであることを自覚するか、ゲーム世界から脱出するかを課している、ちょっとアブナイ(笑)ケースで参加していることも、突飛ではありますが考えられます。
上記の場合、もしかして、何かの罰や刑として、そうしたゲームということを忘却させられる世界に放り込まれていることも考えられます。
どうしても、何をやっても、自分に価値が認められないという人は、案外、この最後の方に述べた、忘却ゲームに危険を呈して参加した人か、刑罰的意味や、試験のように送り込まれた人なのかもしれません。
それは自分に価値がないのではなく、このゲーム世界においてのキャラクターになっていることが認められない、あるいは、何か問題がある(という設定となる)ということです。この違いは大きいです。自分は本来価値があるのに、ないと思えるところに来てしまっているわけですから。(苦笑)
それでも、ゲームの外の本来の自分からの声や通信が届くことがあるような気がします。本来の自分もまた何かのことで眠らせされているのかもしれませんが・・・とにかく、ゲームの内と外で響き合う、何かの手段があるように思われるのです。
それが高次の声とか、内的なメッセージとか、神性の力という表現で見られるものではないでしょうか。
ここで、(生きづらく思っている)皆さんに、提案があります。
ブログでも何でもいいので、自分に対して何かメッセージを書いてみてください。
毎日でもいいですし、数日おきとか一週間に一回でもいいです。メッセージは励ましとか、他人に向けた自分の気づきのようなことが望ましいかもしれません。
ネガティブなものとか、愚痴ような人間的なつぶやきというより、自分向けではあっても、誰か近しい人とか、親しい人、そんな人がいないとしても、過去の困っている自分に向けたものの感じで意識して書くとよいです。
そうしておいて、かなり間を空けて、過去書いた自分のメッセージを何気なく読んでみてください。タイトルをつけておくと、タイトルに引き寄せられて、自分の書いたものを過去ログから読むことができやすくなるでしょう。
少なくとも、半年とか一年はやってみて、それくらいのスパンを空けて、過去のメッセージを改めて自分で読んでみます。
すると、たいていは書いた内容は忘れているものの、そのせいもあるのか、不思議と自分の書いたものとは思えない感覚で、まさに自分に向けたメッセージとして深く入ってきます。
これは、未来へ向けた自分へのメッセージとも言えますし、その逆とも言えます。
例えば、今自分が過去の(苦しい時代の)自分をイメージして書いていたとしても、そのメッセージを読んで役立つのが、意外にも未来の自分の場合もあるのです。
ということは、すべてはつながっているのです。つなげているのは、内なる高次の自分と言えます。
このようなことでも、生き続ける可能性を感じさせます。
誰にも神性があります。だからこそ、それが発露する可能性はあるのです。自分が自分を導いたり、教えたり、サポートしたりすることは、マルセイユタロットの「太陽」の絵柄のごとく、ありうる話だと思います。
真理を追究するという話をしましたが、これは言い換えれば、高次の自分と低次の自分との共同作業や接触を、生きながらに増やしていく感じに似ています。
高次の自分に励まされながら、価値が低いと思っている(低次の)自分が、何とか酷なマラソン(笑)を続けていくようなものです。
マラソンは時に大変で、そして、なんでこんなことしているのたろうと思うかもしれませんが、応援してくれている者が、何よりも自分自身なので、続けて行かざるを得ないのです。
ゴールした時、そのもう一人の自分は、とてもねぎらってくれるでしょうし、今回のマラソンレースの本当の意味を教えてくれるかもしれません。
でも、走行中でも、少しずつ走っている自分が、このレースの謎解きをやりながら続けていくと、もう一人の自分もヒントを与えてくれるかもしれません。そして、コース自体が当初の予定から変わって、特別なルートに導かれることも考えられます。
それはこの世界(ゲーム)の出口(ログアウトポイント)なのかもしれないのです。
没頭するゲームプレイヤーではなく、観察者である自分ならば、ゲーム内での自分に価値があるかないかよりも、観察することそのものに意義があることになり、究極的には自分の存在の価値よりも、世界のあり方のほうが重要だということになってきます。
そして、おそらく、世界や宇宙のあり方の探求は、回りまわって、自分の価値の評価につながってくることになるでしょう。
そう、あなたがまだ自分に価値がないと思っているのは、(世界や宇宙に対しての)勉強不足のなせるわざなのです。たぶんね。(笑)