スピリチュアル
令和スタートに向けて。人生について。
令和の時代になりました。
平成から令和の交替時は、メディアも人も、まるで年末年始、新年を迎えるかのような感じで、見ていてとても面白かったです。
私自身は、それほど意識はしていなかったのですが、それでも思うところはありました。
特に今後のことで、令和で自分の生きる時代が終わるのか、あるいは、次の元号を経験することもあるのかと、ふと考えたところがあります。まあ年齢的に見て、令和で終わりかと思いますが。(苦笑)
今現在は老け込む年でもありませんし、かといって若いという年齢でもありません。
別に長生きしたいわけではなく、むしろ、もともと地上や現実に生きるということに、かなり昔から違和感を覚えていたり、ここに居場所がない、本当の場所は別にあるなどという逃避的な思いを抱いてきたりしたので、人生や命を大切に思う人には申し訳ないのですが、早く去りたいという感覚もありました。
この思いは、スピリチュアルな学びをしていく中で、変化がありつつも、完全に消えたわけではありません。
しかしながら、こうしたタロットなどの学びや気づきによって、生きる意味も見出すことになり、そうすると、地上の経験というものが、逆にとても貴重なものに思えてくるようにもなりました。
魂は永遠とよく言われますが、確かに、大きな次元の観点から見れば、そして、形というモノに囚われなければ、私たちは皆、永遠なる存在なのでしょう。言い換えれば、固定的な形ではないエネルギー存在では永遠だということです。
たとえ「無」になったとしても、おそらく“無という状態の存在”であるとも言え、無の中にはすべてがある「空」のような概念だと思うと、やはり私たちは消えることはないのだと考えることができます。
しかし、先ほど、形に囚われなければ・・・と述べたように、逆に言えば、ある一定の形というものでの存在にこだわれば、それは限りあるものになります。
具体的には、肉体と個(私)と言う意識と形を持って生きる現実のそれぞれの人生ということになります。
ということは、私たちは一面(現実意識)では有限であり、反対に魂や個を超えたもの(超越意識・神性意識)では無限の存在なのだということになります。
前にも書いたのですが、この有限と無限の意識の違いが時間感覚を変え(生み出し)ているとも考えられますので、いわば、ふたつの視点によって自分の人生というものを見ていくことができるのです。
それは、有限なる今の自分としての個の人生と、超長期的な永遠なる魂の人生というもの(視点)です。
どちらも大切なものだと思いますが、どうしても私たちは、前者の、個の人生、限定的な視点で見てしまいます。
それも当たり前で、超長期的な人生なんて、自分・個としてはほぼ関係ないと思えるものですし、そういうものは抽象的になりますので、具体的に自分(の有限の人生)に関係することを想定することができないからです。
ただ、こうした時代の切り替えの時には、たまには(超)長期的、個を超えた流れ、言ってみれば「宇宙」とか「全体」的視野で自分の個の人生も見ていくようなことがあってもいいものと考えます。
意外に思うかもしれませんが、個の悩みは、全体としてのレベルや、今述べた長期的視野から見れば、まさに取るに足らないものとなるので消失しやすいのです。
限定というものは、限定であるからこそ、一時的なものになります。こだわりを捨てれば、あるいはもっと大きく長い目で考えれば、今の自分の狭い視野から生まれた悩みなど、いつかは変化するものてあったり、雲散霧消したりするものと考えられます。
しかし、誰もが、「個」「わたくし」という自分を感じているのも事実(現実)です。
何かを残したい、“わたくし”として味わいたい、経験したい、蓄積したい、成長したいという、具体的な個の思い・欲求が誰にでもあります。
そして、それ(思いと実現、あるいは経験)があってこその個の人生と実感とも言えます。
個の人生は有限です。ですから、こちらの視点になれば、限りある時間となり、無駄なことやダラダラとした効率の悪いことを続けていったり、無為に過ごしたりするわけにはいかなくなります。
だから、何もやっていない、何も残していない、何も経験していないということは、個の人生では大変損失のように思えます。
ただし、ここが重要ですが、個の人生は有限で、だからこそ限りある中で個が充実する働きをする必要が、上に述べたようにあるわけなのですが、あくまで個(わたくし)の人生と感覚ですから、すべては自分次第なのです。
ところが、自分次第なのに、現実(地上世界)のおかしなからくりとして、個の世界はまさに個性の世界(一人ひとり違う世界)のため、人と比べる競争的意識が出てしまいます。
悲しいことに、私たちは、人と比較される人生を歩まされ、それによって、人との差、モノや能力などのあるなしの差によって自分を評価してしまうことが起きます。
つまり、自分の個の人生の充実度が、他人との比較によって生み出されているという仕組み(実は幻想)があるのです。
でも、よく考えてみてください。
先ほど指摘したように、個の充実は、自分がどう思うかの世界でもあるので、繰り返しますが、自分次第なのです。
人との比較をするのではなく、自分が良かった、満足した、何か結果を残した、経験できた、味わった、楽しかったなどが感じられれば(決められれば)、個としてはOKなのです。
ですから、有限なる自分の人生をよくするのも悪くするのも、自分の思いだということです。
さらに、超長期的、魂的視点になれば、有限ではなく無限になりますから、有限(時間限定や個としての現実意識)においての悲喜こもごもなこと、特に有限時間内で見える形で得るものなどは、意味をなさないことになります。
もし意味をなすとすれば、形のないものが中心であり、それは精神や心ということもできますが、心は変わるものなので、もっといえば霊的な成長という意識と(見えないエネルギー的)蓄積と言えるでしょう。
皆さんの個としての有限人生は自分次第なのですから、やはり「よく生きた」と思えるものにして行きたいものです。また、時折、魂の永遠性の視点も思い出してみてください。
永遠性の視点は、個を超えていますので、全体として、生きとし生けるものすべてのものからの見方です。神(性)の愛の視点と言ってもよいでしょう。
そうすると、無限の愛が、有限の愛として流れ、結局、自分自身で愛し愛されの壮大な演出のもとで生きていることに気がついてきます。
令和の時代、有限の人生においては、他人と比べることでの自己評価も続いていくとは思いますが、それは魂的には演出のひとつであり、本当(最終的に)は、自分が自分の人生の価値を決めるのだと思って、柔らかく生きて行きましょう。
あなたがよいと思えば、あなたにとってよい人生であり、しかも、他の人からもよい人生となるのです。
平成とマルセイユタロット
今日で平成が終わります。
平成のブログとしては最後となることを思うと、感慨深いものがあります。
平成は30年間でしたが、短いようて長く、また長いようで短いとも言えます。今回は天皇崩御での改元ではないので、新しい年号も一か月前に発表されたことで、混乱よりも、前向きに明るく受け入れた方も多かったのではないかと思います。
と言っても、今日と明日というのは、西暦的には、4月から5月に変わる単なる月の切り替えであり、改元に伴う感覚は、日本人であるがための思いでしょう。
つまりは、ある世界観を共有している者たちの間で、同じ感覚を得ることができるというものなので、逆を言えば、世界観やルールが違えば、その人たちは影響を受けないことになります。
今でこそ、クリスマスとかハロウィンなど、西洋系の(厳密には、その起源や象徴性をたどると別のところだとも考えられますが)特別な祝祭日も、日本人にはなじみにはなりましたが、先ごろあったイースター(復活祭)については、キリスト教圏ではメジャーですが、まだ私たち日本人にはそれほど広まってはいないものです。
マルセイユタロットを見た場合、イースターに関連すると思われる象徴性や表現が見られます。
しかし、すでに述べたように、これが世界観として共有できないと、それに意味が出てこなくなります。
マルセイユタロットは、ヨーロッパのフランスを中心に、17から18世紀にかけて主に作られたカードたちの総称(同じコンセプトの絵柄によるもの)です。
従って、当然、絵柄は西洋・ヨーロッパの人物とか宗教とか風習になっています。
ところが、私たちは東洋の日本人なので、ばっと見だけでは、描かれているものの意味や内容を理解するこができません。時には、西洋の歴史とか常識を知らないで、日本人風に解釈してしまい、誤解することもあります。
ヨーロッパではキリスト教、特にカトリックが、宗教というより日常のルール、規範、行動を決めるバックグラウンド、精神的法典で、支柱のようなものにもなってきた歴史があります。
ヨーロッパで作成されたタロットが、キリスト教と無縁であるはずがないのです。
だからと言って、私たちの扱うマルセイユタロットは、キリスト教の教義を絵で示したものというわけではありません。
歴史的に見れば、昔は文字が読めない人も多かったので、よく宗教的な話などを、絵で表示していたことがあったと聞きます。紙芝居のようなものですね。
ここから考えると、タロットというものも、その絵は、ローマ法王のように見える絵とか、最後の審判をイメージさせるものなどありますから、キリスト教の教えを伝える役割があったのではないかと想像することもできます。
また宗教だけではなく、「女帝」とか「皇帝」の絵もあることから、権威や身分、社会の仕組み(平たく言えば誰がえらいのか、支配しているのか)を教育するためのものであったと考えられなくもないです。
※一応、タロット史としては、タロットはゲームのための道具であったとする見解がノーマルです。
ともあれ、ヨーロッパの人がマルセイユタロットを見れば、キリスト教を中心に、その絵は、自分たちの日常的なものとして(作成され、一般的に流布していた)当時は見られたのは当然だということです。そして解釈も、その当時の常識や風習、宗教の掟などに基づくようになっていたことでしょう。
ここで最初の話に戻ってきますが、まず、マルセイユタロット(などのタロットは)、キリスト教中心の当時のヨーロッパの風俗・習慣的な要素という、共通する世界観でカードをとらえていたということになります。端的に言えば、キリスト教カードみたいなものです。
ところが、私たちに伝えられているものは、別の側面のことでした。
それは、むしろ反キリスト教、異端キリスト教ともいえる、古代からの秘密の教えでした。これも、「ある世界観」だと言ってしまえばそれまでです。ただ、こちら(秘密)側の世界観になるには、同じカードであっても、別体系の意味を知らなくてはならないことになります。
それが秘伝であり、暗号にもなっていたということなのです。
このように、タロットカードは、マルセイユタロットを例にしますと、一般的に共通する世界観での意味と、隠された特別なグループに口伝的なもので伝えられてきた意味によって見えてくる世界観とを、ともに内包しているのです。
加えて、もし日本人の私たちが、日本(人)的な解釈も加算していくとなると、カードは、また別の世界観を持つことになります。
ほかにも、カバラー的(古代ユダヤの)世界観、占星術的世界観、ピタゴラス的数秘術世界観など入れていきますと、それぞれがまた別ものとして浮かび上がってきます。
これができるのは、マルセイユタロットならではの、根源的な型をそのシステムに有しているからだと言えます。別の言い方をすれば、どの体系や世界観にもなじむように、うまく作られているということです。
さて、平成という時代の終わりでマルセイユタロットを振り返ると、昭和の時代、世界的にメジャーであったグリモー版を中心に、本当にマイナーな感じで日本では使われていたように想像します。
しかしやがて、日本で言うところのカモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)が、ある機関(旧タロット大学)によって日本に流入しました。西暦では、ほぼ2000年前後(カモワンタロットができたのは1998)のことで、平成にすると10年からの数年になります。
ここから約10年にわたって、カモワンタロットが日本でのマルセイユタロットとして普及してきた経緯があります。もちろん、グリモー版など、ほかのマルセイユタロットを教える人もいらっしゃいましたから、カモワンタロットオンリーではありません。
それでも、カモワンタロットの威力は大きく、ウェイト版(ライダー版)に比べると、まだまだ微々たるものではありましたが、以前より、日本でのマルセイユタロットを使う人、知る人の比率がかなり上がったと思われます。
こうやってみると、平成の時代は、タロット界でも、カモワンタロットを中心に、マルセイユタロットが大きく進展、一般化した時代だとも言えます。
その後、カモワンタロットを普及・教育していた機関が分裂したため、今は混沌とした状態になっていますが、下地として、日本でマルセイユタロットが多く知られるようになったという功績は、大きかったのではないでしょうか。
このことを、視点を変えて考えてみますと、日本の平成の時代に、この西洋のカード、マルセイユタロットが広まる理由・目的・使命があったのではないと推測することもできます。
広めたという見方だけではなく、広まることを求める層や人々が、この日本に多く存在した(無意識的にも)ということです。なぜ日本なのかということも、不思議と言えば不思議です。
物質を拡大し、多く持てばよいという昭和から、平成は物質的には縮小を余儀なくされた時代でもありましたが、逆に言えば、精神性の熟成が、昭和よりも進んだように思います。
まだまだ物質的観点や競争意識が強くはありますが、昭和の高度経済成長のような時代から思うと、平成はインターネットも出てきたことで、情報の共有も飛躍的になり、物質だけではない精神や心、個性の観点も増幅したように見えます。
平らかに成ると書く平成は、まさに文字通り、平たくつながるネットワーク的な情報交換と、その中継点・発信点である個も際立つ結果となりました。
少しずつ、ただの塊、モノ、物質、それが多い少ないという評価から、質や中身、精神、心、あり方というものに価値が移行してきたのが平成だとも言えます。そういう時代に、マルセイユタロットが広まってきたというのも、何か大きな流れや意図のようなものを感じます。
そして、次は、「令和」の時代です。
もしかすると、タロット的には、あるタロットが消えるようなこともあるのかもしれませんし、今のような占いの道具とする使い方は、変わっていくのではないかという気もします。
タロットというモノがなくなっても、タロットが示唆していた「ある世界観」を、私たちは受け取り、いや思い出し、より霊的な覚醒、進化へと歩みを進めるのではという思いがあります。
果たして、令和の時代に、マルセイユタロットはどうなるのでしょうか。興味深いところです。
二元統合とは何か。
マルセイユタロットは、ある種のエネルギーや、この世界(宇宙の)法則のようなものを描いているとも言えます。
その点では、東洋での象徴体系も同じといえ、洋の東西で本質的なものを表す何らかの方法が伝えられてきたのだ考えられます。
そして、西洋も東洋も、大元から次の段階に進む(見方を変えれば下降する、次元を落とすという言い方にもなります)時、二元に分かれたかのような状態になっていくのだと想像できます。
それが、東洋的に言えば陰陽原理みたいなもので、そこからさらに陰陽が無数に枝分かれしていき、現実の色濃い世界が表現されているのだと見えます。(このあたりは、バーチャルリアリティーの世界を表現するのと同じと考えられます)
このことは、マルセイユタロットにも描かれていることであり、大アルカナの数でいえば、数が小さくなっていく方向性(分離や具体の方向性、つまり私たちの実感している現実の世界になっていく方向)と言えましょう。(ただし、小アルカナは逆方向)
逆に言えば、二元分離をどんどん統合していくように向かって行けば、自ずから大元、太極、一なる始源へと回帰していくことになります。
では、ふたつに分かれたものを「統合していく」というのは、実際にどういうことなのかという疑問が出てくるかしもれません。
この二元原理は、現実世界でも、様々な比喩や例えになっており、象徴として考えると、いくらでも二元原理の表現は見て取れると言ってもよいものです。
例えば、天体では太陽と月、性では男性と女性、行動性では、能動性と受容性、色では白と黒みたいな感じです。
この場合、統合とは、ふたつが一緒になったり、ひとまとめになった時に現れる状態ということができます。
太陽と月が一緒になる(見えている)ことは時々ありますが、そういう同時に出るというのではなく、太陽の時間と月の時間があると見て、結局、それは一日のことだとなります。(昼と夜とで一日という言い方もできます)
女性と男性が統合されれば、両性具有になりますが、心は別としても、現実の性機能では両性具有になることは不可能なことです。
しかし、結婚という形で共同で生活をし、セックスによって一時的な両性具有となり、子どもという新たな生命を生み出すことが可能になります。(皮肉なもので、セックスという言葉は分離を表しますが・・・)
能動と受容のような、運動性・行動性の場合、例えば、あなたが誰かと会話している時、あなたが話していて、相手が聴いている状態なら、あなたとその人はやはり二元(話し手・聞き手の能動・受容の二元)になっていると言え、この時には会話(コミュニケーション)が成立しているわけです。
それから、あなたがお茶を飲もうと、ポットから茶葉の入った急須にお湯を注ぎ、その急須からコップに向かってお茶をいれて口から飲む時、ポットのボタンを押す(それが反動で戻ること)こと、お湯やお茶が容器に入ること、それを飲むことなど、一連の動作に、すべて押し引き・出し入れがあり、そういうことも二元にになっているうえに、それが完結している(セットとしての繰り返しがあって完結する)と言えるのです。
つまり、二元が統合される時は、新たな何かが生み出されたり、ある行為が完結したりするのです。端的に言えば、創造する力です。
ということは、私たちは、すでに些細なことも含めて、この現実世界で無数の統合を果たしながら生きていることになります。
スピリチュアル的に言えば、二元の統合は、神になる、あるいは神そのものの行いだと言えます。神を完全や完結という言い方にしても同じでしょう。
今見てきたように、私たちは無意識に、生活の中で二元統合を果たし、あるものを生成(創造)しています。それなのに、神どころか、迷い、悩み、苦しむ状態が多いのも「現実」です。
これはどうしてなのでしょうか?
おそらく、行為が無意識的過ぎるのと、物質的な観点に縛られて、見えないものや心の領域、魂レベルでは統合が果たされていないからなのではないかと推測されます。
技の世界でも、心技体などと言われるように、単に技だけ向上させても、それは形だけのものに過ぎないというわけてす。
物質、心(精神)、魂(霊)、西洋的にいうのなら、マテリアル(ホディ)、メンタル(サイコ)、ソウル(スピリット)など、それぞれの次元・分野において、統合がなされていないと(霊・魂・ソウルとかのレベルでは、すでに統合は果たされているかもしれませんが)、真の意味では「統合」とは言えないのかもしれません。
男女統合において、セックスを例にしましたが、確かに形(行為)だけでも子どもはできるでしょう。しかしながら、心の合一が伴わないそれは、果たして本当のセックスといえるのかということです。そういう状況で生まれてくる子どもに注がれる愛情や環境も、バラバラな男女(親の)状態だったのなら、あまりよいものとならないおそれが高くなります。
このようなことからもわかるように、「(二元)統合」は、別の観点(表現)で言うならば、「愛」であり、数で言うと「ゼロ」(ゼロの概念を置かない場合は根源的な1)であり、従って、重さもゼロ、すなわち、それは物理的には「光」と言えるのではないかと考えられます。
愛と光がよく似たような言葉の意味として使われるのも、そういう理由からではないでしょうか。
統合は、対立するふたつのものを認識(区別)するところから始まります。ここが実は混乱のもとと言いますか、誤解されているところであり、統合とは、すべて一緒にするという意味とは以て非なるものであり、ふたつのものの明確な区別が最初は必要とされるのです。
両方か混在して混沌としたままでは、統合という発想が起きないのが普通です。
昼と夜で例えると、一日(24時間、地球のひとつの自転)として統合するためには、昼の時間と夜の時間の違いがはっりと分けて見ることができていないと無理です。昼が一日、夜が一日だと同じにしてしまうと、自転している地球への認識(それが、この場合の統合観点)は出ません。
一日としての二元分離が不明確であれば、いわば、夜明けと日没の不透明な状態が、ずっと続いているようなものです。
よって、統合は、まずは二つの対立に気づく、認識するところから始まり、その違いを踏まえたうえで、そのどちらもがどちらでもないという感覚になる視点を持つようになってはじめて、統合されたと言えるでしょう。
さきほどの一日の例でいえば、地球の自転という発想が現れることで、太陽の光が当たっているほうと、会っていない裏側という見方ができて、こうして、昼と夜は違うけれども、それは単なる見方の違いで、実は地球としての自転が生み出しているものなのだとなるわけです。(言い換えれば平面の地上ではなく、球としての地球そのものの認識が生まれるということ)
長々と書いてきましたが、何が言いたかったのかと申しますと、二元統合の本質と、二元統合は形だけのものや、一緒くたに混ぜてしまうこと、単純に合わせることを言うのではないことが、まずあります。
次に、統合の機会はどこ(どのレベル)にでもあり、それを意識的にする(意識化する)ことで、本当の統合経験が増し、自己の愛も拡大していく(統合と愛は等しいものであることは先述しました)ということになります。
違いと同一感のケース その意味
この世の中は、たくさんの人がおり、それぞれ個性を持っています。
まさに色々、いわば、バラエティある世界になっています。
ところがスピリチュアル的には、「ひとつ」だとか、「全て」、「宇宙全体」というような、分けれられないものというイメージで語られます。
ということは、その観点からでは、当然、私たちそれぞれも、この世界も、すべてはひとつだとまとめられてしまうわけです。
実際には、これだけ多くの違いがあるというか、違いばかりの世界だというのに、ひとつとか、同じとは、これいかに? という不思議なことになるのですが、この「違い」ある世界と、「同じである世界」とがイコールであるという気づきが持てれば、真理のようなものが見えてくるのではないかと思います。
これは、マルセイユタロットでいえば、タロットとして同じひとつのデッキながら、大アルカナと小アルカナの構成に区分されたり、その大や小の中にも、それぞれのカードの個性(違い)があるというのに似ていると思います。
ゆえに、マルセイユタロットは、世界や宇宙を象徴しているとも考えられるわけです。
さて、この世界では、違いがありながら、同じでもあるという矛盾した話の解説は、今日はさておき(笑)、考えや思いとして、違いを意識したほうがいい場合と、同一性と言いますか、共通性、同じを意識したほうがいいケースとで、人生におけるシチューエーションや場面によって、切り替えていくと生きやすいのではないかということにふれたいと思います。
まず、違いを意識したほうがいい時、あるいは人のタイプです。
それは、同調意識が強すぎる時や人の場合です。
人のタイプとしては、簡単に言えば、皆と同じでなくてはならないとか、目立つのは嫌とか、人の頼みは断りにくいとかという感じになる人です。
こういう人は、自己主張が弱くて、他人と自分との境界線があいまいなのですが、逆に言えば、自分のことを意識しすぎて、自分を守ろうとするあまり、人とのトラブルを避けたいと思い、自分が責められたり、悪く言われたり、気分を害されたりするのが嫌なわけですね。
一見、人に気遣いをすごくするようでいて、そのベクトルは、人より自分に向いているという方です。ナーバスな人には、こういうタイプの人が少なくありません。
もっとも、本当に心が優しすぎて、人に気遣ってしまう、自己犠牲で幸福感を得るタイプの人もいるので、必ずしも、自分の方向にベクトルが向いているというわけではなく、反対に、自分のことより、人の幸せを第一に思うという方もいます。
いずれにしても、こういう方々は、他人と自分との違いをもっと意識したほうがよく、一言でいえば、人は人、自分は自分という区分け、峻別をしたほうが、気が楽になります。(自己犠牲で快楽にある人は、最初は苦しくても、やがて、その中毒を解くことにもなります)
実際、自分が思っているほど、人はこちらのことを意識しているわけではありませんし、外国ではありませんが、きちんと自己主張していないと、承諾した、あるいはどうなってもよいということを意味してしまうことにもなりかねないので、嫌なことは嫌、できないことはできない(逆にこれならできる、これは好き)ということを言っておいたほうがいいです。
自分の見ている世界と、他人の見ている世界は違うのだということを、改めて、自分に問う(そういう視点を持つ)と、過ごしやすくなります。
また、ケースとしては、いわゆる「ウリ」を出したい時にも、違いは意識したほうがよいですよね。特に商売やコンペティションなど、多くの中から選ばれなくてはならないような状況では、ほかとの違いや個性が重要になってきます。
これは何も、勝ち負けだけのことではありません。
生き方として、私は私、俺は俺、自分は自分という道、ライトには趣味や嗜好、重くは使命などのようものに至るまで、人とは違うものを意識したほうが、より人生に目的や張りができたり、やはり、生き方としても楽になったりする場合があります。
いわば、自分としての絶対値、いや、絶体位置を持つということで、他人と比較したり、周囲の影響をあまり受けたりせず、マイペースな、まさに自分の人生を自分のものとして生きていくことができるのです。
では、次に、違いではなく、同じを意識するとよい場合とは、どんな時や人でしょうか?
これは、まず、共感を得たほう(共感が持てたほう)がよいケースの時と言えます。
例えば、自分、またはほかの人が傷ついたり、ショックのような状態であったりした時、共感を持つ(得る)ことで、慰められ(慰め)、ほっとした安心感に抱かれます。
マイナスな感情を抱いたり、落ち込んだりした時、ピンチや困難な状況に遭ったりした時もそうです。
「ああ、自分だけではなく、ほかの人もそうなんだ、同じなんだ」と感じることで、人は癒され、勇気も出てくることがあります。
それから、まったく知らないグループに入る時とか、初対面の人と会う場合なども、お互いの共通点や同じところがわかると、安心することができます。
例えば、好みの作品や食べ物が同じとか、同じ出身地であるとか、外国でなら、日本人に会うなどで、ほっとすることもあるでしょう。
また、人のせいにばかりしている人、ベクトルが外に向きすぎている人にも、他人と自分の同じ点を顧みる、発見してみるのはよいことです。
自分自身が気が付かねばならないことがあるから、他人のことで不快になったり、怒りが出たりすることもあるからです。まさに他人の振り見て、我が振り直せというわけです。
あと、やはり、スピリチュアル的な進化とか霊的・統合的視野を広げたいという時も、究極には「すべてはひとつの宇宙」みたいな感覚が必要と言われますから、少しずつでも、自他の境界線をなくして、自己が拡大し、自我そのものか解体していく過程で、より(霊的に)発展していくと考えられ、そうした目的を持つ人は、違いよりも同じところを意識していく方向性になるでしょう。
こう書くと、競争には違いを意識し、和合には同一感を意識するとよいように、一概に言えてしまうようにも思えますが、それだけでは、むしろ問題があると言えます。
上記のような定義にしてしまうと、どうしても、違いを意識した時、比較しての競争や分離意識を持ってしまい、自我・エゴの肥大、他人への無関心などを生み出してしまいかねないからです。
また、同一を意識し過ぎると、全員、金太郎アメのように一緒でなければならないという、強制的な同一感に支配され、差別と区別を混同してしまい、個性が認められない、あるいは、向上心が失われる怠惰で窮屈な世の中になってしまいます。
そういうことで、意外に、局面・場面における、違いの意識と、同一意識とで、どちらが重要であるかということが自分ではわからないことがあります。
マルセイユタロットでは、カードの個別的な違いと、全体的な統一性があるので、ある問題やケースでは、それぞれのカードの象徴性を見れば、違いを意識したほうがいいのか、そうでないのかがわかりますし、同時に違いの中での共通(同一)性や、反対に、同一性の中の違い(異質性)についても判断することができます。
このような作業は、つまりは、心理(学)的に言えば、ユングの個性化を知るようなことでもあり、自己の統合を図りながら、やがて全体(社会)の中で、自己の個性を活かす最善の道が見えてくるようなことと等しいと言えるでしょう。
結局、全体と個ということで、宇宙から生かされている自分、全体からの分離意識を“分け与えられて”、自分自身の人生を生きるプロセスが、この世界での人生であるように思えてきます。
ですから、何の個性もないとか、特徴もない、つまらない自分だとか思う人があっても、おかしな表現になりますが、「生きているだけで自分を生きている」ことになり、とにかく生き切ることが全体に対しての使命になっているのではないか想像できます。
そのうえで、できれば、「自分が幸せであること」を人生で表現できれば、なおよいかと思います。違いから同一へと観点を変えれば、そのことが、結局、全体・宇宙としての幸せとイコールになるからです。
「世界」のカードと現実の世界
タロットカードで伝統性を受け継いでいるものなら、大アルカナの最後にして最終の到達地点、かつ最高の境地といわれる「世界」のカードがあります。
この「世界」を文字通り、私たちの今の現実の世界と取るか、そうではない別の世界や次元を描いていると取るのかでは、大きく解釈も違ってくるでしょう。
最初の一文で書いたような解釈(到達地のようなイメージ)では、後者、今の現実の世界の状態よりも、もっと高いレベルの世界であると考えられます。
しかし、普通に、そのまま私たちの世界を示す、としてもよいわけです。
そして、実は、両方の解釈を成り立たせることもできます。
この現実の世界は、一見すると、無秩序で混沌としており、完全とは言い難い、不公平や問題が山積された世界のように見えます。
それでも、もし「世界」のカードが示すように、この現実世界さえも完全で、最高の状態(の世界)であるとすれは、いったい(この矛盾を)どう受け入れればよいのでしょうか?
ひとつには、全員が一致して世界を見るのではなく、一人一人が自分の見る“世界”として感じることで、その説明が可能になります。
個人なら、世界が完全だと思うこともできますし、逆に不完全だと見ることもできます。要するに、あなた次第、自分次第で、この世界をいかようにでもとられえられる、解釈することが可能という見方です。
これは極めて心の問題、物事の考え方によることになります。平たく言えば、気の持ちようというレベルの話にもなってきます。
それだけに、誰でも、思考さえ変えれば、世界は完全性をもって現れるということになり、あとは平穏や完全を、結構なレベルで感じられる(思考できる)メソッドを身に着ければよいことになります。(よくあるのは瞑想など)
この方法が通じるのは、かなり自己洗脳に近いくらいの強烈な思い込みや信念がないとできないかもしれません。それに、人には不完全さに偏る思考や感情が常に働きますから、なかなかやっかいです。
それでも、あまたの人が、完全や平穏に(比較的)日常的になる方法を開発し、披露したり、教えたりされています。
そうやって、心のコントロールというようなものに成功すれば、まさにいつも天国状態、何があっても、それはネガティブや問題として感じるのではなく、エンターテイメントとして楽しむことができ、自分の世界が現実世界となり(自己のリアリティが現実のリアリティと一致する)、完全なる「世界」という思いで、現実を生き生きと過ごしていくことができるでしょう。
さて、もうひとつの矛盾統合的な方法は、パラレルワールドや次元別世界を設定することです。
普通、私たちの今の世界(過去の世界も、歴史を知るうえでは)が完璧、完全だとは、なかなか思いにくいのが通常でしょう。
自分ひとりだけではなく、周囲の人、地域、国、地球全体を見渡しても、平和で何の問題もない世界であるとは、よほど能天気な人しか思えないはずです。
先述したように、それでも、一人の個人的な観点であれば、自らの内に、あるいは高次の存在として、天国や神、仏、天使などの観念をリアリティをもって信じていた場合などで、「この世は、いかなる時も神(最高の存在・状態)の思し召し、意志、計らいによる完全」を表していると、信念として思い込むことも可能でしょう。これは、宗教的な見方と言ってもいいです。
ただ、多くの人はそうではありません。冷静かどうかは別としても、客観的に外を見て、自分だけではなく、世界には問題が様々にあり、完全なる世界とは言い難いと見ているでしょう。
ところで、さきほど、パラレルワールドや次元を設定するという話をしました。
これは、今、私たちが実際で現実だと感じている世界のほかに、別の世界や、レベルの違う世界が同時に存在していると見る方法です。あるいは、同時ではなくても、「世界」というものには、レベルの違いがあるのだと、ただ想定してもよいです。
そして、ここが矛盾統合で一番重要な点ですが、どのパラレル、または次元の違う世界においても、やはりそのレベルにおいて完全なのだという認識をすることです。
「世界」(の種類)には、非常に高度な発達と調和を遂げた天国的レベルの世界から、かなり低レベルの、見た目は争いや問題の絶えない修羅や地獄のような世界まで存在し、しかしながら、そのどれもが、そのレベルにおいては完全になっているという考えです。
ただ、レベルの違いがあるので、上から下を見れば、下はとんでもなくひどい世界と感じ、逆に、下から上を見れば、上はすばらしき世界、理想的で完全だと思えるような世界に見えるわけです。
言ってみれば、地獄は地獄なりに、完全なる世界として調和しているということです。(笑)
この完全と調和という概念は、理想やイデアというより、そのレベルにおいて過不足なしとか、バランスが取れているという意味であると思っていただいたほうがよいです。
地獄にたとえお花畑があったとしても、それは天国とは違う、地獄にふさわしい花が咲いているというようなもので、それでも地獄の花は地獄の花として、それなりの(地獄としてのバランスのための)役割があるということになります。
翻って、私たちの現実世界を考えますと、問題がある、おかしい、解決すべきことが多いと感じている場合は、どこかもっとレベルの高い世界を知っている可能性があります。
それでも、今の私たちの(集合)意識レベルでは、この世界しか作ることができず、そして、さきほども言ったように、この世界はこの世界のレベルにおいて完全なのです。
私たちが選択し、表現している層の世界が、今のこれなのです。
個人レベルで、この世界は神の創造した世界であるから完全なはずとか、モノの見方・考え方次第で天国にも地獄にも世界は映るという話はしましたが、多くの人は、この世界に矛盾を感じたり、発展途上的な思いがあったり、もっとすばらしい世界にできるのではないかと思っていたりするのではないでしょうか。
ということは、ほとんどの人は、別のレベルの世界を知っているのです。少なくとも、この今の世界の表現においてのレベルと調和・完全性において、全員満足しているとは言い難いのです。(もちろん満足している人もいると思いますが)
言わば、「レベルにおいて、どれも完全」という世界説を取ると、私たちの世界はこれが限界なのです。というより、いつも、いつの時代も、その時点の世界は最高で完全なのです。
ただし、レベル違う世界の移行を思えば、天井はありませんし、上から下を見るような感覚になって、成長の余地が意識されます。
それにしても、私たちはなぜ、別のレベルの世界を知っているのでしょうか?
普通に人の持つ向上心や、文明の発達という概念だけでは説明できないところもあるように思います。
マルセイユタロットも語るように、実体、現実としての形が現れるのは、その前にイデアとしての発想、ビジョン、イメージを想起したり、キャッチしたりする必要があります。
行動の前には、確信のイメージがあると言われるものです。
ということは、私たちの中に、世界のイメージ(様々なレベルの世界イメージ)がもともとあるのではないでしょうか。
それは心が知っているというより、魂・霊が知っているような気がします。
ということで、私たちの世界は、もっと上のレベルの表現(これは現実という意味と同じです)ができるためには、さらに多くの人のイメージ・意識として共有する必要があると思います。
そして、これも矛盾のような、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、ひとつのレベルを超えるためには(移行するためには)、今の表現レベルを十分に自覚し、この時点でも完全であることを認識することが重要になると考えられます。
ひとつのレベルの世界を表し尽くすと言いますか、この今の世界が、不足や過剰、問題ある世界と思ってしまっては、逆にそこに留まざるを得ない仕組みがあるように思います。
ピースがそろって初めて次に進めるかのように、今の世界での完全性をできるだけ感じ取れる認識力が十分に発達すれば、やっと、次のステージの世界の表現の道ができるという意味です。
従って、問題意識を放置したたま、やたらと上を目指すより、遠回りなようで、一人ひとりが自分の問題と向き合い、完全性(の認識)を取り戻すことができてくれば、結局それが早道となって、別次元の世界に到達すことができるようになるのではないかと、マルセイユタロットの「世界」を見て思うのです。
この世界と、その表現を決めているのは、私たち自身です。
ただ、もうほとんどの人は、忘却していた、もっと上の次元の世界と表現のイメージや感覚、あるいは人によっては故郷のような郷愁をもって、思い出しているのではないでしょうか。
そんな、時代の移行点に来ていると個人的には思います。