スピリチュアル

精神、霊的な登山

スピリチュアルや精神世界を探求したり、追求したりしていくと、行き着くところは同じような考えになるのではないかと思います。

私も、自分のタロット講座でよく例えとして出しますが、皆さん、同じ山の頂上を目指しているとしても、山の裾野、つまりは登り口・登山道入り口付近では、いろいろな登山ルートがあるわけです。

ある人はルートの王道とも言える道から、またある人は、少し厳しめの道から、ほかの別の人は、時間はかかるけれども、とても緩やかな道から、そして時には、いきなりヘリコプターなどの、歩きではない、反則的(笑)方法で上がってしまう人もいます。

このヘリで頂上に行く人は、非常に特別な人か、普通の人でありながら、一瞬でも頂上の気分を味わいたい(味わう)人です。

前者の特別な人というのは、前世があるかどうか別として、何らかのそのような「現世の自分」だけではない経験や能力も継承していて、ほかの言い方をすれば、パラレルワードの自分になることができたり、その経験をこちらの今の世界に持ち込める人であったり、宇宙人(笑)みたいな人、またはそのような違う特殊の存在からサポートを受けたりしている人であったり・・・と、まあ、そのような特別な方々と言えます。

後者の、普通の人ながら特別経験を一瞬するというのは、例えばドラッグを使って、変性意識になって頂上を見るとか(ドラッグと言っても現代人工薬物的なものだけではなく、自然由来のものを安全に使用する方法も、かつてはありました)、お金と時間があるので、特別な装置とか能力をもった人に頂上世界を見せてもらうとか、特殊な聖域など、意識を変えやすい場所に、実際の行動として何度も自由に訪れることができる人とか、瞑想などによって、偶然、至福体験、一瞥体験を一時的にできた人とか、まあ、そのような感じのタイプです。

しかし、通常は王道を行くか、コツコツとした道を辿って頂上を目指します。(修行者はあえて厳しい道で、最短ルートを目指すこともあります)

山登りには、ガイドがいれば安全なように、やはり、このような道にもガイドは必要かもしれません。

しかし、考えてみてください。

本当の現実の山ならば、そのガイドは、頂上に何度も登っており、山を知り尽くした人になるのが普通です。

ところが、精神や霊的な山登り、ルートにおいては、頂上に行けたというのは、いわゆる完全に悟った人というようなことになるでしょうから、いわば、ブッダやキリストのような人が、ガイドにならなくてはなりません。

今現実にいる人で、さもガイド然としてふるまっている人は、本当に頂上に行ったことがあるのでしょうか?

さきほど述べたように、その感覚は一瞬とか短時間は持続したことがあるかもしれませんが、今の現実の人で、頂上に住みながら、衆生の救済のために、あえて下界に降りてきたという感じの人はいないようにも思います。

頂上への教えをしている人も、もしかすると、五合目とか七合目とかは、経験した人なのかもしれませんが、完全なる頂上世界となると、話は別でしょう。

それでは、誰も現実の人では、ガイドになることができないのかと言えば、そうでもあると言えますし、そうでもないとも言えます。

マルセイユタロットの(絵図の)教えでは、ある程度の山登りが進むと、そこからは、目に見えない現実世界の人とは異なるガイドに引き継がれると語られています。

途中までは、いわゆる先達と呼ばれる先生や師匠が、現実の人で確かに存在し、導いてくれるでしょう。自分の選択した登山口(それが技術や方法、思想などになります)の先輩、現実の指導者はいるわけです。

まあ、先輩にもいろいろあって、途中で脱落、下山した人もいるでしょうし、遭難したままの人、違う道のほうがよかったと途中で気づいて、やり直している人、いつのまにか違うルートに入っていても、結局は登っていることになっている人など、様々です。

中には、道半ばで、今生の命もつき、それまでのことを記録としてまとめて、後から来た人に託したり、秘密の場所に置いたりしている先輩もいるかもしれません。

昔はルートごとに厳密に分かれていて、そこの登山方法やコツ、注意書きなども、厳重にそのルートを登ると決めた人にしか明かせなかったのですが(登山の入り口のチェックも厳しいものでした)、現在は、ルートの統合と言いますか、地図の編纂も進み、ネットで公開されているような感じで、結構、入り口や途中までは自由度が増した気がしますし、ルートが異なっていても、登山の方法・情報そのものは、共有されてきたところもあるように思います。

これは、宇宙の進化の意志とも言えますし、私たち全体の意識の変化ということもあるでしょう。

ガイドの話に戻りますが、このようにして見ると、霊的な道のガイドは、途中までは人間であってもよいように思いますし、そこから上の、未知なるところは、おそらく昔も今も、自分専用に近い霊的なガイドが現れ、導いてくれることになるのでしょう。

霊的なガイドですから、人の姿をしているとは限りません、古代の象徴ではむしろ動物型が多く、マルセイユタロットでは「」として表現されています。(人や天使姿の場合も、タロットには描かれています)

しかし、結局、よく言われているのは、霊的ガイドも、自分の高次の姿、存在だということです。

頂上に近づけば近づくほど、具体性や個別性が薄くなり、自他の区別とか、いろいろなものがあいまいになってくると想像されます。ゆえに、霊的ガイドも、別存在のようでいて、(レベルの違う)自分でもあるというような状態が普通になるのだと考えられます。多層の共有とでも言いましょうか。

すると、自分のガイドは、時空も超えて、同時にある(別の)人のガイドでもあり、過去や未来、別宇宙の自分存在の可能性もあることも考えられるわけです。

山登りで例えれば、頂上近くになると、登って来た人を、一斉に面倒見てくれるガイドさん、お世話役がいるようなものです。

なぜなら、頂上に近ければ近いほど、もはやルートは関係なくなるからです。

実際の世界の登山を想像してみてください。頂上がもうすぐそこという段階では、見渡せば、別ルートから登ってきた人も見えているはずで、そうなると、世界はひとつに近く(全員が見渡せる範囲)、これまでは(ルートも)違っていたとしても、あとは皆、同じルートで登るようなこともあるでしょう。

つまりは、上に行けば行くほど、世界観は共通したものなり、皆同じ、ひとつという概念が自然になってくるわけです。同時に、個性や、やり方は、違いが薄くなり、個々のこだわりの世界ではなくなるのです。

ということは、逆を言えば、個々のこだわりが強いと、そういう世界(頂上世界)には相容いれないことになります。

古来からの教え、マルセイユタロットの示唆からも、本当は、この現実世界(下界)にいても、どの人も頂上にすでにいるのですが、それが幻想のようにごまかされていて(意識が気づていない状態)、私たちは、ゲームのような下界・現実世界で、いろいろな体験をしているように思い込んでいると言われます。

ですから、頂上にいるという意識が回復できれば(これは分離していない、ゼロポイント、大元の状態ともいえます)、本来の自分になるのですが、その時点で、個という観念が消えるであろうと想像できるため、現実を普通に現実と認識する段階では、またすぐ、人としての意識に戻るのだとも考えられます。

このあたりは、統合や霊的成長、悟りを目指すことでは矛盾の話であり、難しいところではあります。

しかし、現実感覚を持ちながら、頂上意識そのものではなくとも、頂上の完全性と、かなりの程度シンクロ(同調)させることで、心身や肉体の調整と、意識の大きな調和的変換が可能になるものとも想像できます。

現実認識を保ったまま、「ありのままと言われる状態」のものは、頂上とのつながり(交信・アクセス)が常に途切れず、山を登るというより、登山・下山、トレッキング、その他もろもろの、いろいろな方法で下界と山の両方楽しめることができる状態とも考えられます。

そうすると、これも矛盾的な話になるのですが、現実(下界)を安寧にするためには、頂上に意識は向いていたほうがよいということになります。(頂上を意識し過ぎると、現実からの逃避的願望になって、問題となりそうなのが矛盾的なところです。変な言い方ですが、現実に集中せず、しかし現実をリアルに楽しむという感じでしょうか)

矛盾することが統合できるのが、禅的にいえば、「悟」や「解」ということになるでしょうから、矛盾や葛藤をどうとらえるか、それは苦しみよりも、楽しみとして与えられた質問だと、あせらず解いていくとよいと思います。

それが、すなわち、登山していることになるのだとも言えるからです。


問題と恩恵は、世界観ごとに現れる

スピリチュアルや精神世界、あるいは少しアカデミズム的な心理学から離れたメンタルの世界に興味を持ち、いろいろと学んだり、実践したりしていくうちに、たいていの人は自身に変化や気づきを増していくと思います。

世間一般では、そういうようなことをしている人に、まだまだ冷たい視線や、現実離れしているおかしな人たちという思いで見たりするかもしれませんが、以前よりかは、だいぶん、穏やかに認められてきているところもあるように思います。

何事もバランスで、やり過ぎたり、傾倒し過ぎたりすると、問題となることはあります。現実逃避の手段として、そうしたものが使われる場合もあるでしょう。

しかし、マルセイユタロットの自己成長の絵柄と言われる図を見ていると、どんなに人にも、多かれ少なかれ、精神や心の次元、スピリチュアリティに関心を持つ機会は現れるのではないかと想像します。

もちろん、普通に生きるだけでも、多くの学びと経験、人生への気づきがもたらされますが、どうしても、現にあること、実際に存在していると思えるもの、生活にダイレクトに影響するもの以外には関心が行きにくい傾向にあります。

言ってみれば、普通の生活に埋没していると、地上生活(地上性)と物質性中心に意識にならざるを得ないということです。

しかし、それでも人は、何か人生でうまく行かないことが続いたり、精神的なことで悩んだり、肉体的にも病や年齢によって、うまく機能しなくなってきたりすると、別の観点での原因や対策を求めていくようになります。

こういう時に、新たな世界が開くチャンスでもあるのです。

でも、早いうちから(と言っても中年からくらいの人が本格的には多いでしょうが)、精神やスピリチュアリティの世界に関心を抱き、それなりに追及していくと、いわゆる現実や通常意識で見ていた世界とは違うものがあることがわかってきます。

言ってみれば、私たちは、複数の次元や世界で生きているようなもので、今まではたったひとつの現実・物質世界があるだけと思い込んでいたわけです。

さて、ここからが本題で結論みたいなものですが、そうすると、複数の世界と世界観が存在することになります。これはいいこと(面)もあるですが、悪いこと(面)もあります。両方を受け入れ、浄化・解決し、統合していくことで、私たちは本当の意味で成長がなされます。

ということは、自分の問題が、肉体や現実(通常意識)でわかる範囲だけに起因しているのではないということも、段々知ってくるようになるのです。

例えば、最初は物質だけの次元から、心理・メンタル次元の問題があることがわかってきます。

まあ、これは普通の意識においても、最近は心・メンタルの問題が大きく取り上げられるようになり、精神の安定が重視され、外向きではなく、内にある本当の気持ちの自分に注目するように言われるようにはなりましたので、日常的にも、このレベルと次元の扱い(つまり問題性も含めて)は認知されてきたとも言えます。

環境や外の現実の世界に問題があるというか、その影響だけで自分の問題や悩みがあるという認識から、自分の心のデータに問題や不具合があり、それか外とうまく調和していないから、問題として現れているということに意識がシフトしていくわけです。

一方で、占いや運命学のように、世界(宇宙)は、ある種の流れや法則、規則のようなものがあり、それが個人(宇宙の法則とリンクする、生まれもった性質、星や命があると考え)にも当然影響し、それを読み解き、うまく乗り切ることで、自分の人生を好転させて行ったり、望みを叶えたりしていく術に興味を持つ人も現れます。

ここの世界観を取り入れると、自分の運命や人の運命、目に見えない運気のような流れについて関心が向くことになります。

これも別の意味で、地上性、現実性を超越した話(世界)に向かうわけです。そして、当然、この世界での問題性(運の良し悪し、悪運や自分の質に合わないのことにならないようにする選択)ということもフォーカスされます。

さらには、メンタル次元・世界とリンクしつつも、詳細に見れば、またひとつの別の世界のような次元があるのにも気づいてくる人がいます。(最初からわかっている人もいます)

それはいわゆるサイキック・心霊的な次元・世界です。心のエネルギーが特殊に変化したものの世界と言ってもいいかもしれませんが、念という言葉があるように、(ではない存在も含む)の意識・感情・気持ちのエネルギーが、ある種の実効性を持ち、想念・思念体としての影響や、呪縛、霊障的な問題として現れることがある世界(観)です。

この世界の問題性は、時代や場所を超え、一代限りではないということも特徴があります。いわゆる過去世データ(輪廻転生説ではなくても、ずっと続いてきた先祖からの血縁的なもの、遺伝で受けがれるもの、意識や残存思念が少なくとも三世代前の家系の人から根差しているものなど考えられます)のようなものも入ってくるわけです。

ここまで来ると、もはや通常の意識では、わけがわからない世界になってくるかもしれませんが、こういう世界観が実際にあり、エネルギー的に、特にメンタルにも影響してくることは知られています。

さらには、個人だけではなく、人類の集合意識や、地球・惑星、星系規模の世界(観)、次元の問題も上(下ともいえます)には見えてくるような人もいるでしょう。

つまり、スピリチュアル的なことに足を踏み入れれば、科学的に事実かどうかは別として、意識的には、多数の世界やレベル、次元の認識に進み、同時に、それぞれの世界・レベルにおいての問題性も意識されるようになってくる、あるいは意識されなくても、洗い出されてくる仕組みがあるように感じます。

スピリチュアルなことや、精神世界に興味をもったがゆえに、逆に普通は起こらないことまで起きて、苦しむこともあるわけです。

しかし、これもまたマルセイユタロットの絵図から見て言えることですが、それらの苦しみや問題性は、いずれ、どこかで向き合わねばならないことが多いものだと考えられます。

遅いか早いかみたいな問題性です。この早晩については、、自分の人生一代の時間でのこととは限らず、過去から未来にわたって、もっと大きな時間、長期的視野に立ったものになります。

スピリチュアル的な適当な言葉で言うとすれば、カルマ的なものということになりますが、自分の今の人生においても、少なくとも、メンタル・心の次元・世界で物事を見ることは有用だと思います。

いかに普通の地上的意識では、気が付かないことが多いのか、自己探求やスピリチュアルな世界に関心を持たないと、なかなかわからないものと思います。

普通に生きていて、何も問題がないと思っていても、案外、強力なブロックを自分にかけているからということもありえます。

さらにナーバスな人は、普通の人とは違い、人や別の世界からの問題を自分の中に植え付けてしまうことがあります。サイキック的には憑依と言ってもいい現象です。

憑依と言っても幽霊がつくというのではなく(エネルギーとして見ればそういうこともあるかもですが)、残留する、悔いや呪いたいようなネガティブ思念、想念が(生きている人のが多いと言われます)、あるいは親や上司、自分がコントロールされている先生とかカリスマ人物からの思い(その人からというのもありますが、自分の思い込みによる自縛想念もあります)などが、一種のデータのように、自分本来の部分に上書きされていて、プログラム変換されているようなものと言えます。

そういったものを、優しい人や、敏感な人、自分に自信がない人は、自分に受けやすくなっている場合もあるのですね。

自分の考えや行動がうまく表現・調和できず、自分が悪いからだ、意志が弱いからだとか、資源や環境のせいにしてしまって、人生を不運だ、不幸だと嘆いている人もいますが、必ずしも、自分だけのせいではないのです。

つまりは、今見てきたように、いろいろな世界が複合して自分の中にあり、そのそれぞれに問題性や解決性も内包されているわけで、それには、外の影響が自分に入っているという世界(観)・考えもあるのです。

もちろん、他人のせい、環境や現実といわれる世界のせいばかりにしている人、逆にスピリチュアルに変にかぶれ過ぎたせいで、やたらとメンタルやサイキックの問題のせい(いわば、そこさえ解決すればすべてうまく行くと思い込み、現実逃避する人)に過ぎている人も、これはこれで問題です。

精神世界や独特な心理の世界、スピリチュアリティの世界に関心を向け、さらに自己の向上や成長を願う時、今まで現実・地上だけの世界から、次第に複数の世界の扉が開かれて行きます。

その分、見えなかった、わからなかった問題に向き合ったり、出現したりすることにもなり、時には自分では対応ができず、それぞれの世界の専門家に援助を頼むこともあります。

いずれにしても、普通の意識ではとらえられなかった、あるいは出ることのなかった問題性が現れ(それは試練や苦しみの場合として感じられることもあります)、その処理や対応をしていくことで、自分自身が浄化され、本来の自分がますます出やすくなり、つまりは宇宙や大元の法則に通じて楽になり、現実的にも、霊的なにも拡大や成長が促進されるのだということです。

また、自分自身が学びや経験をして、少しずつ、援助側に変わっていくこともあります。これもまた、タロットの絵図で示されていることです。

今日ここで述べたことに関係の深いマルセイユタロットは、「恋人」と「神の家」の関係、そして「節制」へと変化するアプローチみたいなことです。

(スピリチュアルなことを)学んでいくうちに、いろいろな世界や次元があることを知り、混乱する人も少なくありませんが、さすがに古代からの体系図はよくできており、カバラーの生命の木、そしてマルセイユタロットの大アルカナの絵図は、個人的には、そういったことを整理・理解するのには最適なものかと考えます。


成長を実感できる世界

スピリチュアルな世界では、人は実は完全性をもともと持っているという説があります。

しかし、現実においては、人により、能力や資質の違いもありますし、生まれ持った環境にも、平等ではないのが普通です。

言ってみれば、一代限りの人生で見ると、理不尽極まりないところもあるわけです。まさに生まれながらにしてラッキーやアンラッキーがあるようなものです。

そこで、考え出されたのが、輪廻転生など、生まれ変わりによる(超)長期的な人生への視点です。

人生がこの一代限りの自分ではなく、以前にも生まれているし、将来(未来)にもまた新しい、まったく違った人生を歩むことになるのだと設定したほうが、不公平感はなくなります。

さらにここに因果応報的な、カルマ法則を入れていきますと、いいことも悪いことも、さらに長大な周期からの観点で平等になってくると言えましょう。

ただ、このシステムが本当かどうか、ただの概念として人が生み出しているものなのか、そこは普通はわからないと思います。

また、単純な、同じ人間の魂が、記憶をなくして、また輪廻転生するという説では、いろいろとつじつまの合わない点も多く、もっと集合的な意識、あるいは生きた人(生き物)全体のデータが集まる場所のようなものを仮定しないと、システムにおいて破綻するようなことが、ただの人間レベルの知恵でもわかりますから、仮に輪廻転生システムが実際にあったとしても、(神や宇宙の設定しているものは)もっと複雑なものなのだと考えられます。

さて、今日は、輪廻転生のことが主題ではありません。ただ、輪廻転生的なことでよく話される、魂(霊性)の成長という意味では、ふれておいたほうがよい話題かもしれなかったので、最初に書いてみたまでです。

では、今日の主題は何かといえば、さきほど、少し出ましたが、「(魂)の成長」についてです。(今回は、魂意外の成長のことも含むのですが)

マルセイユタロットでは、現実社会で生きる人間が、物質的観点のみで自分や他人を見続けていると、それが縛りとなって、本当の意味での成長を妨げていることを示唆し、その解放を絵の物語として表しているのですが、やはり、その土台となる思想に、本来、人は完全性を持つというものがあります。

しかしながら、完全性がありながら、なぜ、このような現実での悩み、苦しみ、問題に直面し、しかも、すぐにその解決や消失をなすことができない状態で生きているのか?という素朴な疑問も出できます。

それには、スピリチュアリストの方々は、ほぼ皆一様に、成長や経験のためだと述べておられます。

先述した輪廻転生説を入れれば、さらにこれに、長期的平等(公平化)という効果もあるのでしょう。

とは言えです。わざわざ苦労して、制限のある不完全性の幻想社会(それがスピリチュアル的には、私たちのいう現実となりますが)に生きようとするのか、完全に納得できないところもある人もいらっしゃるでしょう。

そう、ここでまた「完全に」という言葉が出たように、その理由がわからないのは、まさに完全性を忘却した状態になっているからなのかもしれません。(元も子もない話ですが・・・苦笑)

これに対して、私もいろいろと考えてきたところがあります。そして、これまた、様々な説を思いついたこともあります。

それで最近、少し面白い気づきがありましたので、それを皆様にお話ししたいと思います。

それは、今回は「成長が主題」と言いましたように、成長に関わることであり、簡単にいえば、成長を実感するために完全性の忘却がある(現実にいる理由)ということになります。(これだけ聞くと、当たり前のような話ですが、まあこの後の話も読んでください)

成長を自分で実感する、自覚するというのは、意外に難しいものです。

自分より優れたり、技量が上であったりする人から見れば、その人が前より成長していることは客観的にわかるのですが、自分自身では、たとえば目に見えるメーター(目盛り)のようなものや、力量の違いが以前の自分と明らかに違うことがわかる(確認できる)実際性が必要です。

つまりは、差が確認できるものがいるわけです。

これは5感で感じられる世界ならば(言い換えれば物質的なものが中心な世界なら)、その差も味わいやすい、感じやすい、確認しやすいのです。

何もない、差がない世界では、違いの確認のしようがなく、不完全か完全なのかさえも、実はよくわからなくなってしまいます。

なるほど、スピリチュアルな世界、古代神秘的な伝承では、人は完全性を持つと語られますが、もしかすると、その完全性のレベルというのも、次元や階層の違いがあるのかもしれません。

真に完全なこと(状態)は、誰にも、また何にもわからない(わかるとすれば、究極の神のようなもの)かもしれないのです。(神という存在も、その完全性を自分で確認することができない、あるいは完全であることを知っている完全性があったとしても、何も変化のない、固定のままと同じ感じなのかもしれません)

あと、成長の入れ子構造(ホロン構造)というシステムを仮に宇宙的レベルで想定すると、私たちの一人ひとりの現実世界での成長が、もっと大きな次元やレベルにおいても成長していくようリンクされており、たとえこの地球の現実世界が、成長の実験場であっても、私たちが切り捨てられたり、ただのモルモットとしての扱いになったりしないということです。(そうしようとしている勢力があるかもしれませんが)

それは、先述した入れ子構造的なシステムを想定すれば、一人が全体と響き合い、関係するようにできているからです。

あなたや私の成長は、もしかすると、微々たるものかもしれません。ことによっては、「自分など成長どころか、下降している、生きている価値すらない」と悲嘆している人もおられるかもしれません。

しかし、あなたが悲しめば、全体としてもネガティブな方面に傾いたり、成長のストップがなされたりするかもしれず、反対に、あなたが喜び、幸せになり、成長していくことができれば、全体としてもそうなっていくリンクや関係性があるのだと思えれば、落ち込んでばかりもいられないかもしれません。

また、あなたが何もできない、価値がないと思っていても、誰かに、あるいは何かに、モノでも動物でも植物でも、援助したり、優しくしたりできることがあれば、それはされた側からすると、とても価値ある存在に見えるはずです。

ほんのわずかでも、たとえば感謝ができれば、感謝される側(受容側、あなたは感謝をした能動側)、能動と受動の循環の動きが発生し、その影響はバタフライ効果のように、他にいい影響を与えていることもあると考えられます。

皮肉なことに(おそらく意図的に)、この現実世界は、差がものすごくわかりやすい世界にもなっています。

だからこそ、成長が実感しやすい世界でもあるのです。

成長の実感こそが、完全性が私たちにもともとあっても、この(限定された)現実世界での不完全性から成長していく意識と力が芽生え、別の次元での完全性を完成させるためのエネルギーのようなものとして、寄与できるよう設定されているのではないかと考えられます。

もし多次元なる宇宙があれば、私たちは、完全性をもった状態から、わざわざ過酷な環境を選び、完全性を忘れながら生きるように決めたのかもしれません。

それは、さきほども述べたように、成長しているという感覚・実感を伴うことで、エネルギーの拡大を呼び、それが、まだ完全性に至る途上である存在の糧になったり、完全だと思っていたものの不完全性の自覚を生み出したりして、共鳴し、全体として、ますますの、それこそ成長をなすためのシステムであるかもしれないのです。

悩みや迷いにある人も、何とか人から助けを得たり、自分でひらめきを得たりして解決していき(あるいは問題が気にならないレベルへと変容し)、やがて成長した変化を実感することにより、それがきっと、自分以外の存在にも役立つことになるのだと思います。

完全と不完全はまさにゲームのようなもので、不完全性を思うのは、完全性を知っているからこそのもので、完全という円や球の中で、回りながら、楽しんでいる状態とも言えます。

欠乏を思うことは、悪いことのように言われますが、最初は欠乏や不足、それも他人との比較から始まるものです。

それが第一レベルの完全と不完全ゲームみたいなものです。そのレベルが次第に上がっていくことで、欠乏や不足感、不満の性質もまた変わっていくのでしょう。(言い換えれ時、満足という意味と性質も変化していく)

もちろん、不足を追いかければ、どこまで行ってもゴールはないと言われますが、段々(すでに完全であると)わかりつつ、あえて追いかけるような、それこそゲーム状態を楽しむようになるのではないかと思います。

マルセイユタロットの「運命の輪」で言いますと、三つの動物を同時に楽しむような感覚です。

一見、輪の中は、ラットレースにも見えますが(そして、そういう示唆として見ることもありますが)、ある種の完全性のための発電装置のように見ると、自分も皆さんも、別の意味で、宇宙のために頑張っているのだと見えてくることもあります。(笑)

とにかく、成長を実感できる次元にいることは、苦しいことも多いですが、ある意味、幸せでもあると言えましょう。


人は悩むことを使命としている(されている)

私たちは悩むことが仕事である、もっと言えば使命であると述べれば、怒る人もいらっしゃるかもしれませんし、何を言っているのかわからないと思う人もおられるでしょう。

それでも、ちょっと通常の観点を変えて、人間の生活を見れば、そのようなことも、あるいは言えるのかもしれないと、気づくこともあるのではないでしょうか?

あくまで想像にはなりますが、きっと原始的な共同社会では、今ほどの悩みはなかったように思います。

社会システムが複雑になればなるほど、様々な具体性や種類のものが登場し、扱う物事の数も複雑さも前時代の比ではなくなってきます。

それだけ、毎日、思い考えなければならないことが莫大に増えているのが現代社会の人々と言えます。

便利な道具も増えたにもかかわらず、世の中が複雑になり、むしろ助け合いや協力的なことは、実感として希薄な感じであり、人の温かさにふれるということもあまりなくなってきました。

昔は、助け合わなければ(民俗学でいうユイやモヤイ的な共同作業をしなければ)生活ができなかった時代であったからということはあるでしょう。

しかしながら、今は、別の意味での協力はあっても、所属するコミュニティ・社会全員で協力的に仕事を行わなければ、個々の生活ができないという状況ではありませんので、人に無関心にもなりますし、個人の勝手や自己責任という考え方が増えていくのも当然かと思います。

皮肉なことに、所属成員の生活がかかっていたために、共同的にならずにはいられなかった時代は、そのおかげで、成員全体での援助やケア、時には相談や癒しもあったのだと推測されます。

生存的な(食べていくことの)悩みは今よりもっと深刻にあったでしょうが、精神的な混迷とか、生きづらさの悩みは少なかったように想像します。

そうして、時代が進むつにつれて、生存的な悩みは改善されてきましたが、先述したように、社会やシステムが複雑になり、機器も発達し、人口自体多く、価値観も多様になってきたことで、情報は洪水化し、あらゆる選択肢は増えたものの、反面、どれを選択し、どれが正しいのかが余計わかりづらくなっています。

要するに、(時代の)進化に従って、精神的な悩みがより複雑化してきたということです。単純に、時代が進めば人類も進化するとは言い難いとは思いますが、一般的に言って、文明は発達してきたと考えてもよいでしょう。(超古代など、まだ科学・歴史的に証明されていない時代などは除いて)

ということは、悩みを深める、増やす、複雑化するということが、もしかすると、人類の使命になっているのかもしれないということです。時代や文明が発達すればするほど悩みも増えるのですから、そう見てもおかしいとは言い切れないでしょう。

人類や文明が進化すれば、悩みごとはなくなるか、少なくとも、昔より減っていくのが普通ではないでしょうか。

それなのに、今の人たちの苦悩は、皆さん、表に出さないだけで、実は相当大変で深刻なものになっているのではないかと感じています。(もちろん、悩みごともなく、幸せいっぱいの人もいらっしゃるでしょうが)

ならば、私たちは、悩むことが課さられている種(人間・生き物)なのだと考えてみるわけです。それがつまりは、冒頭で述べた「悩むことが、私たち人類の仕事・使命」だという意味です。

では、なぜ、悩むことを、私たちは仕事としなくてはならないのでしょうか? ここを考えることが、非常に重要ではないかと思っています。

人によっては、そのテーマは、哲学的になるかもしれませんし、スピリチュアル的なことで見ようとするかもしれません。また、心理的な意味(個人とその個人を超えた領域も含むトランスパーソナルな意味においても)で考察するのも面白いでしょう。

私の考えを少し言いますと、まず心理的には、自分が自分であるための証明を発したいという意味の理由があると考えています。

世の中が複雑になればなるほど、実は標準化されるといいますか、皆さん、個人が全体の巨大なネットワークの中で埋もれた状態になっていきます。いわば、ネットワークシステムの中の、ただの中継地点みたいなものです。

時には、中継地点のレベルを超え、自らが発電や起点になるかのような、大きな個性を持つ場合もあるでしょうが、それも大きなネットワークの中で見れば、やはりただの、少々目立つ点(ポイント)に過ぎません。

そんな中で、点としての一人ひとりが、自分の存在をネットワークに響かせるには、イレギュラーを起こして、アラームを鳴らせることが考えられます。ほかにも方法はあるでしょうが、注意を全体に促す方法(つまりは注目してもらうための方法)としては、効果的だと言えます。

ひとつの点であっても、それがシステムエラーを起こすと、全体としての機能に問題が出るかもしれないからです。(実際は、切り捨てられたり、ほかの部分でカバーできたりするので、全体からすれば真の問題とは言えないのですが)

それが、一人ひとりの問題や悩みです。

「僕は、私はここにいる」「僕は僕です」「私は私なんです」「こんな私を無視しないでください」「私に注目してください」という、悲痛ともいえる心(自我として)の叫び、訴えのようなものと言えます。

ひねくれてきますと、一筋縄ではいかない問題として起こしてきます。

「そうはいっても・・・」みたいに、なかなか問題を解決させようとしません。ひとつ解消しても、次々と新しい悩みや問題を認識させようとします。

簡単に悩みとか問題が解決すれば、自分の存在価値がなくなってしまうからです。(自分が埋もれてしまう)

そうして、何度でも、悩みは形を変えて、内容を変えて、自らの中に起こってきます。

このような、自己の存在価値、自我としての個性を訴えるために悩みや問題が起きる(起こす)という説がひとつです。

時代とともに、より個性を出したい思いも強くなり、単純な問題よりも複雑で難しく、こじらせた問題にもなってきます。あるいは複数の悩みを同時に抱えた状態にもなります。

しかし、一方で、ネットワークシステム全体(側)から見た場合、さきほど、それは真の問題にはならないと言いました。

システム全体が親のようなものとして仮定すると、一人ひとりの存在の叫び(悩みとしてのエラー・アラーム)は、ネットワークを介して、自然に修復する力を持ちますし(よしよし、わかったよとなだめるみたいなもの)、難しい問題でも、何とかしようと全体で演算処理するよう働きます。

その結果、全体システム側は、点の一人ひとりの悩みを解決するため(存在を認めてあげるため)、ほかの適切な人(点)に会わせたり、状況(全体の中での、色分けされた小規模のネットワークの構築)を作り出したりします。

この一連の働きが、ネットワークをというか全体の知能を進化させているように思います。

問題は、点としての我々を、本当に機械的な点にしてしまおうというネットワークに発達してしまうのか、個として独立しながら(個の存在を認めながら)、ネットワークにつながることによって、全体そのものが巨大な集合個でありつつ、ネットワークとしての点(個)としても機能するという、入れ子構造的個とネットワークの発達に向かうのかということです。

私たちは悩みや問題を通して、どちらを選択するのだろうかというテーマ(課題)がありそうです。

前者は、機械的な全体管理主義的な話となり、私たちの人としての個性は消え、機械の一部として機能するようなものとなりますが、それはそれで、便利で合理的なシステムとなって、悩みは少なくなる方向も期待できます。(悩みという概念が、そもそも消失していく世界)

後者は、個としての人を保ちつつ、共同システム的な能力・体制にも対応することができるという感じでしょうか。

SF的なスピリチュアル風にいえば、前者は個性を消す代わりに、ひとつりの巨大な機会人間として、合理的に悩みのないワンオーダーな世界を作るということになりますし、後者は個はあくまて残しつつ、個と個がつながる次元を作ることによって、そこでお互いを認識し合い(よって孤独という感覚や、自分を訴える必要性が少なくなる)、便利さの追及や問題の解決を、全体のつながりで図っていくというような状態で、いわば、人でありながら神(宇宙)のようにひとつになるような状態です。

いずれにしても、人が悩むことは必然のようなものになってきており、それも、より複雑化しているわけで、これは一面、人としての進化の側面を持っている(進化が急速に進んでいるともとれる)という話です。

しかしながら、この先、私たちの選択によって、悩みの解消として新しい方向性が結実していく時、今述べたような、大きくわけてふたつの道に分かれていくような気がします。

悩みの中に、ただの現実的観点だけではなく、精神はもとより、霊性や魂の進化の観点を入れておかないと、この先、私たちは、「自我意識」をもたない機械的存在として、ある空間に押し込められたままのおそれもあるかもしれません。

マルセイユタロットを見ながら、そういうことが浮かんできた次第です。

いちテロティストの戯言、ただの妄想と思っていただいても構いませんが、個人的には、とても重要なことを述べさせていただいていると思っています。


マルセイユタロット講座で伝えるもの

この前は、市井の悩める人々に、占い師として、応え、癒し、その人たちの問題や人生をよくしていくという道で頑張る人の応援歌のような形で書かせていただきました。

タロットリーダーとして、対人援助する道のひとつには、占い師となって、まさに現実の実践の場で、様々な人々の悩みごとに対応していく、救済の道があります。

実はこれは自他ともの救済です。

なぜなら、占い(師)といえど、やはり自分の問題・テーマと関係したクライアントが現れるからです。その人たちの悩みに取り組んでいくことが、すなわち、自分自身への浄化や学びにもなっているからです。

またそうした占いというより、セラピストの要素を主として、タロットリーダーになっていく人もいます。これらは個性でもあり、その人の選択と、天の思し召し(役割)によるところもあるでしょう。

活躍の場や方法は、何がよくて何が悪いとか、優劣で決められる問題ではないのです。

大切なことは、目の前の悩めるクライアントに対し、その問いが占い的なものであれ、心理的なものであれ、霊的なものであれ、真剣に自分のできる範囲で(完璧にできるわけではないので、今の自分の力として)応じていき、結果的にはその人たちが癒されたり、前向きになったりすればよいのです。

時にはうまくタロットが読めなかったり、クライアントによいアドバイスを提示できなかったりすることはプロの人でもあるでしょう。

しかし、あなたがタロットとともに、うわべや虚栄心、ほかの目的ではなく、純粋に心と魂でもって応対していれば、相手の人はどこかですでに癒され、何らかの形で問題の解決に向かっいるのだと感じることができます。

さて、一方、私は、講座でタロットリーダーを養成することを主目的としているのではありません。そういう道が、講座で学んでいると、選択肢のひとつとして出てくるということであり、それもまた個人の自由と意志、自らの内なる衝動や導きによります。

ではほかに、何を目的としているのでしょうか?

それは、ちょっと大それた話にはなります。

マルセイユタロットの教説には、人は誰でも神性なる部分、高次の霊性を持っているというものがあります。

もちろん、人間には、ほかにも、いわば動物的な本能部分や、感情や快楽(苦を避ける)で動く、自己防衛、自己(エゴ)満足で判断する部分もあります。その他にも、人というのもは、本当にひとつところでは限定できない、様々な要素を持つ存在です。

ゆえに、私たちは日々悩んだり、逆に喜びを味わったりすることができます。

さて、ここで、もう少し、視線を外に向けてみましょう。あなたは、この現状(あるいいは歴史で学んだ過去からの)世界が、最善のものだと思えますか? そして、何より、あなた自身は幸せ(単なる現世利益的なものや、個人レベルで満たされているというのではなく、本当の心や魂部分から見て)と言えますか?

そして人の心は、案外にもネガティブに傾きやすいことも、多くの人は自覚しているのではないでしょうか? そういう性質にいるのはなぜなのでしょう?

とはいえ、スピリチュアル的な大きな神視点を持ってくれば、なるほど、この世界は完全で何も間違っていないのかもしれません。

つまり、問題は、私たち自分自身にあり、この世界自体は、自分の今の世界の人に共通した心が映し出した(作り出した)マトリックスのような世界だと言えるのかもしれません。

そのことは、おそらく事実に近いのではないかと、いろいろと学びをしてきて私も感じます。

それから、よく言われるものに、カルマ業の人生というものがあります。これにもいろいろな考えはありますが、平たく言えば、輪廻転生説の一環であり、私たちは、成長であれ、修正であれ、とにかく過去(あるいは未来)の何らかのデータと宇宙的規則(ダルマ)によって裁かれ、地球人生を繰り返しているというものです。

こうした視点をそのまま入れてしまえば、私たちはとにかく、毎度毎度、記憶はなくても、どこか、あるいは誰かの魂のデータによって、適切だと思える今生の人生設定を選んで、輪廻転生して、生き続けることになります。

しかし、さきほど、神目線に立つと、世界の問題は私たち自身の共通したものにあると言いました。

輪廻転生を繰り返し、自分や世界をよくしようとしても、今現在の社会と世界は、とても理想とはほど遠いというか、私には修羅の世界にも見えてきます。

もちろん、善的なものや幸福もたくさんあるとは思いますが、やはり皆が平和で安心して、生き生きと活躍できる世界とはいいがたい部分が多いように思います。

ここで、思うのは、マルセイユタロットをやってきて気づいたことでもありますが、そもそも私たち自身が、かなりの部分で間違ったシステムを信じ込み、それを動かそうと、もう何千年もしてきたのではないかということです。それはカルマシステムとか、輪廻転生的なものも含めてです。

言い方を変えれば、認識や智慧のレベルが、ずっと低いままで来ていて、いわゆる文明の進化ということはあっても、それは本質的には変わっておらず、自分たちの信じているシステムと社会をただ便利に、回転しやすく発達したかのように見せかけているだけという気がします。

我々が信じ、続けてきたこと(これは生きている世界だけではなく、あの世とか、見えない世界も含めて)に疑いや考察の目がまったくなく、ただ神は、宇宙は完璧だと思い、頑張って従っていれば報われるということを、何世代も繰り返していて、真の進化が滞っているのではないかと考えるわけです。

換言すれば、ある同じ次元(と世界)でのループにはまっているということです。もしかすると、実験として観察されている対象なのかもしれませんが。

これは、神や宇宙を否定したり、疑ったりするということではありません、おそらくも神、宇宙は、いつも完全です。

しかし、私たち人間自体が誤謬し、宇宙や神性的ものから遠く離れた状態に、自らを置き続けているのです。

いわば、自分たちで自分たちを苦しめているシステムの中で、バーチャルなすばらしき世界と思っている「地獄」にいるのです。

ですから、私たち自身が生み出す幻想やよいことと思っているものを疑い、レベルや次元、システムを変容させなくてはならないと言っているのです。

マルセイユタロットが本当に伝えていることは、それだと私は考えています。(もちろん、あくまで私の考えで、いろいろほかの考えがあってもいいと思っています)

簡単に言えば、マルセイユタロットを通して、内なる神性に少しでも近づき開花し、一人一人が波動的に影響を及ぼし合い、自分たちを苦しめるシステム自体が変えられることを確信してほしいと思っているのです。

大きな言葉でいえば、創造されたものの立場から、創造する立場への変換です。

私たち自身がその昔、契約したもの(存在)を解除し、新たに私たち自身で世界を変え、本来の宇宙を創造、あるいは本来のもとに回帰する必要があるのです。

そのようことを伝達し、皆さんと私の目覚め、向上のために、マルセイユタロット講座を開いています。これもまた、それぞれの救済の道だと考えています。


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