タロットの使い方
時代に見る「節制」と「悪魔」以降
全部がそうとは言えませんが、マルセイユタロットの、特に大アルカナは、いろいろな進化・発展を示唆していると考えられるところがあります。
それも、このブログでも何度か述べているように、大アルカナの数順に成長していく仕組みが図示されていると考えられるものです。
タロットにおける数(カードに付与されている数)は、ただの“番号”ではありません。
数そのものに象徴性があり、言わば、カードの中の絵柄と同じような性質なのです。
しかし、番号と呼び習わすこともでき、それは順序の意味を持つことでもあります。それが大アルカナの数の特徴のひとつとも言えましょう。
ところで、前にも書きましたが、私は時代の進化と大アルカナの数の進みとはリンクしているという説を取っています。
そこからすると、「節制」へ向けた時代へと変化(シフト)していることになるのですが、「節制」の次の数を持つカードは「悪魔」で、もっと進むと、「神の家」「星」「月」「太陽」「審判」「世界」まで続いていきます。
私の考えているタロット大アルカナ時代進化説は、単純なものではなく、「節制」への時代シフトというのは、大きな意味(括り)でのことで、さらに細かく言えば、「戦車」までの進みや、「節制」自体に注目することで、その前の「13」とか、次の「悪魔」以降の関連性も出てくるものとして見ます。
そうすると、「節制」前後の「13」と「悪魔」は、時代進化のために、かなり重要なカードになると考えられます。
「13」については、また別に言及することもあるかもしれませんが、今日は「悪魔」とその次の「神の家」との関連について、少し述べたいと思います。
時代の進化や交替については、タロットのみならず、例えば、西洋占星術でもそれらについて示唆しています。
今ではよく知られている「風の時代」とか「水瓶座の時代」(それぞれの区分けは違いますが)というのも、それになりますね。
タロットよりも、むしろ占星術のほうが、特に長期的な時代の変化を見るにはよい部分もあり、一般的にはタロットと時代関係はあまり言及されないようです。
ともあれ、ここで言いたかったのは、占星術で指摘されている「風の時代」、または別の分け方ではありますが「水瓶座の時代」というものの特徴を見ていくと、マルセイユタロットの「節制」的な意味合い(その名の節制的なというより、共有・助け合い、情報の交換などの面)が見てとれるということです。
ほかにも風の時代的区分からすると、「節制」以降のカードたちにリンクするような意味を見出すことができます。
ですから、やはりマルセイユタロットで言うと、「節制」以降のカードに、これからの時代の進化を見ることができるわけです。
すでに今現在も、インターネットの普及と日常使いによって、情報ネットワーク、交換、シェア、発信は爆発的・飛躍的な拡大を遂げています。
しかし、そうした、言わば、情報の雨の中にいながら、まるで特定の傘の中で待機しているかのように、同じ考えや気持ち、思想をもっている者同士が集まり、そのグループのようなものの中で肯定的な情報のみ回し合うというような事態になってきています。
グループにおいて肯定的というのは、グループの者たちが違和感を持ったり、否定されたりするような情報は入れない、拒否するということになり、もっと言うと、信じたいことしか信じないような状態が強固になっていくわけです。
今の人たちは、情報や交流の機会は昔よりはるかに巨大でたくさんのものを持つことができるわけですが、情報の取捨選択もより自由になり、結局のところ、多くの人が、自分の好みによって、偏った情報だけを入れる、実質的にはとても狭い世界(閉鎖的な中)にいる状況となっています。
直接会うということも、コロナ禍でますます減少し、ネットを通して、仮想的に知っている、文章や声だけ知っている、動画では見たことがある・・・という、およそ交流とは言い難いレベルのものが増加しています。
つまるところ、各々が、ほとんど本質的にも、自分一人の世界状態になっていると言っても過言ではないかもしれません。
ただ、それでは寂しいので、同調できる人たちとはつながろうとし、その結果として、グループ化・サロン化することがたくさん起きています。
もちろん、ネット前の時代でも、グループとかサロンはあるにはありましたが、今のようのものではなく、もっとメンバーのつながりがリアルであったと思います。まあ、その分、泥臭さ、人間臭さも多かったかもしれません。
しかし、今のグループ・サロンは、ネットを通してできあがるもので、入退会も比較的緩やかであり、またリアルでの交流は少ないですから、本当のところで、メンバー間のことは知らなかったり、人間性が希薄な関係になっていたりすることもあるでしょう。
そして、リアルの集団とは違って、嫌な人とか、異なる意見を面と向かって言い合うみたいなこともあまりなく、あっても、ネットなので機械(間に何かを挟む)を通してのものとなりますので、本音と言いますか、トータルに情報が伝わりにくい(リアルで向かい合う総合情報が欠如されている)ことになってます。
そのため、人間同士の線引きがあいまいになり、かなり踏み込んでくる不躾な人、非常識な人、逆に機械やロボットのように感情を見せずにあっさりと関わる人(得体のしれない状態の人)など、奇妙な人間関係も生まれやすくなります。
また、ネット社会では、結局、自分一人の世界(自分の気持ちが中心)に行きつくと言えますので、言わば、一人一人が分離されている状態と言え、そのため、誰か強烈な個性とかカリスマ性を持っている人物が作るグループには、簡単に洗脳されて属するようなことになってしまいます。
そうすると、リアルの時の集団において、それに一番近いものとしては、新興宗教の集団・グループのようなものになってくる場合があるのです。
ネット社会の台頭によって、いろいろな情報が流れ、共有され、発信もしやすくなって、かつてリアル社会にあった障壁がなくなってきたのも事実ですが、反面、(新興)宗教サロン化という事態も進んできているということなのです。
それがまさに、「節制」から「悪魔」という、マルセイユタロットでの象徴性に合致しているわけです。
やはり、自分の好み、感性の指向性だけで情報を入れてしまう、選んでしまうということが問題であると思います。
ネットでは、情報は多くても、事実というものが逆にぼかされ、デマ・フェイク・偽物(者)であっても、簡単に一気に情報として流布してしまう危険性があります。
いつかは、出所とか情報の確かさを判定させる仕組みも整ってくるとは思いますが、今はまだ過渡期で、まさに有象無象の情報世界の中に放り出されている状態で、結局、人は、自分の気持ち、感情、欲求で選ぼうとしているのだと言えます。
今後、「悪魔」から「神の家」という、タロットの進みを考えますと、ここに大きな仕組み、きちんとした選別ができるシステムや知性の構築が求められるとも言えます。(外だけではなく内からも)
神道的にいえば、魔を神と誤認するのではなく、審神者(さにわ)を通して、きちんと神を認識しなくてはならないということです
これから、ビジネスも趣味も、ますますサロン化・グループ化が進むと思われますが、健全な理性的精神、中立・バランス性、さらには霊性をもっておかないと、まがい物に囲われ、魅力ある言葉、モノ(お金)、見せかけの関係などによって、自分が悪魔の虜となってしまい(「悪魔」のカードのひもでつながれた人物)、成長していると幻想の中で思わされて、その実、停滞、傷のなめ合い、カルト的耽美、思想の先鋭化、搾取の犠牲、端的に言えば奴隷になってしまっていることもあり得ます。
さらに、自分がつながれる側になるだけではなく、世の中に簡単に発信できることで、承認してもらたい欲求の自我が肥大し、悪魔としてつなげていく側に変化(へんげ)してしまうことも考えられます。
まあしかし、これには、深い意味でいうと、本当の意味で独立して共有し合える状態に進化するための過程であるとも考えられます。
やがて「神の家」のあと、「星」「月」と進み、「太陽」という、真(高度)の統合社会へと発展していくことと想像します。(勝手に進むというのではなく、タロットで言えば、ほかのカードで象徴されることがクリアーになってくる必要性もあります)
いずれにしても、日本で言えば、昭和時代までのような、組織とか会社とかで守られ競争し、それ単位で評価・認識し合うような時代は過ぎ、一人一人の個性が強まり、同時に、情報と移動の自由性・選択制も増して、シェア・共有度も上がっていくのは間違いないことですが、一方で、「悪魔」の象徴性(欲望・感情によって集まるサロン・グループ化)も強まってくるということです。
それぞれのグループ・サロンがセクト化したり、カルト化してくると、小国のようなものがバラバラに存在し合うことによって、ネットでせっかくつながりやすくなったのに、実体は分離が激しい世界になっていることも考えられます。
したいようにする、やりたいことをやる、自分を出すという流れは、時代的にもそうなってきたわけですが、今度は、それを大いなる意味で律すると言いますか、整えていく過程が、やがてやってくると思います。
それはこれまでの現実のしがらみで制限していたルールとか束縛とは違う、高度な次元のルールと言えます。
一言で表せば、霊性に基づくものと言えましょう。そのレベルが低い形では、道徳とかと言われていたものです。(ただそれでは束縛と変わらないところもありました)
やはり、マルセイユタロット的には、「神の家」ということが鍵になるように思います。
まだ自分を苦しめている人、個性を押し殺している人、他人の期待する人生を無理やりに生きている人は、まずは自分の個(自我部分の自分らしさ)を発揮する(取り戻す)ようにするとよいです。ただ、その過程で、「悪魔」につなげられないように注意してください。
そして、自分自身が出るようになってくれば、見えてくるのが自他の霊性の向上という目標になってくるでしょう。言い換えれば、自我の自身ではなく、自己の自神、「神の家」に向かうことでもあります。
その時は、後戻りするようですが、「節制」もまた深い意味を持ってきます。
マルセイユタロットは、このように、いろいろな意味で指針・航海図となるものなのです。
日常と非日常、そして違和感
前の記事では、マルセイユタロットのリーディングにおいて、細かな象徴図を拾い上げていくと、客観的な視点ができて、カード解釈の共通的理解や根拠として役立つことを述べました。
この時は、シンボルの共通性を発見することが鍵なわけでしたが、逆に、異質性を見ることも重要であることにふれました。
つまりは、展開の中で、明らかに目立つ何らかのことは、タロットからのメッセージ性が強いと見るわけです。
このことは、実は、タロットリーディングだけではなく、普段の生活、私たちの人生においても言えることかもしれません。
私たちの意識は、毎日繰り返される日常的な意識・通常的感覚と、特別な日とか、気合が入る時など、何か普段とは違う非日常的な意識になる瞬間(長く続く時もあります)があります。
非日常性は、文字通り、日常にあらずということで、民俗学的には、ハレ(非日常・特別)とケ(日常・普段)という区別がなされます。
ちなみにケの状態が続くとケガレとなり、そこにエネルギーを入れてケに戻す必要があるため、ハレの日があると言われます。いわば、ケ→ケガレ→ハレ→ケという循環・サイクルになっているわけです。
農耕生活を主体としていたかつての日本人は、農作業の普段生活の中で、季節の折々にふれて、稲作や畑作の重要な時期に祭り(祭祀)・儀式を行うことで、ハレの日を作り出していました。まあ、意識していたというより、習慣化していたと言ったほうがいいかもしれません。
しかし、私たち現代人の生活は、農作業が中心ではなくなりましたので、きちんとしたサイクル・リズムができないのが普通となりました。また季節とか自然の流れも無視して、昼も夜も、夏も冬も、服装とかは違っても、ほぼ同じように(特段の区別なく)毎日を過ごしています。
これでは、自然と乖離していくのも、そしてケガレ状態、あるいはハレ状態が日常的になるのも仕方ないのかもしれません。
ですから、今の人たちほど、昔よりも、意識的にサイクルを作り、日常と非日常、聖と俗などの時空を設定(区別)しておいたほうがいいと言えます。
パワースポットブームなど、神社・仏閣・聖地などを訪れる人が増えましたが、これも日常におけるエネルギーの消耗・枯渇、混乱が多くなっていて、そういうパワースポットに行くことで非日常性にふれ、リセットしたいという欲求が、ひとつには働いていると想像されます。
そして、タロットを扱うということは、非日常や聖なるものとつながる時間・空間を持つことを意味し、それをうまく使いこなすことで、乱れたリズム・サイクルを整わせることができます。
ただ逆に、タロットばかりの時空に行き過ぎると、逃避的・厭世的な感じにもなって、非現実的な感覚が強まりますので、それはそれで注意が必要です。
さて、こういったこととは別に、日常性と非日常性とで重要なのは、普段の生活の中で突如出現する異質性です。
言い換えれば、それはシンクロニシティ体験であったり、何か言葉では表しにくい違和感のようなものとして現れます。
シンクロニシティの場合は、偶然であるのに必然のように感じる出来事で、明らかに意味があるように思える繰り返しとか、タイミングの良さでの現象と言えます。
どちらかと言えば、関係性があることが連鎖するみたいな、共通的な事柄が意味あるかのように繰り返されることが多いかもしれません。
それとは別に、どこか違和感を自分は覚える、いつもと違う・・・というもので感じられる現象があります。
シンクロは比較的テーマとして取り上げられることも多いですが、違和感そのものについては、あまり言及されていません。しかし、違和感も、ひとつの非日常的なメッセージだと言え、意外に放置できない重要なものがあると考えられます。
「違和感」というように、「感」の字があるので、感覚的なものとしてとらえられることが多いでしょうが、思考・論理においてもそれはあり得ます。
感覚の場合、ハートや心というものもあれば、体そのものの違和感ということで感じるものもあるでしょう。
心理的にも、体の違和感は、たいていは心と結びついており、違和感の場所によって、ある程度、問題性のパターン(怒りとか不安とか恐怖とかを示すものと)も言われています。
そして、思考の違和感も大事で、つまりは、「この考えはおかしいんじゃない?」と思うような感覚です。
仕事とかビジネスにおいても、ある人から「この方法が正しい」とか「これでやると結果が出せる」と言われても、自分にとっては、そのやり方に違和感がある場合もあります。
また、人数的には多くの人が述べている(信じている)主張であっても、やはりおかしいのでは?と自分は思えるケースもあります。昨今の流行りの陰謀論など、そういう傾向があるかもしれません。
いずれにしろ、違和感を覚えたということは、オートマチックに働く日常性や、自身の安定・安心・共感とは異なる何かがあったことを意味します。
よいにしても悪いにしても、注意信号であるのは確かです。
違和感を放置しておくと、あとでとんだしっぺ返しと言いますか、その正体が大きな問題となって出現することがあります。大病になる前の警告だったのに、放置していたから入院・手術することになった・・・みたいなものです。
しかし逆に、違和感を気にし過ぎていたら、それこそ、ささいな違和感を拾い上げようとすれば、いくらでも出てくるのが人間ですから、神経症的・ノイローゼ状態にもなりかねません。
ですから、違和感を放置するのも問題ですが、違和感のパターンとか大きさを、自分なりに把握しておくことも重要かと思います。
違和感も、実は、当然ですが個人差があり、というより、ほぼ個人的なもの(感覚)なので、自分なりのコントロールが可能です。
違和感というメッセージの発信の、自分なりのパターンを観察し、理解するようにするということでしょうか。
やばい違和感(笑)と、そうでもない違和感、ネガティブな警告の意味の違和感、自分の意固地さ、柔軟性のなさを示す違和感など、いろいろと違和感(の意味)にも種類があるわけです。
大きく分けて二種類、このままでは危険だよ、おかしいよとホイッスルを鳴らすかのような違和感と、逆に、そのままでいいのかい? もっとできるはずだよとか、もっと勇気を出して、チャレンジしてとかの意味の応援的、創造的(それは旧の自分の破壊でもあります)な違和感があると考えられます。
どちらであるかは、最初はわかりにくいかもしれません。
違和感にもシンクロがありますから、それによって判断できる場合もあるでしょう。ただ、どちらにしても、そのままの自分では問題だということです。何か対処する必要があるのです。
それでも、違和感の意味がそもそもわかりにくい場合もあります。ですから、タロットようなものがあれば、それは理解の助けになります。
タロットの出方によって、それが自分を守るための違和感なのか、壊す(改革)のための違和感なのかが、比較的はっきりするでしょう。
個人的には、違和感は、意外にも天使の象徴図で表せるとも考えています。
例えば、タロットの天使の図像の出方がどうかを確認することによって、違和感の正体と対処法が見えてくるということです。
象徴というのは、このように、見えないものやわかりにくいものを、見えやすい形にしてくれるものなのです。
タロットノートの作成
タロットを学ぶうえで、私は、タロットのノートを作ることを、講義でも推奨しています。
タロットは全部で78枚あるので、そのひとつひとつについてのノートを作ることができますが、最初は大アルカナだけでもよいでしょう。
大アルカナは22枚あるので、78枚の全体に比べると、枚数的にも半分に満たないものです。
ですから、単純に作業(量)的にも、それほど負担にはならないはずです。
ですが、「大」と名がつくように、特にマルセイユタロットの体系(システム)においては、大アルカナを理解することが小アルカナにもつながってくる(これは抽象的なことでなく、実際にそうなっています)ので、枚数的には22枚と少ないですが、質的には深いものがあります。
そうなると、実はノート作りにおいては、結果的には、量も多くなることが考えられます。
さて、ここでノートと言っていますが、具体的にはどんなものを用意すればよいのでしょうか?
ここで言うタロットノートとは、タロットカードに関することを記入していく帳面・データ票のようなものです。
今では、学習ノートにおいて、手書きをしていく人はあまりいない(学校ではまだ授業ノートはアナログ的手書きでしょうかね?)かもしれず、ワープロとか、スマホにメモするとか、デジタル記入が主体になっていそうです。
しかし、タロットノート作成においては、どちらかと言えば手書きノートをお勧めします。
というのも、体(指先)を動かすことも、タロットで言えば、四大元素(小アルカナの4組)のことと関係し、いろいろな意味(例えば、労力を実感することがタロットのようなものの作業工程には重要))で効果的だからです。
しかし、私もそうなのですが(苦笑)、書く字が汚い(読めない)と、あとから見返した時、自分でさえ読むことができなければ、ノートとして意味がありませんから、書く時は少なくとも自分が読めるようにしておいてくださいね。(笑)
意外に、思いついたことを忘れないようにと、急いで書いたような字は、得てして読みづらいものになっていることがありますから、注意です。
基本、手書きがお勧めではあるのですが、読みやすいとか、書いたものを整理しやすいということを重視するのなら、やはりデジタルに頼ったほうがいい場合もありますので、そのあたりはお任せで、ノートとして活用度が高いものになるのなら、書き方は自由です。
そしてここからが肝心ですが、ノートは一回とか一冊に留まらせないことです。
つまり、ノートは分冊化し、複数のノートを持つことか望ましいということです。
まず一冊目は、大アルカナの名前とか、基本的なカードの意味を記入することから始まるでしょう。これは、言わば、講師や本から学んだ(受け取った)内容をそのまま記入していくものです。
言ってみれば、基本事項を書いた備忘録に近いものです。
22枚、一通りの意味を書いたノートができれば、次に二冊目の別冊を用意し、これには、自らの気づきや、そのカードに関係する自分の事柄を記入していきます。
このノートは、タロットと自分を近づけるためのもので、一般的なタロットの知識・意味を、自分のものとして落とし込む、具体化(現実・リアルに感じていく)役割のものとなります。
こうすることで、タロットへの感じ方が身近なものになり、またリーディングにおいても、ただ単に意味をあてはめるものではなく、その人その時に応じた読み方ができる訓練の基礎にもなります。
これと同時進行でもよいですし、先に二冊目ができたあとでもいいのですが、今度は三冊目にチャレンジします。
三冊目は、より深い象徴の知識や気づきを書いていくことになります。
タロットを一通り学んだあとでも、タロットを活用していくにつれ、いろいろとほかから知識が新たに入ったり、講義で言われていなかった内容に気づいたりすることが出てきます。
それは自分のことと関係する個人レベルのものもあるのでずか、この三冊目では、特に普遍的でもっと大きな類の気づきになります。
例えるとすると、同じタロットを学んでいる仲間たちにも知らせることのできる内容で、つまりは、自分にもほかの人にも通じる気づきとか知識です。
もし将来、タロットティーチング(タロットを教えること)を目指すのなら、この三冊目はかなり重要なものになってきます。
そして四冊目にも挑戦してみましょう。
四冊目は、人によっては、三冊目とか二冊目の順番になる人もいるかもしれません。
これは、リーディング実践におけるデータを集めるものとなります。
いわば、読みの事例集みたいなものです。純粋なリーディングの事例集とちょっと違うのは、大アルカナ一枚一枚について書くものなので、展開とか複数枚の読み方を記すのとは異なることです。
もちろん、展開事例を一緒に書いても構いません。
このノートの目的は、リーディングに特化した場合に出てくる意味とか大アルカナの読み方を書き留めていくというものです。
ですから言葉としては、比較的具体的なものが出やすく、名詞であったり、動詞的なものとして書いていくことができるでしょう。
冊数を分けるのが面倒な場合は、工夫して、大アルカナそれぞれに、目的や内容の項目を分け、記入していくということも可能です。こういうやり方をする場合は、手書きより、移動やコピー、削除、項目分けなど自由にできるデジタルのほうが、あとでいろいろと整理しやすくいいかもしれません。
ここにあげたノートと分冊の種類は、あくまで例ですので、自分なりに作り方は自由にやってみてもいいかと思います。
しかし、気づいている人もいるかもしれませんが、紹介した種類分けは、受動・能動の(学習)スタイルをノートによって分冊していく流れになっており、学習というものが受けるだけではなく、能動的に行うことも意味しています。
バラバラな内容を一冊のみにただ書いていくよりも、区分けしたり、整理したりして、分冊化したほうが、タロットの理解や学びもやりやすいでしょう。
少なくも、タロットを深く理解したい、活用していきたいと思っている人は、基本の一冊だけでは足りないと思ってください。
もちろん、自然にノートなどに書かなくても、イメージと得た知識によって、いろいろなものが浮かんでくるようにはなるのですが、それもすぐ消えてしまったり、思い出せなかったりしますので、やはりノートに書いておくという作業は、有効だと思います。
ノートを作成することは、確かに面倒ではあるのですが、タロットが好きな人ならば、むしろ苦にはならないのではないかと思います。
義務的に仕方なくやるような場合は、タロットとよい関係にあるとは言えず、あなたはタロットを学ぶことよりも、タロットを学ぶ自分というものを課している(強制している)ような、何かの囚われがあるのかもしれません。
ちょっと面倒ではあっても、自然に心が動いたり、あるいはやっているうちに習慣化したり、楽しくなってきたりして、いつの間にかノートが出来上がってるみたいな感じがよいです。
ノートを作らなければタロットが学べないというわけでもありませんし、書くこと自体、向いていない方もいますので、何事も絶対視しないようにしてください。
現実を生きる術のひとつだと思いますが、自分に合ったやり方、ペースで何事も行うのがよいでしょう。誰かのやり方、一般的な方法が、必ずしもあなたに合っているとは限らないのです。
そして、やれなかったからと言って、自分を貶めたり、怠惰だと汚したりする必要もありません。生きるか死ぬかの大事ではなく、しょせんはタロット学習のことです。(笑)
この世(現実)は、個性見つけ、それに沿う生き方をすると楽になるようにできています。(全体を無視することではありません、全体の中で、自分という個人を自らが発見することであり、それが全体にも貢献する形に自然になります)
タロットの学びを、あなたなりの方法で、気楽に進めてみましょう。
タロットによる願望実現法のタイプ
人には欲求や願望というものがありますので、それをかなえたいと思うのまた人情でしょう。
マルセイユタロットにおいても、考え方(解釈の違い)にはよりますが、欲求がパワーとなることが描かれています。例えば、「悪魔」のカードなどは典型的で、また意外に思うかもしれませんが、「運命の輪」なども関係します。(あくまで私の考えになりますが)
心理的によく言われるように、欲求や願望をひどく抑圧していると、いずれ何らかの形で問題となって現れる場合があります。身体症状とか人間関係での問題行動とか、情緒不安定とか出るわけですね。
人により、自分の内に向かうか、対人関係とか行動とかの外に出るかの違いはありますが。
ですから、欲求も出していったり、かなえていったりすることは、心身調整のうえでも悪くはないことだと言えます。
問題は、爆発的に一気にやってしまうなどの程度の問題と、まったく周囲の迷惑、あるいは自分のバランスを考えずに、かなえようとしてしまうことにあると言えます。
つまりは大きな影響がないように、小出しにとか、段階的にかなえて(出して)行けばいいわけです。
さて、今日言いたいことは、実はほかにあります。
欲求ということを述べてきましたが、今日は似たようなことで、テーマとしてはタロットによる願望実現ということになります。
以前も何度か取り扱っているテーマです。
タロットによる願望実現は可能か?ということは、タロットに関心のある人にとっては、比較的興味が高いものかもしれません。
個人的には、結論として言えば、それは可能であり、また必ずしもそうとは言えないというような、逃げみたいな回答(笑)にしておきます。
本日は、可能か不可能かについてを審議するのではなく、タロットによる願望実現のやり方がテーマです。
ところで、世の中には、様々な願望実現法が語られています。
私も以前、願望実現に関心があった時があり(今は、ある理由により、ほとんどないです(苦笑))、いろいろと調べたり、実践したりしていました。
そして、どうやら大きく分けて、ふたつの願望実現法のタイプがあることに気づきました。(タイプ分けには、そもそもの型としての要素・考え方がたくさんあるのて、必ずしもふたつに分けられるわけではありませんが)
ひとつは、願望を目標として設定し、そのための方法やプロセスを具体的・細分化してかなえていくというもの。
そしてもうひとつは、願望を目標として設定することは同じでも、あとは自然に任す感じで放置しておくタイプのものです。
あえてこのふたつをスピリチュアル的な言い方で分けるとすると、前者が現実的・地上的・人間的方法で、後者が理想的・天上的・複合的方法と例えられるでしょうか。
前者はよく言えば、人間の力が中心で、人間の行動性・実行性を力とし、現実的に外に向かって働きかけるという感じです。何よりも自分自身の力による改革、変化が基本となります。目標に向かっての強烈な意思とか、成功(達成)イメージも必要となる場合があります。
後者は、人間の力ももちろん当然として思いながらも、無理矢理・強引にかなえていくのではなく、むしろ、人間の意思の弱さや限界も認めたうえで、他者(人間以外も含む)や別の要因にも応援してもらいながらかなえていくとタイプになるでしょう。
まず、前者のやり方や特徴について説明します。
そもそも人間・現実の世界は、分離、つまり別々のモノや個別の世界とも言えますので、要素別に細分化したほうが、具体的で何をすればよいのか、逆に何をしなくてよいのかがわかりやすくなります。
何か夢や目標(願望)があっても、ただ漠然と「こうなればいいなあ」と思っていたところで、現実はほとんど変わりません。願望だけあっても、そのままでは、何をどうしていいのかわからず、取っ掛かりとしての行動もできません。
そこで、実現のための具体性・細分化を要素別にしていくわけです。
すると、願望実現に向けてやるべきことが明確になり、行動も起こしやすくなって、実現に近づくことになります。コーチングなどではこういった手法はよく取られます。
人間、怠惰なもので(笑)、夢を見たり、考えたりすることはよくしても、それを実際に行動に向けていく人は少ないものです。
それには、本気でかなえようという気がないこともありますが、やるべきことがわからない、だから面倒であるということが多く、逆に言えば、具体的でやるべきことがはっきりしていて、それが無理のないステップを踏み、しかも実現に向かって確実に進んでいることがわかれば、人は行動を継続していくことができます。
そのためには目標を立てるだけではなく、目標を現実(地上)に下ろすためのマップピングルートのようなものが必要なのです。
スピリチュアル的に言うと、次元降下させる道を明確に意識する(意識だけではなく実際に書いたり、作業したりする)ということです。
これは、マルセイユタロットで言いますと、大アルカナから小アルカナに次元をシフトさせることであるので、詳しくは言いませんが、大アルカナと小アルカナを併用していくことで可能になります。また、絵柄自体に具体性を持つ大アルカナだけでもできない技ではありません。
次に、もうひとつ(後者)の方法です。
こちらは、むしろ具体化の逆で、目標をロックオンしたら、あとは自動操縦に任せるみたいな方法となります。
やるべきことは、目標のロックオンくらいで、その後は、むしろ意識から願望や目標をはずすくらいにし、何となく、心のうちに目標はあっても、日々、意のままに(求める心のままに)目の前のことに集中して過ごして行く感じです。
あとは天に任すという表現が近いかもしれません。
そして、たとえ実現しなくても、それは自分にとって必要な実現であった(言い方は妙ですが)、つまりは不必要なものであったと取ります。また、想像していたものと違う形のもので実現したとか、そういう場合も、この方法では起こり得ます。
この方法で大事なのは、最初の目標設定にあると言えます。その願望や目標が、本当に自分にとってほしいものか、必要であるものか、また、たとえかなったとして、それ(達成したことによる状況)が逆に自分を束縛したり、維持するために今より自由を奪ったりすることにならないかということを考える必要があります。
どこか違和感やその願望を達成することに抵抗感があり、素直に目標としてロックオンできない場合は、いわば潜在意識のようなところに入り込まず(拒否され)、目標が設定されていないので、当然かなうことも難しいわけです。
強い願望である必要はないのですが、素直に心からそれがかなうと喜べる、祝福できるというものでないと厳しいかもしれません。
まあ、自己の内なる意識も本当に望んているもの、言い方は変ですが、望みが穏やかなものであるのなら、普段忘れていても、いつも心の奥底にはある願望みたいなものになりますから、自然に任せていても、なにがしかのことで、それに近いこと(望みに向かうこと)を自らの内、あるいはあなたをサポートする様々な存在たちが整えてくれるというわけです。
マルセイユタロットでこれを行う場合は、大アルカナ中心の普通のリーディングを行いつつ、その鍵となるカードをシンボルとして、自分の心のうちに置いておく感じになるでしょう。
普通にリーディングするというのは、願望に対するブロックや抵抗などを調整し、スムースに願望を違和感なく思える(ロックオン設定できる)ようにするためです。
簡単に言えば、「そう思っていいんだ」とか「そうなっていいんだ」と自らに許可が出せるよう、タロットリーディングでサポートするということです。
どちらのタイプの方法がよいのかは、まさに自分の志向(嗜好でもあります)、好ましいほうの選択になります。また、目標が願望の種類によっても変わって来ることがあります。
それと、万人に確実で絶対の成功法則とか、具体的な願望実現法はないと思っておいたほうがよいです。
それはこの現実世界が、皆違う個性をもって生きている世界だからです。誰かがうまく行った方法が、必ずしもあなたによいわけでもはなく、その逆も当然あります。
ということで、自分でいろいろと試してみて、自分や状況に応じた方法を選択(あるいは複合したり、創造したり)することをお勧めします。
タロットカードの(示す)正しさ
タロットを扱う者や、タロットリーダーとしては、タロットが示すものの解釈の前に、その信頼性を自分にどう置くかということは重要だと考えます。
言ってみれば、タロットは正しいのか正しくないのかという問題にも関係してきます。
この問題を、さらに、「タロット自体が正しいのかどうか」というテーマと、もうひとつ、「タロットが示すことは正しいのかどうか」というものに分けて考えることもできると思います。
また、根本的なこと、そもそも論として、正しいというのはどういうことか?ということも無視できません。
実は、最初に考えなければならないのは、ここ(タロットの示す正しさというもの)ではないかとさえ思います。
しかしながら、タロットを使っている者でも、あまりこういうことは考えないのではと想像します。だからこそ、改めて「考えて」みるのです。
とりあえず、タロットが示すことは正しい、タロットは正しいのだという前提でないと、占いもリーディングもできません。
では、その正しさとはどういう意味で正しいのでしょうか?
実はこのような問いの時、反対の意味である「正しくないこと」「間違っていること」「悪いこと」というものを考えますと、その「正しさ」についてわかってくることがあります。
ですから、タロットリーダーの方、タロット占い師の方、今一度、自分は何をもって「正しい」としているのかを、逆の、正しくないこと、あるいは、よくないことも考えてみて、その線引きを想像するとよいです。
すると、多くの人は、常識的で一般的、いわば誰もが思う善悪とか、成功失敗とか、幸不幸の基準で見ていることに気が付くのではないかと思います。
とは言え、その一般的とか、多くの人が思う常識的なことというのは、集合的なものなので、どれかひとつとか、明確な基準・ルールがあるわけではありません。なんとなくのような漠然としたものです。
ということは、漠然とした基準でタロット(の示す)ものを判断しているということになります。
「いや、私は違います、ちゃんとした基準をもっています」という人もいるかもしれません。
例えば、みんなが思う一般的な幸せ・不幸というものではなく、その人個人(タロットを引く人)が思う幸せとか不幸を基準にしているというような方もあるでしょう。
いずれにしても、タロットが決めるのではなく、人(特にタロットを扱う者)が基準を決めていることには変わりありません。
タロットはただカードとしての図柄を示すのみです。その解釈は、結局、人(と状況)がしています。
もし「13」のようなカードが出て(本当はこういう解釈はやらないとしても)、死と関係すると見て、戦争中ならば、「どんどん相手兵士を殺せます、あなたが兵士であるなら出世します」と、幸運でよいことのように読める場合もあれば、平和な時には、「たくさんの人が伝染病で亡くなる危険があり、大変悪い事態を告げています」と、ネガティブで不幸な解釈をすることもあるかもしれません。
このように、価値観や幸不幸、善悪などの概念は、時代や人、状況によって変化しますので、確かに普遍的に近い良し悪しはあるかもしれませんが、やはり、正しさとか良さ(その反対悪いこと、間違い)の基準はあやふやなものと言わざるをえません。
こうなると、カードの示唆を読むというのは、あまり意味がないのではないか、ルールも何もあったものではないという感じになります。究極的には、人が決めているのなら、カードを引く必要もないとさえ思う人もいるかもしれません。
ここで逆転の発想をします。
カードの正しさとか、カードが示す基準を考えて行ってもキリがないと言いますか、かなり難題で、ひとつにはなかなか決められないものと考えられますから、そこは一度置いておきます。(そのことはあえて考えないようにする)
そのうえで、自分とカードを契約のような形で、両者の間にルールや基準を作ります。(契約を結ぶような感じ)
言ってみれば、善悪や幸不幸、何が正しくて何がよくないのか(問題なのか、問題でないのか)の基準を、カードリーダー、タロットを扱う者が決めるわけです。
その基準をもとに、カードを出してください(カード側からするとそのように出しますよ)という契約です。
ですから、タロットリーダー側の考えが重要になり、タロットリーダーの想定する良し悪し、問題か問題でないのかという基準がカードを動かすわけです。
ただ、この反対、逆方向みたいなこともあり、もともとカードに示されているある基準(それは教義や思想、目的と言っていいもの)を教えられる(学ぶ)ことで、自分の中にその基準を入れてルール化し、それを今度はタロットカード側に投影、あてはめて(引いたカードを)解釈するというパターンもあります。
しかし、これも「ある教義」のようなものをカードにあてはめ解釈したものなので、結局は、人の解釈ありきということにはなりますが。
私の場合は、マルセイユタロットに込められている(と言われる)ある思想、目的をもとにしたシステムを基準に、カードを解釈するようにしていますので、それが基準と言えば基準です。
その基準は、一般的な意味での善悪とか幸不幸、成功失敗概念とは異なるなところがあります。
ですから、今の時代の普遍的に言われている、あるいは伝統的に示されてきた、運不運、幸不幸、成功失敗の基準にした占い的解釈とは違う場合があるのです。
このこともあり、私は占い師ではないと申し上げています。
ともあれ、それでも、タロットを信頼しないことには、どの方法・考えを採り入れるにしろ、タロットリーディングや、タロットを使った技術は成立しません。
タロットをなぜ信頼するのか、信用できるのか?という問いまでつきつめられると、もはや信仰に近いものと言わざるを得なく(根拠がないわけではないですが、今の科学的なものとは言えませんので)なります。
ただし、タロットによって自他の人生を操られるのではなく(選択や決定を依存してしまうのではなく)、あくまでひとつの情報として扱ったり、様々な角度から物事を見たりするためのツールとして見るのがよいかと思います。
しかしながら、ツールという言い方にはとどまらない、深淵で神秘なところもあるのがタロットてす。
タロットは人が作ったものではあるものの、ことマルセイユタロットにおいては、特定の設計者の名に帰せられるわけではなく(版名はありますが、必ずしも、いち個人が大元のデザインを完成させたとは言えないところがあります)、ある叡智集団によるものと想定できます。
叡智と書いたように、その受けた啓示と製作過程においては、通常意識を超えたところにあったとも考えられます。
ですから、もしタロット自体に、何かの正しさや基準があるとするのなら、それは私たちの人間、常識レベルのものではない高次のルールや基準の可能性もあるかもしれません。
この記事では、自分(タロットリーダー)側が基準を決めると言いましたが、その基準が、いつしか向こう側(タロットが根本的に示す高いレベルの基準)に引っ張り上げられ、自分の中でのルールが変わることもあり得ます。
その時、今までやっていたカードの読み方、解釈に違和感を覚えたり、はっきりどう読めばよいのかわからなくなったりするでしょう。サクサク読めている時が、必ずしも、よいとはいい難い時もあるのです。
つまりそれは、自分の思っていた正しさなどへの、価値基準の揺らぎが起こっているとも言えるのです。
その経験を何度かしていくと、タロットカードは、私たちの中にある、忘れられていたり、普段、外から常識的に思いこまされていたりした基準やルールを、中立に戻し、回復させるためにあるのではないかと思えてきます。
これは言い換えれば、私たちは地上性のルールに基づく生き物、生き方をする傾向にありますが、一方で、天上性のルールによる生き方もあるのだということ、それが永遠や見えない部分とつながっていること、また自分一人の人生ではない分もあること(自分が存在する見えない部分とその理由)などに気づくプロセスにもなってくるのだと思います。
究極的には正しさなんてものはない(正しいのは、正しくないという概念が存在して初めて認識できるものですから)のですが、レベルの低い意味の「正しいこと・正しくないこと」に囚われているのもまずく、マルセイユタロットで言いますと、「正義」の象徴とは何かを考えることで、自分や世界を(高次の基準に)変えていくこともできるのだと思うところです。
