タロットの使い方
マルセイユタロット 主観・客観
タロットは、主観性のツールと言えます。
タロットカードという絵柄の象徴を見ている者が何かを想起させたり、判断したりするわけで、結局、そのカードを見ている人の思考や感情、モノの見方のパターンは必ず入ります。
言ってみれば、カード(タロット)を読む人の脳によるのです。
個人の脳は、構造は皆同じでも、一人一人データ・働き方は違うので、タロットを読むことは、その人個人の脳に基づくと考えられるわけですから、当然、主観となる仕組みです。
しかしながら、タロットはまったく逆の、客観性に導くところもあります。
それは、タロットが極めて優れた象徴システム(シンボリズム)を持っているからです。ただし、タロットのすべてが、よい象徴システムになっているとは言い難いです。
時に、客観性というテーマで見た場合、作者が特定され、その思い・主張が入り込み過ぎているもの、独特なものは主観性が強くなります。
その作者の頭の中ではバランスが取れていても、ほかの多くの人が見ても同じに理解できるかどうかはわかりません。
その点、マルセイユタロットはとても客観性があると言えます。
それは、マルセイユタロットはひとつの版の作者の名前は伝わってはいても、その元型としての絵柄の根本デザインは、誰がどのように作ったのかはわかっていないからです。
要するに、特定の作者の個人的な考え・思いでは作られていない可能性が高いということです。
しかも絵柄自体は、絵画としてのでデザイン性、芸術感は少なく、おしゃれでもありませんし、おどおどろしくもないです。言わば、インパクトには欠ける絵柄です。
このことは、実は客観性にはよいことで、強烈な印象がない代わりに、多くの人に違和感を持たせない普遍的なスタイルがあると言えるからです。
確かに絵柄自体は、中世から近世にかけてのヨーロッパの人物・雰囲気を描いていますが、現代の日本人から見ても、さほどおかしな印象は受けず、意味がわかってくると、スーと心にも入ってくると言いますか、受け入れやすい絵柄となっています。
もちろん個人差はあるので、絵柄に癖を感じる人もいて、嫌いだという方もおられるでしょうが、ほかのタロットに比べると、特徴はあまりないと感じることが多いと思います。
ということで、基本、主観性のものであるタロットですが、こと、マルセイユタロットを選択する場合、多くのタロットに比べて、すでに客観性の点では秀でているということが言えるかもしれません。
ここで、改めてになりますが、客観性を持つことは、何がいいのかということについて、タロット的に簡単に記します。
1.自己に対して、冷静さやバランスが保ちやすい
2.リーディングにおける相談者の立場が確保しやすい
3.大局的・本質的・統合的観点に導かれやすい
ほかにもたくさんありますが、重要なところではこんな感じでしょうか。
主観に入り込み過ぎると、いわゆる自分勝手、自分の思い込みの世界に囚われやすくなるのは誰でもわかるかと思います。
自己の問題は自分では気づきにくいところがありますし、文字通り、客観という他人視線があれば、自分の盲点にも簡単に指摘可能となります。
ビジネスや商売の世界でも、お客様視点は基本であり、売る側が「これは売れるはず」と確信していても、さっぱりだったということもあれば、逆に「えー、こんなのが売れるの?」と、思ってもみなかったヒットもあります。それは買う側でないとわからないこともあるからです。
私は今でも経験しますが、クライアントさんから問いをお聞きした時、「これはこういうことかな?」と原因や解決策を予想していても、タロットを実際展開してみると、自分の思いとは違っていたということがあります。
マルセイユタロットと、タロットそのものが表す、人の共通・普遍パターンがあるので、タロットを出すことによって、タロットリーダーといえども、その思い込みはありますが、そこから脱する働きがあるわけです。
客観性があると、まさに自分本位から逃れ、相手側との調整、バランスが働き、調和へも近づきやすくなります。
そして、他者に対してタロットリーディングする場合、クライアントは自分ではないので、すでにそれ(他者リーディング)自体が客観性を持つのですが(だからこそ、人の相談ができるとも言えます)、それでも、タロットは基本、主観であるとお話したように、どうしても、タロットリーダーの主観性の影響も受けます。
そこに、タロットが間に入ってくると、タロットによって、タロットリーダー側の最初の思い込みとか、途中での感情的な揺れ動きなども修正され、客観的視点が出てきます。
さらに、客観性は主観性と対立することがありますが、たからこそ、主観と客観の相克の中で、それらを超えた超客観性とでもいうべき視点や立ち位置が出てくる可能性があります。
これは「次元上昇」と言い換えてもよい状態です。
他人も含めて、従来の世界観・常識が超越し、新しい次元の世界に、これまでの主観と客観が統合され、導かれるのです。
物語風にいえば(笑)、同じ人間レベルで、たとえ他人を交えて話をしていても、結局、同じレベルでの方法しか思いつかないけれども、天使や神、はたまた地球文明を超えた宇宙人レベルのような存在だと、超越したレベルの発想が出ますよ、という話です。
マルセイユタロットは、すでにあるだけで、客観性が確保できるところがありますから、持っていて損はないかと思います。
ただし、その客観性の精度を上げていくためには、象徴・シンボルの知識を学ぶ必要があります。
学びや学習もまた、客観性を助けるものとなります。
感情・感覚的なものは主観から来ていることが多々ありますから、その感覚を客観性に置き換えていくためにも(これは「斎王」と「法皇」のカップル性でもあります)、学習・研鑽・知識が重要となります。
しかし、客観性に傾き過ぎると、機械的、パターン的な思考のループにはまりますので、やはり主観的な感性も必要です。
みんながいいと言っていても、あなたが嫌なら、それは実はあなた自身にとっては何か大きな意味や問題があるのです。ほかの人にはわからない、あなただからわかる、感じている何かがあるわけですから。
でも、時には、人の意見や視点のような客観性が、自分を救うこともあるわけです。
宇宙はいわば、神のような完全性のバランスにあると考えられますが、そのバランスが、いろいろなレベルにおいても働いており、高次元であればあるほど、そのバランス・公平性はわかりづらく、低次であるほど、わかりやすいと言えます。
しかし低次のバランスは、高次のバランスから見れば、局所的・一時的には整ってはいても、実はアンバランスであることがほとんどではないかと考えられます。
つまりは、低次になるほど、高次的な意味てのバランス・調和性は無視され、悪い意味の主観中心、自分だけがよいという意識に囚われていくのだと想像されます。それは言い換えれば、非常に狭い範囲でのバランスを保とうとする働きです。
狭過ぎるがゆえに、主観・自我ばかりの世界での考え・感覚に陥るということです。短期的見方と言ってもよく、それは面白いもので、短気的(笑)でもあります。
とりあえずは、狭い世界においても、客観という意識を持てば、ひとつ分、世界が広がることになります。
だからこそ、私たちは「客観」という「視点」が求められるのです。
それでも主観を殺していいわけではありません。あくまで主観の修正、狭い主観性のモノの見方から解放を促すための客観であるべきで、客観があなたの主観に取って代わるわけではないのです。(つまり、他人の言いなりにならない)
とにかく、マルセイユタロットは、まず、「タロット」という主観性の道具でありながら客観性を促すという意味で、主観と客観のバランス・統合を見るには、とてもよいツールだと言えます。
再掲 タロットへの質問
何度か扱っているテーマですが、また「タロットへの質問」について書こうと思い立ちました。
ところが、自分のアメブロサイトに、二年前の同時期に書いた「タロットへの質問」に関する記事があがっていまして(笑)、偶然のような必然かと思い、再掲載しておくことにします。
この記事自体は、「占いからの脱却を観点にした“タロットへの質問”」についてですが、占いのことは抜きにしても、タロットへの質問そのものが、タロット活用(の種類)を変えていくことが述べてありますので、タロットリーディングする者にとっては、結構、重要な記事かと思います。
特に後半は、自分に対してタロット使う(自己リーディング)する場合の方法を、質問のやり方のほうからふれていますので、自己リーディングは難しいという人には、是非読んでいただきたいと思います。
ここで、また少し補足しておきます。
タロットへの質問は、タロットリーディングには必須なものと考えられていますが、実はそうでもありません。
特に、自分を洞察したり、客観視したりする自己リーディングにおいては、質問があるほうが読みにくい場合もあるほどです。
ですから、質問はあえてせず、タロットを展開してから(引いてから)質問を見つけるという、逆の方法もあるのだということをお伝えしておきます。
カードが出たあとで、それを見ながら、「自分は何を質問したかったのだろう?」と推測するわけです。
結局、絵柄から想起されることは、図像という「象徴」を通して、あなたの意識(顕在・潜在含む)にあったものを言語化、表面化させたものと言えます。(そうとも限らないことも、本当はあるのですが、ここではそれはひとまず置いておきます)
ならば、質問はなくても、それはあなたの関心や注目として浮上してきたものなので、いわば「答え」みたいなものと見ることができ、そこから逆算すれば、質問もわかってくることになります。
質問とは知りたいことでもありますから、まやかしではなく、本当の意味で、自分が求めていたものとなり、「ああ、私はこの質問がしたかったのだ」と気づくことにもなります。
この場合、変な話になりますが、真の質問の発見ために、タロットリーディングしていることになります。
タロットリーディングは、ある意味。答えを探すものというより、質問を見つけるための方法になることがあるのです。
タロット事始めに際して。
ちょっと公私ともにバタバタとしており、ブログに間が空いてしまいました。
体調不良ではありませんので、ご心配なくです。
あと、6月末に一度ブログを休止して7月に再開した際にも書きましたが、これまでは記事掲載ペースを二日に一度にしていましたが、今後は少しランダムになることと、内容的にもガッツリ記事(笑)ばかりでなく、ライトな比較的短い記事も掲載しようかと考えています。
連続して書くこともあるかもしれませんし、一週間くらい空くこともあるかもしれません。ですが、二日か三日に一度のペースくらいに、基本はしたいと思っております。ということで、あらかじめご了解ください。
さて今日は、タロットを始めたいという方、あるいはすでに学習している人にも参考になる話をしたいと思います。
まず、何はともあれ、タロットを選ぶことがタロット事始めみたいなものと言えます。
自分がどのタロットを選択するのか、どのタロットを使いたい、学びたいのか、これを決めるのはすんなり行く人もいますし、かなり迷う人もいます。
ですが、私は思いますが、人とタロットには縁と相性のようなものがあり、結局、最終的には、自分にふさわしい、自分に合っているタロットに出会うことになると思います。(タロットに関心があり、学びたいと真剣に思えば)
たとえ最初に選択を間違ったとしても、途中で違和感が生じ、あまりそのタロットに興味が行かなくなり、別のタロットとか教室とかで学び直す可能性も高く、最後にはしっくりしたタロットと巡り合う(あるいは自分が納得するタロットの使い方に出会う)ことになるでしょう。
中にはカード好き、タロット全般好きというタイプの人もおりますので、複数のタロットを持つこと、扱うことが合っているという人もいて、いくつかのタロットを学習して、使いこなす場合もあります。
私のところに来る方でも、別のタロットをやっていたけれど、マルセイユタロットを学ぶことになったという人、その反対に、マルセイユタロットを学んだけれど、ほかのタロットや教室に学ぶ縁ができ、結局そちらが自分のタロット活動の中心になったという人もいますし、ほかのタロットを使っているけれど、マルセイユタロットも使いたいので習いに来たという人もいらっしゃいました。
まあしかしながら、全体的には、マルセイユタロットに縁がある人が集まってくるように思いますし、私の生徒さんは、マルセイユタロットオンリーという人のほうが多数派です。こういう点からしても、人とタロットの縁とか相性というのは感じるところです。
あと、同じタロット種であっても、
●厳密にどのタロットを使うのか
●何を目的をしてタロットを学び、使うのか
●実際にタロットを活用するフィールド、シーンは何か
●タロットリーディング・タロット占いの場合、どのスプレッド(展開法)をメインとするのか
などによって、かなり変わってきます。
同じタロットであっても、実は版とか、大きさなどに違いがあり、例えばマルセイユタロットであっても、「〇〇版」というように、作られた年代、工場(出版元含む)、作者などによって絵柄は異なっています。
一見、同じ絵柄に見えても、微妙なところで結構違っており、そのため、一枚全体の大まかな解釈では同じところはあっても、細かいところでは差が出るため(採用する読み方によっては、小さなことでも、解釈の決定的な違いになる場合もあります)、実はタロットの読み方、見方、とらえ方、示唆の受け方なども変わってくることがあるのです。
さらに深く言えば、霊的にも違いが出る可能性さえあります。
これに、自分がメインとして使う展開法(スプレッド)も、教わる教室や先生、本によって異なってくることがありますから、自分の採用するそれによって、また大きく差が出ます。
カードだけでも違いがあるのに、展開法も異なるとすれば、やはり、同じ種類のカードを使ってはいても、人それぞれで、表現・個性はまるで違うことになる場合もありうるのです。
そして、自分はタロットを占いで使いたいという人と(そもそもタロットは占い道具でしかないと信じているような人もいます)、自己実現やセラピー、その他違う目的に使いたいという人とでは、学習内容や活動場所、シーンも違ってくるのは当然です。
気をつけないと、自分がタロットを使ってやりたいことと、教わる内容がかなり乖離していて、たくさんお金を払ったのに、目的とは違うものを学ぶことになったという不満が残ることもあります。
よって、独学ではなく、先生や学校のようなところからタロットを学ぶ場合、その先生や学校が何を目的として(教えて)いるのかを見極めたうえで、学ぶ選択をしたほうがよいです。
よくわからない場合は、その先生自身、または学校の出身者の活動内容、活動している場所を見るとよいです。
占い師として活躍している(人が多い)のならば、それは占いの学校、占いの先生と判断するのが普通ですし、セラピストとして活動されているのなら、セラピー的な内容を教えることが多くなるでしょう。
有名だからとか、すごい活動しているとか、よくネットや広告で目にするとか、そういうもので選んでしまうこともあるかもしれませんが、やはりタロットと同様、先生や学校も相性がありますから、ばっと見だけのことで選ぶと、あとで後悔することになります。
有名な先生は当然多忙ですから、一人一人について面倒が細かく見られないこともありますし(講義はたいてい、多人数同時となるでしょう)、先生自身、最初から特別に能力を持っていて、普通の人の感覚がわからない、ズレているということもあります。
しかし、有名になる人は力とカリスマ性もあり、一方、陰では大変な努力をされている人も多いですので、その感化を受けて、自分も飛躍的に変わることができる場合もあります。
一方、そんなに名は知られていなくても、まるでカードの「隠者」のような人や、教え上手の人、親身にマンツーマンで教えてくれる人など、よい先生もいらっしゃいますので、これもまた縁かもしれません。
無名ながらもよい先生は、広告とか宣伝をあえてしないとか、それ自体が苦手という傾向の人がありますから、見つけること自体がすでに修行、縁を見つける旅になることもあります。(笑)
ですが、きっと、あなたが志を持てば、その志に応えてくれ、まさに「志」を持った先生、教育機関に出会える可能性は高いです。マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードの天使の矢が当たるようなものです。
この天使は「志」以外に、まるで逆のようなことともいえる、ふとした瞬間や、関心をちょっともった程度のことでも現れることがあります。
いつもは見ない情報をなんとなく見てしまった、ついついネットサーフィンしていて見つけてしまった、友達に誘われて参加してみた、久しぶりにあるサイトを見た・・・こんなようなことで、タロットとの出会いが生じることがあります。
タロットを習いたいと最初から「タロット」に関心があって出会う場合と、タロットはほとんど知らず、無関心ではあったものの、自分が悩んでいること、知りたいこと、興味のあることに対して(答えとか手がかりを)探していたら、偶然タロットに出会ったというパターンがあります。
私自身も実は後者なのです。
ですから、やはり、タロットに出会う人には、出会う「運命の輪」があり、それが回る時、「恋人」の天使から放れたれた矢が当たるようなことがあるのだと思います。
今、この記事をたまたま目にした人は、もう、そういうことになっているのかもしれませんね。(笑)
あと、最後に、いくら縁が生じても、自分が決断し、動かないと、現実世界では何も始まりませんから、最終的に選び、活動するのは自分自身であることは覚えておかれるとよいと思います。
タロットに限らず、結果がどうあれ、自分が興味や関心を抱いたものを、やるかやらないかは、結構、この現実世界の中では、大きな意味を持つように思います。
小アルカナのアイテム
タロットには小アルカナというパートがあります。
そもそもタロットは「アルカナ」と呼ばれる秘密のカードで構成されているカード群ということになりますが、そのアルカナに、大と小の区分、パートがあるわけです。
枚数的には小のほうが多く、特にマルセイユタロットの場合は、小アルカナの中でも数カードの絵柄が独特(記号的)で、そのため、小アルカナのパートは謎がまだまたあると言ってもよいかもしれません。
とは言え、小アルカナは4つの組に分かれているところは、マルセイユタロットとほかのカードにおいても、たいてい共通していますから、この4組を理解することが、小アルカナ解読の鍵にもなると考えられます。
さて、その4組にもいろいろな解釈ができるので面白いのですが、今日は、ゲームアイテムのごとく、この4つを見てみようかと思います。
ところで、私たちは、言わば「人生」という大変困難で、しかしなかなか面白いゲーム(苦笑)に参入していますが、ここで私たちは数々のアイテムを入手しながら、ゲームを進めています。(私たちは人生ゲームのプレイヤーと言えます)
このゲームは、何か敵を倒すとか、宝物を手に入れるとか、何かを育成するとか、プレイヤー全員に共通するようなテーマはなく、そういう性質のゲームでもないようですよね。
もちろん、個々のプレイヤーにおいては、今述べたような目的をもってやっている(人生を過ごしている)人もいますが、「人生ゲーム」そのものを見た時、「このゲームの真の目的はこれです」ということを、なかなか言い当てることができないのではないでしょうか。
それがわかれば、悟ったも同然かもしれません。
ただ、逆に、いろいろな目的や遊びが可能なゲームだと見れば、目的自体がそれであることも言えるかもしれません。言ってみれば、なんでもできる(わけではないかもしれませんが、かなりのことはできますよね)体験型ゲームというわけです。
しかし、ゲームにはルールがあり、フィールドも限定されています。そうした中で、この世界の中で、私たちは精神的なことや物質的なことを、様々な体験や方法で手に入れて行きます。
もし、それらを象徴的に「アイテム」種として分類すれば、意外に、小アルカナの4組になるのではないかと思うのです。(やっと小アルカナの話に戻ってきました)
タロットの4組は、マルセイユタロットののもので日本語訳的に言えば、「剣」「杯」「杖」「玉」となります。英語的には、ソード・カップ・ワンド・コインです。
そのままモノとしての道具であれば、切るためのもの、ためる(あるいは流す)ためのもの、補助・前進させるもの、使われ、交換させるためのもの(それぞれ、ほかの言い方もできますが)と言えるかもしれません。
面白いことに、剣と杖は、縦長の道具で、攻撃と防御、運動などに使用でき、動的な感じがします。一方、杯と玉は、器や固まりで、玉、つまりお金も鋳造されるものとすると、それを生み出すものからして、入れ物的で静的な印象が強くなります。また地に置くものとして、縦より横幅が重要かもしれません。
これらはわざと対比的な関係にある(されている)と思えます。
もう一度、純粋に、4組をモノとして見て、人生における必要道具だと思ってみましょう。
そすると、あなたには今、剣が必要でしょうか? それとも杯? 杖(棒)? 玉(コイン、古い時代なら石のような交換道具)? どれですか?
さきほども言ったように、道具の使用目的から考えると、切るもの、受け入れるもの、支えるもの、交換・購入するものというような感じでしょうか。
道具そのものとしてみれば、そんな機能が浮かびますが、タロットは象徴ですから、ここから、さらに比喩的に拡大変換させていくことも必要です。
その簡単な方法は、道具・機能を、精神的なものや人間的なものとして表現することです。
例えば、剣は切るものでしたら、人間関係を切るとか、モノや人を処分する、断つ、戦うとかになるかもしれません。杯ならば、受け入れたり、ためたり、注いだりですから、感情の潤いとか受容とか、喜び、満足感など精神的なことを中心に出てくるかもしれません。
とにかく、四つのアイテムがそろうことで、あなたの人生は充実したり、うまく事が運べたり、ゲームそのものが楽しくなるよう、設定されているのだと思うとよいです。
そして、それは道具としてのアイテムの意味もあるのですが、まさにゲームアイテムと同じように、魔法的とも言える効果を出す(魔法道具にする)ことができるのです。
魔法的効果というのは大げさな表現かもしれませんが、タロット的に言えば、象徴として扱えば、それは単なる道具的機能にとどまらず、この世界のあらゆるシーンと場所で、四つのアイテムによって、ほかのものを、同じ四つのアイテムのどれかに変化させることができるという話なのです。
これが魔法のからくりです。
ですから、ただアイテムを道具として手に入れるだけでは魔法は発動しないのです。
アイテムをアイテムたらしめている原理を理解することです。
そうすれば、この世界はアイテムに満ちていることに気づいてきますし、それをうまく使って、自分なりの目的を作り、それを達成したり、プロセスを楽しんだりする、この不思議な人生というゲームを味わうことが、よりできてくるでしょう。
実は私たちは、もともと生まれた時からと言いますか、自分自身が四つの性質からできているのです。
つまりは、すでにアイテムはゲットしていることになります。ただ、それを知らず、また魔法の発動法もわからない(隠されている)と言ったところでしょう。
タロットをやっていると、そのありかや秘密にたどり着くことができそうです。少なくとも、四つのアイテムやその世界を知るには、タロットは手っ取り早いです。
四つはエレメントとしての、風・水・火・地と言ってしまえばそれまですが、それでは抽象化し過ぎていて、アイテムとして実態感覚が出ません。
だからこそ、タロットの4組なのであり、それは道具・モノの形をしているのです。
あなたには四つの聖なる道具があり、さらには四つの領域の天使や使い魔がいるようなものです。
ゲームアイテムとの相性のように、人それぞれ、得意分野やアイテムの使いやすさ、使いにくさが個人差としてはあるでしょう。それを知るのもまた人生ゲームのだいご味のひとつです。
そしてゲームでパーティーを組めば効果的なように、それぞれの個性が補い合い、ある目的を早く効率的に達成することも可能となるでしょう。しかし、パーティーによっては、非効率になったり、ライフポイントが減ったりして、大変な目に遭うこともあるかもしれません。
あなたも、タロットを手にして、今いるゲームの世界を、もっと視覚化してみませんか?
もしかすると、行き詰まった問題に打開策が出るかもしれませんし、ゲームイベントのクリアーに寄与することもあるかもしれませんよ。
一枚引き 「タロットの宇宙」の本から
カルト映画の巨匠で、演劇家、創作家、詩人、サイコセラピストなど、多彩な方面と才能を見せるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、タロット研究家・タロロジストでも知られており、日本ではカモワンタロットと呼ばれるマルセイユタロットを、カードメーカー子孫のフィリップ・カモワン氏とともに製作されています。
ゆえに、カモワンタロットは、むしろ、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(もっと言うと「ホドロフスキータロット)と言ったほうが世界的には通用するかもしれません。
さて、そのホドロフスキー氏の著作である「タロットの宇宙」という本があります。
個人的には、かなり前、タロット大学時代の上級コース時に、フランスでの氏のワークショップに遭遇する機会があって、その時に売っていたフランス語版のものを入手していたのですが、なにせフランス語ですから、私には訳せず(苦笑)、宝の持ち腐れとなっていました。
その後、英語に訳され、その英語版も手に入れましたが、英語もできるとは言い難い私には、これまた完全に理解することは難しいものでした。まあ、英語のできる方と協力したり、ちょっとずつ自分で訳したりはしていましたが。
そうこうするうちに、なんと、日本語で本が出ることになり、大変驚くと同時に、うれしく思いました。
この本は大部なものですし、タロット本と言っても専門的であり、日本ではマイナーなマルセイユタロットを扱っているわけなので、およそ日本語版が出るなど思っていなかったのですが、やはり、映画監督としてのホドロフスキー氏の知名度がモノを言ったのでしょう。
この「タロットの宇宙」は、さすがとしか言いようのない内容なのですが、やはり、まったくの初心者が読むには難しいと言いますか、誤解してしまうところもあるような気がします。
いや、タロットのすばらしさを知る意味では、タロットを知らない初心者が読むには、タロットの印象をよい意味で決定づけるうえでもお勧めできるのですが、ちょっとだけマルセイユタロット、それも、カモワンメソッドを中心に学習した人には、内容的には違和感を持つ人も少なくないと思います。
これは私の生徒さんにも言っているのですが、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロット観には違いがあり、究極的には同じものを目指すとしても、方法論、システム論、直感性においても異なっているので、カモワン氏側のものをメインに学んだ方からすると、タロットの解釈などにも違いを感じ、自分の中でどう統合すればよいのかわからなくなるおそれがあるのです。
ですから、きちんとマルセイユタロット全体としての、ある程度のベースや俯瞰性ができたうえで「タロットの宇宙」に取り組まないと、混乱をきたしてしまうこともあるので、注意が必要です。
例えば、数秘術などでもそうですが、ある数字の意味が教える人によって異なる場合があります。
しかし、「1」は1の本質、「2」は2の本質があるように、根本では同じだと言えます。それが人によって、教え伝える人の個性によって、言葉としての意味が変わってくることがある(表現の違いがある)わけです。
ですから、どの数においても、本質はこうなのだなと理解してくると、人によってその意味や言葉が違うのもわかるようになりますし、それぞれが間違いでもなく、また正解はひとつでもなく、関連していることに気づき、たくさんの解釈にふれるほど、より本質にも近づけるようになるのです。
これがまだ浅い段階で、本質もわからず、ただそれぞれの言葉・表現だけにとらわれていれば、その言葉に惑わされ、あの人はああいう意味を言っているのに、別の人はまるで違う意味を言っている・・・これはどういうことなのだろう?わからない・・・と混乱するわけです。
ホドロフスキー氏は情熱家であり、彼なりの家族的背景が、ここ数年の新しい映画でも語られているように、色濃くあります。その表現か投影され、一枚一枚の大アルカナの解釈などにも影響しています。それをそのまま一般解釈としてしまうと、あてはまらないと感じることもあるでしょう。
「タロットの宇宙」を理解していくには、単にタロットの知識や経験だけではなく、ホドロフスキー氏の人となり、表現を知り、特に氏の映画鑑賞は欠かせないと思います。同時に、もう一人の製作者、フィリップ・カモワン氏のメソッドやタロット観にもふれることで、より、ホドロフスキー氏のタロット観というのも浮かび上がってくるでしょう。
さて、この「タロット宇宙」、理論だけではなく、いろいろな技法・技術も書かれています。そのどれもがとても興味深く、効果的だと思えるのですが、かなり実際には難しいものでもあります。
しかし、タロット(リーディング)を訓練したり、自分自身を知ったりするという意味では、やってみると面白いものも多いです。
ひとつご紹介すると、「1枚のアルカナを用いた練習」というのがあり、大アルカナ一枚引きをして、出たカードに対して、具体的レベルで見るのと、心理的レベルで見るのと、霊的レベルで見るという、三つの見方で読む方法が書かれていますし、例えば「私の心にあるのは何か?」と質問して、一枚引きし、その出たカードをそれとして読むなどの方法も書かれています。(詳しくは国書刊行会「タロットの宇宙」をご覧ください)
たった一枚でも、自己省察に大いに使えるということが語られています。
これを公開制でブログなどでやるのもいいかもしれません。
よく、毎日、一枚引きなどして、そのメッセージや占いを書ている人がいますが、これを他人に対してではなく、主として、自分に対してやってみるのです。
毎日、一枚引きをして、そこから受け取る情報、直感的なもの、普遍的な意味のものなど、何か出てきたもの、思いついたこと、リーディングしたことなどを書きます。そして、それは読んでもらう人のためというより、自分に出たメッセージ、自己への提示、自分の心や無意識を探るものとして見るのです。
けれども、ここが重要ですが、自分に対してメッセージを出すみたいに意識しすぎると、逆にカードが読めなくなります。自意識過剰での固まりというやつです。(笑)
ですから、他人や一般、ブログを読む人に書くという意識でやり、しかし結果的には自分へのメッセージとして読むということをします。
すると客観的なものとして、自分に対して出すことがやりやすくなるのです。
これも逆に、人に読んでもらおうとか、集客しようとか、そういう意識てやってしまうと、他人への意識過剰になって、タロットをうまく読むことができなくなるおそれがあります。ましてや、自分に対してのメッセージ性もぶれてきます。
従って、宣伝としてやるのではなく、また自分に意識を向け過ぎてやるのでもなく、他人向けを装いつつ、自分に書くというスタンスでやってみるとよいでしょう。
大事なのは、毎日やるということです。それくらいの決め事、縛りがないと、自分に甘えが出てしまい、単なるお遊びになり、これをやる意味がなくなってきます。
誰かが見ていてくれると仮定し、とにかく大変でも毎日、一定期間やり続けるのです。もともとは自分のためのものですから、アクセス数などにやきもきする必要もないです。ですが、公開制にすることで、自分への甘えや遊び感覚を排し、それなりの修練だと思って取り組むことができます。
三か月間はやる、半年はやる、一年はやるぞと決めたのなら、その期間やり続けてください。きっと効果は出ます。
もし、今やっているブログではできないのであれば、別のブログを作ってやってもよいでしょう。
やはり、継続は力なりです。
それから余談でずか、毎日タロットを引いて占っている人も、それは何の目的でやっているのか、自分なりに明確にしておくとよいです。
もし他人に自分の書いたものを見てもらい、自分(のリーディングや占い)に関心を持ってもらうことを目的とするのなら、漠然とただ書き流していてもあまり効果はないかもしれません。
考えてもみてください。有名でもない人の占いを毎日見るのは、何の意味があるのか、見る人がいるのか、ということです。知り合いとかは別として。
仮にあなたが他人の毎日の占いとかリーディングの内容を見に行っているのなら、なぜそうしているのかを分析する必要があります。それをしているのは、その人のを見たいという理由があるからであり、それは何であり、なぜなのかという点が大事です。
結局、「毎日占い」の記述も、それをやることに、自分なりの理由、きちんとした意図をもっているのなら、それはそれでOKだと思います。無名の人でも、やり方次第では、ほかの人が見たくなる書き方・方法があるはずですから。
例えば、毎日読んでくれた人だけにわかる暗号を入れるとか、それを発見した人には無料占い・リーディングをプレゼントするとか、そういうことも考えられますし、漠然とした抽象的な占いをするのではなく、恋愛の、しかも「片思いに悩んでいる人」用の占いを続けてみるとか、個性を出す方法はたくさんあると思います。
人は自分のことに関心があるのです。
「〇〇さん、そうそう、あなたです、あなたには、これから「戦車」のような男性が近くにいるか、近づいて来ていますよ」と言われるほうが、「皆さん、今日は、戦車的に行きましょう」と言われるよりも、自分のことのように感じるはずです。
一般的・抽象的な言い方は、それだけ自分のことではないとして、スルーされることも多いのです。
少し違う話になりましたが、一枚引きブログ、やってみたい人は、ぜひ、チャレンジしてみてください。