タロットの使い方
チャネラータイプとタロット
私たちは「斎王」と呼びますが、一般的には大アルカナナンバー2の「女教皇」と呼称されているカードが今日のテーマと関係します。
今回、なぜこのカードを取り上げたのかと言いますと、タロットとチャネリングの関係を少しお話したいと思ったからです。
チャネリングが何であるのか、これにも定義や解釈が色々とあるようですから、細かく言い出すときりがないので、ここでは簡単に高次の存在や(心)霊的なもの、目に見えないものからの情報をキャッチできる能力としておきましょう。
名前の通り、見えない何かの情報とチャンネルを合わせることのできる能力、あるいはそうする行為というわけです。
現実でも、テレビや携帯などで、チャンネル・周波数、情報階層を合わせないと見ることも聞くこともできず、通信が成り立たないですよね。でもチャンネルを合わすと通じるわけです。それと同じようなことです。
そして、マルセイユタロット的には、チャネリングを行う(行える)人の象徴を、この「斎王」で表すわけです。もちろん、チャネリングの象徴は、他のカードでも示すことが可能で、「斎王」だけというわけではありません。
ただ、マルセイユタロットには、システマチックに考えられる要素があり、それによれば、この「斎王」がまさに現実の世界で、人間として(通常や常識範囲の人間)のレベルでは見えない、わからない情報を受容することのできる存在に、全体のカード構成からも言えるものなのです。
このカードは、大アルカナが22枚もある中で、数的には二番目に位置するということは、非常に大きな意味があるのではないかと推測されます。
端的に言えば、おそらく古代では、私たちが意識する日常生活とは別の次元(レベル・世界観)と、普通にチャネリングのようなことができる人たちが多くいたのではないかということです。
もっと言うと、それは難しいことではなかったと想像できるのです。(タロットのナンバーが少なめ、最初のほうに出ていることは、そういう意味も言えるかもしれないということです)
しかしながら、やはり誰にでもできるわけではなく、「斎王」が女性で描かれているように、まず性別として女性である必要があったと思われます。
タロットを見ていると、人間としての平等観、統一感(ひとつなる存在感)は強調されつつも、むしろ性では、その差や役割、別の特質が、よりはっきり区別されているように感じられます。
タロット的に言えば、画一的に男女を等しく扱うことは、逆に差別的になるような気がします。
やはり、女性には女性性としての、そして男性には男性性の、性による違いと役割があり、それらが森羅万象の二元表現とリンクし、最終的には、ふたつが統合されるところに真の平和と神なる次元の具現があるのだと、タロットからは考察されます。
いわば、分離があるからこそ統合に向かい、その統合感の喜びもまた、分離していた分、大なるものがあるのだと想定できます。
それはともかく、今日の主題は、実際にチャネリング的な能力がある人が、タロットを使う場合の話です。
私のタロット講座にも、いわゆるチャネラータイプの女性が学びに来られることがあります。そういう人は、タロットに呼ばれたとか、自分のチャネリングによって、このタロットとの縁を知ったとか、マルセイユタロットを学べと言われたとか、いわゆる狭義のスピリチュアル的な理由で来られることが多い気がします。
けれども、私自身は男性であり、教え方や教える内容も、タロットという、一般的には直感的なツールと思われているものでも、論理的なほうになります。
だから、もしかすると、チャネラータイプの人には合わないのかもしれませんが、幸い、私の講座は少人数制やマンツーマンが多いので、その人の個性に応じた配慮もすることができます。
ですから、チャネラータイプの人には、特にタロットリーディングにつきましては、普遍的な基礎技術はお伝えしますが、結局は、チャネラーとしてのタロット使いの推進をサポートする方向になって行きます。
ちょっと前に、カウンセリングとタロットリーディングの違いを書きましたが、チャネリングとタロットリーディングも、ふたつは似ているところはありますが、やはり違うものなのです。
まず、チャネラーの人が、チャネリングをメインとしながら、タロットを補助道具として使用するケースがあります。
逆に、タロットリーダーの中(タロットの情報を中心にリーディングする場合)に、チャネラー的素養があり、タロットを読みつつも、別のところから情報を得ている人もいます。ただ、これを自覚している人といない人がいます。
チャネラーを主とする人は、本来、タロットがなくても現実を超えた、あるいは現実の次元とは異なる情報を自らのチャネリング能力によって得ることができるはずですが、タロットを学習して使うことで、利点もあるのです。
それは、まず、何も道具がなく、直接自分の能力で、ある情報次元につながることは、結構なエネルギーを使うことでもあり、慣れないチャネラーや、エネルギーコントロールの未熟なチャネラーでは、かなり疲れてしまうことがあるわけです。
そこにタロットというツールを間に入れることで、緩衝材のようになり、チャネリングの情報(エネルギー)を、カードに一度グラウンディングするかのように落とし込んで、相手に伝えると、自分の負担が減るのです。
相手(クライアント)もカードを見るので、カード自体の象徴性と情報もありますから、チャネラー本人がすべて読む、情報を降ろすということをしなくても、クライアント自身で気づいてもらう、情報を得てもらうことも起こります。
また、もう少しチャネラーが慣れてくると、タロットの象徴システムを利用して、自分のコンタクトしている次元にリンクさせて、タロットカードをコンタクトゲートやプロトコル、パネルのようにしてしまうことも可能です。
こうした場合、タロットの意味というより、タロットを通して降りてくる情報を、相手に伝えるというような形になります。こうすると、情報ダウンロードの時点で、雑音や混信も少なくなるのではないかと予想されます。
タロットを通信道具の逆方向(地上から天上・別次元への方向)として使うこともでき、それは、タロットを通して、バランスの崩れた現実次元の情報を高次元に送ることでクリアにしたり、調整したり、昇華したりしていくように持っていくことができるでしょう。
これはタロットをヒーリング装置に使うことでも、同じようなことが言えます。
結局、チャネラータイプの人は、タロットは自分のチャネリングの時の消費エネルギーを減らしたり、安全にチャネリングを行ったりする補助・整理ツールとして使え、さらには、チャネリング能力を磨くための途中の過程として、タロットを能力の磨き砂ように使えます。
ですから、最終的には、タロットはいらなくなると思います。
これとは別に、タロットリーダーではあるものの、チャネリング能力も開花させていく人は、タロットの象徴と、自分がコンタクトする次元の情報とを合わせて、クライアントに伝えていくということになり、個性ある独特なタロットリーダーになっていく可能性があります。(またチャネリング能力の向上が飛躍的に進んで、タロットから離れて、純粋なチャネラーになる方も人によってはあるでしょう)
広義の意味では、誰もがチャネラーと言えますが、やはり職業的・プロ的なものを求められるとなると、それなりの修行や能力の向上、様々なもののコントロール技術も必要となるでしょう。
そのためのプロセス、安全段階として、タロットを使うこともある得るのです。
それと、チャネリングとはまた違う話になりますが、「斎王」は女性にとっての聖性や巫女性を象徴し、この部分を回復させることは、女性性においても、またパートナーとの関係においても重要となりますから、普段日常にまみれ(現実に振り回されて)ギスギスしてしまっている人は、「斎王」というカードを大切にしてみるとよいでしょう。
多様なるモードの自分
マルセイユタロットを心理的に見る場合、カード自体が私たちの心や姿を象徴していると読むことがあります。
カードに自己を投影すると言ってしまえば簡単ですが、ちょっとニュアンス的には投影とも違います。
まあ、しかし、そこは難しく考えず、あえてシンプルに、カードが自分の気持ちなどを表していると見ることもある、とします。
一般的には大アルカナ22枚が、マルセイユタロットの場合、絵もついていてわかりやすいので、大アルカナを心理的に見るほうがスムースですが、小アルカナも、宮廷カード(コートカード)が人物絵になっていますし、数カード(数札)は記号的ではあっても、特に数の意味を見ていくと、これも何らかの形で自分を表していると取ることができます。
マルセイユタロットは極めて優れた象徴システムを持ち、大アルカナは心を動かし、小アルカナは現実や具体に焦点を合わせ、つまりは現実を動かすことができるような設定になっています。ただし、両者を組み合わせることが重要です。
この意味(だけではありませんが)で、やはりタロットは78枚なくてはならないというのが私の持論です。
さて、そのような、いわば、「自分」を多面的に象徴する(ことのできる)「タロット」なわけですが、ここで一度タロットから離れて、「自分」というものを考えてみましょう。
では、これから、素朴な質問で、なおかつ、深淵ともいえる質問をいたします。
「自分」とは何ですか? あるいは、「自分」とは誰ですか? どの時・どの姿が「自分」なのですか?
自分って、「このわたし」でしょ? と言う人がいるかもしれませんが、では、その「このわたし」とは誰で、何なのでしょうか?
結局、これらの答えはなかなか出ないと思います。
よく本当の自分とか、ありのままの自分とか言いますが、それもたくさんの自分の姿や思いの中のひとつに過ぎないのかもしれません。
だいたいは、自分の気持ちに正直になっている自分とか、嘘をついていない自分、一番ストレスフリーのリラックスしている自分・・・というのが、ありのままとか、本当の自分とかでとらえられていることが多い気がします。
しかし、それもよく考えれば、「そういうモードの自分」と言えなくもありません。ということは、他のモードの自分は別人なのかということです。
確かに、何も気遣わない自分というモードは、外や他に向けて変形しなくてもいいので、それが本当の自分に近いのかもしれません。
ただ、突き詰めてしまえば、どの人も、外部的なものにまったく無関心で無頓着、反応しないようになっている(そうしていい)自分というものになれば、電源オフのロボットや機械のような代物になるのではないでしょうか。もっと言えば、判で押したような金太郎アメ人間ばかりになる気がします。
こうして見ると、おかしな話ですが、ありのまま自分の究極とは、無個性の人間で、皆同じ人になってしまうことも考えられるわけです。
逆に言えば、私たちは自分の様々なモードを持つことで、個性が保てている、多様性が存在しているとも言えます。
そして、ここが重要ですが、自分が多数の顔や姿、心を持つということは、他者との比較や外からの刺激があってこそのものです。
先にも言ったように、外に反応しない自分は、行き着くところまで行けば、スイッチオフの無個性な自分になるおそれがあります。
違う言い方をすれば、他人と比べることができないので、自分が区別できなくなるわけです。それは、つまり、自分(自我)が失われるという意味に等しいです。
よって、あまり、ありのままの自分を探そうとしたり、こだわったりしたりせず、リラックスモードとか、他人にあまり気遣わない意味の正直モードの自分というものが多くの自分の姿の中にいて、それが抑圧され過ぎていないか、そのモードになることを否定しようとしていないかを見るくらいの気持ちがいいのではないかと思います。
自分の生活環境が、リラックスモードの自分、心が軽いモードの自分をかなりに出しにくいことにしているのであれば、それは変えたほうがいいかもしれません。
また、環境の問題だけではなく、たくさんの自分の姿の中で、権力を握っているものや、多く出る時間を与えてしまっているモードの“自分”を、他のモードの自分たちと調整・修正していく必要があるとも言えます。
簡単に言えば、暴走している自分を、ほかのモードの自分によってコントロールしていくということです。
それには、多様性ある、多くのモードの自分を認めることが大事です。自己受容が、自己変革や自己の調和につながる意味も、ここにあるのです。
そして、もうひとつ大事なのは、先ほど述べたように、自分は他人との比較によって「自分(自我)」というものができあがっています。
ということは、他人との関係は、自分をいい意味でも、悪い意味でも、大きな影響を及ぼし、自分(自我・個性)を作り上げる要素となります。
個性は、パーソナリティといわれるように、ペルソナ、仮面という言葉から来ています。他人や環境によって、仮面を付け変えて(つまりはモードチェンジして)生きるているのが、普通の私たちです。これは機能に過ぎませんし、またこれがあるから生きられるようなものです。
ただ、この現実の仕組み中では、個性は機能たけではなく、自分の役割や使命のようなもの、生き甲斐、自分の存在価値にも関わってくることがあります。
個性・パーソナリティが、他人や周囲よって規定されてくることが多いのであれば、それに振り回されるだけでなく、意図的に自分の環境や人との交際を選択することによって、他者からの影響を変え、結局、自分のパーソナリティモードも増やしたり、変えて行ったりすることも可能になるわけです。
単純なことで言えば、落ち込んだり、自分の価値が低いとか、否定的なモード、ネガティブモードの自分になっている時は、他人から励まされたり、いいことを指摘してもらったり、勇気づけられたりすることで、自分のモードが肯定的なものに変わることは、誰しもが経験していると思います。
つまりは一人だけで悩み、落ち込んでいても、その悩みモードの自分の中だけで堂々巡りするだけで、なかなかモード変換、モード脱出ができないわけです。
自分の個性は自分だけではなく、他人や環境によって決まってくるのですから、一人で閉じこもることは、かえってそのモードの固定化を招きます。
※ただし、自分の中で次元(レベル)を変えた他者モードを登場させることができる場合は、むしろ一人になって、その状態を出すほうが問題解決になることもあります。いわば瞑想などによって、高次の自分・ハイヤーセルフと会話するようなものの場合です。
他者からよい影響を受ける場合でも、人のモードの共通的パターンを知っておくとよいことがあります。
自分自身の中で、暴走モードの自分、抑圧モードの自分を知ることもできますし、人を見て、自分にとってはあまり出ないモードの自分を見分け、その人からの刺激で発動させる(よい意味で)こともできます。
そのようなパターン・モードの整理、モデルとして、マルセイユタロットが使えるということです。
世の中にはポジティブーモードの人もいますが、自分を否定したり、価値がないと言ったりして、ネガティブになりがちの人も少なくありません。
でも、それも一種のモードなのです。ただ、自分がなりがちなモードがそれだということです。
無理に「こうしなくてはならない」とすれはするほど、劇でいえば、ひとつのモードは(あなたの人生という)劇からの退場に抵抗します。(だって、誰でも主人公で長く出たいでしょ?(苦笑))
よく出るモードの自分が、俺が、私が主役だと言い張るわけです。
ですから、そういう自我モードの自分を認めることと、無理に退場を願わないということです。主役で楽しんでいるそのモードの自分の演技は、十分やれば自然に終わってきます。
あるいは、ほかのモードの自分を抑圧したり、役を与えないようにしたりせず、いつでも主役になれるよう、少なくとも、自分の中にいることを発見し、認めておくことです。
それには、他人からの指摘というか、評価も必要なことがあります。(あなたはこんないいところがあるんだよとか、あなたすごいですよとか、評価される自分の経験や、生きていることを受け入れてもらえる他人からの態度とか言葉)
そうして、自分の中にあるいろいろなモードの自分を、自分の劇場でまんべんなく演じさせていくと、いつしか、劇を超えたもの、モードを作り出している次元が見えてくるでしょう。そこにこそ、本当の意味での自分が存在するのです。
だから、あなたは現実では、どんなモードの自分にもなれますし、どのモードであってもいいのです。
タロットとイメージ力
タロットは絵でできているカードなので、イメージと深く関係してきます。
タロットはこのブログでも書いてきているように、様々な使い方があり、その多くの中のひとつが、イメージ力をあげるためのトレーニングツールとして活用できることです。
しかも、ほとんど意識しなくても、タロットを使い自己や他人をリーディングしていくようになると、自然にイメージの力は上がっていく仕組みになっているように思います。
その理由は簡単です。
タロットを読むということは、実際の相談ごとの情景を思い浮かべて、それがタロットの絵として共通しているものがあるか、関係性があるかどうかを、イメージとタロットとの絵柄とで検索するようなことをしているからです。
つまりは、イメージを意識的に使うことが、一連のリーディング作業に課せられているのです。
もちろん、カードがなくても、人はいつもシーンや光景を思い浮かべることはしていると思いますが、タロットリーディング自体が、特にイメージを喚起するような流れになっているので、イメージする力が高まるわけです。
また、最初は何も思い浮かばないという人でも、カードの絵柄、特にマルセイユタロットは、あえて芸術性や刺激のあるような絵にしていないことで、むしろ人間誰しもが持っている意識の元型のような形を描ているので、不思議とイメージが段々としやすくなってくるのです。
ところが、このイメージの力というものは、実は創造の力とも結びついており、特定のカードで言えば、「女帝」や「力」、さらには「13」や「悪魔」などとも関係してきます。
言ってみれば、現実化する前の元のエネルギーのようなニュアンスがあります。
「引き寄せの法則」「思考は現実化する」などの本、あるいは説などで知られているように、人の想念・思い、つまりは想像力は、日本語として音が同じの「創造」につながり、いわば“想像した通りの創造”が行われると考えられています。(これには、条件や制約がついて回るとは言えますが)
ということは、必ずしも、いいことばかりが創造されるわけではなく、まさにイメージしたことが起こる(あるいは、起こる源泉になると考える)というのなら、ネガティブなことも生じるおそれもあるわけです。
タロットリーディングの際、例えば、さきほど挙げました「女帝」カードの問題性として、創造の過剰さというものがあります。
これは創造にための想像が、悪い意味で過剰(ネガティブイメージのし過ぎ)になっていると言う事態を示します。
女帝(の象徴性において)は本来、創造的な性質を持ち、まだ現実にないものをイメージの世界でクリエイトすることができます。
しかし、これがよいことの想像だったのならいいのてすが、いわゆる取り越し苦労のような、まだ起こってもないことを先々に心配してしまい、その不安で自分を悪くさせている場合があります。
しかも、ネガティブなイメージや思いは、もともと強い力を持つことが多い(この理由は後述します)うえに、タロットを使うような人になってきますと、最初にも述べたように、イメージ力が向上してきますから、人によってはネガティブイメージのクリエイト力が上がってしまい、現実にまでそれを引き起こすケースがあります。
簡単に言えば、ネガティブ想像の現実化です。
ですから、イメージ力が上がることは、いいことばかりではないのです。(何事もよい面と悪い面のセットにはなっています)
さきほど、「人によっては」と書いたように、イメージ力が上がっても、ネガティブの創造性が増す人と、ポジティブの創造性が強くなる人など、個人によって異なってきます。
一般的に、自立性が少ない人、他人の影響を被りやすい人は、イメージ力が向上しても、ネガティブさや、人の想念など、他人の影響によって自分のイメージが作られることが多いため、その力の影響力が、かえってマイナスに作用することがあります。
また、人類の集合的意識のようなものに、かなりのネガティブさが溜まっていると想像されるため、今の地球の人類は、どうしてもネガティブに流されたり、その力に飲まれたりして、本来ポジと等しいネガであるものが、幻想的(仮想現実的)に、ネガが上回るような世界になっているところがあり、そういうことからも、イメージ力の増強がネガティブ想像(創造)強化につながる場合があるわけです。
そして、霊的な向上など、スピリチュアルな成長・発展を遂げたいという思いの人が、イメージ力を上げていくと、イメージ空間とも呼べる、ある種の次元との接触が強くなってきて、自分の未浄化の部分(データ)を掘り起こすことが起き、次々と障壁・障害のようなものが実際に出てくることがあります。
長い目で見れば、それはよいことでもあると言えるのですが、障害が出る現実となると、苦労や大変さもあるのは事実です。
というようなことで、タロットとイメージの力は密接に結びついてはいるものの、その使い方には気をつけるところも必要で、結局、自分の体・心・魂を調和させていくことをしないと、せっかくのイメージの力も乱用させたり、自己を破滅させたりすることになりかねないわけです。
ですが、もちろんよいこともたくさんあり、イメージだからこそ、自由に世界を創造することが可能で、現実で押し込められた自分、必要のないルールで縛られた自分の世界を解放させることができます。
またつかみとごろのなかったものを、絵や像として、とらえることができるようになります。
これらは現実をコントロールすることと、大きく関係してきます。
「人はイメージできないことは実際にもできない」と言われますから、逆に言いますと、イメージの力が強まることは、生きるうえでのパワーやフォースを得ることと等しくなるのです。
自分と他人 大アルカナの象徴
マルセイユタロットの、特に大アルカナ22枚は、いろいな象徴と元型を表しますので、活用の幅は広いです。
ここで、ひとつの見方として、22人の人間パターンというように考えてみますと、外向きには、ほかの人たち、個人それぞれの性格や職業、特質としてとらえることもできますし、内的には、自らの内にある、別人格と見ることも可能です。
カードを中心(基準)にして、内と外を見る、そうすると、面白いことに気づいてきます。
それは、まるでカードが鏡、あるいは切り替えゲートのように感じられ、結局、内も外も、カードを通してみれば、反転しているだけではないかと考えられるというものです。
タロットカードがあるだけで、内外をつなぎ、その壁を取り払うことができるのです。
性格や人間パターンをテーマとする時、カードは、あなたの中の人間(人格)と、周囲の人、すなわち自分とは違う他人の性格や人格との共通点(パターン)を、見る人に自覚させます。
「私の中のこれは、あの人の中のあれにある」 反対に、「あの人のあれは、私の中のこれにある」 このようなことがカードの象徴を通して、見えてくるわけです。
人は共通点が見つかると、親近感を覚えるものです。
自分と他人は違う存在(人間)であるのは間違いないのですが、それはあるレベルにおいての話です。通常次元と言い換えてもよいでしょう。
しかし、もう少しレベルや次元を上げていけば、違いは少しずつ消え、共通点のほうが目立ってきます。
究極まで行けば、人はみな同じということで、確かに遺伝子構造レベルでは同じ種ですし、もっといえば、生物全部という概念で、すべてのものは根源的なものとして、ひとつの存在に象徴できるでしょう。
面白いもので、人は、思考や感情によって、他人と一緒の統合空間や抽象空間を作り出すことができます。
例えば、愛し合っている者同士の間では、共通点のほうが意識することが多く、それは、二人がともに「同じ」でありたいという気持ちから生み出されているものです。
特に時間と空間を一緒にしたいという思いが出てきているため、三次元の中に別のスポットを作り出しているようなもので、そこでは、まさに“二人の世界”ができあがっており、その意味では、その世界は狭いようでいて、次元やレベル、質が変容しているため、二人という間では、ほかの人よりも共有感が出ているのです。(逆に別れたいペアは、お互いが違うことを意識し、現実の一般時空に戻ろうとします)
愛し合う二人の間では、「あなたは私、私はあなた」という感覚(を求める気持ち)が強くなり、個別・具体・違いとして隔てていた壁は薄くなるか、消えるかしています。(とはいえ、そういうモード状態の時だけの話で、これは、どちらかというと幻想空間に近いですが)
人間関係の問題では、違いや異質性を発見・強調し、指摘することで、反発やこじれがひどくなってきます。
相手を嫌な人、嫌いだと思えば思うほど、自分と相手との違いを見つけようとします。
ところが、タロットカードによる元型パターンに戻して、レベルを上げ、抽象化していくと、違いはむしろ消えていき、同じところが目立つようになります。
たとえ違いを認識しても、それはタロット的に言えば、22の違いでしかないので、逆に個性として認め合うことも可能になります。
ところで、タロットには「世界」というカードがあります。このカードは21という数を持ち、数の順番として見ると、最終局面、到達点のカードともいえます。いわば、完成された「世界」(境地)というわけです。
すると、その「世界」というのは、単独で存在するものではなく、バラエティあってのものということが絵柄からわかります。
究極的には「世界」としてひとつでありながら、多くの個性や違いをもって、有機的に統合されているように見えるもの、それが完成された「世界」だと、このカードは語っているかのようです。
いや、見方によっては、すでに1という最初の数を持つ、「手品師」(ほかのカードでは魔術師・奇術師)の段階で、「世界」と同じ要素があり、それは、もう、最初からいつも「世界」の状態であることが示されているようにも思います。ただ、その表現やレベルの段階が違うのだということです。
人の違いを、自分から排除するために見るのではなく、むしろ助け合いや生き残りのため(生存戦略)に、必要なこととして観点を変えれば、異質点も、世界全体の中のただの一面(しかし完全性の中では必要なピース)としか見えず、こだわり過ぎることもなくなり、排除するものではなく、受け入れるものとして見えてくるでしょう。
内的に見れば、嫌な人の部分の中、異質と感じる人の部分の中に、自分があこがれたり、ほしいと思ったりしている能力が存在している場合もあります。もちろん、バランス的には過剰なものとして(逆の不足もあり)見せられ、気になってしまうということもあるでしょう。
「あの嫌な人のどこかに、自分があこがれたり、ほしいと思うような要素があるのか」と、誰もが思うかもしれませんが、それは個人個人として、具体的に見過ぎているからです。
ここでも書いたように、カードを基本として、パターンや元型として抽象化していけば、個人的人格(その人の表す実際の人間性や性格、考え方・行動様式の意味での人格)から離れ、ひとつの人の型として、データのように見えてくるでしょう。かといって、記号化(単純な機械的な形式で見てしまう方法)してはいけません。
ここで言っているのは、カードによる自他の人格の抽象化のことであり、結局のところ、他人を見て、自分の内的な人格を統合していこうという方法のひとつを述べているのです。(これには相手から見た自分という視線も必要で、都合、自他統合の意味では、ふたつではなく、四重の統合になります)
と言っても、無理矢理嫌いな人を好きになる必要はありません。それはストレスがかかるだけです。
そうではなく、(他)人というものを現実性や具体性から切り離し、純粋な象徴パターンとしてとらえ直すことで、自らの囚われを解放し、見えてくるものがあるということです。
あなたが気になる人、それは好きでも嫌いでも、中立性(何も思わない)を超えて、そう感じるのなら、あなたの中にそれ(その人)を気にかけなければならない何かがあるのです。
それが、マルセイユタロット的にいえば、大アルカナ22のカードの象徴性として見ることができるのです。
なお、このようなケースでの(象徴化を支援するツールの)場合、大アルカナでなければならない理由があります。このことは、またいつかお話することもあると思いますし、講義では説明しております。
とにかく、タロットの活用と応用は、皆さんが思っているより広範囲であり、特に、ある専門知識とか技術を学んでいらっしゃる方にも、別の整理ツールとして有用になると思います。
タロット学習におけるメモやノート
タロットを学習するとした場合、皆さん、ノートやメモを取りますか?
自分のこととして振り返った時、私はたくさんノートを取っていたと思います。
まあ、字が汚いので、あとで読むと自分でも何を書いているのかわからず、困る事がよくありますが。。。(^^;)
それから、これは、フランスで受けたカモワン・タロットの講義の時のことです。その時受講生用に用意されていたボールペンでノートに書いていたのですが、それがどうもインク性能が悪かったのか、あとでノートを見ると、文字が薄く消えかかっていたものがあり、これはちょっとショックでした。(苦笑)
タロットは、絵の象徴の学習であるので、あまり文字を書くこと、ノートを取ることに集中し過ぎても、かえって絵柄から関心をはずしてしまい、よくない場合があります。
日本人の、中年以降の人の学習・勉強方法のスタイルは、学校教育の時に身に着けたものがほとんどで、そのため、先生が板書して、それをノートに書いて、あとでテストの前に暗記する・・・などの形式に慣れてしまっている(固まってしまっている)ところがあります。
ですから、どの勉強でも、そのスタイルが出てきて、結局、ノートに取る事が勉強の中心になるケースが多いのです。
これの欠点は、ノートに書くことによって、いかにも勉強した気分になっしまうという点です。
書いた内容をまだ覚えてもないのに、ペンを動かし、筆記したことで、何か作業した気持ちになり、また講義を聞いているのも事実ですから、自分としては学んだ気分になっているのです。
けれども、その時点では書いた内容を覚えているわけでもありませんし、先述したように、書くことに意識が取られ過ぎていて、肝心の話や、絵・ビジョン・視覚、その他、書く以外で入る情報を見逃してしまうおそれがあります。
従って、タロットに限らず、学習の際に、先生や学校によっては、ノートに取ることを禁止している場合もあります。(その場合は、資料があとで配られることがあり、文字情報は補填されることがありますね)
講義によっては録音が認められることもありますので、書くことにとらわれ過ぎず、講師の話している内容や示される図などに、集中するほうが、受ける講義としては充実していることになるかもしれません。
まあしかし、長年の学校教育の癖はなかなか変えることが難しいので、無理やり、ノートを取らずに話から覚えるという方法をやり過ぎても、かえって、その人にとっては効率が悪いこともあります。
人間、慣れた方法を採るのが楽で、効果的という場合もあるのです。
それでも、タロットを学習する場合は、ノートに書くことだけではなく、やはり、先生の話とともに、タロットそのもの、図柄・絵をよく見ていただきたいと思います。
その時、講義の話題やテーマになってるカードを、自分のタロットできちんと手に取り、確認し、見ることです。
時には、先生の説明している以上のものが浮かんてくることもありますし、これまで気が付かなかった絵の象徴、細かな部分などが発見できる可能性もあります。
その時の驚きやインパクトはなかなかのものがあり、そうしたことが印象として刻まれ、ただ単にノートを読み返すよりも、ライブ感覚の学習として効果があるわけです。
特にタロットは絵のカードですから、学習している時、講義を受けている際のシーンも、あとで同時に思い出すような形式にすると(つまり、イメージとして講義全体をとらえること)、さらにタロットの学びに、生き物的な感覚が出てきます。
講師側でも、あまりホワイトボートに書くことをし過ぎると、それを筆記しようと、もう自動的に生徒さん側で働くことがありますから、それを防ぐためにも、講師や先生のほうも、書くことに対しての配慮が必要かと思います。
しかし、逆を言えば、たまに書くこと、あるいは、強調して大きく書いたり、声や話とともに、「これはメモしておいてください」というようなものは、「書く必要が重要なことなんだ」「これは覚えておかねばならないことなのだ」と、聞いているほうも意識しますから、「書く」ことを、どう演出するのかも、大事なことではあるでしょう。
そして、講義を受ける側にとっても、書くことの工夫が求められると言えます。
漫然と、ただ板書されたものを筆記したり、話の内容をそのまま書いたりしていると、それこそ、書くことだけで時間が終わります。
重要なことだけを書くとか、その場合でも、あとでなぜ重要なのかがわかるような、何か意味や目印をつけておくと、なおいいでしょう。
もともと、書かないで学習するほうが好き、そのほうが学びのスタイルとして向いている(体験・実践型)というタイプの人もいらっしゃるので、人は人、自分は自分として割り切って、自らの効果的な学習スタイルを知り、構築し、実践することは大事です。
人が書くから自分も書くという態度ではなく、自分にはこれは書かなくていい、重要ではないと思えば、無視すればいいですし、人が書いていなくても、自分にとっては大切だと感じれば、自分流の形でメモすれば(頭や心にすることもあります)いいと思います。
私の場合は、自分が昔の学校教育に毒されたというか、染まり切ったタイプだということを自覚しているので(苦笑)、ノートを取ることもします。
ただ、やはり、講義やセミナーというものは、せっかく講師と対面してのよい機会ですので、もちろん「これは」という時には、手を止めて、話にも集中します。
また、タロットをするようになって、あまりノートとかメモを取ることは少なくなったのも事実です。それはタロットという象徴ツールを手に入れているので、いわば、タロット自体にメモしているようなもので、タロットを見れば思い出すようになってきているからです。
これ(講義内容を筆記するノート)とは別に、創造的ノートというものがあってもいいと思います。
それは講義が終わったあとで、自分が学習を見直し、自分の気づきや学んだ内容を、新たに書き起こしたようなノートのことです。
例えば、タロット学習の場合、タロットの象徴の意味など、講義で習ったこと、先生が話された内容はノートに書いている場合が多いでしょう。
しかし、自分であとで気づいたことや、自分にとってのカードの意味とか、体験から出てきた内容などは、講義の時ふっと出てきてはいても、なかなか同時に書き留められるものではないでしょう。
そこで、とにかく、講義後の別のノートを作り、自己学習としての創造的ノートを作っていくのです。
こうすると、ノートを取る意味もまた変わってきますし、ノートはただ話や板書されたものを記録していくものではなく、自分の思いや気づきを記録しつつ、そこからアイデアを出したり、自らの(実はもともと持っていた)深い認識を、思い出すため、取り出すための道具として使うことができるのです。
普段ノートを取らない人でも、書く作業によって、現実とのつながりを意識することができます。
いざ、書いてみると、話をするのと同様に、実は自分がわかっていると思っていることでも、あまりきちんと書けないことに気づきます。
抽象的に漠然としたことが、書くことで整理され、つまりは、あなたの想念・思念が降りてきて、現実の世界の枠組の中に入るということなのです。
書くだけで願望実現に近づけるという人がいますが、それはこの仕組みがあるからです。
タロット学習は人それぞれです。グループや集団で講義を受けている際は、先生からの講義は皆に向けて同じでも、受ける側は、自分に合うやり方で受容し、工夫して学んで行けばよいのです。