タロットの使い方
自身をタロットに語らせる
タロット、特にマルセイユタロットは人の意識の元型を描いていると言われます。
かの有名な心理学者ユングも、マルセイユタロットに関わっていたことが知られていますし、後学のユング派と呼ばれる人たちの中には、詳細にマルセイユタロットと人の心理(成長、統合)の関係を考察されている人もいます。
そして、マルセイユタロットに限らず、いわゆる絵のついたカード類たちは、何らかの心の状況や、潜在的にある心の中の思いを投影すると考え、カウンセリング的な相談に用いられることもあります。
占いではないタロットの活用があるとすれば、ひとつには、心理的な意味でカードを扱うということがあげられます。
むしろ、最近では、タロット(などの絵のついたカード)は、心理セラピーに使えるものだという認識が増えているように思いますし、そのことは、精神世界系や、アカデミズムではない心理の世界では、もはや当たり前のようにも見えます。
しかし、だからと言って、タロットは心理的な(心の中の)投影装置として使うものだけではないということは述べておきます。それはタロットにおけるほんの一部の機能と言ってもいいでしょう。
私自身は、心理・メンタル面をタロットで読むことは多いですが、一方で、さらに違う階層・次元にもふれることがあります。
現実の問題の多くは、心の問題をとらえ、それを浄化したり、癒したり、変容させたりすることで解決に向かいますが、もちろん、人は心だけで成り立っている存在ではないので、ほかの部分も観ておく必要性があるのです。
とはいえ、クライアントや自分の心を整理しておけば、問題と思っている部分は、ほとんど楽になったり、快方に向かったり、少なくとも、見え方、感じ方は変わります。
なぜなら、今「問題と思っている」と書いたように、問題(悩み)は、問題として当人が思わない(意識しない)限り、問題ではないからです。ということは、「思う、思っている」ということが重要で、それはつまりは自分の心の思い方になりますので、ここに焦点を当てれば、だいぶん変わることができるのです。
ということで、タロットを心理的な分野、心の整理(ただし病的なまでになっていると専門家の力が必要です)に活用することは、大いに意義があることだと言えます。
ここで、意外に簡単な方法で、タロットを使って、自分の心と対話する方法を示します。
それは、大アルカナ22枚を使います。(高度になれば、小アルカナを使う方法もあります)
マルセイユタロットの大アルカナは、一番最初に述べたように、もっとも意識の元型を表しており、絵として把握しやすいものになっていますので、自然、自分の内面や意識、心を象徴させることができるのです。
特に、明らかに「人物」となっているもの(描かれているカード)は、この場合、やりやすいです。
ですから、全部のカードを使う必要は、最初はありません。
まず、22枚のカードのうち、気になる人物が描かれているカードをいくつか選択します。
例えば、「悪魔」が気になるとか、「隠者」が気になるとか、「星」が気になるとか、カードはどれでもいいですし、何枚でもOKですが、初めのうちは、あまり多すぎると混乱してしまうので、特に気になる三枚くらいの(人物として見ることのでき)カードにしておいたほうがいいかもしれません。
そして、自分が選んだカード、一枚一枚と向き合い、まるでカードの人物が実際の人間であるかのように想像します。
このカードが語るとすれば、何を言っているのだろう? 今、自分に何か言いたいことがあるとすれば、このカードの人物は何と言う(言っている)のだろうか? という具合に、カードの人物に想像上で語らせます。
この時、カードの普遍的な意味は、あまり考えないほうがよいでしょう。あくまで人物が語るセリフのように思うことです。
一枚ずつが終れば、次に、もし三枚を選んでいたとすれば、その三枚の人物が合議(会議)しているように、今度は想像してみましょう。
誰か一人が強い意見で押し切る場合もあるかもしれませんし、三人が等しく、意見を述べ合って、あなたに何か共通して意見を具申(笑)することもあるかもしれません。
結局のところ、自分の心の分身と語っているようなのものなのですが、タロットという物理的なカードがそこにあるので客観性を持ち、自分の中の色々な人物の思い(それは自分の思いの一部でもある)を聞くことができ、自分を整理することに役立ちます。
慣れてくれば、人物ではないカードも、あえて人物のように見て行くこともできますし、シャッフルして偶然出たカードを素材にして、語らせることも可能です。
偶然に出すほうが、意外性と言いますか、さらに客観性を持ったり、特に占い次元に降りていく(変えていく)こともできるたりする(つまり、現実的・具体的な問いに答えてくれるような気にもなる)ので、楽しいこともあります。
マルセイユタロットは、人物が描写されているたいていのカードには鋭い視線がありますので、その視線方向を気にして見るのも、マルセイユタロットならではのコツと言いますか、特徴と言えましょう。
それから、自分の選んだ人物のカードが、何もしゃべらない、話さないこともあります。
これは、自分の心がそのカードの象徴性において閉じていたり、秘密があったり、なかなか一人になっている時でさえも言いづらい何かを抱いていたりする場合があります。
また、反対に、うかつにしゃべりの過ぎていることの注意であることもあります。
さらに応用編の方法も、少しだけふれておきましょう。
例えば、マルセイユタロットの「月」のカードでは、犬のような動物が二匹、月に向かって吠え合っています。
それぞれ、あえて色も異なって描かれているのですが、それはつまりは、何か対抗したり、相反したり、拮抗したりする要素とも言え、いわばあなたの中のせめぎ合っている葛藤部分とも言えます。
それが何なのか、二匹の犬、それぞれにまたカードを一枚ずつ引いて、そのカードたちに語らせる(争わせる)という手があります。
あなたは、それ(会話、想像する言葉での吠え合い)を見ているだけです。(笑)
「月」のカードは、皆さんわかりづらいとか、もやもやしているので嫌われたりするカードですが、心や感情の整理には、すばらしい効果と意味を発揮する奥義的なカードなのです。ざわざわするのはプロセスであり、本当は心を静めるカードになるのです。
ただし、それには、「月」のカードの細かな象徴をよく理解(知的にも感性的にも)しておく必要があります。
ということで、皆さんも、タロットカード自身に語らせて、逆に自分を見てみましょう。きっと、なかなか面白い気づきがあると思いますよ。
冬至のタロット
この記事がアップされている時は、ほぼ冬至の時期になりますので、タロットを持っている方は、ぜひ、冬至にタロットを引かれるとよいと思います。
冬至は夏至、そして春分・秋分とともに、大きな時のポイントになります。
前にも書いたことがありますが、通常の意識状態を変えるには、いろいろな方法があり、天の方法、地の方法、人の方法として分けることもできます。
その中で、時のポイントを利用するのが、こうした特別な天体的時間で行う天の方法(場合によっては地の方法にもなりますが)となります。
なぜ通常の意識状態を変える必要があるかといえば、いつもの調子では、鋭敏な感性が出にくく、全体、あるいは神性、潜在的なものとのつながりがわかりづらく、物事を物質中心として見てしまう顕在意識が強く働いているためで、いわば本当の世界と分断されて生きているようなものになっているからです。
ですから、これ(通常意識)を変えて、全体や見えない部分、潜在的な部分、神性・神聖的なところとのつながりを取り戻すわけです。
普段の俗(の生活)から、聖なるもの(神・神性)の力を復活・流入させ、浄化と再生を図ることでもあります。
そうすると、インスピーションや直感を伴って、普段気づけないようなことに気づくこともあります。
タロットリーディング(この時間が非日常的意識時間になっている)によって、アイデアが浮かんだり、気づきが増したりするのも、そうした意識の変換作用があるからなのです。
冬至の際、自分でテーマを決めてタロットを引いてもいいですし、特に何も問いを立てなくても、意味があるカードが出ると思います。
特にテーマが何も思い浮かばない人は、冬至の象徴的意味を考えて、「復活・再生するには」「これから何をすべきか(占い的だったら、これからどうなるのか)」「何を始めるのか、何が始まるのか」というテーマでやってみるとよいでしょう。
冬至は、昼間がもっとも短くなる時で、逆にいえば、そこから昼間が長くなっていく切り替えの時なのです。ですから、古代から、太陽の復活の時として、重要なポイントとして認識されていたのです。
日本でも天照大神が、太陽神とされているように、太陽を神として崇め、信仰している地域、国、時代は多いというか、普遍的なものと言ってもいいくらいです。
その理由は、くどくど説明するより、皆さんが「太陽」と聞いて、何をイメージするかで、もうわかると思います。命、生命の根源、私たちの意識の中心のようなものが感じられるでしょう。
地上や我々に、あまねく光としてふりそそいで、生命を育むエネルギーとして供給してくれている太陽が、信仰的に神とされるのも当然です。(セット・ペアとなる天体には「月」があります)
ただ、マルセイユタロットを学べばわかりますが、タロットにも「太陽」というカードがあり、それは私たちが天体(水素核融合を起こしている物質的な太陽)として見ているそれとは限らないということです。
むしろ信仰的に神として見ている太陽の性質に近いかもしれません。そのどちらでもあるとも言えますが。
古代の海外で、太陽信仰では、ミトラ教などが有名ですが、そもそもクリスマスもその影響があると考えられます。(諸説ありますが)
クリスマスがなぜこの時期なのか、そしてイエスの生誕を祝う日となっているのか、サンタクロースとは何者なのかなど、タロット的に見ていくと、とても面白いことがわかってきて、素朴でありながら、深い意味をもって信仰されていた太陽神や、やがて宇宙システムそのものに行き着いてきます。
私たち日本人は、キリスト教徒は少なく、クリスマスもただのイベントとして消費してしまっている感じが強いですが、クリスマスの概念が入る以前にも、民俗学的に見ていけば、冬至をどう扱っていたのか、日本人としての行事とか意識が見えてきます。
今でも、冬至にはお風呂にゆずなど入れたり、かぼちゃ、小豆を食べたりする家庭もあるでしょう。これらは、やはり太陽のシンボルと関係すると言われています。
そして、当然ながら、天体の流れが個人としても影響するところがあり、個人的にもし、復活、再生を図りたいことがあるのなら、冬至の力を利用して、さらに秘伝的な力を持つ、マルセイユタロットを引いて、自らを生まれ変わらせることも意識的には可能です。
正確な時間ではなくも、このいわばクリスマス期間として流れている力を(世界中が祝福と再生のエネルギーに満ちている)自分に還元すればよいのです。
楽しい、幸せなイメージがクリスマスにつく分、反対に、不幸な境遇や孤独を思うようなネガティブな感覚も、反転して、多くなる時期でもあります。
これが意外にこの時期の落とし穴で、たとえ自分が苦しく、不幸だと思っていても、そういうものと同調しないよう、意識や気分を切り替え、深くのめりこまないよう、気分転換や簡単な自分なりの儀式を試みるとよいです。
つまりは、自分のせいだと思い込まないことです。ほかの(世界中の)人のネガティブ気分が増幅されて、影響を自分がいつも以上に受けているおそれもあるのです。
この時期ほど、生きていられるだけで、とにかくありがたいと思うことが重要なことはないかもしれません。まあ、なかなか実際に苦しい人には思いにくいでしょうが、だからこそ、再生の願いで、太陽に祈りをささげるとよいと思います。
また一年の終わりにも近いので、一年の感謝の意味を込めてもよいでしょう。冬至に、一年の収穫としての意味で、タロットを引くのもありなのです。
また太陽信仰関連でいえば、単純に、太陽そのものを尊敬・尊重するのもよいでしょう。「お日様、お天道様、ありがとー」みたいな感じです。正月の初日の出を拝む気持ちに近いと言えましょうか。(冬至の翌日など) ※これ(太陽への祈り、感謝、拝み)はメンタルの部分においても、結構深い意味があると思っています。
タロットを持っている人は、22日でも23日でもいいので、どんなカードが出たのか、コメント書いていただくとうれしいです。何かする(お返事を必ずする)というわけではありませんが・・・(ほかのタロットの種類の人でもよいですが、こちらとしては、マルセイユタロットの名前とカードに変換して解釈します)
私の生徒さんの場合は、一枚引きといわず、自由に学習された展開法でやってみてください。ではよいクリスマスを。
悩みは独りよがりの中にある。
この前、自分のやっているタロットやカード技術とは違う方法(私のマルセイユタロット)で見てもらうための企画の募集をしましたが、先日、それを受けていただいた方がいらっしゃっいました。
その方は、タロットやカードが好きなことが雰囲気からも伝わってきましたし、その中のひとつとして、マルセイユタロットをされていたのも、私自身としては、とてもうれしく感じました。(それだけ、私はマルセイユタロットが好きなのです(笑))
それで、その方の展開法や技術とは異なる、私からのリーディングと説明をさせてもらったのですが、結局、本質的にはご本人がされたものと、私の展開してリーディングしたものとは、同じことが出ていたわけなのです。(同じカードもポイントとして、シンクロ的に出ていました)
そして何よりも、すべては、リーディングするまでもなく、ご本人がもともとわかっていたことだったのでした。
今日の書きたいことは、ここになります。
つまり、私たちは誰もが、本当はどうすればよいか、悩みながらも、実はわかっているということです。
しかし、占い師でもスピリチュアルリーダーでも、タロットリーダーでも、はたまた普通のお仕事をされている方でも、意外に、自分のことはわからないとおっしゃる方が少なくないです。(私もそういうところがあります)
ここが人間としての悩みであり、苦しみであり、しかも、現実世界として存在するあり方(そういうルールみたいなものになっているところ)とも言えます。
マルセイユタロットの教義に限らず、スピリチュアルな方面、あるいは宗教的な面でも、人は神や仏と同じ完全性を持つ存在、またはそれになることができる(悟ることができる、回帰することができる)と謳われています。
ですから、どんな困難な事態に陥っても、解決の方向性、よい方法、改善策などは知っているはずなのです。
人によっては、それが、何となくのレベルから、何度もそう思ってきたという確信に近いレベルまで様々です。
それでも、やっばり人は迷ってしまう、わからない、悩んでしまうというのは、神性(完全性)とかけ離れた自分、端的に言えば、自我の強さと、社会的・常識的観点で見た自分の判断を正しいと思う傾向があるからだと考えられます。
すごくシンプルに言えば、それは独りよがりのことなのです。
自分の思考あるいは感情によって、さも分析装置にかけたり、直感センスを利用したりしているように見えても、不安や恐れ、外から見た自分や、他者の観念が強くダウンロードされて操られた状態になっていては、それは独りよがりの輪の中で、グルグル回っているだけに過ぎなくなってしまいます。
ここから脱出するには、元の神性とつながる自分に戻ればいいのですが、今の時代、まず神聖な時間と場所がほとんどなく、多忙な毎日とデジタル的な膨大な思考(外側からのいいか悪いかで判断する分析)的情報の洪水にあり、ほとんどの人は、翻弄されて、環境的に、元の自分には戻りにくくなっています。
元の(神性的・魂的部分とつながっている)自分なのか、誰かの思想の(誰かのための犠牲的)自分なのか、善悪、利害で見ている自分なのか、わけがわからなくなるのです。
人間界は、私が思うに、本来の自己、神性的な自己とはつながりにくい環境をあえて作り出しているようにも見えます。
かつては、それでも、聖域や、聖域を守り、神に奉仕して、神性的なエネルギーと波動を自らに有していた巫女的・神官的な人々がおり、生活の場所においても、神棚や仏壇、近くには鎮守の神社、お寺、屋敷には屋敷神、井戸の神、台所の神など、身近にも神域を感じさせる場所がありましたし、静かなる時間も今よりは多かったでしょう。
それを失った今、現代の環境と人々が、迷いの空間(本来の自分の声を純粋に聞くことのできない時空間)に閉じ込められているかのようになって、特に精神的・霊的に淀んだり、停滞したりするのは当然かと思います。
さきほど、独りよがりになるシステム・環境が問題だと言いました。
人間界には、救済のシステムも働いていると考えられ、その中のひとつで、かなり強力なのが、意外や意外、人間同士の交流によるものなのです。
もちろん、人間と修羅の世界が近接しているような環境では、人との交流によってかえって傷ついたり、被害に遭ったりすることもあります。
反面、人が人を助けることのできる世界でもあるのです。
前に、自分は自分でしか救うことができないと書いたことがありますが、究極的にはそうなのですが、それに至るための前提で、他人からの救済、手を指し伸ばしてくれる経験によって、自らが救われたという思いが出て、自分で自分を救うという感覚が芽生える過程があります。
要するに、他人目線だからこそ、冷静に、しかしその人のためという愛をもっての視線で、手助けが他人からできるのです。そう、独りよがりに陥っている人の堂々巡りの輪に、脱出するための手を差し伸べることができます。
人は、自分でわかっていても、本当にそうなのか、わかってはいるけれども、どうやればいいのかわからないということが、悩みにはあります。
その解決には、他人からのアドバイス(他人視線)によって、「やっぱり自分の思っていたことは正しかった(というより、自分本来の声だったのだ)」とわかりますし、方向性が自分ではわかっていても、そのやり方がわからない人には、やり方を教えてくれる人(その道の専門家とか得意な人とか)いるわけです。
例えば、自分のしたい活動があるけれとも、それをしていいのかわからない。それでも、それをするのが好きという自分がいるし、やっていて楽しい、何となくそれをすればうまくいくこともあるのではないかという感じもする、一方で、常識的・社会的に見れば、困難さの思いが出たり、自信も出てこない自分がいる、という状態だとします。
そこで他人に(タロットなどで)見てもらうと、やっていいという気持ちの許可ができていなかったり、経済的なこと、社会的な目線で活動を見てしまったりする自分が改めて認識されたりします。
しかし、したいことはすればいいとも出ます。つまりは、そのままの自分の思いが出るのです。そして、カードをさらに精査していくと、自分本来の思いが自分を成長させたり、抑圧から解放してく過程になっていることを知ります。(エゴでわがままなものとの区別もつきます)
社会や現実とすり合わせる意味では(たとえば好きなことを仕事にするなどのことでは)、方向性さえ決まれば、あとは自分自身を阻害したり、抑圧たりしないようなやり方を見つければ(現実の世界で人から教えてもらえば)いいのです。
結局、神性なる自分はすべてを知っていますが(つまり神としての自分が計画していることがある)、それを後押しするのも、現実的との調整と適応をさせていくのも、人なのだということです。(人間世界での実際の表現については、多くは現実の人間が手助けすること)
本当はわかっているのに、独りよがりに陥って悩んでいる人は、タロットセッションで解きほぐして(他人という観点でもって転換させることで)、本来の自分に戻る手助けをさせてもらいたいと思います。
「運命の輪」の切り替え
タロットの展開では、過去・現在・未来を示すパートのカードを引くテクニックがよく用いられます。(有名なものではスリーカード)
このうち、一般的な関心として、また占いごととして、未来の部分に人は注目する人が多いでしょう。
そして、次に現在。
これは、今のことですから、現在に関心があるというより、現状はタロットで示すとどうなのか?という、いわば、自分の今を客観視するような部分と言えます。
これはこれで、やってみると、やはり重要だ思えるでしょう。
では、過去はいかがでしょうか?
過去はすでに終わったことであり、普通、今から変えられるわけではありませんから、そもそも、この過去パートのカードを出す意味、リーディングする意味があるのかと疑問を持つ人も少ないかもしれません。
ただ、ここも、現在と同じく、今までの経過を冷静に確認するためには、意味のある部分といえます。
そして、今日は、また別の意味で、この過去(そして未来)の部分と関係する話となります。
マルセイユタロットの「運命の輪」によりますと、「運命は切り替えられる」と言います。
(私がタロットカードの具体名をあげて語る時、知識として学び、受け継いだ象徴的部分と、実際にカードからのインスピレーションや、ある種のカードの人格的存在とのコミュニケーションによって得ている部分のものがあり、従って書籍とか、普通に言われていることとは異なる内容も含まれます)
ちょうど、それは、列車のポイント切り替えのような感じで、今走っているレールから別のレールに乗り換えることができるような印象です。
「運命の輪」は、まさにその名前の通り、運命が回転しているさまを一説には表し、そして、その輪の回転は、個人間で違うだけではなく、同じ人の中にも、次々と入れ替わる(切り替わる)「運命の輪」があると考えられます。
ここに、もし運命というのものがひとつだけだと思ってしまったり、変える(変えられる)といっても、ある特別な場合だけと思い込んだりしてしまうと、運命の切り替えは簡単にはいかなくなってしまいます。
そうした人は、昔風の列車の切り替えポイントで例えると、かなり重たい切り替え装置になっているということになります。
実は、「運命の輪」は(によれば)、それこそ「輪」はいくらでもあり、その分、様々な回転による無数の運命が展開されているというのです。
それに気がつかないと、輪の中の動物のようにグルグル同じところを回り続けることになります。
「運命の輪」には、輪から逃れているスフィンクス状の異質な動物がおり、つまりは、このスフィンクスの境地がカギであるのです。
簡単に言えば、自分がスフィンクスとなって、嫌な状態や望んでいない今の運命の回転を切り替えていくということです。
「これではない(この運命の輪の回転を望んではいない)」と、新たに選択(ポイントの切り替えを)していくような感覚ですね。
この方法は、訓練すればするほど、現実に影響を及ぼす可能性は高くなると思います。
スピリチュア的には、一種の波動転換儀式みたいなものです。(ただ、感覚次元の相違を実感していく必要はあると思います、単に儀式をするだけでは効果は半減するでしょう、つまり切り替わる前と後の違いを感覚として意識できるかということです)
そして、このことはこれから先の現在と未来だけではなく、過去にも及ぶのです。
「運命の輪」には、三つの動物がおり、その三つは、時の神(女神)を表現したものとも想定できます。つまるところ、それは過去・現在・未来意識による時間の流れ、運命としての感覚です。
それらが輪を通じて一体化しているものとも言えます。そう、過去も現在も未来も(一方向の直線としてではなく円環として)つながっているのです。
今、運命の切り替えを行ったあなたは、自分が変えた運命の輪を通して、過去の運命の輪も移行させており、過去の事実的な記憶としては変わっていないかもしれませんが、影響は現在→未来→過去というように向かっていると考えられるのです。
心理的には過去の重さの軽減、あるいは浄化、実際のものとしては、トラウマとか過去の失敗の思いがなくなったとか、現在と未来が、過去から応援されているように感じられる(使命の発見)とか、成功や達成の加速感がこれまでと違うという感じが出てくるでしょう。
そう、「運命の輪」的には、切り替えが行われると同時に、過去・現在・未来すべての輪も乗り換えられているのです。
自転車でたとえると、自転車の前輪を変えると(今から未来への切り替え)、後輪(過去)もそれに合わせて変えざるを得ず、従って過去も前輪にひっばられるかのように変質しているのだということです。
あるいは、こうも言えます。自転車そのものを乗り換えたので、今までの過去も新しい自転車にふさわしいものに変化していくのだと。
アニメでは、「輪るピングドラム」という作品がありますが、この作品描かれている内容のひとつは、運命を変える(乗り換える)内的な力のことが描かれています。(その他にも、深いテーマが象徴的にたくさん隠されている興味深い作品です)
私たちは普通、時系列が一方向しかないという強い現実感覚を持っていますので、過去が変わるというのはまったく理解不能だと思います。
しかし、過去というものは、いや、今や未来においても、その本質は事実やデータではなく、いかに自分が思うか、記憶するかのことによります。
同じことが起こっても、そこにいた人全員、微妙に違う記憶を持ち、さらに信念や感情まで入ると、事実というものは記憶(または印象)でしかないことがわかります。
だから過去は、歴史でさえ、たくさん改変されているのです。
あなたが学生時代学習した歴史の授業での常識さえ、新しい発見(それはたとえ過去のことであっても、今や未来に見つかることなのです!)や、多くの人が納得する説が出れば、変わってしまうものです。
ましてや個人の過去の記憶など、いかようにでも今から変わっていくことができると言えます。
今までの記憶はすべて自分の中にありつつも、実際の生活や意識のうえでは、個人がその都度選択したり、幻想としての世界を見させられているに過ぎないのかもしれません。
たとえ、過去はもう終わって、変えられないという常識でもってしても、今とこれからの「運命の輪」を、ポイント切り替えしていく儀式を続けていれば、自分の望む「運命の輪」(回転)に入ることは、しやすくなるのではないかと思います。
まずは、自分が望まない「運命の輪」が回っていることを意識・顕在化することから始め、希望する現実の回転・輪にシフトしていくように、自分(の意識)を切り替えるトレーニングが必要かと思います。
なお、「運命の輪」は同調し合うこともありますから、いいと思う人や場所で過ごすと、その影響が自分にも同調し、悪いと思う場所と人についても同じですので、自力だけではなく、他力による「運命の輪」の変換・切り替えもあると思って、やっていくとよいでしょう。
受講者用のメルマガでは、「運命の輪」のカードをもとにした、具体的な運命切り替えテクニックをお伝えしたいと思います。
こうしたことも、カードと対話していると、カード側から教えられることがあるのです。
まさに、タロットカードは生き物であることを実感しますね。
心の安定の技術 タロットの両面性
人間、いい時もあれば、悪い時もあります。
心理的・霊的(スピリチュアル的)観点になってきますと、人生にいいも悪いもないという、高次での客観的な見方(いわば神や宇宙目線)が出てきて、結局、その波(人生の上げ下げ)をサーファー(波乗り)のように楽しむような感覚になってくると言います。(これが、いわば、マルセイユタロットの「運命の輪」の心境と言いますか、カードの象徴している極意のひとつだと考えられます)
しかし、なかなかそうした境地にたどり着くのも、訓練したり、何か強烈な試練を乗り越えてきたりしないと届かないこともあり、簡単なものではないのかもしれません。
もう少し、レベルを下げた、バランスの取り方というか、中立に戻すと言いますか、日々起こる現象に囚われ過ぎないで、平静を保つような方法があればよいですよね。
ところで、私は自慢ではないですが(苦笑)、とてもナーバスなところを持っています。人一倍、ストレスや変化の耐性に弱い気質をもともと持っていて、ちょっとしたことでも動揺したり、体の不調があれば、それを気にし過ぎて、余計に気持ちのほうから体を悪くしてしまうという悪循環に陥ることもあります。
ですから、公務員時代は、うつ病や不安神経症を併発してしまい、休職せざるを得ない時が続きました。
公務員になる前とあとでも、ほかの仕事(正社員)やアルバイトをしたこともありますが、やはり、どこで何をやっても、体と心が必要以上に痛み、楽な状態で働けることがほとんどありませんでした。(よく言われるようなコミュニケーションの問題とは違い、これには、ナーバス以外のスピリチュアリティ観点による、別の理由もあるのですが、それはまたほかの時にお話しします)
そんな中で、マルセイユタロットに出会い、だいぶん、自分を落ち着かせる技術や考え方を学んで、今では、前よりかは、かなりましになり、人様の前で講義ができるようにもなっています。(ただ人前で話しをするのは、緊張型でナーバスなところがあるのに、それ自体はあまり嫌ではなかったという、変わった利点があったことも功を奏しています)
それでも体力を使いすぎたり、反対に精神的に疲労し過ぎたりした時は、油断すると、心身のバランスを崩そうという状態がやってきて、大変なことはあります。
こういう極めて弱い私の気質の中で、タロットと出会ってよかったことのひとつは、自分がタロット(マルセイユタロット)がとても好きであることに気づいたという点です。
逆から言えば、自分の好きなものとしてマルセイユタロットが見つかったことになります。
それまで、タロットのタの字の関心もなかった私が、自分が心身の弱さや生きにくさを感じていたおかげで、マルセイユタロットという(打ち込める)ものに出会えたというのも、皮肉なような、ある意味、バランスの取れた話だと思います。
人は、自分が興味が持てるもの、好きなものに出会うこと(好きなものはモノや知識だけではなく、人なども入ります)ができれば、そうですね、タロット的に言うならば、四大元素の火、すなわち、情熱やモチベーション、高次の意味では、心や魂に着火するかのようなエネルギーの炉が稼働します。
この炉心から生まれるエネルギーが、人の気力を高め、行動に移せますし、ビジョンとしてイメージを作る力ともなります。ありていに言えば、夢と希望が出てくるわけです。時には、熱中し、打ち込んでいる自分と周囲への尊重(その時間の充実が、自分と人生の賛歌になること)にもつながります。
タロットと出会えてよかったことのもうひとつは、やはり物事の見方が多様て多層になったこと、タロットを通して、一面からではなく、必ず両面から見るようになったことです。
これは、書いてしまえば、簡単なことのように思いますが、実はなかなか普通は行わないことなのです。
冒頭のところで、高い境地から物事を常に見るようになるのには、簡単なことではなく、もっとレベルの低い(簡単な)やり方があれば・・・と書きました。
タロットを使う目的も、高い境地が常に自分がいられるにするという目的がひとつにはあるのですが、それに至る前段階の方法として、先述したような、タロットを通して両面を見る(考える)というやり方があります。
特に、普通にネガティブだと思われるていること、そう自分が感じてしまうことに対してが有効です。
例えば、「悪魔」というカードは、名前だけや絵の印象では、文字通り、悪魔的な悪いことを意味するのでは?と思いがちですが、それが、いわゆる一面的で普通の(常識的な)見方です。
しかし、「悪魔」にもポジティブなことはないだろうか?と、あえて考えてみるのです。
「悪魔」のカードが表す「良いこと」とは?みたいなことです。
さすがに一人で考えていてはわからないこともあるので、本を読むなり、講義を受けたりして、「悪魔」のカードの象徴性を、知識として得て、そこから、自分なりにまた考察していくのです。
なぜなら、カードの象徴性の、ネガティブな面は、一般的に皆が思う普遍的なネガティブさを象徴しているのと同時に、個人・個別においてのネガティブさも表しているからです。
「悪魔」のカードで言えば、あなた自身が個人的に持っている「悪魔」に対する悪いイメージや意味と、あなたの思いとは別に、人々が一般的に思う「悪魔」からイメージする悪いことという両方があるのです。
そしてここが重要なところですが、あなたの抱く「悪魔」のイメージと、一般のそれとでは、形や意味は違っていても、奥底ではつながっているということです。
あなたにとっての「悪魔」は、意外にも父親や母親、職場の上司なことあるわけで、しかしそれはあくまで個人的なことで、ほかの人の両親が全員悪魔なんてことはないわけです。一般的には、「悪魔」とは、騙したり誘惑したりする存在とか、支配する人、あるいは悪徳そのものみたいなイメージです
しかし、個人的な「悪魔」が、普遍的な「悪魔」とはまったく実際は別物であるのに、本当は象徴の次元ではつながっているのです。
ならば、「悪魔」の象徴そのものをもっと理解し、ネガとポジ、両方を中立的に見ることができれば、あなたが抱いていた特定の人や物事に対する「悪魔」の印象は、浄化されていくことになります。
こうなってくると、少なくとも心理面を通して見方は変わり、現実的にも効果が及ぶのがわかるでしょう。
こうしたことのためにも、まずは、カードの常識的な一面を見るだけではなく、裏の面や意味をとらえ、そらのどちらも受け入れるという見方をしていくと、次第に、高い境地から物事を見る視点が養われてきます。
究極的なことを言えば、一面だけの認識が、あなたを苦しめている原因のひとつでもあるので、見えていない、認識していないもうひとつの側をタロットから呼び起こすことが求められるのです。
これ(両面性での認識)が安定してくると、現実の現象そのものに飲まれ(囚われ)過ぎることが少なくなり、たとえナーバスで影響を受けやすいという人でも、前よりかは、意識を別の次元に飛ばすようなことができて、苦しさや大変さの質が変わってきます。
ただそれは現実として悩みとか苦しいことがまったくなくなるというのではなく、それを感じる、感覚と意識が別になってくるということで、これまでの世界観の選択から逃れていく方向になるのだと言っておきましょう。