タロットの使い方

カードの(が)守護神、守護天使

台風が続き、本当に今年は天変地異と言いますか、災害が多い年です。

これだけ続くと、前々から言われているように、地球規模の環境変化、何らかの全体性の問題も考えられます。また非科学的ではあっても、何か大いなるものの警告のような、超越的な意味合いも感じさせます。

いずれにしても、一面から見るだけではなく、多面的な考察視点があってもよいかと思います。

例えば、災害(の危険のあること)が起きますと、最初は個人(自分)の生活が心配になりますが、やがて、個人を離れた、日本全体とか地球全体とかの関心・意識に変わってきます。

災害は、場合によっては生命の危機もあるわけですから、日常の些細な個人的問題とか悩み、または、モノを中心とする豊かな充実した生活へという思いも、人によっては薄くなるのではないでしょうか。

そして、助け合いとか協同意識が強くなり、個人というより全体で安心でき、再建できる社会システムの求めが、今まで以上に起こってくると思います。

また災害が起きることで、本当に生きていることの有難さ、日常の普通の暮らしができる大切さにも気づき、ただ個人の欲望や自我(エゴ)の拡大と現世利益の満足を追求していく目的・暮らしから、反転したものに意識が変化していく可能性を秘めています。

モノをたくさん持っていても、失えば元も子もありませんし、生活再建的にも使えなくなったモノは、処分に面倒な話となります。

さらに言えば、モノ(のあるなし)を基準とする豊かな生活とは、モノが安定的に供給できる社会・暮らしがあってこそのものであり、災害で非日常のようなことになると、ともかくも生きていくのが精いっぱい、元の状態へ回復することが大事となります。

結局、スピリチュアル的に言えば、今起こっていることも、個別意識で分離され、モノやお金のあるなしの価値判断で競争される意識から、精神や霊的な質を元とした、統合的な意識に移行する準備のためとも考えられるわけです。

 

さて、話は変わりますが(実は奥深くではつながっているのですが)、マルセイユタロットでは、特に大アルカナと呼ばれる22枚のカードが、様々なレベルの象徴を示します。

そういったいろいろな見方のひとつに、カードを神や仏、天使や聖霊、菩薩などの化身・象徴として見るというものがあります。

マルセイユタロットでは、外にそういった神なるものがいると考えるのではなく、内(自ら)にそれが宿るという思想を持っています。

ということは、端的に言えば、私たちには、みな、タロット的には22の神や仏(あるいは天使とか菩薩とか)の崇高な存在がいると見ることができるわけです。

このうち、「悪魔」というカードもあるのですが、それも神の化身と見れば、名前は悪魔でも、違った見方もできるでしょう。

それはさておき、ある問題や、不安・恐れもある状況に陥った時、タロットをシャッフルして、一枚、カードを引きます。

その出たカードが、今自分に必要な神や仏(の表現)なのだと思うことができます。

ただ、それだけではちょっとわかりづらいかもしれません。ですから、こう思うとよいです。

それは、自分の(その苦境に対する)守り神(助けてくれる仏、縁ある菩薩、天使)であると。

ところで、宗教によっては偶像崇拝を禁止していますが、普通は、神や仏を絵にしたり、像を作ったりして、私たちはそれに拝み、祈ります。

これは一見、外に神がある(自分の外に神が存在する)ような印象受けますが、見方を変えれば、内なる神性・仏性を引き出すための装置とも言えます。

言い換えれば、外の絵や像を通して、自分の内なるその存在を思い出す(引き出す)わけです。

例えば、観音様の像に祈れば、自分の中の観音力(かんのんりき)が発動し、自らを救う縁と力を呼び起こすというわけです。

これと同様に、もしタロットカードを神や仏の化身のように見れば、引いたカードがあなたの守護神となり、そしてそれは、自分自身の内なる神性をカードの形として見せてくれているのだと考えることができます。

ですから、まずは、単純に「外の神」として、そういう神様が私にはついているとか、そういう神様で表現されているようなエネルギーが必要なのだと見てもよく、やがて、それが自分自身の力であったということを気づき、悟って行けばいいわけです。

まさにタロットカードを、エンジェルカードや神様カードのように見るようなものです。

外側が不安定な状況にある時、カードで示される存在があなたを守り、自信を与え、癒し、調和させていくことになります。そして、それは、あたにも、相手にもある力であり、存在そのものなのです。

マルセイユタロットを持っているあなた、さあ、あなたの今の守り神として、一枚引いてみましょう。

またいつかの機会に書きますが、同じ大アルカナでも、それぞれによって、神(と見る方法)の性質や表現が違ってくるので、それはそれで分析してみれば面白いものとなります。

それから、特定の宗教に縁があったり、信仰したりしている人は、そこで言われている神様や高いレベルの存在を、タロットであてはめてみるのもよいでしょう。

興味深いことに、自分に縁のある神や仏は、タロットでも同じように縁があることが多いのです。


タロットの相反する意味を理解する

タロットカードを活用する時、たいていは、そのカードの意味を理解しよう(覚えよう)とします。

ここで、意味を覚えたほうがいいのか、覚えないほうがいいのかの議論はしません。

しかし、常識的に考えて、意味を覚えないまま、タロットを使うことは難しいと思います。

タロットはその絵柄の象徴性を活用するものだからです。その象徴性を知るためには、ある程度の知識が必要であり、知識というものは、人間生活の中では、覚えることによって活かされるからです。

問題は、覚えた意味を固定してしまうことにあり、象徴を単なる言葉暗記に貶めてしまうのが問題なのです。

さて、そのタロットの一枚一枚の意味ですが、先ほども言ったように、タロットは象徴ですので、ひとつの意味に決まってくるものではありません。

しかも、時々、意味がまったく正反対なのに、同じカードから両方読み取れることもあります。

いや、実は、すべての(特に大アルカナの)カードは、相反する要素や意味を持っていると言ってもよいでしょう。むしろ、相反する意味を見出せない段階では、まだそのタロットカードの理解は浅いものであると認識してもよいくらいです。

例えば、マルセイユタロットでは、「悪魔」のカードがあります。

「悪魔」と言えば、一般的なイメージでは、悪い存在、私たちを悪の道に誘ったり、そそのかしたりするもの、という印象があるでしょう。(第一段階)

一方で、タロットは絵柄なので、その絵柄を観察することによって、出てくる意味があります。例を挙げれば、縛られている(束縛されている)とか、笑っている悪魔や人たちのイメージから、何か面白いこというような意味が出るようなものです。(第二段階)

さらに、その絵柄から出てきた意味や印象と、カードの象徴の詳しいことを学ぶことによって、自らの状況や問いについて考察する視点と言いますか、新たな意味合いも生じてきます。(第三段階、具体例は後述)

この第一段階(つまり、そのカードの持つ一般的イメージとか、名前からくるような常識的観念)と、特に第三段階との間で、相反するような意味が出がちなのです。(時には、第二段階との間でもあります)

「悪魔」の場合、第一段階だと、悪い存在、悪い状態の意味だと思うでしょうが、第二、第三となってくると、それとは正反対の意味、つまりよい状態とか、悪ではなく、正義ということもありえるのです。

これは、「悪魔」の正反対の意味のカードだとイメージされる「正義」と対比すると、さらにわかりやすいかもしれません。

「悪魔」は、詳しくは言いませんが、人によっては、経験したほうがよいこと、悪と思っていることを表現したり、見直したりすることを示している場合もあるのです。

もう少し、わかりやすく説明すると、一般的に悪いことと信じられている概念が、あなたを縛っていることもあるということです。それを「悪魔」のカードが、あなたにわからせようと見させていると考えるわけです。

あなたにとって、本当にそれは悪なのか?

むしろ、逆に、その悪の定義があなたを拘束する縛りとなり、無意識のうちに、自分の自由を狭めていないだろうか?ということも、問いかけられている可能性があります。

正義」についても同様で、純粋な正義という意味そのものは、誰にとっても、いつ・いかなる時も「正義」かもしれませんが、自分にとっての「正義」と、他人にとっての「正義」は別物にもなります。

極端なことを言えば、立場や考え方が変われば、正義は悪と入れ替わることもあるのです。

「悪魔」に戻りますと、一般的に、悪魔は神(あるいは天使)との対比で例えられます。まさに悪いものとよいものの対比です。影と光というイメージでもあります。

ここで、よく言われるように、光は影があるから認識できる(存在する)のであり、両面を見ること(受容すること)が大切というのもあるでしょう。

それはそれとして、こうも考えられます。

(あなたや一般の思う)悪魔は神であり、神は悪魔ではないかと。そう、要するに、まさに正反対だという主張です。

あなた自身、あるいは、私たちが常識的に抱いている悪いこと、「悪魔」で象徴されているものは、神とつながっているどころか、隠された真の神ではないかということ、逆に、よいこと、いい神だと思っている存在・象徴こそが、私たちを縛る悪魔であること、そういう発想も芽生えるのです。

単純な二元の世界観で見ていると、このような発想自体、神を冒涜するとか、悪魔礼賛につながるとか言って、忌避されるものでしょう。

しかし、そうした疑いも「許されない」という思い自体が、それこそ悪魔につながれている状態かもしれないのです。

「悪魔」と「正義」を例にしましたが、ほかにも、タロットカード(マルセイユタロット)は、同時に、それぞれ相反する意味はもとより、多重の意味を想起することができるように設計されています。それは象徴となるよう、意図的に絵柄が作られて)いるからです。

言ってみれば、一度、私たちは自分の思い(常識・信仰・理解したと思っているもの、思い込み)を、タロットの象徴を通して解体し、もう一度再構築することが、タロット活用の目的のひとつなのです。

再構築していく中で、偏りのない純粋なのもの、さらには真理というものが見えてくるかもしれません。

もちろん、人は思い込みや自分のストーリーをもって生きていく存在です。その意味では、まったくの中立とか、真理に目覚めるということは難しいでしょう。

ただ、それでも、認識の誤謬による諸問題は、たくさん起こっているはずですから、タロットをもってその修正に役立てることは、少なからず、できるはずです。

そのためには、タロットの絵柄だけからのイメージ想起だけではなく、きちんと象徴の知的理解が求められます。

そうしないと、感情によって左右されてしまったり、常識的定義に支配されてしまったりして、「悪魔」のカードは悪いもの、「13」は死神だから、怖いことが起こる意味だと、単純なひとつの偏った意味、もしくは感情的に信じ込んだ意味で覚えてしまい、自己(の精神や魂)を解放・成長させていくことに、使えなくなるのです。

タロットなんて学ばなくてもできる、象徴の意味を知らなくてもOKと言っている人は、ただ絵のついたインスピレーションカードだと、タロットを決めつけているからです。

あるいは、遊び気分でタロットを使っており(それが悪いことでありませんが)、真剣にタロットの象徴性を(知的に)学ぼうという精神がなく、言い換えれば、難しいことや勉強するようなことまではしたくはないという、快楽的気分によることがあるでしょう。

そうだとすれば、何もその人は、使うツールとして、タロットでなければならない理由はないと言えます。

話を戻しますが、タロットの理解が深まれば深まるほど、カードからの多重の意味を見つけることができるようになります。

それには先述したように、相反したり、矛盾したりする意味もありますが、奥底では、つまり象徴の根源性としては、どの意味も間違いないではなく、すべてつながっている、同じものなのだということがわかってきます。

そして、そういう学びや気づきの過程が、あなたの認識を変え、霊的な成長へと推し進めていくのです。

本来、タロット(マルセイユタロット)は、そのためにあると、私は考えています。


占いから離れるタロットの見方

タロットを占いから切り離す方法(占い以外での活用を目指す方法)には、いろいろと考えられます。

タロット占いにもよいところはありますが、どうして未来の予言を期待したり、表面的な欲求にかなう方向や結果を(相談する側が)求め過ぎる傾向が出て、問題の本質に気づいたり、時間の概念を超えた(つまり直線的に未来の結果を知ることを目的とするような態度から離れて、過去や現在にも注目し、それらが関連し合っていることを知る)考察に行き着かなかったりすることがあります。

要するに、形を変えた問題のループに、占い的な使い方ばかりをしていると、陥るおそれがあるということです。

ただ、優れたれ占い師は、よき導き手、カウンセラーである場合もありますので、それは占いの技術を、相談者・クライアントにどう活かすかの問題にもなってくるのですが。

それでも、今回は、占い師側の能力とか態度に注目するのではなく、純粋に技法・技術として、タロット占い的なものから視点をはずしてみる方法をお話したいと思います。

まずはじめに、質問の方法を変えるということが考えられます。

一般的に、占いでは、「どうなりますか?」「どうなのですか?」「どちらがいいですか?」という、状態や状況を判断したり、区別したりするものが多くなります。

具体的には、「あの人の気持ちはどうなのですか?」(私のことをどう思っているのですか?)とか、「この仕事を続けるのか、辞めるのか、どちらかよいでしょうか?」「私の今後(恋愛、仕事、健康、金運など)はどうですか?」という感じになるでしょうか。

これは、人間が生活していく中で、人間として悩みがちな事柄であり、正直な気持ちのままに質問すると出てくるような形式です。ですから、質問自体によいも悪いもなく、普通に悩みを持つ人間であれば誰でも抱くものてあり、それが占い形式では、当然多くなるのです。

占いは遊びの面もあるとはいえ、現場では、まさに生身の人間の、現実で生きていく人の悩みに答えるところでもあり、哲学的な回答とか、あいまいな答えは、ほとんど求められていないのです。だからこそ、質問もストレートで具体的、人間の生々しさを表したものとなります。(ただし、最初の質問は、様子見のための漠然とした質問になることもあります)

ですが、占いから離れることを意図すれば、質問自体を意識的に変える必要があります。逆に言うと、質問を変えるだけで、占い(的)にならなくなるのです。

どう質問を変えるかについても、実は色々とあるのですが、ここでは簡単にひとつ挙げるとすれば、「どうすればいいか?」という質問に変えることを推奨します。

「どうなるか?」「どうなのか?」ではなく、「どうすればいいか?」「どういう状態や気持ちであればよいか?」という質問にしてみるのです。

例えば、「仕事はうまく行くのか?」と質問するより、「仕事をうまく行かせるためには、どうすれはよいか?」とか、「結婚できますか?」に対して、「結婚するにはどうすればよいですか?」などのように、変えるわけです。

やってみればわかりますが、前者(どうなりますか?)の時は、結果や状況の推移を見ようという受動的なものとなり、後者(どうすればよいか?)の時は、解決や処理について、能動的に見ていくことになります。

タロットの場合、前者はカードからの結果の予想を期待することになり(お告げ的)、後者は、カードの象徴・指針をアドバイスとして、自らで創造的に人生の選択と行動をしていこうという傾向になります。

次に、(占いから離れる方法として)カードを読む姿勢(視点)を変えるというものがあります。

普通、タロット占いでは、問題や質問を、出たカードの意味にあてはめて占ったり、リーディングしたりします。

そうではなく、カード自体の象徴性を質問者に問うというスタイルを取り入れます。

端的に言えば、「あなたは(私は)、出たカードである」と、カードそのものを自分視するようなものです。

質問に関わらず、「あなたの今はこれなのですよ」とか、「あなたの問題はこのことがテーマです」として、その「これ」とか「この」に当たるのが、出たカードということになります。

ただし、質問に意味がないわけではありません。質問は、そのテーマを示す導入になりますから、質問することは必要です。この場合の質問は、占い的な、「どうなの(なるの)か?」というものでも構いません。

重要なのは質問の内容より、出たカードの象徴性をそののま自分に投影して、考察するという姿勢です。

例えば、「あの人との関係はどうなのか?」という質問で、(名前のない)13というカードが出たとします。

占い的には、カードの意味合いから、別れるべきとか、関係を終わらすべきということ、ほかのタロット種のこの数を持つカードでは、「死神」と呼ばれて不吉な感じで見ることもありますから、そこからでは、この関係はよくない(結果的に別れること)、相手か自分が傷つくことになるなどと読まれることもあるでしょう。

それでも示唆を得ることはできますが、先述した視点に置き換えますと、別れるとか離れるだけではない意味も出てくると思います。

それには、自分がこの「13」であると想像してみるのです。

この鎌は切るためだけのものでしょうか? もともとは農作物を収穫する鎌ですので、刈り取ったり、耕したりすることも考えられます。

鎌(場合によってはスキやクワ)のふるい方も、人によっては必死でやっているように見える人もいれば、収穫するものを自覚して、淡々と鎌をふるっているように見える人もいるかもしれません。(13に自分の姿を見ることによって、自分の滑稽さや、逆に頑張りも見られて、自らを癒したり、冷静に見ることができたりします)

また自分が、このように骨と皮みたいになっている姿を見て、何をイメージするでしょうか?つまりは服も肉もまとっていない(素に近い姿なっている)のです。

そうすると、素直な自分の気持ちとか、この関係性から得られる大事なものとか、結局は自身の何らかの変容や変革に関係していることだと見えてくるものがあります。

結果ではなく、むしろ過程の重要さに思い至るのです。

それぞれの人で、置かれた環境や個性の違いがあるので、具体的な方策とか取るべき行動は異なってくるでしょうが、それでも13の絵と象徴性から出てくる何か共通したテーマは理解できるでしょう。

こうした、引いたタロットそのものから逆に質問や自分を見直してみる方法は、タロット研究家の伊泉氏らの言葉を借りれば、リビジョン(視点の修正・見直し)的タロットの見方となります。

タロットを精神的、霊的に活用していくには、占い的な見方の方法から離れ、タロットの象徴性そのものに回帰しながら、タロットが私たちに語りかけている、質問していると見る逆の発想も求められるのです。

「愚者」が出れば、「旅行に行きましょう」とか、「自由になるのがいいですよ」と読むのが普通の占い的な見方ですが、逆のタロットから語りかける見方とは、「あなた(自分)にとって自由とは何か?」「君(自分)は、どこに行きたいのか?」と問い、表面や建前ではなく、自らの奥底で、それに答えるものなのです。


感情の表出と共感

私は入り口的に、タロットの体験会をしたり、今はやっていませんが、以前はいくつかのカルチャーセンターでタロットの講義を行ったりしていました。

その時に、まず、タロット(マルセイユタロット)の印象を聞いてみることがあります。

たいていの人は何かを答えてくれるのですが、たまに、まったく何も思わない、感じられないという人がいました。

まあ、初期の頃は、こちらの説明とか、言い方とかがまずくて、わざと抵抗気味にそうしている人もあったとは思いますが、前向きに講座に参加している人の中でも、そういう方がいらっしゃることがあります。

その場合、考えられるのは、ひとつには、絵の印象を言葉で語ることに慣れてないというケース、ほかには、自分の感情の表出を抑圧している人というケースです。

前者は、絵に限ったことではないですが、人前であまり自分のことを言葉にして語るのは苦手という、いわばコミュニケーションの問題です。

たとえ人とのコミュニケーションに問題がないという人でも、「絵」や「シンボル」のような、人間ではない静止像に対しては、どう思えばいいのか、たとえ何か感じたとしても、それをどう言葉にして伝えればよいのか、混乱してしまうことがあるわけです。

これは、ただ言葉にできない、言語化できないというだけで、感じてはいるので、それほど問題ではありません。時間が経ったり、場に慣れて来たりすれば、きちんと言葉に表すことも可能になります。

問題は後者のほうです。すなわち、感情表現を抑圧しているタイプの人です。

怖いことに、これは本人に無自覚の場合もあるのです。

「別に・・・」とか、「「何も思いません」とか、一見、冷静な答えをして本人は納得しているかのようですが、実は、感じていることをそのものを拒否してしまって、それが習慣化し、何も感じないのが普通だと錯覚しているような状態です。

例えれば、ひどい肩こりなのに、肩こりすらも、もはや感じる取ることができなくなるほど、(心が)固まってしまっているというようなものです。

心理的に言えば、これも抵抗や自身の防衛ではありますが、このまま放置すると、身体症状が出たり、いつか限界が来て、抑圧されもののはけ口を求めて、感情と行動で暴発してしまったりすることがあります。

ですから、タロットを別にしても、日常で何も感じないという人は、精神・心の危機が訪れているかもしれないと思ってみましょう。

まだ痛みや悩み、不安など、感情的に揺れ動いて、何かを感じていたほうがましであるということです。

そこで、タロットですが、こういう人でも、タロットの象徴性を知り、思考から入ることで、固まった感情が動きを出すことがあります。

感情を抑圧している人は、思考で補い、頭で考える癖になっていることがあります。ですから逆に、思考からは入りやすく、物事も見やすいわけです。

マルセイユタロットには論理的な観察もでき、ある意味システマチックなタロットと言えます。

このため、感情が最初はあまり働かなくても、頭で見て行きつつ、そのうち、少しずつ、水が浸透していくように、意識や感情に働きかけていく作用が出ます。マルセイユタロットはそのようにできているのです。

この場合、ただ眺めているだけではだめで、さきほども言ったように、思考が働くような作業が必要です。

たとえば、ある課題や実際的な質問を、タロットで読み解いていく(つまりはタロットリーディングしていく)、タロットの絵図の様々な意味の考察を思ってみたりするなどのことがあります。

こういう時は、むしろ自分のことより、他人のことでタロットを展開したほうがよいでしょう。

すると、他人ごとなので最初は冷静に見ていられるのですが、そこに人としての感情のパターンが現れていることに気づいてきます。当初は思考での気づきですが、それが、感情的にもつながってくるように「感じ」られてくるのです。

簡単に言えば、タロットを通しての共感です。

こうなると、堰を切ったように、抑圧し、忘れていた感情が、タロットを見て流れ出します。

急に涙が出てしまったり、怒りや苦しみの感情が放出してきたりするかもしれません。それはタロットを通して、少しずつ防壁していたものが開かれていく、いい意味で壊れていくような感情の現れです。

タロットリーディングにおいても、問題を解決したり、占いとして、何か答えを出したりするものだけではないのです。

その大きな意味のひとつとして、感情の表出、気づきというものがあります。

言い換えれば、クライアントの様々な気持ちを出す(気づく)ためのサポートがタロットリーディングでもあります。

そして、クライアントだけではなく、タロットを読むタロットリーダー側にも、タロットの象徴性を通して、感情がよみがえってくることがあります。

他人をリーディングしながら、自分を浄化していることもあるのです。

相談の場では、同じ体験をしていないと、本当の気持ちはわからないと言われることはあります。

失恋したことがない人には失恋した気持ちはわからない、親の介護を経験していない人には、その大変さはわからない、子育てしたことがない人に、その苦労はわからない、お金で追い詰められたことがない人に、貧乏や借金の苦しみは理解できない・・・などなどです。

確かに、その通りです。私も児童相談所時代、若い時でしたから、結婚もしておらず、当然子供もいませんでしたので、「あなたには、親の気持ちはわからない」と言われたことがあります。

ただ、今にして思えば、それは、本当の意味で相談をしていなかったからだと思います。まだまだ未熟だったのです。もっと言えば、共感の仕方を間違えていたとも言えます。

人はまったく同じ人生の人などいません。誰もが違う人生と経験をしています。ですから、同じ体験のままの共感を求めると、それはもともと無理な話となります。

ではどうればよいのか? それは、個々の体験や具体性に落とすのではなく、抽象度をあげて、いわば、「人間としての悩み、苦しみ、葛藤」として、とらえるのです。

つまり、フォーカスするのは、悩みの具体性ではなく、悩み苦しんでいる人の、その感情そのものなのです。

それができた時、(相談をする)人は受け入れられ、思いが伝わった、わかってくれたと感じられます。

そして、人の気持ちや感情がわかるのは、自分の感情自体に素直になり、それを抑圧せず、表出していくことが必要です。(暴走させることとは別です)

自分の感情に鈍感であったり、自分自身を傷つけていれば、当然、人のことに気遣うこともできません。

マルセイユタロットは自分の心の表出、感情の浄化に役に立つことがあります。

先述したように、自分の感情が抑圧されていても、象徴としての意味を学び、他人のケースを通して、タロットから、同じ「人」としての痛みや喜びを、まさに象徴だから感じ取ることができるようになります。(思考から感情へ移行するう方法)

その人とは同じ体験ではなくても、たとえば「13」のカードが出れば、自分にとっての「13」で象徴できるような感情が沸き起こってくるのです。そこがタロットを使う意味にもなります。(ただ、個人的には、タロットであればどれでもいいというわけではないと考えています)

マルセイユタロットが、心理的な意味でのリーディング効果がある理由のひとつは、こういうこと(タロットの絵から感情にスイッチが入ること)からも言えるのです。


自分を出す(取り戻す)ことの意味

タロットを心理的な象徴として見る場合、いわば、自分の(あるいは他者の)心の鏡として読むことができます。

その理由はいつくかあるのですが、やはりタロット(マルセイユタロット)が、人々の意識のパターンのようなものを描いているからだと考えられるでしょう。

いずれにしても、そうやって、心の中の投影像のような形で、タロットを観察していくと、自然に自分の心と向き合うことになります。

すると、タロットで表される数の「自分の心」があることになり、自分(の心や気持ち)というものは、ひとつではないことか如実に理解できてきます。

こうした、言ってみれば、自分の中にあるたくさんの人格や感情、思考パターンのようなものが、その時々で姿を現し、問題や現実の出来事に対処しているわけです。

ところが、こういった自分の中のたくさんの心には、いいものもあれば、悪いものもあります。

いや、おそらく、すべてはいいも悪いもないのでしょうが、バランスを欠いたり、極端になったり、場面によっては適切ではないものが出てしまつたりすることで、悪いものと、とらえられる心になってしまうと考えられます。

これが抑圧された心や、傷ついた心、高いプライド、自己卑下してしまう気持ち、罪悪感など・・・として、ネガティブにいろいろと表現されます。

最終的にはそれらを調整し、浄化し、バランスを働かせて、統合していくことが求められるのですが、タロットを見ていると、まずは、つべこべ言わず、難しいことを考えず、素直に自分の心(本当の気持ち)を知ることが大切かと思うことがあります。

精神世界・スピリチュアル系ではよく伝えられていますが、もうこれからは、自分の気持ちに嘘をついたり、抑圧したりして生きていくと、かえって生きづらくなるのではと言われています。

これは「自分の好きなように生きる」と言ってしまえばそれまでですが、ロマンチストながら、現実派・リアリスト的(笑)なところもある私としては、みんながみんな好きなことして生きていけるわけがないと思ってしまうところもあります。

ただ、これは、今の社会状況やシステムが変わらないという前提、あるいはその中の範疇や現状イメージでとらえているから、そう思ってしまうというところもあるのです。

つまりは、今の現実という枠の中でしか(または、その延長線上でしか)、物事が考えられないから、最初から否定感覚が出てしまうということです。

現実を打破したり、超越、変容したりするためには、タロットでいうと、「愚者」の姿勢が大切です。

実は「愚者」そのものは、実体(愚者という存在)というより、移行するエネルギーそのものが疑人化されたようなものと言え、形や今の現況に留まる状態とは正反対、別のものになってきます。

タロット的に言えば、現実を変えるために「愚者」になるというより、「愚者」に自分を乗せると言ったほうが近いかもしれません。これは「戦車」のカードも別の意味で、乗るということに関係します。

話を戻しますが、自分の気持ちに正直になって生きるということを進めていくと、結局、自分の好きなことで生きていくという表現にはなりますが、それは今の枠組みで考えてしまうと、すぐ限界や無理だという思いに至ってしまうこともあるということです。

それと、好きなことで生きていくというのが、経済や仕事の観点のみにフォーカスしてしまうのも問題です。

結果的にそうなる(好きなことで経済的に生活できる)人もいるかもしれませんが、プロセスとしては、そうではないこともあります。

タロットの小アルカナ的に言えば、剣・杯・杖・玉で分かれる分野があり、経済的な面で見るのは、このうちの「玉」(一般的にはコイン)の部分となります。しかし、それ以外の三つもあるわけです。

要するに、自分自身を生きるためには、小アルカナ的には4組で表される方法や分野があるということで、まずはそのひとつでもいいので、自分を自由に表現させてみるということが、自分らしく生きるということのプロセスにもなってきます。

例えば、「剣」として思考とか、「杯」としての感情とかがあります。自分らしく生きるというと、心に重点が置かれ、感情的な意味での好きで楽しく心地よい気持ちに注視するみたいなことがよく言われますが、感情以外に、思考の分野もあるのです。

それは、自分らしい思考の仕方というのも知ったり、認めたりするとよいでしょうし、思考そのものを、学びことによって、こだわりから解放させていくという意味にもなります。(他人や常識的思考を解除し、自分の思考を取り戻すこと)

もちろん、感情的なことでは、好き嫌いレベルからでも、自分の気持ちを確認しておくことも最初はよいと思います。

欲求や欲望を出すのはまずいと言われがちですが、確かにそれらは低次のものが多いとはいえ、低次は高次と必ずつながっており、まずは順序として、自分の素直な欲求、欲望、願望も認め、満たすことに応えるというのもあるかと思います。(「悪魔」のカードとも関係します)

結局、自分の中には、最初にも言ったように、いろいろな自分(の心)があるので、それを無理からに押さえつけるより、勇気をもって出してみる方向性によって、隠されていた、あるいは表面意識的にはわからなかった自分の姿というものが見えてくるわけです。

そうする中で、「自分の中の思いと言っても、単なる食欲だった、性欲だった、寂しい気持ちからだった」などいうものがわかってきて(淘汰されてきて)、もっと上のレベルの、それこそ、本当に自分がしたい、生きたい、表現したいと思うものが見つかるようになってきます。

そうやって、自分らしさ、自分というものを受け入れ、認めていくと、ついには、自我(自分を自分だと思う、他人と分ける気持ち)を超えていき、低次で言っていた自分らしさではない、高いレベルの自分らしさ(それは自分の望みと表現が、全体と調和しているようなものと言えます)も現れてくると考えられます。

そして、ここが、今日言いたかった一番のところになりますが、一人ひとりが、自分らしさ、本当の自分自身を取り戻していけば、今の社会システム、常識に揺らぎができはじめ、集合意識的な「愚者」の移行エネルギーが働き、次元そのものが移行し、現実的には無理だと思っていたことが、可能になってくるものと思います。

それは新しいエネルギーシステムの発見であったり、働き方の変化であったり、お金の概念の変容だったりと、いろいろと考えられます。

仕事レベルで自分の好きな生き方ができることを目指すのもよいと思いますが、そうでなくても、どんなレベル・範囲からでもいいので、まずはとにかく自分自身を表すこと、他人や社会の評価、計算・打算ではなく、純粋に自分がしたいことを選択するということを実行していく中で、自分自身を取り戻すきっかけが働いてくるのではないかと思います。

だから、今の仕事や生き方をしながらでも、自分を取り戻していくプロセスは歩めると言え、それを実践していくことで、自分自身が、自分にふさわしい(自分に合い、自分が表現てきる心地よい)状況・環境を作り出していく(引き寄せ系が好きな人は、引き寄せると言ってもいいです)でしょう。

ただ、それは、低次の欲望が満たされる環境や状況とは限らず(現世利益の実現みたいなことで言われるものではなく)、最終的には、自分の個の魂や高いレベルでの心が満たされるものだということも付け加えておきます。(現世利益を表現することが使命の人もいると思いますから、それはそれでOKで、まさに自分の現世的な望みを実現し続ける人生を生きる人もいると思います)

まずは日常生活レベルからでも、個性(自分)を出すこと(自分のしたいこと、やりたいことを表現する)、そこから始めてみましょう。


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