タロットの使い方

タロットの浄化と視点

タロットカードについて、私は講義でも述べていますが、物理的な視点と精神的・霊的視点がいるものと思っています。

簡単に言えば、見える部分と見えない部分からの、両方で考えるということです。

まあ、これはタロットに限らずのことでもあるのですが、逆に言いますと、タロットを扱うことで、その両方の視点が養えるということでもあります。

普段、私たちは、見えるほうの考え方がどうしても優先的になり、何か問題が起きたり、普通の思考では解き明かせないことがあったりすると、精神や心、霊の世界に関心が及ぶような仕組みにもなっています。

このあたりは、マルセイユタロットでいえば、「恋人」カードに象徴されるかもしれません。

さて、タロットカードも、このふたつで見ると、ただの紙でできたカード(遊戯カードのトランプだったら、プラスチックのような材質のもありますから、もしかすと、タロットも紙以外の素材のもあるかもしれませんが)ということと、カードの絵柄の象徴性、意味によって、私たちの精神・霊を探求したり、感応したりするものになっているという側面があります。

ところで、タロットに関心がある人は、タロットカードの浄化について聞いたことがあると思いますし、それを実践されている人もいらっしゃるでしょう。

このタロットの浄化についても、物理的な観点とそれ以外の観点がいるものと思います。

物理的なものというのは、紙としての「物質カード」として考えることですから、浄化に関しても、見たままの汚れを取ることを意味します。これは誰でもわかるはずですよね。

しかし、意外に、皆さん、タロットを、普通の、紙でできた物質としてのカードというようには見ないのです。タロットといえば神秘的なもの、占いに使う何か怖いカードというように、最初から物理的な見方を超えてしまっているのです。

柳を見て幽霊だと錯覚してしまうかのように、タロットに何か特別なものを見ようとするあまり、特にタロットに関心のある人は、最初からモノとしてのカードでなくなっていることが多いわけです。

ですが、普通に物質のカードだとして見ると、モノに汚れがついたり、劣化したりするように、それが当たり前にわかってきます。ということは、まず、この目に見える汚れを掃除しなければならないのです。

タロットは、シャッフルという行為をしますので、手でさわり混ぜ、それを何度も繰り返すことで、当然手垢などがついてきます。

もし、タロットを他人にシャッフルさせたり、引いてもらったりする技法を使っている場合、さらに汚れも加速します。(このため、他人の場合はともかくとして、自分が引く時は自分の行為を自分でコントロールできますから、手を洗うほうがよいです)

こうした、いわば、目に見える物理的な汚れを取り除くのが第一です。

次に、目に見えない汚れもあると仮定します。この見えない汚れとは何なのか、定義することは、まさに見えないだけに難しいです。

ただ、あえて言うのならば、思いのようなもの、念のようなものという感じでしょうか。

物質は見えるものですが、物質の中にある構造自体が霊のような、見えないものと同一であるとすると、物質の汚れも、見えないものの汚れも、実は同じようなところがあるとも考えられます。

ということは、タロットを使い続けるうちに、物質的にも、霊的にも、何か汚れのようのようなものが溜まって行き、その(目に見えない)霊的なものの中には、タロットをする人(クライアント、自分)の思いが、言わば「重い」になって、カードに乗るように感じるのものがあるとイメージできます。

この見えない汚れに対する浄化やリセットは、いろいろな方法が伝えられていますし、見えないエネルギーが感じられる人は、自分なりの方法があると思います。

その中のひとつとして、香のようなものを焚いて、特別な煙(香りも含む)を使うという方法があります。

古来より、香を焚いて、空間やモノ、人を浄化することは、よく行われてきていますし、教会や寺院など、宗教施設においては、ごく普通の行為と光景です。

なぜこうしたお香の煙が見えない分野の浄化に効果があるのか、霊的ゆえに今の科学的思考・論理では説明できないでしょうが、伝統的にも続けられている行為には、それなりに意味があることであり、実際に効果もあるからこそなのだと推測されます。

個人的には想像の域ですが、煙の浄化のメカニズムが何となくわかりますが、それはさて置きまして、ともかくも、そうしたことが見えない分野の浄化に功を奏するということです。

こうした香と煙での浄化に使われるものとしては、乾燥ハーブのセージが有名で、よく使われていますし、私も使用しています。

セージ以外でも使えるものもあると思いますし、タロットをする方の中には、見えないエネルギーなど、敏感に感じ取れる人が少なくありませんので、それぞれに工夫を凝らして、実践されている方も多いようです。

私の生徒さんの中にも、見えない部分に感応されたり、エネルギーを読み取ったりする方が何人かいらっしゃいます。

その中のお一人が、この度、タロットの浄化にも使える「浄化セット」を販売されるようになりましたので、それをご紹介しておきます。

ANDROMEDA

材料もフランキンセンスとミルラであり、キリスト生誕の贈り物にも関連する(乳香、没薬)、なかなかに高級素材です。(余談ですが、黄金もそろえると、あなたはキリストになれます。(笑))

それだけにセージなどを使う通常の浄化とは、レベルや次元の違うところがあるかもしれません。ただ、注意点としては、販売されている方もおっしゃているのですが、これらフランキンセンスやミルラの煙はやや粘性があるようですので、カードの浄化で使う場合は、じっくりといぶすより、さっとされたほうが、カードに粘性のものかづきにくく、よいかと思います。

焚き上げる時の小鍋も錬金術の鍋のミニチュア版みたいで面白く、かわいらしさもあります。炭もついていますので、浄化セットとしてすぐに使えると思います。

もちろん、普通に空間浄化としても効果が高いと思います。

ちなみに、サイトでは宝石・クリスタルなども販売されていますので、それに興味のある方、さらにはこの方(やまぐちこあめさん)自身がエネルギーヒーラーで、ちょっと普通とは違う、ある意味、宇宙的なヒーリングをされていらっしゃいますから、何か思うところがある人は、受けてみられてもよいかもしれません。遠隔で受けられますよ。(ペットのヒーリングもされています)

 

タロットの浄化、実はおろそかにはできません。中には、ボロボロになるまで、何の浄化も掃除もせず、ずっと同じタロットを使い続けている人がいますが、それは自分やクライアントの方に、汚れを伝染させているかもしれませんので、注意してください。

タロットカードも、やはり道具でもありますから、道具には手入れが大切なのです。


問題解決のアプローチ

「問題」、これが一体何なのか、定義しだすと様々な意見や考え方があって、人によってそれぞれと言えましょう。

そう、問題と言っても、まったく同じ状況が起こっても、ある人には問題とはならなかったり、軽い問題に思えたりしても、別の人には大変深刻な問題となることもあるでしょう。

そういう意味では、問題は「本人・自分」が困ったり、異常事態と認識したり、何か悩みごと、心配ごと、気になっていたりすることという意味になるかもしれません。

まあともかくも、今回は問題の意味を探るのではなく、問題の解決方法の迫り方、アプローチについてとりあげます。

タロットリーディングのひとつの作用・目的に、やはり問題の解決ということがあります。

従って、タロットの読み方も、当然当人(クライアント、相談者)への問題解決的な読み方になります。

私はもともと、カモワン流(カモワン版マルセイユタロットの創始者のうちの一人、フィリップ・カモワン氏のタロットメソッド)から学習した者ですので、そのリーディング方法として、問題カード・解決カードという展開技術があったことで、はじめのうちから、そうした問題と、それに対する解決、ソリューションを意識した見方をしていました。(ただ言っておきますと、こうした見方が、必ずしもよいわけではありません)

そのような、カード展開メソッドから問題と解決策を考えやすく(読みやすく)する技術もあるのですが、一方で、カードそのものとは別の、いわゆるアイデア(発想)や思考としての解決に迫るやり方があります。

タロットカードを見ても、その象徴する意味や絵柄から何かは浮かんできますが、それを問題の解決として、問題を解いていく(修正したり、よい方向にしていくための)アイデアとして思いつくようにするには、ちょっとしたコツがいるわけです。

言ってみれば抽象的なレベルの解決策を、もう少し具体的なものにまで落とし込む発想技術という感じです。

ところで、マルセイユタロットには、この世界や人を見る時、物質的・心理的・霊的な次元やレベルとして、階層を意識する考え方があります。

まあ、これはスピリチュアル的な視点や論理としては、ごく当たり前のことなのですが、通常は、常識や目に見える範囲、いわゆる科学的目線での解決策を、問題に対して見るのが普通の人の発想です。

病気で言えば、病院に行って、細菌やウィルス、肉体的損傷などの原因とその治療を(現代医学として)行うというようなものです。

ただ、皆さんの中にも経験があるかと思いますが、医学的検査をしても、特に異常や問題が見当たらないのに、自分としては痛みや不調を感じているという場合があります。要は医学的には原因不明で、よって治療もわからない、治療するに及ばず、みたいなことです。

この場合だと、たいてい精神的・心理的なことが原因ではないかと言われることがありますが、たとえそうであっても、なぜ精神的なことで、今の病状を呈しているのかという因果関係がわからないこともあります。それでも、深く見ていくと、それがわかる場合も出てきます。ただ、現代医学的には、その因果関係が解明できない、はっきり説明できないことも多いわけです。

ということで、一口に「問題」と言っても、その解決には、ただの物理的、肉体的、目に見える範囲からアプローチしても、よくならないこともあります。

ということは、私たちは、タロットやスピリチュアル的な見方で言えば、少なくとも、三つの階層によって、問題を見て、解決も図らねばならないと言えます。

三つというのは、先述した、物質・精神・霊です。言い方を換えれば、現実的・物理的観点、心理的・サイキック的観点、霊的・魂的観点です。

そして、これがすなわち、問題解決へのアプローチ(と発想)となるのです。

さすがに、昭和のバリバリな物質的観点中心のアプローチから、平成には、精神や心の理解、アプローチが増えて、もはや問題の原因や解決にも、心の分野があることは常識となりました。(しかし、迷信や非科学的にものを排し、物質的・合理的・科学的なアプローチを極めていくためにも、物質的観点は必要なものと言えました)

例えば、私がかつて公務員時代、うつ病になった当時、今ほど精神の理解は少なく、心の問題や病気は、かなりの面で、古典的な精神病扱いが多かったように思います。うつなどの言葉自体も、一般的にはまだ特殊なものでした。それが、今や当たり前の常識みたいになっています。

ただ、平成時代に向かった内的方向性、精神・心側への問題に対するアプローチは、令和になり、そろそろ別の転換が求められるようにも思います。ある意味、すべてを「心理的な問題」とする傾向に、拍車がかかり過ぎているようにも思うからです。

精神と物質は別ではなく、つながっていること、根本的には同じものであること(同じところから出ていること)が次第に解明されつつありますし、多くの人がその関係性が分離できないものに気づいていますが、それでも、どうしても、そのふたつを統括的・統合的には見ることができず、別々のアプローチになってしまいます。

例えば最初に出した病気の事例でも、今の治療の扱いでは、内科・外科など各科ごとに分離されていて、特に精神・心療関係と、その他の病気や不調は、病院・診療所として別であることがほとんどです。統合的に見るような場所は一般的ではありません。

これからは、病院で言えば、それぞれの専門性、科として独立しなからも、同時に連携して統合され、情報が共有されつつ、診断と治療が行われていく方向性に進むか、進んてほしいという希望があります。マンガ・アニメの「攻殻機動隊」に出る概念ですが、「スタンドアローンコンプレックス」、独立したものでありつつも、ネットワーク的な集合的情報共有意識を持つみたいな感じです。

さて、結局、問題へのアプローチについては、すでに述べたように、私たちは物質的・物理的・科学的アプローチを持つのは当然としても(宗教やライトスピリチュアルに傾倒してしまうと、このレベルを疎かにしたり、否定したりしてかえって問題を悪化させてしまうことがあります)、精神や心の面から見ること、さらにはもっと大きな魂や霊的なレベル、個人のカルマ的な意味で見たり、さらには人類全体の進化のような視点から見たりすることなどで、これまで膠着状態にあった問題が解決に向かう場合があります。

それぞれにはそれぞれのまた専門性と階層性があり、宇宙や世界の入れ子構造(ホログラフィクでホロン的な構造)を思えば、私たちの現実の世界と人間にも、その専門性と階層性が存在していると見ることができます。

ということは、問題を肉体的・物理的なアプローチで見て解決してくのを得意とする人、心理・精神・サイキックを得意とする人、霊的なレベルで見ることを得意とする人がいて、その世界観があると言えます。

それでも、結局、統合する(本当の意味で問題を解決する)のは自分自身ではあるでしょう。

それから付け加えておきますと、これはあくまで私の考え方ですが、物質的、精神的、霊的という階層において、問題の捉え方も変わりますので、その解決や解決状態というのも、それぞれに違ってくると思っています。

極端に言えば、物理的な解決は良し悪しがはっきりしており、直った(治った)とか良くなったというのが明確なものになります。運の良し悪しでも見るような世界です。

翻って精神や霊的な方向性の解決は、それらが一見普通の人の感覚からすればあいまいで、良くなったのかそうでないのかという見方ではなく、何かの気づきであったり、問題はまだあったとしても、問題として認識しなくなっていく(問題とは思えなくなる)ようなものであったりします。

言ってみれば、より高次的な解決になればなるほど、問題そのものを現象として扱わず、認識への変容として、外的より内的に向かうというもので(しかし、すべての原因は自分にあるというのではなく、外と内の統合性に向かうもの)、認識が変われば、今までのレベルでは問題は存在しても、それはあたかも存在しないかのようになるので、実際に当人から観測されず、観測されないからこそ、問題は現実レベルでも消えてしまうこともあるわけです。

マルセイユタロットでは、「吊るし」や」節制」、「月」などのカードが、問題解決の意識変換と特に関わっており、それゆえに、発想を変えたアプローチが、解決として求められます。

押してダメなら引いてみな」という言葉があるように、ただひとつのアプローチだけてはなく、ほかの階層から働きかけることで、解決に進展することがあります。自分一人では無理な場合(なかなか解決しない問題は特に)、先述したように、それぞれの専門性の人がいるので、援助をいただくのもよいでしょう。

「問題」は、最終的には問題として起こっている意味に気づくようになっていますので、それは「問題が問題ではないという意識に変わること」でもあり、言わば、「問題」と「解決状態・問題のない状態と」が等しいと認識できる意味にもなりますから、それはすなわち次元上昇を意味し、グノーシス(神性・完全性への回帰の認識に至ること)の過程と言えるのです。


チャネラータイプとタロット

私たちは「斎王」と呼びますが、一般的には大アルカナナンバー2の「女教皇」と呼称されているカードが今日のテーマと関係します。

今回、なぜこのカードを取り上げたのかと言いますと、タロットとチャネリングの関係を少しお話したいと思ったからです。

チャネリングが何であるのか、これにも定義や解釈が色々とあるようですから、細かく言い出すときりがないので、ここでは簡単に高次の存在や(心)霊的なもの、目に見えないものからの情報をキャッチできる能力としておきましょう。

名前の通り、見えない何かの情報とチャンネルを合わせることのできる能力、あるいはそうする行為というわけです。

現実でも、テレビや携帯などで、チャンネル・周波数、情報階層を合わせないと見ることも聞くこともできず、通信が成り立たないですよね。でもチャンネルを合わすと通じるわけです。それと同じようなことです。

そして、マルセイユタロット的には、チャネリングを行う(行える)人の象徴を、この「斎王」で表すわけです。もちろん、チャネリングの象徴は、他のカードでも示すことが可能で、「斎王」だけというわけではありません。

ただ、マルセイユタロットには、システマチックに考えられる要素があり、それによれば、この「斎王」がまさに現実の世界で、人間として(通常や常識範囲の人間)のレベルでは見えない、わからない情報を受容することのできる存在に、全体のカード構成からも言えるものなのです。

このカードは、大アルカナが22枚もある中で、数的には二番目に位置するということは、非常に大きな意味があるのではないかと推測されます。

端的に言えば、おそらく古代では、私たちが意識する日常生活とは別の次元(レベル・世界観)と、普通にチャネリングのようなことができる人たちが多くいたのではないかということです。

もっと言うと、それは難しいことではなかったと想像できるのです。(タロットのナンバーが少なめ、最初のほうに出ていることは、そういう意味も言えるかもしれないということです)

しかしながら、やはり誰にでもできるわけではなく、「斎王」が女性で描かれているように、まず性別として女性である必要があったと思われます。

タロットを見ていると、人間としての平等観、統一感(ひとつなる存在感)は強調されつつも、むしろ性では、その差や役割、別の特質が、よりはっきり区別されているように感じられます。

タロット的に言えば、画一的に男女を等しく扱うことは、逆に差別的になるような気がします。

やはり、女性には女性性としての、そして男性には男性性の、性による違いと役割があり、それらが森羅万象の二元表現とリンクし、最終的には、ふたつが統合されるところに真の平和と神なる次元の具現があるのだと、タロットからは考察されます。

いわば、分離があるからこそ統合に向かい、その統合感の喜びもまた、分離していた分、大なるものがあるのだと想定できます。

それはともかく、今日の主題は、実際にチャネリング的な能力がある人が、タロットを使う場合の話です。

私のタロット講座にも、いわゆるチャネラータイプの女性が学びに来られることがあります。そういう人は、タロットに呼ばれたとか、自分のチャネリングによって、このタロットとの縁を知ったとか、マルセイユタロットを学べと言われたとか、いわゆる狭義のスピリチュアル的な理由で来られることが多い気がします。

けれども、私自身は男性であり、教え方や教える内容も、タロットという、一般的には直感的なツールと思われているものでも、論理的なほうになります。

だから、もしかすると、チャネラータイプの人には合わないのかもしれませんが、幸い、私の講座は少人数制やマンツーマンが多いので、その人の個性に応じた配慮もすることができます。

ですから、チャネラータイプの人には、特にタロットリーディングにつきましては、普遍的な基礎技術はお伝えしますが、結局は、チャネラーとしてのタロット使いの推進をサポートする方向になって行きます。

ちょっと前に、カウンセリングとタロットリーディングの違いを書きましたが、チャネリングとタロットリーディングも、ふたつは似ているところはありますが、やはり違うものなのです。

まず、チャネラーの人が、チャネリングをメインとしながら、タロットを補助道具として使用するケースがあります。

逆に、タロットリーダーの中(タロットの情報を中心にリーディングする場合)に、チャネラー的素養があり、タロットを読みつつも、別のところから情報を得ている人もいます。ただ、これを自覚している人といない人がいます。

チャネラーを主とする人は、本来、タロットがなくても現実を超えた、あるいは現実の次元とは異なる情報を自らのチャネリング能力によって得ることができるはずですが、タロットを学習して使うことで、利点もあるのです。

それは、まず、何も道具がなく、直接自分の能力で、ある情報次元につながることは、結構なエネルギーを使うことでもあり、慣れないチャネラーや、エネルギーコントロールの未熟なチャネラーでは、かなり疲れてしまうことがあるわけです。

そこにタロットというツールを間に入れることで、緩衝材のようになり、チャネリングの情報(エネルギー)を、カードに一度グラウンディングするかのように落とし込んで、相手に伝えると、自分の負担が減るのです。

相手(クライアント)もカードを見るので、カード自体の象徴性と情報もありますから、チャネラー本人がすべて読む、情報を降ろすということをしなくても、クライアント自身で気づいてもらう、情報を得てもらうことも起こります。

また、もう少しチャネラーが慣れてくると、タロットの象徴システムを利用して、自分のコンタクトしている次元にリンクさせて、タロットカードをコンタクトゲートやプロトコル、パネルのようにしてしまうことも可能です。

こうした場合、タロットの意味というより、タロットを通して降りてくる情報を、相手に伝えるというような形になります。こうすると、情報ダウンロードの時点で、雑音や混信も少なくなるのではないかと予想されます。

タロットを通信道具の逆方向(地上から天上・別次元への方向)として使うこともでき、それは、タロットを通して、バランスの崩れた現実次元の情報を高次元に送ることでクリアにしたり、調整したり、昇華したりしていくように持っていくことができるでしょう。

これはタロットをヒーリング装置に使うことでも、同じようなことが言えます。

結局、チャネラータイプの人は、タロットは自分のチャネリングの時の消費エネルギーを減らしたり、安全にチャネリングを行ったりする補助・整理ツールとして使え、さらには、チャネリング能力を磨くための途中の過程として、タロットを能力の磨き砂ように使えます。

ですから、最終的には、タロットはいらなくなると思います。

これとは別に、タロットリーダーではあるものの、チャネリング能力も開花させていく人は、タロットの象徴と、自分がコンタクトする次元の情報とを合わせて、クライアントに伝えていくということになり、個性ある独特なタロットリーダーになっていく可能性があります。(またチャネリング能力の向上が飛躍的に進んで、タロットから離れて、純粋なチャネラーになる方も人によってはあるでしょう)

広義の意味では、誰もがチャネラーと言えますが、やはり職業的・プロ的なものを求められるとなると、それなりの修行や能力の向上、様々なもののコントロール技術も必要となるでしょう。

そのためのプロセス、安全段階として、タロットを使うこともある得るのです。

それと、チャネリングとはまた違う話になりますが、「斎王」は女性にとっての聖性や巫女性を象徴し、この部分を回復させることは、女性性においても、またパートナーとの関係においても重要となりますから、普段日常にまみれ(現実に振り回されて)ギスギスしてしまっている人は、「斎王」というカードを大切にしてみるとよいでしょう。


多様なるモードの自分

マルセイユタロットを心理的に見る場合、カード自体が私たちの心や姿を象徴していると読むことがあります。

カードに自己を投影すると言ってしまえば簡単ですが、ちょっとニュアンス的には投影とも違います。

まあ、しかし、そこは難しく考えず、あえてシンプルに、カードが自分の気持ちなどを表していると見ることもある、とします。

一般的には大アルカナ22枚が、マルセイユタロットの場合、絵もついていてわかりやすいので、大アルカナを心理的に見るほうがスムースですが、小アルカナも、宮廷カード(コートカード)が人物絵になっていますし、数カード(数札)は記号的ではあっても、特に数の意味を見ていくと、これも何らかの形で自分を表していると取ることができます。

マルセイユタロットは極めて優れた象徴システムを持ち、大アルカナは心を動かし、小アルカナは現実や具体に焦点を合わせ、つまりは現実を動かすことができるような設定になっています。ただし、両者を組み合わせることが重要です。

この意味(だけではありませんが)で、やはりタロットは78枚なくてはならないというのが私の持論です。

さて、そのような、いわば、「自分」を多面的に象徴する(ことのできる)「タロット」なわけですが、ここで一度タロットから離れて、「自分」というものを考えてみましょう。

では、これから、素朴な質問で、なおかつ、深淵ともいえる質問をいたします。

「自分」とは何ですか? あるいは、「自分」とは誰ですか? どの時・どの姿が「自分」なのですか?

自分って、「このわたし」でしょ? と言う人がいるかもしれませんが、では、その「このわたし」とは誰で、何なのでしょうか?

結局、これらの答えはなかなか出ないと思います。

よく本当の自分とか、ありのままの自分とか言いますが、それもたくさんの自分の姿や思いの中のひとつに過ぎないのかもしれません。

だいたいは、自分の気持ちに正直になっている自分とか、嘘をついていない自分、一番ストレスフリーのリラックスしている自分・・・というのが、ありのままとか、本当の自分とかでとらえられていることが多い気がします。

しかし、それもよく考えれば、「そういうモードの自分」と言えなくもありません。ということは、他のモードの自分は別人なのかということです。

確かに、何も気遣わない自分というモードは、外や他に向けて変形しなくてもいいので、それが本当の自分に近いのかもしれません。

ただ、突き詰めてしまえば、どの人も、外部的なものにまったく無関心で無頓着、反応しないようになっている(そうしていい)自分というものになれば、電源オフのロボットや機械のような代物になるのではないでしょうか。もっと言えば、判で押したような金太郎アメ人間ばかりになる気がします。

こうして見ると、おかしな話ですが、ありのまま自分の究極とは、無個性の人間で、皆同じ人になってしまうことも考えられるわけです。

逆に言えば、私たちは自分の様々なモードを持つことで、個性が保てている、多様性が存在しているとも言えます。

そして、ここが重要ですが、自分が多数の顔や姿、心を持つということは、他者との比較や外からの刺激があってこそのものです。

先にも言ったように、外に反応しない自分は、行き着くところまで行けば、スイッチオフの無個性な自分になるおそれがあります。

違う言い方をすれば、他人と比べることができないので、自分が区別できなくなるわけです。それは、つまり、自分(自我)が失われるという意味に等しいです。

よって、あまり、ありのままの自分を探そうとしたり、こだわったりしたりせず、リラックスモードとか、他人にあまり気遣わない意味の正直モードの自分というものが多くの自分の姿の中にいて、それが抑圧され過ぎていないか、そのモードになることを否定しようとしていないかを見るくらいの気持ちがいいのではないかと思います。

自分の生活環境が、リラックスモードの自分、心が軽いモードの自分をかなりに出しにくいことにしているのであれば、それは変えたほうがいいかもしれません。

また、環境の問題だけではなく、たくさんの自分の姿の中で、権力を握っているものや、多く出る時間を与えてしまっているモードの“自分”を、他のモードの自分たちと調整・修正していく必要があるとも言えます。

簡単に言えば、暴走している自分を、ほかのモードの自分によってコントロールしていくということです。

それには、多様性ある、多くのモードの自分を認めることが大事です。自己受容が、自己変革や自己の調和につながる意味も、ここにあるのです。

そして、もうひとつ大事なのは、先ほど述べたように、自分は他人との比較によって「自分(自我)」というものができあがっています。

ということは、他人との関係は、自分をいい意味でも、悪い意味でも、大きな影響を及ぼし、自分(自我・個性)を作り上げる要素となります。

個性は、パーソナリティといわれるように、ペルソナ、仮面という言葉から来ています。他人や環境によって、仮面を付け変えて(つまりはモードチェンジして)生きるているのが、普通の私たちです。これは機能に過ぎませんし、またこれがあるから生きられるようなものです。

ただ、この現実の仕組み中では、個性は機能たけではなく、自分の役割や使命のようなもの、生き甲斐、自分の存在価値にも関わってくることがあります。

個性・パーソナリティが、他人や周囲よって規定されてくることが多いのであれば、それに振り回されるだけでなく、意図的に自分の環境や人との交際を選択することによって、他者からの影響を変え、結局、自分のパーソナリティモードも増やしたり、変えて行ったりすることも可能になるわけです。

単純なことで言えば、落ち込んだり、自分の価値が低いとか、否定的なモード、ネガティブモードの自分になっている時は、他人から励まされたり、いいことを指摘してもらったり、勇気づけられたりすることで、自分のモードが肯定的なものに変わることは、誰しもが経験していると思います。

つまりは一人だけで悩み、落ち込んでいても、その悩みモードの自分の中だけで堂々巡りするだけで、なかなかモード変換、モード脱出ができないわけです。

自分の個性は自分だけではなく、他人や環境によって決まってくるのですから、一人で閉じこもることは、かえってそのモードの固定化を招きます。

※ただし、自分の中で次元(レベル)を変えた他者モードを登場させることができる場合は、むしろ一人になって、その状態を出すほうが問題解決になることもあります。いわば瞑想などによって、高次の自分・ハイヤーセルフと会話するようなものの場合です。

他者からよい影響を受ける場合でも、人のモードの共通的パターンを知っておくとよいことがあります。

自分自身の中で、暴走モードの自分、抑圧モードの自分を知ることもできますし、人を見て、自分にとってはあまり出ないモードの自分を見分け、その人からの刺激で発動させる(よい意味で)こともできます。

そのようなパターン・モードの整理、モデルとして、マルセイユタロットが使えるということです。

世の中にはポジティブーモードの人もいますが、自分を否定したり、価値がないと言ったりして、ネガティブになりがちの人も少なくありません。

でも、それも一種のモードなのです。ただ、自分がなりがちなモードがそれだということです。

無理に「こうしなくてはならない」とすれはするほど、劇でいえば、ひとつのモードは(あなたの人生という)劇からの退場に抵抗します。(だって、誰でも主人公で長く出たいでしょ?(苦笑))

よく出るモードの自分が、俺が、私が主役だと言い張るわけです。

ですから、そういう自我モードの自分を認めることと、無理に退場を願わないということです。主役で楽しんでいるそのモードの自分の演技は、十分やれば自然に終わってきます。

あるいは、ほかのモードの自分を抑圧したり、役を与えないようにしたりせず、いつでも主役になれるよう、少なくとも、自分の中にいることを発見し、認めておくことです。

それには、他人からの指摘というか、評価も必要なことがあります。(あなたはこんないいところがあるんだよとか、あなたすごいですよとか、評価される自分の経験や、生きていることを受け入れてもらえる他人からの態度とか言葉)

そうして、自分の中にあるいろいろなモードの自分を、自分の劇場でまんべんなく演じさせていくと、いつしか、劇を超えたもの、モードを作り出している次元が見えてくるでしょう。そこにこそ、本当の意味での自分が存在するのです。

だから、あなたは現実では、どんなモードの自分にもなれますし、どのモードであってもいいのです。


タロットとイメージ力

タロットは絵でできているカードなので、イメージと深く関係してきます。

タロットはこのブログでも書いてきているように、様々な使い方があり、その多くの中のひとつが、イメージ力をあげるためのトレーニングツールとして活用できることです。

しかも、ほとんど意識しなくても、タロットを使い自己や他人をリーディングしていくようになると、自然にイメージの力は上がっていく仕組みになっているように思います。

その理由は簡単です。

タロットを読むということは、実際の相談ごとの情景を思い浮かべて、それがタロットの絵として共通しているものがあるか、関係性があるかどうかを、イメージとタロットとの絵柄とで検索するようなことをしているからです。

つまりは、イメージを意識的に使うことが、一連のリーディング作業に課せられているのです。

もちろん、カードがなくても、人はいつもシーンや光景を思い浮かべることはしていると思いますが、タロットリーディング自体が、特にイメージを喚起するような流れになっているので、イメージする力が高まるわけです。

また、最初は何も思い浮かばないという人でも、カードの絵柄、特にマルセイユタロットは、あえて芸術性や刺激のあるような絵にしていないことで、むしろ人間誰しもが持っている意識の元型のような形を描ているので、不思議とイメージが段々としやすくなってくるのです。

ところが、このイメージの力というものは、実は創造の力とも結びついており、特定のカードで言えば、「女帝」や「力」、さらには「13」や「悪魔」などとも関係してきます。

言ってみれば、現実化する前の元のエネルギーのようなニュアンスがあります。

「引き寄せの法則」「思考は現実化する」などの本、あるいは説などで知られているように、人の想念・思い、つまりは想像力は、日本語として音が同じの「創造」につながり、いわば“想像した通りの創造”が行われると考えられています。(これには、条件や制約がついて回るとは言えますが)

ということは、必ずしも、いいことばかりが創造されるわけではなく、まさにイメージしたことが起こる(あるいは、起こる源泉になると考える)というのなら、ネガティブなことも生じるおそれもあるわけです。

タロットリーディングの際、例えば、さきほど挙げました「女帝」カードの問題性として、創造の過剰さというものがあります。

これは創造にための想像が、悪い意味で過剰(ネガティブイメージのし過ぎ)になっていると言う事態を示します。

女帝(の象徴性において)は本来、創造的な性質を持ち、まだ現実にないものをイメージの世界でクリエイトすることができます。

しかし、これがよいことの想像だったのならいいのてすが、いわゆる取り越し苦労のような、まだ起こってもないことを先々に心配してしまい、その不安で自分を悪くさせている場合があります。

しかも、ネガティブなイメージや思いは、もともと強い力を持つことが多い(この理由は後述します)うえに、タロットを使うような人になってきますと、最初にも述べたように、イメージ力が向上してきますから、人によってはネガティブイメージのクリエイト力が上がってしまい、現実にまでそれを引き起こすケースがあります。

簡単に言えば、ネガティブ想像の現実化です。

ですから、イメージ力が上がることは、いいことばかりではないのです。(何事もよい面と悪い面のセットにはなっています)

さきほど、「人によっては」と書いたように、イメージ力が上がっても、ネガティブの創造性が増す人と、ポジティブの創造性が強くなる人など、個人によって異なってきます。

一般的に、自立性が少ない人、他人の影響を被りやすい人は、イメージ力が向上しても、ネガティブさや、人の想念など、他人の影響によって自分のイメージが作られることが多いため、その力の影響力が、かえってマイナスに作用することがあります。

また、人類の集合的意識のようなものに、かなりのネガティブさが溜まっていると想像されるため、今の地球の人類は、どうしてもネガティブに流されたり、その力に飲まれたりして、本来ポジと等しいネガであるものが、幻想的(仮想現実的)に、ネガが上回るような世界になっているところがあり、そういうことからも、イメージ力の増強がネガティブ想像(創造)強化につながる場合があるわけです。

そして、霊的な向上など、スピリチュアルな成長・発展を遂げたいという思いの人が、イメージ力を上げていくと、イメージ空間とも呼べる、ある種の次元との接触が強くなってきて、自分の未浄化の部分(データ)を掘り起こすことが起き、次々と障壁・障害のようなものが実際に出てくることがあります。

長い目で見れば、それはよいことでもあると言えるのですが、障害が出る現実となると、苦労や大変さもあるのは事実です。

というようなことで、タロットとイメージの力は密接に結びついてはいるものの、その使い方には気をつけるところも必要で、結局、自分の体・心・魂を調和させていくことをしないと、せっかくのイメージの力も乱用させたり、自己を破滅させたりすることになりかねないわけです。

ですが、もちろんよいこともたくさんあり、イメージだからこそ、自由に世界を創造することが可能で、現実で押し込められた自分、必要のないルールで縛られた自分の世界を解放させることができます。

またつかみとごろのなかったものを、絵や像として、とらえることができるようになります。

これらは現実をコントロールすることと、大きく関係してきます。

「人はイメージできないことは実際にもできない」と言われますから、逆に言いますと、イメージの力が強まることは、生きるうえでのパワーやフォースを得ることと等しくなるのです。


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