タロットの使い方
大アルカナを小アルカナ化する。
タロットは、通常78枚あり、大アルカナと小アルカナというパートに分かれています。
マルセイユタロットでは特に小アルカナの数カード(数札)の絵柄が記号的(それでも記号ではなく象徴ですが)なものになっていることもあり、意図的に大アルカナと小アルカナに違いを持たせていると考察することができ、私は講座では、このふたつのアルカナの違いを明確に意識しつつ教えています。
しかし、タロットへの考え方、扱い方は、それこそ扱う人の数だけあると言ってもよく、大と小を区別なく使う方もいらゃっしゃいますし、絵柄から見ても、その違いがあまり意識されない種類のタロットもあります。
前述したように、私は両アルカナを区別していますが、それは、使い方というより、使う目的により違えていると言ったほうがいいかもしれません。
ここでも何度か書いているように、私は、大アルカナは天に向かう方向、言い換えれば現実からの開放や離脱を目的にするアルカナたちで、小アルカナは、反対に地に向かう方向、地上生活に適応するための便宜的な指針を得るアルカナたちと考えています。
私自身は、人生の目的が、すでに大アルカナ的なものになってきておりますので、自分に対しての小アルカナの活用をあまり重視していないところがあります。(他人リーディングでは別です)
ただ、人の好みは、その魂の目的も含めて、まさに人それぞれでしょうから、きちんと小アルカナについても、講座ではお伝えしておりますし、それを活用して、現実生活を充実させていくことにタロットを使うのもよいと思います。
それで、極端に現実・地上生活に、タロットの指針を活かそうという人は、やはり、タロットカードの全セット(デッキ)、つまり78枚のフルセット、フルデッキを積極的に使っていくほうがよいと思います。
従って、その場合、絵柄に大と小のあまり区別のないタロット種を使うのがよく、マルセイユタロットのことをここで書いていてなんですが(苦笑)、そういう目的の人は、マルセイユタロットではないタロットを選択すると、目的とツールがなじむ(適合する)のではないかと思います。
まあ、不思議なもので、自分に合うタロットの種類を自然に選んでいるもので、たとえ最初に選択が違っていても、学んでいる途中、あるいは最初から違和感を覚え、自分にふさわしいタロットに変えていくことは、実際によくあることです。(ですから、今使用したり、学んだりしているタロットに対し、違和感が激しい場合は、タロット種を変えることも検討すればいいと思います、習う先生も、そのタロット種を使う専門の人に変えるとよいです)
タロットで現実をよくしたいと願う人は、いわば、小アルカナ的な世界観でもって動く人になり、だからこそ、メインは小アルカナの活用が望ましく、もっと言えば、大アルカナを小アルカナ化することで、さらにカードの象徴性を具体化することができます。(現実に活きてくるということ)
大アルカナを小アルカナ化する方法は、いくつかあるのですが、まずは、さっきも述べたように、逆の発想になりますが、小アルカナの絵柄が大アルカナとあまり違いのないものになっているタロットを選ぶとよいです。
一見、これは小アルカナの大アルカナ化のように思えるでしょうが、実は逆で、マルセイユタロット的に見れば、小アルカナ(特に数カード)に大アルカナのような絵がつけられた感じになり、結局は絵によって、象徴性がより具体的になっているわけで、モノ的なカードの数が増えたことになって、実情は小アルカナ的なものが増加したことになるわけてす。(小アルカナは具体的世界を象徴しますので)
もうひとつは、大アルカナを4組に分けて活用するという方法があります。
小アルカナの基本の枠組は、四つのグループに分けられていることです。それは四大元素(風・水・火・地)をモノとして象徴化した形です。(剣・杯・杖・玉、一般的な名称ではソード・カップ・ワンド・コイン)
一方、本来、大アルカナは、この四大元素を超えるものとして認識しなくてはならないのですが、あえて大アルカナの小アルカナ化となれば、大アルカナを逆に4組に分けるということが方法論として出てくるわけです。
しかし、大アルカナは22枚あり、4組に分けるとしても、割り切れません。そこで、「愚者」と「世界」の二枚を例外のカードとし(その二枚はオールマイティ扱いとする)、残りの20枚を5枚ずつに分けることで、4つのグループに配分することができます。
どの大アルカナを、どの四大に入れるのかは、これも様々な考え方があるので、一概には言えませんが、四大元素の性質の特徴や象徴が色濃く描かれているものを見つけたり、例えば天使や壺が水、剣が風のように、もともと大アルカナの中に描かれている四大元素の象徴を取り出して、分けてみるのもありでしょう。
ほかには、意味を具体化することによって、大アルカナを小アルカナ化することもできます。これは、さっき述べた大アルカナを4組に分ける方法とはまた別のやり方で、大アルカナを4組の意味に置き換えます。
つまり、剣・杯・杖・玉の4組別に、さらに大アルカナの22枚に意味をつけていくという方法です。
例えば、玉はお金や経済を示すものとして、そのお金に関する典型的な意味を、大アルカナの絵と象徴性を利用して、22枚別にあてはめると同時に、数カード10枚別にも細かな意味を設定し、宮廷カードにも人物的な意味を付与しておきます。すると、お金の問題には、誰がいつどうすればよいかという、具体的方法や解決策が自動的に出てくる(占える)ようになります。
こういった大アルカナの小アルカナ化は、まさに占い向きであり、どんなことが起きるの(現れるの)か?とか、どうすれば(現実の意味で)幸せの道が選択できるのか?といったことに、非常な効果を発揮すると考えられます。
それはもともと、絵柄としてある(絵のつけられている)大アルカナの具体性に(断っておきますが、大アルカナの本質は抽象性にあります)、小アルカナの細分化する具体性が加わって、いわゆるカードがモノ化、言葉化するために、この現実世界に適用するシンクロを起こす(具体的なシンクロ性に気づく)からと考えられます。
つまり、現実のサイクルや流動を、日常的なものや言葉で具体化・可視化することになって、現実の運命の波に乗りやすくなるわけです。
言っていることがよくわからないかもしれませんが、具体的な言葉やモノとしての絵があれば、日常もイメージしやすいので、普通の生活での(通常意識では気づけなかった)運命の流れや関連性、気づきが発見されやすいということなのです。まあ、平たく言えば、カードが示す内容が、当たると感じることが多くなるということです。
これは、言ってみれば、日常に適応した特殊能力を持ったり、第六感的な新しい感覚器官を持ったりすることに近くなるのです。(しかしあくまで、現実の範囲内でのもの)
小アルカナ的に使えば使うほど、現実との適合精度やシンクロ率も上がってくると思えますから、ますます、タロット使いが未来予測や幸せ選択のエキスパートになってくるかもしれません。
ただ、自分のために使用すると、欲やエゴが強くなって、いくら具体的な指針であっても、冷静に判断したり、選んだりすることができなくなることもありますから、人のために使うほうが、効果的だとは思います。それに具体化するテクニックは、なかなか技術もいるものなので、経験や直感性も上げていく必要はあるでしょう。
と、書いてきましたが、私自身は、このような大アルカナの小アルカナ化的な使い方は、好みでもないですし、おすすめしないことでもあります。あまり言いたくはないですが、幻想を強化することになるからです。ここでいう幻想とは、「現実」と皆さんが思っている通常の感覚のことで、インド哲学的にはマーヤーと呼べるものです。
とはいえ、きっと、そうした使い方をしていくと、人生は楽しく、エンジョイできますし、気の合う仲間も増えてくるとは思います。
もちろん、大アルカナと小アルカナを分けて使い、大アルカナメインの方向性を選択していくことも、それはそれで、本人にとっては、別の意味でエンジョイなのです。(笑)
つまりは楽しみの質と方向性が、大アルカナと小アルカナでは違うわけです。
だから最終的には、タロットは、使う人の思い・目的・好み次第と言えるのです。
タロットに聞くこと、聞かないこと
西日本を中心に、かなり大雨が続いて各地に被害が出ました。災害に遭われました方々にお見舞い申し上げ、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。
さて、今日の記事です。
タロットの活用を考える場合、なんでもタロットを引いて、聞いて(聴いて)みるという態度には問題があると言えます。
まず、そもそもタロットに聞くまでもない話や、タロットを引く以前に、聞く人や尋ねるべきところがあるのではという問いがあるでしょう。
メールしたり、電話したりして、行動して確認すれば済む話とか、医者に行ったほうが確実に体調と治療のことはわかるとか、そういう類のものが意外にたくさんあります。
また場合によっては、天候なども、占ってみるのは面白いかもしれませんが、今は天気予報を見るほうが正確な情報を得られそうです。
これはタロットを習い始めて、とにかくタロットを使いたいという時や、タロットに慣れてしまって、疑問や質問があると、タロットを引く癖になってしまっている人のタイプでいます。
それから、極端に物質的・現実的問題、端的に言えば、お金の問題で緊急を要するような時も、タロットで回答を得ようとするのは難しいでしょう。
例えば、借金がかなりあり、明日までにすぐ返さないと大変なことになる、何とかできないか?という問いでタロットを引いても、なかなか実際的な回答を得ることは厳しいと思います。
これは極端な例でしたが、必ずしも、お金に関することではなくても、現実的で切迫した問題の場合は、タロットを引くより、やるべきことが先にある、ほかにあるということが常識的に言えます。
さて、昔と今とでは、かなり文明の発達度合い、生活環境も大きく変わっています。便利な道具・機器、コミュニケーション・移動のツールも、格段に進化、増えている状態です。精度やスピードも昔とは次元の違うレベルになっています。
そして、それに伴い、人々の理解や情報の扱いも濃密で大量になり、かつては未知だったもの、奥義や神秘だったものも、今や常識となったり、誰でも理解できるレベルになったりしています。
例えば占いにおいても諸説ありますが、占いができたり、活用されたりした背景のひとつには、今のような科学的機器やツールがなく、あるいはあっても精度が悪かったため、占うことで、情報の正確さを上げようとしていたことがあります。
ということは、逆に言えば、もう占いや、そのようなツール・技術で情報を得ようとする分野は、現代ではかなり縮小されていると考えていいわけです。
では現代において、何を占ったり、タロットでリーディングすればよいのか?です。
これも、いろいろと考え方はあると思いますが、ひとつには、情報の取得そのもの(回答そのものを得ること)を目的とするよりも、情報の確認、念押し、または、違う観点からの見方を得るために活用する(タロットで見る)ということです。
この時代にあって、情報はあふれかえっており、しかもネット検索もあるように、ほとんどのことは調べればわかります。
しかし、それでも私たちは安心したり、確認したりするために、別の何かを知りたがります。それが、いわゆる運命とか、見えないつながりとか、相手の気持ち、自分の様々な心とかになっってくるわけです。
また、自分で調べて、確かにわからないことの情報は得たものの、今一つ、腑に落ちない、気持ちが納得しない、誰かや何かに後押ししてほしい、同意を得たいという状態があります。
情報が氾濫しているだけに、選択にもかえって困り、回答がまるで選び放題であったり、逆に正しいとわかっていても、自分がそれを選択してもよいのかどうか、自分以外、常識以外のものからお墨付きもしてほしいわけです。
君は、あなたは正しい、それで行け!みたいな後押しがほしいのです。いわば、自分の選択の整理、確認、念押しです。
ということは、タロットで見るものとは、本質的には心の問題が大半だということです。
人の心模様、動き方、反応の仕方は、喜怒哀楽と言われるように、昔も今も同じです。
このことは、私のことで言えば、民俗学をやっていた時に、昔と今の暮らしを調べていて、結局、環境が違うだけで、人々の意識の状態・パターンは同じだと実感したことでも言えます。(情報と知識の度合いは違いますが、人としてはやはり反応は同じなのです)
ですから、タロットは、心の分野として、今も、おそらく未来(まったく意識構造が変化した場合は別ですが)も使えるものです。
占ったり、リーディングしたりする質問自体は、なるほど、なになにをいつ始めればよいのか?とか、好きな仕事で成功するにはどうすればよいか?など、現実的な問題・具体的問題であることも多いです。
しかし、結局のところ、科学的に回答を出すわけでもなく、本当にほしい答えは、いくら人が正しいと言っても、自分(クライアント・相談者)が納得するものでなければなりません。この「納得するもの」というのが、必ずしも、論理的・科学的ではないのです。つまりは、気持ちや心の問題なのです。
言い換えれば、タロットで出す答えは、万人に納得する客観的なデータとか、普遍的な数学的(誰がやっても、あるいは何度やっても同じ答えになるものの類の)回答ではなく、その人個人が気持ちで納得するものなのです。(他人が正しいというものも、自分の気持ちを納得させるひとつの手段となります)
と言ってしまえば、タロットにロジックも、何もまともなものはなく、思い込みの回答でいいということにもなりそうですが、実は、そうでもないのが、タロットの面白いところです。
タロットにもそれなりの論理・ロジックがあり、それは常識分野での科学とか論理とは違う種類のものなのです。(しかし、真には相通じるものでもあります)
だから、実は本人が納得すればいい、というだけの話でもないのです。
ややこしくなりましたが、基本は、タロットで見ることというのは、心を納得させるための一種の念押しや確認であり、それはいわゆる現実世界で求められる確固とした科学的・論理的答えではないものの、背景には霊的・神性的ともいえる論理(真理といっていいもの)が隠されており、それも作用することもあるのかタロット(の回答)というわけです。
前にも書いたように、タロットリーダー、タロットを扱い、タロットを活用する者には、タロットへの絶対的信頼が必要です。これは無理して信じるというようなものではなく、タロットを学び、使っていく中で、自然に出てくる信頼感です。
しかし、それは妄信や依存、文明進化の否定・後退、非科学への酔心というものでもないのです。
現代人として普通に常識で生きる部分も大切にし、それだけでは解決しない部分、納得いかない部分に対しては、特に見えない心の分野において、タロットという象徴ツールを使うことにより、心を意識化、健在化させ、問題の解決や癒し、整理に使っていくことができるのです。
このあたりをバランスよく、そして混乱させないように区別していくと、タロット(だけではなく、占い・心理・スピリチュアルの様々なツール、技術)もうまく活用していくことができるでしょう。
女性・男性 タロットの学びで。
タロットを学習される方は、私の生徒さんも含めて、やはり女性が多いです。と言っても男性の方もいらっしゃいます。
そうやって見ていますと、やはり、タロットの学び方には、性別による個性といいますか、特性があるように思います。
最近ではジェンダーフリーが言われ、ことさら女性らしさ、男性らしさを強調して教育されたり、話が進められたりするのはよくないこととされています。
しかし、私の通っている整体の河野先生もおっしゃっていましたが、明らかに男性と女性とでは、体の構造からしてまったく正反対の性質を有しているようです。先生の研究と実践によりますと、磁性においても、SとN、プラス・マイナスが、本当に正反対・対称に配置されているようです。
ということは、男性・女性同士の結びつきも、磁石のように、本来は引き合うようにできているわけです。ところが、最近の人は、この磁性が乱れたり、逆転していたりする人がおり、つまりは異性同士でも反発してしまうことになるわけで、カップル成立が磁力的にも難しい時代になっているのかもしれません。
なぜ男女の磁性が乱れるようになったのか原因は特定できないものの、おそらく今の社会・生活を見れば、自然に反していることが多いわけですから、こうなるのも当然の結果なのかもしれません。磁力は地球とも結びついていますから、私たちは地球・大地から離れた生き物になりかけているとも形容できます。地球に逆らっているわけですから、それは大変なわけです。
さて、話をタロットに戻しますが、女性は、よく言われるように、感性・感覚的なもので物事をとらえよう、把握しようという傾向があるため、タロットを学習する前のほうが、感覚的にタロットがよく読める場合があります。
いわゆる「知識」を入れると、もともと備わっていた直感的なセンサーでダイレクトに感じ取ることに対して、知識をもとにした思考的な信号が入ることで、感性・直感センサーがクリアーに働かない状態になるのだと推測されます。
これが逆に男性の場合は、イメージや感覚が最初から出てくることが難しい人が多く、たとえそれがあっても、常に本当だろうかとか、根拠があるのだろうかとか、正解・論理的な理由を見つけようとしますので、知識がないと、まったくタロットが読めない(と思い込んでいる)という人になりがちです。(女性でも男性的な人、男性でも女性的な人の場合は、自分の性とは異なる傾向が出ることがあります)
それならば、女性はタロットを勉強しないほうがよいのか?と言えば、そうではありません。
最初の直感センサー(でわかる)のものは、実はまだまだセンサーとしての感度・精度にぶれがある状態です。自分の心理状態や健康状態に左右されることもあります。
とても冴えている時とそうでもない時のギャップが激しいうえに、つながっているレベルやエネルギーもまちまちなことがあります。ひどい場合は、わざと低次な言い方をすれば、狐憑きとか、低級霊の力を借りてセンサーとするみたいな様相を呈します。
そこで思考や知識での客観性、確かさ(方向性や軸となるもののこと)を入れていく必要が出るのです。自分が直感的に受け取ったものが、どれだけクリアーなものなのか、また、他人に説明したり、提示したりして、他者にも共感・理解してもらうものになりえるのか、それは言葉とか知識を介してになるのです。
また自分のためだけにタロットを使うにしても、象徴的知識がないと、やはり自分での客観的指針を得ることができず、精神や霊的な道の過程で遠回りや、憑依されて(サイキック的なことだけではなく、メンタル的に妙な偏った思い込みに入ることも意味します)のおかしさな方向に進まされるという危険もあります。(だから通常は、見えない世界の探求では、指導者や先生、客観的な立場でいてくれる別の人の存在がい必要なわけです)
一方、男性は知識偏重になることを避け、自分の感性が信じられる、より高度の思考(感性と融合した思考)に行き着くことが求められます。タロット学習でいえば、学べば学ぶほど、発想や思考を自由にさせていく方向性であり、それには自身の感性をまず受容することが大事となります。
女性も男性も、いわば、自身の反対の性である部分を認め、開花させ、自身の性と統合を果たしていくことが理想的です。ある意味、感性と理性、感覚と思考みたいな区別が、女性性と男性性の違いにもなってきますが、人として見た場合、性別に分かれていても、どちらも自身のうちにはあるものです。それが表現や傾向として、女性と男性では出し方が違うみたいなことです。
感性だけでは受動的になりがちで(直感であれ、感覚であれ、受け取ることがメインとなりますので)、どうしても自ら創造するという方向性には行きづらくなります。また思考だけでは、ひとつの正しさだけを追い求め、どこまでも批判と試験を繰り返し、際限のない直線を走り続けることになります
ただ、女性の場合、子供を産むという大きな創造がありますので、自らのうちに、受容性と創造性のふたつを併せ持つと言えます。そこが古代からの象徴体系で、女性性の優位と言いますか、重要視されることのひとつだと考えられます。そもそも男性も女性から生まれるものであり、私たち、いやすべてが、宇宙という母体の中にいる、母体から生み出されているとたとえることもてきますから、女性性の崇高さは、女神性・宇宙の神秘として称えられるものと言えましょう。
そういう意味では、本来的に、女性はすでにあらゆる智慧に通じており、何も学ばなくてもよいのです。
何かの選択でも、すでにわかっている、知っているという感覚を得る女性は多いと聞きます。ただ、そのつながり(クリアーさ、智慧につながる高度な感性)が濁らされていることが、現代女性では普通で、従って、自らの感性を信じることができず、今は情報にあふれかえっていますので、いろいろと迷うことも余計あるわけです。それは、誰かの意見や思考、感覚に影響されやすいことも意味します。
ですから、私はタロットの講義でも女性の皆さんにお伝えしていますが、学習すること、知識を入れること、思考性を高めることは、実は女性にとっては自身の女神性(叡智とつなかる存在部分、高い巫女性)を確認し、その精度を回復させるための補助・プロセスの意味になっているのです。思考や知識は決して邪魔なものではなく、それをどう扱うかが大切です。
知識が入ることで、ブレて眠っていた女神的な回路の存在とシステムに、思考からもスイッチが入り、男性性的な創造・探求心が湧き出し、感性に力を与えます。
自身の男性性を(実は女性性も拒否している場合もあります)認め、受け入れ、統合することで、逆に女性性が魅力的に、高く輝くことになります。男性も同じで、逆の性を本当に理解していくことになり、女性への対応も変わるでしょう。
そうしたものを感覚と同時に論理としても理解と認識をするのが、マルセイユタロットの象徴システムだということです。実際にペア・カップルとして組み合わせられる関係性のカードも多くあります。
マルセイユタロットを学び、それを使っていく時、自然と、女性性と男性性の統合が図られるよう、まさに図示されているのです。
タロットからの「待つ」象徴
人間、活動的・活発的な時ばかりではありません。
静かである時、待機している時、控えめにしている時なども必ずあります。
まさに静と動が循環しながら、その時その時で、私たちの生に現れているのだと言えます。
ところでタロットはあらゆる面で、象徴図として活用することができますが、やはりこの静と動の対比においても、象徴性の違いを見ることができます。
今回は、特に「静」に着目し、静的な象徴のタロット(大アルカナ)を取り上げ、中でも「静的態度」においても特徴的な、「待つ」ということにフォーカスにして、見ていきたいと思います。
さて、「待つ」ということを示しているタロットカード(マルセイユタロットの大アルカナ)には、どんなものがあげられるでしょうか。
明らかに静的なカードといえば、2の「斎王」、9の「隠者」、12の「吊るし」、18の「月」と言ったところでしょうか。
やや静的な感じとすれば、17の「星」なども入るかもしれませんし、そもそも人物が活発ではない、動いていない(座っている)ものも静的だと見れば、3「女帝」、5「法皇」、8「正義」なども考えられますし(「皇帝」も玉座に座ってはいますが、半立ちで行動的です)、立っている者でも、あまり動いていない者ならば、15「悪魔」もそうかもしれません。
また、ほかは動いていても、自らは静止しているような状態だとすれば、10「運命の輪」の、輪の上の動物(スフィンクス)とか、「力」とか「戦車」のような動的なものでも、御者(コントロールしている方)を見れば静かかもしれません。
実はタロットは、陰陽的な統合も示しているので、どのカードにおいても、静と動の両方は考えられるのです。(このことはとても重要ではありますが、今回はテーマではないので省きます)
このように、静的なカードというものも、いかようにでも見ることは可能なのですが、今回は、「待つ」こと、「待機する」ことの象徴性に絞って、あえて恣意的に、数枚取り上げさせていただきます。
それらは、具体的には、「斎王」「隠者」「恋人」「運命の輪」「吊るし」「悪魔」「月」です。
ちょっと「静」とは言えないようなカードも入っていますが、これらは、どれも「待つ」ことを意味する(そういう意味を含む)カードたちです。そして、その待ち方に違いがあるのです。
「斎王」は、受け入れによって蓄積していく(貯まっていく)ことを待ち、「隠者」は、極めていく過程で指導してくれる者、または反対に指導を受ける者を待ち、「恋人」は迷いの中で、気づき・インスピレーションが起きるのを待ち、「運命の輪」は、ひとつのサイクル(周期)が終わるを待ち、「吊るし」は動きを停止して、観察しながら状況推移を待ち、「悪魔」は誘惑した行方(欲望の火の燃え方)を待ち、「月」は本能や自然(天体の動きを含む)のリズムを待ちます。
この中でも、「斎王」と「隠者」、「運命の輪」と「月」、「恋人」と「悪魔」、「吊るし」と「月」、「恋人」と「運命の輪」、「斎王」と「吊るし」など、ある種のペアによって似ている待ち方があることもわかります。
それから、「内的な待ち」と「外的な待ち」があることも見えてきます。
「内的な待ち」というのは、自分の心や状態、内側を中心(基準)とした待ちであり、例えば心が落ち着くまでとか、心が満たされるまでとか、情熱が起きてくるまでとか、疲れが取れて来るまで(肉体・精神両方ありますが、いずれも客観ではなく、自分が実感するという基準が主です)とか、自分の感じ方を中心とする待ち・待機です。
一方の「外的な待ち」とは、環境とか組織とか他人とか、自分を取り囲む外側のものの状況・サイクルが整うまで、変化するまで待つというようなものです。
言ってみれば、どちらも「機が熟すまで待つ」ということなのですが、それには、内側と外側の「ふたつの熟し方」があるわけです。これを一枚のカードであえて示せば、「運命の輪」のタイミングとなります。
ただし、スピリチュアル的に考えれば、内と外は同一、見方の違いでしかないので、結局、内の待機も、外の待機も、同調していると見ることができます。(物事には終わっていくタイミングと、満ちて始まるタイミングなどがあり、それが内外で一致していくことも意味します)
さきほど、一枚で示せば、「待ち」も、つまるところ「運命の輪」のタイミングとして表せると述べたように、ほかの待ちのカードも、「運命の輪」と重ね合わせることで、待つ要素の性質や種類を分けることが可能になります。
それは「斎王」として待つのか、「月」としての待ちなのか、「恋人」としての待ちなのか・・・という具合です。ここに数と四大元素の違いを明確に持つ小アルカナも稼働させれば、具体的な待ちのタイミング期間や時期についても予想することができます。
とかく、今の時代、意図的・人間的(他人の作った)情報があふれ、その刺激によって、自らの静的な状態、待ちの姿勢が崩されることが多くなっています。
電池にも充電が必要なように、そして物事にはタイミングがあるように、待機したり、待ったりして自分自身を確かなものにしておく保持期間が必要とされるのです。そういう意味では、「吊るし」で象徴されるよな「籠もる」ことも、かえってよいことにもなります。
「静」は「聖」と言葉でもつながるところがあり、普段の俗的な中での動きによって消耗し、低俗になり過ぎた自分に対して、静は、神聖さを取り戻す、神や高次のものとつながる、俗とは区別された時間や場所を意味します。
静的なカードや待ちの象徴のカードが出た時、そのことを意識するとよいでしょう。
二元統合へのアプローチ
まず予告的なお知らせをしておきます。
東京でのマルセイユタロット講座(基礎ハイクラス)を、6月から8月にかけて(土日ベースで)開講する予定です。
詳細は時期が来ましたら告知いたしますが、関東圏、東京での受講を希望している方は、この機会をご検討ください。ほかのところでマルセイユタロットを学んだ方でも、もう一度改めて学び直したい、今後、マルセイユタロットを継続して学んで行きたい(リーディング技術など学習指導してほしい)という人にも門戸を開いておりますので、お問い合せくださいませ。
なお、個人講義として日程も自由に組めるスカイプ講座もありますから、通常の講座や関西に通うことが難しい方は、スカイプでのオンライン講座もご検討いただければと思います。
さて、本日の記事です。
マルセイユタロットの教義には、大元になるものと(普遍的で抽象的なもの)、細かな個人個人に関するもの(個別的で具体的なもの)とがあります。
その大元になるもののひとつに、二元統合という概念があります。
二元とはふたつのもの、ふたつの性質、ふたつの次元と言ってもよい、要はふたつに分かれているもののことです。それをひとつに統合すること、それが二元統合の意味です。
マルセイユタロットの大アルカナを見れば、ふたつのもの・二人の人間が描かれていることが多いことに気がつきます。
もちろん、三人とか四人(3つとか4つ)の数になるものもあるのですが、例えば三人であっても、一人を中心としてみれば、ふたつのものの間にいること、四つであっても、二つずつに分けられることを思えば、二元統合と関係している趣旨を見ることができます。
人の場合、二人の人間(の統合)となるのですが、心理的には、別の自分という表現はよくされますし、皆さんにもなじみがあるのではと思います。
心理的に言う、もう一人の自分とは、シャドーや抑圧された者であったり、無意識の自分の部分であったり、また、自分を律したり、教育したり、指導したりする自分、反対に許し、癒し、優しくする自分ということもあります。
要は普段(日常)の自分と、特殊であまり自覚できない自分とがいて、それらも結局すべて自分であるので、統合すれば完成された自分(自己)として、全き人になるという考え(方)です。
これをもう少し、スピリチュアル(霊)的表現に変えれば、低次の自己と高次の自己がいて、それを統合すると完全性、神性的(仏教的には仏的)人間になるということです。あるいは、性質として見れば、女性性・男性性の統合と考えることもできます。(神的状態とは両性具有)
このような二元統合で難しいのは、普段、高次の自分、より尊い自分がわかりづらいということです。そもそもその意識に芽生えれば(覚醒すれば)、統合の苦労もないとも言えます。(苦笑)
逆に言うと、ノーマルな人間的、時には動物的ともいえる(低次の)自分はいつもそこにいるわけで、それが自分の普通状態なので、なかなか高次の自分、違う自分がいると言っても実感しえないわけです。
これは、単純な二元で分けようとすることと、あまりに統合を高尚なものや、高いレベルの愛・スピリチュアルで考えようとするから難しいのだと言えます。
何事もレベルや段階があります。
そして、二元統合へのヒントは、おそらく反対の分離した二元状態をもっと自覚することにあると考えられるので、まずは何と何が分離状態にあることかを意識する・自覚できることが最初だと思います。
言い換えれば、統合意識(目的・理想)から入るのではなく、分離状態を認める、観察することから始めるのです。つまりは現状観察です。
ただし、今までの日常的に流されてしまう通常意識では観察態勢に入れません。
観察するには、観察する観測装置か、観測環境(状態)を作る、入手する必要があります。そのためにタロットがあり(ほかのツールでももちろんOK)、瞑想とか、内省とか、孤独(一人になる)とか、日常意識状態から非日常意識状態へと移行する手続き、環境作りが求められるわけです。
そうした観測意識状態を意図的に作るということが大事です。次に、「レベルや段階がある」と先に書いたように、いきなり高いレベルの統合を思ったところで無理なものは無理です。(笑)
二元統合のもうひとつのヒントは、二元が無数に枝分かれする連続二元構造になっているのを知ることです。
どういうことかと言いますと、大元にふたつに分かれたものが、その両方でさらに二つに分かれ、その分かれたふたつが、またそれぞれでふたつに分かれていくようなものをイメージしてみれば、このことがつかめると思います。
下の階層に行けば行くほど、低レベルの二元分離状態になっており、実は低レベルなものほど、具体的なものに近づき、個性的でわかりやすい状態にあるのです。(このことを説明するのには少し長くなりますので、今はそうしたものだと思っていただければよいです)
個性的でわかりやすくなるというのは、個人レベル(自分の感じ、考えるレベル)でわかるというもので、言い方を換えれば、今の自分の世界でわかっている範囲でOKということです。
つまり、他人や本などで得る知識とか感じ方ではなく、今、自分が感じている「悪い自分」「欲望に負ける自分」「低俗な自分」「嫌な自分」と、「良い自分」「積極的な自分」「負けない自分「愛あふれる自分」「崇高な気持ちになっている自分」のままで、その分離を自覚すればよいということです。
難しく考えるのではなく、自分レベルで、何かもう一人の別の自分がいること、特に、ダメな自分を見ている自分がいることを感じ、思考することです。その日常的ではないもう一人は、厳しく機械的な自分の時もあれば、すべてを許し、見守ってくれる優しい自分のこともあるかもしれません。
いずれにしろ、何かいつもの自分とは違う別の者がいると感じているはずです。そうでなければ自己の反省も、愛情も、成長も、改革も、比較もできないでしょう。
こうやって見ていくと、低次と高次で単純に分けるのではなく、低次、つまり普通の弱く流されやすい自分の中に、それを応援し、見守り、時に厳しく叱るような自分がいることを普通に感じるもので、それは低次の中の高次なのです。
この場合の高次は、最初に分けた低次と高次と無関係ではありませんし、最初の高次と同じ性質を持つのですが、レベルや次元においては別物なのです。
言い換えれば、その高次は、あくまで通常レベルで感じる、ちょっと高い部分の私というものなので、自分自身で届きやすく、感じやすい(自覚しやすい、わかりやすい)のです。
そうしたレベルで分離した二元を意識すれば、統合の道も開きやすくなります。
とはいえ、レベルの低い段階からの統合ですから、急激に変化があったり、突如現実が変わったりするものではなく、つまりは夢のような魔法的方法ではなく、コツコツとした経過を辿るもの(方法)です。
しかし、レベルは低くとも、確実に統合への道に入るわけです。統合された分、分離状態は解消され、次のレベルの統合段階へと移行します。階段が上がるということは、下の階層は卒業しますので、文字通り、次元の異なる経験・見方を今後はしていくことになるのです。
また、二元統合の道には、見方を変えれば、自分の中の二人の統合だけではなく、自分と相手という二元とその統合もあるわけで、さらに、自分の中の二人、他人の中の二人という、これまたふたつの存在のクロスにもなっているのです。
二元統合は四元統合と関係している(二元統合は四元統合の意味でもある)ことは、タロットで象徴される四大元素を見るまでもなく、言えることです。
女性性・男性性で言えば、それぞれの異なる性を内に見るだけではなく、異性相手との間にも、自分の性と異なる相手の性、さらにはお互いの中の異性を統合していくことでもあります。
パートナー関係においても、これに精神と肉体というふたつ(二元)の統合観点も入れることで、上述した性質(女性性・男性性という二つの質)の二元統合のアプローチもまた深淵なものにしていくことができます。
あえてソウルメイトやツインソウル的な考えを入れれば、それをスムースに協力して行える関係の者同士がそれであるとも言えますし、反対にスムースにできない人であっても、二元統合の意味で、現実の関係や表現はどうあれ、対立しつつも深め合うことができる関係の者ならば、やはりソウルメイトと言えるかもしれないのです。