タロットの使い方
自分と他人 大アルカナの象徴
マルセイユタロットの、特に大アルカナ22枚は、いろいな象徴と元型を表しますので、活用の幅は広いです。
ここで、ひとつの見方として、22人の人間パターンというように考えてみますと、外向きには、ほかの人たち、個人それぞれの性格や職業、特質としてとらえることもできますし、内的には、自らの内にある、別人格と見ることも可能です。
カードを中心(基準)にして、内と外を見る、そうすると、面白いことに気づいてきます。
それは、まるでカードが鏡、あるいは切り替えゲートのように感じられ、結局、内も外も、カードを通してみれば、反転しているだけではないかと考えられるというものです。
タロットカードがあるだけで、内外をつなぎ、その壁を取り払うことができるのです。
性格や人間パターンをテーマとする時、カードは、あなたの中の人間(人格)と、周囲の人、すなわち自分とは違う他人の性格や人格との共通点(パターン)を、見る人に自覚させます。
「私の中のこれは、あの人の中のあれにある」 反対に、「あの人のあれは、私の中のこれにある」 このようなことがカードの象徴を通して、見えてくるわけです。
人は共通点が見つかると、親近感を覚えるものです。
自分と他人は違う存在(人間)であるのは間違いないのですが、それはあるレベルにおいての話です。通常次元と言い換えてもよいでしょう。
しかし、もう少しレベルや次元を上げていけば、違いは少しずつ消え、共通点のほうが目立ってきます。
究極まで行けば、人はみな同じということで、確かに遺伝子構造レベルでは同じ種ですし、もっといえば、生物全部という概念で、すべてのものは根源的なものとして、ひとつの存在に象徴できるでしょう。
面白いもので、人は、思考や感情によって、他人と一緒の統合空間や抽象空間を作り出すことができます。
例えば、愛し合っている者同士の間では、共通点のほうが意識することが多く、それは、二人がともに「同じ」でありたいという気持ちから生み出されているものです。
特に時間と空間を一緒にしたいという思いが出てきているため、三次元の中に別のスポットを作り出しているようなもので、そこでは、まさに“二人の世界”ができあがっており、その意味では、その世界は狭いようでいて、次元やレベル、質が変容しているため、二人という間では、ほかの人よりも共有感が出ているのです。(逆に別れたいペアは、お互いが違うことを意識し、現実の一般時空に戻ろうとします)
愛し合う二人の間では、「あなたは私、私はあなた」という感覚(を求める気持ち)が強くなり、個別・具体・違いとして隔てていた壁は薄くなるか、消えるかしています。(とはいえ、そういうモード状態の時だけの話で、これは、どちらかというと幻想空間に近いですが)
人間関係の問題では、違いや異質性を発見・強調し、指摘することで、反発やこじれがひどくなってきます。
相手を嫌な人、嫌いだと思えば思うほど、自分と相手との違いを見つけようとします。
ところが、タロットカードによる元型パターンに戻して、レベルを上げ、抽象化していくと、違いはむしろ消えていき、同じところが目立つようになります。
たとえ違いを認識しても、それはタロット的に言えば、22の違いでしかないので、逆に個性として認め合うことも可能になります。
ところで、タロットには「世界」というカードがあります。このカードは21という数を持ち、数の順番として見ると、最終局面、到達点のカードともいえます。いわば、完成された「世界」(境地)というわけです。
すると、その「世界」というのは、単独で存在するものではなく、バラエティあってのものということが絵柄からわかります。
究極的には「世界」としてひとつでありながら、多くの個性や違いをもって、有機的に統合されているように見えるもの、それが完成された「世界」だと、このカードは語っているかのようです。
いや、見方によっては、すでに1という最初の数を持つ、「手品師」(ほかのカードでは魔術師・奇術師)の段階で、「世界」と同じ要素があり、それは、もう、最初からいつも「世界」の状態であることが示されているようにも思います。ただ、その表現やレベルの段階が違うのだということです。
人の違いを、自分から排除するために見るのではなく、むしろ助け合いや生き残りのため(生存戦略)に、必要なこととして観点を変えれば、異質点も、世界全体の中のただの一面(しかし完全性の中では必要なピース)としか見えず、こだわり過ぎることもなくなり、排除するものではなく、受け入れるものとして見えてくるでしょう。
内的に見れば、嫌な人の部分の中、異質と感じる人の部分の中に、自分があこがれたり、ほしいと思ったりしている能力が存在している場合もあります。もちろん、バランス的には過剰なものとして(逆の不足もあり)見せられ、気になってしまうということもあるでしょう。
「あの嫌な人のどこかに、自分があこがれたり、ほしいと思うような要素があるのか」と、誰もが思うかもしれませんが、それは個人個人として、具体的に見過ぎているからです。
ここでも書いたように、カードを基本として、パターンや元型として抽象化していけば、個人的人格(その人の表す実際の人間性や性格、考え方・行動様式の意味での人格)から離れ、ひとつの人の型として、データのように見えてくるでしょう。かといって、記号化(単純な機械的な形式で見てしまう方法)してはいけません。
ここで言っているのは、カードによる自他の人格の抽象化のことであり、結局のところ、他人を見て、自分の内的な人格を統合していこうという方法のひとつを述べているのです。(これには相手から見た自分という視線も必要で、都合、自他統合の意味では、ふたつではなく、四重の統合になります)
と言っても、無理矢理嫌いな人を好きになる必要はありません。それはストレスがかかるだけです。
そうではなく、(他)人というものを現実性や具体性から切り離し、純粋な象徴パターンとしてとらえ直すことで、自らの囚われを解放し、見えてくるものがあるということです。
あなたが気になる人、それは好きでも嫌いでも、中立性(何も思わない)を超えて、そう感じるのなら、あなたの中にそれ(その人)を気にかけなければならない何かがあるのです。
それが、マルセイユタロット的にいえば、大アルカナ22のカードの象徴性として見ることができるのです。
なお、このようなケースでの(象徴化を支援するツールの)場合、大アルカナでなければならない理由があります。このことは、またいつかお話することもあると思いますし、講義では説明しております。
とにかく、タロットの活用と応用は、皆さんが思っているより広範囲であり、特に、ある専門知識とか技術を学んでいらっしゃる方にも、別の整理ツールとして有用になると思います。
タロット学習におけるメモやノート
タロットを学習するとした場合、皆さん、ノートやメモを取りますか?
自分のこととして振り返った時、私はたくさんノートを取っていたと思います。
まあ、字が汚いので、あとで読むと自分でも何を書いているのかわからず、困る事がよくありますが。。。(^^;)
それから、これは、フランスで受けたカモワン・タロットの講義の時のことです。その時受講生用に用意されていたボールペンでノートに書いていたのですが、それがどうもインク性能が悪かったのか、あとでノートを見ると、文字が薄く消えかかっていたものがあり、これはちょっとショックでした。(苦笑)
タロットは、絵の象徴の学習であるので、あまり文字を書くこと、ノートを取ることに集中し過ぎても、かえって絵柄から関心をはずしてしまい、よくない場合があります。
日本人の、中年以降の人の学習・勉強方法のスタイルは、学校教育の時に身に着けたものがほとんどで、そのため、先生が板書して、それをノートに書いて、あとでテストの前に暗記する・・・などの形式に慣れてしまっている(固まってしまっている)ところがあります。
ですから、どの勉強でも、そのスタイルが出てきて、結局、ノートに取る事が勉強の中心になるケースが多いのです。
これの欠点は、ノートに書くことによって、いかにも勉強した気分になっしまうという点です。
書いた内容をまだ覚えてもないのに、ペンを動かし、筆記したことで、何か作業した気持ちになり、また講義を聞いているのも事実ですから、自分としては学んだ気分になっているのです。
けれども、その時点では書いた内容を覚えているわけでもありませんし、先述したように、書くことに意識が取られ過ぎていて、肝心の話や、絵・ビジョン・視覚、その他、書く以外で入る情報を見逃してしまうおそれがあります。
従って、タロットに限らず、学習の際に、先生や学校によっては、ノートに取ることを禁止している場合もあります。(その場合は、資料があとで配られることがあり、文字情報は補填されることがありますね)
講義によっては録音が認められることもありますので、書くことにとらわれ過ぎず、講師の話している内容や示される図などに、集中するほうが、受ける講義としては充実していることになるかもしれません。
まあしかし、長年の学校教育の癖はなかなか変えることが難しいので、無理やり、ノートを取らずに話から覚えるという方法をやり過ぎても、かえって、その人にとっては効率が悪いこともあります。
人間、慣れた方法を採るのが楽で、効果的という場合もあるのです。
それでも、タロットを学習する場合は、ノートに書くことだけではなく、やはり、先生の話とともに、タロットそのもの、図柄・絵をよく見ていただきたいと思います。
その時、講義の話題やテーマになってるカードを、自分のタロットできちんと手に取り、確認し、見ることです。
時には、先生の説明している以上のものが浮かんてくることもありますし、これまで気が付かなかった絵の象徴、細かな部分などが発見できる可能性もあります。
その時の驚きやインパクトはなかなかのものがあり、そうしたことが印象として刻まれ、ただ単にノートを読み返すよりも、ライブ感覚の学習として効果があるわけです。
特にタロットは絵のカードですから、学習している時、講義を受けている際のシーンも、あとで同時に思い出すような形式にすると(つまり、イメージとして講義全体をとらえること)、さらにタロットの学びに、生き物的な感覚が出てきます。
講師側でも、あまりホワイトボートに書くことをし過ぎると、それを筆記しようと、もう自動的に生徒さん側で働くことがありますから、それを防ぐためにも、講師や先生のほうも、書くことに対しての配慮が必要かと思います。
しかし、逆を言えば、たまに書くこと、あるいは、強調して大きく書いたり、声や話とともに、「これはメモしておいてください」というようなものは、「書く必要が重要なことなんだ」「これは覚えておかねばならないことなのだ」と、聞いているほうも意識しますから、「書く」ことを、どう演出するのかも、大事なことではあるでしょう。
そして、講義を受ける側にとっても、書くことの工夫が求められると言えます。
漫然と、ただ板書されたものを筆記したり、話の内容をそのまま書いたりしていると、それこそ、書くことだけで時間が終わります。
重要なことだけを書くとか、その場合でも、あとでなぜ重要なのかがわかるような、何か意味や目印をつけておくと、なおいいでしょう。
もともと、書かないで学習するほうが好き、そのほうが学びのスタイルとして向いている(体験・実践型)というタイプの人もいらっしゃるので、人は人、自分は自分として割り切って、自らの効果的な学習スタイルを知り、構築し、実践することは大事です。
人が書くから自分も書くという態度ではなく、自分にはこれは書かなくていい、重要ではないと思えば、無視すればいいですし、人が書いていなくても、自分にとっては大切だと感じれば、自分流の形でメモすれば(頭や心にすることもあります)いいと思います。
私の場合は、自分が昔の学校教育に毒されたというか、染まり切ったタイプだということを自覚しているので(苦笑)、ノートを取ることもします。
ただ、やはり、講義やセミナーというものは、せっかく講師と対面してのよい機会ですので、もちろん「これは」という時には、手を止めて、話にも集中します。
また、タロットをするようになって、あまりノートとかメモを取ることは少なくなったのも事実です。それはタロットという象徴ツールを手に入れているので、いわば、タロット自体にメモしているようなもので、タロットを見れば思い出すようになってきているからです。
これ(講義内容を筆記するノート)とは別に、創造的ノートというものがあってもいいと思います。
それは講義が終わったあとで、自分が学習を見直し、自分の気づきや学んだ内容を、新たに書き起こしたようなノートのことです。
例えば、タロット学習の場合、タロットの象徴の意味など、講義で習ったこと、先生が話された内容はノートに書いている場合が多いでしょう。
しかし、自分であとで気づいたことや、自分にとってのカードの意味とか、体験から出てきた内容などは、講義の時ふっと出てきてはいても、なかなか同時に書き留められるものではないでしょう。
そこで、とにかく、講義後の別のノートを作り、自己学習としての創造的ノートを作っていくのです。
こうすると、ノートを取る意味もまた変わってきますし、ノートはただ話や板書されたものを記録していくものではなく、自分の思いや気づきを記録しつつ、そこからアイデアを出したり、自らの(実はもともと持っていた)深い認識を、思い出すため、取り出すための道具として使うことができるのです。
普段ノートを取らない人でも、書く作業によって、現実とのつながりを意識することができます。
いざ、書いてみると、話をするのと同様に、実は自分がわかっていると思っていることでも、あまりきちんと書けないことに気づきます。
抽象的に漠然としたことが、書くことで整理され、つまりは、あなたの想念・思念が降りてきて、現実の世界の枠組の中に入るということなのです。
書くだけで願望実現に近づけるという人がいますが、それはこの仕組みがあるからです。
タロット学習は人それぞれです。グループや集団で講義を受けている際は、先生からの講義は皆に向けて同じでも、受ける側は、自分に合うやり方で受容し、工夫して学んで行けばよいのです。
自身をタロットに語らせる
タロット、特にマルセイユタロットは人の意識の元型を描いていると言われます。
かの有名な心理学者ユングも、マルセイユタロットに関わっていたことが知られていますし、後学のユング派と呼ばれる人たちの中には、詳細にマルセイユタロットと人の心理(成長、統合)の関係を考察されている人もいます。
そして、マルセイユタロットに限らず、いわゆる絵のついたカード類たちは、何らかの心の状況や、潜在的にある心の中の思いを投影すると考え、カウンセリング的な相談に用いられることもあります。
占いではないタロットの活用があるとすれば、ひとつには、心理的な意味でカードを扱うということがあげられます。
むしろ、最近では、タロット(などの絵のついたカード)は、心理セラピーに使えるものだという認識が増えているように思いますし、そのことは、精神世界系や、アカデミズムではない心理の世界では、もはや当たり前のようにも見えます。
しかし、だからと言って、タロットは心理的な(心の中の)投影装置として使うものだけではないということは述べておきます。それはタロットにおけるほんの一部の機能と言ってもいいでしょう。
私自身は、心理・メンタル面をタロットで読むことは多いですが、一方で、さらに違う階層・次元にもふれることがあります。
現実の問題の多くは、心の問題をとらえ、それを浄化したり、癒したり、変容させたりすることで解決に向かいますが、もちろん、人は心だけで成り立っている存在ではないので、ほかの部分も観ておく必要性があるのです。
とはいえ、クライアントや自分の心を整理しておけば、問題と思っている部分は、ほとんど楽になったり、快方に向かったり、少なくとも、見え方、感じ方は変わります。
なぜなら、今「問題と思っている」と書いたように、問題(悩み)は、問題として当人が思わない(意識しない)限り、問題ではないからです。ということは、「思う、思っている」ということが重要で、それはつまりは自分の心の思い方になりますので、ここに焦点を当てれば、だいぶん変わることができるのです。
ということで、タロットを心理的な分野、心の整理(ただし病的なまでになっていると専門家の力が必要です)に活用することは、大いに意義があることだと言えます。
ここで、意外に簡単な方法で、タロットを使って、自分の心と対話する方法を示します。
それは、大アルカナ22枚を使います。(高度になれば、小アルカナを使う方法もあります)
マルセイユタロットの大アルカナは、一番最初に述べたように、もっとも意識の元型を表しており、絵として把握しやすいものになっていますので、自然、自分の内面や意識、心を象徴させることができるのです。
特に、明らかに「人物」となっているもの(描かれているカード)は、この場合、やりやすいです。
ですから、全部のカードを使う必要は、最初はありません。
まず、22枚のカードのうち、気になる人物が描かれているカードをいくつか選択します。
例えば、「悪魔」が気になるとか、「隠者」が気になるとか、「星」が気になるとか、カードはどれでもいいですし、何枚でもOKですが、初めのうちは、あまり多すぎると混乱してしまうので、特に気になる三枚くらいの(人物として見ることのでき)カードにしておいたほうがいいかもしれません。
そして、自分が選んだカード、一枚一枚と向き合い、まるでカードの人物が実際の人間であるかのように想像します。
このカードが語るとすれば、何を言っているのだろう? 今、自分に何か言いたいことがあるとすれば、このカードの人物は何と言う(言っている)のだろうか? という具合に、カードの人物に想像上で語らせます。
この時、カードの普遍的な意味は、あまり考えないほうがよいでしょう。あくまで人物が語るセリフのように思うことです。
一枚ずつが終れば、次に、もし三枚を選んでいたとすれば、その三枚の人物が合議(会議)しているように、今度は想像してみましょう。
誰か一人が強い意見で押し切る場合もあるかもしれませんし、三人が等しく、意見を述べ合って、あなたに何か共通して意見を具申(笑)することもあるかもしれません。
結局のところ、自分の心の分身と語っているようなのものなのですが、タロットという物理的なカードがそこにあるので客観性を持ち、自分の中の色々な人物の思い(それは自分の思いの一部でもある)を聞くことができ、自分を整理することに役立ちます。
慣れてくれば、人物ではないカードも、あえて人物のように見て行くこともできますし、シャッフルして偶然出たカードを素材にして、語らせることも可能です。
偶然に出すほうが、意外性と言いますか、さらに客観性を持ったり、特に占い次元に降りていく(変えていく)こともできるたりする(つまり、現実的・具体的な問いに答えてくれるような気にもなる)ので、楽しいこともあります。
マルセイユタロットは、人物が描写されているたいていのカードには鋭い視線がありますので、その視線方向を気にして見るのも、マルセイユタロットならではのコツと言いますか、特徴と言えましょう。
それから、自分の選んだ人物のカードが、何もしゃべらない、話さないこともあります。
これは、自分の心がそのカードの象徴性において閉じていたり、秘密があったり、なかなか一人になっている時でさえも言いづらい何かを抱いていたりする場合があります。
また、反対に、うかつにしゃべりの過ぎていることの注意であることもあります。
さらに応用編の方法も、少しだけふれておきましょう。
例えば、マルセイユタロットの「月」のカードでは、犬のような動物が二匹、月に向かって吠え合っています。
それぞれ、あえて色も異なって描かれているのですが、それはつまりは、何か対抗したり、相反したり、拮抗したりする要素とも言え、いわばあなたの中のせめぎ合っている葛藤部分とも言えます。
それが何なのか、二匹の犬、それぞれにまたカードを一枚ずつ引いて、そのカードたちに語らせる(争わせる)という手があります。
あなたは、それ(会話、想像する言葉での吠え合い)を見ているだけです。(笑)
「月」のカードは、皆さんわかりづらいとか、もやもやしているので嫌われたりするカードですが、心や感情の整理には、すばらしい効果と意味を発揮する奥義的なカードなのです。ざわざわするのはプロセスであり、本当は心を静めるカードになるのです。
ただし、それには、「月」のカードの細かな象徴をよく理解(知的にも感性的にも)しておく必要があります。
ということで、皆さんも、タロットカード自身に語らせて、逆に自分を見てみましょう。きっと、なかなか面白い気づきがあると思いますよ。
冬至のタロット
この記事がアップされている時は、ほぼ冬至の時期になりますので、タロットを持っている方は、ぜひ、冬至にタロットを引かれるとよいと思います。
冬至は夏至、そして春分・秋分とともに、大きな時のポイントになります。
前にも書いたことがありますが、通常の意識状態を変えるには、いろいろな方法があり、天の方法、地の方法、人の方法として分けることもできます。
その中で、時のポイントを利用するのが、こうした特別な天体的時間で行う天の方法(場合によっては地の方法にもなりますが)となります。
なぜ通常の意識状態を変える必要があるかといえば、いつもの調子では、鋭敏な感性が出にくく、全体、あるいは神性、潜在的なものとのつながりがわかりづらく、物事を物質中心として見てしまう顕在意識が強く働いているためで、いわば本当の世界と分断されて生きているようなものになっているからです。
ですから、これ(通常意識)を変えて、全体や見えない部分、潜在的な部分、神性・神聖的なところとのつながりを取り戻すわけです。
普段の俗(の生活)から、聖なるもの(神・神性)の力を復活・流入させ、浄化と再生を図ることでもあります。
そうすると、インスピーションや直感を伴って、普段気づけないようなことに気づくこともあります。
タロットリーディング(この時間が非日常的意識時間になっている)によって、アイデアが浮かんだり、気づきが増したりするのも、そうした意識の変換作用があるからなのです。
冬至の際、自分でテーマを決めてタロットを引いてもいいですし、特に何も問いを立てなくても、意味があるカードが出ると思います。
特にテーマが何も思い浮かばない人は、冬至の象徴的意味を考えて、「復活・再生するには」「これから何をすべきか(占い的だったら、これからどうなるのか)」「何を始めるのか、何が始まるのか」というテーマでやってみるとよいでしょう。
冬至は、昼間がもっとも短くなる時で、逆にいえば、そこから昼間が長くなっていく切り替えの時なのです。ですから、古代から、太陽の復活の時として、重要なポイントとして認識されていたのです。
日本でも天照大神が、太陽神とされているように、太陽を神として崇め、信仰している地域、国、時代は多いというか、普遍的なものと言ってもいいくらいです。
その理由は、くどくど説明するより、皆さんが「太陽」と聞いて、何をイメージするかで、もうわかると思います。命、生命の根源、私たちの意識の中心のようなものが感じられるでしょう。
地上や我々に、あまねく光としてふりそそいで、生命を育むエネルギーとして供給してくれている太陽が、信仰的に神とされるのも当然です。(セット・ペアとなる天体には「月」があります)
ただ、マルセイユタロットを学べばわかりますが、タロットにも「太陽」というカードがあり、それは私たちが天体(水素核融合を起こしている物質的な太陽)として見ているそれとは限らないということです。
むしろ信仰的に神として見ている太陽の性質に近いかもしれません。そのどちらでもあるとも言えますが。
古代の海外で、太陽信仰では、ミトラ教などが有名ですが、そもそもクリスマスもその影響があると考えられます。(諸説ありますが)
クリスマスがなぜこの時期なのか、そしてイエスの生誕を祝う日となっているのか、サンタクロースとは何者なのかなど、タロット的に見ていくと、とても面白いことがわかってきて、素朴でありながら、深い意味をもって信仰されていた太陽神や、やがて宇宙システムそのものに行き着いてきます。
私たち日本人は、キリスト教徒は少なく、クリスマスもただのイベントとして消費してしまっている感じが強いですが、クリスマスの概念が入る以前にも、民俗学的に見ていけば、冬至をどう扱っていたのか、日本人としての行事とか意識が見えてきます。
今でも、冬至にはお風呂にゆずなど入れたり、かぼちゃ、小豆を食べたりする家庭もあるでしょう。これらは、やはり太陽のシンボルと関係すると言われています。
そして、当然ながら、天体の流れが個人としても影響するところがあり、個人的にもし、復活、再生を図りたいことがあるのなら、冬至の力を利用して、さらに秘伝的な力を持つ、マルセイユタロットを引いて、自らを生まれ変わらせることも意識的には可能です。
正確な時間ではなくも、このいわばクリスマス期間として流れている力を(世界中が祝福と再生のエネルギーに満ちている)自分に還元すればよいのです。
楽しい、幸せなイメージがクリスマスにつく分、反対に、不幸な境遇や孤独を思うようなネガティブな感覚も、反転して、多くなる時期でもあります。
これが意外にこの時期の落とし穴で、たとえ自分が苦しく、不幸だと思っていても、そういうものと同調しないよう、意識や気分を切り替え、深くのめりこまないよう、気分転換や簡単な自分なりの儀式を試みるとよいです。
つまりは、自分のせいだと思い込まないことです。ほかの(世界中の)人のネガティブ気分が増幅されて、影響を自分がいつも以上に受けているおそれもあるのです。
この時期ほど、生きていられるだけで、とにかくありがたいと思うことが重要なことはないかもしれません。まあ、なかなか実際に苦しい人には思いにくいでしょうが、だからこそ、再生の願いで、太陽に祈りをささげるとよいと思います。
また一年の終わりにも近いので、一年の感謝の意味を込めてもよいでしょう。冬至に、一年の収穫としての意味で、タロットを引くのもありなのです。
また太陽信仰関連でいえば、単純に、太陽そのものを尊敬・尊重するのもよいでしょう。「お日様、お天道様、ありがとー」みたいな感じです。正月の初日の出を拝む気持ちに近いと言えましょうか。(冬至の翌日など) ※これ(太陽への祈り、感謝、拝み)はメンタルの部分においても、結構深い意味があると思っています。
タロットを持っている人は、22日でも23日でもいいので、どんなカードが出たのか、コメント書いていただくとうれしいです。何かする(お返事を必ずする)というわけではありませんが・・・(ほかのタロットの種類の人でもよいですが、こちらとしては、マルセイユタロットの名前とカードに変換して解釈します)
私の生徒さんの場合は、一枚引きといわず、自由に学習された展開法でやってみてください。ではよいクリスマスを。
悩みは独りよがりの中にある。
この前、自分のやっているタロットやカード技術とは違う方法(私のマルセイユタロット)で見てもらうための企画の募集をしましたが、先日、それを受けていただいた方がいらっしゃっいました。
その方は、タロットやカードが好きなことが雰囲気からも伝わってきましたし、その中のひとつとして、マルセイユタロットをされていたのも、私自身としては、とてもうれしく感じました。(それだけ、私はマルセイユタロットが好きなのです(笑))
それで、その方の展開法や技術とは異なる、私からのリーディングと説明をさせてもらったのですが、結局、本質的にはご本人がされたものと、私の展開してリーディングしたものとは、同じことが出ていたわけなのです。(同じカードもポイントとして、シンクロ的に出ていました)
そして何よりも、すべては、リーディングするまでもなく、ご本人がもともとわかっていたことだったのでした。
今日の書きたいことは、ここになります。
つまり、私たちは誰もが、本当はどうすればよいか、悩みながらも、実はわかっているということです。
しかし、占い師でもスピリチュアルリーダーでも、タロットリーダーでも、はたまた普通のお仕事をされている方でも、意外に、自分のことはわからないとおっしゃる方が少なくないです。(私もそういうところがあります)
ここが人間としての悩みであり、苦しみであり、しかも、現実世界として存在するあり方(そういうルールみたいなものになっているところ)とも言えます。
マルセイユタロットの教義に限らず、スピリチュアルな方面、あるいは宗教的な面でも、人は神や仏と同じ完全性を持つ存在、またはそれになることができる(悟ることができる、回帰することができる)と謳われています。
ですから、どんな困難な事態に陥っても、解決の方向性、よい方法、改善策などは知っているはずなのです。
人によっては、それが、何となくのレベルから、何度もそう思ってきたという確信に近いレベルまで様々です。
それでも、やっばり人は迷ってしまう、わからない、悩んでしまうというのは、神性(完全性)とかけ離れた自分、端的に言えば、自我の強さと、社会的・常識的観点で見た自分の判断を正しいと思う傾向があるからだと考えられます。
すごくシンプルに言えば、それは独りよがりのことなのです。
自分の思考あるいは感情によって、さも分析装置にかけたり、直感センスを利用したりしているように見えても、不安や恐れ、外から見た自分や、他者の観念が強くダウンロードされて操られた状態になっていては、それは独りよがりの輪の中で、グルグル回っているだけに過ぎなくなってしまいます。
ここから脱出するには、元の神性とつながる自分に戻ればいいのですが、今の時代、まず神聖な時間と場所がほとんどなく、多忙な毎日とデジタル的な膨大な思考(外側からのいいか悪いかで判断する分析)的情報の洪水にあり、ほとんどの人は、翻弄されて、環境的に、元の自分には戻りにくくなっています。
元の(神性的・魂的部分とつながっている)自分なのか、誰かの思想の(誰かのための犠牲的)自分なのか、善悪、利害で見ている自分なのか、わけがわからなくなるのです。
人間界は、私が思うに、本来の自己、神性的な自己とはつながりにくい環境をあえて作り出しているようにも見えます。
かつては、それでも、聖域や、聖域を守り、神に奉仕して、神性的なエネルギーと波動を自らに有していた巫女的・神官的な人々がおり、生活の場所においても、神棚や仏壇、近くには鎮守の神社、お寺、屋敷には屋敷神、井戸の神、台所の神など、身近にも神域を感じさせる場所がありましたし、静かなる時間も今よりは多かったでしょう。
それを失った今、現代の環境と人々が、迷いの空間(本来の自分の声を純粋に聞くことのできない時空間)に閉じ込められているかのようになって、特に精神的・霊的に淀んだり、停滞したりするのは当然かと思います。
さきほど、独りよがりになるシステム・環境が問題だと言いました。
人間界には、救済のシステムも働いていると考えられ、その中のひとつで、かなり強力なのが、意外や意外、人間同士の交流によるものなのです。
もちろん、人間と修羅の世界が近接しているような環境では、人との交流によってかえって傷ついたり、被害に遭ったりすることもあります。
反面、人が人を助けることのできる世界でもあるのです。
前に、自分は自分でしか救うことができないと書いたことがありますが、究極的にはそうなのですが、それに至るための前提で、他人からの救済、手を指し伸ばしてくれる経験によって、自らが救われたという思いが出て、自分で自分を救うという感覚が芽生える過程があります。
要するに、他人目線だからこそ、冷静に、しかしその人のためという愛をもっての視線で、手助けが他人からできるのです。そう、独りよがりに陥っている人の堂々巡りの輪に、脱出するための手を差し伸べることができます。
人は、自分でわかっていても、本当にそうなのか、わかってはいるけれども、どうやればいいのかわからないということが、悩みにはあります。
その解決には、他人からのアドバイス(他人視線)によって、「やっぱり自分の思っていたことは正しかった(というより、自分本来の声だったのだ)」とわかりますし、方向性が自分ではわかっていても、そのやり方がわからない人には、やり方を教えてくれる人(その道の専門家とか得意な人とか)いるわけです。
例えば、自分のしたい活動があるけれとも、それをしていいのかわからない。それでも、それをするのが好きという自分がいるし、やっていて楽しい、何となくそれをすればうまくいくこともあるのではないかという感じもする、一方で、常識的・社会的に見れば、困難さの思いが出たり、自信も出てこない自分がいる、という状態だとします。
そこで他人に(タロットなどで)見てもらうと、やっていいという気持ちの許可ができていなかったり、経済的なこと、社会的な目線で活動を見てしまったりする自分が改めて認識されたりします。
しかし、したいことはすればいいとも出ます。つまりは、そのままの自分の思いが出るのです。そして、カードをさらに精査していくと、自分本来の思いが自分を成長させたり、抑圧から解放してく過程になっていることを知ります。(エゴでわがままなものとの区別もつきます)
社会や現実とすり合わせる意味では(たとえば好きなことを仕事にするなどのことでは)、方向性さえ決まれば、あとは自分自身を阻害したり、抑圧たりしないようなやり方を見つければ(現実の世界で人から教えてもらえば)いいのです。
結局、神性なる自分はすべてを知っていますが(つまり神としての自分が計画していることがある)、それを後押しするのも、現実的との調整と適応をさせていくのも、人なのだということです。(人間世界での実際の表現については、多くは現実の人間が手助けすること)
本当はわかっているのに、独りよがりに陥って悩んでいる人は、タロットセッションで解きほぐして(他人という観点でもって転換させることで)、本来の自分に戻る手助けをさせてもらいたいと思います。
