タロットの使い方

選択で使わないタロット

タロットで何かを決めたいと思う人は、タロットを使う人では多いと思います。

というより、そのような、何かの選択に迷った時にタロットは使うものだと考えている人が普通かもしれません。

いや、別にそれでいいでしょうし、私自身は、タロットの活用に正解とか間違いもないと思っていますので、まさにタロットを使う人の自由だと言えます。

ただ、〇か×か、やるのがよいのか・やらないほうがよいのか、つき合えるのか・つき合えないのか、得か損か、成功か失敗か、正しいか・間違いか…などなど、ふたつの見方で悩み、選択していくことをタロットに求める場合、その時その時の答え(示し)はタロットが表してくれるでしょうが、そもそも論として、この方法を取り続ける限り、本質的な問題は見えてこないままです。

この場合の「そもそも論」とは、「なぜ自分はこのようなことで迷うのか?」という根本を指し、さらに言えば、選択する自分の価値観、規準、心の中の傾向と法則、もっと深く言えば、天命やカルマなどのようなものの影響の分野から見ることを言います。

メガネで例えると、かけているのが色メガネであればその色で見えますし、曇っているメガネならば、視界は悪いままです。

もし、度数が合わないメガネだったり、レンズに歪みがあったりすれば、その見える世界はおかしなものになるのは道理です。

これと同様、もともとにあるあなたの根本に問題があれば、いくらよい選択をしたと思っていても、その「よい」自体の規準がおかしかったり、曲がっていたりするので、結局、短期的にはよいように見えて、本質的には、ある意味、間違った状態の世界でループするようなことになります。

マルセイユタロットには、グノーシス的な思想が流れていると伝えられますが、そのグノーシス的な観点を具体的・個人的次元にまで落として考えてみれば、つまるところ、個人の誤謬のようなもので、その人自身によって外の世界や見方がつくられていると言ってもよいでしょう。

グノーシス思想には、真(神性)の認識と、それを歪める悪魔的なものとの対比(対立)が神話的には語られますが、さきほど述べた個人レベルになってきますと、要するに、悪魔とは自分自身が生み出している、不正な個人ルール・価値観みたいなものと言えましょう。

やっかいなのは、その個人ルールが不正ではなく、正しいもの、よいものと自分は思っているところです。

それはある意味、仕方ないところもあります。なぜなら、個人ルールは自分を守るためにあるからです。

自分を守る意味では正解とも言える方法なので、表面意識はもとより、潜在意識的にも、自分の今採用している規準は正しいと疑わないのです。

というより、疑わさせない存在が自分の中にいると言い換えてもよいでしょう。それがマルセイユタロットのカードで表現されている「悪魔」とも言えます。

ということは、悪魔ではない存在も自分の中に存在し、それが西洋的には「神」とされているわけです。ちなみに、マルセイユタロットの「悪魔」の次のカードには、「神の家」という神の名前がついたカードがあります。

本来、西洋的に言えば、その神と同調した意識のもとでは、人間全体、そして個人も、自然な形で生きられ、その都度、問題は起きても、これまた自然に解消されていくことになると考えられます。真の意味での自然体です。

個人には「個性」があるので、生き方とか感じ方は一人一人違ってはくるのですが、例えば占星術で表されるような天命今生の流れ(シナリオ)のようなものがあり、無理からに他人の表現をしなければ、自ずと自分自身の個性を発揮して、全体に貢献できる生き方になっていくものと想像されます。

しかし様々な形で、他人と比べていく中で、どうしても肉体・能力・社会的出来不出来(優劣)、モノやお金の所有量など、有る無しの観点が強く働き、自分が自身を認められないばかりか、自分を貶めたり、逆に他人にマウントを取って自分の欠乏感を補おうとしたり、あくまで外のものを規準として自分の存在を成立させているため、日々、緊張して苦しい生活となります。

自分を守るためには、何かしらの言い訳とか、自分があきらめたり、逆に、こんな自分でも(これをすることで)生きていて許されるよね、と思わせたりする見せかけの理由を作り、それをルール化するようになります。

そして、これ(自分が作ったルール・規準)をもとに、いい・悪いを判断し、選択する道になってきますので、一時的にはその選択がうまくいったよう見えても、実はどこまて行っても、偽の自分であり、本当の心は怯えながら生きていくことになるわけです。

従って、「どちらを選ぶのがいいか」という単純なタロットの使い方は、本質的には、何の解決にもなっていないことになるのです。

ではどうすればいいのかと言えば、タロットを使う場合、ふたつの間でどちらがいいとか悪いとかを見るやり方自体を変えることです。

それにはいくつか方法がありますが、簡単なのは、タロットの展開方法を変えるやり方です。あるいは、よい・悪いをタロットカードにあてはめないことです。(よいカード・悪いカードというような見方をやめる)

展開方法を変えるというのは、二元的な展開法・スプレッドはやめて、統合的(二元的な観点を超えたもの)に判断できるやり方を選ぶということになります。

例えば、正逆で、正立はよい、逆向きは悪いというのは典型的な二元的見方ですが、正立と逆向きをセットで出し、いい・悪いではない意味を見て行けば、二元的判断を超える見方が可能になってきます。

とは言え、二元的な展開法(または二元的に解釈する見方)は、ほとんどの有名なスプレッドはこれに当たるので、注意が必要です。

しかし、従来のスプレッドであっても、「なぜこの悩みが起きているのか?」という、その意味を見るような質問とか見方に変えることで、二元的なことから逃れられます。

そうしていくことで、自分自身を縛っていたものに気づき、そこから出ていた世界への(見方の)歪みが修正され、本来の自然な自分、西洋的に言えば神(スピリチュアル的にいえば宇宙とか大いなるもの)の意思と同調した自分に還って行き、この地上世界を不安や恐怖ではなく、体験そのものとして味わうことができるようになってくると考えられます。

ただ、一気にジャンプするというより、コツコツとした姿勢と行動が必要だとも言えます。それだけ根深く、長く自分を守ってきた証でもあるからです。

繰り返しますが、別に二元的選択をタロットで見ることを否定しているのではありません。それもタロットのひとつの活用です。

しかしながら、自分自身が変わらないままタロットを使っていても、それはただのエンターテイメントであるとも言え、自分を元に戻すために、タロットは使っていくべきで、それはほとんどの人にとっては、今の自分を変えることになるので、むしろタロットは自分を変えるために使うほうが望ましいと考えられるわけです。


タロットに正解を求めることについて

タロットは単なる観賞用のカード、美術品という場合もありますが、それはまれなケースです。

普通、タロットを使うということは、何か自分に役立てる目的があります。

それがタロット占いとか、タロットリーディング、あるいは自己認識や自己を高め、成長させるなどのこととしてあげられます。

そうすると、今述べたような目的のものは、いずれにしてもタロットは私たちに、何らかの指針やアドバイスをもたらせるためにあるわけです。

そして、その場合、人はタロットからの指針やアドバイスに正しさ、正解を求めることになります。もっと厳密に言えば、自分にとっての目的の範囲での正しさと言えます。

例えばタロット占いの場合、人生のもろもろのシーンにおける選択、悩み事の解決策での正解ということになってきますし、タロットリーディングだと、自分の心とか思いが癒されたり、希望が持てたりするような状態での答え、正解を求めます。

自己認識とか自己成長だと、自分が正しく認識できる答え、成長する(できる)答えとしての正解を希望するでしょう。

それは人として当然の思い、感情なので、別に悪いわけでもないですし、人の癖や傾向として当然のところではあります。

しかし、長年タロット、特にマルセイユタロットに関わってきますと、正解とか正しさを出すためにタロットがあるわけではないことに気がついてきます。

ここで正解とか正しさを、究極的な意味での、宇宙や神(あくまで象徴的に言っています)が望む私たちへの方向性、あり方として定義しますと、確かに正解や正しさというものはあると思います。

その定義で言えば、今回の話す内容はあてはまらなくなりますので、そのような(究極的)定義としての「正解」ではないと考えてください。

今回テーマとしている正解とか正しさというのは、二元で分けられる意味でのものであり、正しさというものがあれば反対に、間違い・不正解もあるという意味での、両面セットでの正解ということです。

昔、よくタロットを学ぶ生徒さんから、「タロッリーディングの事例集」のようなものがほしいと言われたり、講義中にも、「どう読むのが正解ですか?」と聞かれたりすることがありました。

まず、事例集はモデルリーディングとして、学習のためにあってもいいと私は思っていますが、過度にこれに頼り過ぎると、タロットに対する考えの誤解を生んでしまうので、かえってまずいことになります。

その意味では、事例集は危険でもあります。

誤解を生じるというのは、今回テーマにしている「タロットでの正解」についてであり、事例集に頼り過ぎると、こう読むのが正解、こう解釈することが正しい(答え)だと決めつけてしまうおそれがあるからです。

たとえ、同じ質問、そして同じ展開・タロットカードが出たとしても、実は答えはいくらでもあり、まさにケースバイケースで、答えはひとつだとは決められない(正解はない)のです。

それは、タロットが象徴(本質的にはひとつでも、具体的な次元では多様でたくさんの意味持つ)カードであることも理由のひとつです。

事例集でもそうなのですから、「どう読めば正解か?」という質問に対しては、当然、正解はないと答えなくてはなりません。

ですが、これも誤解しがちですが、正解はなくても、本質的・抽象度が高い次元では、展開から答えのようなものは読み取れます。

それは答えであって答えでなく、また逆に、答えではないが答えでもあるのです。さきほども言った、宇宙や神からの視座では正解はあるというのに似ています。

あるいは、レベルや次元別においては正解・不正解はあると例えてもいいでしょう。

究極的な次元にならない限り、分離は常に起きており(分離はいつもあり)、要するに、どのレベルにおいてもふたつに分かれ、同時にまた、ふたつはセットでもあります。

陰陽二元が、幾重にも折り重なっていると見ればよいでしょう。

ただし、上のレベルの分離は、下のレベルの分離を統合していますので、同じ分離であっても、まさに次元が違いますから、正解・不正解で言いますと、下のレベルの正解・不正解が上では通じなくなっています。

わかりやすく言えば、子供が考える正しさ・間違いと、成長してものの見方が変わった大人レベルでの正しさ・間違いの、異なりのようなものです。

(マルセイユ)タロットは、私たちに、この子供のような二元分離を超越し、同じ分けた見方をするにしても、大人としての見方に変えて行こうというものなのです。

マルセイユタロットでは、例えば、「法皇」「恋人」「戦車」「運命の輪」「悪魔」「月」「太陽」など、二つのものを超越した第三者的上部視点(三角形を基軸とする)の構造のカードがたくさんあります。

また、ふたつのものを混ぜ合わせたり、流したりする「節制」とか「星」というカードもあります。

このことから、二元分離のままではなく、それらを統合・融合し、新たな上の視点や視座を持つことがマルセイユタロット全体からも示唆されるのです。

(マルセイユタロットの各カードが示す)下部における二元分離は、すなわち、自分が今いるレベル・次元での正解と不正解の線引きがある世界だと言えます。

私たちは、同じレベル・世界観で正解と不正解を決めつけていますが、それはあくまでその次元にいる自分での話です。

世界が変われば、レベルや次元が上がり、今までいた世界での二元分離から離れてモノが見えるようになって、これまでの正解と不正解はどちらでもなく、またどちらでもあるというものに変容します。

簡単に言えば、自分が正解と思う答えが変わるのです。

正しさ、正解が変わるのですから、それは本当に世界が変わるのに等しいのです。

ですが、そこに至っても、やはり分離はあり、そのレベルでの正しさ・間違いという観点は存在します。それでも、以前の自分の考えとはまるで違う状態にはなっているはずです。

結局、人の成長とは、ある面で、正解とか間違いはなかったと気づく連続だと例えられるでしょう。

そしてマルセイユタロットが示すこともそれであり、今はそれが正解や間違いだと考えていても、タロットを使っていくうちに、これまで考えていた自分の正しさと間違いのレベルが変容し、そんなものはなかったという気づきが与えられ続けることになります。

しかしながら、前提として、タロットは正解を与えるものではない、正解をタロットから得ようとするのではないという自らの態度が必要となってきます。

繰り返しますが、レベル別において、正解はないわけではないのです。従って、タロットを使って、自分にとっての(そのレベル・次元での)正解を求めるのも悪いことではありません。

ですが、私個人が思うタロットの活用としては、自分の正解・不正解という今の世界観を解除して、変容させていく使い方のほうが、特にマルセイユタロットでは合っている気がするのです。

そのほうが本当の意味で、自分が楽(単なる楽という意味でははなく、楽しさ、味わい深いという意味も含みます)になって行くからです。


終わらす(終わらせる)もの

人は生きていると、いろいろなことを経験します。

それらはデータとして脳に記憶されているのでしょうが、一説では、必ずしも脳にすべての記憶が蓄積されているわけではないという話もあります。

人間を肉体だけの存在とする場合は、記憶装置は脳なのでしょうが、もし仮に肉体以外の何らかの自分と呼べる体と言いますか、エネルギーフィールド・領域があるとするのなら、そこに記憶の一部があるのかもしれません。

そして、もし自分の存在とその空間とも呼ぶべき記憶フィールドが、何らかのことで切り離されてしまって、(記憶のある)空間だけ残るとすれば、そこに再生する方法を施せば、人の記憶が読み取れることになります。

ちょうどホログラフィーが、一部のデータだけでも全体像が写し出されるように、そうした残された記憶からでも、その記憶を持っていた人の全体像に似たものを見ることができるのかもしれません。

さて、そんなわけで今日は記憶の話です。

私の採用している、あるいは教えているマルセイユタロットの展開法では、時系列の並びを取ります。

ただ、タロットは象徴絵図ですから、時系列を設定していても、その流れだけを表すとは限りませんが、現実世界での私たちの時間認識は、この過去・現在・未来としてとらえているため、タロットカードと現実世界(現実認識)をリンクさせるには、時系列的象徴(概念)を入れたほうが読みやすいこともあるのです。

さて、そうした時、過去を表すカードがたくさん出たり、特に意味を持って見えてくる場合があります。

それはそのまま解釈すれば、「過去を見よ」ということになります。

なぜ過去に注目する必要があるのかと言えば、それには様々な理由はあるのですが、大きく分けてふたつの理由があると考えられます。

ひとつは過去の認識を変える必要があること、そしてもうひとつは、自分の過去を見ることによって、終わらせていなかったものを(今において)完了させることにあると思います。

いずれにしても、何らかの理由で、忘れていたことを思い出す必要があるケースです。

その中でも、意外に盲点なのが、過去の未完了だったものを終わらせることです。

しかしながら、過去のことですから、時間的には終わってしまったことなので、タイムマシンのようなものはないわけですから、実際にはどうすることもできません。

しかし、物質ではなく、エネルギー(ここでいうエネルギーとは、物理学的なものというより、ひとつの、形を持たないものの比喩です)として扱えば、過ぎ去った時間のことでも、影響を及ぼすことが可能だと思われます。

それは、記憶が私たちの脳だけではなく、最初にも述べたように、一種の空間のようなところに存在しているとも想像できるからです。

そのよい例が昔の感情です。

過去の何らかの事件によって抱いた感情は、いったん時間とともに消えたように見えても、実は自分の中(あるいは自分と関係する別の領域)に残っていると言われます。

もしその時に感じ切っていれば(味わい尽くしていれば)、過去の感情も残らないのですが、中途半端に抑えてしまったり、ごまかしたりしていて感じ切ることのない状態だったとすれば、それは残り火のように燃え続けていると例えられます。

その残り火の影響が今も続き、実際的には、外の問題として現れることが多いでしょう。

つまりは、過去のこと(エネルギー)を終わらせる(完了させる)ために、過去の事件と似たようなこと、あるいは、その本質・エネルギーとして同質的なものが、自分の残り火によって引き寄せられる(必要性をもって引き起こす)わけです。

過去の別の形での再現と言い換えてもよいでしょう。

ただ、そのまま似たようなことが起これば、自分でもすぐわかるかもしれませが、質的には同じでも、現在の時間と実際のことでは、違う現象として現れることもあるので、やっかいです。

例えば、過去の事件での感情とかエネルギーは「悲しい」ということだったとして、過去のそれは失恋によるものだったかもしれませんが、今のそれは、同じ「悲しい」でも、事件(事象)としては仕事に関することかもしれないのです。

しかし、やはり悲しいエネルギーとして見れば同じというものです。

そこで、タロットならば、象徴絵図ですので、具体的な事象よりも、質的なものを表すことで、たとえ事件が異なっても、同じ性質・エネルギーを表現すること(把握すること)ができます。

例えばマルセイユタロットの「13」が出れば、そのカードの表す強烈な変容(させるための)体験があり、たとえそれぞれ(クライアントとタロットリーダー、またはクライアントそれぞれ)の実際の経験が違ったとしても(人それぞれ違うのが当たり前ですが)、また、自分自身の表面意識が忘れていたとしても、タロットによって本質的な共通認識が可能になるいうことです。(自分自身の場合は、潜在的な自分と表面的な自分とが共通に認識できる、つまり過去と現在がリンクし、つながることになります)

従って、過去のカードと展開を見ることによって、この人(自分)は、過去の何を今再現させようとしているのか、そしてなぜ再現させる必要があるのかを認識することができ、たいていそれは、未完了の感情・エネルギーが続いていることの、意識化の必要性になってくるのです。

そうして終わらせていなかったものが意識(自覚)的になることで、エネルギーは動き出し、やがて火は燃え尽きます。つまりは本当の意味で、経験(事件)は完了したわけです。

こうして、ずっと火を燃やし続けるための燃料もいらなくなり、気持ちは軽くなって、今後のための創造性のエネルギー(タロットの4組でいえば、特に「杖」が象徴)が回復し、生きる気力も出てくるのです。

同時に、自分の中だけではなく、空間にあった記憶も、言わば浄化される(書き換えされる)ことになり、未練のようなものが薄くなり、空間に閉じ込められていた感のある自分も解放されて行きます。(うつ、引きこもり的な気分からの解放)

空間の浄化がいる意味はいろいろとありますが、このように過去の記憶と結びついている理由もあるからと思われ、だから、過去のものを思い出す必要があるのです。

それが絵の象徴図であるマルセイユタロットならば、やりやすいと言えるのです。


タロットリーディングに見る自分の型、癖。

以前にも何回か書いたことがありますが、たとえ他人ために行っているタロットリーディングでも、結局は自分のためになっている仕組みがあります。

今日はそのことについて、今までとは違う角度でふれてみたいと思います。

まず、タロットリーディングを行うにあたり、何もタロットへの知識がないと困ります。もっと言いますと、まともなリーディングはできないと考えたほうがいいでしょう。

ということで、普通は自分の選択したタロットについて、その意味を覚えたり、図の象徴を学んだりするわけです。

どのタロットも簡単なようでいて、その意味の解釈、把握には難しいところがありますが、私の扱っているマルセイユタロットにおいても同様です。

特にマルセイユタロットは一見単純な絵柄なので、人によっては簡単そうに思えるかもしれませんが、実は体系的に膨大なものを内包しています。

逆に言うと、意外にシステマチックなので、順序だってきちんと学んでいけば、理解しやすいタロットであるとも言えます。

とにかくも、タロットの知識を入れるということは、タロットリーディングにおいては不可欠です。

しかながら、知識となりますと、思考が中心の世界です。平たく言えば暗記と、その覚えた内容を頭で思い出したり、あてはめたりするようなものです。

実は、リーディングには、もうひとつの側面、感性的な面も必要です。いわゆる感覚や直感のようなものです。イメージ力や想像力とも関係します。(日本語で同じ創造性ともつながります)

いくらタロットカードの意味を覚えたところで、感性がにぶく、固定化されたままだと、通常を超える感覚の、「ピンと来る」「急に降りてきた」みたいなことがなかなか起きません。(ここではそういう類の気づきが、よいか悪いか、正しいか間違っているかについては、あえて言いません。今回は内容よりも、カードの意味をどう引き出すかのテーマを重視しています)

感性で読むタロットは、意外性を出し、タロットリーダーとクライアントの無意識の部分にアクセスして、タロットの象徴を通し、常識的な意味を超えて出すことがあります。

この常識的な意味を超えることが、重要なことなのです。

それはクライアントやタロットリーダーの常識というのが、タロットへ問いかけているテーマ、問題への思考・認識レベルであり、だからこそ、その問題の解決とか解放とかが、なかなか思いつかない(自分ではわからないから質問している)わけです。

言い換えれば、問題と同じレベルでは、せいぜい、これまでの自分の知識範囲での対応策、常識的解決策しか思いつかず、それではらちが明かないからタロットに聞いているのです。

ここに感性、感覚的なものが有効に働けば、本人たちの常識的世界観を壊すことができ、ある種の別の領域からの情報をもたらせることが可能になります。

ということで、タロットリーディングは、きちんと学び、積み重ねられてきた知識・思考的な部分と、それとは違い、感性的な直感とかフィーリング的なものでの情報とが相まって、重層的なタロット展開への解読がなされるのです。

とすると、この二面、言わば、思考と感性というものがどう自分に働くかがカギにもなってきます。

どちらかに過度に比重が傾いていると、それはあまりバランスのよいリーディングになりません。

もっとも、女性性・男性性の、実際の性別とか個人の特質などで、本人のもともとのバランスが、どちらかよりになっていることが普通なので、フィフティフィフティで考えなくてもよいです。感性重視の人(一般的には女性ですが男性の場合もり)、思考重視の人(一般的には男性ですが女性の場合もあり)の傾向はあるのです。

ですが、タロットリーディングをしていて、どうもうまく読めない、すぐ限界が来てしまう、同じ意味しか出ないというような場合、思考的リーディング(知識的リーディング)か、感性的リーディングに傾き過ぎているきらいがあるかもしれません。

それは、実はタロットリーディングに限らず、普段からの自分の傾向なのです。リーディングがうまく行かないのなら、普段においても、過度などちらかの傾向があって、バランスが悪いということです。

もっと感性を豊かにしないといけない知識型の人もいれば、好き嫌いや、一気に意味をつかみたいと思って、感性中心になり過ぎてしまっているため、逆にコツコツと知識的に学んで行ったり、覚えていること、実践したことを、整理・検証したりする必要がある人もいます。

そして、知識型・思考型偏重の人が、なぜに感性が動かない・働かないのかと言えば、自分の感情に無頓着であったり、間違いをしてはならない(正しくないといけない、正しくないと認められない)といった無意識のルールがあったりするからです。

さらに言えば、そうしなくてはならなかった自分なりの深い理由があります。

反対に、感性偏重の人は、自由であらねばならない(ということは束縛やルールによって縛られていたいう嫌悪感とかトラウマがある)といった強い思い込みや、責任を取りたくないといった意識のようなものが隠されているケースが見られます。

タロットリーディングという行為を通して、見えて来る自分の姿とでも言いましょうか。(苦笑)

でも、ここも重要ですが、そんな自分に気づいても、自己否定、自分にダメだしをしないことです。

そんな自分がダメ、間違いだととらえてしまうと、かえって逆効果です。

そもそも、どちらにおいても、自分への錯覚から出ていることなので、錯覚をジャッジしても意味はないからです。

ですから、自分の傾きに気づいたら、その良し悪しを判断せず、ただ気づく(認識する)だけでいいということです。

認識すれば、ひとつの「檻」「柵」を自覚したことになりますから、そこからすでに出ているに等しいのです。

ただ長年の癖なので、いつの間にかまた檻に入ってしまうことは何度もあるでしょうが、出たり入ったりしながらも、気づきが増せば、やがて本当に出られることになるでしょう。

それ(柵)は、逆から見れば、自分自身を守っていた安全弁・保護壁なのです。それがもう必要としない自分になるのです。

これはまた形の違うグノーシスと言えます。


タロットでの願望実現について

タロットを使って願望実現ができるかについて、関心がある人もいると思います。

そもそも願望実現、まさに自分の望みが実現することは、スピリチュアル界隈でも人気のテーマとなっています。

YouTubeなどでも、そのテーマを扱い、こうすれば実現するよと説いている人も少なくありません。

そして、それならぱタロットでも可能なのではないか?と考える人がいるのも当然ですし、実際に、タロットでの願望実現方法を紹介している人もいると思います。

では、私はこのことについてどう思っているのかと言えば、できることもあればできないこともある、という答えになります。

まず、おそらく万人に共通な、絶対の方法はないと考えます。それは他の方法やツールでも言えることでしょう。

しかしまた矛盾しているようですが、誰にでもある程度は、当てはまるような、法則のようなものはあり得ると思います。

確実に願望が実現するとは言い難くても、何もしないよりは、タロットを使って願う方法を取れば、一応、誰しもが実現に近づく効果を上げることは可能だと考えます。

ただ、その前提として、タロットになじんでいること、もっと言えば、タロットの象徴図としての意味を理解していたほうが活用度、実現度は増すと思います。

単なる絵のついたカードとして扱うレベルでは、ほとんど意味のないものとなるでしょう。

要するに、タロットへの信頼がまず重要で、次に、図の意味を理解する知識と感覚がいります。

ここで言っている、願望実現に近づける方法や法則とは、タロットの図像を、願望のイメージや、実現の過程・具体的方策を出すためのツールとするということになります。

色々なところで言われているように、イメージすること、イメージの力を上げることは、望みを現実化するポイントと言えましょう。そのためにタロットの図像が役に立つというわけです。

しかしながら、先述したように、それは絶対の方法ではなく、うまく行くこともあれば、叶わないことも当然あります。ですが、やらないよりは、実現に近づける確率は上げられると思います。

ところで叶わない原因・要因にはいくつか考えられるのですが、根本的に、叶えたい望みと思っていても、実は本当はそうではなかったどころか、本当は叶ってほしくないという仕組みに、自分の心がなっているケースがあります。

望みとは、まだ実現してないことですから、逆に言えば自分にとってはイレギュラーな状態なわけです。

人間、恒常性機能があるように、一定の状態を保つことが働きます。

望みはあっても、それがまだ実現してない今の状態のほうがノーマルで普通だという認識になっていて、望みが叶うことは不自然なこと、不安定の状態だと心の奥では思ってしまっていることがあります。

すると、いくら表面的には自分が叶えたいと思っていても、潜在的には叶ってほしくないわけですから、両者の葛藤・不和みたいになり、望みを強く持てば持つほど、心が穏やかではなくなり、その不安が余計に望みの実現を遠ざけることになります。

さらには、人によっては、望みが叶うと本当は困るという意識も存在していて、自分がその状態(望みが実現していない状態)を、深層の自分では望んでいる(その方がメリットがある、自分が守られる)という皮肉な理由の場合もあります。

また、ここがとても大事なところですが、よいことばかり、自分の都合のよい状況ばかり望んだところで、それは全体・トータル・宇宙的規模・自然から見れば、歪なものであり、半分でしかないことを実現させようとしているので、とても不安定でしかも固定的、宇宙の流れ、循環法則には反することだとも言えるのです。

自分で勝手に世界を都合の良いように作り変えようとしているわけですが、残念ながら、それは無理なことなのです。

マルセイユタロットの「世界」のカードが示すように、四つの生き物が揃って初めて、世界は完全となります。

四つの生き物とは象徴であり、四つの要素(四大元素)のことですが、それが何なのかを説明するよりも、つまりは、一つとか片方だけとかでは、世界は成り立たないという話なのです。

従って、自己都合の(自我の欲望を満たす)世界を望み過ぎると、たとえ一時的には叶ったとしても、宇宙・世界の修正が入り、自分(自我)が捨てた、避けた、いらないと思った状態が生じたり、見させられたりします。

これはわがままな自分では、もっとひどいことになるため(成長もない、自我の狭い世界観の中で右往左往することになる)、バランスを取り戻させるための宇宙からの愛とも表現できます。

願望を実現させる前に、多くの人は、自分の浄化、自らの心の中にあるアンバランスなこと、曲がった思い込み、もういらない信念、錯覚などを修正しておくことのほうが大事で、そうすれば、クリアーな自分が、宇宙の自然(あるがままの)状態と共鳴し、望みは(それが自然なもの、本当の心からのものならば)自ずから叶うように整えられていくでしょう。

従って、個人的には、タロットを使っての願望実現を行うことは、あまりお勧めいたしません。

タロットを魔術道具として使うことにおいても、願望実現法はありますが、(近代)魔法を使う方も、私的な願望に使うことで、結局はよくない結果、最後(亡くなり方も含めて)となることが多いように感じますから、自己浄化ができてない段階で、やたら願望実現に走ることは、かえって危ないかもしれません。

ただ、願望を実現させようというエネルギー、思いも大切で(マルセイユタロットでは「力」と「悪魔」のカードと関係します)、そう思うことで、自分の望みを改めて知ることにもなりますし、また、願望実現法を行っている最中に、それは本当の望みではなかったということに気がつくこともありますから、願望実現を行うことを否定するのではありません。

それに、願望実現ではなく自分に合う生活とか、仕事とか、つまりは自己に適した現実での表現を、深いところの自分は知っていますので、それをタロットを使って顕在意識まで浮上させるという使い方があります。

これがわかった場合、本当にそれが実現することがあるのを何度か見てきています。

けれども、何度も言いますが、絵を見ているだけでは意味はなく、タロットへの理解(少なくとも、タロットを使用させる側の人の理解)が必要となります。


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