タロットの使い方
人間の選択、マルセイユタロットの指針
マルセイユタロットと言いますか、伝統的タロットでは、78枚を一組にし、大アルカナ22枚、小アルカナ56枚という構成になっています。
二部構成のアルカナは、その数から、大アルカナは3と7、小アルカナは4と10の原理によって解釈可能です。
特に、3と4の違いが、大アルカナと小アルカナにはあると考えられます。
大アルカナと小アルカナは、いわば次元が違うので、同じように見ては理解ができなかったり、うまく使いこなせなかったりします。
さきほど、3と4の違いがあると言いましたが、大アルカナの3は縦に見て、小アルカナの4は横に見ると適切になってくると思います。
ところで、人は何かを選ぶことで人生を過ごしているとも言えます。人生において、選択がないことはめったにありません。一日単位でも、一年単位でも、常に選択の連続と言えます。
ゆえに、人は選択に迷い、悩むことが多くなります。そして、タロットを使う者、あるいはタロットリーダー、タロット占い師に相談する者も、やはり、自分の何かの選択についてが主題になることがよくあります。
そこで、さきほどの大アルカナの3と、小アルカナの4を、選択のテーマで見ます。
すると、選択には7つ(3+4)の方法(区分)があって(考え方によっては3×4の12)、大アルカナ縦の3と、小アルカナ横の4に分けられます。
これを別の言葉で表しますと、大アルカナには3レベルの選択があり、小アルカナは同レベルながら4つの性質があるわけです。
大アルカナの三つのレベルとは、言わば低・中・高の選択段階があるとも表現できます。ただし、ここでいうレベルの違いは、縦階層ではあっても、低いものが悪くて、高いものがよいというわけではありません。
三つのレベルは、あえて宗教的に言えば、神から見た選択と人間的な選択、その中間的な選択があるというものです。神の選択はもっとも高次ではあるものの、それが必ずしも、普通の人間にとってよい選択であるとは限りません。
なぜなら、高いレベルになればなるほど、一人の人間の良し悪しなど、どうでもよくなってくるからです。多数決ではありませんが、宇宙全体の進化のために、ただ一人の人間への忖度はないみたいなことです。
※(別に人の犠牲を肯定しているわけではありませんし、小宇宙大宇宙の法則からすれば、一人の人間と全体とはリンクしていると考えられ、おそらく全と個が切り離されて進化するものではないとは想像できますが)
神の思し召しという言葉があるように、神様の考えるレベルとか規準は、我々人間にはわからないものです。でも、人は自分の人生を普通に生きているわけですから、通常レベルでの選択における良し悪しを無視するわけにもいかなくなります。
ワタクシの事情というものに神は考慮してくれなくても、ほかならぬ、ワタクシ自身はワタクシのためによい選択をしなくてはと思うわけです。
しかし、一方で、神次元からすれば、一人の人間の本当の成長のためには、その人にはわからないレベルで善きことがあり、その選択を勧めることもあるでしょう。人間レベルだと欲望や私情に囚われて、目が曇ってしまうこともあるからです。
もし天使という存在がいるのなら、天使は、そうした高い神の次元と、普通の人間との間に介入して、相互理解と、人の本当の成長(霊的進展)のために働きかけることになるのではないかと想像します。そういう意味では、天使の選択もあるということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、この三つの階層の選択を示唆しているものと考えられます。
ただ先述したように、どれ(どの階層の選択)がよくてどれが悪いというのではありませんし、このカードが出れば特定の階層の選択をすべしというものでもないと考えます。
大切なのは、三つの階層を総合的に判断し、なぜそのカードが今回出たのかの意味をよく見極め、結局、自身自身の成長に役立てることではないかと思います。
一方、小アルカナの世界は、人間レベルの選択における4つの性質を表し、すなわち、四大元素の風・水・火・地で、物質的には剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)になります。
簡単に言えば、四つの視点・見方みたいなものです。
人間世界は、損得や、快不快・好き嫌いなどの感情、時間や投資の効率性、やりがい・生きがい、面白い面白くない、関心無関心などの判断の規準があります。(人によって異なる規準にもなっています)
これを分析するのに、4つの性質は役立ちます。自分は何を重視して選択するのか、また、足りない性質、考慮すべき性質は何なのかなど、こうしたことに小アルカナは使えます。
個性を特化していく、悪く言えばわがままを突き通すみたいな選択の使用法もあれば、バランスを見る、統合的な自己成長のための選択に使うという道もあります。後者は結局、大アルカナに通じる道であり、やはり、マルセイユタロット的には、人間が神に戻る方向性(霊的成長)を示唆しているのではないかと考えます。(使い方にもよりますが)
マルセイユタロットを使っていくと、現に私自身がそうですが、現実的なことにおいて、タロットを使って何かを選択するというようなことは、ほとんどなくなってきます。そして、タロットで何かを決めるという使い方に、空しささえ覚えるようになります。
ですが、それがよいと述べたいのでもありません。
タロットで物事を決めることも別に悪いわけではありませんし、タロットの使い方ではメジャーな方法でしょう。従って、それもまた自分の選択であり、どのような使い方をするのかは自分次第で、それにタロットは応じてくれるというわけなのです。
タロット内の区別とレベル
タロットの種類は、今では数えきれないほどあると言われます。
しかし、古典的と言いますか、昔からあるタロットは、78枚を一組にして、大アルカナと小アルカナというパートにわかれた構成になっています。
正直言いまして、個人的には、この構成になっていないタロットは、タロットとは言えないものと考えています。
いや、この構成からはずれる古いタロットも多いので、そう言ってしまうのも問題かもしれないのですが、あくまで「象徴システム」として使うタロットという意味では、と断っておきましょう。
さて、先述したように、タロットの中には、大と小のアルカナという、一組の中でも、一種の異なるカード同士が組み合わさっているわけです。
当然、そのふたつの違いも出てきます。一般的なタロットリーディング・占いにおいては、この大アルカナと小アルカナを、やはり区別して読むことが多いです。
たいていは、大アルカナが全体的なこと、本質、方向性などを表すのに対し、小アルカナは具体的なこと、現実的判断、詳細な方法などを示すというようにされています。
ただし、流派とか先生によっては、そのような分け方ではないこともあります。
今回のテーマは、大アルカナと小アルカナの違いということではなく、それも含めての、タロット一組の中での差異とか区別のことなのです。
私の扱うマルセイユタロット講座では、カードに良いも悪いもなく、すべて平等の価値で見ていくことを勧めています。
それでも、大アルカナと小アルカナの区別はします。
とは言え、よくあるような単純な区別ではなく、大アルカナと小アルカナの密接な関係性と、そのレベルや次元をきちんと説明しての区別なので、私の講義においては、この両者の使い分けとか扱い・読みに、受講者の方が、その考え方において混乱することはないです。
巷では、特にマルセイユタロットの小アルカナの扱い、読みが雑なところが結構あるようで、そもそも小アルカナが教えられなかったり、ほとんど使う必要がないと言われたりすることもあるようですが、それは非常にもったいない話です。
それはともかくとして、特にマルセイユタロット以外のタロット種では、大アルカナ・小アルカナの違いだけではなく、例えば、大アルカナ中においても、カードの良し悪しとかクオリティを区別してしまうケースが見受けられます。
それが悪いわけではなく、むしろ良いこともあります。何事も両面あるものです。ですから、逆を言えば、良いこともありますが、悪いこともあります。
よくあるのは、大アルカナカードに吉凶の色付けをするものです。簡単に言えば、「これが出るとよい意味、これが出ると悪い意味」というような、おみくじ的なカードそれぞれを区別する見方です。
確かに見た目的に、怖いカードもあれば、明るくなるようなポジティブなカードもあるので、そうなってしまうのもやむを得ないところでしょうし、タロットは絵のカードなのですから、ある意味、感性に素直(正直)な見方なのかもしれません。
また、こういう区別をすれば、とてもカードの解釈がわかりやすくなるという面があります。質問に対する答えとして、いい・悪いが一目瞭然だからです。
しかしながら、「物事の良し悪し」を問う質問にはいいかもしれませんが、事態の改善(解決)や、本質的な答えとか意味を見出そうとする時、もっと言えば、霊的な成長を求めようという場合には、かえって答えがわかりづらくなるという欠点もあります。
「どうすればいいか?」の質問に、それは悪いです。それはいいです。の答えのパターンでは機械的で困るわけです。
まあ、自分が改善策をいくつか案として持っておいて、それを次々とカードに良し悪しで問うていくという方法ならば、答えが出ないわけではないかもしれませんが。
ですが、そもそも改善策とか解決策の案が思い浮かばなかったら、良し悪し判断を問うことすらできません。これが大きな問題と言えましょう。
それに、極端に言えば、吉凶・良し悪し的には、別にタロットでなくてもよく、数個の棒とか、コインの表裏とかでも占えないことはないです。
せっかく大アルカナだけでも22枚もあるのですから、これに吉凶的な価値をつけてしまうと、22もの良し悪し判断があるということで、複雑すぎて使いにくくもなりますし、吉凶だけに使うのは、カードの持ち腐れ(笑)と言ってもいいでしょう。
まあでもゲーム的に、例えばよく言われるような、16番「塔」とか13番「死神」(マルセイユタロットではそういう呼び名はしませんが)とかのカードが凶札だとすると、たった二枚の凶札を、22枚の中からわざわざ選んだということは、相当恐怖の代物になって、占いとしてはインパクトがあるかもしれませんね。
エンターテイメント的なホラーゲームならいざ知らず、怖がらすためにタロットをやっていては、あまりいい使い方とは言えないように思います。
それで、こういう吉凶的な区別ではなく、レベル(と言っても、これも単純な高い低いというわけではないのですが)で分ける方法もあります。
よく知られているのは、大アルカナの場合は、数が増えるほど高度なレベルになっていくというもので、小アルカナも宮廷カードと数カードにおいて、レベルの順をつけていくことがあります。
この場合、注意すべきは、吉凶(良し悪し)とレベルの順は異なる概念だということです。これを一緒にしてしまう人がいるので、問題なのです。
レベルが高いと言っても、決して悪いという意味ではなく、その反対に、レベルか低くても、悪い・凶的な意味ではないのです。
人間とか世界(宇宙を含む)には、様々なレベル・次元があり、確かにその高い低いはあるとは考えられますが、レベルに応じた状態ということもあり、その差があり過ぎると、かえって害になったり、受け入れられなくなったりするのです。
言わば、本人や状況に適切なレベルがあるということです。
タロットカードの大アルカナと小アルカナの区別も、実はそうしたレベルの違いとも言え、そして今述べたように、大アルカナの中にも、小アルカナの中にもレベルがあると考えます。
そして、他人へのリーディングや、自己の活用において、そのレベルを意識する(設定しておく)ことにより、うまい使い分けや応用が可能になるのです。
病気治療でも、劇薬もあれぱ、穏やかに効く薬もあります。それはその人の体力とか状態、環境などによるでしょう。
同じように、ある問題とか課題があるとしても、それは人それぞれに対応が異なってくると考えられます。
その一つが、タロットのレベルの違いを考慮するということなのです。ですから、カードは普遍的でありながら個別的でもあるのです。
たとえ、全く同じカード、展開が出たとしても、人や状況によって読み方・とらえ方は異なります。
ただ、レベルというものがわかっていないと、それもうまくできません。
タロットを手にしたあなた、あるいは、これから学ぼうとするあなたは、タロットを吉凶おみくじ的に、物事の良し悪しを見る道具にしていくのか、様々なことに活用できる優れた象徴ツールにしたいのか、考えてみるとよいでしょう。
私のところの講座は、もちろん後者です。
四つの生き物、自分の縁ある精霊
以前にも書いたことがありますが、動物のイメージでの精霊、守り神のようなものが、自分と関係することがあります。
そう書くと、何かスピリチュアル的で違和感があるという人は、“心理的にそう思う”と、安心したり、導きがあったりするような気がするとしてもよいです。
これは、サイキック的な、世間で言われる「動物霊」とは異なります。いわゆる動物霊とは、低級霊みたいな扱いの存在です。
ここで言っているものは、一種のエネルギーや、イメージ的な象徴の動物のことです。
マルセイユタロットでも、動物は登場します。犬(狼と解釈する向きもあり)、馬、猿、ライオン、牛、鷲などです。
それぞれに意味がもちろんありますが、今回は特に、四大元素の象徴でもある四つの生き物について取り上げます。
四つの生き物とは、21「世界」のカードに顕著に表されていますが、鷲・天使・ライオン・牡牛のことです。天使は動物ではありませんが、タロット的に「四つの生き物」と言うくくりで、あえて入れておきます。
この四つの生き物は、テトラモルフとも言われ、まさに四つで一つを意味する、西洋的には重要な概念になっています。ですから、キリスト教でも、この四つの生き物は聖書にも現れますし、イエスを真ん中に、四つの生き物に囲まれる図像でもおなじみのものです。
マルセイユタロットの場合、さきほど述べた「世界」のカードでは、四つの生き物に囲まれる中央の存在はイエスではなく、両性具有的な踊っている人物で示されています。
この人物は、両性具有的なその様子からも、普通の人間ではなく、神的な人物、完全性を象徴した存在として考えられています。
ゆえに、キリスト教ではイエスとなるわけです。逆に言いますと、キリスト教以外、キリスト教に固まる以前からの図像として、この四つの生き物と中央の人物(存在)というデザインはあったのだと推測されます。
ここに、4対1の関係性、もしくは、四つがひとまとまりになって、ある種の完成や次元の上昇が行われる示唆を読み取ることができます。これは非常に重要な内容で、考え方によっては、宇宙システムの根源とも解釈されます。
ちなみに、「世界」カードの中央の人物の外にあるリースの形も、深い意味がありますが、それは講座などで明かしております。
さて、その四つの生き物が四大元素を象徴することは述べました。ところで、人によっては「四大元素との縁」というものもある話をしたいと思います。
まあ、一般的にも、人はパターンに分類されがちで、四大元素と言えば四つですので、人間を四つのパターンに分けると、四大元素的パターンにもなるわけです。
四大元素は、小アルカナ的には4組になり、剣・杯・杖・玉(一般名称でソード・カップ・ワンド・コイン)で表されます。ですが、今日は動物・生き物メインなので、鷲・天使・ライオン・牡牛で見ます。
すると、人は鷲型、天使型、ライオン型、牡牛型に分けられます。
そして、さらに、最初に述べた動物精霊とも関係し、メルヘン的な例えをしますと、自分には、鷲、天使、ライオン、牡牛の精霊がついていると想像することができます。
四大元素、四つのものは、先述したように、四つでひとまとりになり、どれかが欠けているわけではなく、全部そろって一人前みたいなところがあります。
従って、自分が天使型だと言っても、ほかの精霊・エネルギーが存在しないわけではないのです。しかし、人は個性を持ちますので、個人によって特質があり、四つで分けると、特に縁のある精霊とか型になってくるということなのです。
まあ、「そう考えると面白いよ」くらいで見ておいてください。本当にそういう精霊がいるんだとか、呼び出して超常的な現象を起こすんだ、みたいなことは考えないほうがいいでしょう。(笑)
※ただし、西洋魔法の世界では、実際にそのような世界観で扱うことがあり、まるで異世界的な話になってきますが。
今回の話は、そういう縁とか分類を意識すると、自分の得意・不得意もわかりやすくなり、無理ない生活・行動のヒントになるかもしれないですよということです。
四つの生き物のうち、天使と鷲は羽があり、空を飛びます。逆に、牡牛とライオンは地上の生き物で空は飛びません。もっとも、「世界」のカードでは、ある理由で、四つとも羽があるようには見えますが。
ということで、象徴的に考えれば、天使と鷲は天上性、牡牛とライオンは地上性を意味します。また、鷲とライオンは肉食獣で獲物を狩り、牡牛は草食獣、天使は優しい救いの存在ということから、鷲とライオンが男性性・能動性、天使と牡牛が女性性・受動(受容)性を表すと想像できます。
そういうことを組み合わせて考察すると、鷲タイプ(鷲の精霊)、天使タイプ(天使の精霊)、ライオンタイプ(ライオンの精霊)、牡牛タイプ(牡牛の精霊)の特徴が、何となくわかってくるのではないでしょうか。
そんな風に考えるよりも、単純にそれぞれの生き物の実際の特徴とかイメージを見出してもよいです。
例えば鷲は自由に空を飛ぶとか、目標に邁進する(獲物があるとそれに一目散に向かう)とか、ライオンは百獣の王で余裕がある(しかし慎重でもある)、プライドが高い、いざという時は強いとかなどです。
カードで引いて、自分に縁のある四つの精霊を見てもいいのですが、それより、自分自身の内面を静かに感じていくと、自分のついている精霊のイメージが出て来ると思います。
また、四つの生き物のうち、どれをイメージすると安心するとか、勇気が出るとか、気持ちが軽くなるとか、ポジティブな感情になるものを調べると、自分と濃い縁の精霊がわかるかもしれません。
ちなみに、私自身は一番は鷲だと感じています。能動的な天上性、あるいは、天上への能動性とも言えます。地上より天上志向が強い部分は自覚しているところです。
※(反対の地上志向が強い場合、バイタリティがあり、現実生活への充実がなされる人が多いです)
とはいえ、すでに述べたように、人には四つの生き物全部がいると思ってよく、個性のために、ある生き物が強くなったり、弱くなったりするということですし、シーンや年回りなどでも、生き物の強弱は変わると考えられます。
パートナーとか協力者には、同じ傾向の者同士が類友の法則で集まることもありますが、相性的には、自分と違う部分に強いものを持っている人のほうが、案外いいかもしれません。(お互いの魅力が長続きします)
ですが、もっとよいのは、(四つの)統合を果たすことです。自分の中の四つの生き物をうまく扱い、統合していくことで、真の自分(世界カードの中央の人物)が現れます。
さらに、この現実世界では、四つの生き物の強弱でそれぞれ個性が出ていますので、お互いに協力し、支え合い、認め合うことで、全体としての四つの生き物の統合がなされていきます。
それは時代の進化であり、人類そのものの進化とも言えます。
争ったり、マウントを取り合っていたりする場合ではないのです。そのことを「節制」のカードが、「世界」の7つ下で訴えているわけです。(7つごとの進展がマルセイユタロットの世界ではあります)
自分のタイプと精霊を知り、他人のそれを探査し、ともに成長する糧にしてみましょう。
タロットと神の内在、神の外在
タロットで「神」という概念をどうとらえるか?
これは、なかなか難しいテーマだと思います。
私の扱うマルセイユタロットでも、そもそもマルセイユタロットもヨーロッパの産物ですから、基本的にその文化圏において「神」といえば、イエス・キリスト、あるイエスの伝える父なる神ということになるでしょう。
マルセイユタロットが形成されてきた時代で言っても、おおむねキリスト教カトリックの信仰する「神」の影響が、タロットにあるのも当然と言えます。
しかしながら、キリスト教と言っても、まったく同じ教義とは限りません。ローマ時代に国教化されて、やがてカトリック的な教えがノーマルになって行ったとしても、以前は、イエスを神ではなく、人間と見ていた教えもありますし、その中間的な立場におくものもありました。
さらには、今ではオカルト的に扱われている節もありますが、イエスの教えには秘儀的なものがあり、表に現れているキリスト教とはかなり違う、いわば、グノーシス的な教えが込められていたという話も伝わっています。
実際、中世の頃、東欧から南仏にかけて、異端派のキリスト教が流行った時代があり、例えばカタリ派と呼ばれる宗派も、善悪二元論的なものではありますが、グノーシス的(もっというと、古いペルシアや東方の宗教に近いよう)な雰囲気があったように感じられます。
グノーシス主義は、カトリック的な教えと反するもので、どちらかと言うと神は内在的なものであり、自己のうちに隠されてしまった神性・完全性を「神」として表しているところがあります。
一方、キリストは教に限らず、ほとんどの一神教的な宗教は、神を外側に置き、私たちや、この世界を創った偉大な創造神ということになっています。
厳密には外側(に存在する)というものではないとは思うのですが、布教のために、いつしか外在的に神を置く(人格神のような存在にする)ことで、人々にイメージしやすいよう変化していったのではないかと考えられます。
個人的には、グノーシス的な教え(の神)も、それと対立する外在的に神を置く宗教も、本当は根本的には同じものであったのではないかと見ているところがあります。
先述したように、宗教化した場合、信徒に神を理解してもらうことと、信仰者を増やす必要があるので、次第に神を、内より外側に置くようにされてきたのでしょう。
今、霊的な分野が「スピリチュアル」と言われて、ライトなものからヘビーなものまで、様々な種類に分かれて、宗教の域を超えて多くの人に語られるような時代になりました。
そして、共通しているのは、そういったスピリチュアリストたちの語るものの多くは、神の内在性です。
ですから、グノーシスにも近いですし、かなり昔の、大元の感覚に戻ってきている(戻るというより、一部は進化していると見ていいと思いますが)ように思います。
ですが、神の内在性という理論と感覚は、ともに難しいものです。従って、現代の霊性(スピリチュアル)を高めようとする人、そうした方向性を目指そうという人でも、いきなりの(神の)内在的認識は困難があるかもしれません。
宗教的には偶像崇拝が禁止されているものも結構ありますが、一方で、禁止されていても、実質は偶像(神の像)を作って、信仰している人たちもいます。
そのほうが、人間的に、神のイメージがしやすいからでしょう。
これと同様に、神の内在性(自身における神性の認識)をストレートに見出していくより、最初は神をあえて外在性に置く方法を採用し、例えば像や絵、モノ、仕掛け(舞台装置)などを、(自己の)神のイメージ喚起ツールとして使っていくのもありではないかと考えます。
祭壇、仏壇、神棚というものも、一種の神(神性)の認識のための仕掛けと言えましょう。
実はタロットにおいてもそれは言えて、神性認識のために絵のカードを使うわけです。おそらくマルセイユタロットの役割のひとつに、これがあると私は見ています。大アルカナがまずはわかりやすいツールでしょう。
どのカードにも、神性の表現がありますが、特に、「神」という言葉が出て来る16「神の家」というカードは、神性や自分にとっての神というものを考える(感じる)のには重要だと思われます。
またいずれ、「神の家」については書きたいとも考えていますが、大事なのは、マルセイユタロットの大アルカナナンバー16の絵柄でなければならないということです。
例えばウェイト版だと、名前も「塔」になり、その絵柄からは、恐怖しか感じさせません。
聖書的にはバベルの塔の話のモチーフと関係していると言われる16のカードですが、たとえ崩れるにしても、何が象徴的に崩されるのかということがわかっていないと、ただ絵だけに引っ張られ、誤解を与えしてしまうのです。
この点、マルセイユタロットの場合、塔は崩れておらず、多少の破壊的イメージはあっても、崩壊するような絵ではなく、むしろレンガなど、しっかり積みあがって行くことも感じられます。(破壊的でありながらも、実はかなり創造期・生産的・着実でもある)
「神の家」の検証には、ナンバー的には前後のカード、「悪魔」と「星」と比較するのが効果的です。特に、「悪魔」との対比は、神と悪魔という名前だけからしても、非常に意味深いと言えます。
ただ、「悪魔」も、マルセイユタロットの場合、一般的な悪いもののイメージで悪魔をとらえていては、それこそ「悪魔」の罠に陥ります。
高次になればなるほど、善悪の概念(観念といったほうがいいかもしれませんが)は、普通の人間には理解しがたいものとなっていくからです。
その点で言えば、マルセイユタロットにおける「神の家」と「悪魔」は、非常に高次の善悪だと表現してもよいでしよう。
そして、ここが肝心なのですが、高次でも低次(通常の人間状態)に入り込んでいて、言ってみれば、普通の生活においても、神の家とか悪魔を意識することは可能だということです。
もっと簡単で宗教的な言い方をあえてすれば、神の御心にかなう生き方と悪魔を退ける(負けない)生き方として表されます。
それは一見、低いレベルの善悪のようではあるのですが、高次の善悪のエネルギー(影響)を受けているものであり、それが自覚できた時、自身のうちに本当の(神の)力が宿ることになると思えます。
これは神の内在の自覚であり、外在的な神の感覚では、神がおられること(神の恩寵)の実感でしょうか。
とにかく、神の内在(の理解)にも外在的なモノを介してのルートがあり、それはマルセイユタロットを使うという方法にもあるという話でした。
三枚引きと時間感覚
タロットの展開法(スプレッド)で、三枚カードを引く技法、いわゆるスリーカードというものがあります。
これは、結構、いろいろな展開法の基本となっているもので、あの、特定の展開形を持たない、カード人物の視線の方向性にカードを並べていくカモワン流でさえ、最初は三枚引きから始まります。
三枚それぞれについては、様々な解釈(所定の意味)が付与されているのですが、時系列的に見れば、たいてい、過去・現在・未来というように意味付けされます。
私たちの通常の時間感覚では、今現在を基準にして、すでに過ぎた時間の過去、いまだ起こっていない時の未来というようにとらえるので、すなわち、現実的時間とは、三つの観点による時間の流れということになります。
従って、カードをそれぞれ過去・現在・未来と振り分ければ、必然的に三枚(三つのパート)となり、それがつまりは、私たちの経験している時間の舞台を表現していることになるわけです。
ですから、三枚引きは、時系列感覚においては、とても現実的であるのです。
しかし、タロットといえば象徴が機能しますので、むしろ、現実を超えたもの、非現実、超現実、見えない領域や通常の認識していない部分を表すことが多いものです。
とすると、三枚引きで時系列的に見る(タロットの)シーンは、現実のようでいて、そうではないところもあるわけです。
ここが非常に重要なポイントで、現実と非現実との境界線にゆらぎが生じ、これにより私たちは、常識的な自分、自我が固まった世界観が崩壊してくる体験を(タロットリーディングで)します。
すると、気がついていなかったこと、表面や現象ではない、本当の問題とか核心にふれていくことにもなります。
ところで、スピリチュアル的によく言われるのが、「今この瞬間に生きる」という戒めのような言葉です。
これは確かに、そうしたほうがよい場合もあるでしょう。私たちは、どこか、今に集中せず、ああでもないこうでもないと考えを巡らせたり、過去や未来のことを心配したりしていて、今をおろそかにしていることがよくあります。
今に集中していれば、余計な考えも少なくなり、エネルギーや意識も現在に収束され、作業効率とか目標達成力も上がるでしょう。
けれども、一方で、今に生きないということもでき、必ずしも、今に集中しなくてもよいケースがあると思っています。
言ってみれば、過去に生きる、未来に生きるという考え(意識)です。
実は、多くの人は、過去や未来に生きる選択をしている場合があります。
さきほどの「今に生きろ」という戒めも、偏って過去とか未来に意識が飛んでいる人を注意しているだけで、過去とか未来を思ってはならないというわけではないのでしょうが、それでも、あえて過去か未来に生きるという方法もありだと述べておきましょう。
まず、現在ではなく、過去とか未来の時間に意識を飛ばすのは、ポジティブや、よいと思う自分になる場合ではないとなりません。
ネガティブな場合は、それに囚われ、まさに時間の虜になってしまいます。過去だと後悔とかトラウマ、未来だと不安とか恐れでイメージしてしまう自分(や状況)の場合です。
よい時間への跳躍とは、平たく言えば、過去の良かった自分に戻る、未来の理想的な自分に浸るというようなものでしょうか。
とは言え、なかなか思いだけでは(イメージ)が難しいので、タロットの図像(絵)を援用するわけです。
さきほど、三枚引きが、過去・現在・未来を示すという解釈があると言いましたが、それを使い、過去に良かった時代があれば、過去のカードから想像し、未来によいものを描きたければ、未来パートのカードのイメージを借りるわけです。
カードを展開する時も、自分がよくなるにはどうすればよいかというテーマで行えば、それ相応のカードをタロットが出してくれるでしょう。
現在は現在で、今の自分をイメージするのに役立ちます。
ここで注意しなければならないのは、カードは正立で出すということです。逆位置を取らないわけですね。逆位置には、どうしてもネガティブなイメージがついてしまうので、正立のみの展開で三枚引くとよいでしょう。
時間の跳躍は、言わば、現実逃避(笑)なのですが、よい現実逃避は、現実を変える(超える)効果があるのです。なぜならば、私たちは今の自分を作りあげている自分(自我)ルールに縛られ、その範囲からなかなか抜け出せないでいるからです。
自分を変えることは現実を変えることにつながります。そのために人は、学んだり、経験したり、運動したり、新しいことに挑戦したりします。それは、すなわち、今の自分を壊す作業でもあるのです。
従って、今ではない過去や未来に飛ぶということは、今を変える可能性があり(過去の認識が変化すれば今も変わります)、現実逃避も悪くはないのです。
また現実逃避は、自己を保護する役割もあり、傷つき、疲れ切った自分を癒す作用が期待できます。
本当は、三枚それぞれを関連させ、現実時間の流れを無視して調和させることで、大きな変革や癒しが起きるのです。
ですから過去だけ、未来だけの跳躍は一時期な避難みたいなもので、そのあとに、三枚を統合させて、新しい意識を作り出す必要があります。
結局、それは「過去」→「今」←「未来」のように、今に集約されてくるものです。その意味では、やはりスピリチュアリストの言われるような、「今に集中」「今に生きる」というのも、理に適ったことになってきます。
今の常識的な自分を変える(超える)には、時間の流れを、過去→現在→未来ではなく、その逆方向や、三つが輪になって回転しているようなイメージを持つことです。「運命の輪」のカード図像にも関係してくることです。
そうすると、無意識の領域では、時間の流れというものがないことに気づくかもしれません。
過去の問題は今の問題であり、未来もまたしかりで、現在に悩みがあれば、実は過去も未来もよいようには見えてきません。
すべてが関連しているのですが、現実時間にいる私たちが実際に行動できるのは今の自分だけなので、三次元的には今の自分の行動と選択が重要になります。
反面、意識(心)の中では、行動ではない部分も効力を持つので、思いとかイメージの力が有効になります。ですから、時間的には、今だけ大事とは限らないのです。
そういうことを、たった三枚でも、タロットからは感じ取ることが可能でしょう。
タロット三枚と時間意識について、タロットを展開しながら考えてみる(体験してみる)のも面白いことです。