タロットの使い方

「13」の吐き出し

マルセイユタロットの名前のない「13」のカード。

絵柄が強烈なだけに、最初は怖い印象を持つ方が多いのですが、意味がわかってくると、どんなカードもそうですが、カードにいいも悪いもないことがわかってきます。

そう、13には13の役割があるのです。これまたどのカードもそうですが、その根源的な象徴性はひとつでも、具体性・現実性として見ると、多様な意味を持つ事になります。13もしかりです。

その多様な意味の中のひとつに、デトックス的な吐き出すような浄化(作用・作業)というものを考えることができます。

これには、もちろん、物理的な意味での吐き出し・浄化もあるのですが、むしろ心理的な部分での意味を見るとよい場合があります。

私たちには、心理的なデータ(人生で受けた感情的・意識的な記憶のようなもの)がたくさん自分の中に眠っていると考えられます。

それは心の癖のようなものでもあり、また知らず知らず自分を動かしている信念や思い込みのようなものであったりもします。

自分でわかっているものもあれば、無自覚なものもあります。一般的にやっかいなのは、自分で気づいていないデータ群のほうでしょう。

潜在意識(とひとくくりにするには問題があるとは言えますが)にある記憶・記録のようなものです。

それらが今の自分に問題となってくる場合、昔の自分にとっては重要なものであったのに、現在では必要のないもの、むしろ自分を困らせるものになっていることがあります。

また、いわゆる抑圧された感情と言いますか、本当の素直な気持ちとは裏腹な、仕方なく偽の自分を演じて、内部的に葛藤を起こしてしまっているデータというものもあります。

この解消には、第一に、そのデータ・記録状態に気づくということがあげられます。

しかし、長い時間を経過していると、そこから来る葛藤でさえ、もはや無意識と言いますか、自動的になっていて、習慣みたいになっているので、不快感よりも逆に表面的には心地よさを感じてしまっていることがあります。

従って、独力での気づきには困難なことがあり、(専門家的な)他人のサポートが必要とされる場合があるのですが、それでも何とか一人で、自分の妙な感情や、抑圧している葛藤の気持ちに気づいてきた時、そのシステム(何の対立・葛藤なのかという分析・原因)がわからないにしても、とにかく不快さを何とかしようと行動に出ることがあります。

そしてたいていは、好きなことをしよう、嫌なことはやらない・・・みたいなことになって、旅行したり、自然とたわむれたり、親しい友人と過ごしたり、趣味を始めたりします。

全体的に他人に気遣おうとせず、自分中心で行こうという、まあ、感情に素直にとか、自分の感覚に従おうという行動を志すわけですね。

それはいいのですが、もともと葛藤している根本のデータがあるわけです。

それは奥の方で押さえている本当の気持ち(の自分)と、実際の生活においては波風立てないようにしているもう一人の自分との戦いの状態とも言えます。

波風立てないため・・・というのも、実は本当の理由ではなく、自分の恐れこそが真の理由であり、その恐れは自分が正しいということが否定されることへの恐怖や、つまるところ、自分自身の価値に関わることであって、言ってしまえば自分で自分が認められるかどうかにつながっています。

ともかく、抑圧されている純粋な自分、正直な自分(の感情)というものがあり、そのふたを開けることが恐さでもあるわけです。

長くなりましたが、ここで「13」なのです。

結局、自分の気持ちに素直になろうとしても、このふたの底に眠る本当の自分を開かない限り、今やろうとしているものは、嘘ではないものの、これまた表面的な「仮の素直な」自分の気持ちなのです。

ですから、最終的には、いや逆に、「最初には」と言ったほうがいいかもしれませんが、ふたの奧に抑圧されている自分の感情(データ)を吐き出す必要があるのです。

状況的にはもう無理なのかもしれませんが、過去の自分が受け、その時生じた本当の感情(それは今も存在し、継続しています)を吐き出す、言葉で表現するということです。

理想的には、相手があるならば、当時のその相手に向かってはき出すのがいいのですが、さすがに難しいところもあるとは思いますので、それでも相手がいなくても、吐き出すということが大事です。

それはきっと暴言じみたことになるかもしれませんし、人としてどうかと一般的には考えられる言葉や表現も出てくるかもしれません。

そんな世間の道徳観や、スピリチュアル的な高次の愛(すべて受け入れること)とかいう、聖人君子のような人の言葉に影響されず、キライなものはキライ、嫌なものは嫌、ものすごくつらかった、苦しかった、傷ついた、そんなこと言われてもできねぇーんだよ! おまえ、いっぺん死ねや!とか(笑)、自分がしまい込んだ感情は、そのまま思いきって吐き出すのです。

「13」は、そんなあなたの心の吐き出しを応援する存在でもあります。

時には15の「悪魔」のカードと協力してもいいですし、17の「星」と共同で行うと、もしかすると洪水のように言葉が出てくるかもしれません。(これらのカードは無意味に選んだわけではなく、きちんと象徴的・数的にも意味があるものです)

私たちは感情を持つ人間です。

ここでは「データ」という言い方をしていますが、それはあくまでわかりやすくするための方便で、感情は水のように揺れ動き、また淀み、さらに流すことができる固定(体)と気化の間の流動的・中間的存在です。

こういった水的なものを持つがために悩まされもしますが、逆に私たちはあらゆる体験を、機械的なものではなく、感情的に(波動のように)色濃く経験することができるのです。

つまりは皆一様なものではなく、一人一人振幅があり、同じ体験であっても、受け取り方は様々ということであり、さらには水のような影響として、一人だけのものではなく、他人との共感も可能です。

しかし、それだけに、自分や人の中で淀んでしまえば、腐り、まさに同じ発音の「鎖」として自他を縛ることにもなりかねません。

水質浄化のためには、薬品を混ぜることで可能になることもありますが、まずは沈殿している泥を吐き出す浚渫作業も重要となります。表面がいくら澄んでいても、泥がかき回されればまた濁ってしまうからです。

「13」が鎌で掘り起こそうとしているのは、この黒い泥・土だと考えられます。(ほかの意味も、もちろんあります)

泥は泥だけに、きれい事ではないのです。いくら美しい景色を見たところで、また本や人から理想的なことを学んだところで、まさにドロドロとした感情の部分自分の泥を吐き出さないと、単なる一時しのぎでしかないことがあるわけです。

泥を抱えて生きている、もう一人の自分と向き合う時期は、必ずやってきます。その時が来たら、怖いですが、泥田の中に入り(準備はきちんとする必要があります、そうしないと、ぬかるみにはまって動けなくなることがあります)頑張って掻き出してみましょう。

そして、泥には有機物や微生物がたくさん存在しているように、最終的には、泥の中にも宝があったことを知るのです。


タロットカードを見ての印象

タロットを習うと、最初のあたりで、カードの印象を聞かれるということがあるかもしれません。

何の知識もない段階での、言ってみれば第一印象での感想のようなものです。

しかし、案外、この時の印象が重要なこともあります。カードの意味がわかってくると、素朴で純粋な時の印象がなくなってしまうからです。「知識」というフィルターがかかるわけです。(そうすると、フィルターが悪いと思う人もいるかもしれせんが、フィルターがあるからこそ、物事を把握することもできるということを忘れてはなりません)

そして最初の見方で、よくあるのが、好きなカードとか嫌いなカードというものです。マルセイユ版の場合は、小アルカナの数カード(数札)が記号的なものになっていますので、カードの印象と言っても、大アルカナで見るのがよいでしょう。

それはともかく、主に大アルカナ22枚を見て、自分にとっての第一印象を見るわけです。

この時、おそらくは心理(学)的用語でいうならば(厳密には違いますが)、カードに自分を「投影」することが働きます。カードの絵柄が象徴であり、自分の感情や内面がカードに投影されることで、逆に自分の内側が反射してあぶりだされくるわけです。

ですから、好きなカードは、好ましいと思う自分ポジティブな部分であったり、理想的だと思う状態であったりしますし、嫌いなカードは、抑圧しているネガティブな感情であったり、価値観的に嫌悪しているものであったりするのです。

これは個別(個人)レベルでの話で、もちろん、人によって好きなカードや嫌いなカードの違いはあり、もっと言えば、カードそれぞれによって、全員感想は異なると言ってもいいでしょう。

しかし、タロットカードの象徴性は個別レベルに留まらず、人間に共通な普遍的なシンボル性(パターン)を持つとも考えられています。従って、見ている皆に共通の意識や、心情のパターンが働くとも言えるのです。

まあ、もっとシンプルに言いますと、誰もが「怖い」と思うカードもあれば、「楽しそう」と思えるカードがあるということです。それでも、それさえも、実はもっと根源的に遡れば、人類に植え付けられた、あるいは、歴史の積み重なりで残っているデータパターンの傾向だと考えることもできます。

ですから、カードの見え方、感じ方(印象)というのは、ライトにとらえることもできれば、相当根深いものがあると見ることもでき、結構面白いものなのです。

そして、あまり言われていないことですが、カードの印象は、心理的な投影や普遍的な象徴性のパターンによるものだけではなく、ある特殊な領域の影響を感じとっていることもあるのです。

これは言葉では表現しにくいのですが、強いて言うならば、サイキック次元や霊的次元と関係するようなものと言えるでしょうか。スピリチュアルといえば、スピリチュアルな話です。

別の言い方をすれば、魂の反応としてのカードの印象があるということです。それにも個別的なものと普遍的なものがあると考えられます。

さて、話は少し変わりますが、同じカードへの印象というテーマには関係します。

これは自分にとって縁のあるカードはどれか?という話です。このことについては、また日を改めて詳しく話したいと思いますが、今日は、カードへの印象の関係で、少しだけふれておきたいと思います。

自分にとって(特別に)縁のあるカードというのは、数秘的な技術によって生年月日から割り出すものもありますが、それとは違って、やはりカードの印象から導かれるもの、または、タロット使うようになってから、リーディング等でよく登場するカードで判断するものがあげられます。

印象からのものというのは、そのまま「何か気になる」というものが多いです。

ただ、最初の印象の時では、何とも思わないカードというのが、得てして自分と関係が深いことがあります。むしろ好きだとか、嫌いだとか思うものは、普遍的(誰しも思うよう)な印象のものだったり、インパクトが強かったりするだけで、(特別な)縁とはあまり関係ないことのほうが多いように思います。

結局のところ、印象だけではなかなか判断がつかないので、使っていくうちにわかってくるということになるでしょう。

また、そのカードが、先述したような心理的な投影とも関係していることもありますが、単純な投影と異なるところは、その投影されているデータが、自分一人の(一代の)個の心理・内面を超えることがあるということです。

それは「縁」なのですから、信じる信じないは別として、今の自分一人の世界だけではない、前世的・霊的なものも入っている可能性があるということです。

言い方を換えれば、自分にとって縁のあるカードとは、今生のテーマのような、カルマや因縁、あるいは使命とか、魂的な自己表現に関係しているかもしれないと想像されるものなのです。

と言っても、最終的には、どのカードとも縁があると言え、つまりは、すべては自分の内にあることを見出す、思い出す、統合するのが、タロット活用の目的とも述べられるのです。

最初のカードの印象にしても、タロットのことを知り、タロットを使っていくようになりますと、それが変化していくのが普通であり、投影されていたものもフラットになったり、浄化されたりしていくようになります。

つまりは、自己の浄化、成長のバロメータとして、カードの印象も変化していくのです。

すべてのカードがいいも悪いもなく、等しく価値があり、また等しく価値がない(笑)と思えるようになれば、それは自分の眠っていた内なる可能性が開花してきた証拠とも言えるでしょう。


自分と世界との関係を三枚のカードで見る

今日はマルセイユタロットの、「吊るし」「悪魔」「世界」に関するお話をします。

この三枚は、自分と世界(外側・他人など)との関係性を象徴するカードとして(整理するために)使えます。

まあ、「世界」はそのまんま名前が「世界」ですから、何となくわかると思いますが、ほかの二枚は意外かもしれません。

ではカード別に見ていきます。

まず、「吊るし」

このカードは、逆さまの吊された人物が描かれているカードです。私たちの解釈では、吊されているのではなく、自分が吊っている、このスタイルを取っていると能動的にとられえますが・・・。とにかく、特徴としては、囲いの中に入っているように見えること、そしてやはり逆さまであることです。

ということは、狭い世界、あるいは自分だけの世界(人とは違った観点)にいることがわかります。

問題性として見た場合、いわゆる引きこもり、まさに自分中心でありつつ、外に開かれていない、外と関係を持とうとしないところです。しかも、逆さまなので、独善的、天の邪鬼、ひねくれている、素直に受け取ろうとしない、穿った考えにとらわれているなどと指摘することもできます。

ただ、物事には両面ありますので、よい点として見れば、外の世界と隔絶させることで、自分らしさを知ったり、静寂な落ち着きの中に自分を安定させることができます。他人や企業・組織からの広告・宣伝などに翻弄される(影響される)ことも少なくなります。孤独ながらも、自分の世界(観)を保つという感じでしょう。

「吊るし」の状態に自分がある時、世界は自分が中心となり、さらに、交流は内的なものに限られ、実際の人間や外側の世界観とは離れたものになります。我関せず、ゆえに我の世界に遊ぶ(あるいは囚われる)という印象です。

「あの人、変わっているよねぇ」と人から言われても、気にならないか、そのような噂があることすら知らない世界にいるか、そもそも、他人に理解してもらおうという態度でもないと言えましょう。

次に「悪魔」です。

「悪魔」のカードの絵柄の特徴は、悪魔を中心にして、ほかの二人の小さな人物をつなげてしまっていること、二人の人物から見れば、つながれてしまっていることです。これを束縛と取るか、強い絆と取るかは、状況や考え方次第です。

そして、自分と世界との関係性で見ると、自分が悪魔となるのか、つながれている人物たちと見るかで立場が変わってきます。

自分が悪魔の場合、人を魅了するカリスマ的な強烈なパワー、世界観を持っており、言ってみれば“ワールドイズマイン”世界は私(のもの)というくらいの気持ちを持っていると言えます。

従って、人々はこの悪魔の人物を、モデルや理想、活き活きと自分を表現している人と見なし、その人の世界に魅力を感じ、引き寄せられていくのです。この引き寄せられている側がつながれている人物たちです

自分と世界の関係について戻りますと、「悪魔」のカードは、「吊るし」と同じく、自分の世界というものの中にいますが、「吊るし」と違うのは、それが他人にも開かれているということです。むしろ、自分の外の人やモノにを抱き込んで(巻き込んで)、自分の世界に引き入れてしまう状態とも言えます。自分自身が外側に拡大(問題の場合は肥大)しているわけです。

自分が悪魔になれば、多くの人からの支援や賛同も得られるでしょうし、人気者になったり、持ち上げられたりして、時代の寵児としてもてはやされることもあるでしょう。精神的・物質的にも豊かになる可能性があります。

少なくとも、自分の考え・行動そのものが世界みたいになってきますから、「世界は私のためにある」「私こそが世界」のような、強い自信にあふれ、自分と賛同する人物たちの人生は楽しくなるはずです。

最後に「世界」です。

「世界」のカードは、マルセイユタロット的にも、ほかのカードにおいても、最後の到達点・心境・完成点と言われることの多いカードです。

つまりは最高度の状態を示すと言ってもよいものです。ということは、自分と世界との関係においても、理想的なものと見ることもできます。

「世界」のカードの構造は、4つの生き物に囲まれた、リース状の中で踊っている人物が特徴的です。

よく見ますと、「世界」の人物と「吊るし」の人物が、そのスタイルにおいて、よく似ているのがわかります。(マルセイユタロットの場合)

ただ、違いもあって、「世界」の中央の人物は、手足が外に広がっており、「吊るし」は手足が縛られているように見えることです。踊っているか(動的)、逆さまに耐えているか(静的)の違いと言ってもいいでしょう。そして、ともに足が「4の字」を組んでいることが共通していますが、これは秘伝・口伝に関わりますので、ここでは述べません。

とにかく、「世界」は、中(の人物)は動的であり、リースの中にいながら、外に広がっているということは、内外との交流があるということです。

4つの生き物が見守っているかのように静的であるのも、中の動的な人物と比較して興味深いところで、「悪魔」の二人の人物たちとは違って、4つ生き物はつながれていません。自他の関係性においては、それぞれ自立性と自由性があるとも言えます。

「悪魔」は魅力とパワーがある者ではありますが、他人を自分の世界に必要としており、つなげておかなければなりません。また、つながれているほうも、つながれなければならない理由が、いい・悪いに関係なくあります。

一方、「世界」はつなげる必要はないのです。つなげるということでは、「吊るし」にも“ひも”があり、枠のような横木に足を結びつけています。つまり、「吊るし」も木に結びつける(つなげる・つながれる)必要性があるのです。

自分と世界との関係で見た場合、「世界」では、自他、内と外、理想的な状態で自助と共助と公助が調和しているものと考えられます。

いわば、自分が世界でありながら、人が(の)世界であることも認めている状態と言えます。人の世界と他人の世界の両方を統合した世界観・関係性と言ってもよいでしょう。

ただ、理想的であるがために、そのバランスが難しく、他人と自分の立ち位置、あり方、自我の優先と他者への気遣い、貢献や奉仕との兼ね合いに悩む状況も生まれます。

結局、これら三枚は、どれが悪いとかいいとかを言っているわけではありません。

自分と世界との関係をどうとらえるか、どのような状態に現在いるのか、自分にとって、どの状態が今必要とされているのか、そういうことをタロットの象徴を通して把握する、理解することが大事です。

「吊るし」である時も、「悪魔」である時も、「世界」である時も、場合によって必要なのです。

すべてのカードの中立的な象徴性の状態が、意識の偏り、囚われ、無知(この無知は知識のことではなく、自分のことに気づいてない無知です)によって、「問題」となっているのだと言えます。


質問は違っても同じカードが出る。

タロットカードを引くと、その時の問い(質問)は違うのに、同じような展開やカードが出ることがよくあります。

「あ、またこのカードが出た」と、講座の生徒さんたちも、実践練習でつぶやく人もいます。

こういう場合、ひとつには、その人にとって今のテーマのようなカードになっていると考えられます。

タロットは78枚で構成されますが、特に私たちは22枚の大アルカナを中心に引くケースがメインを占めます。小アルカナは、むしろ大アルカナの補助という形です。(しかし、場合によっては小アルカナがメインとなることもあります)

従って、大アルカナ22枚でもって(元型的な)全体性を象徴させることにもなるのです。

この考えで行けば、22のカードの象徴は全員に共通するものを表しながらも、個別的にも22の象徴で示されることになります。

何を言っているのかわかりづらいかもしれませんが、要するに、タロットの大アルカナ22の象徴が、そのレベルの違いはあっても、全体も個人も表現しているということです。

このようなレベルや次元の違いをきちんと認識していないと、具象(現実的で具体的なこと)と抽象(誰にでも当てはまるような、大きな括りでとらえられるもの)を混同し、タロットの使い方・読み方を見誤ることになります。

例えばマルセイユタロットの1の数を持つ「手品師」というカードがありますが、これが仮に「仕事」を意味するカードであると見た場合、誰にとっても「仕事」という言葉自体は共通概念となるでしょうが、一人一人の「仕事」の種類、意味合いは異なってくるということです。

自分の今の仕事が事務職だからと言って、この「手品師」のカードを引いた者は、全員事務職の仕事に就かねばならないとか、事務職が向いていると読むのではないと説明すれば、言っているニュアンスがわかるでしょう。ただ、この場合でも、この人にとっては「手品師」と事務職が結びついていることは重要なのです。

さて、話を戻しますが、質問は違っても、同じ(ような)カードが出るということは、そのカードの象徴性において、やはり個別的にも重要なテーマとなっているからだと考えられるわけで、結局、個々の質問を超えた意味が示されていると見ることができます。

すると個別的でありつつ、そのカード(の意味)においては抽象的であるもの、つまり、全体的(抽象的)なところまで次元を上げて考察する必要が出てきます。

なぜなら質問は具体的であり、別々である(違っている)のに、同じカードが出るということは、個別の質問を超えた内容・意味がカードから示されていると考えられるからです。

一言でいえば、「このカードを見よ」とタロットの世界から示されているわけです。

ここでマルセイユタロットを学習しているたいていの人にとっては、個別性から全体性へと次元を上げていく見方のできる、ある種の絵図を知っているはずです。

それは、占いや具体的な良し悪し、いい悪いの方向性を判断する見方のものではなく、自分の内外の統合を目指し、高次に覚醒させていく霊性の進化(真の認識)への道筋となるあの図です。

この絵図に、今の自分によく出るカードを当てはめることで、何が自分にとってテーマなのかを全体性の位置から考察することがてきるのです。(ただし、単純にあてはめるだけでは深く見ることは難しく、それなりの見方・技術があります)

タロットカードは、たとえ同じカードであっても、一人一人においてはその意味するところは異なります。

それは同じ人にとっても言えることで、去年出たカードと今年出たカードが仮に同じであったとしても、だからと言って、同じ意味やレベルを象徴しているとは限らないのです。

しかし、同時に、カードには、普遍的・共通的・元型的意味もあります。

このように、個別性と全体性の違いを見て、それらを統合していくことも、タロットカードを活用する醍醐味でもあると言えましょう。

さて、ここで少し面白い話をします。

私はタロット講座の受講生やリーデイングを受けられる方に、名詞を配ることがありますが、その名詞にはカードを意味するものが入っております。言ってみれば簡単な一枚引きをしているようなものです。(笑)

それで、今までの傾向からして、「このカードに関するものを引いた人は、現実にこういうことが起こる」みたいな「占い」のような示唆も出てきます。

例えば、「世界」のカードに関するものを引いた人は、女性の場合、妊娠出産をされる人があったり、「力」のカードに関するものを引いた人は、その後、予想外の困難な事態を迎えつつも、それを超える意識か環境に至ることがあったりします。また、「運命の輪」の人は、転機になる人が多いです。

このように、カードが現実の事柄とリンクし、しかも共通の意味合いも持つようなことになっています。一種の予言カードみたいにもなっているのです。

タロットにはこうした、占い力とも言える、不思議な示唆が確かにあります。

これも本人の無意識層のある部分が、カード(の絵柄・構造)に共鳴し、意味あるカードを引かせているものだと考えられますが、常識的にはその仕組みが何なのか、はっきり断定できるものではありません。

それでも、こうしたこともタロットの魅力のひとつになっていることは確かでしょう。

いずれにしても、タロットカードを引いて、その象徴を読み解くことは、いろいろなレベルにおいて、興味深いことになるのです。


タロットで「幸せ」になれるか。

インフルエンザと思える体調不良で、しばらくブログを休止しておりましたが、回復しましたので、ブログを再開いたします。

 

タロットを習って幸せになれるか(なることができるか)?

という質問や、問いかけ(ご本人なりの願望・思い)を見かけることがあります。

これに対しては、私のほうでは、万人に共通する回答を出すことができないと言っておきます。

それは、「幸せ」という価値観・概念・状態が、まさに人それぞれで違うからです。

極端に言えば、ある人にとっての不幸は、別の人の幸福・幸せである場合もあるわけです。

ですから、何をもって幸せとするのかの定義が一定にならない限り、タロットで幸せになるのかの質問にも答えられないことになるのです。

しかし、逆に言えば、一定の定義があれば(決まれば)、その定義条件を実現できた(満たした)場合、幸せになることもできるのだと言えます。

では、「幸せ」の定義をいくつかに分けて、その「幸せ状態」とタロットについて見てみましょう。

まず、いわゆる現世利益的なものをつかんだ、現世利益的に満足した状態、特に物質的に成功した状況「幸せ」だと仮定(定義)した時、タロットはそれを実現させることができるのでしょうか?

これは占い的なタロットの使い方をすることによって、一部可能ではないかと考えます。

ここでいう“占い的”というのは、運をつかむ、運(幸運や時流の流れ)に自分を乗せるという意味での使い方です。

タロットには「運命の輪」というカードがあるように、一言でいえば、この運命の輪に乗る、回すみたいな活用と言えましょう。

その前提として、タロットカード(の象徴性)を、運の良し悪しで見ることが重要になってきます。

先の「運命の輪」で例えれば、すべてのカードを「運命の輪」の支配に置き換えて配置する(配当させる)ような見方です。(この方法は秘伝としてはあるのですが、危険なものでもあります)

別の言い方をすれば、タロットに運の流れの性質を記憶させてしまうような感じで、運に乗れてないことをカードから検証できた場合は、運に乗せる調整を、カードそのものでしていくというようなものになります。

まあ、平たく言えば、巷のタロット占いと似たようなこと(方法・形式)なのですが、趣味や遊び感覚でするのではなく、かなり真剣に、運というものを見据え、カードと運をリンクさせる習練(実践)も必要となってくると考えられます。

いわば、現世利益・成功というものを運によってつかむのだという強い意志と信頼(信仰に近い)が大事なのです。

次に、心(精神)が満足している、癒されている、調和した気持ちになっているという状態が「幸せ」だという定義ではどうでしょうか?

精神的な満足は、物質的なものよりも心の中の目に見えないものに左右されますから、なかなか客観視することが難しいものではあります。とは言え、要は本人(の心)が納得していればいいわけなので、意外に簡単なところもあります。

この意味においての「幸せ」は、タロットでは得られやすいのではないかと思えます。

こうした心の幸せには、自分の心が望むことを知る必要があり、言ってみれば、自己の内面への洞察と調整(内在性の発見と浄化)にも関わってきます。

同時に、外的な自分の表現や行動(趣味・仕事・人間関係など生活全般)との調和(折り合い、バランス、融合)も図っていくことで、より心の満足も完成されてきます。

簡単に言えば、タロットを内面の投影や鏡として使い、今まで気づいていなかった心・内側を観察することにより、上記のこと(内面と外面との調和)を実現していく手段と言えます。

自分の心を出す(癒し、許し、素直になって表現する)ということは、ずいぶん楽になることだと、やがて気がつきます。

やってみると、どうして今までできなかったのかと思うのですが、できないようにさせていたのが、実は大人への成長、社会性の獲得とつながっていたことなので困難だったのです。

たいていの人は社会とのやむ得ない(自己欺瞞的な)調整のために、自分の心を抑圧しなくてはならず、それが積もり積もって、心的あるいは、肉体的にもつらい影響を及ぼしていたということがあるわけです。

もともと、人がどう思うのかなど全く気にならず、自分の意志を貫き通せる、自由に生きられる性格の人には、心の幸せはいつもあるようなものなので、このようなこと(内面と外面との調和作業)に必要性を感じないものですが、多くの人は大人になってから内外の葛藤が広がり、それを調整することが求められてくるのです。

結局、心の幸せを実現しなければ、生きる意味や実感も得にくいからです。

最後に、覚醒とか、霊性・魂レベルの発展(統合)を目指す(それの実現を成す)ことが「幸せ」だという(定義の)場合は、普通の感覚とはかなり違った「幸せ」観を持つことになるでしょう。

そして、マルセイユタロットは、このレベル(定義)の幸せを得るためにも開発されたのではないかと、うかがえる部分があります。

このような意味での「幸せ」は、実現が目標というより、その過程そのものが喜び(しかし苦しみでもある)となっているようにも思えます。

言ってみれば、これを目指すと志した瞬間から、「幸せ」はすでにあると例えてもいいものなのです。

しかし、一般的な意味(定義)での、ほかの幸せの意味からすれば、不幸と言ってもよい状態もあり得ます。

そもそも、「幸せ」の定義、世界観・価値観が異なれば、「幸せ」を通して互いに理解しあうことは難しいのです。

つまるところ、自分が思う「幸せ」とは何なのかということをしっかり定義しておかないと、いろいろな意見・価値観に振り回されることになります。

また「幸せ」(の定義)は、このように一定のものではありませんから、自分自身の中でも変わる事があり得るのだと思っておくことも大事です。

しかしながら、もし普遍的な「幸せ」観があるとすれば、それは真・善・美のような例えで、イデアとして把握できる「何か」元型のようなものと言え、それが多くの人に真に共有することができた時に、現実感覚としても存在してくるのではないかと考えます。

ですから、私自身は、「幸せ」は一人一人違うものではあっても、本当の意味では、誰しも同じと理解できる幸せもあるだと、高いレベルにおいては想定しています。マルセイユタロットでは、そのことが象徴として示されているように思います。

ともあれ、せっかくタロットを扱うのですから、タロットをする人は、タロットで幸せになりましょう。(笑)


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