タロットの使い方
タロットとコラボする(させる)方法
ある技術・メソッドで、ヒーリングや相談系のセッションをされている方が、タロットを学習して、タロットを取り入れた内容(セッションメニュー)にしたいと考えられることがあります。
つまりは、タロットと自分の技術のコラボレーションです。
この場合に留意すべき点について、いくつか「タロット」(を扱う専門)側から述べてみたいと思います。
●五感の問題
タロットは五感で言えば視覚、絵を目で見てもらうツールです。
ですから、タロットとコラボ(組合せ)したいと考えている自分のものが、五感で言うと、何に一番訴えているか、効果があるのかを把握することが大事になります。
もちろん、いわゆる狭義のスピリチュアルなセッションであると、五感を超えたものが入ってくるでしょうが、それでも、人間はまずは五感という肉体を通した受容感覚器から物事を判断しようという傾向があるものです。
もし自分のものがタロットと同じ視覚効果が鍵となっているものならば、同時に見せることは視覚からの混乱を呼ぶおそれがあります。少なくとも、間をおくか、別々に行うことが望ましいでしょう。
ただし、クライアントに見せるのではなく、施術者のほうがタロット以外のカードなど、ほかの視覚効果を持つものを使う場合はOKですが、施術者がタロットとほかのカード(などのもの)とを混同せずに扱えている場合において、となりますが。
さて視覚以外、例えば触覚、体にふれることでヒーリングなど行う場合は、一緒に行うこともできるかもしれませんし、視覚と触覚からの両方の効果で相乗する可能性もあります。
しかし、ひとつの感覚に集中できないことも考えられ、どちらにしても注意は必要で、とにかくも、コラボにおいて五感に着目してみることは、重要な点だと思います。
●同時か別か
ここで、個人的に思う、タロットとのコラボへの結論めいた話になります。
私自身は、タロットはあくまで「タロットとして、ひとつの完結した技法」であり、基本的には、ほかのものと同時に組み合わせるのは問題だと考えています。ほかの技術も、それはそれで完結したもの(技術・理論として確立したもの)である場合がほとんどでしょうから、尚更なのです。
ですから、いわゆる別メニューのような形にして、タロット以外のメインの技術(施術)と、タロットリーディングとを分けたほうがよいということになります。
料理でいうと、フランス料理と日本料理のそれぞれ完成さたれ品々(コースや懐石のような一定の流れも含めて)を無理矢理ごちゃ混ぜにするような感じで、それぞれの良さを打ち消し合うようなことにもなりかねません。
ただし、先に「基本的には」と書いたように、例外もあると考えます。そのことは次に述べます。
●(コラボを)同時にする場合において
料理の例えを出したので、それで続けますが、フランス(料理風)懐石料理とか、日本料理にフランス料理の食材や技法(その逆もあり)が取り入れられて、実際においしい食事になっていることもありますから、必ずしも、一緒に技術を披露することが悪いとは言えません。
その場合、技術は別ものとしながらも、一連のセッションの流れとして同じ時間内に入れるものと、技術そのものが同時コラボする方法とがあります。
前者は、あくまでタロットリーディングはタロットリーディングだけをし、ほかの技術、たとえばエネルギーヒーリングとか、(カードなどクライアントの視覚によるものではない)チャネリングなど、それ自体は別で行いながらも、セッションとしてはひとつのサイクル(コースメニューのうちに入っているもの)になっている形式です。
単体でそれぞれやるよりも、総合的にクライアントへのヒーリング・浄化・気づきなどが上昇する場合があります。アプローチが違う分、クライアントへ働きかけられる部分も異なってきて、それがよい結果になることがあるわけです。
別々にそれぞれ単独で行う場合に比べると、その分、時間も当然ながら単発のものよりかかることになるでしょうから、いただく料金も高くなってくると思います。
さて後者は、セッション中に同時に技術を提供するというもので、本当の意味でのコラボ、合体と言ってもいいでしょう。
これはタロットも、そのほかの技術も同じくらい学んでいて、マスターしている必要があります。双方、同レベルであればあるほどコラボをしやすくなります。
例えば、タロットで心理的・潜在的情報を読み解きながら、肉体的に、ある部分にそれが問題として出ているところをヒーリングするみたいなこともありますし、タロットリーディングで浮かんだ問題を、自分の技術で具体的に浄化・調整したり、カウンセリングしたりするということも考えられます。
またタロットを使用したチャネリング(純粋なタロットリーディングとは違い、タロットを触媒・触発として使う、サイキック、もしくは霊的な情報収集と提供)のようなこともあるでしょう。
これらは、前者の、サイクル・セットメニューとして別々でやるものと似ていますが、その違いは、ひとまとまりの時間単位において、タロットを組み込んだ、ひとつの技術になっているというところです。
言い換えれば、タロットを取り入れた新しい創作的な技術様式になっており、これは逆に言うと、タロットとその他の技術が両方とも稼働してこその技術で、どちらも欠かすことのできない融合した「形式(スタイル)」になっているわけです。
このような、言わば、真にタロットがほかの技術と融合したような使い方は、タロットを使用しながらも、本来のタロットリーディングとは異なる別物であり、タロットというツールが、ほかのツールに変化したと言え、この場合は、タロット講座で学習したタロットリーディングの方法・セオリーから離れてもよいと個人的には考えています。
要するに、目的がクライアントの癒しや気づき、変容であるならば、ツール・技術はどんな使い方になっても、クライアントに効果があればそれはOKなものと言えます。
●あえて技術(施術)のランクをつける
結局、タロットがメインか、その他の技術・ツールがメインかということになり、重きを置く方、効果と自信のある方をメインとして、ほかのものはランクとして格下げしてしまうやり方もあります。
例えば、タロットがランクの下である時、訪問されたクライアントの気持ちをほぐしたり、関係をつけたりするための余興的な技術として、「タロット占い」を最初にやってみるなどの使い方があります。
タロット占いは、案外、エンターテイメント性があり、今の状況や未来を占って、今後を予想するなどしますと、なかなか面白く、コミュニケーションも捗ります。
簡単にでも一通り占ってみると、すっかり場が温まり(緊張がほぐれ)、「いよいよこれから本番のメニューへ」と、移行させることがスムースにできるでしょう。
このようにタロットを使う場合は、タロットはメインの前座(苦笑)ですから、観客のいる演目の前に、スタッフや弟子筋が前もって場を盛り上げておくというような感じの扱いに似ており、そのため、リーディング技術がそれほど高く(深く)なくてもよいケースとなります。
あと、前座ではなく、セッションの最後に一枚、あるいは数枚カードを出してクライアントへの後押し、今日のメッセージ(の代表・まとめとして)を視覚的・意味的に告げるという使い方もできます。こちらは幕引きの役ですね。
まあ、タロットをメインにする者からすれば、ちょっと寂しい扱いですが(笑)、実はタロットはいろいろな次元に登ったり降りたりすることができるもので、もとはゲームとして使われていたわけですから(今もゲーム道具としての役割はあります)、盛り上げ役でも楽しむことができるのがタロットなのです。(と、ゲーム的なタロットの精霊は言います)
以上、簡単ですが、タロットをほかのものとコラボさせる場合の観点について、お話させていただきました。
今年を振り返り、来年を占うタロット
年末年始ともなりますと、占いの世界では、来年(年が明けますと「今年」となりますが)の占いがさかんになります。
前回の記事ではありませんが、タロットにおける「占い」と「リーディング」の違いで分けると、「占い」は未来(の自分)を知りたいと思ってカードを引き、「リーデイング」は、現在か過去についてタロットで見るという傾向があります。
リーデイングにおける「現在」か「過去」(を見る)というのは、結局、自己分析のツールで使うということになって、それには未来よりも、今、そして現在を作ってきた「過去」のデータを見ようとするわけです。
もし過去から今に至るものの中で、もうこれからは必要でなかったり、バージョンアップして修正するものがあったりすれば、今後に合うように変えていくことが求められ、そのためにも過去を振り返り、調べること(過去のデータに気づくこと)は必然となるわけです。
一言でいえば、浄化(破壊でもあります)と創造のプロセスです。
このように、カウンセリングや気づきが中心の「リーディング」では、過去のカードを読むことのほうが重要なのです。
一方、未来がどんな風になるのか、占ってみるのも楽しいことです。
ちょっと先を覗いてみたい・・・そんな気持ちでドキドキとワクワクが占う(占ってもらう)人に訪れます。もちろん、占いで出る未来も、あくまで選択肢のひとつ、今の意識や、運勢的なものでの流れに過ぎず、確定されたものでないのは当然です。
ということで、タロットをやっている人、タロット持っていて、占いやリーディングが少しでもできる人は、未来(来年)の占いをするもよし、今年の分析をリーデイングするもよしです。
タロットをやっていて思うのは、タロットは確かにカードに絵柄があって、ある思想や象徴性を示唆していると見て、深く考察したり、目的達成に活用したりするものでもありますが、同時に、「愚者」のカードに代表されるように、まさに囚われなく、「自由」に飛翔すること、こだわりをなくすことにも活かされるものです。
いい・悪いとか、浅い・深いとか、現実・精神とか、高次と低次とか、とにかく何かをはっきり決めなくても、あるいは、どちらでなくてはならないとか、何かでなければならないとかではなく、そういう概念自体をふっ飛ばす、ぶっ壊す、みたいな感じがタロットにはあります。
「ま、どっちでもいいじゃん」とか、「まあまあ、そんなに決めつけずとも・・・気楽に行きましょうや」みたいな、そういう感覚にもならせてくれるものです。
面白いことに、何事も深く道を究めようとすると、最終的には、こだわりがなくなって、求め極めてきた「道」そのものも、ものすごく広くなったり、なくなってしまったりするものです。
まるで、子どものような心になって(戻って)しまうと言いますか。
よく、物語などでも、その道を極めた老師のような人が、とても無邪気・純粋で、一見バカみたいに見えることもありますよね、しかも思いっきり俗物的なこともあったり・・・(ドラゴンボールの亀仙人みたいな(笑))
実は学べば学ぶほど、バカやアホになることがよいのではないかと、最近思うことがあります。
もう少し違う言い方をしますと、自分が何も知らないこと、どこまで行っても知る(新しく得る)ことはないこと、そして、実はすでにもうすべて知っていること、それを思い出そうと、他人や外界という設定を利用し、自分自身を遊ばせているということ、そのような心境(になる)のことを言っています。一言で言うと、「自由な存在になる」「自由に同化する」ということです。
だからと言って、知識や学習がいらないと言っているのではありません。残念ながら、私たちは生まれた時に、すべて忘却するルールにしているようで、だからこそ、知りたい、何かを得たい、ということの衝動が刻まれている宿命にあります。
しかし、これを好意的に解釈すれば、どこまで思い出し、与え、与えられるという「ゲーム」を、いかに楽しめるかに身を投じているとも言えます。
思い出す(封印を解除する)ことが、学びの形式を取っているわけです。学びと言っても、座学のようなことだけを指してるわけではありません。あらゆる人生経験そのものが学びでもあるわけです。
ただ、漫然と生きていても、思い出しが非効率に終わることもあり得ます。まあ、それはそれでゲームの楽しみ方のひとつであり、一人一人、やり方・楽しみ方は違うものですから、ただ生きるというだけでも大きなことだと思います。
しかし、ゲームにもコツがあるように、意識的に思い出すこと、つまり自覚的に学びをしていくこともよいかと思います。
そのひとつが、マルセイユタロットの象徴性を活用することだと私は考えています。
そして、実は、人間が通常の生活では思い出すことができない極めて重要なものがあると考えています。
それがグノーシス(神性なる認識・真の叡智)に関わることです。
人はまず現実的(物質)な安定や充実を図るために生きようしますが、次第に精神的、心の安定と充実を求めて生きるように変わってきます。ただ、物質の充実が精神の充実になり、その逆の、精神の充実が物質の充実になってくるという、両者は切っても切れない関係にあります。
前者(物質が精神を満足させる)は常識的にわかると思います。端的に言えば、お金がたくさんあれば、何でも買えるし、働かなくても済んで、心が満足するという方向性です。
一方、逆はわかりづらい人もいるかもしれません。
心が満足すれば、物質は充実するのか?とは思いにくいでしょう。
確かに、心によってお金やモノが魔法のように突然増えたりはしないですが、足るを知るという言葉があるように、精神的に満足な状態になれば、必要なお金とモノも、それに応じたものに調整されます。
ということは、例えば以前は月100万円ないと十分でなく、心も不満だったという人が、生き方が変わり、モノによる心の満足ではなく、まず純粋に心が満たされたり、充実させたりするのを先にしていくと、必然的にモノやお金は以前より少なく済むようになり、月15万円でも心は満足するというようなこともあるわけです。
モノから心へという方向性の人にとっては、それは「ない者のひがみ」みたいにとらえられるでしょうが、心の満足度は、必ずしも、モノやお金のあるなしで決まるわけではないのです。
とはいえ、モノから心の方向性も悪いわけではなく、モノがなければ生きていくのも不自由などころか、食べ「もの」でいえば、それを取り込まないと死ぬ生物である人間は(食べなくても生きられるという人もいますが・・・一般的に見て)、物質・モノ、それを入手するために必要なお金は、現代ではなくてはならないものでもあります。こちら(モノ・お金の充実で心が満足)の方向性を目指すのも、基本で当たり前です。
だから、モノによる心の充実を無視するわけにはいかないのです。
それで、話を戻しますが、結局、このような物質と精神(心)の両(双)方向性、統合的視点を持ち、思考と感性がともに極まった時、ひとつの新たな世界が見えてくるような仕組みになっていると、タロット的には考えられます。
どちちかに過度に傾くことなく、両者を同じものとして見ることの出来る観点を獲得するのが重要と言えます。
それは、内と外という分け方でも言えることで、自分(軸)と他人(軸)とも表現でき、苦痛・努力と快楽・簡単という見方もできます。
そのどちらが正しいわけでもなく、あえて正しさがあるとすれば、それはその上(統合視点、時には下の場合もあります)にあり、今、葛藤している自分自身にはまだ見えていないところだということです。(これは、マルセイユタロットの「恋人」カードの象徴にもなります)
逆に言うと、悩みや葛藤は、二元、ふたつの方向(選択)を超える示唆があるということなのです。
と書いてきところで、最初の占いとリーデイング、過去方向と未来方向の話に戻ります(笑)が、タロットを持っている人は、この年末、今年を分析し、何を学び、何を得たか、あるいは、こだわらずに捨てられるようになったかという経験や蓄積の視線で、ましめに振り返って気づきを得ること(すなわちリーディングすること)と、反対に、来年はどんな年になるのかな? どんな年にしようかな? 吉かな?凶かな? いい人と出会える? 仕事はうまく行くの? などと現実的かつロマンをもった視点で、楽しく占ってみてください。
両方やってみると、どちらも楽しめたり、またどちらもあまりピンとこないなあ・・・とかになったり、ま、なんとでもなる(思う)のが私たち「人間」というものですね。(笑)
さて、今年はこれで最後のブログ記事となります。
つらつらとマルセイユタロットから得たり、感じたりしたことを書いて参りました。今年も駄文におつきあいくださり、ありがとうごございました。来年もまた、これまでと同様のペースで書いて行きたいと思います。
どうぞ、皆様、よいお年をお迎えください。
タロットの切り替え、処分について。
年末になってきますと、大掃除もありますし、一年の溜まったもの、いらないものを整理したり、処分したりしようという気持ちになる人も多いでしょう。
タロットリーダーにあっても、このタイミングで、古いタロットを新しいものに切り替えたいという人も出てくると思います。
そのような時、古いタロットの処分をどうするのかという問題が出てきます。
それなりに方法がいろいろとあるのですが、そのことは講座でお伝えするとし、ここでは、古いタロットの処分についての考え方、基本姿勢の視点をもって書いてみたいと思います。
結局ところ、これが答えみたいなものになるのですが、「あなたはタロットをどう思っていますか?」の質問の回答自体が、タロットの扱い、処分にも関わってくることになります。
極端なことを言えば、今のタロットは、ほとんど印刷された紙でできていますから、あくまで「物質」として認識すれば、まさに物質的処分、つまり「古い紙のカードを捨てる」という処分方法になります。もっとあからさまに言えば、「燃えるゴミとしての処分(方法)」です。
ということは、自分が住んでいる自治体の示すルールとやり方に従って、紙ゴミとして出せばよいのです。大切なのは、ここにも実は「ルールがある」ということです。たとえゴミであっても、勝手に捨てることができないのが今の日本の社会です。
しかし、タロットを神だと思っている人はいても(これもそう思うのは問題なのですが・・・)、ただの紙と思っているタロットリーダーはほとんどいないでしょう。(笑)
では、どのようにタロットリーダーである(またはタロットを扱うタロッティストである)あなたは、自分のタロットについて思っているでしょうか?
何かのツールではあるでしょうが、生き物のような、魂とか何かのエネルギーが宿ると見ているでしょうか?
その思い、認識のレベル・程度によって、タロットの処分も決めればよいのです。
タロットを、あなたが、「簡単に捨てることは忍びないと思うほどの存在」と見ている、「捨てると何か悪いことが起きると感じている」(それが正しいとか間違いとかは別として)・・・人それぞれの思い、感じ方があると思います。
それに応じた扱いと処分をしないと、結局、心理的に言えば、あなた自身が納得しないか、恐れや不安が残るのです。
また、タロットはサイキックな分野として扱われることも多く、もしあなたが、タロットをサイキックや魔法・魔術の世界の道具として扱っていた場合は、処分に関しても、それなりの儀式を必要とします。
この時のタロットは、明らかにただの紙ではなく、一種の霊的エネルギーの存在の通路やフィールド、依り代になっているからです。(そういう世界観の設定の道具となっているのを、処分時に解除する必要がある)
さきほど、ゴミ処理の時にもルールがあると書いたように、どの世界観においても、そこのルールがあるのです。ルールがある以上、そのレベルのルールに基づいて処分も必要とされます。
要するに、ただの物質としてのタロット、心理的に特別な(思いや感情が入る)タロット、占いの道具としてのタロット、サイキック・心霊的、魔法的道具してのタロット、遊び道具(カードゲームやライトな遊び感覚的な道具)としてのタロットなど、自分の扱いの種類と思い入れによって、処分の方法も決まってくるということです。
自分の扱いを超えた処分方法、またはその扱いに応えない処分方法(扱いや設定に比して過剰であったり、軽すぎたりするもの)は問題と言えます。
ただ、やはり、タロットリーダーである者、タロッティストである者は、タロットに関しては、大切な扱いと処分になってくるのは当然でしょう。
ですが、カードそのものが何か特別な力をもったり、存在であったりするというのではなく、カードに描かれている図像・デザインが、扱う者、見る者の中にある力を呼び起こすと考えたほうがよいです。カードさえ手に入れれば何とかなるというのではないのです。
そういう意味では、やはりタロットは、決定的に図像が大切であるということです。
その図像がはげてきたり、汚れていたり、裏から見ても何のカードからわかるような状態になっていたりすれば、意味をなさなくなってくることはわかるかと思います。(ほかにも、目に見えない部分の汚れ、劣化も蓄積して行きます)
だから、印刷物としてのタロットの寿命は必ずあり、それは同時に精神的・霊的な寿命ともリンクすることになるのです。
言わば、永遠性を持つ天上性の世界が、限定の地上世界に降りているのが、象徴的図像を通して印刷の紙となっているタロットと、それを扱う人(寿命を持つ肉体と、永遠性の魂を持つ人間)との関係になっているのです。
地上にあるものは終わり、そして再生される宿命にあります。現実のタロットも物質である限り、同様です。新しいものに切り替える理由は、こういうところにもあるのです。
具体的処分方法については、教わっている先生にお聴きすればよいでしょうし、先生や師がいらっしゃらなければ、今やネットを検索すれば、必要な情報はたいてい入ります。
私たちは、始めること、創造することをポジティブに見る向きがあり、タロットを入手し、リーディングしたり、自分に使っていったりすることを楽しく思います。
反面、現実世界に、物事の終わり、死、破壊、収束という方向性もあることを忘れがちです。
タロットも替え時や終わり(寿命)があるのです。
タロットリーダーであるなら、生と死の象徴がタロットにも描かれていることは知っているでしょう。
あなたの使っているタロットも、死と再生を繰り返し、カード自体の見た目に変化はなくても、あなたの学びや経験が新しいタロットに受け継がれ、大きな意味では(実は自分が)成長、リニューアル、発展していくのです。
原因追求から創造的スタイルへ
悩み事や問題がある場合、その原因を追及し、排除することで解決するという方法があります。
健康問題を例にしても、体の不調があって、よく調べて見ると、ある食べ物のアレルギーが原因であったとか、何かのウィルスに感染していたとか、骨が弱っていたとわかったとか、とにかく不調の原因が判明し、その対処や治療・手術をすることで不調がなくなる(健康を取り戻す)わけです。
ですから、原因を突き止めることは、問題解決では最も重要な手段・方法だと考えられているところがあります。
経済的問題、精神的な問題、生き方の問題・・・人はあらゆる悩み・問題を抱えますが、それも上記の健康問題のように、原因さえわかれば何とか解決する、良くなると思われてしまうのも仕方ない面があるでしょう。
しかし、果たして、本当に原因さえわかれば良くなるのでしょうか?
いや、もっと別の言い方をしますと、原因解明が本当にすべての救いになるのかどうかということです。
最初の健康問題の例に戻って考えますと、なぜアレルギーになったのか? なぜウィルスに感染したのか? なぜ骨が弱ったのか? そのタイミング、自分という個体、環境、あらゆる場面での数々の選択・・・このように様々なことを考えると、原因はまだまだ先に山ほどあると言えます。
また、問題の原因はただひとつのことと断定できるものでもなく、色々な要素・要因が重なって複合し、まさに「問題」という現れ方そのものが、実は原因(原因と結果がひとつのもの)みたいに、逆(というより循環的)に考えることも可能な気がします。
もちろん、だからと言って、原因追及の道が悪いと言っているのではありません。
その態度と行動が、やはり科学的な発展をもたらせたでしょうし、そうした姿勢は問題解決において、重要なことのひとつであるのは間違いないと私も思います。
何より、原因がわかれば安心するという人の気持ちの作用もあります。(安心すること自体が、すでに解決になっていることもあります)
ただ、あまりにも問題=原因追及が必要とし過ぎると、原因さえわかればOK、原因を取り除けばすべては解決するというような直線(短絡)的思考と、原因を深く細かく、どこまでも追い求めていくことになって、まるで泥沼にはまったかのように、延々と探し続けることになる恐れがあります。
言ってみれば、「永遠のもぐらたたき」、「賽の河原の石積み」みたいなものになり、それこそ、その人の心は「地獄模様」になって、いつまでも晴れることがなくなってしまいます。
確かに、痛みとか苦しみが続いている場合、原因がわかって、その対策ができれば消失するという思いがあるでしょうし、実際の苦しさ・痛みは、なっている本人しかわからないものです。
ですが、中には、客観的に見れば、そんなに苦しいわけではないはずなのに、原因がわからないから苦しい(原因を探し続けるから、余計苦しくなっている)という自分の生み出す地獄の中でもがいてしまっている人がいます。
視線の方向さえ変えれば、今、そして未来をもっと明るく生きていくことができるのに・・・と思ってしまう人を見かけるのです。
時代は大きく変わってきています。
今まで秘められていたことも公にされ、過去のデータはあくまで参考程度にしかならなくなり、もっと言えば、まったくあてにならなくなっている部分もあるのです。(新しいフォーム、新しい基準、新しいアイデアが活きる時代への変化)
過去の具体性はほとん無視してもいいくらいで、もし参考にするのなら、具体ではなく、象徴的なものであり、それそのものはおそらく不変といえる宇宙的な原理です。
そうした普遍的で不変的原理は、具体的な人物・モノとかの名前や文章ではなく、イメージや形のようなものと言えます。
原因を具体的に求めようとすると、言わば過去に目が向いてしまうのと同じで、それ(探し当てようとするもの)は、実は原因のようでいて原因ではないという事態になってきます。
もうこれからは、今と未来に目を向けて新しいフォーマットに書き換えていく時代でしょう。
それは一言でいえば、「創造」(裏では破壊でもあります)と言えます。
今後は、問題は問題として認識しながらも、それを過去目線(原因追及)で解決するばかりの姿勢ではなく、未来に目を向け、課題として見たり、まったく見方を変えたりする(問題を新しいアイデアのための通過儀礼と見る、触媒、刺激として見る)ことが求められます。
結局、新しいものが生み出すことができれば、過去における問題の原因は、原因とはならずに消失する可能性があるのです。
SF的に言えば、新しい肉体の自分になったので、過去の肉体で悩んでいた部分にあった病気の原因すらも、新しい肉体では意味をなさなくなるみたいなことです。
つまり、次に進む(進化する)ことで、過去では、問題と原因が結びついていたその構造も変容し、結びつきも解除されるどころか、そもそもの構造・システム自体が変換されているので、問題にすらならくなるということです。(問題と感じられなくなっているので、そもそも原因を追及する意味をなさない)
マルセイユタロットを扱うにしても、どう成立したのかとか、誰が作ったのかとかを探求し続けたり(意味がないわけではなく、それも大事なところはありますが)、また過去の密儀的なものを後生大事に「具体的名前」で守っていくというスタイルを続けていくのでもなく、なるほど、古い時代に作られたタロットではあっても、そこに記されたシンボル・象徴性において、不変的な型を考察し、今と未来に向けて、これからを文字通り「創っていく(創造的)」方向性を、私は考えているのです。
夢を見ること、夢の扱い
夢というのは不思議なものです。
夢(の言葉使い)には大きく分けてふたつありますよね。
ひとつは、叶えたい夢というニュアンスで使う「夢」
これは願望であり、今実現していないけれども、実際に現実化する可能性もあるビジョンみたいなものです。
それに対し、寝ている特に見る「夢」があります。
これはどこまで行っても現実ではなく、あくまで「夢」であり、リアルな生活とは別のものです。
しかし、正夢というものもあり、夢で見たことが現実になったという経験を持つ人もいます。
そういう意味では、願望の夢と眠っている時に見る夢とは、その時には非現実のビジョンやイメージではあるものの、現実になる可能性は両方ともあるわけで、実は区別がつかないものと言えるのかもしれません。
魔法や秘伝の技法には、夢見術というのがあり、夢を見ることで現実に影響を及ぼしたり、夢と現実を入れ替えたりする技術があると伝えられています。
ということは、私たちは、どちらの「夢」にしても、「夢」を見ることを忘れてしまうのは、まさに願望の「夢」に近づけなくなること、現実がまったくコントロールできない状態になってしまうというおそれも考えられます。
少なくとも、夜見る夢は意図的に見るのは(普通は)無理ですが、願望・ビジョンとして描く夢は、自分で意識して見ることが可能です。
理想と現実という例えがよくされますが、現実は理想があるから変革が可能であり、また理想は現実を経験して適応と調整がなされ、新たな理想を生む基盤となります。
理想ばかりを見ていても逃避になりますが、反対に現実ばかりを見ていても、私たちは同じ次元と場所をループすることになり、同じレベルでの苦しみから逃れられなくなります。
大人になると、ワクワクすること、叶えたいことという種類の「夢」だけではなく、夜見る夢でさえ少なくなり、たとえ見たとしても、悪夢になってしまうこともあります。
大人になることで私たちは現実を知りますが、その現実によって、あまりにも自分を閉じこめ、当たり前・常識・仕方ないこととして、あきらめてしまったり、惰性で生きたりするようになり、純粋な夢のエネルギー(を発動させることを)失い、夢見ることを忘れてしまっているのかもしれません。
それでは想像と創造ができなくなり、人(他人)の作り出す現実・ルールに縛られ、その中で起きることに反応する人生となってしまいます。
ところで、皆さんは、(眠っている時に)同じ夢を見ることはあるでしょうか。
機能的には、夢は私たちの心や情報の整理を行っているものと考えられていますが、心理的には、何か、私たちの無意識の領域を示唆しているものと言われることもあります。
特に繰り返し出てくるようなものには、短期的には予知夢のようなものもあるかもしれませんし、長期的には、その人の人生の象徴ということを表しているのかもしれません。
マルセイユタロットは表裏の意識の元型を象徴しているとされ、それゆえ、夢においても、ある種のパターンをタロットを通して分析することも可能です。
慣れてきますと、自分の見る夢がどのパターンなのか、そしてどのタロットの象徴で表させるのかがわかり、意識の状態、統合の過程、さらには自分の魂の使命というか、奥底で、この人生において経験したがっていること、あるいはどの状態が自分にとって喜びや楽しみであるのかがわかったりします。
例えば、私は学校で学ぶ夢と、その仲間と旅をしている夢をよく見ます。
私自身、そういう学びの状態にいることが好きですし、人生は学びをするもの、探求の旅をしていくものと位置づけているのかもしれません。それは孤独になることもありますが、グループで共有する喜びもあるのだとわかります。
マルセイユタロットという、日本では特殊なタロットに関わっていたり、そのマルセイユタロットにおいても、あまり取り上げられないグノーシス的な思想を中心に探求していたりすることも、自分がよく見る夢の象徴性と関係しているように感じます。
さらに、タロットと同じように、心理的に自分の中の多数の人格が、夢を通して表れることもあります。
それは自分の分身でもありますが、重要な他人・別のエネルギーとしての「型」という形でもあるのです。
心理次元の投影や分身という意味だけではなく、霊的な分離と統合のシンボルのような印象です。
自分の心の奥のことなので、あまりこういう場所では詳しく述べませんが、そのような夢の中の人物として、私の夢の中では、ある女性が登場します。
その女性との対話は、とてもつらくて苦しいのですが、夢でのその対話と経験が必要であることがなぜかわかります。
その女性は私を癒してくれるわけではなく、むしろ傷つられたり、私が助けたりするというほうが近いのですが、相手にとってはそうではなくても、会うこと自体が私には喜びでもあるのです。
心理学的考え方に囚われすぎると、ついつい心理分析に傾き、結局どれも自分の生み出す幻想やトラウマ、親とか、自分に影響及ぼした人物、また最終的には自己の像のどれかということで片付けられるのですが、霊的な観点を持つと、ことはそう単純なものではないのがわかります。(自己を超越した範囲に考察が及ぶ)
それでも、マルセイユタロットの象徴性で考えると、心理的なものとは別の見方で、自分の夢の内容や、夢に出てくる人物を推測したり、受容できたりします。
夢の中では反転作用というのがあり、これは、マルセイユタロットでは「吊るし」で象徴されますが、夢と現実ではまったく反対の表現を伴うことがあります。
このことがわかってくると、いろいろと自分のことに気づけますし、この現実も実は夢ではないのかという思いにもなってきます。
いずれにしても、マルセイユタロットを知っておくと、夢の扱いも楽になってくることがあるのです。