タロットの使い方

タロットからの「待つ」象徴

人間、活動的・活発的な時ばかりではありません。

静かである時、待機している時、控えめにしている時なども必ずあります。

まさに静と動が循環しながら、その時その時で、私たちの生に現れているのだと言えます。

ところでタロットはあらゆる面で、象徴図として活用することができますが、やはりこの静と動の対比においても、象徴性の違いを見ることができます。

今回は、特に「」に着目し、静的な象徴のタロット(大アルカナ)を取り上げ、中でも「静的態度」においても特徴的な、「待つ」ということにフォーカスにして、見ていきたいと思います。

さて、「待つ」ということを示しているタロットカード(マルセイユタロットの大アルカナ)には、どんなものがあげられるでしょうか。

明らかに静的なカードといえば、2の「斎王」、9の「隠者」、12の「吊るし」、18の「」と言ったところでしょうか。

やや静的な感じとすれば、17の「」なども入るかもしれませんし、そもそも人物が活発ではない、動いていない(座っている)ものも静的だと見れば、3「女帝」、5「法皇」、8「正義」なども考えられますし(「皇帝」も玉座に座ってはいますが、半立ちで行動的です)、立っている者でも、あまり動いていない者ならば、15「悪魔」もそうかもしれません。

また、ほかは動いていても、自らは静止しているような状態だとすれば、10「運命の輪」の、輪の上の動物(スフィンクス)とか、「力」とか「戦車」のような動的なものでも、御者(コントロールしている方)を見れば静かかもしれません。

実はタロットは、陰陽的な統合も示しているので、どのカードにおいても、静と動の両方は考えられるのです。(このことはとても重要ではありますが、今回はテーマではないので省きます)

このように、静的なカードというものも、いかようにでも見ることは可能なのですが、今回は、「待つ」こと、「待機する」ことの象徴性に絞って、あえて恣意的に、数枚取り上げさせていただきます。

それらは、具体的には、「斎王」「隠者」「恋人」「運命の輪」「吊るし」「悪魔」「月」です。

ちょっと「静」とは言えないようなカードも入っていますが、これらは、どれも「待つ」ことを意味する(そういう意味を含む)カードたちです。そして、その待ち方に違いがあるのです。

斎王」は、受け入れによって蓄積していく(貯まっていく)ことを待ち、「隠者」は、極めていく過程で指導してくれる者、または反対に指導を受ける者を待ち、「恋人」は迷いの中で、気づき・インスピレーションが起きるのを待ち、「運命の輪」は、ひとつのサイクル(周期)が終わるを待ち、「吊るし」は動きを停止して、観察しながら状況推移を待ち、「悪魔」は誘惑した行方(欲望の火の燃え方)を待ち、「」は本能や自然(天体の動きを含む)のリズムを待ちます。

この中でも、「斎王」と「隠者」、「運命の輪」と「月」、「恋人」と「悪魔」、「吊るし」と「月」、「恋人」と「運命の輪」、「斎王」と「吊るし」など、ある種のペアによって似ている待ち方があることもわかります。

それから、「内的な待ち」と「外的な待ち」があることも見えてきます。

内的な待ち」というのは、自分の心や状態、内側を中心(基準)とした待ちであり、例えば心が落ち着くまでとか、心が満たされるまでとか、情熱が起きてくるまでとか、疲れが取れて来るまで(肉体・精神両方ありますが、いずれも客観ではなく、自分が実感するという基準が主です)とか、自分の感じ方を中心とする待ち・待機です。

一方の「外的な待ち」とは、環境とか組織とか他人とか、自分を取り囲む外側のものの状況・サイクルが整うまで、変化するまで待つというようなものです。

言ってみれば、どちらも「機が熟すまで待つ」ということなのですが、それには、内側と外側の「ふたつの熟し方」があるわけです。これを一枚のカードであえて示せば、「運命の輪」のタイミングとなります。

ただし、スピリチュアル的に考えれば、内と外は同一、見方の違いでしかないので、結局、内の待機も、外の待機も、同調していると見ることができます。(物事には終わっていくタイミングと、満ちて始まるタイミングなどがあり、それが内外で一致していくことも意味します)

さきほど、一枚で示せば、「待ち」も、つまるところ「運命の輪」のタイミングとして表せると述べたように、ほかの待ちのカードも、「運命の輪」と重ね合わせることで、待つ要素の性質や種類を分けることが可能になります。

それは「斎王」として待つのか、「月」としての待ちなのか、「恋人」としての待ちなのか・・・という具合です。ここに数と四大元素の違いを明確に持つ小アルカナも稼働させれば、具体的な待ちのタイミング期間や時期についても予想することができます。

とかく、今の時代、意図的・人間的(他人の作った)情報があふれ、その刺激によって、自らの静的な状態、待ちの姿勢が崩されることが多くなっています。

電池にも充電が必要なように、そして物事にはタイミングがあるように、待機したり、待ったりして自分自身を確かなものにしておく保持期間が必要とされるのです。そういう意味では、「吊るし」で象徴されるよな「籠もる」ことも、かえってよいことにもなります。

「静」は「聖」と言葉でもつながるところがあり、普段の俗的な中での動きによって消耗し、低俗になり過ぎた自分に対して、静は、神聖さを取り戻す、神や高次のものとつながる、俗とは区別された時間や場所を意味します。

静的なカードや待ちの象徴のカードが出た時、そのことを意識するとよいでしょう。


二元統合へのアプローチ

まず予告的なお知らせをしておきます。

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なお、個人講義として日程も自由に組めるスカイプ講座もありますから、通常の講座や関西に通うことが難しい方は、スカイプでのオンライン講座もご検討いただければと思います。

さて、本日の記事です。

マルセイユタロットの教義には、大元になるものと(普遍的で抽象的なもの)、細かな個人個人に関するもの(個別的で具体的なもの)とがあります。

その大元になるもののひとつに、二元統合という概念があります。

二元とはふたつのもの、ふたつの性質、ふたつの次元と言ってもよい、要はふたつに分かれているもののことです。それをひとつに統合すること、それが二元統合の意味です。

マルセイユタロットの大アルカナを見れば、ふたつのもの・二人の人間が描かれていることが多いことに気がつきます。

もちろん、三人とか四人(3つとか4つ)の数になるものもあるのですが、例えば三人であっても、一人を中心としてみれば、ふたつのものの間にいること、四つであっても、二つずつに分けられることを思えば、二元統合と関係している趣旨を見ることができます。

人の場合、二人の人間(の統合)となるのですが、心理的には、別の自分という表現はよくされますし、皆さんにもなじみがあるのではと思います。

心理的に言う、もう一人の自分とは、シャドーや抑圧された者であったり、無意識の自分の部分であったり、また、自分を律したり、教育したり、指導したりする自分、反対に許し、癒し、優しくする自分ということもあります。

要は普段(日常)の自分と、特殊であまり自覚できない自分とがいて、それらも結局すべて自分であるので、統合すれば完成された自分(自己)として、全き人になるという考え(方)です。

これをもう少し、スピリチュアル(霊)的表現に変えれば、低次の自己と高次の自己がいて、それを統合すると完全性、神性的(仏教的には仏的)人間になるということです。あるいは、性質として見れば、女性性・男性性の統合と考えることもできます。(神的状態とは両性具有)

このような二元統合で難しいのは、普段、高次の自分、より尊い自分がわかりづらいということです。そもそもその意識に芽生えれば(覚醒すれば)、統合の苦労もないとも言えます。(苦笑)

逆に言うと、ノーマルな人間的、時には動物的ともいえる(低次の)自分はいつもそこにいるわけで、それが自分の普通状態なので、なかなか高次の自分、違う自分がいると言っても実感しえないわけです。

これは、単純な二元で分けようとすることと、あまりに統合を高尚なものや、高いレベルの愛・スピリチュアルで考えようとするから難しいのだと言えます。

何事もレベルや段階があります。

そして、二元統合へのヒントは、おそらく反対の分離した二元状態をもっと自覚することにあると考えられるので、まずは何と何が分離状態にあることかを意識する・自覚できることが最初だと思います。

言い換えれば、統合意識(目的・理想)から入るのではなく、分離状態を認める、観察することから始めるのです。つまりは現状観察です。

ただし、今までの日常的に流されてしまう通常意識では観察態勢に入れません。

観察するには、観察する観測装置か、観測環境(状態)を作る、入手する必要があります。そのためにタロットがあり(ほかのツールでももちろんOK)、瞑想とか、内省とか、孤独(一人になる)とか、日常意識状態から非日常意識状態へと移行する手続き、環境作りが求められるわけです。

そうした観測意識状態を意図的に作るということが大事です。次に、「レベルや段階がある」と先に書いたように、いきなり高いレベルの統合を思ったところで無理なものは無理です。(笑)

二元統合のもうひとつのヒントは、二元が無数に枝分かれする連続二元構造になっているのを知ることです。

どういうことかと言いますと、大元にふたつに分かれたものが、その両方でさらに二つに分かれ、その分かれたふたつが、またそれぞれでふたつに分かれていくようなものをイメージしてみれば、このことがつかめると思います。

下の階層に行けば行くほど、低レベルの二元分離状態になっており、実は低レベルなものほど、具体的なものに近づき、個性的でわかりやすい状態にあるのです。(このことを説明するのには少し長くなりますので、今はそうしたものだと思っていただければよいです)

個性的でわかりやすくなるというのは、個人レベル(自分の感じ、考えるレベル)でわかるというもので、言い方を換えれば、今の自分の世界でわかっている範囲でOKということです。

つまり、他人や本などで得る知識とか感じ方ではなく、今、自分が感じている「悪い自分」「欲望に負ける自分」「低俗な自分」「嫌な自分」と、「良い自分」「積極的な自分」「負けない自分「愛あふれる自分」「崇高な気持ちになっている自分」のままで、その分離を自覚すればよいということです。

難しく考えるのではなく、自分レベルで、何かもう一人の別の自分がいること、特に、ダメな自分を見ている自分がいることを感じ、思考することです。その日常的ではないもう一人は、厳しく機械的な自分の時もあれば、すべてを許し、見守ってくれる優しい自分のこともあるかもしれません。

いずれにしろ、何かいつもの自分とは違う別の者がいると感じているはずです。そうでなければ自己の反省も、愛情も、成長も、改革も、比較もできないでしょう。

こうやって見ていくと、低次と高次で単純に分けるのではなく、低次、つまり普通の弱く流されやすい自分の中に、それを応援し、見守り、時に厳しく叱るような自分がいることを普通に感じるもので、それは低次の中の高次なのです。

この場合の高次は、最初に分けた低次と高次と無関係ではありませんし、最初の高次と同じ性質を持つのですが、レベルや次元においては別物なのです。

言い換えれば、その高次は、あくまで通常レベルで感じる、ちょっと高い部分の私というものなので、自分自身で届きやすく、感じやすい(自覚しやすい、わかりやすい)のです。

そうしたレベルで分離した二元を意識すれば、統合の道も開きやすくなります。

とはいえ、レベルの低い段階からの統合ですから、急激に変化があったり、突如現実が変わったりするものではなく、つまりは夢のような魔法的方法ではなく、コツコツとした経過を辿るもの(方法)です。

しかし、レベルは低くとも、確実に統合への道に入るわけです。統合された分、分離状態は解消され、次のレベルの統合段階へと移行します。階段が上がるということは、下の階層は卒業しますので、文字通り、次元の異なる経験・見方を今後はしていくことになるのです。

また、二元統合の道には、見方を変えれば、自分の中の二人の統合だけではなく、自分と相手という二元とその統合もあるわけで、さらに、自分の中の二人、他人の中の二人という、これまたふたつの存在のクロスにもなっているのです。

二元統合は四元統合と関係している(二元統合は四元統合の意味でもある)ことは、タロットで象徴される四大元素を見るまでもなく、言えることです。

女性性・男性性で言えば、それぞれの異なる性を内に見るだけではなく、異性相手との間にも、自分の性と異なる相手の性、さらにはお互いの中の異性を統合していくことでもあります。

パートナー関係においても、これに精神と肉体というふたつ(二元)の統合観点も入れることで、上述した性質(女性性・男性性という二つの質)の二元統合のアプローチもまた深淵なものにしていくことができます。

あえてソウルメイトやツインソウル的な考えを入れれば、それをスムースに協力して行える関係の者同士がそれであるとも言えますし、反対にスムースにできない人であっても、二元統合の意味で、現実の関係や表現はどうあれ、対立しつつも深め合うことができる関係の者ならば、やはりソウルメイトと言えるかもしれないのです。


「13」の吐き出し

マルセイユタロットの名前のない「13」のカード。

絵柄が強烈なだけに、最初は怖い印象を持つ方が多いのですが、意味がわかってくると、どんなカードもそうですが、カードにいいも悪いもないことがわかってきます。

そう、13には13の役割があるのです。これまたどのカードもそうですが、その根源的な象徴性はひとつでも、具体性・現実性として見ると、多様な意味を持つ事になります。13もしかりです。

その多様な意味の中のひとつに、デトックス的な吐き出すような浄化(作用・作業)というものを考えることができます。

これには、もちろん、物理的な意味での吐き出し・浄化もあるのですが、むしろ心理的な部分での意味を見るとよい場合があります。

私たちには、心理的なデータ(人生で受けた感情的・意識的な記憶のようなもの)がたくさん自分の中に眠っていると考えられます。

それは心の癖のようなものでもあり、また知らず知らず自分を動かしている信念や思い込みのようなものであったりもします。

自分でわかっているものもあれば、無自覚なものもあります。一般的にやっかいなのは、自分で気づいていないデータ群のほうでしょう。

潜在意識(とひとくくりにするには問題があるとは言えますが)にある記憶・記録のようなものです。

それらが今の自分に問題となってくる場合、昔の自分にとっては重要なものであったのに、現在では必要のないもの、むしろ自分を困らせるものになっていることがあります。

また、いわゆる抑圧された感情と言いますか、本当の素直な気持ちとは裏腹な、仕方なく偽の自分を演じて、内部的に葛藤を起こしてしまっているデータというものもあります。

この解消には、第一に、そのデータ・記録状態に気づくということがあげられます。

しかし、長い時間を経過していると、そこから来る葛藤でさえ、もはや無意識と言いますか、自動的になっていて、習慣みたいになっているので、不快感よりも逆に表面的には心地よさを感じてしまっていることがあります。

従って、独力での気づきには困難なことがあり、(専門家的な)他人のサポートが必要とされる場合があるのですが、それでも何とか一人で、自分の妙な感情や、抑圧している葛藤の気持ちに気づいてきた時、そのシステム(何の対立・葛藤なのかという分析・原因)がわからないにしても、とにかく不快さを何とかしようと行動に出ることがあります。

そしてたいていは、好きなことをしよう、嫌なことはやらない・・・みたいなことになって、旅行したり、自然とたわむれたり、親しい友人と過ごしたり、趣味を始めたりします。

全体的に他人に気遣おうとせず、自分中心で行こうという、まあ、感情に素直にとか、自分の感覚に従おうという行動を志すわけですね。

それはいいのですが、もともと葛藤している根本のデータがあるわけです。

それは奥の方で押さえている本当の気持ち(の自分)と、実際の生活においては波風立てないようにしているもう一人の自分との戦いの状態とも言えます。

波風立てないため・・・というのも、実は本当の理由ではなく、自分の恐れこそが真の理由であり、その恐れは自分が正しいということが否定されることへの恐怖や、つまるところ、自分自身の価値に関わることであって、言ってしまえば自分で自分が認められるかどうかにつながっています。

ともかく、抑圧されている純粋な自分、正直な自分(の感情)というものがあり、そのふたを開けることが恐さでもあるわけです。

長くなりましたが、ここで「13」なのです。

結局、自分の気持ちに素直になろうとしても、このふたの底に眠る本当の自分を開かない限り、今やろうとしているものは、嘘ではないものの、これまた表面的な「仮の素直な」自分の気持ちなのです。

ですから、最終的には、いや逆に、「最初には」と言ったほうがいいかもしれませんが、ふたの奧に抑圧されている自分の感情(データ)を吐き出す必要があるのです。

状況的にはもう無理なのかもしれませんが、過去の自分が受け、その時生じた本当の感情(それは今も存在し、継続しています)を吐き出す、言葉で表現するということです。

理想的には、相手があるならば、当時のその相手に向かってはき出すのがいいのですが、さすがに難しいところもあるとは思いますので、それでも相手がいなくても、吐き出すということが大事です。

それはきっと暴言じみたことになるかもしれませんし、人としてどうかと一般的には考えられる言葉や表現も出てくるかもしれません。

そんな世間の道徳観や、スピリチュアル的な高次の愛(すべて受け入れること)とかいう、聖人君子のような人の言葉に影響されず、キライなものはキライ、嫌なものは嫌、ものすごくつらかった、苦しかった、傷ついた、そんなこと言われてもできねぇーんだよ! おまえ、いっぺん死ねや!とか(笑)、自分がしまい込んだ感情は、そのまま思いきって吐き出すのです。

「13」は、そんなあなたの心の吐き出しを応援する存在でもあります。

時には15の「悪魔」のカードと協力してもいいですし、17の「星」と共同で行うと、もしかすると洪水のように言葉が出てくるかもしれません。(これらのカードは無意味に選んだわけではなく、きちんと象徴的・数的にも意味があるものです)

私たちは感情を持つ人間です。

ここでは「データ」という言い方をしていますが、それはあくまでわかりやすくするための方便で、感情は水のように揺れ動き、また淀み、さらに流すことができる固定(体)と気化の間の流動的・中間的存在です。

こういった水的なものを持つがために悩まされもしますが、逆に私たちはあらゆる体験を、機械的なものではなく、感情的に(波動のように)色濃く経験することができるのです。

つまりは皆一様なものではなく、一人一人振幅があり、同じ体験であっても、受け取り方は様々ということであり、さらには水のような影響として、一人だけのものではなく、他人との共感も可能です。

しかし、それだけに、自分や人の中で淀んでしまえば、腐り、まさに同じ発音の「鎖」として自他を縛ることにもなりかねません。

水質浄化のためには、薬品を混ぜることで可能になることもありますが、まずは沈殿している泥を吐き出す浚渫作業も重要となります。表面がいくら澄んでいても、泥がかき回されればまた濁ってしまうからです。

「13」が鎌で掘り起こそうとしているのは、この黒い泥・土だと考えられます。(ほかの意味も、もちろんあります)

泥は泥だけに、きれい事ではないのです。いくら美しい景色を見たところで、また本や人から理想的なことを学んだところで、まさにドロドロとした感情の部分自分の泥を吐き出さないと、単なる一時しのぎでしかないことがあるわけです。

泥を抱えて生きている、もう一人の自分と向き合う時期は、必ずやってきます。その時が来たら、怖いですが、泥田の中に入り(準備はきちんとする必要があります、そうしないと、ぬかるみにはまって動けなくなることがあります)頑張って掻き出してみましょう。

そして、泥には有機物や微生物がたくさん存在しているように、最終的には、泥の中にも宝があったことを知るのです。


タロットカードを見ての印象

タロットを習うと、最初のあたりで、カードの印象を聞かれるということがあるかもしれません。

何の知識もない段階での、言ってみれば第一印象での感想のようなものです。

しかし、案外、この時の印象が重要なこともあります。カードの意味がわかってくると、素朴で純粋な時の印象がなくなってしまうからです。「知識」というフィルターがかかるわけです。(そうすると、フィルターが悪いと思う人もいるかもしれせんが、フィルターがあるからこそ、物事を把握することもできるということを忘れてはなりません)

そして最初の見方で、よくあるのが、好きなカードとか嫌いなカードというものです。マルセイユ版の場合は、小アルカナの数カード(数札)が記号的なものになっていますので、カードの印象と言っても、大アルカナで見るのがよいでしょう。

それはともかく、主に大アルカナ22枚を見て、自分にとっての第一印象を見るわけです。

この時、おそらくは心理(学)的用語でいうならば(厳密には違いますが)、カードに自分を「投影」することが働きます。カードの絵柄が象徴であり、自分の感情や内面がカードに投影されることで、逆に自分の内側が反射してあぶりだされくるわけです。

ですから、好きなカードは、好ましいと思う自分ポジティブな部分であったり、理想的だと思う状態であったりしますし、嫌いなカードは、抑圧しているネガティブな感情であったり、価値観的に嫌悪しているものであったりするのです。

これは個別(個人)レベルでの話で、もちろん、人によって好きなカードや嫌いなカードの違いはあり、もっと言えば、カードそれぞれによって、全員感想は異なると言ってもいいでしょう。

しかし、タロットカードの象徴性は個別レベルに留まらず、人間に共通な普遍的なシンボル性(パターン)を持つとも考えられています。従って、見ている皆に共通の意識や、心情のパターンが働くとも言えるのです。

まあ、もっとシンプルに言いますと、誰もが「怖い」と思うカードもあれば、「楽しそう」と思えるカードがあるということです。それでも、それさえも、実はもっと根源的に遡れば、人類に植え付けられた、あるいは、歴史の積み重なりで残っているデータパターンの傾向だと考えることもできます。

ですから、カードの見え方、感じ方(印象)というのは、ライトにとらえることもできれば、相当根深いものがあると見ることもでき、結構面白いものなのです。

そして、あまり言われていないことですが、カードの印象は、心理的な投影や普遍的な象徴性のパターンによるものだけではなく、ある特殊な領域の影響を感じとっていることもあるのです。

これは言葉では表現しにくいのですが、強いて言うならば、サイキック次元や霊的次元と関係するようなものと言えるでしょうか。スピリチュアルといえば、スピリチュアルな話です。

別の言い方をすれば、魂の反応としてのカードの印象があるということです。それにも個別的なものと普遍的なものがあると考えられます。

さて、話は少し変わりますが、同じカードへの印象というテーマには関係します。

これは自分にとって縁のあるカードはどれか?という話です。このことについては、また日を改めて詳しく話したいと思いますが、今日は、カードへの印象の関係で、少しだけふれておきたいと思います。

自分にとって(特別に)縁のあるカードというのは、数秘的な技術によって生年月日から割り出すものもありますが、それとは違って、やはりカードの印象から導かれるもの、または、タロット使うようになってから、リーディング等でよく登場するカードで判断するものがあげられます。

印象からのものというのは、そのまま「何か気になる」というものが多いです。

ただ、最初の印象の時では、何とも思わないカードというのが、得てして自分と関係が深いことがあります。むしろ好きだとか、嫌いだとか思うものは、普遍的(誰しも思うよう)な印象のものだったり、インパクトが強かったりするだけで、(特別な)縁とはあまり関係ないことのほうが多いように思います。

結局のところ、印象だけではなかなか判断がつかないので、使っていくうちにわかってくるということになるでしょう。

また、そのカードが、先述したような心理的な投影とも関係していることもありますが、単純な投影と異なるところは、その投影されているデータが、自分一人の(一代の)個の心理・内面を超えることがあるということです。

それは「縁」なのですから、信じる信じないは別として、今の自分一人の世界だけではない、前世的・霊的なものも入っている可能性があるということです。

言い方を換えれば、自分にとって縁のあるカードとは、今生のテーマのような、カルマや因縁、あるいは使命とか、魂的な自己表現に関係しているかもしれないと想像されるものなのです。

と言っても、最終的には、どのカードとも縁があると言え、つまりは、すべては自分の内にあることを見出す、思い出す、統合するのが、タロット活用の目的とも述べられるのです。

最初のカードの印象にしても、タロットのことを知り、タロットを使っていくようになりますと、それが変化していくのが普通であり、投影されていたものもフラットになったり、浄化されたりしていくようになります。

つまりは、自己の浄化、成長のバロメータとして、カードの印象も変化していくのです。

すべてのカードがいいも悪いもなく、等しく価値があり、また等しく価値がない(笑)と思えるようになれば、それは自分の眠っていた内なる可能性が開花してきた証拠とも言えるでしょう。


自分と世界との関係を三枚のカードで見る

今日はマルセイユタロットの、「吊るし」「悪魔」「世界」に関するお話をします。

この三枚は、自分と世界(外側・他人など)との関係性を象徴するカードとして(整理するために)使えます。

まあ、「世界」はそのまんま名前が「世界」ですから、何となくわかると思いますが、ほかの二枚は意外かもしれません。

ではカード別に見ていきます。

まず、「吊るし」

このカードは、逆さまの吊された人物が描かれているカードです。私たちの解釈では、吊されているのではなく、自分が吊っている、このスタイルを取っていると能動的にとられえますが・・・。とにかく、特徴としては、囲いの中に入っているように見えること、そしてやはり逆さまであることです。

ということは、狭い世界、あるいは自分だけの世界(人とは違った観点)にいることがわかります。

問題性として見た場合、いわゆる引きこもり、まさに自分中心でありつつ、外に開かれていない、外と関係を持とうとしないところです。しかも、逆さまなので、独善的、天の邪鬼、ひねくれている、素直に受け取ろうとしない、穿った考えにとらわれているなどと指摘することもできます。

ただ、物事には両面ありますので、よい点として見れば、外の世界と隔絶させることで、自分らしさを知ったり、静寂な落ち着きの中に自分を安定させることができます。他人や企業・組織からの広告・宣伝などに翻弄される(影響される)ことも少なくなります。孤独ながらも、自分の世界(観)を保つという感じでしょう。

「吊るし」の状態に自分がある時、世界は自分が中心となり、さらに、交流は内的なものに限られ、実際の人間や外側の世界観とは離れたものになります。我関せず、ゆえに我の世界に遊ぶ(あるいは囚われる)という印象です。

「あの人、変わっているよねぇ」と人から言われても、気にならないか、そのような噂があることすら知らない世界にいるか、そもそも、他人に理解してもらおうという態度でもないと言えましょう。

次に「悪魔」です。

「悪魔」のカードの絵柄の特徴は、悪魔を中心にして、ほかの二人の小さな人物をつなげてしまっていること、二人の人物から見れば、つながれてしまっていることです。これを束縛と取るか、強い絆と取るかは、状況や考え方次第です。

そして、自分と世界との関係性で見ると、自分が悪魔となるのか、つながれている人物たちと見るかで立場が変わってきます。

自分が悪魔の場合、人を魅了するカリスマ的な強烈なパワー、世界観を持っており、言ってみれば“ワールドイズマイン”世界は私(のもの)というくらいの気持ちを持っていると言えます。

従って、人々はこの悪魔の人物を、モデルや理想、活き活きと自分を表現している人と見なし、その人の世界に魅力を感じ、引き寄せられていくのです。この引き寄せられている側がつながれている人物たちです

自分と世界の関係について戻りますと、「悪魔」のカードは、「吊るし」と同じく、自分の世界というものの中にいますが、「吊るし」と違うのは、それが他人にも開かれているということです。むしろ、自分の外の人やモノにを抱き込んで(巻き込んで)、自分の世界に引き入れてしまう状態とも言えます。自分自身が外側に拡大(問題の場合は肥大)しているわけです。

自分が悪魔になれば、多くの人からの支援や賛同も得られるでしょうし、人気者になったり、持ち上げられたりして、時代の寵児としてもてはやされることもあるでしょう。精神的・物質的にも豊かになる可能性があります。

少なくとも、自分の考え・行動そのものが世界みたいになってきますから、「世界は私のためにある」「私こそが世界」のような、強い自信にあふれ、自分と賛同する人物たちの人生は楽しくなるはずです。

最後に「世界」です。

「世界」のカードは、マルセイユタロット的にも、ほかのカードにおいても、最後の到達点・心境・完成点と言われることの多いカードです。

つまりは最高度の状態を示すと言ってもよいものです。ということは、自分と世界との関係においても、理想的なものと見ることもできます。

「世界」のカードの構造は、4つの生き物に囲まれた、リース状の中で踊っている人物が特徴的です。

よく見ますと、「世界」の人物と「吊るし」の人物が、そのスタイルにおいて、よく似ているのがわかります。(マルセイユタロットの場合)

ただ、違いもあって、「世界」の中央の人物は、手足が外に広がっており、「吊るし」は手足が縛られているように見えることです。踊っているか(動的)、逆さまに耐えているか(静的)の違いと言ってもいいでしょう。そして、ともに足が「4の字」を組んでいることが共通していますが、これは秘伝・口伝に関わりますので、ここでは述べません。

とにかく、「世界」は、中(の人物)は動的であり、リースの中にいながら、外に広がっているということは、内外との交流があるということです。

4つの生き物が見守っているかのように静的であるのも、中の動的な人物と比較して興味深いところで、「悪魔」の二人の人物たちとは違って、4つ生き物はつながれていません。自他の関係性においては、それぞれ自立性と自由性があるとも言えます。

「悪魔」は魅力とパワーがある者ではありますが、他人を自分の世界に必要としており、つなげておかなければなりません。また、つながれているほうも、つながれなければならない理由が、いい・悪いに関係なくあります。

一方、「世界」はつなげる必要はないのです。つなげるということでは、「吊るし」にも“ひも”があり、枠のような横木に足を結びつけています。つまり、「吊るし」も木に結びつける(つなげる・つながれる)必要性があるのです。

自分と世界との関係で見た場合、「世界」では、自他、内と外、理想的な状態で自助と共助と公助が調和しているものと考えられます。

いわば、自分が世界でありながら、人が(の)世界であることも認めている状態と言えます。人の世界と他人の世界の両方を統合した世界観・関係性と言ってもよいでしょう。

ただ、理想的であるがために、そのバランスが難しく、他人と自分の立ち位置、あり方、自我の優先と他者への気遣い、貢献や奉仕との兼ね合いに悩む状況も生まれます。

結局、これら三枚は、どれが悪いとかいいとかを言っているわけではありません。

自分と世界との関係をどうとらえるか、どのような状態に現在いるのか、自分にとって、どの状態が今必要とされているのか、そういうことをタロットの象徴を通して把握する、理解することが大事です。

「吊るし」である時も、「悪魔」である時も、「世界」である時も、場合によって必要なのです。

すべてのカードの中立的な象徴性の状態が、意識の偏り、囚われ、無知(この無知は知識のことではなく、自分のことに気づいてない無知です)によって、「問題」となっているのだと言えます。


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