タロットの使い方

タロットによる記憶の風化

今日のタイトル、「風化(ふうか)する」と言えば、心理的な意味合いでは、記憶や印象が次第に薄れていくことを指します。

戦争や災害体験など、教訓として忘れてはならないものが風化していくことにはまずい面もあると言えますが、一方で、過去のトラウマのような出来事など、一刻も早く忘れたいというようなものが風化していくことは、よいこともあるでしょう。

記憶がリアルなもの、生々しいものは、たとえ物理時間は過去にあっても、印象が強烈なので、心理的には今・現在のままに時間が止まっていると考えられます。

そのため、今この時にも続いているものとして、ずっと悩まされるわけです。

逆に言えば、記憶の印象が薄れ、まさに「風化」した状態になれば、それは本当に過去のもの、すでに終わったものという心理的なとらえ方ができ、止まっていた時間も動き出します。

記憶を風化させるためには、当然ながら時間の経過が一番効果があるでしょうが、物理時間を意図的に進めることはできませんから、ほかの方法を考えるしかありません。

それでも、いろいろな方法はあるでしょう。

そのひとつには、一般化させる、客観する、抽象化させるという技術があります。

記憶が個人的なものとして、ありありと実感で蘇るので、それはリアルなものになるわけです。

風化といえば、次第に色あせることでもありますから、カラーで言えば色が次第になくなって、セピアとか白黒写真になるようなものです。

たとえ自分のもの(自分に起きた事件、自分の関係した事柄)であっても、生々しい印象が薄れればよく、まるでテレビとかネットで報道されているような、他人事(ひとごと)の事件として見られるようになれぱ、個人から一般化したに近い感覚となります。

そのためには、自分に起こったことを、ひとつのパターンや型として認識し直したり、具体的なのものから抽象的なものへと事件を薄め(定義や見方、範疇を大きな括りに上げ)、個別から全体性へと引き上げます。

「ああ、このことは、こういうことで、そのために起こったのか」とか、「私だけではなく、似たような体験はほかの人にもあったのか」とか、「長い人生の視点から見れば、あの嫌なことでも実は必要なことだったんだ」とか、考え直していくわけです。

それには、起こった事象を、写真や絵にしたり、自分より小さくしたりして、客観的に見たり、自分の手の中で扱えたりするようなものに置き換える(象徴化させる)ことが、ひとつの手法となります。

事件が生々しく、自分の中で大きな存在としてインパクトをまだもっていると、それに飲まれてしまい、いつまでも巨大で倒せない(コントロールできない)モンスターとして暴れさせてしまいます。

しかし、それをあるものに実体化(形象化)させたり、小型化したりして、自分の手の中に収めてしまうと、心理的には自分がコントロールできているかのように感じられます。

「私を悩ませていたものは、こんなものだったのか」と、今まで立ち向かうのが困難で大きな存在だと思っていたものが、実は小さな寄生虫であることを見て(発見して)、何とかなると思って安心していくような感じでしょうか。

これに利用できるのがタロットです。

タロット(マルセイユタロット)は人間心理の元型が描写されていると考えられており、出来事をパターン化させることに効果があります。

もともとシンプルな絵で小さなカードですから、視覚的にも物理的にも、普通の人なら、完全に「手中」にすることができます。

こうして、生々しい記憶を風化、客観化し、自分のコントロール範囲に治め、その影響を少なくしていきます。

自分を悩ませていた記憶は、先述したように、言わば現在に「生もの」として生きている状態で、ことあるごとに、その人の人生、選択のシーンなどで介入してくることになります。

しかし、風化させ、ひとつの型として終わらせた時、ただの記憶として変わるだけで、言ってみれば一度死んで、その後はむしろ、あなたの糧として、別の存在に変化します。

とはいえ、タロットにおける風化作業も、一回見ただけでできるというものではなく、少しずつ浸透させていく必要はあるでしょう。

しかし、一回のリーディング場面においても、絵としての形で、客観的に見る(見せられる)だけでも、ずいぶんとモンスターはペット化するものです。

それは、タロットが無造作に描かれているわけではなく、その(の描き方)に秘密があるからでもあります。(マルセイユタロットの場合)

タロットがいい意味で記憶の風化に貢献するのは、こうしたところ(絵柄・素像の特別な力)もあるからなのです。


タロットの学び、扱いの硬軟

タロット、こと私の扱っているマルセイユタロットになりますと、様々な階層と解釈にふれ、気づきや覚醒、情報の拡大、蓄積、深化、整理など、真理の追求や「学び」という方向が主となってきます。

まあ、言ってみれば、マジメで少しお堅い方向でもあるわけです。

しかし、それは一面ではそう見えるかもですが、結局、自己の解放、大いなるものへの回帰、統合ベクトルでもあるので、実は楽になったり、遊びの部分がたくさん出てきたりもするのです。

内容はまじめでも、気分は楽になってくるという表現が適切でしょうか。

そして、何事もバランスが大切で、お堅いお勉強方法ばかりでは息苦しくなったり、アイデアも乏しくなったりします。

そこで、タロットを学ぶ過程でも、息抜きのようなタロットの接し方、言い換えれば「遊び」としてタロットと接する時間と機会を持つことをお勧めいたします。言わば、柔らかい勉強法みたいなものです。(笑)

例えば、タロットはもともと一般にはゲーム道具として使われてきた歴史がありますから(占いツールになるのは、実は結構新しい時代のことだと言われています)、そのまんま、タロットでゲームに興じるという手があります。

フランスなどでは、普通に、タロットと言えば私たちが思うトランプのようなもので、カードゲームとして遊ぶこともあるようです。実際、タロットのゲームが種々あることは、検索すればすぐわかります。

ちょっと複雑な(枚数の多い)トランプだと思えばいいでしょう。

タロットのゲームルールを知らなくても、トランプと(伝統的な普通の)タロットの構造とは同じですから、知っているトランプゲームをタロットに代用すれば使えます。(数カードが数札、騎士を除いた宮廷カードが絵札となり、トランプの4つのスートはそのままタロットの4組になります、ジョーカーはタロットの「愚者」として扱えます)

それから、「占い」をたくさんやってみるのも面白いところがあります。

これは真剣な占いのタロットではなく、ラフな遊びでのタロット占いをするということになります。それだけ気軽で、出た結果も重たく受け止めることがなくなります。

何かのスポーツの結果や順位を占ってみてもいいですし、皆が楽しめる話題(芸能ネタなど)や、恋の話、ワクワクする未来像など占ってもいいでしょう。結果が、そのあとすぐわかるものをやってみるのもアリです。

これは一人でするより、多くの人と一緒にやるほうが面白く、楽しいです。

それと、占いで使いやすい展開法(スプレッド)を採用するのも(占いで楽しむ)コツです。心理的な内容まで解読する展開法や、解決策まで出してしまうやり方は、シンプルな占いには向きません。

それから時々講義でも余興的にやっていますが、何のカードが出るか当てる(当たるまでやってみる)というゲームも、意外に熱中してしまいます。(笑)

そしてこれも入門コースなどでやることがありますが、グループで、一人ずつカードを引いて、その印象から何か話や人物を作り、次の人が自分の引いたカートを参考にして、前者の話題を引き継いでストーリーをつなげていくという連作をしてみると、とんでもない物語ができあがったり、見事につじつまの合う物語ができたりして、作劇も学べます。(リーディング技術向上にもつながります)

また、単純にシャッフルして出たカードをネタにして、何か強制的に話をしなくてはならないというルールでやるのも面白いかもしれません。

これは、よく会社や組織で、朝などに何かしゃべらされる課題を与えられる時、タロットを思い浮かべるだけで話が作りやすくなるという、「しゃべり」や「お話し」の訓練にもなります。

さらに、遊びとは違うのですが、タロットに親しむ方法のひとつとして、普通のタロットの扱いや解釈とは違い、護符や願望実現のイメージ(シンボル)として、カードを使うという方法もあります。

例えば、ある一枚を自分の守り神(護符)的なものとして常に携帯しておくとか、ある願いの実現において、タロットカードをシンボルとして、見えるところに掲げておくというようなことです。

カードの意味から選んでも、好きなカードということで選んでも、またシャッフルして偶然性からかえって神秘性を強めて選んでも、何でもよいかと思います。

ここで重要なのは、カードへの信頼性と、何かの力がカード(の図柄)に宿るというリアルな感覚になります。単なる絵という感じでは、効果は少ないです。

カバラーの生命の木を知っている人は、各セフィラー(セフィロト)の部分にカードを当てはめて、願望実現を目指すというやり方もあるでしょう。(パスにカードを当てはめる方が一般的かもしれませんが、これもカバラーを主とするか、タロットをメインとするかによって違ってくるもので、どちらでもよいかと思います)

タロットとマジメに向き合うばかりが、いいわけではありません。息抜きや、普段とは違った方法・スタイル・意識でもって、タロットと接することで、また新たなものが生まれ、自らの拡大と統合もなされていくのです。

要するに緊張と弛緩というプロセスを経て、より一層の成長がなされるという、宇宙の仕組みと同じなのです。


タロットによる横の拡大

タロットカードは、絵柄を象徴とするカードの集まりなので、一枚につき、ひとつの意味が決まってくるという性質のものではありません。

頭が固かったり、あせってすぐカードを読みたいと思ったりしていると、ひとつの意味を暗記するかのようにして、結果的に固定的な読み・解釈しかできなくなってしまうことがあります。

タロットを習い始めの人に時々いらっしゃるのですが、タロットの読み方の正解を強く求めるという人がいます。

ある問題ケースにおけるタロットの展開において、正しい読み方はどれかと質問されるわけです。

なぜそうなる(そうした質問になる)のかと言えば、タロットの読み方が複数あるので、どれが正しいかがわからず、それを教えてほしいとなってくるからです。その気持ちはわからないでもありません。

私たちの普通の状況やシーンにおいては、正しい回答、いわゆる正解というものは、クイズではありませんが、それは「ひとつ」であることがほとんどです。

学生時代の試験や、社会に出てからも、ひとつの正解を求められ、それを導き出すこと、正解としての結果を出すことが求められます。

従って、「答えはひとつ」の世界に慣れてしまい、それがさらに、「答え(正解)はひとつでなければならない、ひとつであるはず」と思い込むようになります。

勢い、人生の勝利の方程式、勝ち組への情報、幸せになるやり方などもひとつ、私にはこういう状態(仕事・生活・友人・パートナー)しかない・・・というようにもなってしまいます。

しかしタロットは象徴ですから、同じカード、同じ展開であっても、たくさんの読み方や解釈ができます。

言ってみればその全部が正解で、また絶対の答えでもないのです。

そこに全部があり、しかしまた一部でもあり、さらには何もないのかもしれないという奇妙なものになります。

これは通常、あまり経験したことのないような世界(観)であり、だからこそ、タロットを前にすると、固まってしまったり、かえって戸惑ってしまったりする人もいるわけです。

特に何かのモデルや指針、回答がないと不安になる人、常識や敷かれたレールの上で自動的に従っていれば、つづがなく生きられると思っている人のようなタイプの人には、タロットを学ぶことは最初は苦痛でしょう。

しかしながら、その混乱こそがタロット(を経験したり、学んだりすること)のひとつの役割でもあるのです。

言ってみれば既成概念・固定観念の打破であり、自分が安心・安全だと思っていた世界(それは逆に自分を苦しめていた要因でもあります)からの旅立ちでもあります。

最初は怖いことではありますが、思考や感情においての自由への選択の第一歩でもあるのです。

タロットには、縦の階層・次元別の読み方の相違と、横の同じレベル、同じ個人の間で違ってくる読み方の幅があります。幅と奥行き、または幅と高さの違いによる読みと言ってもいいでしょぅ。

タロットが象徴であり、読みと正解もたくさんあるという考えに変わっていくのは、個人的なレベルでの横の幅を増やすことと同意です。

ただし、タロットから導かれる正解の多様さは、レベルや次元の違いによる縦の読みの場合になってくると、実はそれぞれの階層(レベル)によって、正解はひとつとなる読み方にもなります。

ここが象徴性の難しさ(面白さとすばらしさ)にもなってくるのですが、今日の話の趣旨は、縦ではなく、横においての多様さの獲得(自我のこだわり・囚われの常識からの解放)なので、その説明は別の機会にします。

タロットが、個人レベルにおいて、読みの幅の多様性によって、多くの正解があるということは、一人一人、別の正解があるということにもなります。

つまり、自分がよいと思うことは、人には当てはまらない(その逆もあり)ということもある世界です。(これは現実の世界でもそうですが)

リーディングにおいても、セオリー・定番的な意味でのタロット解釈だけではなく、そのクライアント個人、その時その時のセッションや相談、問題別によって、特徴的な読みと回答(解答)が現れてくることもあるわけです。

極端に言えば、自分にしか通用しない読み方、その人にしか適用できない読みというのもあるのです。

占い的になってしまうと、どうしても正解や正しい方向、幸運なる道の選択の示唆、その拝受みたいになってしまうのですが、それも悪いわけではないにしろ、タロットによって、選択肢そのものを増やす仕組みを知ること、常識的・多数派的に正解(正しい生き方)だと思っていたものに対し、揺らぎや革命を起こす意味では、あまりそういったタロットの使い方はよくないかもしれません。

「答え(ひとつの正解)を出す」という姿勢だと、かえって余計に悩んだり、迷ったりしてしまうこともあります。

タロットリーダー・クライアントともに、ひとつの正解を出すという姿勢よりも、たくさんの答えをタロットをもとに、一緒に導き出すというスタイルにすると、双方、楽になることがあります。

そのうえで、縦のレベル別の正解というものを入れると、さらに整理がついてきますが、まずは、タロットによる横の幅を広げることが大事かと思います。

マルセイユタロットにおいても、大アルカナの数の順で言うと、5の「法皇」から6の「恋人」になって、人物や選択肢が増えていることがわかり、横の幅(選択肢や視野)が拡大していることがうかがえます。

その分、確かに迷いも増えるのかもしれませんが、思ってもみなかった道、生き方、世界があなたの前に広がっても来るのです。

「あなた(自分)らしく」というのは、自分を知るということの意味でもありますが、世界(人生)にはたくさんの選択があることを知って、そのどれかを選ぶ生き方によって、自分らしさ(個性)をもって、全体の中で生きやすくなることでもあるのです。

タロットはそのサポートに使うことができるのです。


「13」 もっとも大切なものを失う時

マルセイユタロットに、名前のない数だけの「13」というカードがあります。

そのあまりに強烈な図像の印象から、ほかのカードで、この数をもったカードは「死神」とさえ呼称されることがあります。

しかし、私たちマルセイユタロットを扱う者は、事実としてカードに名前が記載されていませんから、「名前のない13番」とか、「13」として数で呼ぶことになっています。

名前は実はかなり重要で、皆さんにもお名前があって、名前で呼ばれることは個人を特定されるようなことにもなりますし、親近感を抱いたり、逆に親しくもない人に呼ばれることは嫌悪感が出たりと、名前を呼ぶということは強い影響が出るものです。

神や悪魔(その眷属)を、正式な名前で呼ぶことによって、そのエネルギーを自身のものにすることができる、支配することができるとさえ言われています。

ということで、名前は「性格・性質」、「力」そのものでもあるわけです。

ですから、「死神」と言ってしまうことは、このカードを不吉なものに結びつけることになるのです。

それでも「13」は、名前を呼ぶことが出来ないほど、「13」そのもの(13のカードの本質)は、強力なものでもあります。

しかし、畏れ多いものではある反面、その強力なエネルギーは、私たちを大きく変えることに寄与します。ゆえに、このカードは、積極的な意味において、変容と次元の上昇に関わっているといえます。

また大きな鎌を持っていることが「13」の象徴図の特徴であり、この鎌は、つまりは農作業の刈り取ること、収穫をイメージさせます。

私たちはついつい、この鎌を武器や殺傷道具ように思ってしまいますが、本来的には収穫の道具なのです。ということは、その大地には、何かが実っているということになります。

同時に、やはり鎌は刃物でもあり、刈り取るだけではなく、削ぎ落とすということも考えられます。削ぎ落とされながらも実るものという、一見矛盾めいた象徴もあります。

ところで、私たちそれぞれの人生において、つらいことは必ず誰にもあるものです。

それが病気であったり、経済的なことであったり、家族の心配ごとであったり、人間関係や恋愛のことであったりと、まさに様々です。

そして、人生のターニンポイントに、喜びごとと苦しみごとによるものがあります。

その中で、苦しみごとの場合において、もっともつらいもののひとつが、自分にとって一番大切だと思っていたものを捨てたり、離れたり、関わることが許されなかったりしなければならない事態に陥った時と言えるかもしれません。

それはもう、もっとも大切に思っていたものものの喪失ですから、強烈な落ち込み、気が狂うほどのつらさであり、自分でも信じられない事態で、世界の終わり、人生が終わったかのような思いを持つようなことと言えるでしょう。

人によっては、このようなことが、不幸にも発生することがあります。

これがマルセイユタロット的には、「13」の象徴事件として表されます。

「13」の象徴レベルにも数ありますが、やはり「13」を実感するには、そうした、もっとも大切なものを失う体験が近いのかもしれません。

しかし、さきほど、「13」の鎌は収穫でもあるといいました。何より、先述したように、「13」は変容であり、変革であり、自分の次元を上昇させる象徴でもあります。

もっとも大切だと思っていたものを捨てる時、もっとも大切な新たなものを得ることができるのです。

これは失ったものが与えてくれる場合もあれば、まったく新たなものとして創出されてくる場合もあります。

「13」という数には、「3」という創造性を象徴する数が含まれています。

実は失うことや得ることは、形や意味としてそう感じるだけで、本質的(究極的)には何も失っておらず、何も得ていません。

しかし、個々人の物語にあっては、それは確かに失ったり、得たりしているものです。ということは、その波の経験こそが大事だとも言えます。

かと言って、失うことと得たことが、個人として意味のないものというわけではありません。経験した内容はその人にとって、とても大切で、かけがえのないものです。

肉体と感情をもった、あなたという「個人」でないと経験できない、貴重なものなのです。

失った、もう元には戻ることのできない状況に、とても悲しく、つらく思う日々はあるでしょう。それはすぐに回復できるものではありません。もっとも大切なものだったのですから、当たり前です。

ですが、少しずつ、時間とともに(失い得るという感覚は、時間と空間の感覚があるからこそ生じているものなので、時間は現実において、重要な回復ポイントになります)、あなたが失った代わりに新たに得たものや、まったく新しい自分の境地として、モノの見方や愛の次元が変容していることに気づくでしょう。

たとえ失ったこと、そうならないといけなかったことが不幸と感じたとしても、不幸によって、この世の根本的な問題に気づき、魂的に覚醒していくチャンスが与えられていくことにもなります。これは、「グノーシス」(神性への覚知)とされているものでもあります。

「13」には、マルセイユタロットの秘伝図から、どうしても「審判」のカードとの関連が出ます。

「13」は言わば、「審判」とのセットにて、その象徴性が生きるとも考えられますし、「13」の次の数を持つ、「節制」ともやはり関係します。

「審判」も「節制」も天使の絵図が描かれていることにも注目です。

このように、タロットの象徴図をもって、個々の人生に当てはめれば、つらいことも、転化・変性・昇華させていくことができるのです。


タロットと数をどう見て、どう扱うか。

タロットには数・ナンバーがついているものがあり、このことから、タロットは明らかに数と関係していると考える人が出ます。

そのため、タロットと数を扱う秘術、いわゆる数秘術との関連もなされ、タロットを数秘的に扱ったり、解釈したりする技法も存在しています。

私自身もタロットを習う最初の頃は、それはなかなか面白いものだと思っていました。つまりは初心者的には楽しい技術と言えるのです。

しかし、タロットをよく見ていくようになると、確かに数とタロットは無関係ではありませんが、それ(数や数秘)を主体に考えすぎるのも本末転倒なものだと気づいてきました。

例えば、私の講座においても生年月日のデータから数を抽出し、その数を持つタロットと関連させて自分を振り返る、いわゆるソウルカードとかパーソナルカード、またはその年の象徴を見るイヤーカードなどお伝えしますが、これらはタロットの本質からすれば、あくまでサブのものと言えます。

これらの技法は、使い方に注意すれぱ自分や人にとって役に立つものですが、ほとんどの人は、数秘占いや性格判断みたいなもので使い、しかも、そうしたレベルでこの技法を使えば使うほど、ある囚われに陥るという矛盾を抱えたものになっていることに気づいていません。

それはそもそもがタロットにおいて、「数」をメインとして見てしまっている点と(タロットは絵柄の象徴が主です)、その「数」自体の扱いを、「数占い」みたいなレベルで見てしまっているところから生じています。

ライトな占いや簡単な性格判断のようなもので楽しむ、遊ぶ、という目的ならいいのですが、自己の成長、解放、統合、覚醒、真理の探究などの目的の場合、そのような数とタロットの扱いは、弊害のほうが大きいと言わざるを得ません。

私の講座では、数秘的なタロットの技術も教えていることはお話しましたが、前述の注意点についてもふれており、その使い分けについて指導しています。

それでも受講生の目的もそれぞれに違うこともありますし、数とタロットがやはりリンクしていること、それが自分に関係していることに驚嘆する、気づくきっかけとしては、数秘的なタロットの扱いもよい面はあります。

そして、タロットと数について、別の面から見ていくと、実はタロットにおける数というものは、結局、タロットが表すこの世界や宇宙、さらには私たち自身の(人間の内的外的)構造を示すためのひとつになっているのだということです。

言い換えると、数はタロットという高度な象徴体・ユニットを完成させるための重要な要素だということです。

ですから、やはり数とタロットは無関係どころか、切っても切れないものがあるのです。

タロットにおける数を詳細に検討していけば、タロットがどのような構造になっており、それがどんな意味を示しているかを知る手がかりになります。

ただ、あくまでひとつの要素ですから、数によってタロットがすべて解き明かせるわけではありません。

タロットにおける「数」は、「数」自体の象徴性を考えるのも重要なのですが、むしろ、私たちが普通に「数」に対して思う「数の性格」で見たほうがいい場合もあります。

私たちが普通に見ている数(数について思っていること)というのは、数量や順序として扱う時の数のことです。

例えば、1から10という数があれば、数秘的・象徴的には、1から10にそれぞれの意味・性格のようなものを見ていきます。(その根拠は感覚ではなく、特に幾何学的なものにあります)

一方、数量や順列・段階などで見ていく場合、1から10へと移行・増加していく様、その反対に10から1へと減少、シンプル化していく様が見て取れます。

また数量的に見るということは、計算を入れることができ、例えば合計で21や22になるペアのカードなどとして、ある種の組合せや、ある組織・グループを作ることができます。

しかしこれも数をメインにするのではなく、もし合計で21や22となる数のついたペアのカードを見るとしても、その組合せ(ペア)によって、タロットが示す全体構造の検証やシステムの解明に役立てるということになります。

全体がわかれば、その組合せの意味もさらに明確になり、そうして初めてひとつのペア・組合せを、実際に個人に活用することができるようになるのです。

ただし、これらの検証に耐えうるタロット(数の意味でもシステマチックに構成されているタロット)は、極めて少ないでしょう。

その点、マルセイユタロットはすばらしく、完璧といえるほどの構造を持っています。

ところでよく、カバラーの「生命の木」が(「生命の木」はカバラーであると厳密に言えないかもですが)、10個のセフィラーと22のパス(小径)でできているから、タロットの大アルカナの22、小アルカナの10と関係していると単純に見ている人がいますが、無理矢理両者を結びつけるよりも、それぞれ切り離しながらも、22という数、10という数そのものを見て、その構造が古代のシンボルで使われる意味を考えたほうが有意義だと思えます。

それから、「私は生年月日から計算すると4を持っているから、4の皇帝の性格・人生なんだ」みたいな考え方・使い方は、タロットと数ではもっともレベルが低いもので、最初のうちこそ、そいうところから入るみたいなものはありますが、本格的にタロットを学びたい方、タロットの活用を高いレベルで望む方は、そのレベルから早く脱却することをお勧めします。


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