タロットの使い方
タロット、物語、語ること
タロットリーディングは一種の物語創作に近いものです。
タロット自身がスートリーを語るとも言えますし、また、読み手のほうも、タロットの象徴を通して、自らが自分自身(あるいはクライアント)の物語を紡ぎ出すのです。
この、自身のスートリーを創る・語るという行為は、実はなかなかのパワーがあります。
それは人は皆、自分の(創作した)物語で生きているようなものだからです。
私たちは他人の影響は受けますが、自分の物語、自分の人生だと話を作る(話としての形にする、意味あるものにする)のは、ほかならぬ自分自身です。
ですから、外のものはいわば設定や舞台・材料のようなもので、自分の人生を意味あるもの、理由のあるもの、筋が通るもの、認識できるもの、「物語」にしているのは自分自身と言えましょう。
しかしながら、普段、私たちは自分の物語・ストーリーを冷静に振り返るようなことはあまりありません。それは無意識に物語をつないでいるものだからです。
しかし、ストーリーであるがため、その物語には切り替えや分岐点のような重要なポイント、あるいは全体の流れや意図、さらにはオチのようなものまで用意されていると、とらえることができます。(物語なので、そのような見方をすることができるということ)
そして、ストーリーだからこそ、その都度、作り替えることもできます。
けれども、そうは言っても、終わってしまったもの、過去のものは、ストーリーを変えることは不可能だと思うでしょう。
しかし、これもストーリー(物語)であればこそ(「事実」ではなく、あくまで「物語」だからこそ)で、しょせんは「物語」なので、改変も可能なのです。
厳密にいえば、過去の解釈を変えるというようなことになるでしょうか。(それでも、「物語」としては変えることができると言えます)
ところで日本には言霊思想というものがありますが、これとは違うかもしれませんが、やはり、「言挙げ」すると言いますか、言葉に明確に出すことで、「形」と反応(形に変化)し、現実に影響を及ぼすということも考えられます。
ですから、物語として「自分の物語」を実際に口に出して語ることは、心でただストーリーを思うだけよりも、現実とのリンク(現実への作用)が強くなる可能性はあると想像できます。
タロットは絵柄でできた象徴ですから、絵としてのイメージも浮かびやすく、物語を作り、そして語ることには適しています。
本当はクライアント自身がタロットの表す物語を語ることのほうが効果は高いと言えますが、タロットリーダーが物語を語っても、それ相応の効果が出ると考えられます。
時系列でいえば、現在を中心に、過去の自分、未来の自分を「物語として創り、語る」ことで、それまで抱いていた自分のストーリー・物語が変わるわけです。
これはリーディング前の自分の物語が終わり、新しい物語が誕生することと言ってもいいでしょう。
ただ、本質的なことで“語れ”ば、やはりそれも「物語」なので、真実ではなく、自分(そしてほかは他人)と思っている「自我」としての創作であり、究極的には幻想と呼べるものなのかもしれません。
逆を言えば、私たちは、自身の物語を語れなくなった(創ることができなくなった)時、それは自分ではなくなるということです。
それを「死」という現象で表してもよいでしょうし、自我(エゴ)意識を消失した、何らかのワンネス状態と言うこともあるかもしれません。
では自分の物語などないほうがいいのかと言えば、ある次元ではそうかもしれませんし、また特に現実次元においては、なくてはならないものと言えましょう。
このように、普通に生きる意味では、自分(自我)の物語は重要で必要なのものと言えますが、何度もいうように、これは「物語」であるので、ただひとつのストーリーに凝り固まる(こだわる)必要もないわけです。
材料や舞台も豊富であり、創作や改変が認められている世界でもあるのです。
悪くいえば、自分の人生(他人の人生)も、すべて物語であり、自分を語っているようで、自分を騙っている(騙している)のです。
しかしよく言えば、しょせん騙りの物語だから、悩みすぎるのもバカらしいもので、物語創りとその体験を楽しめばいいわけで、ここにタロットでいえば「愚者」精神が立ち現れます。
さらにダジャレ的(笑)に続けると、語り終えれば、語り(の物語)はつまりは死ぬ(終了する、完結する)わけで、それはカタルシス(笑)として、浄化になります。
まじめに言えば、一通り語ることは、自分のひとつの物語(それが問題やネガティブなものだと特に)が終わる感覚で、浄化(物語の成仏)することもあるということです。
ということで、皆さんも大いに語りましょう。
何がカードを引かせ、何が表されているのか?
タロットの講義をしていて、よく聞かれるものに、〈1〉タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか? そして、〈2〉出たカードはいったい何を表しているのか? というものがあります。
あくまで私の考えですが、結論から言いますと、両方とも、「答えはいろいろ」(笑)となります。
まず、〈1〉の、タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか?
という質問から見ていきましょう。
大きく分けて、これにはふたつの考え方があります。
ひとつは「自分」が引くという説、もうひとつは、自分以外の存在の何かが引かせているという説です。
自分が引いている(選んでいる)というものでも、顕在意識としては、普通、よほど特殊な記憶力でもない限り、タロットの表側(絵柄側)が見えないようにシャッフルして引きますので、何のカードかを自覚して引いているわけではないというのは当然わかります。
ということは、自分の中の潜在的、あるいは無自覚な意識(無意識)が引いていると言わねばなりません。
ただ、「そもそもすべては偶然」であり、そこに意図や意識(無意識含む)からの操作はないとしてしまえば、タロットは自分が「行為」として引いているだけで、その引かれた(選ばれた)カードに特に意味はないということになります。
それではタロットリーディングや、引いたタロットカードを象徴として解読していく作業自体(の考え)が成り立たなくなりますので、とりあえず、それは置いておきます。
ということで、タロットは自分が引いている説(それが単なる偶然ではないという説)を採るとしますと、ほぼ自分の無意識層・潜在意識層とカードの絵柄か何かにリンクして(関係して)、選ばせていると見たほうが合理的のようにも思えます。
もしそうであるならば、やはり引かれたカードは、自分の通常意識以上の情報が出ている(投影されている)と見てもよいことになります。
けれども、もし最初にカードの絵柄全体を知っていたとすれば、それを見た時の記憶が脳の中のどこかにあり、その印象をもとに、カードが選ばれているという考え方もできますが、これはまったくカードを知らない人、あるいは全体の絵柄を知らない人が相談者では多いので、あまり当てはまらないかもしれません。
それでもカードリーダー自身が自分でカード引く時、または引くカードのことを知識的・映像的に知っている相談者には、該当することもあるとは思います。
この場合は、自分の希望する絵柄、カードを意図的に(本人の自覚はなくても)出している可能性はあるでしょう。
たとえそうであっても、自分のあまり知らない意識層の願望が投影されたとして考えれば、それはそれで出たカード(の示唆)は有意義なものとなります。
そして、自分が引いたという説でも、心理的な意味での意識(メンタル部分)を超えて、魂的な部分が引かせたと考えられる場合もあります。
しかしながら、そこの区分けは難しく、結局、そうした次元や層の区分の話は、引いたあとで考察していくのもあり(リーディングする時に決まってくる)かと思います。
次に、自分以外のものが引いたという説です。
これは神とか天使とか悪魔とか、サイキックな存在とか、何か自分ではない何か、それも人を超えた(目に見えない)存在、エネルギー的な何かがカードを引かせたという説です。
こうなってきますと、もはや憑依と言えますし、カードをツールとした霊媒とか異能という表現にもなってきます。
タロットリーダーが特別なサイキック能力や巫女的な能力を持っていたり、託宣的にタロットカードを使ったりする場合は、こうしたこともあるかと思います。
またタロットの世界(特に西洋魔法的なもの)では、タロットの精霊という存在を扱う(コンタクトする)場合があり、そうした世界観と次元では、自分がカードを引くとはいえ、タロットの精霊との共同作業と言いますか、むしろカード自体が精霊の依り代のようなものとなり、カードを引くことがタロットの精霊とのコミュニケーション・コンタクトそのものになっていることもあるわけです。
それからかなり邪道というか、おかしな場合ですが、タロットリーダーや占い師の強烈な念・意志によって、相手に引かせるというケースもあります。
相談しながらクライアントを支配しているようなものですね。無自覚でされている場合もあるので注意が必要かもしれません。
最後に、究極的な説をご紹介しますと、引いた時にカードに絵はなく、いわば白紙の状態だったものが、引いた(カードを引いた人が見た)瞬間、絵柄が出てくるという説です。
まあ、量子的な考えとでも言いましょうか。実はこれはタロットをやっているうちに、私自身が思いついたものですが、正しいか正しくないかは別として、私自身は気に入っている説です。(笑) あ、でも、これを押しつけるわけではないですよ。あくまでこれもひとつの考えです。
次に、〈2〉の、出たカードはいったい何を表しているのか?
という質問です。
一番いい加減で、実は面白い答えが、「何も表していない」「ただの絵ですよ」という説です。(苦笑)
つまりは、意味づけるのは自分(タロットリーダーやクライアント)だということです。
これでは、今一納得できない方もいらっしゃるでしょうから、ほかのいくつかの説を述べてみましょう。
そのひとつは、カードは「正しいことを示している」という考え方です。
タロットの示すものは正しいという前提のもとで、タロットの象徴が私たちを正しい方向に導いてくれるというものになります。
ただ、この考え方で問題なのは、その「正しさ」の基準は何なのか?ということです。
一般的な(現実的な)成功とか幸せでの意味なのか? 心の満足のことを言うのか? はたまた神目線とでもいうべき、私たち人間を超越したレベルの智慧でもって示す正しさなのか?
そうやって考えていくと、いろいろと難しいことになります。
従って、占いにおいては、いいカード、悪いカード、またはカードによるポジジョン(位置・方向性など)によっての良し悪しを決めて、わかりやすくしている場合もあります。
しかしそれであっても、カードの(示す)正しさとは何か?という根底の疑問は残るでしょう。
これとは違い、カードは何かの良し悪しを示すのではなく、絵柄としての象徴があるだけで、それが心理的に投影されて意味を持つのだという説があります。
つまりは、心(潜在意識含む)の投影、心の鏡のような装置として現れるという説で、カードは端的に、引いた人の心を表しているというものです。
これなどは、もともとのカードの意味とか正しさとかが問題ではなく、どう見えるか?ということが大事で、いわば、ロールシャッハテストみたいな、模様の見え方が心や思いを示すということが主題になってきます。
従って、繰り返しますが、カードが表しているものは(絵柄を通して見る)自分の中の思いや意識ということになりますね。
そしてこれは投影ではない考えになってきますが、場合によっては、他人の意識や心も表すという考え方もあります。
その前提として、意識が自分と他人と(全員)で繋がっているというものがあり、だから、自分、あるいはタロットリーダーの引いたカードが、知りたい情報を示しているということで、それが(知りたいと思う)他人の気持ちであるのなら、まさにその情報が表れていると見るものです。(そのため、占い目的で使われることが多いのです)
その他、心の投影から切り離した考え方で見ていくと、ある「思想」とか「モデル」の位置・段階との関連を示しているという説が出てきます。
タロットには、様々な思想や宗教の教義と関係するものがあり、それが絵の形で伝承されていると見る向きがあります。
そうした「ある思想」「ある教義」では、タロットカードはそれを表すモデル図、象徴図、平たく言えば「紙芝居」(その思想を受け入れる者にとっては「神芝居」)のようなものとして考えることができます。
こうしたものでは、たとえカードに心が投影されることはあっても、自分の心が先ではなく、「カードの示す思想やモデルが先にありき」で、引いたカードの象徴によって、自分のレベルや段階、心境や状況を考察したり、あてはめたりするという形になります。
もしタロットがキリスト教の教義を説明するものであるのならば、「審判」というカードを引けば、それはキリスト教の説く「最後の審判」と関係すると見るような感じです。(普通、キリスト教でタロットなど使うのはおかしなことですので、厳格な信仰ではありえませんが)
先述した「正しさ」の基準でいえば、そのモデル、思想図としてのタロットが「正しい」となり、地図、羅針盤、航海図のようなものとしてタロットを扱うことで、今の自分の迷える状態を修正したり、導いたりできるという考えになります。
この場合は、うまく解釈していくには、教義や思想に盲目的にならない、タロットの絵柄の詳細な検証、知識が求められます。
その代わり、活用が正しく行うことができれば、象徴的に非常に高次のものを扱うことできると考えられます。
まあ、引いた(選んだ)カードが何を表しているのかということも、答えはひとつとは言えず、いろいろな考え方があるわけで、それはつまるところ、自分が採用する考えによるでしょう。
タロットで物事を選択すること。
人は生活をしていく中で、判断に迷うこと、選択に悩むようなシーンに置かれることは多いものです。
こういう時、タロットが役に立つ・・・と思われているようですが、私の考えでは、これはそうと言えるところもありますし、そうでもないとも言えるのです。
占いでも、タロットは「卜占(ぼくせん)」の分野として、偶然出たものから何かの判断をつけること、選択を提示することには適していると考えられており、実際そのように使われることは普通です。
ここで、二択、三択など、複数の候補から何かを選ぶという問題で、それをタロットで決めたいという時、その選び方の基準がどうなのか、どうなってるいるのかを冷静に考えてみると見えてくるものがあります。
結局、そのような場合、タロットカードに何らかの良し悪し、優劣を設定いるから判断できるものだと気づくでしょう。
ではその良し悪しの基準は何なのか? とさらに見ていくと、カード自体にある良し悪しなのか、カードの絵図・意味から推定される良し悪しなのかということになってきます。
カード自体にある良し悪しとは、タロットカードのシステムや伝統性に基づいて象徴されている(決められている)意味合いのようなものであり、カードの絵図・意味から推定される良し悪しとは、そのままカードの絵柄を見て出てくる感覚、意味から判断される良し悪しです。
前者と後者は似ていますが、前者が最初から「ある基準」で統一されているのに対し、後者は感覚的なものも含みますから、流動的な基準になることがあるということです。
そして後者の場合は、タロットリーダーの人間的判断が多分に入りますから、そのタロットリーダーの持つ価値観に影響されることが強いのです。そのため判断の度に、ぶれることがあります。
まあ、タロットというものはほぼ主観に基づく判断になりますので、個人的価値観が入るのもむしろ当たり前のことで、悪いわけではありません。
前者の場合は、タロットリーダーの感覚はあまり関係なく、ある決まり、法則によって判断されるので、ぶれることがありません。
ただ、画一的になりやすく、その決まっている法則・基準が、どのモード(世界観・ルールの背景)で決められているのかを知っておかないと、出す判断には、クライアントには合わないことがあります。
普通、私たちが何かに迷い、それでも決めなくてならない時、何らかの価値基準・ルールに沿ったもので判断します。しかしその基準が、一人の人間の中で複数あるからこそ悩むのです。
例えば、お金・経済・数値の基準、好き嫌いとか快・不快、気持ちの基準、時間的(短期・長期など)基準、合理性・多数・平均化の基準、人情・義理などの基準、見栄・プライドなどの基準・・・数々あるわけです。
これらが複数絡まり合うのが「人間」ですから、判断に迷うことになるのです。
タロットの場合は、そのシステムによって、カードに最初から基準や意味が決められています。ですから、この場合は合理性で行くべき、お金や経済基準が中心、気持ちが主要な選択基準・・・と出たカードで判断できるのです。
人が生活シーンで迷う主要因は、タロット的には4つの分野に集約することができ、すなわち、裏を返せばこれは4つの基準ということになります。
この4つの基準が明確なのは、タロットにおいても小アルカナというパートになり、従って、小アルカナを使うことは、私たちの実際(生活・現実の人生)の悩みに、その時々で基準や判断を示してくれるのには向いていると言えます。
一方、タロットには大アルカナという絵柄のついたカードたちがあり、このカードは絵柄があるために、イメージで読みやすいのですが、反対に、いろいろな意味も出てきて、いわば抽象的な世界観を表すようになります。
カードシステムの基準ではなく、あくまでカードの絵柄から判断しようとすると、このように多様に読めてしまうカードにあっては、判断もまさしく多様になり、かえって決めにくくなることもあるわけです。
そのため、タロットの世界ではスプレッド(展開法)を決め、カードを置く位置、またはカード自体のポジション(正・逆)によって、良し悪しを判断する方法が確立しています。
ということで、大アルカナ、小アルカナ、どちらか、あるいは両方使う場合にしても、タロットでは、判断を下せるような読み方・方法があるので、最初にも述べたように、占いなどのシーンで、迷いの決断に使われることが多いのです。
と、ここまでいろいろと書いてきましたが、もしかすると、何人かの人は気づいたかもしれません。
カード自体に良し悪しの基準があったとしても、出たカードを感覚的に読んで良し悪しを決めるにしても、カードに従うのが正しいのかどうか?と、そもそもの疑問に思う人・・・
また、「カードは、確かに今の判断に重要となる基準・観点は示してくれるかもしれないが、自分としては、ほかの基準も大事なように思えたり、見たカードの感じが、タロットリーダーの言っているものとは違うように感じたりする」という人もいて、カードの、あるいはそれを見てのタロットリーダーからの判断が、素直に納得できない(何かもやもやする)という場合もあるのでないか考える人・・・
そうなのです。そのような疑問を持つのも当然と言えば当然なのです。
これはタロットに限らず、カードやモノで何かを判断すること自体の信頼性の問題にも関わります。
ここまで疑問になってくると、もうカードを使った判断をするのには関わらないほうがよいかもしれません。まあ、そういう人は、そもそもカードに関心も抱かないとは思います。
しかし、タロットに興味があり、タロットの学習とその活用を望む人の中でも、こうした疑問を抱いてくる人もいると思います。
そして、この記事の最初に戻るのです。
何かを決めることに、タロットが役に立たないこともあると書きました。
そう、タロット(マルセイユタロット)は、何かを決めることには向いていないというか、そういうものの使い方ではないと、今の私は考えているところがあります。
もちろん、長々と説明したように、タロットによって決める、決めることができるという「世界観」「ルール」のようなものは確かにあります。
しかし、決めることを補助するというタロットの使い方ではないものもあり、そのほうがタロット活用の本質に近いのではと推測しています。
その意味について解説すると長くなりますので、タロットの講義や、別の機会に譲りますが、簡単に言えば、「迷い→決める」というプロセスそのものに意味があり、決めることを目的とする考えではないということです。
いやだからと言って、人生において、決めることの意味はないと言っているのではありません。
実際場面(現実問題)では、決断しないとならないことは、仕事やプライベートにおいてもたくさんあるのが私たちです。
そしてその決めたこと、決断したこと、選択したことによって、人生が大きく変わることがあるのもまた事実です。
そういった現実においての選択の重要性を見て、できるだけいいと思える方向を示唆するのも、生きる術のひとつでしょう。それにタロットというカードを使う方法もあるわけです。
その一方でまた、人(人生・現実)を違う見方で俯瞰するような視点もあり、そのためのツールとして、タロットが活用できる場合もあるのです。
必死になってよい方を探す道(そういう時)もあれば、「どっちでもいいや、出した決断には責任は持つけど、楽しんで行こう」という、旅人のように考える時もあるのが私たち人間であり、そのどちらにもマルセイユタロットは使えるものなのです。
タロットによるセラピーの区分
世間では、タロッセラピストを名乗る方もいらっしゃいます。
タロットはいろいろなツールとして使うことができるため、もちろんタロットを使ったセラピーも可能だと思えます。
また、セラピーとは何なのかというセラピーの定義づけによっては、タロットによるセラピーの種類や方法も変わってきます。
一般的に、セラピーといえば、心身の癒し・治療を行うものと考えられます。
ただし「治療」と言ってしまうと、日本では法的な問題があるので、医師や、その他特別に許可された資格を持つものではないと、「治療」を謳うことができませんので、厳密には治療とセラピーと異なる部分もあるでしょう。
ともかく、タロットを使って占いやリーディングをするにしても、相談に来た人、クライアントが何らかの形で癒されたのだとすれば、それはセラピーだと大きな意味では言えそうです。
ただ、例えば、当たることを重視する占いであったり、カードを読み解いて、単なる「ある情報」を与えるという意味でのリーディングであったりすれば、それは受け取る側も、与える側も、セラピーをしているような雰囲気にはならないでしょう。
セラピー・癒しといっても、どの部分(程度・レベル)まで癒されるのか、癒すのかを考えると、クライアントを深く癒していくことまで志せば、「癒し」というよりも、言葉として「浄化」「変容」というニュアンスに近くなる気もします。
ということで、私は現実的に考えて、タロットを使ってのセラピーを考える場合、次のような区分をまずは想定するとよいと思っています。
こうした種類分けをしておくことで、自分の知識、経験、実力によって、どの区分をメインとするセラピーをするのかが整理できるからです。
1.占い・状況判断的タロットリーディングによって、結果的にセラピーとなっているケースがあるもの
2.表面的意識の情報を超えた(あるいは、表面とは別の意識の)情報、心理的情報などをタロットリーディングによって探知し、クライアントに認識してもらうことでセラピーとなるもの
3.タロットを使って、能動的に浄化・変容を促し、治療を施していくセラピー
1は、タロット占いや、何かの判断を求められるリーディングを行い、結果的に、クライアントが癒されたと思うことで、セラピーになっているというものです。最初からセラピーを意識しているわけではないという点がポイントです。
2は、特にマルセイユタロットリーダーを目指す人には想定してもらっているメインのところ(そのレベルを中心フィールドとする)になりますが、タロットリーディング(必ずしもタロットリーディングの手法だけとは限りませんが)で、主に心理的情報も読み、クライアントが気がついていなかったり、常識的観点で抑圧してしまったりしている部分を探査し、それをクライアントに認知してもらうことで、心理的統合、あるいは心理的物語の調整が図られて、癒しが起こるというセラピーです。
重要なのは、能動的態度で、相手を癒す気持ちでタロットリーディングを行うのではなく、あくまでリーディングを行っているうちに、その読んだ情報が、クライアントの心の解放や調整につながっていくものになるという形式です。
次の3との違いにもなりますが、クライアントの不快な症状とか心理的問題を治療したり、軽減したりすることを第1目的とはしていないというところなのです。
それはむしろ心理的治療、あるいはサイキックな治療としての専門家が行うべきもので、能力や知識、経験にもよりますが、タロットリーダーがそこまで担うものでもないと言えます。
簡単に言えば、クライアントの「気づき」までのサポートを行う役割で、その気づきに至る情報も、(治療的にも)正しいとか正しくないというところにはなく、あくまでタロットと、リーダーの主観も伴った「ひとつの情報」であり、それが1の区分と同じように、結果的にセラピーになっているということなのです。
1との違いで言えば、1のほうが心身の癒しが、クライアントからは必要とされない場合も多く、要は判断や決断の示唆、選択の良し悪し情報みたいなものが中心となり、それに対して2は、1よりも、心の癒しや浄化の視点を持ってタロットリーディングを行うという点にあります。
そして、3は、タロットを使っての治療も目的とする(治療も視野に入れての)セラピーであり、クライアントの回復と大きな変容を目指す、セラピー中のセラピーと言えましょう。
この場合、直接的なものと間接的なものがあり、直接的なものとは、実際にタロットを体に当てたり、心理的治療ツールとして使ったりするというもので、間接的なものは、タロットカードの象徴を利用して、カウンセリングしたり、精神分析したりして、クライアントに(心理的・サイキック的)治療を施していくというものです。タロット以外の道具や技術も使用することもあります。
こちらのほうは、先述したように、法的問題があるので、実際にやっている方は少ないかもしれません。
また、この区分でのセラピーは、普通はタロットリーダーとしては目指す必要もないでしょう。治療までやって行きたいと望む人が踏み込む分野です。
もっとも、2と3の中間のような人もいらっしゃいますし、それはその人の個性、能力、知識にもよってくると思います。
セラピストを名乗ることで、癒しを求めている人に訴える意味も出ますが、一方で、何が何でもクライアントを癒さねばならないとか、癒しのための気づきを与えねばならないとか、変なプレッシャーがかかって、セラピストとしての自分を縛る結果になる危険性もあります。
素直にタロットの情報を多角的に読んでいくことで、結果的に癒しが起こるという程度に考えていくほうが、タロットセラピーと無理に言わなくても、セラピーがやりやすいこともあるかもしれません。
またいくら癒しが目的であったとしても、クライアントを過大評価したり、よいことばかりを言ったりするのは、セラピーにはならないでしょう。
マルセイユタロットでも「13」と「節制」が、数の上での並びでも向き合っているように、苦しみ、自分がつらいと思っていることに向き合うことで、本当の癒しが起きます。
つけ加えると、逃げることが決して悪いわけではなく、時に逃げて安全な場所を確保することも大事です。つまり、自分を本当の意味で大切することであり、その視点では逃げるのもありとなります。
自分を大切にするということでは、自分の人生に起こったことに対して真摯に請け負っていく態度が求められるます。
単なる逃避、ヤケ、怠惰、他人への迎合、自己卑下、抑圧などは、むしろ自分をひどく扱っていることになるのです。
心の分野に使うタロット
(マルセイユ)タロットの活用は、このブログでもいろいろと言及しておりますが、「占い」を除き、最近よく知られるようになっているのは、心理的活用、言い換えれば、心の整理・調整、浄化に使うというものがあげられます。
今や、タロットをはじめ、ある主の象徴的カードの類は、確かにまだまだ一般的には「占い」の道具という認識はあるものの、ほとんどこういった心理次元で扱うのが主流になってきているのではないでしょうか。
(「いや、スピリチュアルな使い方が増えているのでは?」と思うかもしれませんが、狭義の意味でのスピリチュアルは、ほとんど心理かサイキックの次元だと言えますので、このように書いています)
それは、いわば自己洞察やセラピーでの活用と言えます。
私自身は特に自分に対しては、魂や霊的次元での考察へと、タロットへの視点は移っておりますが、それは別としまして、このように、今の多くは、タロットを心の次元、心理の分野での使い方が、実際的になっているということです。
それで、心の分野で使うということは、どのようなことなのかを(いろいろとある中で)、簡単にひとつ説明したいと思います。
実は、先日行ったブログ上でのリーディングゲームも、ゲームではありましたが、この、自分の心を整理したり、認識させたりする意味での目的もありました。
たぶんこのブログを読んでいるほとんどの方は、もう気がついている(知っている)でしょうが、心の分野への活用として、タロットを自分や他人の心の投影(または表出)装置として使う方法が、よく使われるものと言えます。
これは皆さんが思っているより、非常に重要な技術なのです。
心というのは、目に見えないものです。しかもいろいろな層に分かれているうえに、移ろいやすく、余計にとらえがたいものとなっています。
自分でわかっている心情もあれば、深くデータとして残って、潜んでいる場合もあります。
これを絵柄の形で表に出すこと、目に見える形にすることが、タロットを使う役割でもあります。(さらに言えば、それを言葉で表現するのも、セラピーの一環になり得ます)
しかもマルセイユタロットの場合は、意識・心の、人類共通のある種のパターン(ユング的にいうと「元型」)を象徴しますから、タロットカードに投影したり、表出したりしたものが、どのパターンであるのか、分類や分析が可能になります。
ほかの人と一緒にタロットを見る場合は、ある問題が、このパターン・象徴を通じ、その場にいる者の共通要素として登場し、人によってはもちろん見方や感じ方は異なるのですが、それこそが個性でありつつ、人として共通するものでもあるので、同じパターンを介して、自分と人との違い(違いがあるからこそ、自分らしさを認識し、それが自我の成長と安定にもつながるものです)と、実は皆同じなんだという、大きな安心感・一体感につながりもします。
何よりも重要なのは、見えないものが見える、わからないものがわかるという、その過程と結果(一連の流れ)です。
人はわけがわからないもの、見えないもの(認識できないもの)、理解できないものに、強い恐れや不安を抱きます。
例えば暗闇の中で、何かが動いている感じがすると、とても不気味で怖くなりますが、電気をつけてみると、「部屋で干していた洗濯物がエアコンの風に当たって動いていただけだった・・・」とわかれば、「なぁんだ、それだったのか」と、すごく安堵するわけです。
自分の心、内側が見えないために、わからず混乱していたところ、それそのものではなくても、形として、絵として、タロットの図柄(象徴)で確認することができれば、少なくとも一歩前進し、その正体に近づくことができます。
得体の知れないもの、エネルギー的なもの、観念的なものは、あえて形にしたり、キャラクターとして人物化させたりすると、実はそれを扱いやすく(コントロール)することができるのです。
「問題」という原因そのもの、正体そのものがはっきりわからなくても、「問題」を「それ」「これ」として、ひとつの形や人間のように置き換えてみることで、「それ」「これ」と対話したり、実際に手で触ったりすることができるようになるわけです。
いわば、五感という、人間の感覚器官に収めることができるのです。
サイキックや心理の次元では、物質に転嫁したり、投影させたりして、あたかもエネルギーのように、物質的には実体があやふやなものを、モノ(見える形・現実の物)に移行させて、処理をするという技術があります。
お祓い的な行為も、こうしたシステムが一部使われている面があると言えます。言ってみればモノや形への象徴化が、実の効果を伴うというわけです。
さらに、タロットカードそのものを意識や心の投影として見るだけではなく、タロットの絵柄の近くにある空間に現れる(イメージ)される事柄も、また心の何かが表出されていると見ます。
マルセイユタロットの場合は、カードに描かれている人物の視線が強く描かれていますので、前の記事の「リーディングゲーム」のように、その人物の視線の先に浮かんだものを、自分の内にあるものととらえる場合もあります。(視線だけではなく、カードを取り囲む空間の方向性それぞれに想像できたものに対して、意味を見出すこともあります)
もちろん、それ(イメージされたもの、意識から浮上したもの)はカードの絵柄があってこそのものなので、空間に現れたものもカードと無関係ではありません。
しかし、単純にカード一枚に心をあてはめるだけではなく、カードに描写されている絵柄の導き(人物の視線や持ち物、その他もろもろを)通して表出してくる心の動き、イメージ、感情などにも意味があると考えるわけです。
それは、マルセイユタロットの場合、ひとつひとつ細かな絵や人物の視線などに意味があるから、その作業に意図を見出せるのです。
人はつまるところ、自分の思考と感情で生きているようなものなので、心や精神の分野、自らの内側を見つめ、整理・浄化していくことは、生きやすくなるうえでは、不可欠ともいえる重要なものです。
しかしながら、大きな意味から言えば、それもあくまで技術のひとつで、タロットでいえば、「手品師」の操作に近く、タロットの活用の目的は、心だけのものに留まるものではないことは言っておきます。