タロットの使い方
年の初めに行うタロット。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて年始ともなりますと、巷では、今年一年を占うようなことが目立ってきます。
それはそれで面白いもので、今年がどんな年になるのか、全体として見るのもいいですし、個人的なものを占ってみるのもよいでしょう。
ただ、新年に目標を立てるというのと同じで、せっかく一年を占ったり、今年のテーマを(タロットなどで)見たりしても、いつの間にか忘れている場合が少なくありません。
お遊び感覚でやるのでしたらいいのですが、真剣に行う場合は、やはり、タロットの場合ですと、出たカードの記憶はもちろん、展開図を記録したり、その時リーディングしたものや、感じたものを文章に書き留めておくなどしておいたほうがいいでしょう。
つまりは検証作業が大事だということです。
ここで間違えてはいけないのは、タロットの出た通りだったか否かという正誤(当たりはずれ)を見るのではなく、何をタロットは言おうとしていたのかということや、タロットを展開したことで、その象徴をもとに、自分が(自らの人生)を創造的に作りあげることができているか、うまく内外の調和など、タロットの示唆を活かすことができているのかということを検証するのです。
アテモノで見ている限り、当たりか・はずれかの次元(どちらかが良くて、どちらかは悪いという白黒の)価値観と世界観に留まり続けることになります。(その世界観が好きな人は、別にそれでよいのですが)
それからタロット関係で、新年によくやるのは、数秘的な意味を「年」に重ねて読むケースです。
例えば、2017年は、全部数字を足すと、合計「10」になりますから、10のカード(たいていは大アルカナでは「運命の輪」)の年であると単純に見てしまう方法です。
注意したいのは、タロット、特にマルセイユタロットは、タロット固有(タロットそのもの)での象徴体系があり、数秘的なものとは別であるということです。
タロットはあくまで絵柄を中心としたもの(象徴)であり、タロットにも確かに数字(数)がついていたり、関係したりはしますが、数そのもので象徴しているものではない(数がすべてやメインではない)ことに留意すべきです。
しかしながら、こうも言えます。
すでに自分の中で、タロットと数が強く結びついている場合、逆に、その数を見ればタロットが自動的にイメージとして浮かんでくる状態となっており、つまりは、その人にとっては、もうその数はタロットそのものになっている(数からタロットの絵柄のイメージを出現させている)のですから、その意味では、「ある数」はその数を持つタロットの意味だと言ってもよいわけです。
ですから、2017年の場合、「2」と「1」と「7」という数の構成を見て、それぞれその数を持つタロットで推し量ることもできれば、合計して数の本質を見るやり方で、「10」として「運命の輪」であったり、そのまた数字根として「1」の「手品師」を見たりするのもありで、さらに「20」と「17」にわけて、「審判」と「星」を見るということもできるでしょう。
繰り返しますが、タロットの象徴と数の象徴は、重なることはあっても別体系ですので、上記のような考察は、あくまで、数とタロットが自分の中で深く結びついている(言い方を換えれば、数がタロットカードとしてリアリティある状態になっている)人に適用できるものです。
2017年が、仮にタロットの「審判」と「星」の象徴とした場合、ふたつのカードの共通性から、高次のメッセージが必要な人に届くような印象があります。
さらには、母胎(これは育まれる穏やかな環境ということも言える反面、自分が守られすぎて、ダメになったり、押し込められ、束縛されたりしている環境とも言えます)から、起きあがる、自立する、覚醒する、内から外に出さされる・・・というイメージも出ます。
その前には「清めの水」も浴びること(キリスト教的に言えば「洗礼」)が必要となるかもしれません。
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当選者には、こちらから後日連絡いたします。なお、リーディングしてもらいたい内容は、当選の通知後のご返信で結構です。
悩みや葛藤自体が「答え」と考える。
これはつい最近にも書いたことがあるように思いますが、(なお、私のこのブログは、ほとんど計画的な作為はなく、その日、思いついたものを書いているため、自分でも書いた内容はほとんど忘れているところがあります、そう意味では自分の別の意識との共同作業のようなものでもあります)、リーディングや占いをする前から、もう答えや重要な要素は出ていることが、往々にしてあります。
色々な援助方法を求め歩いたり、占い師のもとへとさまよったりする方に、実はそれが顕著だと以前書きましたが、要するに、自分の欲しい答え、理想を回答として出してくれる占い師や相談してくれる人を求めているわけなのですから、その自分の求める「答え」がまさに「答え」なのです。
ただ、ここでいう答えとは、正しい選択とか、社会一般の価値観の幸せに導く答えではなく、自分を見つめる核となる「答え」だということです。
結局、自分が求める状態、理想が実現してほしいわけですが、それができない状況とか障害があるために、どうすればよいのかと悩んでいることになります。
よく理想と現実の狭間と言われますが、現実次元においては、この二種・二元・相反すると思えることでの葛藤状態が、ほぼ必ず起きます。むしろ、そういう仕組みと体験がノーマルな世界と言ってもいいくらいです。
それは、人は、天と地の狭間で生きるものであり、言い換えれば霊的・精神的なもののように希薄で見えないものと、物資的で安定的なものとの間で生存していくからです。
また、このふたつの性質の両方を持つことも、人間の特徴と言えるかもしれません。(究極的にはすべてのものは両質を持つと言えますが)
常識的な判断や、論理的・数値的にわかったりすることもあれば、感情的に割り切れない、心や魂がどうしてもが求めることもあったりするのが、実は人として生きている証です。
このことは、マルセイユタロットカードの「恋人」がよく象徴しています。ちなみに、このカードは「恋人たち」ではなく、「恋人」である必要性があります。そうしないと、なぜ上空にキューピッド(クピドー)がいるのか、理解が難しくなります。
ともあれ、その「恋人」カードが語るように、ふたつのうちのひとつを選択することそのものが問題・テーマではないのです。
そうした狭間、ふたつの間に立たされる経験そのものが、自分を目覚めさせるきっかけとなります。
とはいえ、人情として、自分の望む答えになること、そういう現実になってほしいという思いはよくわかります。
特に恋愛などでは、思うようにいかない時、相手がいることですから、自分の思いや行動だけではいかんともしがたく、相当苦しいものとなるでしょう。
ですが、その葛藤や悩みこそが、あなたの成長を促すものなのです。
この場合で言う「成長」も、ただ一般的に言われる成長ではない(一面的ではなく、見えない部分も含む統合的・全面的なものである)ことに留意すべきです。
占い師に求めるあなたの願う答えは、本当の答えではなく(ただし、ないがしろにできるものでもありません。強く願っているそのこと自体は尊重されるものです)、その奧に、あなたの魂が欲している真実の答えがあるのです。(マルセイユタロットでは、「太陽」や「審判」の発見ともいえるでしょう。)
時にはつらいことですが、自分の表面的な部分が求める答え(今、強く願っている思いなど)を拒否する・捨てる(あるいは疑う)ことで、真実の答えに行き着く場合もあります。
そしてタロットリーダーや占い師は、自分が相手(クライアント・相談者)側の理想の投影装置として、相手の願う答えを出してしまうことにも注意すべきです。
ですが、それが必ずしも悪いわけではないのです。
実は、クライアントの理想の状態や望む答え、強い願望、時にはクライアント自身も気づいていない欲求さえ、占い師側が気づかず答えてしまうことがあります。
正確には「応えてしまう」のです。つまり、占い師(やセッション)を通して、クライアントは自分の理想を鏡写しのようにして見たいわけなのです。
「将来、素敵な彼氏と結婚できますよ」とか、「思っている人からいい返事がきます」とか、「独立して成功できますよ」とか、「あなたには特別な才能が眠っていますよ」とか、もっと具体的に、「6ヶ月後に、ソウルメイトと人生をテーマにした東京のセミナーで出会えます」とか、そのような、言ってもらえて嬉しい・喜ばしいことというのは、まさに自分の潜在的(あるいは自覚した)希望・願い・理想ということがあるのです。
それを相談を受ける側が、無意識に察知して、見せている、「応えて・答えている」という形式とも言えます。
このプロセス(からくり)がわかれば、自作自演みたいな形で、タロットカードを使って自分一人でもできるようになります。
カードに投影された自分の願い・像を見るというわけです。それを客観視するのと、無自覚で、ただ猛烈なエネルギーの渦のようなものとして翻弄されたままでいるのとでは、大きな違いがあります。
占いで指し示される未来は、それが運命と思う人もいるでしょうが、今の意識が投影された選択肢のひとつとして見ることができます。
それは占い師というフィルターを通して出ていながら、クライアントとしての自分自身の願いや恐れの場合もあるのです。
自分の理想とした選択肢の未来像をイメージした時、意外にも空しかったり、ありえない非現実感が漂ったりすることがあります。夢に見ていた理想像というのは、こんなものだったのか、これとは違う、という感じの場合もあります。
その感覚は大切です。
ですが、それでも、その理想の未来像を実現したいと強く思われる時、実現するかしないかは別として、あなたの中で何か特別なものとして、求められていることなのかもしれません。
アニメのセリフ風にいうと、「ゴーストの囁き」とか、「私の何かがそうするように語りかける」とか、「何者かがそう導く、それが悪い結果になるとわかっていても。。。」みたいな感じです。
大切なのは、自分が選択した結果について責任を持つという態度かもしれません。それ(覚悟)ができていれば、どのような選択も、自分にとっては満足をもたらせるでしょう。
タロットカードとの会話
タロットに親しんできますと、タロットと直接会話するような雰囲気(心で会話する状態)も出てきます。
これには、とても簡単なレベルのものから、高度な魔術的レベルのものまで、様々に実はあるのですが、高度なものは手順や儀式も重要で、ある意味、いい加減にすると危険なところもあります。
ですから、霊的というより、心理的レベルに留めておくのが、タロットの使い道としては安全なところもあるのです。
ともあれ、タロットカードを生き物のように扱い、一枚一枚と会話するかのようにイメージしてみると、意外な気づき、あるいは心の声といったものを得ることができます。
心理的レベルで扱っている場合は、結局、タロットから出るイメージや声のようなものは、自分の内的な(様々な自分の人格の)姿の一部として見ることができます。
従って、変に「高次のメッセージ」とか、「正しい示唆」とか、「本当の心の声」とか、なにかの(得るべき)基準や判断として扱ってしまうと、余計に混乱してしまうことがあります。
確かに、タロットから得られたものというのは、心理的に見れば、自分の中のどれかの声・意識に違いはないのでしょうが、それが「正しい」とか「正しくない」とか、「気づかなければならなかったもの」とか、「本当の自分の気持ち」とかであるとはわからないもので、様々な心の声(姿)のひとつが、カードに投影されて出て来ているものとして見たほうがよく、やたら感動したり、逆に避けようとしたりする態度は、実は考え物なのです。
もちろん、何かの判定、基準として見る方法もあり、それはまた別のやり方となります。大切なのは、タロットにおける「設定」と「考え方」なのです。
ちなみに、心理的にはタロットは(心の)投影画像となりますが、タロットは心理的な投影画像として機能しているだけではありません。
この場合、自分の見え方も大事ですが、それ以上にタロット画像が示す普遍的な象徴概念も極めて重要で、ここにタロットカードの象徴の意味を学ぶ必要のひとつが出て来るのです。
心理カードレベルで扱うのはタロットでなくてもできることですし、その意味においては、むしろタロットよりもうまく機能するカードもあります。
(絵や記号のついた)カードには、このように、心理的投影装置としてよく機能するもの、また、占いツールとしてよく適合するもの、さらにそれらを含みつつも、精緻で高度な象徴システムを表現しているものなどがあります。
カードは自分(人)が選ぶものですが、使う目的によっても相性があり、自分がそのカードが好きというのもありますが、実は、自分のやっていること、目的に叶っている(合っている、よく機能する)からこそ、そのカードを選択している・使っているということがあるのです。
これまでと、あなたの目的やレベルが異なってくれば、当然カードもまた機能しにくくなり、そこに気がつかずに、自分の技術のせいにして悩んでいる人もいます。
そこで、器用な人は、複数(種類)のカードを持って、目的別に使う人もいますね。
さて、話が少しそれましたが、カードと会話することは、タロットリーダーや、タロットを自分に使う人のためには、かなり効果的な方法になります。
最初は大アルカナから始め、その中でも、人物が中心として描かれているカードとの会話がやりやすく、よいでしょう。
カードナンバーが上がる(数が増える)に連れて、次第に画像は人物から離れて、会話もしにくくなりますが、それだけにカードナンバーが大きい数のものは、面白くもあります。
個人的に皆さんにお勧めするのは、「正義」と「悪魔」のカードのふたつとの会話です。
この二枚は、名前の意味が正反対のように(笑)なっていますので、自分の中の「正義」、自分の中の「悪魔」を見ることができ、とても興味深いものを提供してくれます。
さらには社会正義とか社会悪みたいなものまで考察でき、正義がよいもの、悪魔は悪いものという観念に揺らぎを与えてくれるでしょう。
私も、最近、カードの「悪魔」と会話しまして、大欲のために、もっと小欲を出せと言われました。(笑) 大欲のためには小欲も意外に大事なんですね。
皆さんも、自分のカードと会話をしてみてください。
タロットを学ぶ、二つの方向性
タロットを学ぶということは、おそらく一般的にはタロットで占いやリーデイングができる技術を学ぶということが多いと思います。
それも自分向きではなく、人に対して行うものというイメージでしょう。
そもそも客観的には、自分占いや自己リーデイングは、対人的にする方法と同じやり方ではできにくいものです。(ですから、自己リーデイングには、違う方法のほうがよいと言えます)
私の講座でも、タロットによるリーディング技法はもちろんお伝えしています。それが、いわゆるタロットの主要な活用法であるのは間違いないからです。
一方、「タロットを学ぶ」ということは、占いやリーディングを習うということだけを意味するものではありません。
タロットの活用には細かく分けるといろいろなものがあるのですが、それらを総合して言うのなら、「タロットをあらゆるものの象徴として扱う(使う)方法」と例えられるでしょう。
リーデイングや占いにおいても、結局はタロットカードを象徴として見ることで成立しているのですが、ここでいう「象徴による活用」というのは、リーデイングの時のものとは異なります。
タロットリーデイングは、クライアントや自分の心理的・潜在的なものをタロットに象徴させて読み解くことなので、どちらかといえば、とても象徴の範囲が個別的なものになります。より現実的・生活的と言えばいいでしょうか。
一方、リーディングから離れた象徴となると、もっと大きなものになり、言い換えれば、宇宙の構造を知り、自己や現実世界にもそれが流れている(基礎構造として同じでるあ)ことを洞察していくというものになります。
つまるところ、大いなるものと「自分」というものを合一させるような意識、統合的・総合的・霊的とも表現できる自己を認識していく、成長していくということになります。
古代からの伝統で言えば、それは神秘学(行)的なニュアンスであり、マルセイユタロットの根幹に流れる秘伝でもあります。要するに、本来の意味での「自己活用のタロット」だということです。
普通で語られるところの人(自分も含む)の「現実生活」を充実したり、援助したりする方向性がリーディングや占いでのタロット活用であり、全体性の象徴としてのタロットを意識し、自己に深く入っていく方向性(しかしそれはマクロとして宇宙の方向性と同じ)が、現実を超越する方向性での自己活用のタロットと言えましょう。
現実になじむ(充実感を得る)か、そこから離れいく(分離して最終的に統合させる)ことを目指すのかの違いです。
例えば「手品師」(一般のタロットでは「魔術師」なとど呼ばれる、通常「1」の数を持つ大アルカナ)が出れば、その人の就いている仕事か、働き方、何かを始めるための思いのようなものが象徴されます。
しかし自己活用の象徴として見ると、「仕事」とか「生活のスタート」とかという現実的な事象・意味からはずれ、四大元素の最初の扱いと認識、分離と統合の第一意識の目覚めというようなテーマが現れてきます。(ですから「魔術師」的にもなってくるのです、ウェイト版は魔術を直接描き、マルセイユ版は裏にそれを隠します)
現実対応のリーディング中心にタロットを活用するか、自己の洞察力・認識を次元転移して深めていくか、どちらを志向するかは学ぶ本人の選択であり、また教える先生の方向性にもよります。
もちろん両方をやっていくことも可能ですが、きちんとした扱いと目的の区別はいります。多くのタロット学習者は、これらを混同しています。
リーディングや占いはメソッド化され、たくさんの事例も世に出ていますので、学びやすく、自分がタロットを活用しているという実感も得やすいです。
しかも、対人的に使用しますので、人からも評価や感謝を述べられることもあり、使う本人の感情的満足、幸福感も覚えやすいものです。
ところが、タロットを大きな象徴として自己活用していく向きには、西洋魔法(魔術)の組織や団体でのものは別として、なかなか方法が具体化されておらず、先生や師はあっても、最終的には、自分でタロットの表す絵柄の象徴性から悟って行かねばなりません。
さらにこちらの方向性は、特別な力を得たり、現実を自分にとって都合のいいように変えたりするためにタロットを活用するものではありませんから、効果や目に見えての変化がわかりづらく、普通の人間の感覚としての感情的満足も得にくいものです。
言ってみれば、現実的な世界観をメインとすれば、「裏街道をいつも歩いている」(笑)ようなものです。
それは時に孤独でつらい作業になることもあります。常識や現実(一般)の世界観とずれていることも多いわけですから。
しかし、私自身やってきて思うのは、決して孤独なものでもなく、つらいことでもないのだということです。
同志や同じ傾向を持つ人(場所・事柄)は響き合い、自分が孤独な時に、少数ではありますが、そういう人や場所は現れます。
タロットの象徴による自己や世界の洞察は、苦しくもありますが、ひとつひとつの個々人の段階を過ぎていく時、それはかなりの楽しさもあります。それはまたリーディングの喜びとは違ったものです。
結局、マルセイユタロットは自分の真心、神性に応えるものと言えます。
人間関係のあるポイントとタロット
人とのつきあいは難しいものです。
一般的に、人の相談ごとでも、大きな割合を占めるのが人間関係に係わる話です。
それだけ多くの人が人づきあいで悩んでいるということでしょう。
タロットで人間関係を見て、どう自分が考えればいいのか、ふるまえばいいのかということについて情報を得ることができます。
その情報は、見えない分野や隠れたところのものが多く、そのため、自分のみならず、問題となっている相手の人間の見えない分野、つまり心とか感情などの部分も象徴として推測することがある程度可能です。
それは、原理としては、タロット(マルセイユタロット)が人間誰しも同じ共通の心の型を持っているという前提で、それがマルセイユタロットには描かれているからだという理由です。
ただ、人には個性があり、その時その時の思いがあるので、例えば、相手が本当に今どう思っているのかという具体的で細かな内容を当てるというようなことは、本当は無理があるものです。
わかるのは共通の元型的なパターンであり、それが個人のフィールド・状況において選択されると、どう影響されるのかということを、タロットから読んでいくのです。
ところで、人間関係において、問題となる要因はいろいろあるのですが、まず、人の人格(の選択)ということで考えることができます。
前回の記事にも書いたように、一人の人間にはひとつの性格だけではなく、内面に様々なタイプ(人格)を抱えています。
それが普段の何でもない穏やかな環境では、「あるA」という人格(性格を持つ人の状態)でいるのが多いのに、職場だと「Bという人格」に変わるという感じになります。
また同じ職場であっても、慣れているセクションではAになることもあれば、上司と対応したり、合っていないセクションに来たりすると、Cになるということもあります。
これは自己防衛反応や、環境に適応しようとする意味での人格の選択と言っていいものです。
つまり、環境や状況が、その人を一時的に変えているようなもので、もしかすると、一番メインである人格とは異なるものを、あなたはその人に見ているかもしれないのです。
プレッシャーがかかったり、余裕がなかったり、ある信念で凝り固まったりしていると、人は自分を守るために、ひとつの奇妙ともいえる人格に支配され、それを他人に見せてしまうことがあります。
これで人間関係にトラブルを来すことがあるのです。
だから、自分は、あるいはあの人は、ほかの人格や性格もあるのかもしれないと見て、今はこの人格でいなければ壊れてしまうのだ、そう選択せざるを得ないのだと見ると、少し楽になることがあります。
さて、ここでもうひとつ、人間関係のうえで大事なものである「距離感」とか、「関係性のループ」ということについても述べてみましょう。
人と人との間には、微妙な距離感がありますよね。
親しい人ほど近くても許されるものになりますが、たとえ親しい人でも時と場合によっては、距離を置いてほしいこともあります。
つまりは時間と空間、状況によって、適切な距離感は移り変わってしまうということです。
こうした人と人との距離・関わり方の濃密度とでもいいましょうか、それがこのように、実は一定ではないので、色々と問題としてとらえられてしまうのですね。
この距離感の適切さな選択については、意外とカードたちは表現することができ、それを引くことで、今、どの距離感が大切かを知ることができるのです。
それも人間関係の距離は、距離感と「感」がつくだけに、メーターで計るような、明確に測定できるものではないからこそ、見えない分野の象徴化ということで、タロットでそれを見ることができるのだと言えます。
あと、「関係性のループ」というのは、「運命の輪」が示唆することでもありますが、ある決まった関係性を、特定の人たちとの間に繰り返し、行い続けているというものです。
具体的には例えば、疑似家族とか、疑似親子とか、疑似夫婦とか、疑似兄弟とか、疑似親友、疑似成長仲間とか、ある関係に似たようなものを擬似的に形式化する関係性です。
本当にその関係になりたくてやっているものもあれば、結果的にその関係性が、擬似的な何かの関係に似ていることになってしまっているというものがあります。
しかもその関係性は、お互いを傷つけない暗黙の了解で、実は心地よい逃避的なものになっているので、仮の楽園として機能し、関係にある者は、基本、それを続けていこうと(保持)します。
仮に人が変わっても、関係性の形は保持し、それが繰り返されていくというものです。これがループとなります。
この擬似的な、偽りの、でも心地よい関係性の中では、永遠に続いてほしいという錯覚に囚われ、脱出が困難になります。
ただ、現実や物事に永遠はなく、やがてどうしても環境の変化や、第三者の影響、誰かの成長・気づきなどによって、それが壊わされる時がやってきます。
そのショックはかなり大きなものとなります。ですから、その前に、どこかで勇気をもって、擬似的な関係性のループから脱却する決意と行動を持たねばなりません。
ただ、擬似的な関係性が悪いわけではなく、自他ともに癒しや安心の場所になっていることもあるのです。
いわば成長ための「杖」や、一時の船のドッグのようなもので、強く旅立つための、安らぎの場所として、タロットでいえば「杯(カップ)」として見ることができます。
人間関係はお互いに人に気遣い過ぎると、、逆に問題を潜在化させることになって、いわば気持ち悪い関係性を強め、各人に抑圧された感情を蓄積させます。
それが爆発の機会をうかがい、常に火種が隠し持たれているという不安なものでもあります。
また反対に、いつもストレートで気持ちに正直にぶつけるのがよいとしてしまうと、うざい関係になったり、無神経な者が現れたり、土足で人の内面まで踏み込まれているような感覚で、仲間はずれが起きたり、スケープゴートの人ができたりします。
ありのまま、感情のままに行動するのがよいというのは、わがままで幼い子どものうちだけであり、社会で生きる大人には、人に気を遣ったり、自分がどのように見られているのかということを気にしたり、どう行動すれば一番安心か、みたいな選択をしていくのが普通です。
しかし、そのために自分をひどく偽り、感情を抑圧し、取り繕って人とつきあうのも、双方にとって、よいことではありません。疲れがたまり、無駄にエネルギーを浪費する一方です。
それは創造エネルギーを欠如させ、ただ流されて生きる人生となります。
タロットでは四大元素と、心の元型を表すカードたちがあるので、いろいろとバランスを見たり、見えなくてわかりにくい人の関係性のエネルギー、思い方を象徴として見ることが可能です。
他人がいるというのが、私たちの住む普通の世界のわけですから、どうしたって人間関係で悩むのは、ある意味、普通なのです。
だからこそ、それをどうコントロールするのか、どう扱い、整理づけるのかによって(学びや楽しさに変えることでもあります)、人生の質と生きやすさも変わってくるのです。