タロットの使い方

「13」 もっとも大切なものを失う時

マルセイユタロットに、名前のない数だけの「13」というカードがあります。

そのあまりに強烈な図像の印象から、ほかのカードで、この数をもったカードは「死神」とさえ呼称されることがあります。

しかし、私たちマルセイユタロットを扱う者は、事実としてカードに名前が記載されていませんから、「名前のない13番」とか、「13」として数で呼ぶことになっています。

名前は実はかなり重要で、皆さんにもお名前があって、名前で呼ばれることは個人を特定されるようなことにもなりますし、親近感を抱いたり、逆に親しくもない人に呼ばれることは嫌悪感が出たりと、名前を呼ぶということは強い影響が出るものです。

神や悪魔(その眷属)を、正式な名前で呼ぶことによって、そのエネルギーを自身のものにすることができる、支配することができるとさえ言われています。

ということで、名前は「性格・性質」、「力」そのものでもあるわけです。

ですから、「死神」と言ってしまうことは、このカードを不吉なものに結びつけることになるのです。

それでも「13」は、名前を呼ぶことが出来ないほど、「13」そのもの(13のカードの本質)は、強力なものでもあります。

しかし、畏れ多いものではある反面、その強力なエネルギーは、私たちを大きく変えることに寄与します。ゆえに、このカードは、積極的な意味において、変容と次元の上昇に関わっているといえます。

また大きな鎌を持っていることが「13」の象徴図の特徴であり、この鎌は、つまりは農作業の刈り取ること、収穫をイメージさせます。

私たちはついつい、この鎌を武器や殺傷道具ように思ってしまいますが、本来的には収穫の道具なのです。ということは、その大地には、何かが実っているということになります。

同時に、やはり鎌は刃物でもあり、刈り取るだけではなく、削ぎ落とすということも考えられます。削ぎ落とされながらも実るものという、一見矛盾めいた象徴もあります。

ところで、私たちそれぞれの人生において、つらいことは必ず誰にもあるものです。

それが病気であったり、経済的なことであったり、家族の心配ごとであったり、人間関係や恋愛のことであったりと、まさに様々です。

そして、人生のターニンポイントに、喜びごとと苦しみごとによるものがあります。

その中で、苦しみごとの場合において、もっともつらいもののひとつが、自分にとって一番大切だと思っていたものを捨てたり、離れたり、関わることが許されなかったりしなければならない事態に陥った時と言えるかもしれません。

それはもう、もっとも大切に思っていたものものの喪失ですから、強烈な落ち込み、気が狂うほどのつらさであり、自分でも信じられない事態で、世界の終わり、人生が終わったかのような思いを持つようなことと言えるでしょう。

人によっては、このようなことが、不幸にも発生することがあります。

これがマルセイユタロット的には、「13」の象徴事件として表されます。

「13」の象徴レベルにも数ありますが、やはり「13」を実感するには、そうした、もっとも大切なものを失う体験が近いのかもしれません。

しかし、さきほど、「13」の鎌は収穫でもあるといいました。何より、先述したように、「13」は変容であり、変革であり、自分の次元を上昇させる象徴でもあります。

もっとも大切だと思っていたものを捨てる時、もっとも大切な新たなものを得ることができるのです。

これは失ったものが与えてくれる場合もあれば、まったく新たなものとして創出されてくる場合もあります。

「13」という数には、「3」という創造性を象徴する数が含まれています。

実は失うことや得ることは、形や意味としてそう感じるだけで、本質的(究極的)には何も失っておらず、何も得ていません。

しかし、個々人の物語にあっては、それは確かに失ったり、得たりしているものです。ということは、その波の経験こそが大事だとも言えます。

かと言って、失うことと得たことが、個人として意味のないものというわけではありません。経験した内容はその人にとって、とても大切で、かけがえのないものです。

肉体と感情をもった、あなたという「個人」でないと経験できない、貴重なものなのです。

失った、もう元には戻ることのできない状況に、とても悲しく、つらく思う日々はあるでしょう。それはすぐに回復できるものではありません。もっとも大切なものだったのですから、当たり前です。

ですが、少しずつ、時間とともに(失い得るという感覚は、時間と空間の感覚があるからこそ生じているものなので、時間は現実において、重要な回復ポイントになります)、あなたが失った代わりに新たに得たものや、まったく新しい自分の境地として、モノの見方や愛の次元が変容していることに気づくでしょう。

たとえ失ったこと、そうならないといけなかったことが不幸と感じたとしても、不幸によって、この世の根本的な問題に気づき、魂的に覚醒していくチャンスが与えられていくことにもなります。これは、「グノーシス」(神性への覚知)とされているものでもあります。

「13」には、マルセイユタロットの秘伝図から、どうしても「審判」のカードとの関連が出ます。

「13」は言わば、「審判」とのセットにて、その象徴性が生きるとも考えられますし、「13」の次の数を持つ、「節制」ともやはり関係します。

「審判」も「節制」も天使の絵図が描かれていることにも注目です。

このように、タロットの象徴図をもって、個々の人生に当てはめれば、つらいことも、転化・変性・昇華させていくことができるのです。


タロットと数をどう見て、どう扱うか。

タロットには数・ナンバーがついているものがあり、このことから、タロットは明らかに数と関係していると考える人が出ます。

そのため、タロットと数を扱う秘術、いわゆる数秘術との関連もなされ、タロットを数秘的に扱ったり、解釈したりする技法も存在しています。

私自身もタロットを習う最初の頃は、それはなかなか面白いものだと思っていました。つまりは初心者的には楽しい技術と言えるのです。

しかし、タロットをよく見ていくようになると、確かに数とタロットは無関係ではありませんが、それ(数や数秘)を主体に考えすぎるのも本末転倒なものだと気づいてきました。

例えば、私の講座においても生年月日のデータから数を抽出し、その数を持つタロットと関連させて自分を振り返る、いわゆるソウルカードとかパーソナルカード、またはその年の象徴を見るイヤーカードなどお伝えしますが、これらはタロットの本質からすれば、あくまでサブのものと言えます。

これらの技法は、使い方に注意すれぱ自分や人にとって役に立つものですが、ほとんどの人は、数秘占いや性格判断みたいなもので使い、しかも、そうしたレベルでこの技法を使えば使うほど、ある囚われに陥るという矛盾を抱えたものになっていることに気づいていません。

それはそもそもがタロットにおいて、「数」をメインとして見てしまっている点と(タロットは絵柄の象徴が主です)、その「数」自体の扱いを、「数占い」みたいなレベルで見てしまっているところから生じています。

ライトな占いや簡単な性格判断のようなもので楽しむ、遊ぶ、という目的ならいいのですが、自己の成長、解放、統合、覚醒、真理の探究などの目的の場合、そのような数とタロットの扱いは、弊害のほうが大きいと言わざるを得ません。

私の講座では、数秘的なタロットの技術も教えていることはお話しましたが、前述の注意点についてもふれており、その使い分けについて指導しています。

それでも受講生の目的もそれぞれに違うこともありますし、数とタロットがやはりリンクしていること、それが自分に関係していることに驚嘆する、気づくきっかけとしては、数秘的なタロットの扱いもよい面はあります。

そして、タロットと数について、別の面から見ていくと、実はタロットにおける数というものは、結局、タロットが表すこの世界や宇宙、さらには私たち自身の(人間の内的外的)構造を示すためのひとつになっているのだということです。

言い換えると、数はタロットという高度な象徴体・ユニットを完成させるための重要な要素だということです。

ですから、やはり数とタロットは無関係どころか、切っても切れないものがあるのです。

タロットにおける数を詳細に検討していけば、タロットがどのような構造になっており、それがどんな意味を示しているかを知る手がかりになります。

ただ、あくまでひとつの要素ですから、数によってタロットがすべて解き明かせるわけではありません。

タロットにおける「数」は、「数」自体の象徴性を考えるのも重要なのですが、むしろ、私たちが普通に「数」に対して思う「数の性格」で見たほうがいい場合もあります。

私たちが普通に見ている数(数について思っていること)というのは、数量や順序として扱う時の数のことです。

例えば、1から10という数があれば、数秘的・象徴的には、1から10にそれぞれの意味・性格のようなものを見ていきます。(その根拠は感覚ではなく、特に幾何学的なものにあります)

一方、数量や順列・段階などで見ていく場合、1から10へと移行・増加していく様、その反対に10から1へと減少、シンプル化していく様が見て取れます。

また数量的に見るということは、計算を入れることができ、例えば合計で21や22になるペアのカードなどとして、ある種の組合せや、ある組織・グループを作ることができます。

しかしこれも数をメインにするのではなく、もし合計で21や22となる数のついたペアのカードを見るとしても、その組合せ(ペア)によって、タロットが示す全体構造の検証やシステムの解明に役立てるということになります。

全体がわかれば、その組合せの意味もさらに明確になり、そうして初めてひとつのペア・組合せを、実際に個人に活用することができるようになるのです。

ただし、これらの検証に耐えうるタロット(数の意味でもシステマチックに構成されているタロット)は、極めて少ないでしょう。

その点、マルセイユタロットはすばらしく、完璧といえるほどの構造を持っています。

ところでよく、カバラーの「生命の木」が(「生命の木」はカバラーであると厳密に言えないかもですが)、10個のセフィラーと22のパス(小径)でできているから、タロットの大アルカナの22、小アルカナの10と関係していると単純に見ている人がいますが、無理矢理両者を結びつけるよりも、それぞれ切り離しながらも、22という数、10という数そのものを見て、その構造が古代のシンボルで使われる意味を考えたほうが有意義だと思えます。

それから、「私は生年月日から計算すると4を持っているから、4の皇帝の性格・人生なんだ」みたいな考え方・使い方は、タロットと数ではもっともレベルが低いもので、最初のうちこそ、そいうところから入るみたいなものはありますが、本格的にタロットを学びたい方、タロットの活用を高いレベルで望む方は、そのレベルから早く脱却することをお勧めします。


タロット、物語、語ること

タロットリーディングは一種の物語創作に近いものです。

タロット自身がスートリーを語るとも言えますし、また、読み手のほうも、タロットの象徴を通して、自らが自分自身(あるいはクライアント)の物語を紡ぎ出すのです。

この、自身のスートリーを創る・語るという行為は、実はなかなかのパワーがあります。

それは人は皆、自分の(創作した)物語で生きているようなものだからです。

私たちは他人の影響は受けますが、自分の物語、自分の人生だと話を作る(話としての形にする、意味あるものにする)のは、ほかならぬ自分自身です。

ですから、外のものはいわば設定や舞台・材料のようなもので、自分の人生を意味あるもの、理由のあるもの、筋が通るもの、認識できるもの、「物語」にしているのは自分自身と言えましょう。

しかしながら、普段、私たちは自分の物語・ストーリーを冷静に振り返るようなことはあまりありません。それは無意識に物語をつないでいるものだからです。

しかし、ストーリーであるがため、その物語には切り替えや分岐点のような重要なポイント、あるいは全体の流れや意図、さらにはオチのようなものまで用意されていると、とらえることができます。(物語なので、そのような見方をすることができるということ)

そして、ストーリーだからこそ、その都度、作り替えることもできます。

けれども、そうは言っても、終わってしまったもの、過去のものは、ストーリーを変えることは不可能だと思うでしょう。

しかし、これもストーリー(物語)であればこそ(「事実」ではなく、あくまで「物語」だからこそ)で、しょせんは「物語」なので、改変も可能なのです。

厳密にいえば、過去の解釈を変えるというようなことになるでしょうか。(それでも、「物語」としては変えることができると言えます)

ところで日本には言霊思想というものがありますが、これとは違うかもしれませんが、やはり、「言挙げ」すると言いますか、言葉に明確に出すことで、「形」と反応(形に変化)し、現実に影響を及ぼすということも考えられます。

ですから、物語として「自分の物語」を実際に口に出して語ることは、心でただストーリーを思うだけよりも、現実とのリンク(現実への作用)が強くなる可能性はあると想像できます。

タロットは絵柄でできた象徴ですから、絵としてのイメージも浮かびやすく、物語を作り、そして語ることには適しています。

本当はクライアント自身がタロットの表す物語を語ることのほうが効果は高いと言えますが、タロットリーダーが物語を語っても、それ相応の効果が出ると考えられます。

時系列でいえば、現在を中心に、過去の自分、未来の自分を「物語として創り、語る」ことで、それまで抱いていた自分のストーリー・物語が変わるわけです。

これはリーディング前の自分の物語が終わり、新しい物語が誕生することと言ってもいいでしょう。

ただ、本質的なことで“語れ”ば、やはりそれも「物語」なので、真実ではなく、自分(そしてほかは他人)と思っている「自我」としての創作であり、究極的には幻想と呼べるものなのかもしれません。

逆を言えば、私たちは、自身の物語を語れなくなった(創ることができなくなった)時、それは自分ではなくなるということです。

それを「死」という現象で表してもよいでしょうし、自我(エゴ)意識を消失した、何らかのワンネス状態と言うこともあるかもしれません。

では自分の物語などないほうがいいのかと言えば、ある次元ではそうかもしれませんし、また特に現実次元においては、なくてはならないものと言えましょう。

このように、普通に生きる意味では、自分(自我)の物語は重要で必要なのものと言えますが、何度もいうように、これは「物語」であるので、ただひとつのストーリーに凝り固まる(こだわる)必要もないわけです。

材料や舞台も豊富であり、創作や改変が認められている世界でもあるのです。

悪くいえば、自分の人生(他人の人生)も、すべて物語であり、自分を語っているようで、自分を騙っている(騙している)のです。

しかしよく言えば、しょせん騙りの物語だから、悩みすぎるのもバカらしいもので、物語創りとその体験を楽しめばいいわけで、ここにタロットでいえば「愚者」精神が立ち現れます。

さらにダジャレ的(笑)に続けると、語り終えれば、語り(の物語)はつまりは死ぬ(終了する、完結する)わけで、それはカタルシス(笑)として、浄化になります。

まじめに言えば、一通り語ることは、自分のひとつの物語(それが問題やネガティブなものだと特に)が終わる感覚で、浄化(物語の成仏)することもあるということです。

ということで、皆さんも大いに語りましょう。


何がカードを引かせ、何が表されているのか?

タロットの講義をしていて、よく聞かれるものに、〈1〉タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか? そして、〈2〉出たカードはいったい何を表しているのか? というものがあります。

あくまで私の考えですが、結論から言いますと、両方とも、「答えはいろいろ」(笑)となります。

まず、〈1〉の、タロットカードは、何が(誰が)引かせるのか?

という質問から見ていきましょう。

大きく分けて、これにはふたつの考え方があります。

ひとつは「自分」が引くという説、もうひとつは、自分以外の存在の何かが引かせているという説です。

自分が引いている(選んでいる)というものでも、顕在意識としては、普通、よほど特殊な記憶力でもない限り、タロットの表側(絵柄側)が見えないようにシャッフルして引きますので、何のカードかを自覚して引いているわけではないというのは当然わかります。

ということは、自分の中の潜在的、あるいは無自覚な意識(無意識)が引いていると言わねばなりません。

ただ、「そもそもすべては偶然」であり、そこに意図や意識(無意識含む)からの操作はないとしてしまえば、タロットは自分が「行為」として引いているだけで、その引かれた(選ばれた)カードに特に意味はないということになります。

それではタロットリーディングや、引いたタロットカードを象徴として解読していく作業自体(の考え)が成り立たなくなりますので、とりあえず、それは置いておきます。

ということで、タロットは自分が引いている説(それが単なる偶然ではないという説)を採るとしますと、ほぼ自分の無意識層・潜在意識層とカードの絵柄か何かにリンクして(関係して)、選ばせていると見たほうが合理的のようにも思えます。

もしそうであるならば、やはり引かれたカードは、自分の通常意識以上の情報が出ている(投影されている)と見てもよいことになります。

けれども、もし最初にカードの絵柄全体を知っていたとすれば、それを見た時の記憶が脳の中のどこかにあり、その印象をもとに、カードが選ばれているという考え方もできますが、これはまったくカードを知らない人、あるいは全体の絵柄を知らない人が相談者では多いので、あまり当てはまらないかもしれません。

それでもカードリーダー自身が自分でカード引く時、または引くカードのことを知識的・映像的に知っている相談者には、該当することもあるとは思います。

この場合は、自分の希望する絵柄、カードを意図的に(本人の自覚はなくても)出している可能性はあるでしょう。

たとえそうであっても、自分のあまり知らない意識層の願望が投影されたとして考えれば、それはそれで出たカード(の示唆)は有意義なものとなります。

そして、自分が引いたという説でも、心理的な意味での意識(メンタル部分)を超えて、魂的な部分が引かせたと考えられる場合もあります。

しかしながら、そこの区分けは難しく、結局、そうした次元や層の区分の話は、引いたあとで考察していくのもあり(リーディングする時に決まってくる)かと思います。

次に、自分以外のものが引いたという説です。

これは神とか天使とか悪魔とか、サイキックな存在とか、何か自分ではない何か、それも人を超えた(目に見えない)存在、エネルギー的な何かがカードを引かせたという説です。

こうなってきますと、もはや憑依と言えますし、カードをツールとした霊媒とか異能という表現にもなってきます。

タロットリーダーが特別なサイキック能力や巫女的な能力を持っていたり、託宣的にタロットカードを使ったりする場合は、こうしたこともあるかと思います。

またタロットの世界(特に西洋魔法的なもの)では、タロットの精霊という存在を扱う(コンタクトする)場合があり、そうした世界観と次元では、自分がカードを引くとはいえ、タロットの精霊との共同作業と言いますか、むしろカード自体が精霊の依り代のようなものとなり、カードを引くことがタロットの精霊とのコミュニケーション・コンタクトそのものになっていることもあるわけです。

それからかなり邪道というか、おかしな場合ですが、タロットリーダーや占い師の強烈な念・意志によって、相手に引かせるというケースもあります。

相談しながらクライアントを支配しているようなものですね。無自覚でされている場合もあるので注意が必要かもしれません。

最後に、究極的な説をご紹介しますと、引いた時にカードに絵はなく、いわば白紙の状態だったものが、引いた(カードを引いた人が見た)瞬間、絵柄が出てくるという説です。

まあ、量子的な考えとでも言いましょうか。実はこれはタロットをやっているうちに、私自身が思いついたものですが、正しいか正しくないかは別として、私自身は気に入っている説です。(笑) あ、でも、これを押しつけるわけではないですよ。あくまでこれもひとつの考えです。

 

次に、〈2〉の、出たカードはいったい何を表しているのか?

という質問です。

一番いい加減で、実は面白い答えが、「何も表していない」「ただの絵ですよ」という説です。(苦笑)

つまりは、意味づけるのは自分(タロットリーダーやクライアント)だということです。

これでは、今一納得できない方もいらっしゃるでしょうから、ほかのいくつかの説を述べてみましょう。

そのひとつは、カードは「正しいことを示している」という考え方です。

タロットの示すものは正しいという前提のもとで、タロットの象徴が私たちを正しい方向に導いてくれるというものになります。

ただ、この考え方で問題なのは、その「正しさ」の基準は何なのか?ということです。

一般的な(現実的な)成功とか幸せでの意味なのか? 心の満足のことを言うのか? はたまた神目線とでもいうべき、私たち人間を超越したレベルの智慧でもって示す正しさなのか?

そうやって考えていくと、いろいろと難しいことになります。

従って、占いにおいては、いいカード、悪いカード、またはカードによるポジジョン(位置・方向性など)によっての良し悪しを決めて、わかりやすくしている場合もあります。

しかしそれであっても、カードの(示す)正しさとは何か?という根底の疑問は残るでしょう。

これとは違い、カードは何かの良し悪しを示すのではなく、絵柄としての象徴があるだけで、それが心理的に投影されて意味を持つのだという説があります。

つまりは、心(潜在意識含む)の投影、心の鏡のような装置として現れるという説で、カードは端的に、引いた人の心を表しているというものです。

これなどは、もともとのカードの意味とか正しさとかが問題ではなく、どう見えるか?ということが大事で、いわば、ロールシャッハテストみたいな、模様の見え方が心や思いを示すということが主題になってきます。

従って、繰り返しますが、カードが表しているものは(絵柄を通して見る)自分の中の思いや意識ということになりますね。

そしてこれは投影ではない考えになってきますが、場合によっては、他人の意識や心も表すという考え方もあります。

その前提として、意識が自分と他人と(全員)で繋がっているというものがあり、だから、自分、あるいはタロットリーダーの引いたカードが、知りたい情報を示しているということで、それが(知りたいと思う)他人の気持ちであるのなら、まさにその情報が表れていると見るものです。(そのため、占い目的で使われることが多いのです)

その他、心の投影から切り離した考え方で見ていくと、ある「思想」とか「モデル」の位置・段階との関連を示しているという説が出てきます。

タロットには、様々な思想や宗教の教義と関係するものがあり、それが絵の形で伝承されていると見る向きがあります。

そうした「ある思想」「ある教義」では、タロットカードはそれを表すモデル図、象徴図、平たく言えば「紙芝居」(その思想を受け入れる者にとっては「神芝居」)のようなものとして考えることができます。

こうしたものでは、たとえカードに心が投影されることはあっても、自分の心が先ではなく、「カードの示す思想やモデルが先にありき」で、引いたカードの象徴によって、自分のレベルや段階、心境や状況を考察したり、あてはめたりするという形になります。

もしタロットがキリスト教の教義を説明するものであるのならば、「審判」というカードを引けば、それはキリスト教の説く「最後の審判」と関係すると見るような感じです。(普通、キリスト教でタロットなど使うのはおかしなことですので、厳格な信仰ではありえませんが)

先述した「正しさ」の基準でいえば、そのモデル、思想図としてのタロットが「正しい」となり、地図、羅針盤、航海図のようなものとしてタロットを扱うことで、今の自分の迷える状態を修正したり、導いたりできるという考えになります。

この場合は、うまく解釈していくには、教義や思想に盲目的にならない、タロットの絵柄の詳細な検証、知識が求められます。

その代わり、活用が正しく行うことができれば、象徴的に非常に高次のものを扱うことできると考えられます。

まあ、引いた(選んだ)カードが何を表しているのかということも、答えはひとつとは言えず、いろいろな考え方があるわけで、それはつまるところ、自分が採用する考えによるでしょう。


タロットで物事を選択すること。

人は生活をしていく中で、判断に迷うこと、選択に悩むようなシーンに置かれることは多いものです。

こういう時、タロットが役に立つ・・・と思われているようですが、私の考えでは、これはそうと言えるところもありますし、そうでもないとも言えるのです。

占いでも、タロットは「卜占(ぼくせん)」の分野として、偶然出たものから何かの判断をつけること、選択を提示することには適していると考えられており、実際そのように使われることは普通です。

ここで、二択、三択など、複数の候補から何かを選ぶという問題で、それをタロットで決めたいという時、その選び方の基準がどうなのか、どうなってるいるのかを冷静に考えてみると見えてくるものがあります。

結局、そのような場合、タロットカードに何らかの良し悪し、優劣を設定いるから判断できるものだと気づくでしょう。

ではその良し悪しの基準は何なのか? とさらに見ていくと、カード自体にある良し悪しなのか、カードの絵図・意味から推定される良し悪しなのかということになってきます。

カード自体にある良し悪しとは、タロットカードのシステムや伝統性に基づいて象徴されている(決められている)意味合いのようなものであり、カードの絵図・意味から推定される良し悪しとは、そのままカードの絵柄を見て出てくる感覚、意味から判断される良し悪しです。

前者と後者は似ていますが、前者が最初から「ある基準」で統一されているのに対し、後者は感覚的なものも含みますから、流動的な基準になることがあるということです。

そして後者の場合は、タロットリーダーの人間的判断が多分に入りますから、そのタロットリーダーの持つ価値観に影響されることが強いのです。そのため判断の度に、ぶれることがあります。

まあ、タロットというものはほぼ主観に基づく判断になりますので、個人的価値観が入るのもむしろ当たり前のことで、悪いわけではありません。

前者の場合は、タロットリーダーの感覚はあまり関係なく、ある決まり、法則によって判断されるので、ぶれることがありません。

ただ、画一的になりやすく、その決まっている法則・基準が、どのモード(世界観・ルールの背景)で決められているのかを知っておかないと、出す判断には、クライアントには合わないことがあります。

普通、私たちが何かに迷い、それでも決めなくてならない時、何らかの価値基準・ルールに沿ったもので判断します。しかしその基準が、一人の人間の中で複数あるからこそ悩むのです。

例えば、お金・経済・数値の基準、好き嫌いとか快・不快、気持ちの基準、時間的(短期・長期など)基準、合理性・多数・平均化の基準、人情・義理などの基準、見栄・プライドなどの基準・・・数々あるわけです。

これらが複数絡まり合うのが「人間」ですから、判断に迷うことになるのです。

タロットの場合は、そのシステムによって、カードに最初から基準や意味が決められています。ですから、この場合は合理性で行くべき、お金や経済基準が中心、気持ちが主要な選択基準・・・と出たカードで判断できるのです。

人が生活シーンで迷う主要因は、タロット的には4つの分野に集約することができ、すなわち、裏を返せばこれは4つの基準ということになります。

この4つの基準が明確なのは、タロットにおいても小アルカナというパートになり、従って、小アルカナを使うことは、私たちの実際(生活・現実の人生)の悩みに、その時々で基準や判断を示してくれるのには向いていると言えます。

一方、タロットには大アルカナという絵柄のついたカードたちがあり、このカードは絵柄があるために、イメージで読みやすいのですが、反対に、いろいろな意味も出てきて、いわば抽象的な世界観を表すようになります。

カードシステムの基準ではなく、あくまでカードの絵柄から判断しようとすると、このように多様に読めてしまうカードにあっては、判断もまさしく多様になり、かえって決めにくくなることもあるわけです。

そのため、タロットの世界ではスプレッド(展開法)を決め、カードを置く位置、またはカード自体のポジション(正・逆)によって、良し悪しを判断する方法が確立しています。

ということで、大アルカナ、小アルカナ、どちらか、あるいは両方使う場合にしても、タロットでは、判断を下せるような読み方・方法があるので、最初にも述べたように、占いなどのシーンで、迷いの決断に使われることが多いのです。

と、ここまでいろいろと書いてきましたが、もしかすると、何人かの人は気づいたかもしれません。

カード自体に良し悪しの基準があったとしても、出たカードを感覚的に読んで良し悪しを決めるにしても、カードに従うのが正しいのかどうか?と、そもそもの疑問に思う人・・・

また、「カードは、確かに今の判断に重要となる基準・観点は示してくれるかもしれないが、自分としては、ほかの基準も大事なように思えたり、見たカードの感じが、タロットリーダーの言っているものとは違うように感じたりする」という人もいて、カードの、あるいはそれを見てのタロットリーダーからの判断が、素直に納得できない(何かもやもやする)という場合もあるのでないか考える人・・・

そうなのです。そのような疑問を持つのも当然と言えば当然なのです。

これはタロットに限らず、カードやモノで何かを判断すること自体の信頼性の問題にも関わります。

ここまで疑問になってくると、もうカードを使った判断をするのには関わらないほうがよいかもしれません。まあ、そういう人は、そもそもカードに関心も抱かないとは思います。

しかし、タロットに興味があり、タロットの学習とその活用を望む人の中でも、こうした疑問を抱いてくる人もいると思います。

そして、この記事の最初に戻るのです。

何かを決めることに、タロットが役に立たないこともあると書きました。

そう、タロット(マルセイユタロット)は、何かを決めることには向いていないというか、そういうものの使い方ではないと、今の私は考えているところがあります。

もちろん、長々と説明したように、タロットによって決める、決めることができるという「世界観」「ルール」のようなものは確かにあります。

しかし、決めることを補助するというタロットの使い方ではないものもあり、そのほうがタロット活用の本質に近いのではと推測しています。

その意味について解説すると長くなりますので、タロットの講義や、別の機会に譲りますが、簡単に言えば、「迷い→決める」というプロセスそのものに意味があり、決めることを目的とする考えではないということです。

いやだからと言って、人生において、決めることの意味はないと言っているのではありません。

実際場面(現実問題)では、決断しないとならないことは、仕事やプライベートにおいてもたくさんあるのが私たちです。

そしてその決めたこと、決断したこと、選択したことによって、人生が大きく変わることがあるのもまた事実です。

そういった現実においての選択の重要性を見て、できるだけいいと思える方向を示唆するのも、生きる術のひとつでしょう。それにタロットというカードを使う方法もあるわけです。

その一方でまた、人(人生・現実)を違う見方で俯瞰するような視点もあり、そのためのツールとして、タロットが活用できる場合もあるのです。

必死になってよい方を探す道(そういう時)もあれば、「どっちでもいいや、出した決断には責任は持つけど、楽しんで行こう」という、旅人のように考える時もあるのが私たち人間であり、そのどちらにもマルセイユタロットは使えるものなのです。


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