タロットの使い方

タロットによるセラピーの区分

世間では、タロッセラピストを名乗る方もいらっしゃいます。

タロットはいろいろなツールとして使うことができるため、もちろんタロットを使ったセラピーも可能だと思えます。

また、セラピーとは何なのかというセラピーの定義づけによっては、タロットによるセラピーの種類や方法も変わってきます。

一般的に、セラピーといえば、心身の癒し・治療を行うものと考えられます。

ただし「治療」と言ってしまうと、日本では法的な問題があるので、医師や、その他特別に許可された資格を持つものではないと、「治療」を謳うことができませんので、厳密には治療とセラピーと異なる部分もあるでしょう。

ともかく、タロットを使って占いやリーディングをするにしても、相談に来た人、クライアントが何らかの形で癒されたのだとすれば、それはセラピーだと大きな意味では言えそうです。

ただ、例えば、当たることを重視する占いであったり、カードを読み解いて、単なる「ある情報」を与えるという意味でのリーディングであったりすれば、それは受け取る側も、与える側も、セラピーをしているような雰囲気にはならないでしょう。

セラピー・癒しといっても、どの部分(程度・レベル)まで癒されるのか癒すのかを考えると、クライアントを深く癒していくことまで志せば、「癒し」というよりも、言葉として「浄化」「変容」というニュアンスに近くなる気もします。

ということで、私は現実的に考えて、タロットを使ってのセラピーを考える場合、次のような区分をまずは想定するとよいと思っています。

こうした種類分けをしておくことで、自分の知識、経験、実力によって、どの区分をメインとするセラピーをするのかが整理できるからです。

 

1.占い・状況判断的タロットリーディングによって、結果的にセラピーとなっているケースがあるもの

2.表面的意識の情報を超えた(あるいは、表面とは別の意識の)情報、心理的情報などをタロットリーディングによって探知し、クライアントに認識してもらうことでセラピーとなるもの

3.タロットを使って、能動的に浄化・変容を促し、治療を施していくセラピー

 

1は、タロット占いや、何かの判断を求められるリーディングを行い、結果的に、クライアントが癒されたと思うことで、セラピーになっているというものです。最初からセラピーを意識しているわけではないという点がポイントです。

2は、特にマルセイユタロットリーダーを目指す人には想定してもらっているメインのところ(そのレベルを中心フィールドとする)になりますが、タロットリーディング(必ずしもタロットリーディングの手法だけとは限りませんが)で、主に心理的情報も読み、クライアントが気がついていなかったり、常識的観点で抑圧してしまったりしている部分を探査し、それをクライアントに認知してもらうことで、心理的統合、あるいは心理的物語の調整が図られて、癒しが起こるというセラピーです。

重要なのは、能動的態度で、相手を癒す気持ちでタロットリーディングを行うのではなく、あくまでリーディングを行っているうちに、その読んだ情報が、クライアントの心の解放や調整につながっていくものになるという形式です。

次の3との違いにもなりますが、クライアントの不快な症状とか心理的問題を治療したり、軽減したりすることを第1目的とはしていないというところなのです。

それはむしろ心理的治療、あるいはサイキックな治療としての専門家が行うべきもので、能力や知識、経験にもよりますが、タロットリーダーがそこまで担うものでもないと言えます。

簡単に言えば、クライアントの「気づき」までのサポートを行う役割で、その気づきに至る情報も、(治療的にも)正しいとか正しくないというところにはなく、あくまでタロットと、リーダーの主観も伴った「ひとつの情報」であり、それが1の区分と同じように、結果的にセラピーになっているということなのです。

1との違いで言えば、1のほうが心身の癒しが、クライアントからは必要とされない場合も多く、要は判断や決断の示唆、選択の良し悪し情報みたいなものが中心となり、それに対して2は、1よりも、心の癒しや浄化の視点を持ってタロットリーディングを行うという点にあります。

そして、3は、タロットを使っての治療も目的とする(治療も視野に入れての)セラピーであり、クライアントの回復と大きな変容を目指す、セラピー中のセラピーと言えましょう。

この場合、直接的なものと間接的なものがあり、直接的なものとは、実際にタロットを体に当てたり、心理的治療ツールとして使ったりするというもので、間接的なものは、タロットカードの象徴を利用して、カウンセリングしたり、精神分析したりして、クライアントに(心理的・サイキック的)治療を施していくというものです。タロット以外の道具や技術も使用することもあります。

こちらのほうは、先述したように、法的問題があるので、実際にやっている方は少ないかもしれません。

また、この区分でのセラピーは、普通はタロットリーダーとしては目指す必要もないでしょう。治療までやって行きたいと望む人が踏み込む分野です。

もっとも、2と3の中間のような人もいらっしゃいますし、それはその人の個性、能力、知識にもよってくると思います。

セラピストを名乗ることで、癒しを求めている人に訴える意味も出ますが、一方で、何が何でもクライアントを癒さねばならないとか、癒しのための気づきを与えねばならないとか、変なプレッシャーがかかって、セラピストとしての自分を縛る結果になる危険性もあります。

素直にタロットの情報を多角的に読んでいくことで、結果的に癒しが起こるという程度に考えていくほうが、タロットセラピーと無理に言わなくても、セラピーがやりやすいこともあるかもしれません。

またいくら癒しが目的であったとしても、クライアントを過大評価したり、よいことばかりを言ったりするのは、セラピーにはならないでしょう。

マルセイユタロットでも「13」と「節制」が、数の上での並びでも向き合っているように、苦しみ、自分がつらいと思っていることに向き合うことで、本当の癒しが起きます。

つけ加えると、逃げることが決して悪いわけではなく、時に逃げて安全な場所を確保することも大事です。つまり、自分を本当の意味で大切することであり、その視点では逃げるのもありとなります。

自分を大切にするということでは、自分の人生に起こったことに対して真摯に請け負っていく態度が求められるます。

単なる逃避、ヤケ、怠惰、他人への迎合、自己卑下、抑圧などは、むしろ自分をひどく扱っていることになるのです。


心の分野に使うタロット

(マルセイユ)タロットの活用は、このブログでもいろいろと言及しておりますが、「占い」を除き、最近よく知られるようになっているのは、心理的活用、言い換えれば、心の整理・調整、浄化に使うというものがあげられます。

今や、タロットをはじめ、ある主の象徴的カードの類は、確かにまだまだ一般的には「占い」の道具という認識はあるものの、ほとんどこういった心理次元で扱うのが主流になってきているのではないでしょうか。

(「いや、スピリチュアルな使い方が増えているのでは?」と思うかもしれませんが、狭義の意味でのスピリチュアルは、ほとんど心理かサイキックの次元だと言えますので、このように書いています)

それは、いわば自己洞察やセラピーでの活用と言えます。

私自身は特に自分に対しては、魂や霊的次元での考察へと、タロットへの視点は移っておりますが、それは別としまして、このように、今の多くは、タロットを心の次元、心理の分野での使い方が、実際的になっているということです。

それで、心の分野で使うということは、どのようなことなのかを(いろいろとある中で)、簡単にひとつ説明したいと思います。

実は、先日行ったブログ上でのリーディングゲームも、ゲームではありましたが、この、自分の心を整理したり、認識させたりする意味での目的もありました。

たぶんこのブログを読んでいるほとんどの方は、もう気がついている(知っている)でしょうが、心の分野への活用として、タロットを自分や他人の心の投影(または表出)装置として使う方法が、よく使われるものと言えます。

これは皆さんが思っているより、非常に重要な技術なのです。

心というのは、目に見えないものです。しかもいろいろな層に分かれているうえに、移ろいやすく、余計にとらえがたいものとなっています。

自分でわかっている心情もあれば、深くデータとして残って、潜んでいる場合もあります。

これを絵柄の形で表に出すこと、目に見える形にすることが、タロットを使う役割でもあります。(さらに言えば、それを言葉で表現するのも、セラピーの一環になり得ます)

しかもマルセイユタロットの場合は、意識・心の、人類共通のある種のパターン(ユング的にいうと「元型」)を象徴しますから、タロットカードに投影したり、表出したりしたものが、どのパターンであるのか、分類や分析が可能になります。

ほかの人と一緒にタロットを見る場合は、ある問題が、このパターン・象徴を通じ、その場にいる者の共通要素として登場し、人によってはもちろん見方や感じ方は異なるのですが、それこそが個性でありつつ、人として共通するものでもあるので、同じパターンを介して、自分と人との違い(違いがあるからこそ、自分らしさを認識し、それが自我の成長と安定にもつながるものです)と、実は皆同じなんだという、大きな安心感・一体感につながりもします。

何よりも重要なのは、見えないものが見える、わからないものがわかるという、その過程と結果(一連の流れ)です。

人はわけがわからないもの、見えないもの(認識できないもの)、理解できないものに、強い恐れや不安を抱きます。

例えば暗闇の中で、何かが動いている感じがすると、とても不気味で怖くなりますが、電気をつけてみると、「部屋で干していた洗濯物がエアコンの風に当たって動いていただけだった・・・」とわかれば、「なぁんだ、それだったのか」と、すごく安堵するわけです。

自分の心、内側が見えないために、わからず混乱していたところ、それそのものではなくても、形として、絵として、タロットの図柄(象徴)で確認することができれば、少なくとも一歩前進し、その正体に近づくことができます。

得体の知れないもの、エネルギー的なもの、観念的なものは、あえて形にしたり、キャラクターとして人物化させたりすると、実はそれを扱いやすく(コントロール)することができるのです。

「問題」という原因そのもの、正体そのものがはっきりわからなくても、「問題」を「それ」「これ」として、ひとつの形や人間のように置き換えてみることで、「それ」「これ」と対話したり、実際に手で触ったりすることができるようになるわけです。

いわば、五感という、人間の感覚器官に収めることができるのです。

サイキックや心理の次元では、物質に転嫁したり、投影させたりして、あたかもエネルギーのように、物質的には実体があやふやなものを、モノ(見える形・現実の物)に移行させて、処理をするという技術があります。

お祓い的な行為も、こうしたシステムが一部使われている面があると言えます。言ってみればモノや形への象徴化が、実の効果を伴うというわけです。

さらに、タロットカードそのものを意識や心の投影として見るだけではなく、タロットの絵柄の近くにある空間に現れる(イメージ)される事柄も、また心の何かが表出されていると見ます。

マルセイユタロットの場合は、カードに描かれている人物の視線が強く描かれていますので、前の記事の「リーディングゲーム」のように、その人物の視線の先に浮かんだものを、自分の内にあるものととらえる場合もあります。(視線だけではなく、カードを取り囲む空間の方向性それぞれに想像できたものに対して、意味を見出すこともあります)

もちろん、それ(イメージされたもの、意識から浮上したもの)はカードの絵柄があってこそのものなので、空間に現れたものもカードと無関係ではありません。

しかし、単純にカード一枚に心をあてはめるだけではなく、カードに描写されている絵柄の導き(人物の視線や持ち物、その他もろもろを)通して表出してくる心の動き、イメージ、感情などにも意味があると考えるわけです。

それは、マルセイユタロットの場合、ひとつひとつ細かな絵や人物の視線などに意味があるから、その作業に意図を見出せるのです。

人はつまるところ、自分の思考と感情で生きているようなものなので、心や精神の分野、自らの内側を見つめ、整理・浄化していくことは、生きやすくなるうえでは、不可欠ともいえる重要なものです。

しかしながら、大きな意味から言えば、それもあくまで技術のひとつで、タロットでいえば、「手品師」の操作に近く、タロットの活用の目的は、心だけのものに留まるものではないことは言っておきます。


聖性と俗性

マルセイユタロットの象徴性には、二元性から一元性への統合(その逆として、一元から二元、多様性への分離)という見方があります。

大切なのは、タロットそのものの論理性や感性、いわば「象徴性」を、タロットだけの世界で見るのではなく、私たちの現実と意識、さらには宇宙全体への考察と適用をし、個と全体を関連させつつ、俯瞰していくことにあると考えられます。

つまりは、タロットは私たち自身とその周囲のモデルとして活用できるわけです。

さて、そのマルセイユタロットからの二元性と一元性の象徴ですが、これは陰陽原理に始まって、あるゆる局面と種類で表されるものです。

その中でも、あまり普段は考えないものとして、「聖性」と「俗性」について、見てみたいと思います。

タロットの構成上、大アルカナと小アルカナというふたつのパート・種類で分けることができますが、実はこれも、大アルカナが聖性で、小アルカナが俗性という見方ができます。

ただし、ここが重要ですが、タロットは「象徴」ですから、いかようにでも解釈が可能で、ある概念や考え方があったとしても、それが「決まり」「絶対」ではないということです。あくまで、そうした見方もありますよ、となります。

そして、大アルカナの中にも聖性を示すカードと、俗性を示すカード、そのどちらでもなくて、またどちらでもあるようなカードたちに大別できるかもしれません。

もちろん、これは全体として俗性分野と見られる小アルカナにおいても同様で、見ようによっては、小アルカナの中でも、聖・俗に分けて考えることも可能です。

さて、ここで言いたいのは、そうしたタロットから見ても、私たちには「聖性」と「俗性」という二元でのとらえ方、感性があるということです。

例えば、時間(経過)においても、何となく過ぎる日常時間(俗的時間)と、特別に意識する時間(聖なる時間)があります。

空間(場所)においても、聖なる非日常的な場所と、俗なる普通で日常的な場所があり、もっと極端に言えば、まさに神社仏閣、あるいは貴重な自然あふれる清らかな場所に対して、いわゆる「夜の街」のような、飲み屋や歓楽街といった雑多な空間もあるわけです。(観察すればわかりますが、神社仏閣と歓楽街はセットとして成り立っているところが多いです)

仕事でも、聖職というのに対し、普通の仕事という対比がありますし、企業の中でも、理念や理想を掲げ、社会や人々に貢献する部分と、利潤追求、儲けを得るため、社員の生活のためという活動理由も当然あります。

そして、何より、私たち誰もが、聖なる部分と俗なる部分が混交した存在であり、それこそがまた「人間」の特徴だと言えましょう。

人は神性または天使性、仏性や菩薩性を持つつも、欲望にまみれ、我よしと利己に走ったり、悪や堕落に陥るおそれも持っています。まさに正義と悪が一緒になった存在です。

ところでマルセイユタロットの動物象徴として、最高度の解放性(序列的な意味ではありません)を持つと考えられる「鷲」は、鳥ですので、当たり前ですが「羽」として、ふたつの翼を持ちます。天使も同じです。

そして、鷲が地上に降りる足は、一本足ではなく、これまた当然ですが、二本足です。しかし、体や頭はひとつであり、またヤタガラスのように、三本足の象徴性(ふたつとひとつ)を見る場合もあります。

何が言いたいのかと言えば、結局、これも二元が一元になる二元統合であり、二元を聖と俗で考えれば、その両面を併せ持ちつつも、ひとつとして統合された時、完成に至る(真の自由に飛翔できる)ことを物語っているのだと想像されます。

「アプラクサス」という、異形ののシンボル・神の使いのような存在が伝えられています(鳥自体はアプラクサスに向かう存在、アプラクサスを知る存在と見る向きもあります)が、これも古代の二元統合のシンボル神と言えましょう。

これらの象徴から見ても、私たちの中の「鷲(真の智慧、自由・解放性)」を飛び立たせるのは、実は聖意識だけではなく、俗を受けて入れる基礎が大事だとも考えられます。

また逆に言えば、俗だけの時空にどっぷり浸かっていては、飛び立つこともできず、三本目の足も出ないということになるでしょう。この状態は、卵の殻に閉じこめられている(殻を破る「くちばし」として、三本目の足が出ていない)ものとして、見ることもできます。

マルセイユタロットの「運命の輪」の象徴とも関連しますが、聖と俗、俗と聖の二重(入れ替わり)構造とその回転により、私たちは、閉じこめられた自身を解放するきっかけを得ます。

それは、聖と俗を、まずはきちんと区別することから始まり、やがて、俗なるものに聖なるものが宿ること、聖なるものは、俗なる土壌の上に浮かび上がるものであること、また聖には堕落がつきもので、逆に俗の極限には、清浄なものを見ることが可能であることが、言わば、「卵から鳥をかえす」ことにつながるのです。

例えば、私たちに俗を思い起こさせるものには、「セクシャル、性(の行為)」というものがあります。

しかし、だからこそ、そこには崇高な「聖」があることに気づけるのです。生殖行為としてだけの部分を見ても、子孫・命を誕生させることができるという、すばらしい奇跡が起きています。

しかし、最近は性についても、あまりに肉体的なものにとらえられる人が多すぎ、性から聖を抽出する過程で、肉欲的なものに拘束され、その欲望を満たす欲求のために、詭弁として「聖」に言い換えている、置き換えている風潮が多くなっているように感じます。

もちろん、性を汚いものと見ることも、それは性を俗として見過ぎていることと同じになります。

結局、過剰な俗は、人しての俗を強化し、例えば「お金・物欲」というものに転化されていくことも多く、とても性が聖とは言えないものになっています。

ほかにも、パワースポットブームというのもありますが、これも聖を俗にしてしまう転化に陥っているものと言えましょう。

最初は聖なる場所であっても、多くの人がお陰信仰的な思いで訪れれば、そこが物理的にも(人が多くなって、特別な場所ではなくなる)、また見えないエネルギー状態としても、清いものが汚され、俗なるものになっていくことは明らかです。利己欲のために、せっかくの聖地を俗地化させてしまっているわけです。

普段は「日常」なので、どうしても俗が中心となりますが、シンボルを意識すれば、俗の中で聖を浮上させることができます。

聖性を象徴するシンボル・象徴を絵図や形として置いたり、見ることで、いつもの日常的な自分から意識を切り離し、聖なるものへと移行させることができるわけです。

これはタロットの活用としてもできることです。

私たちは、かつては、おなじ家の中においても、聖と俗の空間が分けられていましたし、地域社会としても、日常と非日常の時期と場所がきちんと区別されていました。

今はそれが悪い意味で混交されてしまっています。

こうなると、自分が何者であるかもわからず、尊い存在や、逆に利用したり、支配したりするような邪悪の存在、両者の意識の区別もつかず、魂の真の解放のための発動も起きず、感情的・肉体的に反応するだけの、動物的人間となってしまうのです。

統合のためには、まずは分離として、きちんとした区別ができなくてはならないのです。

特に現代人は、聖性を意識する必要があるでしょう。

それは教義の意味でのスピリチュアルに関心を持ったり、信じたりするということとは別なものです。そはむしろ、俗性の強化に近いものです。


セラピスト・相談者としての「仕事」

タロット手を学習する人の中では、タロットリーダーになって、(の問題)を癒したい、援助したいという人がいます。

最初からそう考えている人もいますが、どちらかと言えば、タロットを学んでいるうちにそうなってくることのほうが多いかもしれません。

タロットに限らず、何かセラピーを受けたり、そのメソッドを学んだりしていくうちに、自身の問題が解決されたり、救われたりして、今度は逆に、他人を救いたいと思うようになる人が増えます。

それはいいのですが、その段階になると、問題がいくつか浮上してきます。

ひとつは、そのメソッドやツールに執心し過ぎて、半ば新興宗教の勧誘みたいになってしまい、人を助けたいのか、自分がそのメソッド・ツールを広げたいのか、その区別がつかず、混乱してしまうことです。

また、使う技術とかツールの出所・管理が組織的なものになっていて、資格制のよう形式で、さらに経済的報酬が、人を勧誘することや、セラピーを他人に行うことの数と連動的につながっていると、もはや本末転倒のような状態で、組織とそれに貢献する自分、経済的に潤う自分が優先されるようになってましうおそれもあります。

次に、相談者やセラピストのレベルの問題があります。

ここでいうレベルとは、セラピー・相談の技術レベルのことだけではなく、ひとつの世界(観)・次元の相違も意味しています。

このことは、以下の質問で考えることができます。

「セラピスト・相談者は、いくらいてもいいのか、あるいは一定数でなければならないか?」

セラピストになった方、それを志している方ならぱ、一度は、「セラピストとかカウンセラーは、何人いてもいい」と聞いたことがあるかもしれません。

それは人は悩める生き物であり、だからこそ、大なり小なり、潜在的なものも含めると、人は皆、相談する人、援助してくれる人を求めていると言えますし、また反対に、皆が皆、相談してもらう立場になることもできるからです。

しかし、それは究極的な意味での話です。

世界は様々なレベルで同時存在しています。言い換えれば、ひとつの世界は、ある基準・ルール・モノの見方を変えれば、その世界が現れてくる、見えてくるわけです。

ここでひとつのルールというか、決まりを入れましょう。

「セラピストが職業で成り立つ、つまり経済的に営業していけるレベルでの必要数はどうか?」で見ます。

すると、その数に限界はないということはできないでしょう。経済原理の基本として、需要と供給(のバランス)というものがあるからです。

もちろん、その原理で言えば、需要さえ掘り起こせば(創造すれば)、供給数も多くすることができます。

まだまだ需要(相談・セラピーをプロに求めるという欲求、姿勢、需要)が足りないということであれば、まだこの先、プロ的(経済的に成り立つ)セラピストは必要とされるわけです。

しかし、もはや供給過剰、市場としては飽和状態だと見れば、セラピストはもういらないとなり、場合によっては淘汰され、減少させられるかもしれません。

こうやって、ある括り、範疇、レベルを想定して考えると、セラピストや相談者を目指す人も、冷静に自分の位置や目標を定めることができるでしょう。

商売人であれば、需要を喚起したり、創り上げたりすることは定石のはずですから、セラピー業界の供給側につくのなら、セラピーを受ける人を、必要以上に創造(ひどい場合はねつ造)することもあると考えられます。

また、需要側を新たに見出すということでは、供給側のカラーを単色からカラフルに、あるいは、ほかとコラボ・複合したりして、特色をつけることで、従来のセラピー層とは違う、ほかの需要層からのシフトで、招き入れることもできるでしょう。

さらには一人勝ちみたいに、同じ業界でも、エッジを際立たせる(つまり、どんな形であれ目立つこと、ほかとの区別が明確である)ことで、自分が選ばれるという、需要の拡大ではなく、すでにある範囲から自分に需要を集中させるという手もあります。

いずれにしても、セラピーを経済的な意味での活動と結びつければ、市場の経済・競争原理から無縁ではいられなくなるのが、実態です。

それをスピリチュアル・波動・愛などという言葉で、目を背けても、自分が逆に苦しくなるだけです。

一方、経済的なことの縛りや括りから、はずれた世界・レベルで活動するというセラピストであれば、自分がアマチュア的、ボランティア的レベルで行うのも自由となりますから、その技術・表現も、お金で計られない世界で活動することが可能になります。

例えば、身近で知っている人に、ちょっとしたセラピー・癒しを与えるレベルもあれば、プロと変わらない技術はあるものの、利益にはこだわらない、比較的純粋な気持ちで行っていくという方法もあるでしょう。

そうしたすべての活動形式(セラピスト表現)や思いを入れると、セラピスト・相談者という人は、いくら(何人)いてもいいことになります。

よく、「好きなことを仕事にする」と言いますが、その「仕事」が、経済的な、生活面もすべてカバーする「生活手段的なもの」なのか、人や社会に貢献することを自身が実感する「生き甲斐的なもの」なのか、あるいは、その中間・折衷としての存在なのか、「(人・自分、その他に)仕える事」として、セラピスト・相談者を目指す人は、改めて「仕事」について、考えてみるのもよいのではないかと思います。

全員が同じ形・表現にならないのがこの世界であり、現実です。

あなたにとってふさわいセラピストと仕事としての形、組合せ、表現があるはずです。自分が納得すれば、人と違っていていいのですし、それが当たり前と言えば当たり前なのです。


タロットと方角による活用

これはタロットの占い的な技法になりますが、引っ越しや旅行において、よい方向性(方角)というものをタロットで出すことができます。

とはいえ、その「よい」とは何かと考え出すと、こういった技法そのものがあやふやなものとなってきます。

それは、タロットでいえば、大アルカナの世界と小アルカナの世界との違いともつながるものです。

ですが、ここではその考察はいったん置いてみます。

今日の記事は、方角や方向性とタロットの象徴、その活用のことです。

タロットによる方角や方向性は、タロットが象徴カードである限り、当てはめていくことは可能です。

それには小アルカナを使う場合と大アルカナを使う場合があります。(両方使う場合もあり)

小アルカナを使うほうが、実は東洋的にも適合するところがあるので、おすすめですが、マルセイユタロットの場合は、数カードが記号のようになっているので、それそのものでイメージをわかせるというのには不向きかもしれません。

小アルカナをメインで使う時は、数ならば、方角を数的に示すことで表せますし、4組だと、東西南北に配当することも可能です。

その間々の方角は、ほかの数のカード、または宮廷カードで全16方位を示すこともできるのです。(なお、16方向は太陽の角度と信仰にもつながり、実は非常に秘儀的・重要なものが奧にはあります)

一方大アルカナでは、方角をカードの絵柄のイメージでもって、当てはめてみることができるでしょう。

そして、大アルカナを使うもうひとつの良さは、ちょっと変わった願望達成法や、逆に現実からの解放みたいな意味で、方角とともに使えるものがあるのです。

それは、(設定した)方角の位置に大アルカナを引き実際に自分のいる場所からその方位に行くことで、引いたカードのイメージを持つモノ・人物・事柄を発見したり、体験したり、して、それによって人生に変化をもたらすという方法です。

言い方を換えれば、旅のテーマが、カードで決まるようなものです。

これはなかなか楽しいものでもあるので、皆さんもやってみるとよいでしょう。

やり方はさきほど説明したように、今いるところ(住んでいるところや出発点)を起点に、東西南北4方向か、その間を入れた8方向の位置を決め、そこに大アルカナをシャッフルして一枚ずつ置くか、あるいは、自分でひとつの方角を意識しながら、大アルカナをシャッフルして(この場合はトランプ式シャッフルでもOK)カードを出します。

そして出た大アルカナのカードのイメージをよく記憶しておき(メモしておいてもよい)、気になったカードのある方角に実際に出かけます。

散歩的に徒歩圏内でやってもいいですし、大がかりなものだと、国内、さらには世界規模(笑)でやってみても面白いかもしれません。

この場合は、気になる方角に実際に行ってみて、カードの象徴性のものを探すということになりますが、最初からテーマを決めておき、例えば東西南北の4方向それぞれにカードを引き、その出たカードからイメージされるものを探し出して、全部それを集めるとひとつの答えになるという、宝探し的な方法でも可能です。

実に東奔西走(笑)ではありますが、東に西に、自分のテーマの回答のヒントをカードによって追いかけ、拾い集めて、最後に答えを得たり、変容を促したりするというやり方ですね。

旅先で見つけたものよりも、むしろその旅自体、行動そのもの、過程のほうが大切な場合があります。

別に全部の方向に行かずとも、ひとつ気になる方角に動くだけでも、停滞から活性につながることはあります。

これは吉方位旅行というのに少し似ていますが(そういう風にやってみても構いませんが)、運をよくするというより、カードの象徴性が現実とリンクすることを実感するゲームのようなものと考えるとよいでしょう。

言わば、自分の創造している世界を、自分で探しながら楽しむみたいな奇妙な遊びなのです。

部屋で引いたカードは、すでにあなたの外の、現実のどこかの世界(場所)で現れており、それを確認しにいく旅とも言えます。

今日のも、いろいろとある、タロットの使い方のひとつです。


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