タロットの使い方
「月」と「太陽」 人格の統合
マルセイユタロットには、二元で表されるエネルギーとでもいうべきものを、ひとつに統合していく過程が描かれています。
これによると、統合の前には必ず分離や葛藤、あるいは解体や破壊が行われことになっています。
これは錬金術(物質的に「金」を作るということだけではなく、霊的に最高度の状態に達するということでもあります)に示唆されていることです。
そうして人は霊的に完成するというわけです。
ただ、霊的なとか、大宇宙とか悟りに向かって、とかになると、どうもエソテリックで、特別な人しかできないみたいな印象になります。
ということで、実際には心理・メンタル(思考と感情)レベルや次元に置き換えて考えると、実用的かつ、理解もしやすくなります。
さて、この二元、ふたつのエネルギーを、もっとも大きな意味でマルセイユタロットのカードとして象徴しているのは、「月」と「太陽」だと考えられます。
「月」はそのふたつの分離を示し、「太陽」は統合を象徴します。
数においても、「月」は18であり、「太陽」は19であるので、18の過程(分離や葛藤)を経て、19(統合)に向かうと見ることもできます。
私たちの精神や実際においても、このふたつの過程は常に現れ、言い方を換えれば、破壊と創造(その逆の創造と破壊)が繰り返され、私たちの内面と外面、多重な部分は統合され、成長していくものと考えられます。
ここでテーマを、自分の中の精神(心理)的な人格統合ということにしますと、「月」と「太陽」は、やはりその分離と統合を示すと表現できます。
人は自分一人の中にも、たくさんの人格・パーソナリティを抱えています。いわば個性の中の個性です。
ところが、これはほかの人にも同様にあり、それがかぶったり、まったく違うものとして衝突したりと、常に自分の中のたくさんの人格・個性が刺激を受けるようになっています。
その都度、「月」で象徴されるような隠れた部分において、不安や葛藤、何かザワザワとした感情が出るわけです。(これは「月」のカードの水たまりやザリガニでも象徴されます)
一方、誰でも人から愛されたい、誰かを愛したいという思いがあり、そのため人と交流を持ち、友人や恋人というつきあいにも発展する、ひとつの要因にもなります。
それは、他者と融合したいという気持ちとも言え、つまるところ、実は自分自身のたくさんある人格の融合・完全に向かう完成を目指しているとも言えるのです。
結局、人から愛されたい、人を愛したいというのも、自分によって自分が愛されたい、自分を愛したいということにつながります。
ということで、「太陽」の初期段階では、自分と同じ部分・共通部分・合う部分・理解できる部分を他人に見ることによって、まず融合を図ろうとします。
しかし、深く融合しようと思えば思うほど、他人と自分の違いが見えてきます。
そこに違和感を持ち始めると、「月」の段階へ戻り、分離と葛藤が、特に感情的に大きくなってきます。
どちら(「月」「太陽」)も心理的には投影と無関係ではありませんが、いずれにしても、自分と他人という関係で、親近感と疎遠感(違和感)のふたつを感じるわけです。
親近感を抱く部分は、強く自分に出ている人格・パーソナリティーであり、自分で好ましく思っているところ、自分で自分を愛している部分と言えます。
逆に他人に違和感や疎遠感を覚えるところは、自分の中でも強く分離されている人格であったり、受け入れていなかったりする影(シャドー)であることが多いのです。自分の中で愛していない自分の部分とも言えるでしょう。
それらは、ほかのタロットカードで象徴されている部分でもあるので、客観的に見たい場合は、カードの象徴を活用するとよいわけです。
いわば、「月」の二匹の犬と、「太陽」の二人の人物は、ほかのカードによって表現されるネガとポジのような関係になっています。
こうして、人との出会いや交流の中で、私たちは自分の中にあるたくさんの人格や状態・エネルギーを発見し、統合していくことになります。
最初は融合や融和を見つつも、混乱や葛藤による分離を迎え、最終的には統合(融和段階を超えたもの)に導かれるということです。
よく、好きな人だけつきあえばいいとか、考えが同じ人だけと交流するみたいな人がいますが、確かにわざわざ合わない難しい人と積極的に交流を持つ必要はないとはいえ、違和感を覚えたり、自分とは違う考えの人をまったく無視するのは、せっかくの統合チャンスをふいにすることにもなるので、何でも極端は問題だと言えます。
合う人にの中には違う部分を見、合わない人には、それでも同じ部分を見ることで、自分の中のアンバランスなパーソナリティーがバランス化してきます。
とはいえ、これは無理に他人と仲良くしなければならないとか、好きな人と距離を置かなければならいとうことではなく、あくまで自分の人格的統合と成長の意味において考え見ていくものであり、人とのつきあい方自体を示唆するものではないのです。
たくさんの人がいるからこそ、傷つけられることもあり、怒りを覚えたり、悲しくもなったりします。また反対に癒されたり、愛を感じたり、楽しい気持ちになったりもします。
だから、人によっての傷は、人によって癒されることもあると思って、何でも一人で抱え込むことはないでしょう。
それが「自分の世界であって、他人の世界でもある」この世の仕組みと言えます。
小アルカナでビバライフ
先日、タロット受講者・修了者のための小アルカナ勉強会を開催しました。
タロットをする者にとって、普通のタロットが78枚ひと組であり、そのうち、大アルカナと呼ばれる22枚のパートと、小アルカナと呼ばれる56枚のパートに分かれることは常識です。
もちろん、創作系タロットになれば枚数もまちまちで、中の構成の区別もあったり、なかったりでしょぅが、一応、基本的なタロットは上記のようになっています。
そして、伝統的タロットとも言われる「マルセイユタロット」においては、特にこの大と小の区別が絵柄からして明確です。
偶然そうなのか、意図的にされたのか、諸説あるとしても、マルセイユタロットに深い教義と統一性が隠されていると思う者には、やはり何らかの理由があってなされたと考えてしまいます。
私自身、カモワン流からマルセイユタロットら入った口ですので、どちらかというと、大アルカナばかり意識して、当初は小アルカナを使うことは少ない感じでしたが、自分独自の道を進むにつれて、小アルカナのほうへも、次第に意識が向けられていきました。
それによってわかってきたことがたくさんあります。今では、私自身は、マルセイユタロットにおいて、大と小に明らかな区別と目的があると考えています。
また、実は両者には明確な区別がありながら、78枚が全体でひとつのモデル・型になっていることもよく理解できるようになりました。
普通はタロットをあまりこのようには見ないでしょうが、グノーシス的にマルセイユタロットを見れば、大アルカナと小アルカナの違いは、天と地の方向性の違いであり、解放と限定という目的の相違があります。
私自身の考えになりますが、大アルカナは魂や心の解放に使い、小アルカナは自分を現実にうまく適用させるための選択を示唆すると見ています。
小アルカナは、私たちが実際に生活し、体験する現実の(時)空間という場所を象徴的に表し、そこに自分を当てはめさせるために、小アルカナのカードたちがあると考えます。
構造のイメージでは、大アルカナ全体の中に、小アルカナという時空間が入っている感じです。
小アルカナの時空間に入るためには、あるルール・約束があり、それが大きくは二元に分離すること(時間と空間認識の存在)、もう少し複雑になれば、4つの性質に分かれることになります。
このルールや規則(いわば見方ということと同じ)は、「一元」から「二元」というレベルでは同じですが、さらに細かく分けると、いろいろなもの(見方・考え方)があります。
いずれにしても、小アルカナの時空間がいわゆる「現実として認識される時空間」なので、時間と空間という差を感じ、結局は私たち一人一人が分離した(「わたし」と「あなた」と個性を感じる)場所ということになります。
大アルカナの場合は、ここ(現実・小アルカナ時空)の次元も内包しつつ、そこから逃れている場所(意識と言ってもよい)も示唆します。
よって、現実からの解放のヒントも大アルカナから得られることにはなるのですが、反面、現実逃避(イメージや目に見えない世界、抽象世界に逃げる)になることもあります。
小アルカナの世界は、現実の生活や一般的価値観による幸せ・成功などの方向性・時空・人物・選択肢を示してくれるかもしれませんが、分離次元の固定、現実空間、その時その時の一時的な状態の充足に向けられるため、これは悪く言えば、現実や常識という牢獄に囚われることにもなります。
また自分と他人の差をどんどん際立たせるものとなり(分離の加速)、つまるところ、自分を強く意識するエゴ(自我)の肥大、あくなき(際限の知らない)欲求と、それを満たす行動へとつながります。
大と小を区別なく、同じ次元・レベルで扱えば、自分の中に混乱は起きませんが、ひとつの考え方・レベルに固定したものになりがちです。
一方、大と小を中途半端に区別して使えば、おそらく現実とスピリチュアリティ、肉体と魂の次元の統合が難しく、混乱は避けがたくなります。
そして、大と小の違いと使う目的を十分理解したうえで、両者のバランスを取っていくと、矛盾したものが統合されやすくなり、こだわりが少なく、成長への気づきも多くなります。
大アルカナを中心に使ってきた人は、小アルカナとのつきあいは、むしろ大アルカナよりも気楽に、もっとライトに、楽しく占いをする感覚でやっていくとよい思います。(軽薄に扱うということではありません)
アテモノとして小アルカナを使うのもよく、そのような使い方のほうが、実は小アルカナは合っているのです。
いつもの私の言っていることとは違うように聞こえるかもしれませんが、本来の趣旨から、はずれているわけではありません。
小アルカナはそういう次元のものだと割り切り、使っていくほうが、かえって占い依存から脱却する考えに至りやすいのです。(大アルカナを意識したうえでのことですが)
カードのトランプを、私たちはゲームとして使いますが、マルセイユタロットの小アルカナ(特に数カード)は、まさにトランプと同様の構造を持ち、絵柄も似ています。
ということは、ゲームのように使えばいいわけです。(そもそもタロットは、表向きはカードゲームのために生産され、使われてきた歴史があります)
この記事でも述べたように、小アルカナは自分を現実(のルール・時空間)に適用させやすくするために使うものと言えますので、実際の生活場面の選択でどんどとん引いて参考にすればよいのです。
引けば引くほど、現実と小アルカナのリンクは強まり、今度は逆に、小アルカナによって、現実を変えていく(「引き寄せの法則」風に言えば引き寄せる)ことになっていきます。
言わば、現実をエンジョイするためのカードが小アルカナと表現できるのです。
夢を叶える知性の構築
マルセイユタロットは、平面的に見ているだけでは、その意味や解釈もやはり平面的なものになります。
マルセイユタロットの中でも、非常に精巧にできている版、色や形が再生されたり、リニューアルされたりした版だと、時に、絵柄が立体的に見えてくることがあります。
これは今までに何人もの人から実際に聞いた話なので、自分だけの思い込みではありません。
逆に考えると、そのようにマルセイユタロットは、立体的に見える工夫がなされていると考えることもできます。
さて、そうした平面→立体という見え方の違いも、一種の次元の転移です。
ただ、一気に転移は起こしにくく、今までの世界に囚われ、それが普通・常識だと思ってしまうと、転移は特に難しくなります。
古代象徴においても、幾何学と作図が重視されたのは、おそらく、こうした意識の次元転移、言い換えれば、世の中の見え方の違いを呼び起こすために必要だったのだと考えられます。
最近ではようやく地球が丸くはないのかも?というような説が紹介されていますが、宇宙とて、おなじみの、太陽の回りを太陽系の惑星が周回しているというイメージでは、間違いではないにしても、思い切り省略したようなものになっていると想像されます。
さて話はガラリと変わり・・・と言いますか、本当は関係するのですが、たぶん、これからの話をただ読むだけでは、初めの文章と無関係な話だと思われるので、一応「話は変わり」と表現しておきます。(笑)
私たちが、「あることができない」と思ってしまうのは、「できる」というイメージやモデルが自分の中に構築することができていないからです。
信じる信じないの前に、やれる、行える、可能という図式・理解・イメージのようなものが自分の中では希薄なのです。
大きな意味でいうとイデアが見えないということになりますし、現実次元の話では、情報と知識(知性)の不足ということになります。
できるイメージとできないイメージの差が、あまりに離れていると、やる気をまったく失い、その人の意味で非現実的なことだと思いこみます。
しかし、この差を少しずつ埋めるようなステップとモデル(理想図・実現設計図)があれば、それは、がぜん実現性を帯びてきます。
要するに、個人個人においての実現リアリティが濃くなればいいわけで、そのためには設計図やモデル、そしてそれに至るステップ・段階が必要になるのです。
しかもそれは情報・知識・知性として獲得することができます。
例えば、独立したいけれども無理だと思っている人には、精神的か経済的、どちらにおいても、その人のレベルにおいて実現リアリティが不足しています。
それまで、「独立して生きる」というような概念・思考・知性・情報・モデルが、まったく「ない」とはいえないまでも、圧倒的に不足しているわけです。
だからこそ、自分に実現性のリアリティが出てこない、薄い、わからないということになるのです。
従って、「できる」というイメージ(理想)に至るための情報・知識を入れるなどして、「できる」「できるかもしれない」という実感(リアリティ)を伴った「考え方」を自分の中に創らねばなりません。
一方、直感で進んでうまく行く場合も、実はそうしたことが高速で処理され(真の知性とアクセスして)、自分の中の別の次元で結論づけられているからだと推測できます。
もしあなたに夢があるのなら、できない、無理だと嘆いたり、諦めたりするのではなく、まず理想を思い、次にその理想の表現に近い「現実」の人や物事を見聞します。(情報の入手)
さらに次元(段階)を落として、理想ではないけれど、それなりに夢に近づいている人・表現されている物事を見ていきます。
そうやって、少しずつ理想から落としていき、今の(夢とはかけ離れている)自分に近づけます。
タロットやカバラー的にはこの落とし込み作業を「10」の段階でやるとよく、10の段階が設計図的にできると、次にそれを逆方向に反転して、上昇させていきます。
タロットの場合、上昇していくイメージに大アルカナが使えます。
すると、理想が完全実現するかは別として、かなり実現のリアリティ性を自分の中に構築することができるでしょう。
なかなか自分の生活や状態が変わらないというのは、ひとえに知識、いや正確には知性の不足というか停滞が理由のひとつとしてあるのです。
タロットを最初に習う時、そしてその後。
前にも書きましたが、あなたが誰かにタロットを習いたいと思う時、先生は次のように選ぶとよいです。
まずひとつ。
自分が望む状況が、すでに確立されたり、実現されている人を選ぶ。いわば、先生のようになりたい、活躍したいというもので、先生が自分の目標・モデルであるとするものです。
そしてもうひとつ。
その先生の思い、目指しているところが、あなたのタロットを学ぶ目的と合致している、リンクしている人を選ぶというもの。
こちらは、自分と先生が同じものを感じてる、見ているという印象で、自分がその先生のようになりたいのではなく、その先生の伝えるものに共感する、自分が響く、成長のヒントがあるというものですね。
いずれにしても、タロットに対する思いや目的が共感していないと、学んでいる最中、かなり違和感を持つことになり、効果的にタロットを満足に学習することができません。
要するに、技術や内容というより、あなの心が満足しないのです。
ただ、心と切り離し、あくまで技術や知識だけを学ぶのだというスタイルで臨む時は、どの先生についても、またどんなタロットを学んでも、割り切って自分に落とし込むことができるでしょう。
これは、いわばタロットを機能的に学ぶ方法です。
しかしながらタロットは、基本、心と切り離して考えることはできませんので、いくら機能的に学ぼうとしても、どこかで割り切れない思いも出てくるでしょう。
それでも、こうした機能的な学び方が悪いわけではありません。
特に、タロットの基本を一通り学んだあと、自分にとっての足りない部分や、もっと知りたい分野について、補強していく意味で、こうした機能別に学習することは、むしろ効率的と言えます。
そして、こうした機能的(要素別)に学ぶ場合、タロットそのものから離れる内容のものが多くなってきます。
いえ、もちろんタロットのために学ぶのですから、すべてはタロットに関係してくることになるわけですが、それでも直接「タロット講座」を受けるというようなスタイルとは異なってきます。
例えば、関連する占星術とか、カバラーとか数秘術とか、西洋に関係するものはもちろん、一般の心理学とか、仏教、神道、神話、哲学・象徴学・各思想などいろいろと個別にあります。
それらを別々に学習することで、さらなるタロットへ知識と技術が深まるわけです。
これは「タロティスト」として、タロットを基本に真理を追求したり、対人サポートしたりする人の場合です。
もちろん、タロットではなくても、自分は「これが基本」というほかの「コアなもの」があればいいわけです。
私がここで言いたいのは、実はタロットの学習方法のことではなく、なぜタロットを学習するのか、改めて自分に聞いてみてくださいという、タロットと自分のあり方についてのことなのです。
最初は確かに、タロットを学ぶ目的とか、自分とタロットとの関係など、はっきりしたものがないことが多いでしょうし、それでも構わないのです。
入り口はまさにそれぞれです。単に占いとして趣味的に学びたかったという人もいれば、友人に誘われてとか、たまたまブログを見て気になったからとか、そういうようなものが実は普通です。
問題は、一通り、学習してからです。
さて、タロットの基礎、あるいは初歩を学んだとします。
「これから、あなたは、せっかく学習したタロットをどのように活用したいと思いますか?」
と聞かれれば、あなたはどう答えますか?
どう使おうがその人の自由であり、またタロットは、伝統的なタロットであれば、ほぼあらゆるものに対応できる象徴体系(システム)を持っており、自分の使い方の希望に応じてくれます。
ここで、タロットに対するあなたの立ち位置、スタンスが求められます。
「タロットはあくまで、目的のための道具・ツールの一つです」という人は、その目的とは何ですか?
例えば、人を癒し、問題を解決したり、解消したりするサポートとして活用したいというのであれば、そのためのツールということになるでしょう。
この場合でも、多くのツールの中のひとつか、メインとして使うのかの違いで、今後のタロット学習や研鑽について、異なってくることになります。
あるいは、自分の解放や探求のために「象徴図」として使いますという方も、またそれなりの学習方法と使い方があります。
このケースでは、ほかのもの(タロット以外のもの)を学びつつ、タロットに落とし込んで理解する帰納的なものと、タロットを基本としながら、あらゆるほかのものを考察していく演繹的なものとがあり、それらを入れ替えしながら、自分自身を高め、統合的・霊的に成長の道を見ていくこともできます。
一方、タロットを経済活動に組み込み、占い師やタロットリーダー、セラピストとして独立、もしくは副業し、仕事として(社会的にも)経済的にも自立か、自立する方向に持って行きたいという人もいらっしゃるでしょう。
人を助けるためというきれいごとだけではなく、本音として、仕事にしたい、お金にしたい、あるいはタロットが好きで、それ(好きなこと)が仕事になればいいという人もおられると思います。(もちろん、人のために役に立ちたいというのも本音でしょう)
それはそれで学ぶことが、やはりあります。
特に経済活動になってきますと、集客とか宣伝とか、具体的に物質的なことにフォーカスし、その技術や方法も学習することが求められます。
プロとして料金をいただく活動をすることは、タロットの技術や知識が高い(お金をいただくことのできるレベルである)のは当たり前ですが、それだけでは、望んだ状態(経済的自立とか成功ということであれば)になるのは難しいです。
ここで誤解している人がいますが、学びとは「座学」だけではないということです。
頭や知識でわかったとしても、それは片面だけの学びにしか過ぎません。
もうひとつの、実践での学び、いや、学びは実践であると言い換えてもよいでしょう。
暗記は頑張れば誰でもできるのですが、それを筆記テストで一時的に満点取ったからと言っても、本当に使えるか、理解しているかは別の話です。
覚えたことが通じない、そもそも覚えたことの意味・真実がわからないということは、ままあることです。
そのために実践であり、現実なのです。
いつもマニュアル通りの同じ事が起こるとは限らないどころか、毎回必ず、現実(実際)ではどこか違っているはずです。
マルセイユタロットにおける大アルカナは、ある意味、すべてが学びを象徴しているカードです。
しかし「学び」であっても、「斎王」「や「隠者」のように、本を手にしたり、静かな環境で瞑想したりするだけではなく、例えば、「手品師」とか「皇帝」「戦車」など、現実的なことを示唆するカードでは、その足や乗っているものから見ても、動きがあったり、両足開いたりして、臨機応変的なスタイルがうかがえます。
関西弁で言えば、学びは実際に活かされてナンボです。(笑)
ただし、ここでも誤解があるのですが、実際に活かされるというのは、物理的なことだけではないのです。
見に見えて効果がないように感じても、精神的・霊的に働いていれば、それはまた別の意味で実際に活かされているのです。
大切なのは知識を満たすだけではなく(知識欲を満たすことだけではなく)、それをどう活用するかなのです。
知らないことを知って、「へぇー、そうなんだ、すごい!」と思うのはいいのですが、そこから次の段階が重要です。
タロットを一度習ったあなた、そのタロットと知識をどう使いますか? そもそもあなたは、これから、どいういった目標と目的のために、タロットの学びと実践を行うのですか?
もう一度ここで考えてみましょう。
タロットを使う目的、グノーシス
タロット、特にマルセイユタロットには幾つかの目的によって、使い方が変わってきます。
それ(目的)は階層や次元・レベルと置き換えてもいいものです。
まず、一番楽しいのは、遊びで使うというものでしょう。
もともとタロットは一般的にはゲーム、いわば私たち日本人の思う「トランプカード」的な目的で製作販売されていたところもありますから、それはそれで、ある意味、伝統的で正しい使い方といえます。
そして、この遊びの範疇に入ってくるものの、ゲームではなく、ライトな「占い」で使うというものがあります。
「私の○○どうなる?」的な、ちょっと状況をカードで見てみたい、という雰囲気に使用するものです。これも皆さんでやってみると、楽しいですよね。
そして、「占い」でも遊びではなく、ややヘビーといいますか、真剣な悩み事の相談として「占い」を行うことでも、もちろん使えます。
だいたい、そうなってきますと、心理レベル、心理次元での投影や象徴として、カードを見ていくことになります。
占いとは別に、カウンセリングやセラピー(心身、特に心の浄化・調整・癒し)として、心の範疇をメインで扱うタロット使いがありわけです。
おそらく多くの人は、この次元でのタロットの使用を求めており、タロットを学びたいという人も、タロットを使った対人援助・相談を行うことが目的で学ぶ、という方も少なくありません。
さて、そのほかのことでタロットを使う目的はあるのか?ということになますが、細かく言えば、これ以外でもたくさんあります。
ただ、大きな括り、レベルや次元別でいえば、特にマルセイユタロットの場合は、霊的な成長、霊的レベルでの統合、グノーシスの完成のために使うというものがあります。
これは一見、心理次元のタロット使いに似ているのですが、大きく異なるのが、自己を宇宙レベルの規模で考察していくということにあります。スピリチュアルといえば、まさしくスピリチュアルでしょう。
平たく言えば、「社会と自分」というような枠組みを超えて扱うということです。
変な言い方になりますが、自分が現実や社会で生きやすくするためにタロットを使うのではなく、現実そのもの、社会そのものを根底から変える(変える必要があることを認識する)ためにタロットを使うということになります。
ところが、これまた禅問答みたいになりまずか、それが外に働きかけるのではなく、自己、内側に作用していくというものになるのです。
内側に働きかけるので、心理次元の使い方と似たような段階を通ることになるのですが、狭義の心理次元の範囲に収まらないのが、タロットを霊的に使う目的となります。
ただし、それは非常に抽象的であり、難しいところなので、具体的な方法となると、うまく言えないところもあるのです。
しかしながら、これもまたマルセイユタロットのすごいところなのですが、タロットは目的別に示唆を与えてくれるところがあり、グノーシスや霊的探求を志していても、ちゃんと導きがあり、折に触れて、その「光」「叡智」に気づかせてくれるところがあるのです。
グノーシスとは、「霊智」ともいえるもので、自分の中の「神性」を覚知(認識)することの意味です。
智慧はタロットにあるのではなく、自己にもともと存在している神的で高次な部分にあるのです。
ただそれに気づくきっかけや知識、経験、感性が必要だということになり、その有力なもの(ツール・書物)がマルセイユタロットだということです。
具体的に「こうだ」とは文字で書かれてはいませんが、イメージ的な話でいえば、タロットの精霊が導いていくれる、教えてくれるというようなものです。
イメージの世界の最高度のところには、イデアという世界があります。これは哲学者プラトンが言及した理想・完全なる世界です。
イデアに到達するためには、普通の思考では難しく、イメージや感覚、同時に知識も必要です。特に図形と幾何学は重要です。
グノーシスは、この世界が偽の神で作られているという反宇宙論、世界を否定的に見ることから始まりますから、まともに考察していると、とても苦しい状況になります。
今言われているスピリチュアルな話では、そのほとんどが、この世界は愛で調和に満ちた世界である、神(大いなるもの)の恩恵でできているという前提でいます。
それを感じられないのは、ひとえは私たちの認識不足、偏り、不調和、束縛にあると考えます。
愛に気づき、自己を解放していけば、幸せな世界になり、経済的にも精神的にも満たされるという話にもなります。
しかしながら、グノーシスは、それに気づけば気づくほど、この世界が嘘偽り、欺瞞でできているということになってきますので、やればやるほど自分が苦しくなり、まともにグノーシス的世界観を信じるのは、バカらしいということになってきます。
同じ「愛」や「神性」の気づきでも、この「神性」という前提の「神」が、まことか嘘かで、まったく話が違ってくるのです。
最初に「嘘」という前提に立つグノーシスは、現実的には、いわば救いようのない話と見えるわけです。
従って、現代ではまじめにグノーシスを考える人も、おそらくほとんどいないと思われます。まさに矛盾したおとぎ話です。
この大矛盾の思想が、なぜかつて隆盛を極め、一度下火になるも、中世ヨーロッパでは、再びカタリ派として、南仏を中心に、カトリックと違う異端の教えが広まったのかと考えてきますと、なかなか頭では理解しがたいことだと思います。
ところが、私はマルセイユタロットを通してカタリ派を見てきますと、その出家階層ともいえる人たちの純粋さの思いに至ってきました。
本当に、善き人でありたい、この世界が善き世界でありたい(善き世界にしたい)、そういう純粋な思いが込められているのです。カタリとは清浄や浄化を意味する言葉でもあります。
実はとても現実(世界)を見ているからこそ、グノーシスやカタリ派の人たちは、それを信仰していたと考えられます。
冷徹な目で見ると、当時の社会は、支配・不均衡・不調和で、現実は汚く、腐敗しているように見えたのでしょう。それはもしかすると、当時も今も変わりないのかもしれません。
そして、本当のグノーシスとは信仰ではなく、目の前の現実を見据えた知的探求と純粋思考・純粋感性にあると感じます。
信じる時点で、それはもう堕落を意味します。
話は変わりますが、2011年に放映され、大きな話題となった「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがあります。
ネタバレになるので、詳しくは言いませんが、このアニメでは、「魔法少女」になるため、ある存在と契約した女の子たちが、生死に関わる大きな矛盾に陥るようになります。
幸せになるため、愛のため、または時には自己(エゴ)の満足のため、魔法少女という特別な力を得た代わりに、とてつもない矛盾に抱えることになるわけです。
善だと信じた世界が悪に変わり、その究極の輪廻・ループ・牢獄とも思える中で、いかに解放にもっていくのか、これが描かれていきます。
私はこのアニメを見ていて、はっきりとグノーシスを感じました。先述したように、グノーシスをまともに探求していくと、絶望とも思える世界の矛盾に苛まされます。
自己の神性に救済はあるというのがグノーシスですが、なかなか現実的・精神的には大変なことにもなります。
しかし、このようなアニメの世界においても、グノーシスの光があったのです。アニメーションは、イメージの世界だからこそ、イデアに接することができるのだと感じます。
グノーシス神話には、悪や偽の世界においても、私たちの魂を救済するための援助者、神性の光が散りばめられていると言われています。(反対に閉じこめる存在も多数)
苦しい時にあっても、グノーシスを探求する者は、それ(神性の光)を見ることができます。
心理的には自分の作った価値観と世界観の中で、自己を悲劇のヒロインや主人公にして、わざと苦しい世界に自分を設定して、そこで頑張ることで「自己の価値」を偽りのシステムの中で見出している(作っている)、という話もあり、苦労する人、縛りを作りたがる人の心理的理由にもなっています。
グノーシス思想を取り入れる人も、それだと指摘できるかもしれません。
要する、ブロックのひとつ、自己妄想、自己信念、自分の創造するストーリーの一つであると。
バカだと言えばバカであり、もっと楽に気軽に考える世界を選択してもよいのです。
ただ、私のような者は、「愚者」となって、グノーシスの道を歩みたいという思いがあり、それは深く魂の叫びのようなものがあるのだということです。
自分だけがよい世界では、まさに自分一代限りのことです。グノーシスは時間(の概念・感覚)がないともいえ、同時にまた一方では、長大な時間周期を考慮に入れます。
マルセイユタロットの「愚者」には、そのようなシンボル・象徴が描かれています。
そして初めに戻りますが、タロットはこのような、バカげた思想(笑)の探求に使うこともできますし、ライトな占いや、心理的調整道具として使うことも、もちろんできるわけです。
どの次元を扱うかは、その人の選択次第です。
なお、個人(対人)リーディングにおいては、私は主に心理次元を採用しています。
このように、次元の階段を登り降りしながら、タロットは扱うことができるのです。